シノハラ
2025-03-11 20:24:14
20206文字
Public ヌヴィフリ
 

ヌヴィフリまとめ(6本)



親愛なるあなたへ(連作2つ目)
2023年11月20日

 午後の回の公演は順調に進んでいる。そう珍しくもない小道具の破損や舞台装置の不調も起きず、僅かながらに用意している猶予の時間を食い潰すこともない。道具はもちろん、公演期間中からけが人や病人もおらず、メディアからの評判も上々。今日の観客も大満足で劇場を後にすることだろう。そうでなければならない。
 フリーナは自分の出番を待ちながら、舞台の幕の内側でファンレターに目を通していた。ジョシュア、ダニエル、テリー、またはハワード。同じ筆跡でありながら、別の名義の手紙が届いているのに気がついたのは本当に偶然だったのだ。
 きっかけは二つの劇団から連続でフリーナが出した手紙が戻ってきたと知らせを受けたことだった。方々から届くファンレターに目を通すならともかく、全てに返事をするのは全く現実的ではない。ある程度評判になって人気を得た役者であれば、全員が同意する判断だろう。ファンの対応に追われて演技の練習が疎かになるなんて、役者として本末転倒だからだ。
 そこで役者達はどちらかの選択を迫られる。すなわち、一切返事をしないか、一部だけでも返事をするか。どちらの選択が一般的かは知らないが、フリーナは後者を取ることにした。ジェントルマン・アッシャーに頼んで無作為に選んでもらった手紙に対して、どれだけ忙しくても週に一通のペースで返信するようにしている。
 偶然とは書いたが、実の所ジェントルマン・アッシャーの作為が絡んだ可能性は否定できない。何故なら彼は水に連なる者で、フリーナなどよりも手紙の主に縁深いと言える。であれば、彼の精神が宿る手紙を識別することなど訳のない行為だった、という可能性はあった。
 フリーナが調べたところ、どちらの封筒にも存在しない番地が記されていた。フリーナの返信が戻ってきて当然だ。もちろん、記入間違いの可能性もあったが、今の自分が調べられる範囲ではあるが、周辺の人間で同じ名前の住人はいない。
 もう一つの共通点として、二つの手紙の筆跡は同じ人間によるものだった。専門の人間やメリュジーヌに鑑定を依頼したわけではないから素人目にはなるが、封筒を見た二つの劇団の座長も同じ結論に至っている。 
 大事に保管している手紙の数々をひっくり返して、フリーナは複数の封筒を取り分けた。その全てが異なる名前が差出人で、存在しない住所やアパートの部屋番号が同じ筆跡で記されている。
 内容はいずれも季節の挨拶から始まり、劇の感想とフリーナが演者もしている場合は演技の良かったところの話に移る。劇の批評の表現に少々違和感があると今ならば分かるが、初めて読んだ時は文章の技巧に関わる話でしかないと判断してしまっていた。
 けれど、これがヌヴィレットのものであるというならば、事情は少し変わってくる。前者であれば出力の問題であるが、後者であれば感じ取った部分に本人がいささかの不安を抱いていると判断するのが妥当になる。
 出会ってすぐの頃の彼は感情の源泉を人間のそれとは完全に異としていたと言っていい。鏡の中にいたフォカロルスの提案とはいえ、とんでもないものを招いてしまったと当時は恐れおののいていたものだった。
 人間やメリュジーヌに接するうちに彼の内心も様変わりし、フリーナの目からも彼が他者からも理解可能なものとなったのは理解している。けれど、本人はそれを後天的に会得したものであり、人のそれとは本質が異なると考えているらしい。それ故に、彼は自身の感情の発露に気を使う。その気質がこの手紙にも現れているのがフリーナには見て取れた。
 そんな、時にはたどたどしく感じられる手紙は必ず、フリーナの体調を気遣って締められる。ヌヴィレット曰く、呪いであったそれが解けたと同時に作り変えられたらしい体は驚くほどに脆弱だ。季節の変わり目でなくても風邪を引くし、ちょっとしたことで怪我をしてなかなか治らない事だってある。今までの体とのギャップにはフリーナ自身も相当困らされたし、その落差をヌヴィレットも気にしているのだろう。
