わからん
2025-01-19 21:38:02
23130文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】The Protagonist

本編からn年後に日車をジュ術師として迎えに行ったらめちゃくちゃギスって胃が痛くなってる日下部の篤寛(くさひぐ)未満です
※色々間違ってる・捏造だらけ




「最後に何か、言っておきたいことはありますか」
 裁判長の声に、日車寛見は俯いていた顔を正面へと向けた。
 弁論を終えた弁護人が着席した直後だった。背後で椅子を引き、座り直している音が法廷内に大きく響き渡る。彼が短く咳払いをした。咳によってずれたマスクを整え、書類をまとめて角を整えている。ペンで何事かを書きつける音、キーボードを叩く音——これは弁護人ではなく、書記官が立てた音だ。今の弁論を記録しているのだろう。そして、これから自分が話すことも。
 それなりに注目される裁判だろうと思っていたが、傍聴席には誰もいない。
 日車は空の証言台をぼんやりと眺めた。ここに自分がいることが、夢のようだった。
「被告人」
 両脇を固めていた刑務官のうち、右側の男が身動いで肘がぶつかった。彼に催促された訳ではない。しかし、その微細な刺激をきっかけに、日車の意識は現実へ引き戻されたのだった。
 刑事裁判の公判x回目。被告人に判決が下される最終日だ。裁判は最終陳述へ移っていた。裁判長、そして裁判官に何事かを訴えるなら、ここが最後のチャンスとなる。無論、最終陳述によって判決が覆されることはそうそう無いだろうが、良い心象を与えるためには最後まで誠実な態度でいるべきだ。……量刑を少しでも軽くしたいならば。
……ありません」
 しばらく声を発していなかったせいか声が掠れた。弁護人がしたように軽く咳払いをし、意味もなく首元のネクタイを整えて、視線を証言台から裁判長へ向ける。
 日車の人生を決定付ける——自分に刑を言い渡す者の顔を記憶に刻み付けたいのに、裁判長の顔には逆光のような濃い影が落ち、黒く塗り潰されて見えなかった。裁判官もだ。法廷は人工的な明かりに照らされているが、皆一様に黒く、暗い。
「ありません」
 自分が息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。
「私が犯した罪は決して許されることではありません。その事実を重く受け止め——
 言葉以上に空虚なものなど無いと思う。
 口先だけの約束や嘘など、いくらでも生み出すことができる。たとえ嘘偽りの無い本音であったとしても、心の内のすべてを語り尽くすことなど可能なのだろうか? そして、いくら語ったところで、本人が意図した通りにありのまま伝わっているとは限らない。ましてや殺人鬼の言葉など。
 これは茶番だ。自分を犯罪者として晒し上げるための、自己満足による一人芝居でしかない。
 自身への強烈な嫌悪感とともに日車が抱いたのは既視感だった。自分はどこか、同じような場所で、同じようなことを、一度述べたことがある。
……一切の異論無く、判決を受け入れます」
 裁判長が頷く。一拍置き、それから口を開いた。
「被告人に判決を言い渡す」
 永遠かと思われる静寂。両肩に重くのし掛かる沈黙、呼吸と心臓の音。
————
 裁判長の宣告を最後に、法廷は静寂が保たれている。誰も動こうとしない。裁判官も、弁護人も、検察官も。
 時が止まったように。
 ただ一人、日車だけが動いた。彼は周囲を見回し、裁判官のみならず、この場にいる全員の顔が黒く塗り潰されて見えないことを確認した。否、見えない、ではない。覚えていないのだ。
……ああ)
 彼はぎこちない動きで立ち上がり、茫然と目の前の証言台を見下ろした。
(これは、夢だ)
 自覚すれば思い出すのは容易だった。
 これは数年前の記憶を再現した夢に過ぎない。日車は刑事裁判にかけられ、死刑を宣告された。判決が決まればその後の手続きは極めて迅速だ。手錠をかけられ髪を剃られ、あっという間に監獄での生活が始まった。
 独房で何をして時を過ごしていたかは、ほとんど覚えていない。
 車両に乗せられて別の刑務所へ移動したのは確か、数ヶ月前だったか。予告もなく行われたそれが何を意味するのか知っていたが、実感はあまり湧いてこなかった。
 食べたいものはあるかと、そこで初めて質問された。
 何でもいいと言った記憶があるが、半ば強引に促されてラーメンと答えた。なぜそう答えたかは自分でもわからない。弁護士をしていた頃は、昼や夜の食事をインスタントで終わらせていたことが多かったし、単純に濃いものが恋しかったのかもしれない。
 だから、それが出されたときに、今日なのだと悟った。
 全部は食べきれなかった——神は信じていなかったが教誨室で祈りを捧げた。親族に向けて短い遺書を書き、それで、最後に与えられた時間が、終わった。
 布で覆われた視界と喉に当たる縄の感触、日車の足を拘束し終えた刑務官たちが部屋を出ていく足音を、はっきりと覚えている。
 ここは死後の世界ということになる。あるいは、死んだ己の意識が見る幻か。いずれにせよ皮肉なことだった。死してもなお、裁かれてもなお、自分はまだ、極刑をもう一度受けたいと望んでいるらしい。
 喉の奥から笑いが込み上げた。証言台の柵を掴み、その場に崩れ落ちて、抑えきれない哄笑が法廷中に響き渡る。彼の行動を諫める者は誰もいなかった。ここは自分が生み出した幻に過ぎなかった。
 床の上に座り込み、両手で顔を覆ってうずくまる。
 死後であっても罪の意識に囚われていることに絶望しているのか、裁かれて死ねたことに安堵しているのか。
 笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからない。

 彼が息を吹き返したのはまさにその瞬間だった。
 唇からついて出た大声に驚き、ぴたりと呼吸を止める。息を止めると苦しい。耐えきれずに鼻から漏れ出た呼気は白く、周囲はとても寒かった。軋みながらも体は動く。凝り固まった筋肉が収縮し、脳が自身の体を認識していく感覚。
 耳元で鼓動が聞こえた。
 首に手をやると、鈍い痛みとわずかに凹んだ皮膚の感触を覚える。
 ——視界に広がる灰色の壁と天井によって、自分は死に損なったのだと、はっきりと悟った。
 夢の中でそうしたように、両手を顔の上に持っていき、息を吸う。
 喉の奥から引きつった笑い声が漏れた。
 日車は安置台の上で身を捩り、声を押し殺して笑い続けていた。



 には十時間以上の死だったという。
 それ以上の事実は知らされていない。目覚めたので移動させたという連絡を受けて、日下部篤也は東京から地方の病院へと車を走らせている。
 十時間以上の死。それが彼の体と心にどんな影響を及ぼすか、日下部にはわからない。
 何も及ぼしていないかもしれない。だが、その間に何が起きたのか、それらの一切を誰が仕組んだかは、知っている。
 病院の中は見舞いに来た人々で混雑している。面会時間はごく短時間に限られているゆえに、平日でもひどく混み合っていた。
