わからん
2025-03-10 23:09:23
74988文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】Nobody's Son

本編後IFなギスギスくさひぐシリーズ第三弾(長編)です
例によって捏造祭り・日下部が日車のみならず行く先々で色んな人とギスりまくってます
・日下部が日車を迎えに行く話( https://privatter.me/page/678cf22a6e58f
・とそのおまけ( https://privatter.me/page/6795bb0def0b2
とお話が繋がっているため、先にこちら2つを読むこと推奨です
※死亡表現ではないもののそれに近しい表現・暴力・流血・ゴア描写あり。ゴア表現においてはショッキングな描写が続く(特に4p目)ため、苦手な方は充分にご注意ください。

1.




 喉が渇いてきたな……
 ごくりと喉を鳴らし、彼は周囲を見回した。
 時刻は昼と夜の境目に差し掛かっている。がたんごとんと音を立てて電車は不規則に揺れ、窓の外を流れていくビル群の隙間から差し込む橙色の光が、少年や乗客たちの顔を照らしては黒い影と交互に入れ替わる。
 夕方とはいえ早い時間帯であるからか、車内はまだ、帰宅する学生や社会人で混み合ってはいない。ただし、座席はぽつぽつと埋まり始めており、通路や開閉扉の近くで立っている人も見受けられる。少年自身も通路に立っているうちの一人だ。
 彼の前でシートに腰掛けている女子高生は、左手にコンパクトミラー、右手に真っ赤な口紅を持って化粧している。揺れている車内でよくできるものだと思う。彼女は唇を塗り終えると小型のコームを取り出して前髪を梳き始めた。無論、左手に持ったミラーを熱心に眺めながらである。
 女子ってなんで前髪ばかり気にするんだろう。少年にとっては不思議で仕方がなかった、だって風が吹いたりしたらあっと言う間に崩れてしまうじゃないか。少しくらい崩れていても誰も気にしないのに……長時間見つめていたら不審がられるだろうと、少年は女子高生から視線を外し、そっと車内を見回した。
 彼が立っているのは車両のほぼ中央部分だった。右側のドア付近に立つ二人組の男性がいる。どちらもスーツを着ており、向かい合って立っているので仕事仲間なのだろう。一人はこちらに背を向けて立っていて、もう一人はスーツの上にトレンチコートを羽織り、少年に背を向けている男性の頭越しに少しだけ顔が見えた。険しそうな顔つきが視界に映ったのはほんの一瞬で、また男性の後頭部に隠れてしまう。二人とも手ぶらだと思っていたが、よく見ればトレンチコートの人は左肩に細長いものを背負っている。既視感を覚えると思ったら、登下校中や放課後の校舎内で少年がよく見かけた、剣道部員が背負っている竹刀袋に似ていた。
……何で迎えが……疲れてんのに……電車なんか……
「補助……も忙しい……文句を……
 聞き耳を立てていたわけではないが、他に誰も話していなかったので二人の会話が時折漏れ聞こえてくる。トレンチコートの人が文句を言っていて、連れ立っている男性のほうがそれをたしなめているようだ。
 トレンチコートの人が腕を組んで扉に寄りかかる。何か——おそらくは文句の続きだ——を口にした。それを聞いた相手は肩を竦めるジェスチャー。男性は落胆したようにがっくりと項垂れ、それからすぐに顔を上げた。
……推薦の件……俺から……
「ああ——恩に着る」
 少年は二人から視線を外して正面の窓を眺めた。日が沈みかけている。街は徐々に闇へと沈み、夜の時間がやってくる。
 外が暗くなり始めた影響で、窓に車内の様子が映り込んでいた。パーカーのフードを深く被り、吊革では低すぎるので手すりを掴んでいる自分の姿。顔全体に粉をはたいている女子高生の後頭部。携帯端末をいじっている乗客の俯いた顔。ドア付近で会話を続けている例の二人組の横顔——
 喉が、渇いた。
 唾を飲み込み、ごきゅりと喉から音が鳴る。
 再び車内に視線を巡らせた。女子高生、会社員の男、私服の女、若い男女のグループ、二人組の男——慌てて口元を拭う。涎が垂れかけていた。幸い、目の前の女子高生は化粧に夢中で気付いていない。
 見ているだけではそろそろ限界だ。どれがいいだろう?
