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kurotera
2025-01-02 09:59:32
73559文字
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たとかとはなし 下
2023年12月に発行した温泉スカウトパロディ本の再掲です。
書き手本人が見た幻覚で諸々をねつ造しています。
高濃度の幻覚話。
1
2
3
4
5
6
7
禄
魑魅魍魎の身が燃え、灰燼と帰す。
小鬼の身が疾風に引き裂かれ、肉塊となる。
「しつこいですよ!」
弟狐が苛立った声で叫び、襲い来る敵に燐火を放つ。
舞うように爪を振るい、妖怪の岩のような皮膚すら切り裂いていく。その傍らでは鴉天狗が風を起こし、雷撃を轟かせその群れを吹き飛ばしていた。
「
……
ッ、弟くん、疲れてるんじゃないかい」
「いいえ、全くです。そっちこそ
……
泣きべそをかいてはいませんか?」
背中越しに軽口を叩き合う互いの顔には笑みすら浮かんでいる。しかし疲れの色はそろそろ誤魔化しきれないようであった。
「泣きべそ? 君こそ、お兄さんがいなくて寂しくなっているんじゃないか?」
「兄者の手を煩わせません! は
……
っ、あなたこそ
……
っ、あの鬼に泣きつきたいんでしょう?」
赤よりもいっそ黒に近くなった爪を振り下ろし、弟狐が目の前の妖怪を引き裂く。いつもは柔らかな人の肌を保っている筈の手は、白い毛並みに覆われ獣に近くなりつつあった。
山のあるじたる鴉天狗と、稲荷の神使の片割れたる弟狐の獅子奮迅の戦いに圧されたのか、妖怪達の動きが鈍る。じりじりと間合いをとっては忌ま忌ましげに吠える魑魅魍魎を睨めつけながら、弟狐は爪の血を払った。
「きりがありませんよ」
「全くだ
……
しかしあの狂骨、こちらに襲いかかってくる気配がない。
……
まだ覚醒しきっていないのか
――
」
ばらり
琵琶の音に、鴉天狗が言葉を切る。
その音の出所を探すべく周囲を見渡すが、それらしい影は見えない。
「いったい、どこに
……
」
――
晴れぬものは晴れなくともよい。暗雲立ちこめる天に叫びたかろう。
――
我らはそのためにここに在る。
ばらり、琵琶の音と共に凜とした声が響く。その声に応えるかのように雨脚が強くなり、視界が暗く濁っていく。
――
我らと共に楽土に至れ、無念を抱く者よ。
雷鳴。地響きと共に強い閃光が周囲を包む。
「う
……
」
咄嗟に腕で顔を庇い、視覚を守る。
耳鳴りもおさまり、再び夜の闇が戻れば目の前に男が佇んでいた。
黒衣を着た、立派な偉丈夫である。
銀の短い髪は、月明かりに照らされればさぞ美しく輝いただろう。青い双眸はぼんやりとして、まだ意識を覚醒しきらずにいるようであった。
「待て、弟くん!」
その姿を見るや否や、弟狐がその男に襲いかかる。琥珀色の双眸をかっと見開き、その身を裂こうと黒く濡れた爪を振り下ろした。
――
が。
「く
……
!」
刃が打ち合うかのような澄んだ音と共に、爪の一撃が防がれる。
男が身に纏う骨が、弟狐の一撃を受け止めたのだった。しかし弟狐は怯むことなく、一撃、もう一撃と両の爪を振り下ろす。
「君は
……
」
弟狐の苛烈な連撃を受けてもびくともせず、男
――
狂骨は声を発した。
「君は、僕と同じ?」
「同じなものですか!」
問われ、弟狐が叫びながら業火を放つ。それも、生きているかのような動きで骨が狂骨を守った。敵意を向ける幼い顔をまじまじと見つめ、狂骨は言葉を続ける。
「同じだ
……
」
