わからん
2025-03-10 23:09:23
74988文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】Nobody's Son

本編後IFなギスギスくさひぐシリーズ第三弾(長編)です
例によって捏造祭り・日下部が日車のみならず行く先々で色んな人とギスりまくってます
・日下部が日車を迎えに行く話( https://privatter.me/page/678cf22a6e58f
・とそのおまけ( https://privatter.me/page/6795bb0def0b2
とお話が繋がっているため、先にこちら2つを読むこと推奨です
※死亡表現ではないもののそれに近しい表現・暴力・流血・ゴア描写あり。ゴア表現においてはショッキングな描写が続く(特に4p目)ため、苦手な方は充分にご注意ください。


4.




 ごんと鈍い音が聞こえたと同時に、呪霊が日下部の爪先を掠め、足元の道路へと叩きつけられた。
 空中から落ちてきたそれは肥大化した胴体に比して極端に短い手足を暴れさせていたが、やがて力尽きてコンクリートの上にぱたりと落ちた。
 足元から正面に視線を戻すと、アパートの屋上から飛び降りた日車がこちらへ近付いている。
「終わった」彼は手短に告げ、手の内からガベルを消す。「帰ろう。日下部」
……おう」
「報告書の提出は明日で構わないか」
「明日でいい。直帰して早いところ——
 寝る、という最後の言葉はあくび混じりに出た。解除した帳の向こう側から覗く空も変わらず黒く、あと少しで新月を迎えそうなか細い月がてっぺんに昇っている。隣に並んだ日車も目蓋を重たげに瞬かせ、眠いなと呟いた。
「付き合わせてすまない」
「謝るのは俺のほうだろ。巻き込んで悪かった」
 竹刀袋を背負い直して歩き出す。数歩ぶん遅れて足音が近付いてきたのを確認しながら、日下部は再度込み上げてきたあくびを噛み殺した。
 左肩の後ろで揺れる竹刀袋は、刀身が折れているせいか普段よりもずっと軽い。呪霊は日車ひとりで片付けてしまったので自分が出る幕は無かったが、元から彼だけで対処できると思っていたので予想通りだ。
 ——夜遅く、緊急の祓呪依頼が舞い込んできた。低級の呪霊ゆえ、本来であればそのとき高専に残っていた日下部ひとりで済む案件だったが、手持ちの刀が壊れているために祓呪へ当たることができなかった。そこで資料室にいた日車に白羽の矢が立ち、日下部が三級術師である彼に同行するかたちで、任務へ向かったのだった。
 ビルの壁に両側を挟まれ、湿った熱がこもった路地を抜けると、飲み屋が立ち並ぶ通りに出た。色とりどりの看板が煌々と輝き、仕事帰りであろう人々が店先を物色しながら通り過ぎていく。つい数分前まで隣の路地で呪霊が発生し、戦いが繰り広げられていたことなどが嘘のように、平和な光景だった。
 店頭のメニュー表を盗み見た日下部は溜息をつく。
「残念だな。明日も仕事が無かったら飲めたんだが」
「刀はすぐに調達できそうなのか」と横合いから日車が聞いてきた。
「最短でも来週の手配になるってよ。早く報告しろって伊地知にこっぴどく叱られた」
「そうか。いつ折れたんだ」
「あれ、お前も見てなかったっけ。一週間くらい前に式神使いの呪詛師を一緒にとっちめただろ、そのときに折れたんだよ。ほら、昇級試験の帰りに迎えが来なかったから、電車で——
 話題を間違えたと日下部は口を閉じた。この件で先日、日車と言い争ったばかりだ。
 不自然に言葉を区切ったせいか日下部の頬に日車の視線が注がれ、すぐに逸らされた。店先にかかった暖簾の向こう側から陽気な笑い声が聞こえ、通りですれ違う人々も会話を弾ませて笑い合っている。周囲を喧騒に囲まれている中で二人だけが無言だった。
 日下部、と呼びかけて日車が沈黙を破ってきたのは、飲み屋の通りを抜ける手前でのことだった。
「すまなかった」横目でこちらの様子を伺い、日車の顔はすぐに正面へ戻る。「今日、虎杖と手合わせしているときに嫌な態度を取った」
……嫌な態度?」
 角を曲がった途端に喧騒が遠ざかる。両脇に建つビルの無機質な灰色の壁が夜の影を一層濃くして、日下部と日車に覆い被さろうとしているかのようだった。
 ふたり以外に歩いている人影は見当たらない。等間隔に立った街灯が真下を白く照らし、遠くには目的地である駅の明かりが見えていた。
「突き放したような言い方をしただろう」
「そうだっけ。記憶にねえわ」
「昇級試験のことでも君に不快な思いをさせたと思う」