 見つけた。あの男。俺に背を向けてドア付近に立っている、二人組の一人だ。一目見たときからずっと気になっていた。あいつは良い。良い呪力を持っている、うまそうな匂いがする。
 少年は体の向きを変えて歩き始めた。向かう先は無論、彼の背後だ。奴は目の前の男との会話に夢中でこちらに気付いていない。一撃で仕留めてやる。喉笛を掻き切った瞬間の獲物の死に顔、相方の絶望に満ちた顔を見るのが楽しみでたまらない。そいつも次に殺してやろう。噴き上がる血飛沫を全身に浴びて、耐え難いこの飢えを満たすのだ。
 腕を振り上げた瞬間、少年はの肉体から意識を離脱させた。彼の意識は電車から離れ、暗闇の中へ遠ざかっていったが、この式神は間違いなく狩りを成功させるだろうと確信していた。

「何だこいつは」
 わざわざ助けてやる必要もなかった。
 竹刀袋から刀を取り出しかけた姿勢のまま、日下部は呆れながら目の前の男——日車の顔を見つめ返した。
 日車は右腕を振り上げ、その手には柄を長く伸ばしたガベルが握られている。そして、その柄には見知らぬ男が噛み付いているのだった。
 否、日車を背後から襲ったそいつはおよそ男とは、人間とは呼べるものではない。
 それは服こそ着ているものの、深く被ったフードの下から現れた顔や肉体は、怪物のごとき醜悪さを持っている。
 日下部より頭ひとつ分は背が高い。一方で全身の肉は乾涸びたように引き攣り、皺くちゃで、骨に辛うじて張り付いているといった有様だった。顔の皮膚も同じように赤黒く乾涸び、眼窩は落ち窪んで頭には一本の毛も生えていない。肩越しに背後を見上げた日車が一言、「ゾンビのようだな」と感想を述べた。
「日下部。こいつは何だ」
 日車の問いを受け、日下部は怪物の顔を観察して答える。
「呪霊じゃないな。おそらくは式神だ」
「式神」
「ジャッジマンと同じ。あとは伏黒の犬とか兎とか」
「なるほど。式神というよりはゾンビに見えるが」日車は日頃のポーカーフェイスを保ったまま冷静に会話を続ける。「つまりは俺の仲間みたいだ」
「あんたの冗談っていつも本っ当に笑えねえよな」
 攻撃を阻止された式神は喉の奥から唸り声を上げ、さらに強く噛みつこうとしてくる。しかし日車が素知らぬ顔で押し戻しているので、ゾンビらしからぬ鋭い牙が彼に届くことはなかった。
「式神ということは術者が近くにいるのか」
「だといいけどな。強い呪詛師は余裕で遠隔操作してくるぞ。……ったく、面倒なのに巻き込みやがって」
「俺たちが居合わせたのは不幸中の幸いだ」
「不幸中の不幸だよチクショウ」
 周囲は驚きにどよめいている。日下部は竹刀袋を投げ捨て、刀の鯉口を切った。——式神の攻撃を受け止めている日車の右腕が、微かに震え始めている。
「おい、日車ぁ」
「うん」
 明らかに口数が減った。歯を食いしばっているらしい。助けを求めればいいのに、と日下部は思う。手伝えと、限界だと一言口にすればいいだけだ。
 けれどもこいつはそういう奴だった。落ち着き払って日下部を見つめ返す目は全てをひとりで対処するのだと、そういう——ある種自罰的な——責任感に駆られている。
 一方でその黒い瞳は、彼の奥底に潜む思考や感情を、雄弁に映し出している。
 ——当たり前だ。君はわかりやすい。何を考えているか、何をするのか、俺にはわかっている。
 今は何かを仕掛けたくて堪らない顔をしているな、日下部。
 ——ご明察。
「しゃがめ」
 最後まで言い切る前に日車の姿は視界から消え失せている——日下部は柄に手をかけ、抜刀して式神に斬りかかった。