狂骨の手が弟狐を求めるように差し出され、それに呼応するかのように骨の鎖が弟狐に放たれる。咄嗟に危機を察知した弟狐が間合いを取ると同時、鴉天狗もそれを阻止すべく、突風を放つが勢いは止まらない。
「逃げろ、弟くん!」
鴉天狗の声と同時に体勢を立て直し、弟狐が駆ける。追いすがり、捕らえようとするその猛追を間一髪で裂けつるものの、琥珀色の目は僅かな畏れを孕んでいた。
「やめろ!」
鴉天狗が叫び、羽団扇を振るう。暴風を身に受け一瞬ぐらりと揺らいだが倒れることはなく、狂骨はのろりとこちらを見、首を傾げた。
「君も
……
僕と同じだ」
「何を
……
!」
「がっ
……
ァ
……
!」
耳に届いた呻き声に思わずそちらを見る。ついに弟狐が、あの骨に巻き付かれ囚われになっている姿が見えた。
そのままずるずると引きずり寄せられ、なんとか逃れようと足掻いているが、腕からつま先まで蛇のように巻き付いた骨が食い込み、ぼたぼたと血を流している。
「っ、弟くん!」
それが、隙であった。
「かはっ!?」
腹に伝わった痛みと衝撃と共に骨の鎖が視界に入る。瞬く間に巻き付かれ、地面に叩きつけられれば肋骨の数本が折れた感覚がした。
「ッ、ひゅっ
……
」
意識が一瞬飛び、血を吐く。それでもなんとか意識を保ち、滲む視界を彷徨わせれば狂骨が吊られた弟狐に歩み寄るのが見えた。
「おんなじだ。捨てられて、忘れ去られた。無かったことにされた」
狂骨の手にはどこか歪な形をした狐の面があった。
食い込む骨に身を捩り、境内の砂利に血を落としている弟狐をじっと見つめる。
「どうして苦しいのに、苦しくないふりをするんだろう。かわいそう」
「ッ、うるさい
……
!」
ぎろりと琥珀色の瞳が狂骨を睨みつける。この身が自由ならば引き裂き殺してやると言いたげな表情に、それでも狂骨は柔らかく微笑んだ。
「もう、いいんだよ」
手に持った狐面が怪しく輝く。それを見た弟狐はさっと顔を青ざめさせ、鋭い骨がいよいよ肉を貫きそうになるのも気にせず大きく藻掻き、戒めから逃げようとする。
「やめっ
……
ァ、ああぁ
……
!」
狐面が弟狐のかんばせに被せられる。その瞬間、がくんと弟狐の身体が跳ね、そしてぐったりと弛緩した。そのまま無数の手によって闇の中へ取り込まれ、姿が消えるのを見た鴉天狗が奥歯を噛む。
「くそっ
……
」
「君も」
一瞬のうちに狂骨が眼前に現れた。
優しげな笑みを浮かべながらこちらを見下ろし、爪で褐色の頬を撫でてくる。
「君、おかあさんに捨てられたんだね」
「
……
ッ、ああ、そうさ
……
! 今さら、それを恨んでなんか
……
!」
「どうして? 君は悲しくない
……
?」
「
…………
拾う神あり、ってね。
……
世の中、捨てたものじゃないよ」
「僕は、神に手を差し伸べられなかった。どうしてこうも違うのだろう?」
「
…………
そう、だね
……
。でも、俺はやらなければならない!」
鴉天狗が腕を伸ばし、狂骨の胸ぐらを掴み、満身の力を込める。ぐらり、と身体が傾いで青い目が驚いたように見開かれた。
「きっと俺が拾われた宿命の意味は、お前たちを永劫ここに封じるためだ!」
「
……
君は僕たちと同じなのに、ここから出るのを妨げるのか」
「悪いけど、井戸から出られたとしてもここからは一歩たりとも出さないよ!」
息も絶え絶えながら啖呵を切る鴉天狗の声に、ああ、と狂骨は声を漏らした。
ちりん
「不死鳥?」
石鳥居を通ったと思えば、共にいた不死鳥の姿が忽然と消えていた。目の前には夜や見に沈んだ山道があるのみである。
「仕方ない
……
」
低く呟き、一歩踏み出す。
小さな燐火を浮かばせ灯火とし、奥へと進んでいく。
