わからん
2025-03-10 23:09:23
74988文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】Nobody's Son

本編後IFなギスギスくさひぐシリーズ第三弾(長編)です
例によって捏造祭り・日下部が日車のみならず行く先々で色んな人とギスりまくってます
・日下部が日車を迎えに行く話( https://privatter.me/page/678cf22a6e58f
・とそのおまけ( https://privatter.me/page/6795bb0def0b2
とお話が繋がっているため、先にこちら2つを読むこと推奨です
※死亡表現ではないもののそれに近しい表現・暴力・流血・ゴア描写あり。ゴア表現においてはショッキングな描写が続く(特に4p目)ため、苦手な方は充分にご注意ください。


Epilogue




 某月某日。快晴。
 廃ビルやアパートが立ち並ぶ某地区は常と変わらぬ寂れよう。かつての英華はどこへ去ってしまったのか、建物とともに人々の思い出も風化していく。
 要するに、ここは現在の日本国内にいくつか点在する、復興と発展を放棄された区域のひとつだ。特別な用事が無い限りはここに来る者もそうそういなかった。……数年前に渋谷での大量虐殺を皮切りとして始まり日本中を震撼させた、一人の呪詛師による一連の事件以来、ここは廃墟として打ち捨てられて久しい。
 ここを特定の者が訪れる特別な用事とは、いったい何か。
 答えは簡単だ。このエリア一帯は、呪術高専に追われている呪詛師の潜伏先に最適である。
 ——エリアの一角で派手な爆発が起こり、土煙がもうもうと立ち上がった。灰色のビル群のひとつがわずかに傾ぎ、派手に舞い上がる砂埃によってその姿は掻き消える。かと思えば、その内側からひとつの人影が飛び出した。
 大きく、黒い。頭から爪先までを甲冑のような強固な物質で覆い、にも拘わらずその動きは俊敏である。
 人影は大きく飛び上がり、近隣のビルの屋上に飛び移った。そのままエリアの中央部へ向かい、建物の上を駆けていく。それを追うために土煙から飛び出し、同様に屋上を駆ける人影がふたり——
——待てやクソがぁ! ちょこまかと逃げ回りやがって!」
 罵声を飛ばしても状況が好転しないのはわかっている。舌打ちをし、日下部は刀を鞘に収めて跳躍した。
 眼下にはひび割れた道路と打ち捨てられた自動車が見える。道路を挟んで反対側のビルへ難なく飛び移ると、日下部は息をつく間もなく呪詛師を追う。背後でもうひとつの着地音と、日下部を追いかける足音が聞こえた。
「逃げやがった」振り返らずに背後の人物へ話しかける。「あいつ、どこへ行くつもりだと思う」
「地下鉄だろうな。各々で地下を掘って道を作っている、という噂を聞いたことがある」
 日車が隣に並んだ。屋上から屋上へ飛び、着地の衝撃を殺すために転がり、再び走り出す。逃亡を続ける呪詛師の背中を見据えながら、息ひとつ乱さずに彼は話を続けた。
「真偽は定かでないが、概ね事実だろう。火のないところに煙は立たぬとも言う」
「逃げられる前にとっ捕まえるぞ」
「ああ」
 しかし、随分と足が速い。今回は本体も強いタイプの式神使いだと、日下部は内心で舌を巻いた。日下部と日車の両方に因縁がある相手とはいえ、ここまで苦戦するとは思っていなかったのだ。
「仕事が山積みで早く帰りてえんだけど。そんなに俺らが憎いかよ」
「奴の弟は二人揃って捕縛中だ。憎いだろうな」
「一番下の弟は知らねえが、二番目のほうはなかなかのクズ野郎だった」
 呪術高専の学長——つまりは日下部あて——に一通の手紙が送られてきたのは、昨日の夜のことだった。