 瞬きよりも速く繰り出された一閃。コンマ一秒以下の不意打ちにも拘わらず刃は空を切る。日車に襲いかかって前のめりの姿勢でいたはずの式神は上体を反らし、刀の間合いから逃れていた。
 横一文字に振った腕を返せば、刀は式神の胴を捉えていたかもしれない。しかし深追いはしなかった。刀を振り切ったと同時に後方へ飛びすさり、日下部が立っていた場所を日車の足が占領する。
 両者間の足元に潜り込んでいた彼はガベルの柄を式神の足首に巻きつけ、立ち上がりざまに渾身の力で手前に引いた。
 死角からの不意打ちだった。式神の体が半回転し、頭部から車内の床に転倒する。
 ギャアッと鳥のような悲鳴が響き渡った。日車はすかさず、ガベルの頭部を式神の腹へ向けて垂直に振り下ろした。瞬時に巨大化したガベルが式神の体を押し潰し、暴れ始めた式神を、日車は揺れ動くガベルの頭部越しに足で押さえつける。
 攻撃から拘束まで一連が鮮やかな手腕だった——日下部が思わず口笛を吹いたほどだ。近頃は虎杖と手合わせをしていると聞いていたが、その成果が出たというわけだ。少し前までは近接戦が苦手だとぼやいていたのに、相応に戦えるようになってきたらしい。
 感心している彼を尻目に式神と格闘しながら、日車が日下部と叫ぶ。
「皆を他の車両に誘導しろ」
 日車がそう言った頃には、状況を把握した乗客たちがパニックに陥っていた。悲鳴が方々から上がり、半狂乱となった彼らは怪物を避けるように片側の扉へ殺到し、隣の車両へ逃げていく。日下部が周囲を見回した頃には乗客の大半が姿を消していたが唯一、都内の制服を来た女子学生が、こちらにスマートフォンのカメラを向けながらゆっくりと後退していた。
 それを見た日下部は舌打ちをする。
「馬鹿が、死にてえのか」
 刀を鞘に収めながら近づき、手首を捻り上げて引きずっていく。何すんだ痛えよおっさんと口汚い罵倒が聞こえたが無視して通路を進み、隣の車両へ続く扉が開いたと同時に向こうへ突き飛ばした。
 ううっと彼女の悲鳴が車内に響いた。
 騒がしかった乗客たちが一斉に口を閉じた。床の上でうずくまる女子学生、次に日下部へと全員の視線が向けられる。
……あー……なんだ……
 気まずい——。後頭部をかきながら、どう説明したものかと日下部は思案する。背後を親指で示しながら口を開いた。
「こっちの車両に不審者が出た。暴れてるからあと一、二車両分は奥に逃げてくれ。俺と相方で次の駅まで取り押さえておく」
 話を聞くや否や人混みをかき分けて奥へ駆けていく数人は、自分たちと同じ車両に乗り合わせていたのだろう。大多数は状況を把握できておらず、ぽかんと日下部を見つめるばかりだ。
「あと……そこの——君。おい。学生のあんた」
 件の女子高生がスマホを掴んで起きあがろうとしていた。日下部が呼びかけると睨みつけてきたが、睨み返すと化粧の施された顔が恐怖に歪む。怖がらせすぎてしまったかと一抹の後悔が過ぎったが、彼女が逃げずに動画を撮っていたことを思い返し、慈悲の心は瞬く間に吹き飛んだ。
「さっき撮ってた動画はネットに上げるな。保存も禁止だ、データは今すぐ消せ」
 恐怖で見開かれた瞳の奥に、反抗の意思がありありと浮かんだのが見て取れる。意味がわからない、何でこんなおっさんに言われなきゃいけないの、とでも言いたげだ。
 あの場にいたら自分たちが庇いきれずに死んでいたかもしれないのに、生意気な奴だと日下部の眉間に皺が寄る。あるいは、その命知らずで無鉄砲な彼女の衝動を、若さとも言うのかもしれないが。