遠くで調子外れのお囃子が聞こえてくる。暫く歩いたものの、いつもならばとっくに着いている筈の社には一向に辿り着かない。
それどころか、まるで知らないうちに道に外れたように、森の奥へ、奥へと進んでいるように思えた。
にいさん
耳に届いた声に、白い耳がぴくりと動く。こちらを呼んでいる。周囲をうかがえば、視線も感じた。
おにいちゃん あにうえ
こっち こっちだよ
おまえのかわいいおとうとは こっちだよ
おいで
鈴の鳴るような、濁った泥の中のような、嘲るような
――
。
数多の声が兄狐を呼ぶ。歩む足を止めればぬるりとした手が、自らの手首を掴んできたのを感じ取り、兄狐は怒りに顔を歪めた。
「狐を騙くらかそうなんて、いい度胸をしているね」
腕に炎を宿らせれば、ひしゃげた悲鳴と共に手が離れる。それでもなお縋り付こうとする別の手を振り払い、兄狐は駆け出した。
ばらり
琵琶の音が響くのが聞こえた。
「ああ、頼む
……
――
さま、弟を守ってくれ」
こいねがうように呟き、兄狐は走る。鬱蒼とした森の中、影が蠢く闇の中を。
「あ
……
」
暫く彷徨っていれば狛狐の像たちが遺棄されているのが見えた。無造作に捨て置かれながらも稲の束や宝珠、鍵を咥え、ここに辿り着いた兄狐をじっと、睥睨している。
あるものは苔むし、あるものは身体が欠け、あるものは風化し顔が無く、あるものは殆ど砕け瓦礫と区別がつかない。
そういった狛狐たちが見渡す限りこちらを睨んでいるのだ。
――
墓のようなものだ、ここは。
懐かしさよりも恐怖が勝り、そう思い至る。
忘れ去られ朽ちた稲荷の、その眷属たちの墓。人が足を踏み入れればたちどころに祟られるであろう。
おいで おいで
わすれさられた うかのみたまのつかい
もはや おまえたちのおやしろは
くちたぞ
ひとはもう おまえたちを
わすれたぞ
きつきつと笑う声と共に囁かれる言葉を聞こえないふりをして、一歩踏み出す。
社への道を、弟狐を求めて駆けていた筈であるのに、いつのまにか狛狐たちの墓所のような場所に辿り着いてしまった。
これも、この百鬼夜行が孕むものの一つに違いない。
ここが捨て去られた狛狐の怨念渦巻く場所であるならば、あるいは。
「弟、いるのかい」
呼びかける兄狐の声は、微かに震えている。朽ちた狛狐の群れに見つめられながら奥へと進めば、囁きかけてくる声が徐々に多く、はっきりと聞こえてくる。
おいで おいで
いっしょになろう
うつしよにおまえたちのいばしょは ないぞ
きょうだいふたりは さみしかろう
われわれとともに いこうではないか
あそぼうぞ あそぼうぞ
小さな手が兄狐に触れようとすればそれを払いのけ、進んでいく。
くすくす、くすくす、と笑う声が耳にこびりつく。
ついに、兄狐が歩みを止めた。目の前に、人影を見たからだ。
それは自分より少し小さな背丈の童で、狐面を被り顔を隠していた。奇妙なのはその狐面で、右と左でそれぞれ顔が違っている。
まるで、二つの面を半分に割って、それぞれ互い違いに組み合わせたようである。
――
そしてその面は、兄狐にとって見覚えがあった。
面を被った童はどこか心ここにあらずといった様子で、狛狐の像たちに囲まれ佇んでいる。しかし来訪者に気がついたのか、かくりと小首を傾げれば淡い菫色の結った髪が、揺れた。
「弟!」
兄狐が叫び、狐面の童に駆け寄る。しかし童は何も答えず、狐面の奥に隠れた表情もうかがい知ることは出来ない。
「どうして、どうしてあんな無茶をしたんだ! さあ、面を外して
……
顔を見せてくれ
……
!」
震える声で叱りつけながら、面に触れる。
しかしその手を、ひんやりとした別の手が掴んだ。邪魔をするな、と唸りそれを払えばその隙に童は踵を返し、兄狐から逃げるように走り去る。