 書類をもらいにカウンターへ向かい、無意識に腰へ手をやった左手が空を切る。ひっそりとため息が漏れた。……刀は車の中へ置いてきたが、それは果たして正解だったか? 攻撃はされないだろうと踏んでいたが、それは最後に会ったときの印象から判断したに過ぎない。拘置所で、刑務所で、——刑場で経験した出来事が、彼の人格にどのような影響を及ぼしているか、予測は不可能だった。とはいえ、竹刀袋を見た看護師が、日下部の面会を許可するかどうかという観点から考えるならば、自分の判断は正解だろう。
 面会受付の用紙を見下ろし、日下部は手に持ったペンを意味もなく指の間で回転させていたが、やがて腰を屈めて必要事項を書き始める。
『日車——
 間違えたと気付いて二重線を引いたが、新たに名前を書くためのスペースが足りなかった。無用となった紙を丸め、新しい用紙を取りに行く。……
 病室の前で右往左往し、周囲の人々の注目を集めるのはあまり良くない戦略だ。深呼吸を一回。扉をノックし、返事を待たずに横へ引く。乱れたベッドの上はもぬけの殻で、足を中心として全身から力が抜けたような感覚に陥る。
 近くにナースステーションがあったので彼の居場所を尋ねてみる。受付にいた老齢の看護師はまた消えたのねと独りごち、同じ階のレクリエーションルームにいるだろうと教えてくれた。
「また?」
「病室にいてくださいねって時間に限って、よくいないんです」そんなのは日常茶飯事で慣れていますけどね、というように看護師が素っ気なく答えて日下部を見上げた。「お兄さん。時間があればでいいので、ちょっと言ってやってください。こっちが言ってもいっこうに聞かないものですから」
「いいですよ。あいつの家族ではないですけど」
「あら。じゃあ、ご友人? お顔がよく似ているから」
「おっさんなんてどれも似た顔でしょ」
 礼を告げて立ち去る。看護師の笑い声が背後から響き、その声の大きさといえば、角を曲がっても微かに聞こえてきたほどだった。
 レクリエーションルームに差し掛かった途端、眩しさに目を細める。廊下から地続きに続いている広いスペース。カウンターとテーブル席が並び、入院患者が面会に来た家族たちと和やかに談笑している。全体的には空席が多い。奥の大きな窓から陽光が差し込んでおり、日下部の横を通り抜けてレクリエーションルームに入った清掃スタッフがまっすぐ窓に向かい、ブラインドを下ろした。外の景色が見えなくなった窓の近くにぼうっと立っていた病衣姿の男が、ふらりと背後を振り返った。
 目が合う。日下部の姿を認めても反応の一つも寄越さない。薄い唇は引き結ばれたまま、黒く小さな瞳もじっと日下部を見つめたまま、逸らすことも、動揺や怒りに揺れ動くこともない。
 痩せたか、と思う。無理もない。彼は閉じ込められていた身だ。
 額の上で短く切り揃えられた髪が新鮮に映る。
 数秒の沈黙ののち、日下部はコートのポケットから右手を出し、緩く左右に振った。
「どうも。お久しぶりです、日車さん」

「総監部が一枚噛んでいるのはとうの昔に気付いていた」
 再会の反応が薄いことを口にした日下部に対し、日車は淡々と答えた。「執行にまで干渉してきたのは想定外だったが」
「でしょうね。本来はあそこまで長く仮死状態が続かないはずなんですがね、上はあんたのことを面白がって『ロミオ』って呼んでます」
「ロミオ」と日車は気怠げに日下部の言葉を繰り返す。
「そう。……そういやさっき看護師さんと話したけど、大事な時間に限って病室を抜け出してるって嘆いてましたよ。あまり困らせないでやってください」
 うん、ともううん、とも判別し難い曖昧な返事を寄越した日車は視線を落とし、手首に巻かれたテープをいじっている。入院患者を管理し、識別するためのものだ。
 窓際のテーブル席に腰掛けたものの、テーブルは小さく、椅子の足は低い。日車は器用に体を丸めて座っているが、日下部にとっては耐え難い窮屈さで、体半分を通路へ投げ出して足を組む。遠くで清掃スタッフが自動販売機の隣の屑籠からごみを回収していた。
「連れ戻しに来たのか」
 自動販売機から日車へと視線を戻す。依然として手首のテープをいじっていた。
……まあ」
「君自身の考えか」
「いいや。の意向で」
「失敗することを知っていたのか」
「刑が執行された日の夜に」
 再び黙り込んだ。日下部は体を正面へ戻し、頬杖をついて日車と一緒に手首のテープを見下ろす。
「あんたもご存じだろうが、うちは慢性的に人手が足りてない」
 ああ、と日車は小さな声で相槌を打った。
「五条に次ぐ実力者だったお前に頼みたいことが山ほどあったってのに、勝手に姿を消したと思ったらやれ自分は殺人犯だの、自首してやるだのときた。いくら不起訴にしても懲りずに訴えてきやがる。そんな有様だから一度くらいは本人の好きにしてやろうって、上は折れてやったそうだ。……満足したか、日車」
 日車からの返事は無い。かさかさとテープの先端が揺れている。
「あれから何年経った? 長い年月だったよな。檻の中で充分に反省できる長さだっただろ。疑似的にだが死刑も経験した今、心残りは——
「らしくないな」
 日下部、と日車が言葉を遮った。テープを弄る手がぴたりと止まり、テーブルの上で両手の指を組む。
「今の恫喝は総監部の入れ知恵だな。君の言葉じゃない」
 尋問を受けている気分だった。沈黙ののち、溜息をついてずるずると椅子に深く腰掛ける。なんだ、と思った。心のどこかで、すっかり牙が抜けたと侮っていた。……なんだ。昔みたいに、はっきりとものを言えるじゃないか。
「だったら何だよ」
「君を遣わした連中の意図は?」
 口の中が空っぽであることが無性に気になった。煙草かキャンディの存在が恋しい——沈黙で返すと、日車がすかさず口を開く。
「総監部は呪術師としての俺を喉から手が出るほど欲しがっているが、同時に強く警戒してもいる。交渉を持ちかけるつもりなのは最初だけだろう。最終的には俺を脅し、それでも頷かないのなら力ずくで連れて帰る。君が適任だ。交渉は致命的に下手だが、力技を行使するのなら」
 ぐうの音も出ない。日車の言う通りだった。彼が言葉で動くとは総監部も、日下部自身も思っていない。どんな手段を使ってでも連れてこいと言われている。呪具で拘束してでも、彼が頷くまで拷問してでも、四肢を切断してでも——最後のはさすがに冗談だろうと笑い飛ばしたが、冗談で済むかどうかは日車の態度にかかっている。そして、今の彼は梃子でも病院から動かないだろうと、日下部の頭は直感的な結論を導き出していた。
「なあ、日下部」
 日車の手が動き、組んだ指を顎の下に据える。日下部の視線も手の動きを追い、日車の顎から唇へ移った。乾燥して荒れ、下唇のところどころに切れて血が滲んだ痕があった。血色の悪い頰、特徴的な形をした彫りの深い鼻、黒く丸い目。青白い目蓋を伏せ、日車はブラインドの隙間から窓の外を眺めている。
「俺は死人だ。君たちの妨害によって死に損なった、生ける屍だ」
 骨張った指の隙間から白い歯と赤い舌が覗く。息を吸う。筋肉の削げた薄い胸が膨らむ。……凍てついたように動かなかった彼の目尻が、微かに震えた。
「そのことで君たちを恨んではいない、俺はこうなるしかなかったのだろう。だが、俺が呪術師になることだけは、断固として拒否する」
 笑っている。口角を持ち上げ、友人と談笑しているかのようにだ。しかし、日下部の背筋には裏腹に悪寒が走った。
「一度死んでしまった人間は何者にも成れないから——
 ——なぜ笑っている?