 隣を見ると日車は俯き、こちらと目を合わせようとしない。しかし、日下部が歩く速度を緩めると顔を上げた。街灯の下で立ち止まり、どうしたものかと返事を探しているうちに、日車の頭は再び下を向き始めている。
……いいよ。別に」
 迷った末に日下部の口から出てきたのは、胸中の葛藤とは裏腹に素っ気ない返事だった。
「一週間以上前のことなんて今更気にしてねえし、お前にわざわざ謝られるのも調子が狂う」
「俺が悪かったのは事実だ。大人気なく癇癪を起こしたから」
 日車が顔を上げた。街灯の光を浴び、彼の顔は真っ白に浮かび上がっている。彼が使役する式神のようだと場違いな感想を抱く。
「忘れてくれ。君が困る必要はない」
……困るっつうか……
「帰ろう」と言って日車は顔を正面に戻した。
 歩き出して再び訪れた沈黙は心地よいものなのか、それとも重圧を覚えるべきものなのか、日下部にはわからなかった。
 遠くに見えていた駅の明かりが近付くにつれて、通りを行き交う人の数も増えてくる。駅から改札へ向かうときに日車が声をかけてきた。
「君はどこで降りる」
 普段と変わらない淡々とした声だった。日下部が駅名を告げると頷き、自分も同じなのだと言う。
「へえ。初耳」
「俺もだ。近かったんだな」
 日下部が住んでいる地域は呪術高専からそこそこ離れている。この時間に帰れば相当遅い時間になると知っているだろうに、この任務に出る直前まで、日車は資料室で読み物に耽っていたという。
 生徒も補助監督もみな帰宅し、深夜に差し掛かろうとしていた時刻である。教師でも補助監督でもない彼が、日下部のように仕事が溜まっていたはずもない。
「お前、夜遅くまで資料室で何してたんだ」
「過去の報告書を読んでいた」緩慢な動作で目を瞑り、開きながら日車が答えた。「主に呪詛師に関する資料を。事例の数だけ個性的な術式が存在するのは興味深い」
「そんなことしてないで早く帰れよ。読書なんて空き時間でできるだろ」
「昼間も読んでいた。暇さえあれば読み進めているが、量が量なだけに読みきれなくてな」
 電光掲示板を見上げた日車があと十分だと言ってきた。十分後に電車が来る、なんとか終電には間に合ったな——そのまま改札を通ったので会話は途切れ、電車を待つ列の最後尾に並ぶ。
 隣に立つ日車はぼんやりと宙空を眺めている。眠たげに重い瞬きが繰り返される目元は、普段よりも血色が一層悪いように見えた。
 ——教師でもない呪術師が夜遅くまで呪術高専の資料室で勉強しているなど、聞いたことが無かった。呪詛師の資料を読み漁っていたということは、いずれそうした任務が自分へ優先的に回ってくるのを想定してのことだろう。真面目すぎると呆れる反面、見上げたものだと感心してしまう。
 呪術高専の力になるという当初の宣言通り、日車は強くなることに貪欲だ。だから呪術師としての身分を与えられてすぐに昇級試験の話も持ち上がったし、日下部自身も一級へ推薦して構わないと思っていた。
 そうした、日車に対する皆の期待と彼自身の向上心を真っ向から否定し、プライドを叩き折ったのは間違いなく日下部だった。試験合格と推薦の話を取り消し、日車が学長室へ不満を訴えてきたときも、まともに取り合おうとしなかった。憎まれるべきはこちらのほうだ。
 それなのに、日車は日下部を恨んでいないように見える。普段と変わりない態度で接してきた上に、挙句の果てには自分が悪かったとまで言い切った。彼の言動は常に純粋で、真摯だ。
 ——何を考えてるかわかりにくい。
 果たして本当にそうだろうか。自分が相手を探りすぎているだけだ。日車はいつも、本音で話しているだけではないのか?
 ——そうかな。けっこうわかりやすいよ。
 いつか虎杖に言われた言葉が脳裏を過ぎる。
 ——へえー。大人って大変すね、本音で話せなくて——
 不意にこちらを向いた日車と目が合った。
 あ、と声には出さず唇の動きだけで呟く。日車の唇も薄く開かれていた。それが横に引き結ばれ、再び開かれる。
「何だ」
「いや、別に——
 何やってんだ。
 そう言い返すつもりじゃ、なかったはずだろ。
……——電車の中で式神と戦ったとき、」
 話題を振ると、こちらを見上げる日車の瞳が揺れ動いたように見えた。
「お前が取った戦略は間違いじゃなかった……と、思う」
 柄にもなく全身が緊張で強張っている。電灯の光を映す日車の黒い瞳から目元へ、頬へと日下部は視線を彷徨わせる。
「あいつが電撃で弱っていなかったら、刀はもっと早く折れていたはずだ。あんたのおかげでとどめを刺すことができた……ほとんど自爆に近い攻撃だったのは解せねえけど、あれは反転術式も込みの作戦だったんだろ」
