カラベラフィルムとルフレは、ただ、立ちすくんでいた。
静まり返った空気の中、2人の瞳に映るのは、地面に倒れたひとりの少年の姿だけ。
数分前まで、この場にはラートもいたはずなのに。
…彼は目の前の少年に伝承し、塵のように静かに消えてしまった。
ぽっかりと空いたその場に、2人だけが取り残されていた。
この世界には、まるで自分達しかいないようにすら感じてしまう。
(
……また、見えなくなってしまった)
カラベラフィルムは心の中で呟いた。
同時に、じわりと冷たい喪失感が広がっていく感覚を覚える。
カラベラフィルムはふと、周囲がざわついていることに気がついた。
人々のざわめきが聞こえる。
……いつの間に、こんなに集まっていたのだろう。
どこから見ていたのか。どこから現れたのか。
彼らはただの傍観者なのか。
いや
…それとも、排除すべき「敵」なのか。
(
……)
霧がかった思考では、その判断すらつかなかった。
「
……カラベラフィルムさん」
その時、隣からルフレの声がした。
少し震えた声に、目を向ける。
「
……ルフレ殿
……」
その顔は、戸惑いと悲しみに満ちていた。
まるで今にも涙がこぼれそうな
…そんな顔。
「
……ひとまず、館に帰ろう」
カラベラフィルムはぽつりとそう呟いた。
館に帰れば少しは落ち着くかもしれない。
ここで何も出来ないまま立ちすくむよりずっといいはずだ。
カラベラフィルムは足元に転がる木の破片と石片をそっと拾い、倒れている少年を抱えあげる。
ラートの記憶を伝承された彼を、このまま危険な場所に放置していくことはできない。
「
…早く、帰りましょう
…」
館の位置を人間たちに知られてしまうかもしれない、という思いさえ霞んでいた。
もはや、そんなことを気にする余裕など2人にはなかった。
とぼとぼと力無く歩き出す。
ざわつく人波の中を通り抜け、館のある森へと向かった。
後ろを振り返ることも、どこかに目を向けることもなく、ただ歩いていく。
…まるで夢の中を歩いているような感覚さえも覚えた。
森の木々のざわめきが、人々の声をかき消していく。
何十分歩いただろう。やがて、木々の間からあの館が見えてきた。
重たい玄関の扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
蝶番が、ギィっと甲高く軋んだ音を立てた。
その音は、広い館の中に虚しくこだましたかと思うと、すぐに静けさに呑まれていく。
『おかえりなさい』
と、迎えてくれる声も。
『今帰ったぞ!!』
と、高らかに響く賑やかな声も、もうどこにもない。
館の中には、冷たい静寂だけが広がっていた。
まるで、この場所と自分達だけが違う世界にいるようだ。
2人は無言のまま、館の中を歩く。
ふと目に入った中庭。
ガラス越しにグラディエーターとラートの部屋が見える。
かつては、数輪のバラしか咲いていなかったのに、今ではヒマワリやグラジオラスが所狭しと咲き乱れていた。
冬には白菊が、春には青いアイリスが
…
それぞれの季節ごとに、皆で話し合い、種を植えたことを思い出した。
どんな花が好きだとか、どこに植えるだとか、どうせなら色をそろえようだとか、そんな他愛もないことをわざわざ大広間に集まって話し合った日がふいに脳裏をよぎる。
けれど今ではその花々さえも、自分たち2人だけが取り残された現実を無言で嘲笑っているかのように思えてしまった。
2人は何も言わず、階段へと足を向ける。
一歩、また一歩。
カツ、カツ、と乾いた靴音が階段に反響する。
またしてもかつての光景がよみがえった。
グラディエーターと樊凌がどちらが先に2階にたどり着けるかを競って、笑いながら駆け上がっていたこと。
そして今、階段にはその足音も声もない。
ただ、2人の足音だけが静かに響き続けている。
階段を登りきると、視界の先に館の談話スペースが広がった。
窓から差し込む西日が、床に長い影を落としている。
その光景を目にした瞬間、ルフレはある記憶を思い出した。
ソファで眠っていたシアノの髪を、どうにか真っ直ぐに整えようと奮闘してた事。
触れればすぐに消えてしまうような髪。整えても整えても、すぐに元通りの無造作な髪になってしまって、やけになったこともあった。
…今思えば、できない、と分かった上で彼の髪に触れていたのかもしれない。
くだらないことに心を奪われていた、平和な時間だった。
カラベラフィルムもまた、同じように目を伏せる。
ソファでうたた寝していたシアノに、静かにブランケットをかけてやったことを思い出していた。
時折、白浪に見つかって遠慮なく叩き起されることも
……
そのたびに、シアノは不機嫌そうに眉をしかめながらもここで寝ることをやめなかった。
それらはすべてもう戻らない、過ぎ去ってしまった日々。