「っ、待ってくれ!」
走る。同じ場所をどうどう巡っているような感覚に目眩を感じながらも兄狐は走り、その姿を逃すまいと追いすがる。
童は振り向くことなく、朽ちた狛狐が並ぶ道をひたすら奥へと走っていく。
辿り着いた先は、朽ちた社であった。
それを目にした瞬間、兄狐は目を見開き、小さく息を飲んだ。
「ここ、は
……
」
その姿はまさに狐の兄弟がかつて暮らしていた社である。
ここを離れた時と変わらぬ姿で、森の中に佇んでいた。
柱は腐り、建物は傾いて今にも倒れそうである。
開け放たれたままの戸は雨風によって破れその中は暗く、外からでは何も見えない。
不意に強い目眩に襲われ、身体が傾ぐ。
蝋燭の火だけが頼りの、暗い社の中。
ひんやりと冷たい布団は日に日に重たくなっていく。
指一本動かすことすら出来ない己を泣き腫らした琥珀色の瞳がじっと見つめている。
――
この子を置いて消えるのか。
本当は人の子が好きだった片割れに人の子への憎しみを押しつけて。
己はきれいなままで朽ちるのか。
弟よ、稲荷の神使の片割れ、社の優しい主よ。どうか。
――
ああ、そうです。オレ、出来ることがありました。
かたりと音が鳴るのが聞こえたと思えば、片割れの手には狐の面が収まっていた。
――
それなら、こうしましょう。
――
半分こ、しましょう。
何かが割れる音がしたと同時、意識が霧散した。
「
……
」
社の濡れ縁に童がちょこんと座っている。
「懐かしい、な
……
」
いや、殆ど忘れかけていたと兄狐が苦笑いをこぼしながら童に近寄る。静かに首を傾げる童の隣に座り、周囲を見渡した。先ほどまで纏わり付いていた気配はまだ感じるがここには近寄れないらしい。
「思い出したよ。この社に人間が来なくなって
……
オレは徐々に力を失っていった。稲荷の神使としての御役目も果たせなくなって、四季の移ろいも感じることが出来ずに
……
ああ、消えるんだって床の上で考えていた。お前はそんなオレをつらそうな目で見ていたね」
すらりとした指が淡い菫色の髪を撫でる。ぴくり、と童の肩が揺れた。
「あに、じゃ
……
」
ぽつり、とたどたどしく呼ぶ声に兄狐が頷く。相変わらず表情は狐面の奥に隠されて分からなかったが、どこか不安げな様子であった。
「あにじゃ、オレを、おいていかないでください
……
オレのはんぶん、あげますから
……
おいて、いかないで」
童の心細げな声に目を伏せる。
童は膝の上の手をぎゅ、と握りしめ、その節を白くしていた。
「いっしょに、あにじゃ、いっしょがいい、です
……
きえないで、あにじゃ、どうして
……
どうして、にんげんはオレたちをわすれたのでしょう、すてたのでしょう」
「村の皆はね
……
人の暮らしのために村を水に沈めることに決めたんだ
……
もう、オレ達には為す術がなかったんだよ」
口惜しくないか
お前達を棄てた人間が
憎くはないのか
「あにじゃ、にんげんをタタリ、ましょうか、あにじゃをわすれて棄てた、にんげん、を
……
?」
童の声がすっと、低くなる。その身からは冥い念が滲み出て、ひたり、ひたりと兄狐の背や頬を撫でた。
「
……
そうしたい?」
それでも兄狐は真っ直ぐに前を向いていた。飴色の双眸で前を見据え、童の髪を撫でていた手を、彼の膝の上にのせたままの手に重ね、問う。
「わからない、あにじゃ、あにじゃ」
力なく頭を振る童に、兄狐が頷く。
「
……
オレは、お前と一緒ならば祟りに成り下がっても、なんの悔いもないよ」
「
…………
」
「でもね、弟」
兄狐がゆっくりと立ち上がり、童の前に立つ。静かに手を差し伸べて微笑んだ。