 自身の目元に日車の視線が注がれているのを感じたが、見つめ返す勇気は出なかった。頬を見つめたまま反応を伺っていると、喉仏が上下し、そうだと日車が答える。
「あの呪具には上限のストッパーが無かったから、呪力を流せば流すほど際限無しに攻撃が強くなる。だから、俺自身も黒焦げになるほどの強い電撃を与えることができた」
「お前自身を犠牲にしたのは俺がいたからか」
「ああ。全身の回復には時間がかかる。俺が倒れて動けなくなっても、君が奴にとどめを刺してくれるはずだと信じていた」
 言い訳も弁明も日車は何一つ口にしなかった。自身の安全と敵の討伐を天秤にかけ、前者を躊躇なく犠牲にする——捨て鉢のようにも思える彼の考えはしかし、一分の隙もなく固められた理論と、的確で冷徹な観察眼によって成り立っている。
 それらは呪術師に必要不可欠な素養だ。だが、と日下部はひそかに息を吐く。……日車の特攻は他の呪術師と比べても不安定で、衝動的だ。
……何年か前に、虎杖がお前と同じような戦略を取って、死にかけたことがある」
 本人から聞いたことは、と問うと日車は首を振る。だろうなと思った。日下部に怒られたのがトラウマになったと後に虎杖は言っていたし、そんな出来事を日車に話すはずがない。
「俺と一緒に行った任務で、本当にひどい怪我でな。最初の数日は生きるか死ぬかの瀬戸際だった。何とか峠を抜けて二、三週間後にようやく目覚めた。それで、起きたあいつは『このくらいの傷なら反転術式ですぐに治せそう』って言いやがったんだ。……体の上半分と下半分が千切れかけた状態でだぞ」
 日車の眉間に皺が寄った。口を開きかけるも、何も言わずに閉ざされる。
「虎杖の体は薄皮一枚でぎりぎり繋がっているようなもんだった。あれが完全に切れていたら死んでただろうな。両面宿儺に負けたときの五条みたいに——
 ——言葉よりも先に手が出ていた。虎杖が最後まで言うのを待たずに、日下部は彼の頬を力の限り殴り飛ばしていた。
 その場に居合わせていた家入と補助監督に止められていなければ、ベッドの上に倒れ込んだ虎杖を、自分は何度でも殴り続けていただろう。
 ——痛いか。痛いよな、じゃあ治せよ。今、ここで、すぐに治してみろよ。治したらまたぶん殴ってやる。どれだけ怪我したところでお前は死なないんだったよな——
 日下部の絶叫を呆然と聞いていた虎杖の目から大粒の涙が零れ落ち、ごめんなさい、と震えた声が吐き出された。
 静まり返った部屋の中で、ごめんなさいと泣きながら繰り返す虎杖の声だけが響いていた。五分か十分か、虎杖の懺悔を聞いていた日下部は、お前は馬鹿だと掠れた声で呟いた。それしか言葉が見つからなかった。……
 ……目頭を押さえていた手を下ろし、目を開く。日下部を凝視する日車の顔。その表情が気遣わしげに見えたのは、気のせいではないだろう。
 昔の虎杖と今の日車の戦い方は、よく似ている。
「反転は強力な術式だ。領域と同じで、持っているか持っていないかで実力の差も開けてくる。だがな、本人の限界を超えて無茶するための術式ではねえんだよ」
 反転術式は万能ではない。大きな怪我となれば回復までに相応の時間がかかる上に、大量の糖分を消費するため最悪の場合は戦闘の続行が困難となる。式神と戦ったときの日車はまさに、反転術式の弱点に足元を掬われていたのだ。
「日車。もしもあの場に俺がいなかったら、お前は同じ戦略を取ったか」
 問われた彼はじっと日下部の顔を見つめ、やがて小さく首を振った。
「取らない。俺が倒れてしまったら非術師に危険が及ぶ」
「どうやって対処する?」
「式神を列車の外に誘導して術者本人を探す。相手の居場所が特定できれば俺の術式を使える」
「だろ。俺が言いたいのはそういうことだ」
 ちらりと柱の時計に目をやる。そろそろ終電が来る時間だった。
「どんなに強くても、人間っつー生きものは怪我を負えばあっさり死ぬ。そういう普通の感覚を忘れるな。自分を犠牲にするのが一番手短な手段だったとしても、実行するのはそれ以外の手段を試してからにしろ……っていうのが、お前を昇級試験から落として、推薦を取りやめた理由」
 日下部が話し終えると同時に、列車到着のアナウンスがホームに響き渡った。線路を走る音とともに車両が近付き、停車する。終電のために乗客はそれなりに多く、開閉扉の付近で外を向いて並んで立つ。しばらくして扉が閉まり、列車が動き出した。
「君が虎杖に尊敬されている理由がわかった気がする」
「ん?」
「虎杖だけじゃない。他の教師や生徒や、フリーの呪術師にも——
「ちょっ……と。やめろ。何だよ急に」
 肘で日車の脇腹を小突く。全く動じなかった彼は、横目で日下部を見上げてきた。
「謝られるのは嫌だろう」
「はあ?」
