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hq松花
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大人になってからの松花馴れ初め
pixiv再掲
独身だけど家族皆仲良しの花巻と、既婚者だけど威厳ある家庭で育てられた松川という設定で書きました。極も最終回も出る前に書いたので抜けてる公式設定多々あります
家族への憧れの話です
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花巻はガタゴトと揺れる車内で、先程の電話を反芻する。
気づいたら隣の座席のサラリーマンはもういない、いくつか前の駅で降りていったようだ。まだ車内では若者が四人、興奮した様子で窓から外を見ていたり、仕事のメールチェックに勤しみながらコーヒーを飲んでいる、まだ新入社員のような出で立ちの男もいた。
松川の離婚はもう揺るがないもののようで、一人娘の親権は松川側にあるらしい。それだけを聞いて、花巻は背筋が寒くなる。離婚の原因は『親権が松川、つまり夫側にある』と聞いた時点で自分の中で起こった泥のような感触の手応えを見つけてしまい、心底傷ついたであろう松川のことを想像した。
次会った時に色々話してくれるという。というよりも、「聞いてほしい」と頼まれた。もちろんだと威勢良く返すと、松川は初めて電話越しで笑った。ほっと胸を撫で下ろすと、松川と自分の予定が合う日をお互いに割り出して、意外と早く次の水曜に会うことが決まった。
『その時、娘が一緒でも大丈夫?』
花巻はまたもちろん、と即座に言った。子供は甥っ子で見慣れているし花巻自身も子供は大好きだ。まだ小さくて言葉も発していなかった松川の子供がどんな風に育っているか見るのが、不謹慎ながら楽しみだと思った。
◇
松川と約束した水曜、プライベートな話でしかも内容が内容なだけに、集まるのは一人暮らしの花巻宅になった。
十八時、花巻は残っていた仕事を明日に回すことにして帰り支度をした。そろそろスーツの上着が恋しくなる涼しさかと思った外の気温は、季節外れの珍しい蒸し暑さでじんわりと汗をかいた。
(意外と暑いな
……
)
ジャケットに入れていたハンカチで軽く汗を拭うと、花巻は帰り道を歩く。まだ秋空とは言いづらい青空の中に細く雲がたなびいていた。縁日で買ったことのある綿あめのようだ、甘いものが好きな花巻はそんなことを考える。これから聞くであろう友人の重たい話を少しでも慰められるような日になればいいんだが、と綿あめとは全く相反する思いを、ちょうど空を真っ二つにするように横切っていく飛行機に向かってぼやいた。
スーパーに寄って惣菜と、ある程度の肉、野菜を買う。松川の子供は今3歳になったばかりだと言った。アレルギーがあるのか、嫌いなものがあるのかなんて全然聞かなかったな、と自分らしくない気遣いの無さに頭を抱える。
どうしたものかと
逡巡
しゅんじゅん
して、小さめのケーキ類があるコーナーへたどり着く。
冷蔵商品を買ったから、スーパーからはなるべく早く歩いて帰った。
仕事と家の往復の毎日、そんな週の半日に松川が子供と薄暗い感情を抱えてやってくる。決して友人だとしても歓迎するものじゃない。自分の疲れが倍増する気がしないでもない。だけど、花巻はお人好しで友人の役に立つことを嫌がらない人間だった。それが高校からの一番の友人だと思っている松川の頼みなら尚更だ。
松川も、そんな事情は承知の上で頼るほど、窮地に追いやられているのかもしれない。
『離婚することになった』
あの電話の声からは、今にも千切れてしまいそうな切なさがあった、泣くことを堪えているような、そんな雰囲気だ。
──自分は独身で彼女も一年前に別れたきりだ。好きな時間に寝起きできる休日に、食べ物も食べ方もテレビの内容も、何も気にせず過ごせる。