……日車」
 声をかけるより早く、日車が立ち上がった。すぐ近くを通りかかっていた清掃スタッフがこちらに視線を寄越し、邪魔にならないよう足早に通り過ぎる。
「明後日の昼前には退院する予定だ」
 さすがの総監部も医者の頭までは操れなかったか、と日下部を見下ろす彼の顔からは笑みが消えていた。
「退院後の予定は決めていないが、君も忙しいだろう。俺を連れ戻したいのならそれまでに説得してくれ」
 早口で告げるや否や、踵を返して立ち去っていく。彼が角を曲がり、姿が見えなくなったところで、日下部はようやく我に返った。日車の言葉を思い返し、胸の内で反芻しているうちに、胃が鈍い痛みを訴え始める。日下部はテーブルに両肘をついて頭を抱え、深々と息を吐き出した。

 変わっていない、というのが日車に対する第一印象だった。
 体の筋肉が落ちて頰の肉が削げ、年相応に老けたこと以外に何も変わっていない。そして、自分が犯した罪に、今も正面から向き合い続けていることも。
 面会した日の夜に総監部へ連絡を入れると、相手は一言、できるか、とだけ言った。お前はできるか。戯れで口にしたあれを、行動に移す覚悟が、あるか。
 厭な言葉だった。こっちを見下し、自分の手駒としか思っていない。確か、五条の分家出身だったか。本家の主がいなくなってからしか大きな顔をできない臆病者だ。そのくせ常に人を疑い、考え方も古くて固く、人を支配することしか考えていないらしい。
 相手に対する警戒心も手伝い、いつもの悪い癖で曖昧に誤魔化しながら通話を終了させる。……ただ、これだけは言えますけどね。電話を切る直前、日下部はビジネスホテルのベッドに仰向けで倒れ込み、部屋の天井を眺めながら言った。これだけは言わせてもらいますけど、拷問したところで、あいつの心が少しでも呪術師へ向いていなければ、する意味はこれっぽっちも無いですからね。そんなのはただのひとり遊びだ……
 電源を落とした携帯を毛布の上へと放り投げる。髪をぐしゃぐしゃにかき乱しながら、今日で何度目かわからない溜息を繰り返した。
 総監部から振られた仕事をどう完遂すべきかまるでわからなかった。しばらくの間、髪を乱す手をぴたりと止めて考え込んでいたが、やがてばねのように上半身を勢いよく起こす。部屋の中を歩き回り、端末を手に扉を閉めて出ていった。

「食い物で釣る作戦か」
 目の前に突き出されたコンビニのビニール袋を見た日車が言う。「残念ながら君の作戦は失敗しそうだ」
「どうとでも」スツールに腰掛け、日車の腹の上に袋を放り投げながら日下部は答えた。「ろくにメシ食えてないでしょ。食いたいやつを適当に取ってください」
「なぜわかったんだ」
「それだけやつれていれば」
 ベッドの上で上体を起こした日車は自身の頰や顎を撫で回している。その間に日下部はビニール袋の中へ手を突っ込み、栄養剤を取り出した。彼に続いて日車の指が袋の端を摘み、中身を覗き込んだ。
「食えるのありますか」
 袋から引っ込めた日車の手には、アイスとプラスチック製のスプーンが握られていた。
「欲を言えば果物を食べたいところだが」
「下に売店があったな。買ってきますか」
「いい。明日になれば自分で買いに行ける」
「そいつは無理な話でしょう。退院するときの付き添いは俺だから」
 返事は無かった。日車は蓋を開け、アイスを黙々と口に運んでいる。彼の様子を観察しながら栄養剤の蓋を捻って中身を飲んだ。独特な苦味が舌の上に広がり顔をしかめる。
……つくづく意地が悪いな」
「俺も昨日連絡をもらったばかりでね。医者の頭はさすがに操れなかったが、その辺の根回しは抜かりない連中だ」
 時刻は夕暮れに差し掛かり、日車の頰に当たる陽光がわずかに赤みを帯びていた。目尻には睫毛の淡い影が落ちている。
「君も大変そうだ」
……何が」
「あまり眠れていないだろう」
 昨日の剣呑な雰囲気を思えば意外な指摘だった。日車の言葉に唸りながら眉間を揉む。
「やっぱり、わかります?」
「それだけ濃い隈が出ていれば」一瞬、彼は顔を上げて日下部の顔を見たが、すぐに視線を落とした。「君も人のことを言えないな。栄養剤ばかり飲んでいるといつか倒れるぞ」
「あんたがこっちに来てくれたら、俺も多少は眠れるはずなんですけどね」
「それは君の言葉か」
「割とマジな本音」
「そうか。気持ちだけ受け取っておく」
 相変わらずつれねえな、という嫌味は無視された。彼の言う通り、確かに寝不足ではあった。頭と目蓋が重いように感じられて足元に視線を落とす。
「日下部」
「なに……うおっ」
 顔を上げると同時に、投げ渡された袋を受け止める。日車の膝の上に投げ出していたコンビニの袋だ。中身は未だ重く、それなりの量が残っていた。
「残りは君が食え」アイスを食べながら日車が言った。「食欲が無いから食べきれない」
「俺も要らねえよこんなに……あんたの好みがわからなかったんですよ。食えないなら置いていくし」
「全部持ち帰ってくれ、甘いのは苦手だ。……出なくていいのか」
 スーツのポケットに突っ込んだスマートフォンが震えている。画面を見た日下部はため息をつきながら応答を拒否した。総監部の例の老人——おおかた、進捗でも聞き出したいのだろう。それにしては随分と電話の間隔が短い。病室にいることを知られれば日車と直接話したいと言い出しかねないので、無視が正解だ。切った直後から再び端末が震え始める。
「出たほうがいい」
「出たら最後、あんたとの面会時間が全部潰れるんだよ」
 ああ、と合点がいったような相槌を打たれた。「総監部か。俺の催促だな」
「そういうこと。しつこいんだよな、こっちはこっちで苦労してるってのに」
「本当に忙しそうだな。仕事はどうだ」
 日車が持つ抹茶味のアイスは半分ほどまで減っている。紙のカップを両手で包み、日車が日下部を見つめていた——否、そう見えるだけだった。日車とは目が合わない。日下部の顔を見ているようでその実、微妙に視線がずれている。彼のそうした態度につられるように、日下部の視線も日車の顔からずれ、毛布の下にある彼の足へと向けられた。
 日車はなぜか、昨日よりも友好的な態度を取っている。理由は知らないが好都合だ。このまま世間話を続けて、彼の警戒心を解くべきだろう。
……どうもこうも、今が人生の中で一番忙しい。授業に加えて学長の代理に任命されちまったし、シン・陰流に流れついてくる連中の面倒も見なきゃならない。おまけに繁忙期並みに呪霊が湧いて出てくるわで、いつになったら落ち着いてくれるのやら」
「道理で俺よりもやつれているわけだ」
「そこまで酷くはねえだろ」言い過ぎたかと思う。「そっちこそ、何してたんだ。ここに来る前は」
 ——病院に来る前は刑務所にいたのだ、と気付いたのは発言し終えてからだった。
 一瞬、目が合ったと思ったが反射的に逸らされた。記憶を探っているのか、日車はアイスを見下ろしながら瞬きを繰り返す。日車の右手が自身の首を撫で、指の下からは赤黒く変色した皮膚が見えた。
……痛むのか」