ルフレは無言のまま、深くソファに身を沈めた。
カラベラフィルムは腕の中の少年
…バートリーをもう1つのソファへと横たえた。
そしてその横、ルフレに向き合うようにして、1人がけの椅子に静かに腰を下ろす。
……
沈黙が談話室に流れた。
時計の針の音も聞こえない。
(
……これから、自分たちは何をするべきなのだろうか
……)
カラベラフィルムは、顔を伏せたままのルフレをちらりと見やりながら、思考を巡らせていた。
……。
血塗られた時代へと世界を引き戻そうとしたのは、自分たちではない。
それはナーデルの目的だった。
だが、なぜ彼女がそこまでして過去に固執し、あの時代の記憶を蘇らせようとしたのかは結局のところ分からないままだ。
ましてや、自分という存在が歴史の中で忘れ去られたことに憤り、何としてでも「思い出させよう」と動いていた械が、どれほどいたのかも定かではない。
カラベラフィルム自身も忘れられたことに対して、確かに寂しさはある。
だが、それよりも他の思いのほうが強かった。
シアノもまた、自分の存在が風化することに未練は持っていなかった。
彼の望みは、ただ美しい「死に顔」を見届けること。それだけだった。
だからこそルフレの「願い」次第では、すべてが丸く収まる可能性もあるのではないか。
そう、ほんの一瞬、希望のような何かが頭をよぎった。
(
……しかし
……)
(
……ルフレ殿の核心は、きっと
……)
(
……人間に対して敵対的なものだろう)
彼がこれまでに見せてきた言動。
人間に対する視線、その距離のとり方。
どこか冷たく、突き放したような目。
それを否定しようとは思わない。
しかし、明らかに自分たちの“核心”は、交わらない。
それはきっと、ルフレ自身も気付いている。
この静寂
……互いに言葉を選んで沈黙するこの時間が、何よりもその事実を証明していた。
「
……カラベラフィルムさん」
沈黙を破ったのは、ルフレだった。
その名を呼ばれた瞬間、カラベラフィルムははっと顔を上げた。
視線が交差する。
ルフレの表情は、真剣そのものだった。
「
……あなたの“核心”を教えてください」
その言葉に、カラベラフィルムは思わず目を見開いた。
まさか、こんなにも率直に尋ねてくるとは思っていなかった。
核心は、安易に口にしていいものではない。
言ってしまえば消えてしまう。
その思いが表情に出てしまったのだろう。
ルフレは、はっとした顔をして、ほんのわずかに目を伏せた。
「
……まだ言ってませんでしたね
…核心は
…他人に伝えても、影響はないんです。」
「なっ
……しかし、ナーデル殿は
……」
思わず反論しかけた言葉が、途中で喉に詰まる。
ナーデルは自分たちを「利用」していた。
その言動や態度のすべてが、真実を隠し、都合よく駒を操るためのものだったとしたら
…
「核心は他者に伝えるべきではない」というルールも、意図的に植え付けられた偽りだったのかもしれない。
「
……まさか
……嘘だった、のか?」
視線をルフレに向けると、彼はゆっくりと、しかし確かな意志を込めて頷いた。
「
……カラベラフィルムさんの予想通り。自分の核心を樊凌さんに伝えました。でも
……このとおり、何も起きてません。」
「
……なる、ほど
……」
カラベラフィルムは目線を落とし、口を噤む。
何が真実で、何が偽りだったのか。その境界線が曖昧になっていく。
そして、ルフレが核心を樊凌に話したということは、彼と何かしら思想が共鳴していたということだ。
その事実が、じわじわと胸の奥に重たくのしかかる。
(
……ということは、やはり
……望んでいた答えは、彼の口からは出てこないのだろう
……)
「
……こういう時は、自分から言うべき
……か。」
ルフレが小さく呟き、顔を上げた。
その目はまっすぐにカラベラフィルムを捉える。
「僕は
……人々を、この世から消し去りたい。」
「っ
……」
(
……ああ、やはり
……)
決して願ってはいけないと分かっていながら、どこかで期待していた。
自分と同じように、人を愛する存在であってほしかった。
しかし、それは叶わぬ願いだった。
「私は
……」
「私は、人間の善性を眺めたい。」
言い終わった瞬間、ルフレはわずかに唇の端を上げてどこか虚ろな失笑を漏らした。
「
……やっぱり、真逆でしたね。」
「
……ああ。」
静かに、頷き合う。
…もう結論は出ていた。
自分たちの願いは、決して両立しない。
どちらかが諦め、身を引くしかない。
再び沈黙が訪れる。
だが今度の沈黙は、先ほどよりも重い。
引き返すことのできない地点まで来てしまったことを、無言のままに告げていた。
突然、ルフレがソファから立ち上がる。
その視線が、横たわるバートリーへと向けられた。