「叶うならば
……
ここで、巡り合わせの末に出来た寄る辺で、お前と共に在りたい」
「
……
あ
……
」
何故だ
二匹に囁いていた声は怒りに震えている。
兄狐の言う事が理解出来ないといった様子で、今にも彼を害そうと社を囲む気配に冷たさが混じった。
「それに
……
」
兄狐の唇がにやりと歪む。飴色の目がきゅ、と細まった。
「こんな所、まがい物だ。騒がしいし、楽しくない。オレはここが嫌いだ、おいで」
「っ
……
」
童の手が弾かれるように兄狐の手を掴む。それを引き寄せ、もう片方の手で童の顔を覆う歪な狐面を外した。
一瞬、手首を何かが掴んだが白い燐火がそれを許さない。断末魔が周囲に響き、狐面は瞬く間に燃え崩れ、灰となって風に散った。
「
……
兄、者?」
琥珀色の瞳がぼんやりと兄狐を見つめている。
夢から醒めたような、少し眠たそうな顔に兄狐がふふ、と笑う。
「帰ろう」
刹那、周囲が一層騒がしくなった。
がたがたと社が戦慄き、周囲の木立が歪む。罵倒、悲鳴、嘆き、どの声も狐の兄弟に向けられている。
帰さぬ 帰ってはならぬ
社の中からずるりと、影が這い出てきた。
形は定まらず、狐、牛馬、兎、蛇、鶏、猿
――
無秩序に変化しては蠢いていた。
無理矢理にでも二匹を取り込もうという魂胆らしい、それぞれの頭が叫び、呪いの言葉をまき散らしては無数の手を伸ばし、その身を捕らえようとしている。
「
……
ッ」
稲荷の神使たる白狐の者さえ、流石窮地かと後ずさった。
――
が。
「兄者を傷つけないでください」
兄者の手を握ったまま、弟狐が一歩前に出る。
琥珀色の双眸を炯々と光らせ、宙空をもう片方の腕、その指で指し示す。
空気を焼く音と共に、白い燐火が踊る。
「兄者が嫌いなら、オレも嫌いです」
業火が舞い、辺り一帯を焼き尽くした。
山道をひたすらに走る。兄狐がいなくなった事に気づいた時は、一瞬立ち止まったが、しかし彼の言葉を思い出し、前へ進んだ。
早く彼のところに行かなければ。不死鳥はその一心で暗い山道を進んでいた。
灯りも消え、風も無く、ただ真っ直ぐに道があることだけが頼りだ。光の無い道では己の身の輪郭すらも見えがたく、曖昧であった。
「御剣
……
!」
息を荒げながら呟く。まだ間に合うだろうか、何か力になれるだろうかと焦りが募る。しかしいつまでたってもこの道からは抜け出せない。
「くそ
……
、どうすれば
……
」
いよいよ不安になり、歩みが止まる。ぼた、と額から汗が滴ればそれを拭い、再び歩きだそうとした、その時。
「そこの方
……
お助けください
……
」
しゃがれた声に呼び止められ、不死鳥がそちらを見ればそこには老爺とも、老婆ともつかない人間が蹲るように頭を垂れていた。
「なっ、どうした
……
!?」
逃げ遅れた人間か、妖怪か、と駆け寄れば老人は身を震わせ、呻いた。
「不老不死の霊鳥様とお見受けいたします
……
どうか、どうかこの哀れな老人をお救いください」
「逃げ遅れたのか
……
? ここから、連れ出せばいいのか?」
気遣いながら老人の肩に手をのせ、不死鳥が問う。ぜえぜえと苦しげな喘鳴音を漏らしながら、老人は不死鳥を見上げた。
「ええ、ええ、お助けください、お助けください、この老爺を蝕むは死の恐怖
……
まだ死にとうございませぬ。生きていたいのです
……
!」
「!」
暗闇の中ぼんやりと浮かび上がった老爺の顔は、半分腐り果てていた。縋り付くように不死鳥の腕を掴む手も、皮膚が所々破れ、蛆が沸き骨が剥き出しになっている。
「不老不死の霊鳥様、その身をお与えください、何卒ぉ
……
!」