「消さなかったらどうなんの」
 案の定だった。しかし、ここで押し問答を繰り広げる時間は無いし、早く戻って日車に加勢しなければならない。日下部は溜息をつきながら踵を返し、肩越しに振り返って答えた。
「忠告はしたからな。命を大事にしろよ」
 返事は聞かずに正面へ向き直り、連結部を進む。隣の車両への扉が開いた瞬間、日車の体がこちらへ吹き飛んできた。
 扉から出た直後の通路は狭く、間一髪で日下部と衝突することはなかった。日車は肩と腰を通路の角へ強かにぶつけ、うつ伏せに崩れ落ちた。やや間を置き、緩慢な動作で床に両肘をついたものの、起き上がれずに背中を丸めて咳き込んでいる。
「おう。生きてるか」
……日下部」掠れた声で応えがあった。「あいつ、硬すぎる」
「へえ」
「皮膚というよりも装甲だ。打撃がほとんど通らない。知能が無いから領域も効かない」
 彼はふらりと立ち上がって口元を拭う。セットが崩れた前髪越しに目が合った。
「さっきの昇級試験で祓った呪霊のほうが、ずっと弱かった」
「そいつも冗談か」
 日下部の言葉を聞いた日車の唇がへの字に曲がる。「こんな状況で言うものか……
 金属を擦り合わせたような、不快な音が日車の背後から上がった。かつて衣服だった襤褸布を纏い、式神は通路の中ほどで両腕を振り回して暴れている。その両手の先には鋭い鉤爪が生えており、まともに食らえば人の肉など容易く切り裂かれてしまうだろう。
 隣に日下部が並ぶと、日車はおもむろに自身の背後へと腕を回した。次に正面へ戻したときには黒い、棒状のものを握っている。日車の手のひらほどの大きさだったそれは、彼が上下に振ると先端から一回り細長い棒が飛び出て、三十センチ程度の長さになった。
 見た目はただの警棒だが、日車が呪力を流すと先端から青白い稲妻が迸った。日下部も何度か目にしたことがある呪具だ。初心者向けで扱いもそれほど難しくないため、補助監督が護身用に持ち歩いていることが多い。呪術師は通常持たないはずだが、日車はなぜか持ってきていたらしい。
「あいつのどこかを斬れないか」
 呪具を体の前で構え、式神から目を離さないまま日車が言った。「頭と手足は硬すぎるから胴や背中を狙ったほうがいい。相応に硬いだろうが、君なら何とかできるだろう」
「なんで俺がやる前提なんだよ」日車からの提案を日下部は一蹴した。「刀でも斬れる硬さには限度がある。それに、変なところに当たったら刃が欠けるわ、骨に響くわ——
 日車が目だけを動かして日下部を見た。「できないのか?」
 溜息をついて前に進み出た。口笛を吹くと式神の顔がこちらを向き、骸骨のように落ち窪んだ眼窩越しに目が合ったのがわかる。標的として捕捉されたらしい。腰を落とし、左手で鞘を支え、右手で柄に触れる。背後で日車が身じろいだ気配を感じた。
「助太刀はいるか」
……あー……
 式神の纏う呪力と殺気が膨らんだ。相手との距離を目算。それから車両全体の奥行き、縦と横幅——縦はともかく、横が狭すぎる。一定間隔でシートを区切るように設けられたパイプが鬱陶しい。刀を振るのに引っかかるかもしれない——で、何だった。こいつは、日車は何と言っていたか……確か、助太刀がどうとか——駄目だ、
——邪魔!」
 答えると同時に式神が足を踏み出し、日下部もまた敵の元に駆け出した。
 両者の距離は瞬く間にゼロへ詰められた。
 下段から振り上げた日下部の斬撃を、式神の腕が防ぐ。がきん、と皮膚と刃がぶつかったとは思えない金属質な音が響き渡り、日下部は目を見開いた。
……かっ——
 ——硬すぎる!