 差出人の名は無く、本文にはふたりが現在いるエリアの名前と時刻が書かれていた。その後に続く文章曰く——最愛の弟二人が、貴様ら呪術高専のせいで失われた。よって、仇討ちをかけた決闘をここに申し込む。弟の名前に心当たりがある術師は、この時刻にこの場所へ来い……
 乱雑に殴り書かれた人名のうち、ひとつの名前に日下部は心当たりがあった。「テツ」——彼は確か、日車とともに追いかけたゾンビめいた式神の使役者だったはずだ。そうなるともう一つの名前は、弟の仇を取ろうと帰宅中の日下部を襲った、例の呪言師に違いない。
 予想だにしない便りだったが、いざ対峙して腑に落ちた面もある。三人兄弟の一番下である式神使いは中学生ほどの年齢だったが、若いにも拘わらず、強力な式神を易々と使役していた。ゆえに誰かが式神の扱い方を教えたのだろうと思っていたが、二番目の兄は呪言師であり、式神使いではなかった。おそらくは一番上の兄が戦闘の手ほどきを行ったのだ。
 長兄もまた式神使いの呪詛師だったが、弟とは性質が異なる。弟の式神が、相手の呪力に反応して迎撃する自動人形オートマタタイプであるなら、彼は式神という呪力システムを自ら身に纏う、装甲アーマードタイプの式神だった。
 要するに、性質としては呪具に近い。呪具との違いは、それが使役者の意図を介さず自律的に動くかどうか——呪詛師が使役する式神は、式神と術者本人に蓄積されたデータを元に自動で戦闘行為を持続し、対戦相手を完膚なきまでに叩きのめす。術者が身に纏う黒い式神、即ち装甲は非常に軽く、軽い物質で構成されており、術者の肉体的なアドバンテージを最大限に引き上げる効果があるらしい。
 しかし、日下部側にはひとつ有利な要素があった。日車の術式だ。日車の領域展開とともに始まりを告げた対呪詛師戦の戦局は、呪詛師が隠し持っていた呪具の没収により日下部側の優勢へ傾いた。装甲は弟の式神を彷彿とさせる硬度だが、初手で相手の攻撃手段を奪えたのは僥倖だった——その矢先、呪詛師は突如として足元の地面を砕き、それを目眩しにして戦場からの逃走を図ったのだった。戦闘プランが崩れた途端に逃げ出すなんて情けねえやつだ、と日下部は悪態をつく。
「日下部。ひとつ提案がある」
 走りながら日車が話しかけてきた。「二手に分かれよう。君はこのまま奴を追いかけろ。できればどこかで足止めしてほしい、その間に俺が奇襲を仕掛ける」
「場所の希望は?」
「低い建物の上」
「わかった。行け」
 頷いた日車が隣の建物へ飛び移った。それから軽い身のこなしで次々と飛び移っていく様子を見て、あいつがねえ、と日下部は知らず呟いていた。以前、同じように式神を追いかけたときはまるで使い物にならなかった日車が、だ。
 先日、準一級から晴れて一級へ昇格した日車は、体力も筋力も改善されて動けるようになってきた。近接戦闘も荒削りな面から抜けきれていないが、だいぶ手慣れてきたように見える。虎杖の指導の賜物だろう。
 呪詛師の足は速いがやはり日下部ほどではない。式神の装甲で覆われる前に見た呪詛師の体はかなり大柄で、ゆえにこちらほど身軽には動けないのだろう。
 呪詛師の行先には比較的低層なマンションの屋上がある。相手が手前の建物へ乗り移ったタイミングを見計らい、日下部は走る速度を加速させた。数棟分の建物を駆け抜け背後へ迫り、呪詛師の着地とともに日下部の刀が相手の膝裏を切り裂いた。呪詛師の口からは悲鳴と、なぜだと悔しげな叫びが放たれた。
「気付いてないとでも思ったか? その装甲、関節のところに隙間があるな」
 刀を鞘に戻しながら日下部は言う。「鎧みてえなのにしてるのが悪いんだ。恨むなら式神を——
 言いかけたところで身を捻り、呪詛師の拳を間一髪で避ける。相手の足からは血が流れていたが、刀で斬ったにしては出血量が少ない。傷が浅かったかと舌打ちしたと同時に、呪詛師が獣のごとき咆哮とともに飛びかかってきた。