しゃがれた声ではっきりと請われ、不死鳥が思わず身を引く。その拍子に老爺の腕が千切れ、ぼとりと落ちた。その様にひく、と口元が引きつるのをこらえ、不死鳥が首を振る。
「だ、駄目だ
……
!」
「なにゆえです! 霊鳥様の血肉を食らえば、瞬く間に若返り、不老不死になれるのでしょう!?」
老爺が叫び、残った腕を不死鳥に伸ばす。皺の奥にある目はぎらつき、目の前の不死鳥の味を思ったか、にたりと口を歪ませた。
「霊鳥様のお味や如何に、きっと三千世界の全てに勝る美味であろうなぁ
……
さあ、さあ、霊鳥様
……
」
「やめろ!」
にじり寄る老爺から後ずさりする。その様子に、周囲がざわめきだした。
あの身、日輪のようなあの姿。 眩しい、目が潰れそうだ
喰らえば不老不死になれるという 如何か
ああ、あれがあれば兄様が死なずに済む
幸いじゃ あれをとってこい あれをとれば褒美をとらすぞ
喰らってもまた生き返る 肉は元に戻ると聞く
それはよい 皆で喰らおう 飽きるまで喰らおう
聞こえてきた言葉に、冷たい汗がつたう。背後から、傍らから何者かの手が伸び、不死鳥を捕らえようと虚空を掴む。
「死ぬのが怖い
……
おそろしい
……
お前には分からぬであろうなァ
……
老いることも、死ぬこともない、天界の者には、分からぬであろうなあ
……
」
老爺の顔は最早憎しみに歪んでいた。その眼光の鋭さに、思わず不死鳥がひゅ、と喉を鳴らす。逃げなければ。弾かれるように走り出す。
それが合図になったか、闇から何かが追ってきた。
「くっ
……
」
不死鳥の肩を何かが掴む。勢いよく払い追い縋るものを避け、必死に逃げた。
「は
……
っ、う、わっ
……
!」
雨に濡れた土の泥濘に足をとられ、ついに倒れる。ちりん、と鈴が遠くで鳴る音が聞こえれば、身が酷く重くなるのを感じた。
「鈴が
……
!」
極楽を思わせる尾羽も泥に塗れ、それでもこの身を喰らわれまいと起き上がろうとすればそれを嘲笑うかのように、下卑た笑い声が響いた。
万事休す。蠢く者たちが間合いをじりじりと詰めてきているのを感じ、不死鳥はがたがたと己の身を震わせた。
「どうして
……
お前達は
……
」
永遠の命を求める。そう問おうとしたが、声に出ない。不老不死の身である己が聞いても、何の意味もない問いかけだと悟ったからだ。
這うように逃げるたびに、泥濘が身を汚す。
そのたびに己を求めるおぞましい声が、不死鳥を打ち据える。最早精も根も尽き果て、若い霊鳥は力なく青い目を伏せた。
――
喰われるのか、俺は。大猫又殿が言ったとおり、ここで、永劫生きながら喰われ、死に、生き返り、そしてまた、喰われる
……
? 永遠に
……
?
ひゅ、と喉が鳴る。こんな所で、と気力を振り絞りなんとか逃れようと立ち上がろうとした刹那。
影の一つが飛びかかってきた。
大きく裂けた口に生えそろった牙がぎらりと輝けば、咄嗟に腕で身を庇う。鋭い爪が、不死鳥を捕らえた。裂けた口が目の前で大きく開く。
鋭い鴉の鳴き声が耳に届いた。
襲いかかった者の牙は不死鳥の腕に食い込まず、代わりに醜い悲鳴だけが聞こえる。
はっと不死鳥が顔を上げれば目の前では、どこからか舞い降りてきた一匹の大鴉が妖怪に翼を広げ、その嘴と爪で追い払おうと叫んでいた。
「お前、御剣の
……
?」
応えるように大鴉が吠える。それに呼び寄せられたかのように、上空から鴉の群れが舞い降り、相対する魑魅魍魎の群れに襲いかかった。
おのれ 山神の眷属か
群れは瞬く間に鴉の一群に襲われ、怨嗟の声をあげる。今が好機と大鴉が不死鳥の前に降り立ち、ひとつ鳴いた。
「眷属よ
……
御剣は
……
御剣は、無事なのか」