「いいや」首を一周する痣を指先でなぞりながら日車は首を振った。「本来ならとっくに治っている。おそらくは呪具の縛りだろう。死を回避する代わりに原因となった傷痕を残している」
「羂索の術式みてえな縛りだな」
「ああ。反転で治せなくもないが、これが消えた瞬間に、俺は死んでしまう気がする」
 死ぬ、という言葉を聞き流しかけた。咄嗟に黙り込んでしまい、茶化す瞬間を逃してしまう。
「呪具は使用済みだ。あれは対象の相手を仮死状態にするだけのブツで、お前が呪具に生かされているわけじゃないだろ」
「変わった気がする」
「何が」
「俺は以前までの俺じゃない」
 何かが変わった。そう呟いた日車は、昨日のように窓の外を眺めている。
「ただの杞憂だ」
「君はそう思うか」
 ふっと微かに笑う気配がした。「目覚めたときから奇妙な感覚があるんだ。自分のことを体の外から俯瞰しているような——自分の体なのに、自分の体ではない気がする」
「十時間近く体の機能が止まっていたらそうも思うでしょうよ」
「頑固だな。まあ、いいだろう。誰かに理解してほしい感覚ではない」
「じゃあ何だ、自分は墓の下から這い出たゾンビだとでも言いたいのか」
 日下部の言葉に彼は数秒間固まり、ぎこちない動作で首を縦に振った。
「君の言う通りかもしれないな。自我が戻ってきても、これが自分の体だと思えない」
 失言だったと気付いたのは、正面へ顔を戻した日車の目を見た瞬間だった。彼の顔は普段より青白いように見えた。
 永遠かと思われた沈黙ののちに日車が身動いだ。先ほどまでの会話が無かったように食事を再開している。
 汗で湿った手のひらをコートの表面でそっと拭いながら、しくった、と日下部は思った。やはり交渉事は自分に向いていない、何を言っても墓穴を掘るだけだ。次々と思い浮かんでいた弁解の言葉を飲み込んで右手に視線を落とす。端末を弄り、機械的にスプーンを口元へ運び続ける日車に画面を突き付けた。
「食事中に悪いけど、俺一人じゃあんたを説得できないので、スペシャルゲストをお呼びしたいと思います」
「ゲスト?」
 日車の言葉を無視して通話履歴を開く。昨晩の履歴から目当ての名前をタップし、日車に突き出した。コール音が鳴り響く。画面に浮かぶ名前を見た途端、日車が目を見開いて固まった。
「ほら。持てよ」
……拒否す、」
「拒否権はねえぞ日車。……お前が一番わかってるだろ」
 コール音が途切れ、スピーカーがざらざらとした音声を発する。
『もしもーし。日下部先生』
 日車の肩がびくりと跳ねた。
「おー。昨日は悪いな、遅い時間に電話して」
『大丈夫っす。日車は?』
「目の前でびっくりして固まってる。昨日話した通りだが、こいつの説得、頼んだからな」
 笑い声が聞こえ、了解っす、と明るい声で返事があった。観念して端末を掴んだ日車の手は小刻みに震え、日下部の手を掠めた指先は氷のように冷たい。青白い顔色のまま、日車は端末を耳に押し当てる。眉間に皺が寄った。苦痛を堪えるように顔を歪め、背中を丸めて片手で顔を覆ってしまう。
「虎杖——
 消え入りそうな声だった。日下部は部屋を後にし、レクリエーションルームに向かった。
 二十分ほど時間を潰してから病室へ戻る。自販機で買ったコーヒー缶を片手に扉を開け、半歩ほど室内へ踏み出した姿勢のまま動きを止めた。
 頬にガベルの面を押し当てられている。
……コーヒー、飲みます?」
 返事は無かった。顔を見ようと首を動かしかけた途端、さらに強い力でガベルを押し付けられて反対側の天井を仰ぎ見る。やれやれと苦笑する他にない。
「虎杖と話すのがそんなに嫌だったか」
「刀はどうした。日下部」
 ごり、と頰にガベルの縁がめり込む。「呪詛師候補に会いに来たのに素手か。置いてきたのか」
「ご冗談。持ってたら面会に来れないでしょうが。もっとも、刀なんて無くても今のひょろっちいあんたなら秒で制圧できる」
 何なら試しますか、と挑発する前にガベルが消える。固い表情をした日車が日下部の横を通り過ぎ、ベッドを回り込んで窓際で立ち止まった。日下部が座っていたスツールの上に端末が置かれている。
「わざわざ彼を呼ばなくても、」
 端末に伸ばしかけた手をびくりと震わせる。日下部が思わず驚いてしまうほど、日車の声は大きかった。彼を見遣るが、窓の外を眺めており顔が見えない。日車は肩を大きく上下させ、先ほどよりも幾分か落ち着いた様子で息を吸った。
「君は明日、俺を呪術高専に連れて帰るだろう。なぜだ」
……連れ帰る前に頷いてほしいだけですよ」
 スツールに腰掛け、コーヒー缶を枕元に置いてやる。飲むかは知らないが、飲まなかったら捨てるだけだろう。
「連れ帰ったところで当の本人にやる気が無かったら元も子もないでしょ。虎杖も話したいって言ってたし、良い機会だと思って」
 日車は黙り込んだ。荒い呼気が聞こえた。彼の背中を見つめながら自然、日下部の体も強張る。今の日車の精神状態は不安定だ。長い間警戒していたが、日車が動く気配は無い。やがて、出ていってくれ、と掠れた声で沈黙を破った。
「今は誰とも話したくない。一人にさせてくれ」
 大人しく席を立つ。コンビニの袋を拾い上げて部屋を出ていく直前、窓際で立ち尽くす背中に声を投げかける。
「明日の返事、期待してますから」
 は、と笑い飛ばしたのが聞こえた。肩越しに振り返ってこちらを見る日車の唇は笑っていた。だが、昨日と同じだ——瞳はちっとも笑っていない。激情を抑えるように口の端が震えていた。
 日車は激怒していた。
 他の誰でもない、日下部に対して。
「明日は刀を忘れるなよ。日下部」表情に反して、日車の声はぞっとするほど穏やかだった。「上からの命令を忠実にこなしたいのなら、俺の手足を切り落としてでも連れていくんだな」

『それは先生が悪い』
 屈託のない虎杖の指摘に、日下部は指先でハンドルを叩きながら顔をしかめた。
 図星だった。
「お前の話を聞けば折れると思ったんだがなあ……。何が悪かったんだか」
『脅しすぎ。押しが強すぎ。こっちの事情をまともに話してないし、日車の事情も聞いてない。そもそも説得が下手そう。あと——
「俺の悪口を言えと伝えたつもりはないぞ虎杖。日車とは何を話した? 呪術師をやりたくないとか、高専がどうとか、何か言ってなかったか」
 空は灰色の雲に覆われ、フロントガラスにぽつぽつと雨粒が落ちてきていた。本格的に降り出しそうな気配だなと思っていると、信号が赤から青に変わる。車を走らせている間も虎杖からの返事は無い。ホテルの立体駐車場へ到着し、エンジンを切ると同時に、あっという声が端末のスピーカーから上がった。
『高専ってか、日下部先生についてはけっこう話してたけど』
「はあ——俺?」
『ちゃんと休みは取れてるか、取らせてるのかーって。あ、「隈が濃くて驚いたぞ」とか』
「あの野郎、俺よりも自分の心配をしろって……。あと死ぬほど似てないから二度と声真似すんなよ。あいつ自身については?」
『それが、いくら話を向けても逸らされちゃって、あまり聞き出せなかったんすよね』
