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わからん
2025-03-10 23:09:23
74988文字
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くさひぐ
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【篤寛】Nobody's Son
本編後IFなギスギスくさひぐシリーズ第三弾(長編)です
例によって捏造祭り・日下部が日車のみならず行く先々で色んな人とギスりまくってます
・日下部が日車を迎えに行く話(
https://privatter.me/page/678cf22a6e58f
)
・とそのおまけ(
https://privatter.me/page/6795bb0def0b2
)
とお話が繋がっているため、先にこちら2つを読むこと推奨です
※死亡表現ではないもののそれに近しい表現・暴力・流血・ゴア描写あり。ゴア表現においてはショッキングな描写が続く(特に4p目)ため、苦手な方は充分にご注意ください。
1
2
3
4
5
6
7
3.
——
とは言え日々は忙しく、働いて寝ることを繰り返すうちに、虎杖や日車の姿を見ることなく一週間あまりが経過していた。
数十分前に突然降った天気雨のせいか、足元の地面はかすかに泥濘んでいる。
校舎の外に出た日下部は眉をひそめた。せっかくの革靴が汚れてしまうが、高専の敷地内は元からこうなる場所ばかりだ。いくら別のルートを取ろうと、結局は逃れられないことなのである。面倒だとぼやきつつ歩き始め、道場の近くを通りかかると物音が聞こえてきた。
今日の授業は全て終わっている。誰かが私的に利用しているらしい。建物の角を曲がると外へ通じる障子は開け放たれていた。中では夕陽を浴びて真っ赤に染まった虎杖の後ろ姿と、彼と向かい合って日陰に立つ日車の姿が見えた。
ジャージを着た二人は素手のまま、胸の前で拳を握って構えている。静寂を断つように虎杖が畳を蹴って駆け出した。顔面めがけて振り抜かれた右の拳を日車は左の腕で塞ぎ、次いで飛んできた左拳は首を逸らして避ける。さらに後方へ下がって蹴りから逃れ、虎杖の体勢が不安定な瞬間を狙って懐に肉薄する。
最小限の動きで相手からの攻撃を避けた日車とは異なり、虎杖が取る回避は身軽に動き回るものだった。体を捻る。背を屈める。飛び上がる
——
日車の足払いが空振った瞬間、空中にとどまっていた虎杖の足が彼の鳩尾にめり込んだ。ぐうっと短い悲鳴が聞こえる。くの字に背を曲げた日車の頭上で虎杖が両手の指を組んで掲げ、ひと息に振り下ろして勝負の決着がついた。
ばん、と派手な音を立てて日車が顔面から畳に突っ伏した。そのままぴくりとも動かないと思えば、息を吐きながらゆっくりと体を起こした。鼻の頭が赤くなっている。
「日車、もっと相手の動きを見て。ジャンプしてるから何もできないって、油断したでしょ」
差し出された手を取らず、日車はふらつきながらも一人で立ち上がる。その様子を見守っていた虎杖が不意に背後を振り返り、日下部先生と声を上げた。随分前からこちらに気づいていたらしい。片手を挙げて応じる。
「お疲れさまっす。お出かけ?」
「ああ。総監部に呼び出されたから、ちょっくら行ってくる」
「めちゃくちゃめんどくさいって顔だ」虎杖はそう言って笑った。「俺もあそこは苦手だなあ。楽巌寺さんによろしく」
「お前も日車を苛めすぎんなよ」
「
——
余計なお世話だ」
無表情で答えた日車のこめかみを汗が伝い落ちた。
返答に詰まりかけたのを、にやりと笑って誤魔化す。
「やりすぎてぶっ倒れんじゃねえぞ」
返事は無かった。いってらっしゃいと虎杖の声が聞こえ、背中越しにひらりと手を振って日下部は道場を後にした。
……
その領域に足を踏み込んだ瞬間、今までいた場所とは決定的に異なる空間にいるのだと、本能が警戒を促してくる。