 皮膚というよりも装甲だという日車の忠告が脳裏をよぎった。大袈裟だと思っていたが撤回せねばならない、彼の言う通りだ。式神の体を覆っているのは萎びた皮膚などではない。装甲あるいは強固な鎧とでも言うべき、体の内部を外部の衝撃から保護することに特化した、硬質な防御装置だ。
 想像を絶した硬度はまさに戦車のごとくだ。正面から立ち向かうべき相手ではない。これは最悪の場合、刃が欠けるどころか折れるんじゃないか……
 身を捻って攻撃を避けつつ飛び退る。式神が床から飛び、襲いかかってきたタイミングでシートの上に飛び乗った。式神の背後に回って斬りかかるも、硬質な音とともに刃が弾き返される。
——おい、話が違えぞ日車ァ! クソ硬え!」
「やはりそうか」と車両の端から淡々とした返事が聞こえてきた。「憶測を話してすまなかった。次は腹だな」
「ッんの野郎……!」
 式神が振り抜きざまに腕を振ってきたので屈んで避ける。日下部の隣にあったパイプが、すぱりと軽い音を立てて真二つに切断された。直撃したら上半身と下半身がおさらばだ——背筋を寒気が駆け抜けた瞬間、視界の左隅から赤黒い色をした何かが迫り来る。
 それが相手の足だと気付き、次の瞬間には咄嗟に構えた刀ごと体が蹴り飛ばされていた。背中全体に衝撃、床へ落下。さっきの日車もこれを食らって飛ばされたのだろうという考えが頭をよぎった。幸い、攻撃を受け止めた刀は刃こぼれしておらず、安堵の息をつく。
(いいや、安心するのはまだ早すぎんだろ)
 立ち上がりながら左手で脇腹をさすった。
 今しがた式神に蹴り飛ばされた箇所が鈍い痛みを訴えている。
 反転術式を用いれば傷を即座に治癒できる日車とは違い、こちらは術式を持たない身だ。戦闘で負った傷は最後まで引きずることになり、度合いによっては体の感覚を鈍らせて勝敗を左右させる要因になる。この怪我は刀で庇ったぶん軽く済んだほうだったが、もう一度食らったらどうなるかわからない。
(マジで危なかった……。日車の野郎は後で絶対にしばく)
 想像を絶する皮膚の硬度、人体の範疇を超えた膂力とスピード。トリッキーな技を持たない代わりに、対人戦に特化した性能を持つなかなかの強敵だ。どう攻略するか、どこを突き崩すべきか。そもそも弱点を持っているのか? 赤黒い皮膚はすべて硬い箇所であると考えるべきだ。日車が言った腹部を狙うのも悪手であるように思われた。せめてそこ以外を狙うべきだろう。
 通常、人体の表部において皮膚で覆われていない部位、とは。
 式神が日下部を見据えて唸った。鋭い牙が並ぶ歯。過度に落ち窪んだ黒い眼窩——
 床を蹴って再び式神に迫る。突き出された拳を避け、次いで横薙ぎに繰り出された逆の拳を刀で受け流した。懐へ潜り込もうとすると再び膝が飛んでくる。舌打ちをしながらシートに飛び移り、真中で二つに切れていたパイプを根本から切断、シートの端から端へ移動する。
 頭上の荷物棚から垂れていた持ち手を掴み、置き忘れられていた鞄を手にした日下部は、自身を追いかけてきた式神めがけてそれを振り向きざまに投げつけた。
 無論、ダメージにとしては全く期待できない。呪力も込められていない攻撃だ。
 しかし、相手は知能を持たぬ式神だった。対人戦闘用に行動をプログラムされた式神にとっては、標的から与えられる行為のすべてが、攻撃として等しく映る。
 鞄は日下部の狙い通り式神の顔面に直撃した。視界を覆った鞄を鬱陶しげに払い除け、やっと開けた式神の眼前には刃が迫っている。
 ——刃先が柔らかいものを断つ感触。
 式神が絶叫した。
 左目に深々と突き刺さったものを抜こうと両手を暴れさせるが、空を切るばかりで、眼前に立つ日下部にはおよそ攻撃が届いていない。
 日下部は式神の頭を両断しようとしたが、柔らかい箇所は目だけだったようだ。いずれの方向も硬いものにぶつかって刃が動かない。諦めて刀を抜き、右目も潰そうと腕を振り上げたところで、背後から迫る足音を聞く。
「下がれ、日下部!」
 咄嗟に通路の脇へ避けた日下部の目の前を日車が駆け抜ける。彼は式神の懐へ潜り込むと、日下部が貫いたばかりの左目へと、手にしていた呪具の先端を突き立てた。