 車内灯を点け、助手席の鞄からイヤホンのケースとノートパソコンを取り出す。メールボックスを開いて思わず舌打ちが出かけた。半日開いていなかっただけで未読メールが山のように溜まっている。……呪術高専東京校学長代理日下部様、日下部一級術師、シン・陰流当主日下部様——
 頭が痛え、と独りごちて眉間を揉む。「五条を思い出すわ、いやそれよりも酷いか……
『何か言いました?』
……独り言だ。思い出したか」
『えーっと……他は俺自身のことを聞かれて、報告できるのが嬉しくて、ずっと俺が語っちゃってたっていうか……
 未読メールを開きながら虎杖の言葉をゆっくりと咀嚼する。「——あほか」
『いやいやいやでも言いました! ちゃんと言いました、こっちに戻ってきてほしいって。俺は日車が生きてるだけでも嬉しいけど、一緒にいられたらもっと嬉しいし、心強いから!』
「それを聞いて向こうはブチギレてたんだけど」
『ええー、それは単に先生の交渉スキルが下手……あっ』
 スミマセン、とか細い声が片耳用のイヤホンから流れてきた。端末で音量を調整してからパソコンの画面をスクロールし、メールに優先順位をつけていく。
……誰の交渉がヘタクソだって」
『ウッ』
「素直でいいご身分だなあ、虎杖特級術師」
『ハイ。素直でスミマセン……
 露骨に落ち込んだ声に思わず笑みが浮かぶ。こういうところが昔から好ましい奴だった。時に真っ直ぐすぎて心配になることもあるが、それゆえの芯の強さはよく知っている。
「冗談だよ。お前はよくやった、後はこっちで何とか説得する。忙しいのに手間を取らせて悪かったな」
『日車は戻ってきますか』
 はっきりとした声で虎杖が尋ねてきた。
 嘘をつけ、と脳内で一人が囁く。否、本当のことを言うべきだ。確かに戻ってくるだろうが、お前の知っている日車であるとは限らない——
「ノーコメントで」
『ええーっ』
「色々と複雑な事情があるんだよ、切るぞ。お疲れさん」
『あ、先生に休んでほしいのは日車だけじゃなくて俺も割りかし本気で思ってるんで、』
 通話終了。
 メールへの返信を打ち始めて間も無く、助手席に放ったままの端末が震え出した。画面をちらりと盗み見て溜息が漏れる。手を止めてイヤホンの応答ボタンを押した。
「どうも。あのー、端的に言って無理です。反抗期のガキかってくらいに拒絶されてます」
 沈黙ののち、ぼそぼそと返事が聞こえたので音量を上げる。窓の外を車が通り過ぎた。日下部の隣に駐車しようと、車体が大きく脇へ逸れていく。
「いや、こっちを恨んでいるとかそういう話ではなくて……。あいつは死ぬつもりだったんですよ。それを止められて、しかもその犯人に俺たちのために戦ってくれって言われて、はい喜んでって頷くと本気で思ってます?」
 隣に停まった車のドアが開いて人が降りてくる。家族連れのようだ。運転席からは父が、助手席からは母が。後部座席からは男児が二人。いずれも小学校の中学年と低学年くらいの年齢だろう。今日は平日だから、学校を休んで旅行にでも来たらしい。車の後ろに回り込んだ父親がトランクケースを引っ張り出し、周囲を駆け回ろうとする子どもたちに厳しい声をかけている。
「昨日言いましたよね、心が呪術師に傾いていなければする意味が無い。拷問にかけると脅したところで、あいつはビビるどころか喜んで受けるでしょうよ。……そうですよ、まさに死にたがってる」
 こつん、と何かをぶつけられた音が聞こえて右側のサイドガラスに目を向ける。さっきの家族の弟と思われる子どもが、日下部のノートパソコンをじっと見つめていた。手で追い払う仕草をするが、子どもはにやにやと笑って離れようとしない。こつこつと小さな手でドアを叩き続ける。顔をしかめると子ども特有の甲高い声で楽しそうに笑った。興味津々な視線から逃れるように両手で顔を覆う。
……いや、それは……その場のノリで出た冗談だったでしょ。反転だって万能じゃない。あいつにはまだ首吊ったときの痕が残ってて、つまり本人に治そうって意思が無いと術式は回せな……いや、だから、……正気ですか。それであいつが術式を回すとは——あの、ちょっと落ち着、」
 相手の話し声がにわかに大きくなる。まるで嵐のようだ。断片的に拾えるのはこちらを口汚く罵る言葉ばかりで、こつこつと外から窓を叩かれる音も止まらない。耳鳴りがしてきた。ひっそりと口から息を吐きながら俯き、目元を覆った指の隙間から見えたパソコンの画面が新たな通知を知らせる。新規メールが一件。日下部様。ご相談。至急の案件、折り返し連絡を……
 イヤホンを耳から外し、真横の窓ガラスへ叩きつけると同時に悲鳴が鼓膜をつんざいた。窓を叩いていた子どもが泣き叫びながら一目散に逃げていく。駐車場の出口の近くに家族が立っており、泣きつかれた母親が困ったように背中を撫でてあやしている。名前を呼んでも姿を現さなかったことに怒るべきか、泣いているので慰めるべきか決めかねているようだ。見かねた父親が子どもを抱き上げ、足早に駐車場を去っていった。
 知らず詰めていた息を吐き出し、ハンドルに両腕と顔を押し付けて唸る。深呼吸。もう少し落ち着いてから車を降りることにする。

 奴は駒だと総監部の老人が言った。一般家庭出身の、呪術のじゅの字も知らない、呪詛師に堕ちかけた下賤な駒。だが使える駒だ、貴様は奴を我々の手先として使えるようにしろ。この件は儂に一任されているゆえ、儂が直々に赴いて、奴に薫陶を授けてやっても構わない。
 尋問でも拷問でもあらゆる手段を使え。
 ——しかしそれは、犯した罪と向き合い、罰を受け入れた彼の、尊厳を踏みにじってまで。
 
 ぎくりと手足が引きつった衝撃で起きた。
 強制的に目覚めさせられた頭が痛い。ぱらぱらと外で雨が降っている音が聞こえた。電気が点いたままの天井を眺め、眩しさに目を細めて手のひらをかざす。
 次第に意識が覚醒し、スマートフォンを引っ掴んで時刻を確かめる。午前三時半。大声で悪態をつき、整髪剤を落としていない髪の毛を乱雑にかき回す。
 最悪だ、寝落ちした。仕事は山ほど溜まっているし、明日——今日の昼、日車を迎えに行ったあとも何をどうすべきか、全く計画を立てていなかった。おそらく、否確実に、彼は日下部についてこないだろう。最後の態度からして到底あり得ない。とはいえ彼を連れ帰ることは総監部の命令であり、日下部としても背く気は無かった。問題なのは手段だ。今後のためにもできる限り穏便に、波風を立てずに済ませたいところだが。
 ベッドから降りて壁際のテーブルへ向かう。ノートパソコンの電源を入れると、真っ白な画面が日下部の顔を明るく照らした。メールや書類を確認している間にも、仄暗い疑問が頭の中をついて回る。
 本人が何を考えているのか、呪術師に対してどのような思いを抱いているのか、こちらに有利な手札は何ひとつとして無いのだ。
 ならば残された手段は一つだ。正面切って聞くしかない。呪術師になりたいのか、なりたくないのか、だとしたらそれは何故なのか。
 ——日車寛見とはどのような人物だったか?