(
……っ! まさか
――)
思わず、カラベラフィルムは反射的に身を強張らせた。
ルフレの一挙手一投足を注視する。
その気配に気づいたのだろうか。
ルフレは、そっと視線をカラベラフィルムへと移した。
(
……やってしまった)
その瞬間、胸の内側から冷たいものが流れ落ちていく感覚があった。
ルフレは寂しげに笑っていた。
どこか諦めたような、傷ついたような、そんな微笑。
彼は、今の一瞬で試したのだ。
自分がバートリーに視線を向けた時、カラベラフィルムがどう反応するかを。
そしてカラベラフィルムは咄嗟に、ルフレを「敵」と認識してしまった。
大切なものを奪うかもしれない存在として、警戒してしまった。
それは決して責められるものではない。
だが、それでも
……
(
……もう、私たちは
……対話で修復できるような関係ではないのか
……)
そう、痛感する。
希望はあったはずだった。
けれどその灯は、ささやかで、もろくて、今この瞬間
…自分の行動によって壊れてしまった。
そうカラベラフィルムは感じた。
「
……ルフレ殿、もう一度だけ話し合おう。きっと、話せば
……きっと、まだ何か道があるはずだ。」
それは、縋るような声だった。
しかしルフレの表情は変わらなかった。
視線を逸らし、階段へと向かって歩き出す。
(
……行ってしまう)
カラベラフィルムは慌てて立ち上がろうとする。
だが、その瞬間
「カラベラフィルムさん。今まで
……ありがとうございました。」
「っ
……」
一瞬、視線が交わる。
その瞳に宿る決意の色を、カラベラフィルムは確かに見てしまった。
僕の意志は揺らがない。そう、告げられた気がした。
「どうか、すべてが終わるまで
……僕と会わないでください。」
「僕らは話し合っても、分かち合えない。妥協すら、どちらかが自分を殺さなきゃいけない。」
「でも
……あなたも、諦める気はないでしょう? 僕も
……同じです。」
「だから
……もし、次に会ってしまったら
……」
「
……僕は、あなたを傷つけたくない。」
何も、言えなかった。
そのままルフレは背を向け、階段を下りていく。
そして静まり返った館に、玄関の扉が開閉される音が響いた。
道が、別れてしまった。
(
……)
どうすればよかったのか。
何が間違っていたのか。
答えは見つからないまま、ただ椅子に深く腰を沈める。
隣のソファに目をやる。
そこには、血まみれの服のまま横たわるバートリーの姿があった。
(
……この少年と、ラート殿はどんな関わりを
……)
あのラートが「伝承に値する」とまで言った交流とは、一体何だったのか。
今は眠る彼から、それを聞くこともできない。
(起きたら、聞こう
……)
そう思いながら、カラベラフィルムはゆっくりと立ち上がった。
階段を下り、廊下を進む。
そして扉のひとつをそっと開けた。
そこはシアノの部屋。
中央に椅子が一脚、まるで誰かがまだそこに座っているかのように置かれている。
床にはクッションや枕が散らばっていて、どこか夢の中のような空間だった。
「
……シアノ、ひとつ拝借するぞ。」
返事はない。
けれど、少しだけ返事を待つように間を置いてから、クッションを一つ手に取った。
ドアノブに手をかけた時、ほんの一瞬だけ名残惜しさが胸をかすめた。
コツ、コツ
……と、ヒールの音が静かな廊下に響いた。
自室に戻り、机の上のブランケットを取る。
再び談話スペースへ戻り、バートリーの頭の下にクッションをそっと差し入れ、ブランケットを肩にかける。
広い館に、今は二人きり。
静寂の中、カラベラフィルムはまたソファに腰を下ろす。
窓の外には、西陽が淡く差し込んでいた。
「
……感情とは、難儀なものだな。」
ぽつりと、ひとりごとのように呟く。
「どうすれば
……ルフレ殿を、止められるのだろうか
……」
もう、誰にも消えてほしくない。
もう、これ以上、置いていかれたくない。
もう
……
その時、不意に、ひとつの思考が脳裏に滑り込んできた。
まるで悪魔の囁きのように。
『だったら──』
思考に気づいた瞬間、カラベラフィルムは反射的に口元を手で塞いだ。
「
……しかし、そんなことをしてしまっては
……」
そう呟きながら、ゆっくりとバートリーへと視線を移す。
じっと彼を見つめる。
「
…………」
すべてを代償にすれば、自分の願いは叶えられるかもしれない。
あの日、世界がどうなろうと、願ってしまった。
善性を、この目で確かめたい。人々の光を、確かに証明したい。
そう、強く願った。
……この世の平和も、全てを壊してでも。
……ならば。
今さら、恐れるものなどあるのだろうか?
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