 ……一瞬の静寂の後に白と黒の激しい明滅——
 閃光。
 プラズマが宙を駆け抜け、爆ぜる轟音とともに、青白い光が日下部の視界を染め上げた。
「うおっ——
 腕で目元を庇いながら後退する。逃れた先でなおも火花が体を掠めたので、通路を抜けて開閉ドアの前まで飛び退いた。
 凄まじい威力だった。おそらくは最大出力だ。しかしこれほどの、未だ日下部の足元にまで余波が飛んでくるほどの強力な電撃を放っているのであれば、その発生源にいる日車も無傷ではいられないはずだ。電撃が爆ぜる音とともに、肉が焦げたような不快な臭いも立ち込めている。
(あいつ、無事なのか)
 危険を承知で日下部が足を踏み出しかけた直後、光がかすかに弱まった。
 逆光を受けて真っ黒に映っていた日車の背中の中央から、鋭い何かが飛び出ていることに気付く。それは式神の腕の動きと呼応し、日車の体を宙へ浮かせると真横へ投げ飛ばした。
 肉から鋭利なものが抜ける生々しい音が聞こえた。
 式神の爪先から赤黒い血液が放物線を描いて周囲に飛び散り、呪具が床の上を転がる音とともに、視界を埋め尽くしていたまばゆい光が消え失せる。
 窓に叩きつけられた日車はシートの上に落ちた。全身から黒い煙が立ちのぼり、うつ伏せのまま動かない。式神の爪が貫通した傷口から、スーツに赤い染みが広がっていく。
「日車!」
 彼の怪我の具合を確かめるか、式神との戦闘を続行するか——呪術師としての本能は躊躇なく後者を選び取る。日下部が刀の柄に手をかけた瞬間、式神は弾かれたように後方へ駆け出した。そのまま開閉扉へ体当たりし、外側へと吹き飛ばす。
 電車が駅に停車しようとしていた。式神は車両から飛び出してホームに降り立つと、驚く人々を突き飛ばし、足を引きずりながらも驚異的なスピードで構内を駆け出した。
「クソッ」
 刀を鞘にしまいながら悪態をついた。追跡しなければならない。会社帰りや下校中の人々で構内は混み始めており、すぐに追わなければ式神の姿を見失ってしまうだろう。電車が完全に停車し、日下部側の扉も開かれる。
「日車、俺はあいつを追うが——
 言いかけた日下部の真横を黒い影が通り過ぎた。見ればシートの上は既にもぬけの殻だ。当の本人は式神を追ってホームを駆け抜け、日下部から遠ざかっていく。
 あーもう、と無人の車内で叫ぶ。ぐしゃぐしゃと髪をかき乱し、日下部もまた車外へ飛び出した。
 改札口で日車に追いついた。式神が破壊していったのだろう、ひしゃげたゲートを飛び越えて彼の隣に並ぶ。日車の視線が一瞬こちらへ向けられたのを感じたが、結局は無言で式神の追跡に集中した。
 通路の角を曲がり、外へ出た瞬間に沈みかけた夕日が目を刺す。
 式神はすぐに見つかった。ファストフード店の看板の上に乗り、跳躍して病院の看板へ、また別の看板へと飛び移り、ビルの屋上へ到達すると手足を使って獣のごとく疾走し始める。怪我を負っているとは思えない、俊敏な動作だった。
 無言で駆け出した日車とともに式神を追う。人々は宙を飛ぶ異形の生物を指差し、あれは何だと騒いだり、スマートフォンを向けて撮影を試みたりしている。そうして足を止めた彼ら彼女らの間を縫うように日下部たちが走り抜け、今度は何だと訝しげな視線を寄越してくるのだった。
「あれはどこに向かっていると思う」と日車が沈黙を破った。
——使役してる奴のところであってほしいな。少なくとも目的地はあるみてえだ」
「電車の中で仕留めるつもりだったが、頑丈なやつだ」
「無理だったな……電車の物をけっこう斬っちまったけど、大丈夫かな」
「クレームが来たら俺に取り次げ。言いくるめてやる」
「さっすが。頼りにさせてもらうわ」
 式神は建物を飛び移り、一方向を目指している。空中は地上と違って遮蔽物が無く、そのぶん移動も自由だ。地面を走っている二人にとっては不利な状況だった。
 日下部が周囲の様子を走りながら確認したとき、日下部、と日車が苦しげな声で言った。隣を走る彼の顔色が真っ青であることに気付き、ぎょっとする。
「どうした。やっぱり怪我が——
「スタミナ切れだ」
——はあ!?」
 日下部の裏返った声が周囲に反響した。