 ここ二日間で思い出せるのは、日下部と決して目を合わせまいと視線を逸らし続ける黒い瞳と、こちらを戦慄させた虚ろな笑みばかりだ。
 何年も前に会った彼はどのような印象を受けただろう。よく、思い出せない。あの頃は両面宿儺を倒し、羂索の企みを阻止することに誰もが必死だった。自分もそうだ。そんな中で一人の、それも初対面である呪術師の人となりに意識を向けるなど、できたはずがない。生きるために、確実に勝つために、日下部は彼の戦闘技術と術式ばかりを気にしていた。
 ……ああ、だが、そういえば。
 集団でいるのを嫌って一人で過ごしているのをよく見かけた。彼はひどく陰気な、思い詰めた表情を、いつも浮かべていた気がする。
 何かに耐えているように。自分の中の何かに、怯えているように。

 やっぱりお兄さんだったじゃないですか、とナースステーションの看護師に開口一番に言われ、驚いて立ち止まる。
「何がですか」
「家族じゃないってこの前言ってたでしょう。そちらの事情に首を突っ込む気は無いですけど、親族の方に嘘をつかれるのは困ります」
 厳しい口調だったが説教ではなかったらしい。看護師はカウンターから出てくると、お迎えですよね、案内しますと日下部に告げて先に歩き始めた。
 退院時の付き添い人は家族であったほうが余計な詮索をされずに済む。ゆえに総監部による手回しで、日車と日下部は兄弟であると病院に伝えていたのだろう。
 病室の前に着く。扉を引いてすぐに看護師が呆れた声を上げた。
「また消えた」
 看護師の肩越しに部屋を覗き込んだ日下部もまた、室内に日車の姿が無いことを認める。既視感を覚える光景だった。どうせレクリエーションルームにいるだろうと、足を向けかけてはたと立ち止まる。
「ちょっと失礼」
 病室の中に足を踏み入れ、窓際のベッドに近付いた。ベッドの周囲を観察して腕を組む。左肩に背負った竹刀袋の中身がかたりと音を立てた。
 残穢だ。
……あいつは俺のほうで探しときます」
「え? お兄さんちょっと、」
「弟が迷惑かけてすいません」
 看護師の静止を振り切って廊下へ飛び出す。一度気付けば残穢は簡単に見つけることができた。階段に差し掛かり、数段飛ばしで駆け上る。立ち入り禁止である屋上へ続く扉は鍵が壊れていた。壊されていたと言うべきか。ハンマーのような鈍器で、ドアノブごと粉々に叩き割られていた。
 今朝ようやく止んだ雨によって、コンクリートは所々が濡れたままで、一部には浅い水溜りもできていた。
 日車は屋上の縁に腰掛けていた。こちらに背を向け、両足を宙へ投げ出している。
 彼の前には青空と、パノラマのような街並みが広がっている。病衣からスーツに着替えた後ろ姿は、ふとした瞬間に壁を蹴り、宙へ躍り出てしまいそうな危うさを覚えた。
「残穢を残したのはわざとか」
 声をかけると日車は片膝を立て、上半身を捻って背後の日下部を振り返った。相変わらず、何を考えているのかわからない無表情のままでいる。
……来たか」
「そりゃあ仕事だからな。とりあえず、こっち側に下りてくれませんかね」
 予想通り返事は無かった。顔半分だけを見せた日車の黒い瞳は宙を彷徨い、眼下に広がる景色のどこか一点へと定まってしまう。近付くべきか、一定の距離を保つべきか。彼の挙動に集中する日下部自身も決めあぐねている。
……あの、無言じゃなくて。何か答えてほしいんですけど」
 何か、と呟いたらしい日車が顎に手を当てる。背中が丸まった。「ああ、そうだ日下部。俺はゾンビじゃなかったらしい」
「あ?」
 脈絡のない切り出しに面食らう。「今何つった。ゾンビ?」
「昨日、君が俺のことをそう言っていただろう」顎を撫でながら日車はさらに俯いた。「君が帰った後に首の痣を治してみたんだが、何も起きなかった。あれはただの傷痕だったというわけだ。予想が外れたな」
「ああ、そう……
 ——昨日の反抗的な態度はどこへ行った?
 拍子抜けだった。今の状況に対する説明や、呪術師になるかどうかの回答が欲しかった——肩から落ちかけていた竹刀袋を背負い直し、コートのポケットに手を突っ込んで日車を見つめる。日車は顎に指先を当てたまま足元を見ていたが、視線を感じたのか顔を上げる。やはり目は合わない。
——日車」
 日車の手が口元を隠すように動く。「何だ。日下部」
「答えを聞かせてくれ」
……今更だな。どちらにしても結果は変わらないだろう」
 君は俺を呪術高専へ連れて行く。平坦な声で答えた日車の瞳が細められた。
「総監部はどうだ。俺が戻ってくることを喜んでいたか」
「そういう意味じゃ……。ああ、クソッ」
 一呼吸置き、伝えるべき言葉が思い浮かばないことに悪態をつく。寝不足だ——何度目かわからない同じ言い訳を並べるのも、そろそろやめるべきだ。眠いのは事実だが、それだけが原因ではない。恐れているのだ。自分は踏み込むことに躊躇っている。一線を引き、距離を保ちながら互いの領域に引きこもるのは気が楽だ。しかし、それだけでは駄目だった。特に日車のような、領域を定めるだけでは満足できずに、逃げ出すような人物が相手では。
「総監部がどうこうじゃなくて、あんたはどう思ってるんですか。呪術師に戻りたいとか戻りたくないとか、好きとか嫌いとか」
 好みや損得で動くような男ではない、と思い返して言葉を切る。
「何でもいい。あんた自身の考えを、俺はまだ聞いていない」
 左半身を捻ってこちらを振り返っていた日車は、立てた膝の上に左肘を置き、口元に右手を当てて背中を丸めていた。顔の大部分は左腕と右手に隠され、日下部から見えるのは左目と、特徴的な形をした鼻の一部だけだった。
……。ふむ」
 日車が目を閉じた。肩が大きく上下したので深呼吸したらしい。返答を考えているようにも見える。目蓋が開かれ、宙を見つめていた瞳がぐるりと回転して日下部のほうを向いた。
「君を困らせてみたい」
 聞き間違いかと思った。黙り込んでいると日車がもう一度声を発する。
「俺は君を、」
「ま……待て。お前、今何つった?」
「君を困らせたい」
「はあ?」
 日下部の大声が屋上に響き渡った。
「俺に必死な君を見るのは楽しい」日車が目を瞬かせながら言う。「君のよそ行きの顔が崩れる瞬間は面白いから」