でも妻子がいた松川は? それは自由とは程遠かっただろう。それでも子供や奥さんに癒されることも多かっただろう。その生活がなぜ、離婚に至ったのか。
全ては、花巻の憶測に過ぎない。でもこうやって松川の心境を多方面から想像しておかなければ、とてもあの友人の、切ない声色に太刀打ちできそうにない。脳内でどんな話が出ても良いようにシミュレーションしながらも、手は休まず部屋の明かりをつけて掃除機をかけ、少し換気をしながら買ってきた野菜や肉を調理した。
こういう時、女兄弟に揉まれて育って良かったと思う。女性が本来得意とするマルチタスクを平気でこなす花巻の器用さは、バレー部以外に仕事や生活においても活かされた。
──インターホンが、家事を終えてのんびりと音楽を聞いていた花巻の耳にそっと響く。
あれから一時間ちょっと、松川も無事に定時で上がれて保育園から子供と直接ここに来られたらしい。カメラ越しに大きい松川の首元あたりと、小さいかわいいリボンがついた服がちらっと映る。
ああ、女の子だなと思う。甥っ子はもう怪獣みたいだったし年々強くなる子供相手に、大人のくせに本気で喧嘩したりして泣かせたこともあった。今度はそうはいかない、優しいたかひろ君でいなきゃな、と脈がやや早まった。
「どーぞー!」
往来よりにこやかさを増してドアを開ける。と、長身の友人が子供を抱えて立っている。それはいつもの松川のように見えた。
(あんな切羽詰まったような声出してたけど、お前意外ともう立ち直っちゃった?)
花巻は目を瞬かせて友人を見る。ほんの数秒だったけれど、松川もまた目を見開いて、すぐニヤッと、高校時代から変わらない笑い方で花巻だけに聞こえるように、
「空元気だよ、娘の前ではまずいでしょ」
とぼそっと言った。
なんて物を隠すのが上手い奴なんだ。花巻は隠せない、眉毛をぎゅっと下げて、唇を震わせた。
「何で花巻の方が辛そうなの」
でも、ありがとう。
そう付け足すと、松川は「お邪魔します」と靴を脱ぎ始めた。
花巻は、普段から優しくて冷静で面白い松川という友人を懲らしめてしまった事実に対し、あくまで憶測で考えていた内容がなんとなく当たっているんだ、とその彼の言葉から読み取ることができて、歪んだ顔のままほんの少し涙を浮かべた。
そしてふと顔を上げると、今までにほんの数回、自分に向けられたことのある松川の笑顔があった。あの目尻に皺を寄せて、ほんの少しだけ微笑む、ほぐれた笑顔だった。
(こいつはほんとに、今心から安心しているんだな)
それは自惚れでも何でもなく、一番の友人として過ごしてきた日々の経験則の中で得た確信だった。
一連の流れをきょとんとしながら眺めていた松川の子供が、しばらくして子供らしく歯に衣着せぬ言い方でぐっさりと花巻を刺した。
「パパ、このおじさん泣いてるの?」
──ひとしきり松川に大笑いされた花巻はどすどすと、奥のリビングへ二人を案内した。「ごめん待ってよ花巻おじさん」と言いながら腹を抱える松川の真っ赤になった顔に花巻はますます憤慨した。
松川の子供はキョロキョロと珍しそうに部屋を眺め、恐る恐るリビングに入ってくる。
(そうだった、俺は優しいたかひろ君になるって決めたんだった!)
花巻は慌てて少女に向き直り、えーと、と一言前置きをすると、
「俺、花巻です。花巻貴大。たかひろ、でいいからね」
甥っ子もそう呼んでいるのであやかった。決しておじさん呼びを定着させない為の布石ではない。
「たかひろ?」
「そうだよ。あ、今日、普段のご飯がどんなのかわかんなかったから適当に作ったけど、食べられるものだけ食べていってね」
そう言って、年下の女の子に限定の純粋な笑顔を向けた。実際花巻は子供が好きなので、これが彼の心の開け放たれた笑顔ではあるが、果たしてこの子にはどう通じるだろうか。
少女は、はっと花巻を見た瞬間、俯いてしまった。
(やべ
……
怒らせちゃった?)