 奴は呪具を没収されたはずだが式神の影響だろう。次々と繰り出される拳と蹴りは、無秩序に打ち出されているように見えて緻密な計算が張り巡らされた攻撃であると、数度避けたところで日下部は気付いた。刀を抜く隙を与えられず、それどころかこちらが徐々に後退している。屋上の端に追い込まれたらたまったものではない。
 あいつはまだかと気を逸らしたのがよくなかった。足の甲に呪詛師の踵が振り下ろされ、腹に拳が沈み込む。吹き飛ぶ勢いはなく、しかし立っていられるほどの弱さでもなかった。体がくの字に折れ、反射で込み上げてきた嘔吐感を堪えようとした瞬間、真上から力任せに振り下ろされた拳が首筋に命中した。頭から地面に叩きつけられ、バウンドして、視界が白と黒に明滅する。
——っかは、」
 霞んだ視界の中でこちらに向かって振り上げられた足が見えた。後ろへ転がったと同時に、日下部がいたところへ呪詛師の右足がめり込む。間髪入れずに左足による追撃、右の拳、左。日下部の後ろ髪を拳が掠め、耳元で轟音が連続して鳴り響く。攻撃が止んだ隙に左手をつき、転がる勢いのまま両足で円を描くように地面を滑って起き上がり、刀の柄へ手をかける。
 ——居合「夕月」。
 左の肘を狙って繰り出した抜刀術は黒い篭手に覆われた拳に防がれてしまった。やはり硬い装甲だ、斬り方を考えなければ刃がまともに通らない。ならばと右の関節を狙おうとした瞬間、視界が歪んで平衡感覚を失った。足がふらついてたたらを踏み、本能的に横へ転がって拳を回避したものの、脳を直に揺さぶられているような感覚は酷くなる一方だった。首を殴られて地面へ叩きつけられたとき、脳へのダメージが大きく入ったらしい。
(ちょっとやべえかも……。くそ、いい加減に遅えぞ)
 心の中で悪態をつく。……あいつはまだ来ないのか。お前の大事な男のピンチだぞ。頭をやられて死にかけだ、早く助けに来やがれ——
 ふと、顔に影がかかった気配を感じて顔を上げる。日下部と呪詛師がいるマンションは周囲の建物に比べてひと回り低く、周りは高い建物に囲まれている。そのうちのひとつ、一際高いビルの屋上から、何かが飛び降りた。
 影はぐんぐん落下して近付いてくる。人間と思っていたそれは全体的に丸い形をしており、しかしそれは彼が両手で掲げた武器のせいだった、日下部が呆然と見上げている間にも影はどんどん大きくなる。落下による接近のみではなく、武器が見る間に巨大化していき——
——バカかお前!?」
 叫んだところで日車を止められるはずもなかった。
 ビルの屋上から飛び降りた彼は頭上にガベルを振り上げて構えていた——ただし、通常のサイズではなく、巨大化させながら。それは日下部や呪詛師の身長をゆうに追い抜き、なおも膨らみ続けている。おそらくは日車本人も見たことのない巨人のごとき大きさとなって、ガベルが呪詛師と日下部目掛けて振り下ろされようとしていた。
「いやっ……バカ! バカすぎ! それは流石に、マジで、バカ!」
 頭の気持ち悪さなど一瞬で吹き飛んだ。ガベルの巨大な影は呪詛師のみならず、日下部にも降りかかっている。回避しなければ待ち受けているのは死——味方の攻撃に巻き込まれて死にましたなんて言えるものか。
 呪詛師の様子を伺うと、相手もまた頭上を見上げ呆然と立ち止まっていた——まるで隕石が迫っているかのような危機的状況を前に、本能的に思考を止めてしまったのかもしれない。数多の修羅場を潜り抜けてきた経験の差がものを言ったというわけだ。これ幸いと日下部は脱兎のごとく駆け出す。
「こんなの奇襲じゃねえからな! 後で説教だ日車ァ!」
 影から抜け出して叫ぶ。上空の日車がこちらを向き、にやりと口元を歪ませて笑ったのが見えた。直後に歯を食いしばり、巨大化したガベルを渾身の力で振り下ろす。
 ガベルとコンクリートの床に挟まれた呪詛師の体が一瞬にして平たく潰れ、屋上に巨大な亀裂が走った。