日下部にとってはとうに慣れた感覚だが、例えば日車を初めて連れてきたとき、彼は終始落ち着かなさそうに周囲を見回していた。外部から居場所を隠し、侵入者を防ぐ結界は、総監部の領域にしか張られていない特殊な代物である。強力ゆえに結界の内側は膨大な呪力で満たされ、内部に迎え入れられた呪術師は、常に何者かから攻撃の矛先を向けられているような感覚に陥ってしまう。
門をくぐり、手入れが施された庭園を進むと屋敷が見えてくる。人ひとり見当たらない回廊を進んで部屋の一つに入りかけ、日下部は立ち止まった。
彼を呼んだ張本人が、既に部屋の奥に座していた。
俯いていた禿頭が揺れ動き、日下部を見上げる。太く長い眉に覆われ、濃い影が落ちる目元の様子は窺い知ることができない。しかし、抜き身の刀のように鋭い視線が自身の体を貫いたのを日下部は察知した。
「座れ。日下部」
「
……
失礼します」
固まりかけた足を前へ押し出し、向かい合って畳の上に正座する。
沈黙が下りた。楽巌寺も日下部も一言も発さず、時ばかりが過ぎていく。既に地平線の彼方へ沈みかけた太陽の光は血のように赤く、閉じられた障子越しに一角を照らしているのみで部屋は薄暗い。
静寂という、両肩にのしかかる重圧に日下部が生唾を飲み込んだとき、その瞬間を待っていたように楽巌寺が口火を切った。
「申し開きは」
視線と同様、その場の空気を切り裂くような鋭い声だった。
「
……
ありません」眉間に皺を寄せ、視線を逸らしながら日下部は答えた。「すべて私の独断です」
「通せと言ったはずだ」
楽巌寺はなおも低い声で日下部を追及し続ける。「二級どころか、三級のままだと。単独で動けなければ話にもならん」
「独り立ちはまだ早いと
——
」
「両面宿儺と戦い、土壇場で反転術式を習得した末に生き延びた男がか」
楽巌寺と自分との間に横たわる畳を見つめながら、日下部はひっそりと顔を歪めた。
……
呼び出しを受けた瞬間から、このことだろうとは思っていたのだ。黙って頷き、適当に謝っていれば終わるだろうとたかを括っていたが、予想以上のプレッシャーに胃がきりきりと痛み始めていた。呑気に構えていた数十分前の自分を殴ってやりたい。
「あれを非術師の社会からこちらへ連れ戻すと決めたのは我々だ。貴様の独断で決めてよい話ではない」
「
……
彼は呪術高専所属の呪術師です。昇級試験の結果は総監部に何の関係もないでしょう」
「あれは我々が預かる」
楽巌寺の言葉に顔を上げる。己の耳を疑った。
「預かる?」
「所属先を呪術高専から総監部に移す。あれの術式は呪詛師の執行に向いているからな」
寝耳に水だった。驚きのあまり、相手を忘れて身を乗り出しかける。
「私は何も聞いていませんが」
「五条の分家の
——
名は何と言ったか。あれの連れ戻しを命じた者には伝えていなかったゆえ、貴様まで話が下りていないのも当然であろう」楽巌寺はそう言うと、はてと首を傾げてみせた。「彼奴め、あれが戻ってくると同時に我々の元から身を引いてしまったが、なぜであろうな」
——
奴の屋敷から烏の鳴き声が聞こえたと、専らの噂だが。
そう言い、眉毛の隙間から覗いた小さな目が日下部を射抜いた。腿の上で握り締めた両の拳の内側が汗で湿っていく。日下部は暗闇の奥で鋭く光る楽巌寺の目を見つめ返し、両者の間には再び重い沈黙が横たわった。
「
……
日車は、呪術高専で働くことを条件に戻ってきたんです」
今度は日下部が沈黙を破る。「本人も私もそのつもりで昇級試験を行ったんですがね。話を聞く限りどうやら、我々とあなた方との間で認識の齟齬があるようだ」
「では只今をもって訂正しよう。あれが二級以上へ昇級した瞬間をもって、所属先を呪術高専から総監部に移動させる」
「冗談でしょう。うちがまた人手不足になる」
「乙骨と虎杖、それに伏黒もいるだろう。特級呪術師が東京に三人もいて何を言う。問題なく回るだろうて」
取り付く島もない楽巌寺の態度を前に、苛立ちが募らないといえば嘘になる。しかし、ここで理性を保たなければ相手の思うつぼだった。呼吸を深め、楽巌寺の言うことにつき崩せる隙は無いかと思考を巡らせる。
