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シノハラ
2025-03-11 20:24:14
20206文字
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ヌヴィフリ
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ヌヴィフリまとめ(6本)
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親愛なる私たちへ(連作3つ目)
2023年11月20日
さざ波のような観客の声が聞こえる。舞台への期待のそれとは少々趣を異にする響きに、ヌヴィレットは己の選択に少々落胆と後悔を抱いていた。ある程度の覚悟はしていたが、民衆にとってヌヴィレットがフリーナの舞台を見にくるという状況は想像以上に刺激的な事態らしい。
開演の間際にヌヴィレットが入場したこともあり、その衝撃が抜けきらないままに舞台の幕が上がってしまったのも後悔を重ねさせた。彼らの観劇経験が他所事に気を取られて曖昧になってしまうのはよろしくない。
そんな風に考えられていたのも役者が台詞を喋り出すまでだったので、他の客も同様だといいと思う。今回の劇は前後編の舞台の後編にあたり、前編とは逆に演出が良いと聞く。だからといって脚本が悪いわけではないらしいので、彼女からの手紙を信じれば演出を優先する形で適切に脚本が組み替えられたのだろう。座長が苦労を重ねたのか、フリーナがなんとか助け船を出せたのかまではヌヴィレットには結論が出せない。
舞台の休憩が入る少し前、つまり、フリーナ目当てに来ている客が痺れを切らしかけている頃になって彼女が舞台に姿を現した。スポットライトの下を踊るように歩き歌うように言葉を紡ぐフリーナがいつこちらを見るのかと緊張してしまっていたが、彼女はそんな素振りを全く見せない。
自分以外の誰かの人生を表現するのに集中しているのか、ヌヴィレットを探すどころか客席を見る余裕もないらしい。ほんの少し肩透かしに感じながらも、彼女らしいともヌヴィレットは納得する。
今までフリーナが仕事の手を抜いたことなど一度たりともなかった。おそらく気質の問題以前に、そもそも手の抜き方など分からないまま今まで生きてきてしまったのだろう。たとえ他の目的があったとしても、まずは自らに課された役目を全うするつもりに違いない。
であればヌヴィレットもいつも通り、彼女の演技を見ているだけでいい。フリーナは他者を演じると言うが、この舞台もまた彼女の人生に内包される一幕である。彼女が彼女だけの人生に真っ直ぐである瞬間をまなこに焼き付け、その息吹が舞台のそこここに現れる瞬間を味わう以外に今はなすべきことなど一つもなかった。
幕が下り、照明がじわりと明るむまでの間に興奮の混じる密やかな声が客席を満たす。その全てが舞台に対する反応であるのは耳を澄ますまでもなかった。休憩時間を告げるアナウンスを聞きながら、ヌヴィレットが一時的に姿を隠す必要もないと判断してそっと瞼を落とす。
四方八方から届く囁きは水に身を浸している感覚に似ている。その感想を抱くのはおそらくヌヴィレットだけだろうが、この騒めきに心地よさを抱く者はそれなりにいるだろう。かつてはその一つ一つがフリーナにとっては恐怖の対象でしかなかったはずのそれらが、今の彼女にはどう聞こえているのだろうか。
※ ※ ※ ※
休憩前に少し出て、再び幕が上がってからはフリーナはほとんど出ずっぱりになってしまう。喉を枯らさないように隙を見て水を飲み、場面に合わせて小道具を付け替え衣装を変える。フリーナの周りで準備をしてくれる者達もこの時ばかりはてんてこ舞いで、無茶にも思える演出を提案した演出家やそれを飲んだ座長へ文句を口にしていた。
僕もいいんじゃないかなって言っちゃって、とある日漏らした時の表情たるやなかなかに凄かったのだ。けれど彼女は以前の事を少々思い出してしまいそうになるくらいのそれをぎゅっと顔に力を入れて握り潰して、まあでも良い物なのは間違いないですよ、とフリーナの判断に理解を示した。
劇団の人々はフリーナに優しい。けれど、そう言ってしまうと正確ではないのかもしれない。フリーナに関わる人は皆優しい。彼らはフリーナが人性を超越した神などではなく、ただの女性であることを知っているから。血肉のみで成り立ち、平凡な精神と人生を持つ隣人に人々は優しい。そう知ったのは、フリーナがアパートで一人暮らし始めてからだった。
準備が終わってぱたぱたと走るのは舞台の幕の内側でだけ。一歩光の下に足を踏み出せば、今までの焦りなど綺麗さっぱり忘れなければならない。この瞬間はかつてフリーナを疲弊させた日々にも多く訪れてはいたが、決定的に性質を異にするものでもある。
フリーナは一人でこの役を演じているわけではない。全ての役は劇団の内部で吟味され、自分達なりの答えを出している。答え合わせもできない振る舞いを求められ続けた日々とは訳が違うのだ。
どこにもいないはずの女の人生を大勢で手織り、フリーナが手足を与え舞台の上で自由にしてやる。その瞬間をフリーナは愛していると言っていい。
とはいえ、ぶっ続けで舞台に立ち続けるのは相応の気力体力を必要とする。閃光のような照明が再び点灯し、喝采が自らの上に落ちてきて舞台が終わったのに気がついた。トランス状態にあったと表現すると大袈裟だが、自分の体が自らに戻ってきたような感覚がする。
は、は、と息を吐きながら、フリーナは注がれる視線の重たさを意識する。それでもフリーナは笑顔を作って、客席に視線を走らせた。まじりっけなしの自分に戻ってから、フリーナは眩しくて何も見えないようなステージに立ち、たった一人を探そうとする。
突然ぱちりと視線が合った。それから遅れてそれが彼のものであると理解する。
周囲の観客に合わせてゆったりとした仕草で舞台に拍手を送っていた彼が手を止めて、その口元がフリーナの名を呼んだ気がした。その瞬間、涙が溢れてぽろりと一つだけ零れる。汗の雫と区別が付かないといいと願いながら、ヌヴィレット、と呼び返す声は拍手と歓声に掻き消された。
フリーナの声は彼には届かなかっただろうが、きっと何も問題はない。なにせ、フリーナに彼の言葉が分かったのだ。ヌヴィレットにフリーナの言葉が分からないはずがない。
嬉しかった。彼の顔を見て、全てを押しのけて喜びが勝ってくれたことが。長きに渡った苦しみにも痛みにも封をして、ただずっと側にいてくれた人との再会を喜べることがこんなにも嬉しいとは思わなかったのだ。とくとくと脈打つ心臓が温まるのを感じられるようにしてくれたのは、他ならぬヌヴィレットなのだろう。彼が望んでくれたから、フリーナだってそう思える。
お辞儀をするついでに化粧が崩れることも厭わず零れた涙を汗ごと拭い、一番の笑みを作って顔を上げる。少し滲んだ視界の先で、フリーナの顔を見た彼の表情が少しばかり緩んだ気がした。眩さと距離をいいことに、フリーナの頭が勝手に作り上げた妄想かもしれないけれど。
それでも、ヌヴィレットはフリーナだけを見てくれている。フリーナがどんな思いで彼を見つめているのか、きっと彼は知ることだろう。演じることは隠す事であり、伝える事でもある。役者を仕事にするようになってから、フリーナはようやくそんな簡単なことに気がついた。
「ヌヴィレット、今度はキミの字と名前で送ってくれると嬉しいな」
喝采はいまだ止まない。だから、フリーナは彼だけに届くかもしれない言葉を震えそうになる唇で密かに紡いだ。
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