……いや、もっと真面目に——
 日下部が反論した瞬間、日車の眉間に皺が寄った。
「俺は大真面目だ」
 声の大きさと力強さにたじろぐ。日車は宙へ垂らしていたままだった右足を引き上げ、両腕でふたつの膝を抱えて更に背中を丸めた。
「君はどうだ。俺と話して楽しかったか。君は死んだ魚のような目をして、呪術師になれ、戻ってきてくれと繰り返すばかりだ。心底面倒そうにな」
 虎杖まで巻き込んで、と日車は吐き捨てた。
「それで今更俺の話を聞くのか。君は教師と当主の役目に振り回されて、学長代理の立場を押し付けられ、挙げ句の果てには今の立場を利用されて総監部の手足としてこき使われている。君自身の意思はそこに無いぞ。——これで満足か、日下部」
……それはあんたが駄々をこねてるせいだろうが」
 応える声も自然、低くなる。竹刀袋の紐を掴む手が力んだ。穏便に、波風を立てずに——胸の内に留めていた自戒が、怒りに塗り潰されていく。
「うちは人手不足だって最初に言ったよな。俺に文句を言うなら最初から頷けよ、お前のせいでこっちの仕事も大幅に滞ってんだよ」
「君が初めて面会に来たとき、俺は自分のことを死人だと言った」
 生ける屍だとも、と日車は日下部の言葉を無視して強引に続ける。
「あれは君のことも指して言ったんだ。刑の執行を待っていた俺よりもよほど、君のほうが死人のような顔をしている」
「お前、俺が何のために差し入れを持ってったり虎杖に説得を頼んだのか、何もわかってねえんだな」
 話を遮られた日車のこめかみに青筋が走ったのが見えた。
「日下部。俺はそんな話をしていない」
「そうか? それはそれは、おめでたい頭なことで——
 口の中がからからに乾いていた。紐を掴む手は、力を入れすぎるあまり震え始めていた。
 続けるなと理性が警告している。日車と言い争うためにここへ来たわけではない。それどころか、この言い合いが長引くほど、不利な方向へ働くであろうことも、自分は知っているはずだった。
——呪術師にならないって言われたら、あんたの身柄を呪術高専じゃなく、もっと上の連中に引き渡さなきゃならない。総監部の、俺に鬼電してきてるジジイにだ」
 感情を爆発させて怒鳴り散らしているのは、いったい誰だ?
「あいつはあんたの手足を切り落として自我をぶっ壊したあと、脳に呪具を突っ込んで祓呪マシーンにすればいいって言ってる。そうなったらお前の手足を切る役目は俺に回ってくるんだよ」
 日車はこちらを睨んだまま動かない。彼の目を同じように睨み返したまま捲し立てる。
「俺はそういう立場にいる。お前の体をぶった切って脳味噌を弄るのを、俺が黙ってできると思うか? いいか、お前は確実に死ぬ。肉体は生きていたとしても精神的な死を迎えるんだ。それこそ正真正銘のゾンビだろ——それを避けるために俺が何をしたか、どれだけ上に交渉を試みたか——
 ……息を吸い、吐いた。
 最悪だ、と口の中で呟く。今のは説得ではなく、ただの八つ当たりで脅迫だ。
 呼吸を整えたあとに顔を上げれば、日車は手足を折り畳んだ姿勢のままで、何の感情も読めない。口元が未だ見えないから余計に。だが、彼の瞳が物言いたげにしているのは、日下部も読み取れることだった。
……日車」
 返事は無かった。額に青筋を走らせたまま、彼は日下部を睨んでいる。ああしくじった、失策だったと胸の内側に黒い澱が溜まっていく。
「これは俺とお前だけの話じゃない。総監部が絡んでいる以上、断る選択肢がはじめから無いのはわかっただろ。だからこれ以上、ガキみたいにうだうだ文句を言うのはやめろ」
 ……長い沈黙の後に日車は目を閉じた。深い溜息が聞こえ、眉間から、腕から、全身から力が抜けていく。息を吐き切ると、目を開いて頭上を仰ぎ見た。彼の視界には見渡す限りの蒼穹が広がっているはずだった。
「日下部」
 返事を待たずに彼は続きを口にする。
「俺が総監部の手によって仮死状態にさせられている間、夢を見た」
……。夢……ですか」
 話の流れが読めないまま渋々相槌を打つと、日車はああと同意した。
「仮にも死んでいる状態だったのに不思議な話だろう。いいや、君たちの世界では有り得る話かもしれないが、少なくとも俺にとっては特別な経験だった。呪力は科学的に説明することのできない未知の力であることを、改めて思い知った。
 夢の中では裁判——俺の死刑が決まったときの裁判が行われていた。途中までは本物の裁判だと思っていたが、判決が言い渡された瞬間にこれが夢だと気付いた。自分は現実で飽き足りずに夢の中でも裁判をしていたいらしい、罰されていたいらしいと思ったら、おかしくて堪らなくてな。夢の中で笑ってしまったが、仮死状態から意識を取り戻した瞬間も、俺は現実の世界で笑い続けていた」
 じっと黙り込み、日車の様子を観察しながら、日下部は彼の言葉からその真意を図りかねていた。
 日車が目覚めたのは安置所へ運び出された後だと聞いていた。総監部の息がかかった者たちの手によって回収されたのは、そこからさらに数時間も経った後だったという。硬く、冷たい台の上で、窓ひとつ無い空間だ。吐く息は白く凍る。周囲を死体に囲まれた部屋の中でひとり目覚めた彼は、どんな思いだったのだろう。喜びなどではなかったはずだ、死んでいるはずが死んでいなかったのだから。
 孤独、絶望——それらによって砕かれた心の痛みも推し量れないまま、唯一の自己防衛の手段がそれであったように、笑い続けることしかできなかったのではないか。
 なぜ、それを今になって自分に語るのか。なぜ平然としていられるのか?
「俺はな、日下部。どう足掻いても罰されないさだめにあるらしい」
 ——総監部に目を付けられ。人生を、命を、人としての尊厳すら弄ばれ。
 可哀想な男だと。彼を、心の奥底で、憐れんではいなかったか。
「死滅回游に身を投じても、あの戦いで両面宿儺に殺されかけても、刑を執行されてもだ。ならば見方を変えるしかないだろう。俺はまだ何も成し遂げていない。だから、今の俺ができること、求められていることから、目を逸らさずに向き合うべきだ」
 同情していなかったか——彼を対等な相手として扱ったことが、再会してから、一度としてあったか?