「だから褒めたんだ」すぐに視線を正面に戻した。「これも駄目か。俺はどう反応すればいい」
「いや……謝るとか褒めるとか、そういう意図で言ったんじゃ——
「ありがとう」
 日車は前を向いたままでいる。唇が再び動き、同じ言葉を発する。
「ありがとう、日下部。君に気を遣わせてしまった」
……へ」
 目の前にいる男とは無縁そうな言葉だった。礼を言われたのだと遅れて理解する。胸の内から込み上げてきたむず痒さを誤魔化すため、日下部は咄嗟に俯いて顔を隠し、乱雑に後頭部をかき回した。
……それは、謝罪とほぼ変わらないんじゃねえか」
「そうか」眠たげな瞬き。「だが謝罪ではないな。俺なりに感謝を伝えただけだ、他意はない」
 会話が途切れた。電車ががたごとと揺れ動き、車内ではいくつかの話し声が聞こえてくる。深夜であることを憚ってか皆一様に小声だが、決して静かではなかった。そうした周囲の状況も手伝ってか、自然と日車に話しかけていた自分自身の行動に、日下部は内心驚いていた。
「式神との戦いのとき、何であんな呪具を持ってたんだ。あれって補助監督の護身用だろ」
「虎杖に課題を出されていたんだ」
「課題?」
「本来は呪霊を想定していたはずだが……。俺の術式と打撃が効かない相手にどう対抗するか」
 対人特化の術式を持つ日車の弱点を的確に捉えた課題だった。へえ、と虎杖に感心しながら相槌を打つ。
「あの式神にピッタリな課題だったな」
「本当は電撃ではなくて君みたいな刃物を使いたかった。だが、申請してすぐに持ち出せたのがあれしかなくてな」
 結果として日下部の刀では装甲を破りきれず、日車が持ってきた呪具に救われたので、虎杖にも感謝するべきなのかもしれない。
「ちなみに虎杖はどう対処するって?」
「『黒閃を連打してぶっ飛ばす』らしい」
 前言撤回だ。あの脳筋、と日車の話に呆れ果ててしまう。
「あほっつーか、やっぱり思考回路が五条に似てきたんじゃ……
「笑ってるのか」
 日車の言葉に首を振る。
「笑ってねえよ」
「笑ってるじゃないか」
 日車が正面を眺めたまま言う。
 目の前のガラス越しに彼と目が合った。窓の向こう側にはまばらに明かりが灯る住宅街が見え、その暗闇の手前にぼんやりと透けて浮かび上がる自分たちの姿は、まるで幽霊のようだった。
……ちげえよ。虎杖の思考回路に絶句して口の筋肉が引き攣ってるだけだ」
「笑ってる」
「笑ってねえ」
「口角が上がっている。笑っている証拠だ」
「笑ってねえってば」
 日車の口元が微かに緩んだ。それを見つめながら自身の肩からも力が抜けていく感覚を、日下部は安堵とともに覚えていた。……
 いくつかの駅を過ぎ、車内に残った人数は次第に少なくなっていく。最寄りの駅で下車したのは日下部と日車しかいなかった。
 日車とは家の方向が真逆だった。改札を通って別れる直前に、彼が握手を求めてくる。
「仲直りの握手だ」
「喧嘩なんてしてねえだろ」
「けじめをつけたい」君も手を出せと、右手を差し出した日車が催促してきた。「次の試験では絶対に合格する。一級への昇級もすぐに果たしてやる」
「すげえ自信だな……まあ、精々励めばいいんじゃ——
 ——あれが二級以上へ昇級した瞬間をもって、所属先を呪術高専から総監部に移動させる。
 日車の手を掴みかけた指が、止まる。
 焦れた日車が指先を伸ばし、日下部の手を捕まえて上下に振った。なす術もないまま振り返すしかない。
 日車の手は冷たかった。
「これで仲直りだ」ぱっと手を離し、日車が一歩後ろへ下がった。「ではまた明日、高専で」
……ああ……
 曖昧に頷き返すと、踵を返して日車の背中が遠ざかっていく。日下部も彼に背中を向け、反対の方向へと歩き出した。
 ——腑抜けたか若造。罪人を庇うか。
 俺はもう若くないし、ましてや今の日車は罪人じゃない。
 ——いずれにせよ、あれは総監部のものだ。
 冗談言うなよ。日車の体と意思はあいつ自身のものだ。
 ——なぜそこまでしてあれの肩を持つ。
 ……何でですかね。自分のことなのにわかんねえや。歳が近いし、仕事もできるやつだから、あいつのことは気に入ってますけど——
 ひと気の無い暗い歩道を歩きながら、日下部の思考は楽巌寺と会話をしていた瞬間へ立ち戻る。
 日車の実力なら次の昇級試験で確実に合格するだろう。そして、彼の呪術等級が引き上げられた瞬間から、総監部が所属先を巡って喧しく干渉してくるに違いない。今日のところは日下部が強引に反対を押し切ったとはいえ、今の状況が長続きしないことはわかっていた。
 一方でこうも思った——楽巌寺と自分に、果たしてどのような違いがあるのか?
 本人が不在である会話に何の意味がある?