てんで理由の思い浮かばない彼女の俯きと沈黙に、オロオロし始めた彼は思わずその子の父親にヘルプを要請する。肝心の松川は先にトイレを借り、今まさに少し離れたコートハンガーへ娘の小さな上着とスーツのジャケットをかけるところだった。
(役立たず!)
キー! と音が出そうな表情を浮かべてギロリと松川をひと睨みしていると、少女はパッと顔を上げた。
この顔を、花巻は知っている。
「どうもありがとう」
目尻に皺を作り、と言ってもまだ小さい女の子だからそこまで皺にはならないけど、はにかむような、そんな華奢な笑い。安心の笑い。
ジャケットをかけて戻ってきた松川が、花巻達のやり取りを見て最後に娘の笑顔を見て、ほっと一息ついたのが視界に入り、思わず花巻は少女と松川を見比べた。松川は鼻から抜けるような独特な笑い方をしながら、
「やっぱり花巻に話すこと決めて良かったわ」
と娘の頭をくしゃりと撫でた。
花巻は、まるで自分が撫でられているような錯覚に陥った。
松川の子供の名前はエマという。恵み、に、舞う、で恵舞だった。可愛い名前だね、とエマに花巻は微笑むと、照れたように笑う顔がもはや花巻を虜にした。そこはかとなく、松川の小さい頃もこんな感じだったんだろうと思うと、目の前の大きな男の人生のやり直しを味わっているような気分で誇らしい。そう松川に伝えると、もともとつんと尖っていた上唇がさらに尖って拗ねた表情になった。
(おじさん発言で盛大に笑ってくれたお返しだ)
と気分を良くした花巻はキッチンへ向かって、あらかじめ温めておいた具材を皿に盛り、エマにはフォークとスプーンも用意した。大人用のサイズで申し訳ないが、なるべく小さい物を選んだつもりだ。
「さっき言ったけど、苦手なのあったら残していいからね」
残り物野菜を詰め込んだハンバーグ、つけあわせの茹で野菜、白飯、花巻家特有の具が多い味噌汁。花巻の母は、味噌汁に具が少ないなんて無駄でしか無いと言って、余り物の野菜や肉、魚を投入する。いつか高校生の時松川が晩ご飯を食べに花巻家に遊びに来たことがあり、そのたっぷり食材の入った味噌汁に喜んだし、合理的だなといたく感心していた記憶があった。
「おお、花巻家の味噌汁だ」
友人のほぐれていく表情を見てこれは成功だと内心安堵する。いただきますと小さな声で二人が食べていくのを見て、花巻も箸を進める。
しばらくして、花巻は少し不自然なことに気づいた。エマは同世代の女の子の標準よりも細いのではないか。平均なんてもちろんわからないが、露出していた腕や足の細さを見る限り、細身の奥さんの遺伝かと思い返す。
けれど花巻の作った飯を見た瞬間、スプーンもフォークももちろん使うが、追いつかなくて手づかみで食べるぐらい、がつがつと食べる。時々熱いから、松川が冷まして食事を渡すときも、待ちきれなくてやや愚図るときもある。
子供用の椅子が無いから、クッションを敷いた椅子の上にエマが座っている。そのクッションだって子供の食事で汚れても良いような物を選んで敷いたつもりだが、落ちそうな米粒も手で取ってもったいないと言わんばかり食べていく。
この食べ方に、花巻は松川と顔を見合わせて頷いた。
ここまで愚図ったり、手づかみというわけではないが、腹を満たすためにとにかく食べる岩泉を思い出した。高校時代から食べ方が豪快で、三十代になった今もよく食べるかの人を思い浮かべた。花巻はエマの食欲旺盛な様子に抑えきれない笑いを漏らして、松川が伏し目がちに恥ずかしがりながら「すまない」と呟いた。
「エマちゃん、まだお代わりあるからね」
気に入ってもらえたみたいで良かったと加えると、エマはやっと花巻の存在に気づいたみたいな顔をして、にこっと笑う。
「こんなにたくさん食べたの、ひさしぶり」