「
……
ずっと不思議に思ってたんですよ。どうして今だったのか」
発言の意図を図りかねたのだろう。楽巌寺は片眉を跳ね上げ、無言のまま続きを促してきた。
「日車を連れ戻したのがどうして今だったのかって話です。呪詛師の対処に当たらせるなら、両面宿儺との戦いを終えてすぐのほうがベストでした。あの頃は呪詛師の対処に手が回りきらなくて、高専も総監部もてんてこ舞いだったでしょう。対人戦に特化した術式を持つ日車がいれば、当時の戦局はかなり楽なほうに動いていたかもしれない」
日下部は一旦言葉を区切り、相手の様子を伺った。
「このためですか」
やはり沈黙が返ってくる。
このためですね、と日下部は同じ言葉を繰り返した。
「はじめからこれが狙いだったんでしょう。あなたが総監部での権力を確実なものにしたあと、呪術高専が日車の身元を預かったところで、横から掻っ攫う」
総監部とは名の通り呪術師を、ひいては呪術師によって運営されている呪術高専を監督する、呪術界において御三家と呪術高専に並ぶ第三の主要機関である。
その特殊な立場ゆえ、総監部はどの勢力からも均等な距離を保ち、中立を保たねばならない。特定の組織や個人を贔屓することは許されず、呪術規定に基づいて厳正かつ公平な裁定と運営が行われる(
——
という建前である。実態はより複雑で、金銭的、政治的な取引も裏で多く行われていると聞く)。即ち、どの組織や家よりも掟に縛られた組織とも言えるのだ。
「等級すら持っていない呪術師をあなたが引き入れれば、当然、内部からの反発は避けられない。最悪の場合は罷免されるでしょう。総監部の一員になってすぐ追い出されるのは、あなたも避けたかった」
だから、待ったのだ。自身の立場と権力が総監部の内部へ食い込み、多くの戦力を失った呪術高専の体制が以前と同じ水準へ戻るまで。
「一般家庭出身の者が呪術師になるには呪術高専から接触しなきゃいけませんからね。スカウトから引き入れてようやく、等級が付与されて呪術師だと正式に認定される。
……
実戦経験の蓄積も兼ねて、日車はしばらくの間呪術高専で働かせておく。そして、単独任務が許される二級呪術師以上になったら、総監部に引き抜けばいい。一般家庭出身であることに不満を唱える輩はいるだろうが、あなたの判断なら誰も表立って文句は言わない」
沈黙は肯定と同義である。楽巌寺さん、と日下部は呼びかけた。
「そこまでして日車が欲しいのは一体、どういう理由があるんです」
「
——
あれは非術師を殺している」と楽巌寺は答えた。
要領を得ない回答に、日下部は首を捻らざるを得ない。
「どういう意味ですか」
「あれは非術師を二人殺したらしいな。呪術規定に基づけば即刻死刑が執り行われるべきだったが、あの頃は上層部がまともに機能しておらんかった」楽巌寺はゆっくりと言葉を重ねると、さらに低い声色で話し続けた。「結局、復興のごたごたであれの罪は有耶無耶になってしまった。今でも、あれが呪術規定を犯した呪詛師だと知っている呪術師がどれほどいるものか。
……
とはいえ、あれの術式は貴重だ。無論、我々も欲したが、あれは術者である以前に大罪人だ。両面宿儺との戦いで己を犠牲にし、贖罪を果たしたからといって、呪術規定に赦免は定められておらん。あれの罪をどう処理すべきか
——
幸い、あれが贖罪を果たしたと考えていたのは我々のみで、当のあれは未だ裁かれることを欲していたようだ
——
」
「だから非術師の裁判で絞首刑にした」そういうことかと日下部は身を乗り出した。「日車という男は死に、彼は新たな名前と身分で生きている
——
随分と遠回りな根回しでしたね。そこまでして総監部の元に引き入れたい理由は何ですか。戦力の拡充だけなら、呪術高専の所属で問題ないでしょう」
返答があるとは思っていなかった。この老人が腹の内で考えていることは誰にもわからない。元から駆け引きが苦手な日下部にとっては尚更だった。ゆえに、楽巌寺が口を開いたとき、日下部はいささか驚愕に近しい衝撃を受けたのだった。
「五条が遺した負の遺産よ」