 日車の身を案じている感情も、結局は日下部自身の独りよがりでしかない。
 楽巌寺との話を伝える機会なら、さっきの電車の中でいくらでもあったはずだ。なぜ言わなかったのか? 沈黙が良い選択であるはずがなかった。しかし一方で、悪手だったと自身を責める声に反論する自分もいる。……自罰的な行動を取る傾向が強いあいつなら、総監部の主張に納得して処刑人になる道を選ぶやも——
……このビビリが……
 コートのポケットに両手を突っ込みながらため息をつく。
 結局、日車のためだと口先では言いながら、自分のために動いただけではないのか。本人の意思を確認しなかったのがその証拠だ。楽巌寺と日下部、どちらがより卑怯なのだろうか。……
 道はビル街から住宅街へ差し掛かろうとしていた。人ひとり見当たらない歩道を革靴の音を立てながら歩き、その足音が二重に聞こえる瞬間があることに気付く。聞き間違いではない。歩調を緩め、それからすぐに速めると、もうひとつの足音が背後から聞こえる。それは日下部の足音とずれると、合わせようとして乱れた。日下部は竹刀袋を背負い直し、背後は振り返らずに帰路から外れた。
 数車線どうしの道路が交差する十字路は、人同様に行き交う車が一台も見受けられない。歩道橋を渡って対角線の道に下りると、日下部の真上には電車の線路が走っている。道路の両脇はコンクリートで固められていた。十五メートルほどのごく短いトンネルと化しているこの通路は、中間地点の壁面に屋外用のライトが設けられているだけで、夜間は非常に暗い。
 ライトの下を通過し、日下部はわざと革靴の踵を鳴らして立ち止まった。背後の足音も一拍遅れて立ち止まる。竹刀袋から刀を取り出しながら後ろへと体を向けると、数メートル先の暗闇に紛れるようにして、ひとつの人影が立っていた。
……何の用だ」
 人影からの返事は無い。しかし、相手は身じろぐと、目深に被っていたフードを引き上げた。暗闇の中で朧げに浮かび上がる青白い顔はまだ若かったが、日下部には心当たりが無かった。
 しかし、こちらへ向けられた敵意は本物だ。自分が呪術高専の関係者であるだけで狙われる理由としては充分たり得る。この青年は呪詛師に違いなかった。
「弟を返せ」
 男が低い声で言った。「テツをどこにやった」
「弟……?」
 柄に手をかけながら日下部が聞き返すと舌打ちが聞こえる。
「一週間前、お前のせいで弟が捕まった。あいつはどこだ」
「知るか。呪詛師の顔なんていちいち覚えてねえよ」
 暗闇の中でも呪詛師の顔が怒りと憎しみに歪んでいくのが見えた。柄を握りしめてどうしたものかと思案する。……普段の癖で刀は持ち歩いていたものの、肝心の刀身は折れている。相手の術式がわからない以上、迂闊に斬り込むことだけは避けたい。それに、呪具が壊れていることを知られれば、こちらが不利な立場へ追いやられることになる。可能なら一撃で仕留めたいところだ。
「テツは俺ら兄弟の中で一番強かった。あの式神が負けるなんて」
 式神——呪詛師が口にした単語によって線と線が繋がった。一週間前に戦った式神といえば、日車とともに追い込んだあれしかいない。日下部の刀すら通らなかったほどに硬質な肌を持った人型の式神。使役者だった呪詛師は中学生ほどの年齢で相当に若く、術式の扱い方を誰かから教わったのだろうと思っていたが。
「あの式神使いの兄弟か。お前」
 日下部の発言を聞いた呪詛師の顔に、わずかながら喜色が浮かんだ。
「思い出したか」
「ああ。見た目こそ立派な式神だったが、中身はお粗末なもんだった」にやりと笑い、日下部は愉快げな口調で返してやる。「あの似非ゾンビがやられた原因、知ってるか? 非術師のカバンでぶん殴られたのに気を取られたんだよ。その隙に目を潰してやった。ダサすぎて今思い出しても笑える——
「黙れ!」
 瞬く間に憤怒の表情へ歪み、男は大声を上げて日下部の言葉を遮った。「弟を侮辱するな! テツはどこだ、言え!」
「さあな。呪詛師の行方なんて誰も知らねえが、今頃は処刑されてんじゃねえの」
——ブッ殺してやる……!」
 絶叫とともに、男が纏う呪力の気配が濃さを増していく。挑発に乗りやすい男だ、おかげで助かったと日下部も刀の鯉口を切り、体勢をより低くした。
 刀身が折れている弱点を晒さないためにも、抜刀および刀身を呪力で補う技「朧月」を使用するのは一度のみ。
 ——奴が術を発動させる直前、大抵の呪術師が最も無防備になる瞬間を狙って畳みかける!
「絶対に殺す、殺してやる——!」
 ——その、瞬間。
 刀を抜きかけていた日下部の腕が止まり、のみならず足も首も、全身が硬直しきって身動きが取れなくなる。
 何が起きたと理解するより早く、本能が記憶の奥底から答えを導き出す。
……呪言……!)
 かつて教え子だった生徒の顔が脳裏を過ぎる。最悪だと舌打ちをしようにも口すら動かせない。目に見えない拘束から逃れようと全身に力を込め、四肢が震えだす。
——俺の術式は、名前を呼んだ相手の肉体を自由に操ることができる」
 先ほどの激昂した様子とは打って変わり、呪詛師の男は静かに告げると日下部の元へ歩み寄る。「狗巻家だったか? あそこの呪言とは違って相手の名前を知らないと発動できないのが不便だが、お前が有名人で助かったよ。『抵抗するな』」
 全身にのしかかる負荷が何重にも増し、骨が軋みを上げる。首を締め上げられる感覚を強く覚え、喉の奥から潰れた呻き声が漏れ出た。それに気をよくしたのか、呪詛師は乾いた笑い声を上げながら背を仰け反らせた。
 ひとしきり笑ったのちに目尻を拭う動作をすると、さてと明るい声を上げて日下部に向き直る。白い電灯に照らされた顔は骸骨のように痩せこけ、限界まで見開かれた両目には猟奇的な喜びが滲んでいた。
「日下部。『弟の居場所を教えろ』」
 呪詛師の声が聞こえるや否や、意思に反して唇が動きだす。
……知ら、ねえ」
「あれ、本当だったのか」参ったなと呟き、男は顎に手を当てて俯く。「まあいい。お前はここで始末する。兄として弟の仇は取っておきたいからな」
 男が語りかけてくる間にも喉は徐々に見えざる力で締め上げられていき、ほとんど息ができなくなっていた。頭から血の気が失せていく感覚も徐々に遠ざかって視界が霞んでいく。唯一、聴覚のみが今の状況を把握しようと、本能的に感覚が研ぎ澄まされていく。
「この術式は便利でね、面白い殺し方ができるんだ。苦しみながら死ね。——『質問。今まで負った中で一番酷かった怪我は?』」
 耳から酸欠の脳へ。言葉の意味を理解し、日下部は朧げな意識の中で思考する。
 今までで一番、酷かった怪我?
