大人になってからの松花馴れ初め

pixiv再掲
独身だけど家族皆仲良しの花巻と、既婚者だけど威厳ある家庭で育てられた松川という設定で書きました。極も最終回も出る前に書いたので抜けてる公式設定多々あります
家族への憧れの話です



 二人の女性の話をする。

 一人目、松川の母は優しい人である。と松川は今でも思っている。
 小さいころから父親は男が何事も第一に家庭で大切にされるべきだと考え、父親の道徳が家族の全てだった。それに一切逆らわず、母は依存するように生きていた。松川自身、最初はそれが男女の正しい在り方だと思っていた。
 小学校に入って少し経って友達ができた。初めて土曜日に他人の家庭に訪問した折、父親が玄関の掃き掃除をしているのを見て驚愕した。代わりましょうか、と思わず言うと、その友達は、母ちゃんには逆らえねーよ、と父親と笑い合い、案の定母親から愛ある鉄拳が飛んでいた。
 痛てーなー! と言いながら友達はニヤニヤとしていると、しょうがないねほんとに、とその子の母親は笑った。松川にはその笑顔が眩しかった。母親を中心に太陽のように見えたその家族の形が、それからずっと松川の憧れになる。

 父親の機嫌や都合に左右される母親の、生きづらい不自由さを一時期は同情して憂いたが、それもまもなく収束する。父親が早くに他界したからだ。自分の就職が決まってすぐのことだ。
(母さん、楽になるだろうな)
 と、まるでほんの少し紙に垂らしたインクがじわじわ広がったかのように心にその言葉が染み渡ったので、松川は本気でそう思っていた。
 そうして企業へ勤めて、一人で過ごす母の元へ年に四回は帰った。同期に比べて格段と多い帰省だが、周囲は父親が死んだばかりだから母の面倒を見るのだろう、と推測されて核心には触れられなかった。実際にそうしてもらえると松川自身も助かった。
 とても言えない。母親が、近所のお節介すぎる年上の女性に色々情報をもらい、それを鵜呑みにして生活が染まり、ついには松川に縁談を持ってきだしたとは。
 二十五歳を過ぎた春、松川は母に対して初めて重たかった口を開いた。母親の依存体質は変えられない、知り合いの女性は母親が都合の良い操り人形のようで楽しんでいる、それなら母親を東京へ連れてきて、同居しながら守るしかない。その旨を通話で事細かく説明した。
 しかしそこで松川は、初めて母親の嗚咽と悲鳴じみた心の内を晒された。
『私の居場所を取らないで』
 頭を鈍器で殴られたような衝撃が松川を襲った。
 いつか見た番組で、八十代の女性がリポーターに、「亭主元気で留守がいいのよぉ」なんてカラッと笑っていたのを見て同感する女性陣の多さに、男性の有名なゲスト俳優ががっくりうなだれて笑いを誘っていたのが頭に走った。自分を育てた、この母親は違った。父親が死んで、尽くすところがなくなって、自分の中の渇きがなにによっても満たされなくて、それを見た知り合いが毒を流し込んでいった。渇きの溝は満たされ、やがて土手を腐敗させてもともと頑丈ではない土壌を枯れさせたのだ。
 もう松川は、母親は戻ってこないと悟った。見合いは進み、会場も決まって、妻となる女性が眼前で笑っていた。
 ──松川は、結婚式のスピーチを頼んだのは花巻で良かった、と心から思う。花巻の声は、姿は、松川に何よりの安心をくれた。父にも、母にもない、今の妻にさえ求められなかった人生で最高の瞬間は、松川の高校三年間のバレー部での日々だった、と、遠くで茶化されながら花巻が及川や岩泉に笑顔で話しているのを見て、改めて思った。
 これでいいのだ、と。