彼の口から飛び出た予想外な名前に眉をひそめる。
「五条
……
?」
「やはり
鏖
みなごろし
は避けるべきだった。たとえ最良の選択だったとしてもな」
眉の下から再び覗いた瞳は鋭かったものの、先ほど日下部を睨んだときとは雰囲気が異なるように見えた。
「総監部は、呪術高専の謀反を危惧している」
特に、東京
——
と告げられても、日下部の反応は薄かった。数秒のあいだ黙り込み、そうですか、と答えて短く息を吐く。
「別に驚きませんよ。夜蛾さんのときからそうだったでしょう。京都が保守派の根城なら、東京は革新派の巣窟だって」
「鈍いな。日下部」楽巌寺もまた眉ひとつ動かさずに応じた。「五条の坊主がしでかしたことを忘れたか。あのときと同じ境遇に遭うことを、総監部は何よりも恐れている」
「でしょうね。ただ、それと日車に何の関係が
——
」
はたと口を噤む。脳裏を過った考えに血の気が引きかけ、次いで視界がくらむほどの衝撃に襲われる。
先ほど、日車の所属を総監部に移すと日下部に告げたとき、楽巌寺は何と言っていたか。
日下部の記憶通りなら、こうだ。
……
あれの術式は呪詛師の執行に向いている
——
。
「
……
処刑人ですか」
返事は無い。ぐらりと回った視界から逃れるように下を向くが、視線の先にある自身の膝の輪郭は歪み、動悸は収まらずに呼吸が早まっていく。
「日車を、直属の処刑人にするつもりですか」
楽巌寺は黙り込んだままだ。
沈
、
黙
、
は
、
即
、
ち
、
肯
、
定
、
で
、
あ
、
る
、
。
日下部は目蓋を下ろし、今にも溢れそうな激情の本流を押しとどめようとした。
処刑人。
こう言い換えてもいい。処刑人とは、呪術師専門の死刑執行人だ。かれらは総監部に属し、呪詛師に対して呪術規定に基づいた刑を執り行う。呪詛師は呪術高専が任務で捕縛したり、処刑人本人が総監部からの任務で現地に赴いたりと、いずれにせよ呪霊の討伐は取り扱わない。対人特化の呪術師として活動している。
日下部も実態は知らない。五条が存命である頃は彼が時折その役割を担っていたと、本人から聞いた程度だ。気分の悪い仕事だとぼやいていた。一人で執行するぶん、非術師の絞首刑のシステムより遥かに堪える仕事だろうと。
……
けど御三家以外の人間が就任したら誰もが、たとえ呪術界に身を置いて長い日下部さんだろうと、一週間と経たずに気が狂ってしまうだろうし
——
。
——
呪詛師への処罰が第一として、理由は他にも考えられる。総監部直属となる処刑人はそのまま、総監部が誇る少数精鋭の戦力ともなり得るのだ。
「三人の特級呪術師に勝てる見込みのある呪術師が、あれ以外にいるか」
長い沈黙の末に楽巌寺が口を開いた。「どこにもいないだろう。東京にも京都にも、無論、我々が抱えている呪術師の中にもだ」
「
……
我々が、五条のように総監部を襲うとでも?」
自身の膝を見下ろしたまま、日下部は呆然としつつも言い返す。
「あれはあいつの独断でした。組織的な襲撃じゃない。あなたが誰よりも知っているはずだ」
「だとしてもだ。襲撃を恐れている輩は多い」
「俺は日車の異動なんて絶対に許可しませんよ。もちろん本人にも話を通すんですよね」
「貴様が介入できる余地は無い。非術師の法は所詮、非術師を裁く法に過ぎん。呪術師には呪術師の裁き方がある」
どくどくと自身の心臓が速く脈打つのが聞こえる。皮膚の下で狂い、暴れ回るものの存在を感じ取った。目蓋を強く瞑る。
「
——
あんた、さっきから言っていることがめちゃくちゃだ。日車は死んだ」
「死んでおらん。非術師としての身分が死んだだけだ」
「処刑人がどれほど過酷な役割かはあんたも知ってるはずだ」
「だからこそだ。処刑人になれば、あれは秘匿死刑を免れることができる」
「もう充分に罰されたのに? 総監部で一生飼い殺されるのが、一日中人を殺して回るのがあいつへの本当の罰だって、あんたらは言うのか
——
」
「日下部」
低く、鋭い声が鼓膜を震わせた。
……