花巻の脳裏を掠めたのは、親権の二文字だ。松川が見たこともない歪んだ顔でエマの頭を見つめ、今にも泣き出しそうだった。いつから、とも、どうして、とも言えない。花巻はあの、意識の中にごぼごぼと湧き出してきた泥のような感覚が煮えたぎってくるのを堪え、良く回る頭脳をフルに使った。
「パパのご飯食べたことある?」
松川が、え、という単語が本当によく似合う顔で花巻に向き直る。
「お休みの日はパパの! でも
……
」
「わかる、エマちゃん、あれだろ。パパの、マズいだろ?」
「花巻」
落胆する松川を見て、さっきの歪んだ表情はもはや微塵も無くなったことを知り、この発言は正解だったと心の中で胸を撫で下ろす。
「だってお前、高校のバーベキュー、最後の締めの焼くだけの焼きそばに変な味足して不味くしただろ?」
あとは大学入ってから行った松川の部屋で食べた味のないチャーハンだろ、独身時代のあれだろ。と花巻は思い出し笑いを始める。降参と言うように松川は両手をあげた。エマは父親の知られざる一面を見て、くるくると表情を変える。その純朴な瞳も、どこか松川に似ている。
「花巻、俺が悪かった。おじさん発言は撤回するから」
「たかひろ君は寛大なので、ここら辺で許してあげましょう」
ここまで長い時間あのおじさん発言を引きずるたかひろ君は果たして寛大と言えるのか。花巻は考えないことにした。
エマの胃袋には満足がいくほど収まったのか、スプーンの速度が止まる時間が増えた。花巻は残りをキッチンへ持って行き、冷蔵庫からケーキ屋の白い箱を取り出す。
「今日は特別な」
昔からやたらと得意だったウィンクをすると、エマはまた照れて顔を真っ赤にした。
「エマ、花巻にすっかり毒されたな」
「俺よりイケメンなんて早々いないから、将来選ぶ基準高くなって大変かも」
「花巻の面接受けないと結婚できなかったり?」
「ほとんど圧迫してやるよ」
松川は吹き出した。その笑い方は高校の時と変わらない、たまらない、といった具合の溜まりに溜まったあとの笑いだった。ところどころ、エマは花巻と松川を交互に見て、松川が吹き出したあたりで一緒になって笑顔になる。
この彼女の行動も、甥っ子としか比べられないが違和感が拭えない。花巻の甥っ子が三歳のとき、とにかく大人の会話にぐいぐい入りたくて大声で割り込んできた気がする。でもこれはただの性格で、エマが穏やかなだけかもしれないと花巻が神妙な顔に戻ると、彼の友人は感情の読めない普段の顔付きに戻って、
「エマが寝たら話すよ」
とだけぼそっと、またエマに聞こえないよう耳打ちしてきた。花巻の耳に伝わるくすぐったい低音が、電話のときの切なさを含んで花巻の背筋をぞわりと撫でる。
(バツイチ男性の色気みたいなやつだろうか)
花巻はぞくぞくとする感覚を忘れられなかった。
手元のケーキボックスにエマの視線がじーっと注がれる。花巻は慌てて箱を開けた。子供なのにケーキの箱を開けるまで待てるなんて、俺だったら待てないのにと変なところで感嘆する。
「
……
シュークリーム?」
「嫌いじゃなかった? 大丈夫?」
花巻は食べたかった、三人で。エマの気持ちを甘いもので釣ってるような気分だったけれど、まだなにが好きか嫌いかわからない間柄を和らげるには、食べ物が一番だと思ったのだ。疲れている体に甘いものは染み渡る、それはきっと、精神にも効くだろう。
スーパーで慌てて買った安いシュークリームだったが、三人で気持ちを満たすのに十分な量だった。
「今日は図々しくて悪いけど泊まるつもり」とあらかじめ松川から聞いていた。二人の帰る場所に関して詮索するのも悪いと思いながら、花巻は客用布団を二組出す。もともと一人暮らしの狭い押入れに押し込まれていた布団は、つい最近泥酔した元バレー部の阿吽、岩泉と及川が夜中にはた迷惑にもやってきて使用したから洗いたてだ。