 封筒を掲げて、フリーナは封のための蝋が押されていた場所に唇をあてる。書かれていた内容を検めて封をする仕事は、きっと彼のものだっただろうから。
 初めは舞台から彼を探そうかとも思った。けれど、舞台に上がればそんな余裕はどこにもない。自分ではない誰かをその一時のみ演じるのに必死になって、客席の誰かを見るならともかく誰か一人を探し出すなんてできっこなかった。
 だから彼が照明の眩さの外側にいる薄暗い席に座っていたとしても、フリーナはヌヴィレットを見つけられない。そもそも、彼が劇場に来ていればその噂くらいは聞こえてくるはずなので、名が広がらないように手配された席を使っている可能性もある。そうなってしまえば、フリーナが演技を放棄して探し回ったとしてもどうしようもないだろう。
 それでもフリーナは彼がフリーナを見に来ていると確信していた。彼の感想には特定の公演を思わせる内容が含まれており、その日に見渡した客席の中にきっと彼が紛れ込んでいたのは疑いようがない。その事実に足元が浮き立つような感覚がする。
 経済的に自立するまで、フリーナはパレ・メルモニア、つまりヌヴィレットの支援を受けていた。今の立場を確立するきっかけになった舞台だって、彼のとりなしがなければ実現は難しかったはずだ。劇場の予約を頼みにきたフリーナを見て、ヌヴィレットは喜ばしいと告げていたが儀礼的なものではなかったのかもしれない。
 ずっと支えてくれた彼に喜んでもらえるのであれば、フリーナだって嬉しかった。あれからろくに顔を合わせられていないが、彼の助けがなければ今のフリーナはここにはいない。それどころかあの五百年を乗り越える事は叶わなかっただろうし、それから先の数年間だって耐え忍ぶ事はできなかった。
 ヌヴィレットがフリーナの新生活と呼ぶには陰惨過ぎる日々を手助けしたのは、五百年間の慰労のためかもしれない。例えばヌヴィレットとフリーナの立場が逆だったら、フリーナはヌヴィレットに同じことをしただろう。
 舞台を降りてただひとになった自分に一体どれほどの価値があり、ヌヴィレットからの取り扱いに似合う者なのかと最初は考えてばかりだった。けれど、ずっと落ち着いて物事を考えられるようになった近頃は違う見方で考えられるようにもなっている。フリーナに対する施しは、きっとフォンテーヌへの働きがどうとか、自分の価値がどうという話だけではないはずなのだ。
 常に自分の隣にいた尊大かつ気まぐれな神が実はただの人間の女の子でしかなかったこと。身分不相応な立場や振る舞いは彼女が望んで演じていたとしても、精神を蝕むには十分すぎる負荷を与えていたこと。自身が庇護すべき人間を前に、五百年近く気がつかずに生きていたこと。
 それらがヌヴィレットに悔恨を植え付けているのは想像に難くない。けれど、それはフリーナが望んでいたことでもあって、ヌヴィレットはフリーナの望みに応え続けたと言ってもいい。キミはこれっぽっちも悪くない。今のフリーナならそう言ってやれるだろうが、ヌヴィレットが受け入れられるかは話が別である。
 彼が十分の支援をしつつも必要以上にフリーナの生活に介入しようとしないのは、お互いの傷を刺激しないがためだとも思っていた。触れなければそれらはいつか風化する。フリーナのそれを乾かして古傷にするまでに自分の体が持つかは分からないが、ヌヴィレットには十分な時間があるはずだ。触れずにいれば、いつか美しい思い出になり果てるのかもしれない。そうであればいいとフリーナは考えていた。
 けれど、本当は違うのかもしれない。だって、彼はフリーナを見るために劇場に足を運んでいるのだ。多忙な癖にわざわざ時間を作って、毒にはならないけれど薬になる手紙をしたためて、それをわざわざ誰かに代筆させる。こんな回りくどい事をしてまで、ヌヴィレットはフリーナに思いを伝えようとしていた。
 名を偽って、姿を見せずに彼はフリーナに会いにくる。それは多分、フリーナの人生にヌヴィレットが必要ないと考えているからではないだろうか。