 ひびは両者と充分な距離を確保していたはずの日下部の足元にまで届き、ばきりと音を立てて上下にずれる。
「あ、やべ」
 ——ちょっと遠くに逃げるだけじゃなくて、隣の建物に避難すべきだったやつだこれ。
 気付いた瞬間には手遅れだった。
 どんっ、と巨大な音が響き、スライムのように潰れた呪詛師の体が、一瞬で視界から掻き消える。
 呪詛師がいた場所には穴が空いている。おそらくはここから一階まで、下手したら一階を突き抜けて地中深くまで体を叩きつけられたのかもしれない。
 攻撃対象を失ったガベルは宙に浮き、振り下ろした勢いの反動に従って、日車の体ごと縦方向へ半円を描く。
 彼の体が束の間、宙に浮かんでいるように錯覚する。
 全ての動きがスローモーションに見えた一瞬の静寂——刹那、ガベルとコンクリートの衝突により生じた風圧が、遅れて日下部に襲いかかった。
 立っていられないほどの強風に腕で顔を覆いながら片膝をつく。それとほぼ同時に、轟音を立てながら足元のコンクリートが崩れ始めた。
 咄嗟に刀を抜くも、無数に降りかかる飛礫と瓦礫にどう対処すべきか? バカ野郎と再度日車を罵倒するも、破壊音にかき消されて自分の耳にすら声が届かない。
 崩壊に巻き込まれ、日下部の視界は黒く閉ざされた。

……よっ、と。あー……いてて」
 瓦礫をかきわけ、ようやく外へ出ることができた日下部は怪我の様子を確かめる。体のあちこちが痛むし、全身擦り傷だらけでひどい有様だった。これは高専に戻ってすぐ家入の世話になりそうだと考え、どう説明したものかと憂鬱な気分に襲われる。ありのままに話せば治療を放棄されそうだ。呪詛師のせいだとすべての責任を押し付けることにする。
 崩壊に巻き込まれた直後に簡易領域を展開し、降り注ぐ瓦礫を片っ端から破壊することによって、自身への被害は最小限に留めることができた——と、思う。無論、呪力による攻撃ではない上に、量が量なので全部は防ぎきれなかった。立ち上がって歩けるだけ充分だと言えるだろう。
 呪詛師に踏み潰された右足の甲を庇いながら、かつて建物だった残骸の周囲を歩き回り、日車の姿を探す。彼は日下部のような自衛の手段を持ってはいないが、代わりに反転術式を習得している。死にはしていないだろうとたかを括って探し回ると、瓦礫の山のてっぺんで仰向けに寝そべっている男を発見する。
「おーい、脳筋野郎。無事か」
 日下部の声にぴくりと指先が震える。閉じられていた目蓋が押し上げられ、両肘をついて上体を起こしかけたところで、日車は呻き声を上げて再び仰向けに倒れ込んだ。瓦礫を踏み越えながら彼に近付き、無事だろうなともう一度声を張り上げる。「腰が痛い」と悲鳴じみた返事が聞こえた。「ぎっくり腰だ。こんなときに経験するとは」
「あんなデカいもんを振り回すからだ。始末書はお前が書けよ」
「虎杖からの課題だったんだ」震える声で日車が言い返してくる。「防御が高い敵に、対処可能な呪具も所持していない状態で、どう立ち向かうべきか」
 日車の元に辿り着いた。彼が着ているスーツはところどころが裂け、埃まみれで白くなっていたが、それは日下部も同じだ。四肢を瓦礫の上に投げ出し、青空を見上げる日車の全身からは白い煙が立ちのぼっていた。反転術式を回しているらしい。
 日下部は胸の前で両腕を組んで見下ろした。
「で、あんたの出した結論は?」
「位置エネルギー」と日車が目玉を動かし、日下部を見上げて言う。「要するに質量と高さと重力加速度の掛け算だ。装甲を上回る衝撃をぶつけて丸ごと潰せばいい。一応は成功したか」
…………へえー、俺じゃ思いつかなかった素敵な作戦だ。さすが元弁護士様は頭の良いことで」
「棒読みじゃないか、馬鹿にしているのか。ちなみに虎杖は、」
「『黒閃を連打してぶっ飛ばす』だろどうせ。一辺倒で参考にならねえんだよ。——立てるか」