風呂場からは、松川の心地よい響く声が少しと、エマの柔らかい話し声が聞こえてくる。今日保育園であった出来事を話しているのだろうか。二人には狭いであろう浴槽だけど、せめて気持ちの上で満たされながら入れるようにと新しいバスマットを出して、タオルも新品を引っ張り出した。途端、ガラッとドアが開いてのっそりと松川が現れる。
「あ、花巻、ごめん、ボディーソープ切れたっぽいんだけど、予備ある?」
肩から腕にかけての筋肉は部活時代より衰えてそうだったが、胸板は強固だった。腹筋は程よく締まり、尻は相変わらず小さい。足は痩せた、だが長くてがっしりとしている骨格は変わらない。
「
……
花巻?」
舐め回すように見てしまっただろうか、長い時間経ったように見えたその松川との対面時間は、手元の時計の秒針が二十を数えた程度だった。
「
……
あ、ある、ちょ、っと待って」
換えのボディソープをさっさと松川に、本人を見もせずに手渡して、洗濯カゴに親子の着替えを忙しなく詰めた。「それじゃあごゆっくり!」と告げて扉を乱暴に閉めた。
「えー
……
と、あの、詰め替え用渡されても、濡れた手だと開けづらいんだけど
……
」
松川の嘆きと、「パパどうしたの?」とのんびりした娘の声が、お風呂場に舞っているのを遠くから聞いた。
洗面台の鏡で見る自分は耳まで真っ赤で、片手で顔を覆っていた。
花巻が風呂を交代するころには赤かった顔の熱も引いて、すっかり平常心で親子に接していた。あの興奮は何だったんだろう。友人に対してむせ返るような熱を感じたのは。
思えば今日は変な気分の高揚がある日だった。頭を撫でられたような、甘えたくなるような、ぞくりと背筋が痺れるような、ふわふわと暖かいような。
(きっと久しぶりに松川がいて、しかもエマちゃんっていう可愛い子がいて、でも二人にはイレギュラーな重苦しい何かが渦巻いていて)
それに当てられてるだけだと、花巻は自身に言い聞かせる。
シャワーを浴び、湯船も少し浸かるけれど長湯する気分にはなれなくて早々に出た。ボディソープの詰め替え用であった袋がゴミ箱に丁寧に畳んで捨ててある。そのまま投げるようにポイっと松川に渡してしまって、切りづらかっただろうな、ごめん松川。そんな心の謝罪がドライヤーの風に流れた。
花巻はパジャマ代わりにしているTシャツとハーフパンツを着込み、風呂に入った後の残り湯を洗濯機へ入れられるようにホースを伸ばす。そういえば、湯船に入れた入浴剤は洗濯にも使える成分だったよな? と入浴剤のパッケージを確認する。パッケージ越しにふと床に目を落とすと、小さな足が二つ、内側に親指同士を擦り合わせているのが見えた。
「たかひろくん」
礼儀正しく控えめに、エマはくるくると巻いたパーマのような、肩まで届く父親似の髪の毛を揺らして花巻を呼んでいた。
「どうしたの? あ、布団変だった?」
もしやきちんと洗えていない部分があっただろうか。花巻は慌てて浴室のドアを閉め、エマの向かいにしゃがんで聞いた。
「あのね
……
あのね、一緒にお布団で寝てくれる?」
花巻はもしや聞き間違いではないかな、と可愛いおねだりに、一応疑問符を飛ばした。エマにとって自分はたった一日、しかもほんの数時間会っただけの人間だから、おねだりするだなんてよほど心を砕いてくれたのでは。
そうするとエマはもじもじと花巻を見上げる。
「エマ、皆でお布団で寝たい」
松川が娘を探す声が聞こえて、エマは「ここだよ」とやや大きめに声を張った。
「花巻探してくるって言って布団から出てっちゃったから
……
なにかあった?」