喉の奥を詰まらせ、固まったのちに両手で顔を覆う。数秒間そうしたのちに顔を上げ、日下部は息を吐いた。唇が震える。
……
駄目だった。止められなかった。
「
……
結局、総監部もあなたも、昔から何も変わっちゃいない。日車の手足を切ろうとした奴と同じだ。人を人じゃないみたいに言う」
「腑抜けたか若造。罪人を庇うか」
「彼は罪人じゃない。あんたら総監部が非術師の死刑制度を利用して殺したんだ。いいか。非術師を殺した日車は、絞首刑によって、死んだ」
「あれは死んでおらん、何度も言わせるな。呪術で殺されなかった呪術師は呪霊化する。ゆえに仮死状態にさせたまでだ」
「仮であっても死は死だ。楽巌寺さん、俺は肉体の話をしているわけじゃありませんよ。現代の法律の話をしてるんです。殺人という罪が法によって公に裁かれた結果が今だとしたら、我々とともに働いている彼は何者ですか」
子どものような屁理屈だとはわかっていたが、楽巌寺は虚をつかれたように口を噤んだ。その空隙は致命的な損失だ。日下部の言を認めたも同然の長さであった。間を置き、彼がぼそりと呟く。
「儂も、彼奴のように消してみるか」
「
……
。何のことかさっぱりわかりませんね」
楽巌寺の言葉に日下部は低い声で言い返した。「まあ、用心するに越したことはないんじゃないですか。噂によれば烏の鳴き声が聞こえるんでしょう。聞こえた頃には手遅れかもしれませんがね」
「いずれにせよ、あれは総監部のものだ」
「
——
さっきから
あ
、
れ
、
、
あ
、
れ
、
って道具みたいに呼んで、いったい何だと思っているんですか。楽巌寺さん、あんたはあいつの名付け親でしょう。自分のものだと思うのなら、名前で呼んでやったらどうなんです」
楽巌寺は再三沈黙した。相手の唇や眉の端に微かな痙攣が走ったのを日下部は認めたが、それは瞬く間に皮膚の下へ沈み込んでしまう。
「
あ
、
れ
、
は
……
」
日下部は次の言葉を待った。今や目の前の老人に対して思うのは、わずかばかりの憐れみを圧倒的に上回る憎悪と怒りで、醜い感情であるそれらが自身の制御から手放されつつあることを、日下部は自覚していた。
あるいは、淡い希望を抱きたかったのかもしれない。
日車に新たな名前を授けた楽巌寺なら、他の総監部の連中とは違う、人間らしい感情を多少は持っているかもしれないと。
「
あ
、
れ
、
は、儂の息子ではない
——
」
——
全ては裏切られた。
冷水を浴びた気分だった。
胸の内で渦巻く激しい怒りが、閾値を超えたのを感じ取る。
衝動のままに立ち上がり、荒い足音を立てながら外に向かった。
「話は終わっておらんぞ」
「日車は渡しません」振り返らずに声を張り上げて話を遮った。「この話は終わりだ。帰ります」
「次の会議で、お前を学長へ任命すると
——
」
廊下へ出た直後、聞こえてきた単語に驚き振り返る。畳に座したままの楽巌寺は眉根を寄せ、憎々しげに日下部を見上げていた。
「
……
学長?」
「こちらが本題だったのだ」彼はそう同意すると顎をしゃくって自身の前を指し示した。「あれの件で熱くなりおって。代理では貴様を動かすのに不便ゆえ、正式に認める流れになったのだ。座れ」
——
……
動かす、と。
そうか。所詮は俺も駒のひとつか
——
。
日下部は口の端に歪な笑みを浮かべ、言った。「
——
総監部が日車の件から手を引くなら喜んで引き受けます」
返答を聞いた楽巌寺の顔が険しさを増す。
「貴様」
「そうじゃないなら引き受けません。それとも、私を学長代理から引きずり下ろします? 私以外に学長が務まるような呪術師なんて東京にも京都にも、もちろん総監部お抱えの呪術師の中にも、誰もいませんよね」
楽巌寺の額に青筋が浮かび上がったのを見て体を引っ込めた。
周囲は日が落ちかけ、すっかり暗くなっている。
背後から嗄れた声が響いた。
「理解できん。なぜそこまでしてあれの肩を持つ」
聞こえないふりを貫き通す。大股で廊下を突き進み、日下部は屋敷を後にした。
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