 会話をしているうちに日車の外傷はほとんどが塞がりかけていた。差し出した手を掴み返され、引っ張って立ち上がらせる。
 日車が両足をついた途端、足元の瓦礫が崩れて転びそうになったのを、咄嗟に肘を掴んで支える。驚きのせいか普段よりも大きく見開かれた目が日下部を見た。それを間近で見下ろし、あのな、と日車に向かって言い聞かせる。
……極端な考えに走るなって、前にも言っただろ」
 目の前で黒い瞳が数度瞬く。彼は痛いところを突かれたように眉根を寄せ、すまないと弱々しい声で言った。
「計算ミスだ。建物が壊れることまで想定していなかった」
「お前な……。いや、時間の無駄だから後で言うわ。呪詛師は?」
「俺が立っている場所の真下だ」
 二人で足元の瓦礫を見下ろし、無言で顔を見合わせる。
 瓦礫は山のごとく積み上がっており、二人でどけるには無謀すぎる量だ。
 日下部が向けた非難の視線を受け、日車が視線を横にずらした。彼の視線の先に体ごと移動しても懸命に首と目を逸らす。日下部はふんと不満たっぷりに鼻を鳴らし、背後を親指で差し示した。
「とりあえずは補助監督と合流だ」
……承知した」
 瓦礫の山は登るよりも降りるほうが困難を極めた。何度も転びかけた日車の肘を掴んだまま、無事に地面へ足がついたときは安堵の息が自然と漏れ出ていた。いよいよ無視できなくなってきた右足の痛みを気にしつつ、歩き出そうとした日下部の背後から声が上がる。
「日下部」
「なんだ——うおっ」
 振り返った途端、頬に冷たいものが触れてきて悲鳴を上げる。日車の手だった。ごしごしと指の腹で肌を強く擦られ、傷口に触られたらしく鋭い痛みを覚えて呻く。ようやく手を離した日車は素知らぬ顔でそっぽを向いた。
「痛えな、なんだよ」
「汚れていたから」青白い指が日車自身の頬を指す。「……俺の考えが浅はかだったせいだ。罰なら甘んじて受ける。すまなかった」
 斜め下を見る黒い瞳が揺れている。謝罪を呟いた声は今にも消え入りそうなほどに小さかった。日下部の肩から力が抜けていき、いいよ、と無意識のうちに口をついて出ていた。
「もう気にしてねえ。実際に俺も助かったし、」
 ——こっちに落ちてきたときのお前は、楽しそうだった。
 そう言ったなら日車はますます罪悪感を募らせるだろうと思い、寸前で喉の奥に押し留める。
 彼自身が否定するかもしれないが、こちらへ落ちてきた日車は、悪戯が成功した子どものように笑っていたと思う。
 心の底から楽しくて堪らないという顔だ。
 それを見てしまったとき、日下部も思わず笑い返したのではなかったか。
 ——お前、そんな顔で笑えたんだな。
 いいよ。俺の負けだ。笑えてるなら、自分のやりたいようにやれてるのなら。
 こっちに連れてきて、留まらせてよかったって思えるから。
……それに免じて許してやる。今回だけな」
「しかし——
 日下部が頬に触れると、反論を紡ぎかけた日車の口は中途半端に開いたまま固まった。
 指を動かせば凝固して貼りついた血の塊が彼の肌から剥がれ落ちていく。
 日車が黙り込んだのを良いことに目尻へ指の節を滑らせた。骨ばった輪郭に反して柔らかく、力をこめると押し潰されて形を変える彼の肌と、やはり自分の手のひらよりは低い温度がなぜか言いようもなく嬉しかった——びくりと驚きに肩を震わせ、目を瞑ってしまった日車の反応に笑い声を上げる。
「仕返しだ。帰るぞ、日車」
 目蓋を閉じたまま動かない日車を置き去りにして歩き出す。やがて小走り気味の足音が背後から追いつき、隣に並んだ彼はいつも通りのポーカーフェイスに戻っていた。それが悔しいとか、もの寂しいとは思わない。肌の下で揺れ動く激しい感情や葛藤、ゆえの優しさを、自分はもう知っている。それで充分だ。これから先、逃れられない運命がいつか自分たちを襲い、離れ離れになったとしても、この思いはふたりの間で決して損なわれないものだと信じている。