娘がもしかしてなにかしただろうか、と不安を滲ませる彼の顔に花巻は首を振って、
「皆で一緒に川の字で寝るべ」
と微笑んだ。
川の字で? うん、川の字で。
寝室に戻って、さてどうしたものか、と首をひねる。
花巻宅は2LDKでわりと広い。百八十四センチの彼の身長は天井の高さも必要とするし、縦横に広い間取りを求めて部屋を探した結果、それなりに価格はしたがちょうど都内で会社から通いやすい距離の、空いていたマンションに巡り会えた。
社会人になって大して使うあてのない給料が飲み代を差っ引いても持て余すくらいあったり、ある時は同棲まで漕ぎ着けた彼女が半分家賃を払ってくれていたり(貴大って友達くらいでちょうど良いかもと言われて振られた)、祖父母が寿命で立て続けに亡くなってしまい悲しんでいたところに、母から遺産が丸裸で少し渡されて複雑な心境になったり(実家に帰れば必ず真っ先に仏壇に手を合わせにいく)、彼はわりとお金に困らない幸運の持ち主だった。そんな風に恵まれながら広い部屋を借りておいて良かったと、今ほど思うことはない。
ただ問題は、これまでは泊まりに来るのがあくまで花巻より背の低い彼女だとか、及川や岩泉がベロベロに酔って来訪し、やたら狭いところでも平気で寝たりだとか、何人かでやってきても誰かはリビングで寝たりと工夫していたから過ごせたようなもので、今や百九十センチに到達しかけている松川と百八十四センチで止まっている身長の自分が、小さい子を挟んで眠るとなれば、まず足りないのは部屋の長さである。
思い立って、花巻はリビングのソファやテーブルをガタガタと隅へ追いやる。見ていた松川が意図を察して寝室に置いていた布団を持ってきた。リビング横に仕切ってあったもう一つの部屋の引き戸を全開にして、布団を並べていった。エマが最後に一つ一つの布団に枕を並べる。少し狭いが、三人で横並びで寝られるスペースが確保できた。仕切ってあった隣の部屋もきちんと片付けておいて良かった、と花巻は密かに息を吐く。
「さて、寝ようか?」
ふとエマを見ると、瞼は少し重たそうになっていて、横になってみればすぐに寝てくれそうかも、とうっすら思う。
──保育園から帰って知らない人の家へ行き、知らない人との会話、たくさん食べられたご飯、週末しか過ごせないパパとの珍しい時間、今日は彼女にとって異例のことばかりで、刺激が多かったかもしれない。
「花巻、横にいてくれるだけでいいから、ちょっとエマにくっついてやってくれない?」
そっとエマを寝かせる松川を見る。大きな父親の手だ、触れた時に彼女が安心しているのがよくわかる。そっと布団に下ろすと、花巻は言われた通り、彼女を胸元にくっつけた。自分の甥っ子と昼寝をした時のことを思い出す。子供特有の温かい鼓動、ふわふわの髪、安らかな寝息、長い睫毛、柔らかそうな頬。どれも甥っ子とは少しずつ違って、でも心地よさはよく似ていた。
「エマはさ、結構神経が図太い方で助かること多いんだ」
「そうなの? 例えば?」
「
……
本当は神経質になるはずなのに、マイペースというか、知らない人の前でも飯を食えたり寝られたり。堂々としてるっていうのかな?」
ぽん、ぽんと規則正しくエマのあばらあたりを、松川が柔らかく叩く。彼から溢れる言葉の端々に、現れてくるこれまでの生活の切片を花巻は見た。
彼は、心に突っかかっている棘や茨を吐き出したがっている。エマは三十秒もしないで眠った。今なら話せる、聞ける、松川。さあ。
花巻は思わず、手を伸ばした。
さっき風呂に入ったはずなのに、今子供と触れ合っているというのに、松川の頬は冷たくてかさついていた。いや、かさついているのは自分の手が緊張で震えているからか、冷たく感じるのは自分が熱すぎるからなのか。
