7話✧情械




二日後。外は大雨だった。
静まり返った町に、雨粒が屋根を叩く音だけが延々と響き渡っている。

ルフレは、薄暗い寝室のベッドで静かに目を開けた。
しばらく天井を見つめたまま、何も考えずに呼吸を繰り返す。

この家に人はいない……いや、いなくなったのではない。彼が消したのだ。

寝台の足元、木目のフローリングには血が赤黒く染み込んでいた。
血溜まりの隣では、首を刎ねられた人間の死体が横たわっている。虚ろな目を見開いたまま、どこか遠くを見つめていた。

……朝か……

誰に言うでもない言葉を吐き、ルフレは身を起こす。
休息のためだけに踏み込んだ家。だが当然、そこにいた人間を見逃すつもりなど最初からなかった。

ベッドを下り、転がった死体を足先で押しのけながら、静かに寝室を出る。

階段を降り、洗面所の鏡の前に立つ。
飛び散った血飛沫で斑に曇った鏡に、自分の顔がぼんやりと映っていた。
冷たい指先で髪を整え、乱れた服の裾を直す。足元では、別の死体が横たわっていた。邪魔なそれを躊躇なく足で押しのける。

やがて身支度を終えたルフレは、深くマントのフードを被り、雨音が響く街へと一歩を踏み出した。

……さて、ここからどうしようか……

灰色の雨が、全てを洗い流していくようだった。
彼は傘も差さず、ただゆっくりと歩きながら考えを巡らせていた。

人間を探し、消し去る。
だがこうして街を歩き、ひとりひとり見つけては殺すそんな方法では、いったい何年かかるのだろう。
あまりにも非効率。もっと確実で、根本から「終わらせる」方法を考えなければならない。

ふと、カラベラフィルムのことが脳裏をよぎる。

(……いつか、こうなる日が来るとは思ってたけど……)

彼が人間に対して友好的であることは、初対面の時点で察していた。
ルフレの願いに最も強く反対するのは、間違いなくあの男だろう。

しかも、自分と彼が正面から戦った場合の勝率は圧倒的に低い。
彼の持つ“水”の能力は、あまりにも万能すぎる。
遠距離から自在に水を操られれば、こちらの“核心”など簡単に破壊される。
仮に距離を詰めて刃を振るえたとしても、腕を断たれれば終わりだ。

だからこそ、ルフレは先に樊凌たちに声をかけていた。
押しに弱い彼なら、他の械たちの意見に流されて、しぶしぶでも了承すると思っていた。

それだけではない。もう一人、確かに誰かに声をかけた記憶がある。

あの人ならカラベラフィルムを力ずくで止めることができる、そう思っていた。
なのに思い出せない。

ズキリ、と鋭い痛みが頭を貫いた。

(……全て、壊れてしまった……いや……壊してしまったんだ……)

ルフレの足が止まる。雨音の中で、鼓動だけがやけにうるさく響いているような気がした。

自分が目指してきた“真の平和”のために、多くのものを犠牲にしてきた。
人々の暮らしを壊し、仲間を失い、街を焦土と化しそれでも信じていた。これが「正しい」と。

けれど、ふとよぎる問いがある。

(……本当に、正しかったのか……?)

もし、あの日、剣を抜かなければ。
もし、誰かの声に耳を傾けていれば。
仲間を失わずにすんだのではないか。

後悔だけが胸を満たす。

かつては、人間をすべて消さずとも済むのではないかと思えたこともあった。
仲間たちの言葉に心が揺れた日もあった。

だが今は、もう思えない。

人間への憎しみは、自分の中でかつてないほどに大きくなっていた。

……しかし、同時にそれと同じ強さで「殺してはいけない」という想いもまた自分の中に根を張り始めていた。

剣を振るうたび、誰かがその手を押さえているような気がする。
誰かの声が、心の奥底から自分を止めようとしているような……

だがルフレは、何度もその“手”を振り払った。
そして、躊躇なく人間の首を落としてきた。

1人、また1人……そのたびに、自分の選択が仲間の願いを裏切っていく感覚がした。
その重さを背負いながらも、断末魔で仲間の声を掻き消してきた。

かつて掲げた“正義”という名の刃は、今や血にまみれて錆びついている。

けれど、それでも進まなければならない。
この手で終わらせると決めたから。誰よりも傷ついてしまったから。

雨はまだ降り続いていた。
ルフレは立ち尽くしたまま、空を見上げる。

仲間を信じ抜くことも、裏切ることも。
人間を愛することも、消し去ることもできなかった。
優柔不断で中途半端な意思が、いつしかこの孤独を生んでいた。

(……けれど、もう止まれない)

(次こそ、僕は……僕の信じる平和な世界を……)

心の中で静かに呟いたその時、不意に耳に届いたのは微かな人の話し声だった。

ルフレは反射的に足音を殺し、声のする方へと歩を進める。

小さな家の背後……雨に打たれた木の塀の影に、それはいた。
ふるえるような、あまりにも小さな人影。

まだ幼い、二人の子ども。
姉と思われる少女が、腕に赤子を抱きながら啜り泣いている。
その背には、既に醜く変わり果てた死体。もしかしたら、彼女たちの親だったのかもしれない。