不死鳥の問いに大鴉はじっと彼を見つめるばかりである。
「俺は
……
、
……
」
何かを言いかけ、不死鳥が俯く。その青い目には怒りと畏れが混じっている。土を掻く指に力が入らない。と、大鴉の頭が動いた。
「いっ
……
!?」
その嘴が不死鳥の手の甲を軽くつつく。軽くとはいえ痛みが走り、不死鳥は身を跳ねさせた。
「痛いじゃないか! 何を
――
」
抗議しかけた不死鳥を一瞥し、大鴉が舞い上がる。頭上をぐるぐると飛び回れば、不死鳥は瞬きをし、ゆっくりと深呼吸をした。
「
……
すまない、少し惑ってしまった」
不死鳥の言葉にまた一つ、大鴉が鳴く。艶やかな濡羽の翼を広げ、若者を導くように飛ぶ姿を見据え、不死鳥は起き上がり、再び走り出した。
待て 待て
不老不死の肉よ
逃げるな
鴉たちの猛攻を受けながら、魑魅魍魎たちが叫ぶ。
しかしそれに振り返る暇はないと、不死鳥は道を真っ直ぐに駆けていけば。
見覚えのある森に辿り着いた。小さな火を点せば、眼前に洞穴があるのを見つける。数ヶ月前、鴉天狗と共にきた竜穴だと気がついた。
ここの周囲はまだ清浄な空気が漂っている。
百鬼夜行もここには未だ至っていないらしい。ほっと、安堵の息を吐いた。
ばらり
一つ、琵琶の音が響く。
「! お前は
……
!」
見上げた先、切り立った岩場に座す一人の男。不死鳥の問いには答えず、琵琶を抱え、静かにつま弾いていた。不死鳥が歩み寄り、口火を切る。
「秋に、井戸にいた者だろう? お前があの場所から狂骨を解き放ったのか?」
男の閉ざされていた瞳がゆっくりと開く、その輝きはやはり紫水晶のようであった。
「
……
あれは望んだだけだ。あの井戸から解放され、お前達のように外を歩む自由を得たいと
……
その欲の深さが長きにわたる封印を破っただけのこと。どうして咎になろうか」
「しかし、封印が破られたせいで皆が
……
!」
「ならばお前は、あの者に暗く深い井戸の底に永劫囚われていろと?」
「
…………
それ、は」
琵琶弾きの言葉に不死鳥が言いよどむ。それを見て、琵琶弾きは続ける。
「問おう。天界から降りてきたお前は、何を見てきた」
「俺は
……
」
なおも答えられない不死鳥を見て、琵琶弾きは笑む。お前は何も理解に至ってはいない、と言いたげに目を細めた。
「極楽浄土の泉で見るよりも、醜い世界であろう? ここまでの道中で見たはずだ。己の欲の為に他を欺き、傷つけあう世は百年、千年経とうとも変わらぬ。止まぬ雨で覆い隠さねば、見るに堪えぬほどにな」
琵琶弾きの冷たい声に、不死鳥が俯く。確かに今の道中で酷いものを見た。
己が失意に落ちかける程に、冥く淀んだ欲の、成れの果てを見た。
あれも紛れもなく現世の一部であろう。降りしきる雨で見えなくなるのならば、どれほど安堵するか
――
。否。
「俺は、俺は見てきた!」
それでも、今まで何を見てきたか、不死鳥ははっきりと分かっていた。
「俺が持たぬ時のうつろいも、木々が色づき枯れる様も、雪が積もって真っ白に染まる山々の稜線も
……
その中で生きる者たちの姿も! 確かに美しいだけではなかった、生き死にも、怨みも、欲も見た!」
不死鳥が一歩踏み出し、琵琶弾きを真っ直ぐに見上げる。男はただ黙ったまま、見下ろしてきた。
「この世界のひとかけらでも、俺は触れられてよかったと言おう! この炎が、お前たちの雨に消されたとしても!」
ばらり
琵琶の音が響く。どこか呆れも混じったような色を孕ませ、男は告げた。
「ならば晴らしてみよ、百鬼夜行より出でしこの黒雲を!」
「晴らせばどうする!」
「晴らせば此処は我らの楽土にあらず、我らは去り、社は戻る。晴れねば
――