びっくりした松川の視線が絡む。花巻は、自分のやっていることが小っ恥ずかしいことだとわかっているけれど、
「松川、お疲れ様」
なにがあったかはまだはっきりと聞いていない、花巻の憶測が当たっていて、エマの様子も違和感があって、言葉にも気になる点はいくつもいくつもあった。けれど、松川は今日一度も弱音を吐かなかった。むしろ少女のことを優しく見つめて、いつも娘に助けられている、だなんて言う。
これが目のまえの寂しげに笑う男にかける最適解だろう。花巻は微笑みながら相手の頬をすりすりと撫でる。本当は頭を撫でてやりたかったが、悔しいかな寝ていても身長の差を思い知らされる。
松川はなにも言わない。今はうっすらと膜があるようにいつも以上に感情が見えない。だけれど、頬を撫でる手を制止することはなかった。
「
……
結婚したすぐあとに、それまで働いてた職場をあいつが退職したがったから、専業主婦になりたいのかなと思って別にいいよって言ったんだ」
松川は、電話越しに聞いてたあの切ない声で話し始めた。対して花巻は余計な相づちを打たない、静かに流れる子守唄のように独白は続く。エマに聞こえないように、本当に静かに。
「そうしたら今度は子供が欲しい、でも過去に婦人科系の治療をしたことがあってもしかしたら不妊の可能性もあるから、不妊治療にも行きながらになるかもしれないって言われて、俺は少し多めに生活費と病院代を渡したり、検査に合わせて義務的なセックスを要求されたりして」
花巻の、頬を撫でる手が止まる。ふいにじくじくと、意識の泥が溢れ出す。それでもなるべく表情に出さないように気をつけて、松川に視線で先を促した。
「
……
一年くらい経って妊娠がわかって、そこからエマが生まれるまで、俺は仕事漬けだった。生まれたら子育て楽しみだったし、それまではがっつり仕事に専念しててってあいつも言ってくれて、俺はとにかく没頭した」
そういえば、一時期松川の飲みの付き合いが悪くなったときがあったな、と花巻は思い出す。二ヶ月に一回程度、高校バレー部の卒業生で飲んでいたが、松川は新婚だから来づらいのかな、いいなあ、だなんて皆と話していたことがある。
「新生児室でエマの顔を見て、妻に会いにいった。あいつは妙に安心してた。そして、エマが一歳過ぎたくらいの頃、家に男がやってきた」
やってきた、というか、やってきてた、というか。
「俺のじゃない靴があって、エマの泣き声が響いてて、何かあったんだと思ってリビングを見たら、床に転がされてたエマがいて、寝室にはあいつと男が慌てて服着ようとしてた」
──どろり。
臓腑が重たくなっていく。煮えていく鍋のようにぐらぐらと、それは花巻の胃腸を揺るがす。松川の中の苦しみは、花巻の心に染み渡ってぼたぼたと落ちる。まるで松川から吸い取っているようだ。
「俺は許した。だけど、それからはもうエマとしか話さなかった。俺は仕事の合間を縫って自分の宮城の実家にエマを預けて、そこからあいつと長期間の離婚調停だ」
エマはその中で二歳を迎え、念のため病院へ連れて行ったという。
「エマは一言二言しか言葉が話せなかった。体は細いし目が虚ろで、とにかく長時間眠って食事を摂らなかった。俺の母さんはそこからずっと俺に謝ってた」
「え、何でだよ?」
その疑問に対し、自嘲気味に松川は笑う。こんなに冷めて笑うこともできるのか、と花巻は、この時ばかりは眉を眉間に寄せて嫌そうな顔をした。そんな松川は見たくなかった。それでも、花巻の嫌いな顔のまま、松川はため息を吐き出す。
「
……
俺、母さんの知り合いに言われての見合い結婚だったんだ」
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