少女は剣を手にしたルフレの姿に気づくと泣くのをやめた。
ただ、目を見開いてこちらを見上げる。

まるで被食者が獣に見つかった時のような、怯えと絶望が入り混じった表情だった。

……人間なんかに生まれるから、こんな目に遭うんですよ」

雨音にまぎれた声で、ルフレはそう吐き捨てる。
そして剣を振り上げた。
せめて、一瞬で殺してやろう。
そう思いながら、少女の首に刃を振りかざす……

「っ……

少女が咄嗟に赤子を胸に抱き寄せる。
守るように、包み込むように……

その動きがルフレの腕を止めた。

一瞬、星の瞬く夜の記憶が脳裏をかすめる。
誰かが、誰かを守ろうと手を差し伸べたあの夜……

ルフレは記憶を追い払うように首を振った。

そしてもう一度、決意を押し込めて剣を振りかぶった、その時─

「あっ?」



自分の声が漏れた。

次の瞬間、視界が傾き、世界がぐらつく。

視界の端に自分の体と、見慣れた青い流動体が見えた。

──ああ、やられてしまったのか。

落ちていく自分の首を、青い液体のクッションがそっと受け止める。
地面が近づき、コンクリートに打ちつける雨音が大きくなった。

視野の端で赤子をしっかりと抱きながら雨の中を駆け出していく少女の姿が見える。

……ルフレ殿……

静かな声が降りてくる。
耳に馴染みすぎたその声。

優しい手つきで、首を抱え上げられる。

(ああ……結局、「正義が勝つ」なんて綺麗事で終わるのか)

僕の願いは、やはり叶えられないのか。
その悔しさを噛み殺すように、ルフレは皮肉めいた言葉を絞り出した。

……案外、来るのが遅かったですね。やっぱり、色々考えてたんですか?」

その問いにカラベラフィルムは一瞬視線を逸らした。
そして、短く言った。

……ああ」

歯切れが悪い。迷いが残るような乾いた返事。

……殺すなら、早く殺してくださいよ」

どこか諦めたようにルフレがそう言うと、カラベラフィルムは先ほどよりも深く、寂しげに目を細めた。

……すまない、ルフレ殿。私には、他に選択肢を見出せなかった」

彼はただ、そうつぶやいた。

(……やっぱり、僕は殺されるのか)

しかし

「どうか、よろしく頼む」

こつん、と額が合わせられた。

……は?」

予想もしなかったその言葉に、ルフレは目を見開いた。
同時に、すぅっと全身の血の気が引いていくのがわかった。

「っ!カラベラフィルムさん!!一体……何を考えてるんですか!?僕は、人間を……!」

叫びながら体を動かそうとするが、ぴくりとも動かない。
肌に絡みついた水が、まるで鎖のようにルフレの体を縛っていた。
カラベラフィルムが水を操っている。

(っ、ダメだ……動けない……!)

その間も、彼は何も答えない。
ただ黙ったまま、額をルフレに重ねている。

……っ」
「どうして……! 置いていかれる側の辛さは、あなたも……!」

言いかけてルフレの言葉が止まった。

……まさか……

震える声で口にする。

……全て、分かった上で……伝承を……?」

その言葉の恐ろしさに、自分でも震える。

どうか違うと言ってほしかった。
そんなルフレの願いを裏切るように、カラベラフィルムは小さく、静かに呟いた。

……すまない」
「っ……そんなの、あんまりだ……

ルフレの口から、力ない声が漏れる。

彼は知っている。
命と引き換えに何かを託された時、それを断ることができない自分を。
それがどれだけ残酷な思いつきであっても、どれだけ苦しくても。

何人もの仲間に置いていかれたからこそ、託された思いの重さも、その重さが呪いになることも、ルフレは痛いほど知っている。
それはカラベラフィルムも同じはず。

「ルフレ殿……貴殿の目で、人々の善意を見せてくれ」

その言葉と同時に、カラベラフィルムの記憶が激流のように流れ込んでくる。

「っいやだ……いやだ……! カラベラフィルムさん……お願いですから……もう、やめて……

ルフレの懇願は、届かない。

水責めの記憶。
館ですごした日々。

そのすべてが、流れ込んでくる。

視界が滲んだ。

すべてを伝承し終えたカラベラフィルムが、額をそっと離す。
その顔を見て、ルフレはさらに顔を歪めた。

……どうせなら、グラディエーターさんやファンリンさんみたいに、“やりきった”って顔してくださいよ」

彼の表情は……それとはほど遠かった。
まるで、ルフレと同じくらい……いや、それ以上に辛そうだった。

……

言葉はない。
ただ、沈黙と雨音だけが残る。

そして、カラベラフィルムの輪郭が、青く透けはじめた。

「本当に……最低な人だ……

吐き出すように言っても、何も変わらなかった。

泣いても、縋っても、罵っても。
この結末は、もう変えられない。

無力感に呑まれていたその時、誰かの手がルフレの頭に触れた。
視野が、ぐっと低くなる。

……バートリー殿。ルフレ殿を、頼む」

……はい」

(今……あの人間が、僕の頭を……?)

もう、怒りさえ湧かなかった。

視野の低さの中で、カラベラフィルムとの距離が一歩、二歩と遠ざかっていく。
雨で視界がぼやけて、彼の表情はもう見えなかった。

けれど、
その身体が、少しずつ形を失っていくのだけは、確かに見えた。

「────」

「──────」

最後に彼が何か言葉を紡ぐ。
けれど、その声は雨音にかき消されて、ルフレには届かなかった。

聞き返そうかとも思ったが、なんとなく、それは自分に向けた言葉ではない気がして。
結局、ルフレはそのまま彼の最期を見届けていた。

彼の姿が、完全に雨に溶けて消えた。

そこに残されたのは、三つの破片だけだった。