 日下部に視線を戻した彼は笑っていた。今まで見てきたような、狂気の滲む笑みではない。口元を微かに緩めただけの、無表情とほとんど区別が付かないようなものだ。三日間、彼を観察してきた日下部にしかわからないような、ごく些細な変化に違いなかった。
「俺も君も、死人や傀儡ではいたくないだろう。なあ、日下部。俺は呪術師になることを求められているらしいが、君はどう思う」
 ——そうか。
 そういう、ことか。
 返事をするために口を開きかけて言葉に詰まる。結局は何も思い浮かばずに口を閉じた。問いに素直に答えるべきか、周りくどいと怒るべきか? 日車は日下部が来る以前から——おそらくは仮死状態が解けて目が覚めた瞬間から——残りの人生を呪術師として生きることを、とっくに決めていたようだ。
 彼は、強い。見た目以上に、日下部が思っていたよりもずっとだ。
 日車が欲していたのは自分の味方であり、自らの決断を後押ししてくれる言葉だった。
 生きる目的——日下部がこの三日間で彼に何とか与えようとしていたものだ——などはとうに得ていて、ゆえに総監部の干渉はノイズ以外の何ものでもなかったに違いない。
 不要だったのだ。日車との交渉において、彼と総監部に対する引け目や遠慮など、はじめから。
 ——傀儡、か……
 喫煙していたときのように息を吐きながら、日車の視線の先を追って頭上を見上げる。彼が青空の向こう側に何を見ているのか、何を見出そうとしているのか、日下部にはわからない。だが、強張っていた肩から力が抜けていくような感覚は、確かに、覚えた。
 呪術師同士の権力争いや責務に雁字搦めである日下部よりも、長らく外部に身を置いていた日車のほうが、こちらの状況をよほど客観的に見下ろしていたらしい。
……お前が呪術高専に来てくれたら、あのクソジジイを黙らせられる」
「君、この期に及んで一番に来るのがそれか」
 日車が呆れたように口を挟んだ。「いくら何でもお人好しが過ぎる」
「あのな。何にせよあんたの身の安全が一番だろうが。……で、あいつを総監部から引きずり下ろしたら、虎杖たち若い世代を支えてやってほしい。祓呪に一番多く駆り出されているのは宿儺戦を生き残った若い奴らだ。呪霊ならある程度は問題無いが、呪詛師相手は対処に時間がかかって危険度も跳ね上がる。術式封じのお前がいればあいつらの負担も減るだろうよ」
「承知した」
 なんだ、と思った。……なんだ。はじめからこう言えば、よかったんじゃないか。
……あいつらを助けてやった上で、余裕が出たらこっちも手伝ってほしい」
「余裕があったらでいいのか」
 完敗だった。
 首を振って両手を挙げると、日車は体を回転させて日下部に向き直った。縁から下ろした足がコンクリートの屋上に触れる。彼は立ち上がり、承知したと告げた。
「君たちの力になろう。俺を呪術高専に連れていってくれ、日下部」
「一発殴らせろ」
 わかった、と落ち着いた声で日車が言う。彼は日下部に数歩近づいたところで両手を緩く広げ、抵抗する意思が無いことを示した。
 初めて、目が、合った。
「斬っても構わない。君の手を煩わせたのは事実だ、手足を切り落とせとも言ったしな」
「なら遠慮なく」
 大股で残りの距離を詰めながら空の竹刀袋を背後へ放り投げる。日車は目を閉じなかった。死刑を待つときの彼も今のようにしていたはずだ。自分に下される罰を、目を閉じずにまっすぐ、最後の瞬間まで見つめていた。
 刃が鞘の内側を滑る。無防備に立ち尽くしている日車の胴へと、一息に刀を振り抜いた。

 日車が意識を取り戻したのは、車が高速道路に入ってしばらく経ったあとだった。
 日下部も最初は気付かなかった。視界の隅で身動ぎ、呻き声を上げて体を丸めたので、一瞬だけ隣の助手席に視線を送った。柄の先端を叩き込まれた腹が痛むのだろう。骨を折らないよう手加減はしてやったが、一撃で気絶するほどの衝撃を与えたのだから、痛いことには違いない。
 腹部を押さえようとして日車は次の異常に気付いたらしかった。紐の呪具で縛られた両手を顔の前に掲げ、じっと無言で眺めている。さてどんな反応をするかと思えば口を開けて歯を立て始めた。
「威勢が良いのは結構だが、先に歯が欠けるからやめておけ」
 ぎりぎりと噛み締める音がしばらく聞こえたが、日車は諦めたように呪具を口から離した。じっと黙り込んだまま、話しかけてくる気配は無い。
「次のサービスエリアに着いたら外してやるから、それまで辛抱……反省しててください」
 無言。
「あと、病院にいる間に気付いてたかもしれませんけど、刑の執行後に回収したから、あんたには新しい戸籍が用意されてる。高専に着いたら新しい名前の身分証を渡します。でも俺や虎杖とか、あんたを知ってる奴らは前の名前で呼ぶと思うから、混同しないように気を付けてください」
 相変わらず反応は無い。ちらりと様子を伺うと、日車は窓の外を眺めていた。
「何が食いたいですか」
 数秒の間を置き、なんだ、と聞き返された。一応は日下部の話に耳を傾けていたらしい。
「昼。何食いたい?」
 とっくに昼を過ぎてるし、腹減ったでしょ。補足しても日車は再び黙り込み、依然として外を見つめたままでいる。尋ねたのは無かったことにしようと日下部が思い始めた頃、ラーメンと日車が答えた。
「ラーメン? いいけど、食えんの。食欲は?」
「刑の執行前に食べたんだ」間を置いて日車が再び口を開いた。「俺が死ぬ前の、最後の食事だった」
 適当な相槌を打つべきか悩んだ。どのみち、ラーメンならサービスエリアで食えるだろう。高速道路を出てから探す手間が省けたのは気が楽だ。日下部、と日車が名前を呼んでくる。
「窓を開けてくれ」
 要望通り助手席側の窓を開けてやる。目の高さまでだがそれで満足したらしく、日車は窓へ体を傾けて額で風を受け止めていた。短い前髪が風に嬲られている。
「早く髪を伸ばしたい」
 独り言だと聞き流してもよかったが、彼なりの歩み寄りだろうと日下部は解釈した。
「後ろに流せるくらいまで?」
「ああ。額に当たって落ち着かないから」
「別に今の髪型もいいと思うけどな、似合ってるし」
 ふふ、と堪えきれずに笑う声が聞こえた。日車が目を閉じ、俯いて肩を震わせている。驚きよりも呆れが勝り、窓を閉めてやろうかと思う。
「おい。そんなにツボるところか、今の」
「君、俺を反省させるどころか、甘やかしてばかりじゃないか」
 無言で窓のボタンに指をかけると、まだ閉めてくれるなと静止の声がかかる。
「開けっ放しだと寒いんだよ」
「ずっと屋内にいたんだ。少しくらいわがままを言ってもいいだろう」
 視線を感じた。先ほどの笑顔や、病院の屋上で見せた微笑が脳裏を過ぎる。横を見ることはできなかった。あの顔で、あの目で見つめられていると思うと、変に調子が狂う。
……あと五分だけだからな」
「わかった」
 日車はそう答えたきり、こつ、と窓に頭を押し当てて静かになる。
 風の唸る音が聞こえた。日下部、と風に乗って日車が再び声をかけてくる。
「はいはい。今度はなんだ」
「きれいな青空だ」それから間を置かずに言う。「来てくれたのが君でよかった」
 予想だにしない言葉に面食らう。今度はこちらが笑う番だった。日車の非難じみた視線を感じたが、笑わずにどう反応すべきだっただろうか? 自分の言葉で日車が笑ったように、日下部もまた日車の言葉で笑っただけだ。
 ——これで満足か、日下部。
 まあ、及第点、かな。
「俺もあんたに会えてよかったよ」
 しばしの沈黙の後に、そうか、と聞こえた。それで充分だった。