 フリーナにとってヌヴィレットは苦悩の五百年の象徴でもある。多分その考えは間違いではなくて、例えばスチームバード紙の一面に彼の写真が印刷されているのを見た瞬間、胸が詰まるような感覚がすることもあった。あの永遠に続く一瞬一瞬の呼び水に彼がなり得ることを、フリーナはどうやっても否定しきれない。
 劇団員のためとはいえ、ヌヴィレットに歌劇場の予約を乞いに行くのは酷く勇気の必要な行為だった。きっと旅人達が隣にいなければ帰り道にへたりこんでしまっていただろうし、そうでなくても震えそうになる足をごまかすようにフリーナは事実に反する誇大広告めいた結果報告をする羽目になってしまった。
 ヌヴィレットはきっと、自身がフリーナの心の傷を呼び醒ます者であると知っているのだ。フリーナがヌヴィレットを見て痛みを覚えれば、彼は心苦しく思うだろうか。議論するまでもないことだと手の内にある手紙がフリーナに伝えてくる。
 それでも、彼はフリーナを見たいと思ってくれているのだ。だからこそ、直接会いには来ず、けれどそれだけでは満足できずにこんな手紙を書いている。フリーナに何かを伝えたくて、わざわざ人を使ってまで。
 ヌヴィレットの姿を鮮明に思い起こそうとすると、ちり、と思考を焼くものがあった。それは恐怖だったかもしれない。フリーナは曖昧な痺れの正体を断定こそしなかったが、否定もまた叶わなかった。偽りの神性が張りぼてであることを暴かれただのフリーナとなっても、あの五百年間は心身に刻まれている。忘れることも、なかったことにもできるはずがない。
 あの時間を過去にするには自らの生はあまりに短く、きっと風化する前に自分は寿命を迎えるだろう。だって、五百年なのだ。人間には過ぎた、あまりにも長い時間だった。
 パレ・メルモニアを見上げる瞬間に強張る背筋は多分一生このままだろう。かつて自身が座った座席をエピクレシス歌劇場の舞台から見上げることはいまだに叶わない。きっとこれも、できないまま自分の命は終わりを迎えるはずだ。
 フォンテーヌのそこここは治り方も分からなくなった傷に無遠慮に触れてくる。ヌヴィレットだって、その一つで最たるものだ。
 それでも。ねえ、ヌヴィレット。どうして僕がここに、フォンテーヌに留まっていると思う? たとえば旅人の伝手でも借りてどこかの国に移住した方が、きっとずっと僕は楽に暮らせるはずなのに。果たして、キミは上手に答えを出せるだろうか。
 会いたいな、とフリーナは舞台からの声に掻き消されてしまうくらいの声で囁く。誰もフリーナに意識を寄せていないのを確認してから、キミもそうだろう、と同じくらいの声量のまま語尾を持ち上げた。
 こんなことをされて、何も思わないでいられるはずがあるだろうか。
 長きに渡って、フリーナの精神を緩められたものは元より少ない。しかもその対象は時を経るに従って、どんどんその効力を失っていった。その中で最後まで残ってくれていたものの一つが彼でもあった。だって少なくとも彼は、フリーナを置いていなくならない唯一だった。
 もしかしたら、とフリーナは何度も思っていた。たとえば、彼に会うまでに自分の心が恐怖と緊張に苛まれることなく、強張りきらず柔軟性を保っていれば。たとえば、ヌヴィレットがもっと早くに生まれていて、長く市井で暮らし、人間というものへの理解が進んでいれば。そうすれば、彼はフリーナの持つ真実を共有し、命運を共にするなんてこともあったかもしれない。
 けれど、そうはならなかった。ならなかったけれど、それでも彼は最後にフリーナの望む世界を与えてくれた。それだけで十分だったのだ。
 そんな人が今、まるで離れがたいと言わんばかりにフリーナに会いに来てくれている。躊躇いながらも、フリーナに心を伝えようとしてくれている。
 ――ああ、キミがそう願ってくれるのなら。
 フリーナを呼ぶ密やかな声が聞こえ、手にしていた手紙を私物入れに戻す。今は舞台の成功と、フリーナが送ったチケットの席に彼が座っている事を祈ることしか出来ない。それから、深々と呼吸を一つしたフリーナは自身に何にでもなれる力を与える眩い照明に向かって一歩足を踏み出した。