 ◇

 二人目の女性とは松川の妻のことである。

 松川が見合いをして結婚をしたころから、松川の妻には男がいた。
 妻はさっさと専業主婦になって松川をATMにしてやろうと踏んでいたら、妻の男が執拗に関係を求めてくる。仕方がないからかわいそうな自分を装って不妊治療と銘打って松川から多めの金をもらい、松川との初めてのセックスを終えた途端、仕事でいない松川の匂いの残るベッドで、妻は男を貪った。避妊はもちろんしていなかった。
 義務的なセックスはそれでも松川の愛情を多少は感じた。彼女はそれに溺れるふりをしながら、定期的に訪れるセックスの周期を正しく理解し、男を誘う判断材料にしているに過ぎなかった。
 金はあるからときにはホテルにも行った。豪華なホテルで男と酒を飲みながらするセックスは、妻の中で一番の興奮だった。やめられない歯車は、いつしか彼女の妊娠という形で一度制止した。
 完璧な周期把握、自信はあった。妻は日に日に大きくなる腹を抱えながら、CT写真を見つめて松川が嬉しそうにしていることに冷や汗を流しながらも、努めて笑顔でいた。
 しかしそれも杞憂に終わった。生まれた子供は松川に瓜二つだった。私は勝利したのだ、と高らかに笑いたい気分で、妻は男にうっそりと連絡を取った。
『今度から避妊はしてほしいけど、関係続けられそうだよ』
 背が高く大人のような色気のある松川を横に据え置いて自慢の夫です、と周囲に羨ましがられながら、陰で乱れに乱れた生活は、新しい別の男を一日だけ昼間に誘ったことで破綻した。
 互いが初対面で手馴れていないメッセージのやりとりから始まり、面倒だがそれでも新鮮な恋にも似た感覚に踊る妻の胸は、焦りと興奮によって失念していたことがあった。
 ──しばしばこの曜日は、松川が午後休を取って早めに帰宅することがある日だということを。
 策士は策に溺れた。
 泣き叫ぶエマを抱えてドアを開けた夫を、妻とその日初めて寝た男は凍るような思いで見つめた。射抜かれたかのように動けない。
 エマは泣き疲れて松川の腕の中で落ち着いてきていた。その大きな瞳がじっとこちらを見た。
 二人はよく似ている。妻は常日頃からそう思っていた。まるで彼女の遺伝子など、どこにもないかのように夫とエマは似ている。
 妻はいつの日か感じた冷や汗を同じように盛大にかきながら、のろのろと着替えた。
「携帯、貸して」
 はっとして男と妻は振り返った。松川の表情は無だ、何も読み取れない。彼女の中で彼はただのATMの男だったはずだ、妻は松川を舐めてかかっていた、その目を見るまでは。カタカタ震える手で自分の携帯を、ロックを解除して渡した。
 いつかどこかで、あれは結婚式だったか、髪の明るい彼の友人が言っていた言葉を思い出す。
『バレー部の中で一番冷静』
 松川の長い指が、トークアプリだろうか──スクロールして調べていた。いくつかのスクリーンショットの音と、自分のまえに立つ妻と男を写真に取った。また妻の携帯を少し触り、そしてもう興味がないようであっさりとそれを妻に戻された。自分の携帯に今度は向き合い、いくらかの操作を終えた後にたった一言、妻に告げた。
「エマは俺の子供なんだね、良かった」
 下がり眉につり目の、少し眠たそうな目が細くなって、微笑んだ。今まで見たことのない、目尻に皺を寄せてはにかむような、笑顔だった。
 彼女はそこからのことは良く覚えていない。離婚に突き進む道は、叫ぶことも泣き喚くことも、抗うことさえも松川の笑顔を思い出しては粉砕され、我が子の眼差しによって全てを否定された。
 あれだけあると思っていた金の出所だった口座には、もうほとんど入っていない。
 そして夫は自分にGPSを付けなかった、携帯も普段と変わらず使用できる。メッセージや通話の内容が聞かれることも、松川の携帯に転送されることもないらしい。
 つまりそれは、自分の行動には少しも興味がないということだ。
 わずかでも妻に愛情の残っているならば、監視をつけたり制限をかけたり、「女としてまだ求められているのだ」と不謹慎な期待をさせるような束縛があるだろう、と、妻はタカをくくっていた。不自由にはなるが、まだ相手を繋ぎ止められると切望していた。
 妻の心臓はぎりぎりと痛んだ。ゼロ、という数字と言葉が、脳内に響き渡る。
 夫と娘が寝静まった夜中に家を抜け出して、懇意だった男に連絡を取る。二人で逃げよう、と告げるためだ。だがあれだけ妻に執心だったはずなのに、彼女に金がないと知ると手のひらを返して罵られ、一回きりの関係だった男とは音信不通になっていた。妻はフラフラとマンションの廊下に座り込み、朝が来るのを待った。
 全てが、松川の手の内なんじゃないか、と、世界が彼の深い黒塗りの瞳の中に落ちていく感覚に陥った。

