7話✧情械




「っ……

声にならない声が喉の奥で震え、掠れて消えた。
ルフレは呆然と彼がいたはずの空間を見つめる。
もう、涙すら出なかった。

このまま、ひとりになってしまった僕は……どうすればいいんだろう。

空虚。
心を支えていた柱が、音もなく崩れ去ったような感覚。
涙を流す力も、怒る感情さえも、もう残っていない。

感情というものの存在自体が、ひどく遠く思えた。

そんな中でバートリーは何も言わず、頭を抱えたままルフレの体へと歩み寄る。
崩れ落ちた肉体の傍らに膝をつき、そっと頭を乗せた。

徐々に、感覚が共有され首と胴が繋がっていく。
ルフレはゆっくりと瞬きをした。
動作を確かめるように片手を握る。

(……)

そして、立ち上がった。

剣を手にし、無言のままバートリーの目の前に立つ。

そしてその刃を彼の喉元へ突きつけた。

……どうして、僕を元に戻したんですか?」

その声には、怒りでも悲しみでもない、深い戸惑いが滲んでいた。
理解できない、許せない、でも否定しきれないそんな混濁した感情が、震える声に宿っていた。

バートリーの目がかすかに揺れた。

頭を繋げたとき、彼の手はひどく震えていた。
躊躇いもあっただろう。

ここで自分を元に戻せば殺される未来なんて目に見えていたはず。あのままにしておけば復讐もできただろう。

なのに、なぜ……

……カラベラフィルムさんとの……約束、だから……

バートリーは口の端を無理やり引き上げて、笑おうとした。
けれどその笑みは、張りつけた仮面のようにぎこちない。

は?僕の願いも、知ってるんでしょう……?それに……僕が、あなたの母親を殺したことも」

静かに告げる。

その一言に、バートリーの肩がはっきりと震えた。
彼の表情が苦悶に歪み、母親の流した血で赤くなった自身の服を握りしめる。あの日の恐怖を思い出し、呼吸が乱れ足が震えた。

……
けれど、彼は逃げ出さなかった。
それどころかキッ、と顔を上げルフレと視線を交えた。

……そんなの……怖いに決まってるじゃないですか……!」

声が上擦る。

「本音を言うなら、今すぐにでも逃げたい……!今だって、あの日のことを思い出すたびに……震えが止まらないんです……

バートリーの拳が震える。
その小さな動作すらも、彼の心の中にある葛藤を露わにしていた。

……だけど……
……ここで逃げたら……カラベラフィルムさんとの約束を破ってしまうから……

彼の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

……ルフレ殿なら大丈夫、って……カラベラフィルムさんが、そう言ってくれたから……僕は、その言葉を信じないといけない。命を、無駄にしたくないから……

ぽろぽろと涙を流しながら、それでもバートリーは言葉を紡いだ。

そのとき、ルフレの脳裏に浮かんだのは、カラベラフィルムの最期の言葉だった。

……ルフレ殿なら、きっと私たちの想いを知れば人間を滅ぼすなんて決断はできないはずだ』
『彼は優しい。もし、私たちがそれを悲しむとわかれば……きっと、踏みとどまってくれる。』