「反転術式で糖分を使いすぎた」説明されている間にも日車の走るペースは徐々に落ちていく。「手足に、力が……
 すまないと弱々しい声で謝罪された。色々と言いたいのを飲み込み、日下部はコートのポケットに手を突っ込んだ。目当てのものを指先が探り当てる。
「手え出せ」
 日車の手の上に棒付きキャンディを落とした。彼は青白い顔色のままそれを見下ろし、ぼそりと呟く。
「プリン——
 ……些か愕然としたような声色だったことは、この際指摘しないでおく。
「そいつ食って補給しろ」それでも自然と語気が荒くなり、日下部は走る速度を上げて日車を追い抜いた。「十分——五分で追いついてこい!」
「人が通れる道を行ってくれ」
 日車の懇願を、日下部は彼と別れてすぐに無視した。呪力で強化した足で地面を蹴り、手近な看板の上に飛び乗る。そこから別の看板、ベランダの手すりへと飛び移り、建物の屋上へ到達すると、式神と同じく建物の上を駆けた。
 豆粒よりはましな大きさで先を行く式神の姿が見えた。負傷している式神よりも、日車にペースを合わせる必要がなくなった日下部のほうが足は速い。ある程度の距離を保ったまま、日下部は式神の背中を追いかけた。
 やがて、式神の姿がふと建物の影に消えた。見失ったのではない。周囲よりも背が低い建物の元に姿を潜めたのだと、日下部は足音を立てすぎないよう慎重に距離を詰めた。ビルや飲食店が立ち並ぶ中心街と、住宅街の境界線のような場所だ。人通りも少なく、式神が身を潜めるには格好の場所と言える。
 十数メートル先に式神の背中を捕捉した。その隣に人間が一人——式神を使役していた呪詛師だ。当たりだと呟き、どうしたものかと思考を巡らせる。
 大前提——呪詛師は生け捕りにする。そのためには式神の存在が邪魔だ。
 だが式神の皮膚は硬く、刃を通さない。現在も長距離を移動できたことを鑑みると、日車による電撃もどれほどのダメージを与えたか不明だった。確実に倒すには——
(やめだ、やめ。めんどくせえ)
 渋滞し始めた思考回路を吹き飛ばす。要するに奴が瀕死である可能性は相当に低い。だが、弱点は判明している。そこをどうにかすればいいだけだ。……どうにか、すれば……
 接近してさらに二者の姿が鮮明に見えてきた。そこでようやく、日車が式神に与えた電撃が有効だったことを知る。
 式神の皮膚——否、装甲は電撃を受けて所々が焦げ、特に呪具を直接当てられた左目の周辺はひび割れて崩れ落ちかけている。
 左目から額、そして頭頂部へかけては深い亀裂が走り、強い衝撃を与えれば叩き壊せそうだ。
 勝機が見えた。
 一歩、足を強く踏み込んで一気に加速する。助走をつけて建物の手前で大きく跳躍、眼下に式神と呪詛師の姿を捉える。
 相手はまだこちらに気付いていない。
 ——へばって脱落しやがったがお前の手柄だぞ、日車。
 放物線の頂点に届けば、あとは重力に従い落下するだけだ。
 抜刀。両手で柄を握りしめ、切っ先を式神の頭部に合わせる。
 ——ぶった斬ってやる。

 彼らが上空からの奇襲に気付いたときには、すでに手遅れだった。
 装甲、頭蓋、それらの内側へ押し込められた肉——すなわち臓器であり全身の司令塔たる脳に埋め込まれた、式神が有する呪力回路ニューロン
 それら一切を断つべく、日下部の刀が真上から襲いかかる。
 ——日下部の着地と同時に頭頂部から入り込んだ刃先は易々と式神の皮膚を砕き、頭蓋に穴を開け、内部の肉を裂き——落下の勢いに任せて到達できたのは途中までだった。上顎の骨に突き当たった途端にこれ以上の侵入を阻まれる。
 うつ伏せで倒れかけた式神も最後の抵抗とばかりに両手を地面につき、立ち上がるために刀を押し返してきた。日下部も負けじと柄を握り直し、全体重をかけて真下へ押し込む。
 互いの力が拮抗し、日下部の腕と式神の全身が痙攣したのは数秒にも満たなかった。
 日下部の背が丸まり、刀が深く沈む。
 破壊音とともに刃が式神の骨を貫き、下顎から刃先が飛び出した。
 上から迫る鍔によって地面へ叩きつけられ、圧迫された式神の頭が腐った果実のようにひしゃげる。
 刀がコンクリートと衝突した瞬間、がきんと硬い音が響き、折れた刃の欠片が方々へ飛び散った。