 後日、弁護士同士がやり取りする小部屋で、出されたお茶を静かにすする夫に、妻と妻の父母は俯いて声も出ない。
 慰謝料の話に入り、妻側の両親は必死に誠意を見せた。バカ娘から搾り取ってくださいと、自分達の老後資金も使うからと申し出た。松川は控えめに笑い、僕はあなた達の老後は幸せであってほしいと伝え、
「僕は、お金に興味はありません、エマがいればそれでいいです」
 と端的に告げた。
 妻は突然目を剥いて、エマを返せと松川に食ってかかる。そう、最後の砦は娘だった。娘なら、腹を痛めて産んでやったあの子なら、わずかでも私に綱を渡って逃げ道を味わわせてくれる。自分がこの夫の世界に引きずり込まれて破壊されることを避けられる。
 松川はしばらく息巻く妻を静観していたかと思うと、おもむろに立ち上がり、廊下へ出ようとした。逃げる気だろうか、と妻が更にそれを糾弾しようとヒールをガツガツと鳴らして詰め寄ろうとした。
 妻の両親は絶句した。松川の開けた扉の側にあるベンチに、小さな少女の姿がチラッと見えたからだ。
「エマ!」
 妻は叫んだ、喉が引きしぼられるほど強く、思いの丈を込めたのだ。それがどんなに醜い塊だとか、どんなに負けたくないという思いからだとか、構わない。もうやめろと泣きながら止める自分の両親を振り切ってわめいた。
 荒い息は、まるで声にならない悲鳴だ。
 ──私を早く、ここからつれだして、エマ。
 少女はビクッと肩を震わせ、母親を恐る恐る見た。汗を流し充血した目をした母親の髪は振り乱れ、スーツは取り押さえられているからすっかり皺まみれになっていた。
 松川の母が、廊下で少女に付き添っていたのか、困惑した様子で中を見つめている。そこへ、廊下から室内へ勢いよく走り出した少女は、松川の足元に駆け寄り、スラックスを握りしめた。
 自分と髪質の変わらない頭を、松川はゆっくりひとつ撫でた。
「お前は、エマから一度でもママと呼ばれたことあるの?」
 松川は娘の前に立ち、ニコリともせず小さく告げる、その声ははっきりと、全員の耳を捕らえた。そして、少女は涙を目一杯に溜めて父親にしがみつきながら、自分の母親に向かって大きな瞳を瞬かせる。
 全てを失ったただの女は、その黒々とした娘の、瞳の中へ堕ちていった。
 ……諸々の手続きを済ませ、廃人のようになった妻と、それを支えながら何度も謝罪する妻の両親に一度だけ会釈して、松川は廊下へ出る。娘に付き添っていた松川の母が、白い清廉せいれんなハンカチで涙を拭くところだった。
「母さん」
 松川はベンチに座っていた松川の母の横に、大きな体を腰掛けた。
「俺は居場所を失ったよ」
 彼女が息を飲んだ。冷たいさざ波が心の中で湧いただろう。胸を上から手でギュッと押さえていた。
 少女が心配そうに、喪服のような黒いスーツを着た松川と、黒いカーディガンを羽織る松川の母を交互に見る。
「母さんも、もう自由になりなよ」
 今の俺みたいに。
 影の伸び始めた窓からの斜陽を、松川は広い背中で立ち上がって受け止めた。

 ──自由。松川の母には無い感覚だった。いつでも誰かに尽くし、誰かと離れてなどいられず、ずっと依存してきた生活は、果たして私をこんな風に、強くしただろうか?
 息子は自分の人生を壮絶に賭けた。母親の言うことも、妻の言うことも、優しい息子は全て受け入れてどうにかしたかったのだと。そうして賭けに出た五年間を経てやっと手に入れた、彼の持つ正しい家族の形である最愛の娘と二人で出発する。
 私のようでも、あの見合いで決めてしまった妻のようでもない、新しい家を一人で作り上げようとしている。
「本当に、ごめんなさい」
 一静。
 息子は笑って頭を振ろうとした。だが思い直して、一つだけこくん、と頷く。
「エマの面倒見てくれてありがとうございました」
 松川の横で、少女もぎこちなく一礼する。ふわふわとカールする癖っ毛は、今朝セットしてあげた松川の母の三つ編みを少し残すだけになってしまった。