 わざわざ記憶に問うまでもない。間違いなく数年前の新宿だ。仲間が次々と倒れていき、ひとりで両面宿儺と対峙した末にやられたときの——
 すぱりと、胸の上を細いものが通り抜けた衝撃。
 直後、激痛が走る。
 胸に生じた傷口から血が噴き上がり、スーツが一瞬で真っ赤に染まった。
「ゴフッ」
 血を吐きながら歩道の上に崩れ落ちる。
 うつ伏せで倒れ込んだ体の下が生温かい液体で濡れていき、唇を湿らせたそれは鉄錆の味がした。喉を逆流して込み上げてきたものを再度吐き出せば、口の中は同じく鉄の味で満たされる。体外へ流れ出る血とともに体温が失われていく。呪言による拘束は解かれていたが、指一本動かすことすら叶わなかった。
「うわ、ひっどい量」血溜まりを避け、後ずさっていく呪詛師の姿が、閉じかけた目蓋の隙間から辛うじて見えた。「これだけ酷ければ勝手に死んでくれるか——
「日下部!」
 ここにはいないはずである人物の声が響き渡り、日下部は正面を、彼に相対していた呪詛師は背後へと顔を向け、歩道橋を駆けて接近する男の姿を確認する。
「日下部、無事か!」
 ——日車か?
 幻ではない。どうしてここにと思っている余裕は無かった。意識が朦朧としている日下部の頭を、呪詛師が踏んで歩道へ押し付けた。
「あいつも弟の仇だな。まだ起きてろよ、日下部」凍てついた声で男が言う。「お前にはまだ聞きたいことがあるんだ。『あいつの名前を教えろ』」
 油断していた。血に濡れた唇から彼の、……楽巌寺が彼に与えた名前が、血の塊とともに吐き出される。それを呪詛師が反芻した瞬間、通路にこだましていた日車の足音がぴたりと止まった。
 足をどかされて顔を上げた日下部は、日車がトンネルの入口で片腕を振り上げたまま静止しているのを見る。その手にはガベルが握られ、今にも振り下ろされんばかりだったが、呪言によって空中で止まっていた。
「『今まで負った中で一番酷かった怪我は?』」
「ぐ、うっ」
 その場に立ち尽くす日車から悲鳴が上がった。彼の腹部から血が滲み、同時に手や顔の皮膚が赤く変色していく。
 あの式神との戦闘の際、日車が仕掛けた特攻による怪我だ——だが、当時の様子に比べると程度が軽い。式神の爪で貫かれた腹はもっと傷が深かったし、皮膚もところどころが焦げかけていたはずだ。呪詛師も疑問を持ったらしく首を捻っていたが、やがてああと声を上げて頷く。
か。お前」なるほどと呟いて笑う。「どおりで呪言のききが悪いし、いくら調べてもお前だけ名前が出てこなかったわけだ。日下部、『あいつの本当の名前を教えろ』」
 意思と反して唇が動きそうになるのを、犬歯を食い込ませて抵抗した。全身に力を込めるほど胸の裂傷が広がり、血が溢れ出ていく。胸の奥から喉元へ吐き気が込み上げてきた。耐えきれずに吐き出し、血の泡とともにくぐもった声が出る。
——っぐるま、っ」
 日車の目は驚きに見開かれたまま、しかしこめかみに青筋を浮かび上がらせ、右腕を震わせながら術式に対抗していた。
 ——右腕が。日車の右腕さえ動けば。彼がガベルを振り下ろし、領域さえ展開できれば、勝機はある。
 日車が呪言による拘束を突破するのが先か、日下部が術式に屈するのが先か。
(無理だ)
 本能的に悟る。抵抗できるだけの気力が、こちらに残されていない——
 ごぼごぼと唇の端から血の泡が溢れ、同時に自身がひとりの名前を口にするのを、日下部は他人事のように聞いていた。
——ヒグルマヒロミ?」
 懸命に震えていた日車の右腕が、ぎしりと止まる。
 日下部を見下ろした呪詛師の口元が歪な弧を描く。勝利を確信した笑みだった。そして、あの問いが彼の唇から発される——
 まだだ。まだチャンスはあると、日下部は考える。
 日車が受けるであろう攻撃はおそらく、先の式神との戦闘で負った刺し傷と火傷。あるいは彼が「日車寛見」であった時期まで遡るなら、日下部と同じく両面宿儺との決戦で食らった裂傷と、両腕の欠損であるはずだ。
 今の日車は反転術式の精度が格段に上がっているから、怪我を負ってもすぐに治せる。そうすれば領域を——
(待て。……!)