……私は、彼からの信頼を壊してしまったかもしれない。
だが、それでも……私は、彼の善意を信じている。』

……あぁ、貴殿の言う通り、私の案は彼の善意を利用する。』

……恨まれても、仕方あるまい。』

静かに思い出されたその声は遠くて、でもはっきりと彼の胸に届いた。
誰かを信じるということがどれほど苦しく、どれほど強いことか

ルフレは目を閉じる。
そしてぽつりと、まるで独り言のように呟いた。

……やっぱり、僕が苦しむって……わかってるんじゃないですか……

それが誰に向けた言葉なのか、彼自身にもわからなかった。

このまま歩みを止めれば、あんな最低なことをしてきたカラベラフィルムの思惑通りになる。
それがどうしようもなく、癪だった。

目の前にいる人間の子供に、まるで諭されているようなこの状況も。

彼さえいなければ、ラートは……消えなかったかもしれないのに。

グラディエーターと白浪の思いも、樊凌の記憶も、カラベラフィルムの信頼も、ラートとシアノの願いも、全部を裏切ってしまうことになる。
そんなことは、わかっていた。

けれど、そんなのは自業自得じゃないか。
自分だけ満足して消えてったのは自分達の方だ。

歴史は生き残った者で作られる。ならば文句など言っていいはずがない。

だからこそ、言い放つ。

……残念ですけど、僕はそんなに優しい聖人君主じゃないんですよ」

乾いた吐息と共に吐き捨てたその言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。

剣を握り、腕を振り上げる。

バートリーの首へと狙いを定め振り下ろす、その瞬間。

……その刃は、届かなかった。

ほんの寸前で、腕が止まった。

……止められた……

まるで見えない手が、ルフレの腕を掴んでいるような感覚。

グラディエーターが、樊凌が、カラベラフィルムがシアノが。

皆がそこで立ち、静かに彼を見つめ、言葉もなく手を添えている気がした。

『いつか、後悔してしまう』

その声が、確かに耳元に届いた気がした。

「っ……僕を……置いていったくせに……! 死人に口なしでしょう……!」

嗚咽混じりに叫ぶ。
声が震え、喉がひりついた。

……

それでも剣は動かせなかった。

握っていた力が、指先から抜けていく。

カラン、と音を立てて剣が地面に落ちた。
それと同時に、ルフレの膝が崩れる。



……どうして……なんで、僕らが……こんなに苦しまないといけないんだ……

息が詰まり、声が掠れた。

人間に利用され、忘れられ、嘲られ、期待を裏切られ続けた。

ルフレは数えきれないほどの罪人を処してきた。
人間は過ちを犯し続ける。

この世界に平和が訪れないのは、人間がいるからだと。
人間は、消えるべきだと。
ずっとそう思っていたはずだった。

でも

自分の中にぽっかりと空いた、“誰も信用できない”という空白。
その隙間を埋めてくれたのは、ただ一握りの、信じることのできた仲間たちだった。

……そして今。
もし、彼らが――人間の善意を信じていたのだとしたら……

……次、裏切られるときは、自分らも一緒ですよ』

そんな言葉が、幻のように脳裏をかすめた。

けれど、それとは別に、ルフレの心はすでに、限界に近づいていた。
何度も、何度も、何度も……仲間たちの信頼を裏切ってきた。

もう、誰かに裏切られるのも
そして、誰かを裏切るのも、嫌だった。

その思いが、ルフレの力を奪った。

地面に崩れ落ちたルフレと目線を合わせるように、バートリーがしゃがみこむ。

無言のまま、少しの間見つめ合った後、彼は優しく口を開いた。

……やっぱり、ルフレさんは、本当は優しい人なんですね」

その微笑みは、ごく自然なものだった。
作られたものではなく、彼の心からにじんだもの。

ルフレは視線を逸らした。

……っは……何を根拠に。僕が人を殺してきた過去は、変わりませんよ……

そう言っても、相手の目は変わらなかった。

バートリーは静かに言葉を重ねる。

……人間に対しては、そうかもしれませんけど……
でも、仲間にはすごく、優しいじゃないですか。
優しさの対象は、人だけじゃないですから」

ルフレの目が、ほんの少しだけ彼に向き直る。
そのまま視線が交差した。

ラートさんの記憶が……言ってたんです。『ルフレは人間は嫌いだけど、自分たち“械”には、優しい』って。
……おかしいですよね。そんな事あったわけないのに、親を殺した相手に、手当されて……
あったかい気持ちになった記憶があるなんて……

バートリーの視線が、地面に落ちた剣へと移る。

そして、そっと手を伸ばし、その剣を拾い上げた。

僕を殺すつもりですか?」

声はかすれていた。
今にも消えそうな、細く鋭い問い。
けれど、バートリーは静かに首を横に振った。

僕は、あなたに……生きて貰います」

その言葉は静かで、けれど真っすぐだった。


「人間たちが、もう一度平和を取り戻すために。……あなたには、その協力をしてもらう」

ルフレは思わず目を見開いた。
何を言っているのだろう、この人間は。
自分は数えきれないほどの命を奪ってきた。
彼の母親さえも。
なのに……

あなたには、生きて、罪を償ってもらう」

その言葉が落ちたとき、空気が震えた気がした。

……これが、僕が思う、一番の復讐だから」

バートリーはそう言って、ふわりと微笑んだ。
復讐、と言う言葉からは想像のできない優しい顔。
その笑みは穏やかで、どこか悲しげだった。

……僕はあなたを殺すことも、許すことも出来ない……弱い人間だから」

そう言って、バートリーはそっと剣をルフレに差し出した。

何を言っているのか分からなかった。

そう思っても、彼の目を覗き込めば、そこには揺るぎない光が宿っていた。

どうして、彼はそんな目で未来を語れるのだろう。
まるで、この先に“続き”があることを疑いもせずに信じているようだった。

─必ず、明るい未来があると。

その言葉が、唐突にルフレの中で反響する。

……そして、ふと。
記憶の底から、ある光景が甦った。

……ナーデルの本……

いつも未来を見据えたような言動をしていたり彼女の手には、1冊の本があったことを思い出す。
その中身を元に話を進めたり、議論の参考にしたりしていた。

皆で一緒にいた時は気にも留めなかった。
けれど今、ひとつの違和感が蘇る。

どうして、白浪の時代の記録が「平叶の言葉」で書かれていたのか。

この世界では、過去に関する書物はすべて処分されたはずだ。
過去を記す言葉すら忌避され、記録は姿を消した。
それなのに……

都合よく核開発施設の爆発と、吹雪型駆逐艦の業績が同じ本に収められていた。
しかも、それだけが時代を越えて残されていたなんて。

『ん〜なぁんか、ボクらのためだけの記録、って感じやなぁ』

誰かの声が脳内に響いた。

……僕らのためだけの……?」

『俺たちの自叙伝かもしれないな!』

調子のいい誰かが、楽しそうに付け加える。

『しかし、なぜナーデル殿がその本を持っていたのだ? 時系列が逆になってしまうが……

『時辰儀って前提があるんですから。ナーデルが未来から来た、って可能性もあるでしょう』

『つまりは、未来は“ある”ということだ!! そして、俺たちの記憶を書き残した者が現れるはずだろう! 違うか、ルフレ!』

誰かの声とともに、背中をドンと叩かれた気がした。
それは幻覚かもしれない。記憶の戯れかもしれない。
でも確かに、そこに彼らの“声”があった。

ルフレはゆっくりと顔を上げた。
今までとは違う、確かな光をその瞳に宿しながら。

……館に戻ろう」

その一言に、迷いはなかった。

まだこの世界には、続きがあるかもしれない。