 目、鼻、口——そして頭頂部の傷口から一斉に黒い血が噴き上がり、日下部の全身に降りかかる。
 刃を抜いてもなお式神の体は弱々しい痙攣を繰り返していた。まだ、息がある。日下部は刀を振り上げ、半ばから欠け落ちた刃を呪力によって補っていく。
——『朧月』、」
 二度めの刃が突き立てられ、式神は今度こそ沈黙した。
 数秒の硬直の後、日下部は式神の肩を踏みつけながら刀を抜いた。使い物とならなくなったなまくらを放り投げ、顔中に散った式神の血を手の甲で拭う。もっとも、手の甲もすぐ真っ黒に染まったので、いたずらに顔へ塗り広げてしまっただけかもしれない。コートやスーツもここまで汚れては新調するしかないだろう。
「あーあ。せっかくの刀と服がよ……
 ヒイッと悲鳴が聞こえた。見れば日下部からほんの数メートル離れた場所で、一人の少年が日下部を怯えた目で見ながらじりじりと後ずさっていた。こいつ誰だ、と呟いて思い至る。式神の存在が強力すぎたあまり忘れていた。彼こそが、当の式神を操っていた呪詛師だ。
「随分と強い式神を使ってんだな。誰かに使い方を教わったか」
 声をかけても震え上がるだけで何も返してこない。
 いささか拍子抜けだと、アドレナリンが分泌されて興奮しきった脳を自覚しながら日下部は思う。ここ数年戦ってきた中でも、この式神は極めて強力な敵の一体だったと言っていい。ならば術者本人も強力な呪詛師だと予想していたが、まさか子どもだったとは。おそらくはまだ学生だろう。
「呪術規定に基づいてお前を拘束する。逃げても無駄だ、大人しくこっちに来い」
 少年はぴたりと足を止めたが、こちらへ歩み寄る気配も無かった。彼の両目が血塗れの日下部を見、次に彼の足元で事切れた式神の悲惨な姿を捉え、宙を泳ぐ。やがて意を決したのか日下部を再度見つめ、くるりと踵を返しかけたところで——背後で待ち構えていた巨大ガベルの頭部が、少年の頭目掛けて振り抜かれた。
「あ」
 声を上げたのは日下部が先だったか、それとも少年が先だったか。
 ガベルが直撃して真横へ吹き飛ばされた少年の体は、落下防止の柵にぶつかってようやく止まった。当然ながら少年は気絶していた——泡を吹き、白目を剥きながら。彼に負けず劣らず酷い顔色である日車もまた、ガベルを消すと両膝に手をつき、肩で大きく息をしている。
「早かったな。大丈夫か」
 荒い呼吸を繰り返したまま返事は無い。
 日車の鼻先や顎先からはぽたぽたと汗が滴り落ちている。
 やはり調子が悪そうだと日下部が近付いた瞬間、目にも止まらぬ速さで左手を掴まれた。
「えっ」
 式神の黒い血まみれの手だ。それを両手で握りしめたまま、日車の体がずるずると崩れ落ちていく。日下部の手を掴む力は強く、汗に濡れていたが、氷のようで人肌らしい温度を感じられなかった。
「あ、ちょっと。おい」
 手を握られたままだったので、日車の動きに合わせてしゃがまざるを得ない。日車はコンクリートの上に膝をつき、徐々に背中を丸めて蹲ってしまう。
 日下部からは彼の後頭部しか見えなくなった。両肘をついて手を上げているので、日下部の指先を辛うじて掴んでいるといった様子である。日車は荒い呼吸を続けており、時折苦しげな呻き声も聞こえてきた。
……本当に大丈夫か」
「吐きそうだ」震え、上擦った声が言う。「何かに、意識を、向けていないと」
 呆れて返答に詰まる。本当に苦しそうではあったが、片手を塞がれたままでは何かと不便でもある。
「せめてコートとかにしてくれねえか」
 日下部の声に彼はぱっと両手を離し、地面の上をばたばたと這い回った末に、コートの裾を探り当てた。ぐいと引っ張られて体勢を崩しかける。
 日車の指は、日下部の手に触れたせいで黒く汚れていた。コートだって呪霊の血で汚れているだろうに、指先が白くなるほど強く握りしめている。
 彼に悟られないよう、密かに息をつく。……いつの間にか空は藍色に染まっていた。日が沈み、辺りは暗くなり始めている。どっと疲れが押し寄せてきた。今度こそは補助監督に迎えの車を回してもらおうと、日下部は日車の後頭部を見下ろしたまま、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。