 霞む視界の中で懸命に日車を見た。彼の見開かれた両目もまた日下部を見ている。しかし硬直しきった表情のままでは、彼が何を考えているか、わからない。
 違う。
 呪術師としての本能か。確かな声で再度、己の声が日下部自身を戒める。
 彼が食らうのは刺し傷や火傷でも、ましてや両面宿儺の攻撃でもない。
 なぜなら。

 それは一瞬の出来事だった——
 日車の首が、人体ではあり得ない角度に折れ曲がったのが見えた。
 ごきん、と太い骨の折れた音が同時に鳴り響く。
 糸が切れた人形のように両膝から崩れ落ち、どこからか噴き出た血が宙に歪な軌道を描く。
 どさりと重い音を立てて日車がその場に倒れ込んだ。
 ほぼ直角に真横へ折れた首と傾いた頭の重みに従い、横向きに倒れた彼の顔から溢れ出た血が歩道に広がっていく。
 静寂——。呆然とその光景を眺めていた日下部の隣で、呪詛師が感嘆の声を漏らした。
「死んだな。あれは」
 日車が、死んだ?
 彼の名前を呼ぼうにも、声が、出ない。
「残るはお前だけ……って、もう死にかけてるか。放っとけば死ぬだろ。あ、刀はもらってくから。売れば金になるし、お前が使ってたやつなら値打ちはうなぎ登りだろうし」
 左手を掴まれ、弱々しく握りしめていた鞘が手の内から引き抜かれる。刀を抜いた男が驚きの声を上げたのを、日下部は微動だにしない日車の体を見つめながら聞いていた。
「なんだこれ」
 ——日車。
 横向きに倒れた日車の頭と、地面の上に投げ出された両手しか、日下部の位置からは見えない。
 刀が足元のコンクリートへ叩きつけられる甲高い音が、トンネルの中にこだました。
「ふざけんな。なんで折れてんだよ」
 ——お前、本当に死んじまったのか。
 いいや、いつもの冗談に決まってる。だって、黒焦げになっても、お前はピンピンしてたじゃないか。
 起きろ。いつまで寝たふりを続けているんだ、早く返事をしろ。
「模造刀か? そうだよな、他にも刀持ってるよな、この際呪具ならなんでもいいわ。せっかく金目のもんを奪えると思ったのに、ふざけんなよまじで」
 腹部を抱きかかえられてコートの内側を呪詛師の腕が這い回る。視界が揺れて日車の姿をまっすぐ見つめることができなくなり——その指先がぴくりと、僅かながら動いたように見えた。
 どさりと体を落とされ、傷口から全身へ走る激痛に日下部は唸る。
「ねえじゃん、どうしよう……ああ、爪とか髪の毛とか、目玉だっけ。どっか適当に切り離して保存しとけば、呪術師の死体だし呪具くらいにはなる? 何か斬り落とすやつ……そうだ。刀、刀……
 日下部の視線の先で骨ばった手指の関節が開閉を繰り返す。
 一度強く握られ、弛緩したように開かれると、腕をずらして地面へ両の手のひらを押し当てる。
 日車が緩慢な動作で起き上がった。
 暗闇に佇む影は頭部が歪な角度へ傾いている。左手で頭頂部、右手で自身の顎を掴み、彼は折れ曲がった首を力技で元の位置へ戻した。次に血の涙が流れた跡を荒々しい手つきで拭う。鼻血や吐血の跡も——最後に、乱れて額の上に落ちた前髪を後ろへ撫で付け、ガベルを手の内に呼び出して歩き出す。
 刀を手にした呪詛師が日下部の前にしゃがみ込んだ。日下部の視界から日車の姿は覆い隠されてしまうが、自身の背後へ接近しつつある日車の姿に、呪詛師が気付くことはない。
 顎を掴まれ、左目の目蓋を開いたまま固定される。折れた刀の切先が自身の目に向けられており、その向こう側で呪詛師が下卑た笑みを浮かべている。男の頭の後ろで白く光る電灯が眩しかった。
「最期に相応しい悲鳴を聞かせろよ。日下部」
 ——光を遮り、日車が呪詛師の背後に立つ。
 血で赤く染まった白目の中央に浮かぶ、深淵のごとく果てのない黒を湛えた瞳。
 限界まで見開かれたそれは日下部を見ずに、彼を殺そうとする呪詛師へ向けられている。
 日車はガベルを持つ手を振り上げ、男の側頭部へ躊躇なく振り抜いた。
「ガッ」
 悲鳴を上げながら男の体が横へ吹き飛び、コンクリートの壁に叩きつけられる。
 歩道の上に転がった刀を日車の足が遠くへ蹴り飛ばした。
 側頭部をさすりながら顔を上げた呪詛師は、目の前に立つ日車の姿を見て慌てふためいた。
「嘘だろ、なんでお前が、死んだはずじゃ」
 喚く彼の頭に再びガベルが振り下ろされる。
「ギャッ」
 倒れた男の腹へ乗り上げ、胸倉を掴み上げた日車は男の頭を殴る。もう一度、二度、三度——物を打つ鈍い音に、腐った果実を潰したような粘ついた音が混ざり始めた。
「やめろ——痛い——許して——ごめんなさ——
 日下部からは呪詛師の体に乗り上げた日車の背中と、彼に殴られるたびに痙攣し跳ね上がる男の足しか見えなかった。
 悲鳴は徐々に懇願へと変わっていったが日車は手を止めない。ガベルを振り上げては勢いをつけて振り下ろす行為を、淡々と繰り返す。
 ……日車?
 呼びかけようにも掠れた息しか出てこなかった。日車は呪詛師を殴り続ける。ぐちゃりと不快な音が響き、打撃音とともに周囲へ飛び散る血液。呪詛師の体からは次第に抵抗が失われていく。振り上げられた血塗れのガベルが電灯の光を生々しく反射した。血が滴る彼の指先は手首まで真っ赤に染まっている——
 ——日車、やめろ。
 もはや相手の悲鳴は聞こえてこなかった。機械的に男を殴り続ける日車の行動は、呪術師としての務めや、自己防衛の範囲をとうに超えている。
 そこに見えたのは狂気だ。
 正義感に溢れ、善良な弁護士であったはずの彼が、殺人という大罪を犯すに至ったもの。
 非術師の撲殺を事実として知ってはいたが、彼の内側に眠っていたそれが目を覚ました瞬間を目の当たりにし、日下部の心は凍りついた。
 呪術界や非術師に害をなす呪詛師を殺すこととは訳が違う。憎しみが、殺意が、呪術師でなければ強力な呪霊を生み出していたであろう呪詛が、彼の内側から濁流のごとく溢れ出ているのだ。
 あれは、誰だ。
 俺が知っている日車じゃない。
 まるで怪物——
……何考えてんだ。あいつは、日車だろうが)
 日下部は全身の力を振り絞って上体を起こした。
 任務を終えて駅へ向かっているとき。電車を待っているとき。そして電車に乗った後。ふとした折に日下部を見上げてきた日車の目を思い出す。
 眠気に襲われて重たげに下ろされた目蓋は、日下部との会話を始めると意識的に大きく開かれた。
 会話の内容によって揺れ動き、あるいは柔らかく細められた瞳の奥底にあったのは、堅く揺るぎない善性と理性、正義感であり、呪術師であることの誇りだ。
 あれが日下部の知る日車であり、日車自身もそうあるべきと努めている姿であるはずだ。
 誰が、今の日車を助けることができる?
 目を逸らすな。
 彼がこちらへ戻ってこられないのなら、引き戻すまでだ。
 体を動かすことは容易ではなかった。鉛のように全身が重く、激痛によって意識が瞬く間に遠ざかろうとする。やっとの思いで動いた左腕はいっそおかしいほどに震え、少しずつ、数センチ、数ミリ、一ミリであろうと近くに、近付いて、——触れる。
 殺すな。
 血で濡れた彼のスーツに爪を立て、渾身の力で引く。
 行くな。
 そっちは、駄目だ。日車。
 ——振り向いた彼は幽鬼のごとき形相を浮かべていた。大きく見開かれて血走った目、血に濡れて理性を失い、引きつった顔——それが日下部の姿を認めて驚愕の色に染まる。
「日下部?」
 やっと、目が合った。自分は笑ったのかもしれない。どんな表情をしていたのか、ついに判別できなかったが——
……日車、」
 限界だった。
 腕が滑り落ち、額をコンクリートに打ち付ける。現実から急速に遠のいていく意識の中で、地面の上に投げ出した左手を、強く握り返される感覚だけが残っていた。
 ——連れ戻しに来たのか。
 現実に対する認識が失われていく代わりに意識は己の内部へと、記憶の中へと深く潜り込んでいく。
 絞首刑から息を吹き返した日車を回収してこいと総監部の命令を受け、病院で面会した矢先に言われたものだ。
 午後の穏やかな陽光が差し込んだ先で、日車が手首に巻かれた入院患者用の識別テープをいじっている。その手首と指は長年の刑務所での生活のせいか痩せ細り、骨が浮き出ていた。
 これで本当に戦えるのかと思った。杞憂だった。日車は日下部が考えているより、遥かに強い男だった。
 ——来てくれたのが君でよかった。
 隣には助手席に座り、今よりも短い前髪を風になびかせている日車がいる。ほんの少ししか窓が開いていないのは、ここが高速道路で、手や顔を外に出されると生きた心地がしないからだった。日車はシートに深く座り直すと目を閉じた。寝るつもりではなく、風をより感じたいからそうしているのだと、日下部は知っていた。
 あのときのことはよく覚えている。今でも不思議だ。ほとんど初対面に近かった状況でどうして、彼に強い親しみを覚えることができたのか。
 ——言えよ、それ。最初から。
 自分の声だ。これが最後なのだと悟った。眠気に抗えない。さらに奥底へ、深淵へと落下する意識の片隅で、湯気を立てる食事を前に割箸を手にした自分が、親しげに相手へ話しかけている。
「駄目だ、目を閉じるな日下部! 日下部……!」
 ——今だから言えるけど。
 俺さ、あんたが狂っちまったのかって思ってたんだよ——