此処は我らの楽土なり、永劫降りしきる雨の中に閉じるものと思え」
「その言葉、偽りないな!」
「くどい」
男が言い切るや否や。不死鳥は彼を睨み、直ぐに踵を返す。
泥まみれの尾羽を揺らし、雨の降りしきる宙空へと舞い上がる姿を眺めたのち、琵琶弾きは再び弦をばらりとつま弾いた。
「へえ、中々やるじゃないか」
屋根の上に腰掛けていた般若が、境内を見下ろしくつくつと笑う。
黒雲からは豪雨が降りしきり、御剣と狛犬、そして狂骨
――
立つ者も、倒れる者も皆平等に濡らしていた。
「く
……
っ」
戻ってきた狛犬たちが満身創痍のあるじを庇うように狂骨に立ち塞がる。鴉天狗がつけた傷ひとつ以外は何もない狂骨に対して、社の者達は傷だらけであった。しかし、その目は未だ戦意を失っていない。
――
そこへ。
「御剣!」
ちりん、と鳴る鈴の音と共に、封印した筈の大鳥居から狐の兄弟達が現れ、鴉天狗は目を見開いた。
「弟くん
……
!?」
「不覚を取りました
……
でも兄者が助けてくれて
……
!」
弟狐が鴉天狗に駆け寄り、その身を助け起こす。現れた二人も道中で戦ったのか、その身は血だらけであった。
「良かった
……
でもそのまま逃げても
……
っ」
「お前が戦っているのに、逃げるものですか」
弟狐の言葉に鴉天狗がゆっくりと息を吐く。
兄狐が狂骨を見据え、燐火を手に宿した。
「とにかく、あいつを
……
」
「待った」
兄狐の言葉を制したのは、屋根の上の般若である。すた、と両者の間に降り立ち、扇子を扇げば狛犬たちが唸った。
「お前は
……
」
「残念だったねぇ、其方たち、力及ばず遅すぎたようだ」
「なっ
……
」
般若の言葉と共にずん、と五人の身に重圧がのし掛かる。
「この社は百鬼夜行の瘴気に満ちた。もうあとちょっとで其方らと共に取り込まれる。お前達は籠の小鳥になるわけさ」
「ぐ、ぅ
……
っ」
瘴気の圧に耐えきれず、五人が膝をつく。
それを見た妖怪達が再び襲ってきたのを、なんとか燐火で防ぎながら兄狐は般若と狂骨を睨んだ。
「
……
っ、不死鳥は
……
」
「一緒に山へ入ったけど
……
はぐれた
……
どこにいるのか」
息絶え絶えに問う鴉天狗に兄狐が答える。無事であればと呟き、厚い雲に覆われた空を見上げた。もう、戦う力は残っていない
――
。
地響きが起こる中、狂骨も空を見上げている。その様子に般若が目を細めた。
「其方、なにも見えぬ空を見て、なんとする」
「
…………
雨を見てる」
「ふん、分かりやすいねえ。まるで骨しか残らなかった其方のようだ」
「
……
ここから出られないのか、僕は」
狂骨が問う声は寂しげである。それを感じ取った般若が、鼻で笑った。
「あの死に損ないのカラスのせいで、ざっと数百年は出られないだろうね。ああ、でも
……
そうだ、狂骨や」
般若が妖しく笑み、閉じた扇子で狂骨を指さす。
狂骨はかくりと首を傾げ、般若の言葉を待った。
「賭けをしようじゃないか。この黒雲、晴れるか否か
――
晴れねば、其方はここの主になれる」
「
……
晴れれば?」
「そうさね、私らの供をしてもらおうか。それこそ、永劫にねぇ」
どうだい、と般若が問えば、狂骨が再び空を見上げる。
「
…………
晴れれば、いいなぁ」
「あはは、そら、ここにおられる者どもよ、天空を御覧じろ!」
般若が高らかに笑い、扇子で空を指さす。
「不老不死の霊鳥の舞が見られるやもだよ!」
尾羽をはためかせ、山を覆う黒雲の中に突っ込んだ。
凍てつくような風と雨が身についた泥を落としたが、同時に傷も凍てつかせていく。
風が吹き荒れ、雷が轟くさまは地獄の空に似ていると、ふと思った。
黒雲といえど正体は、百鬼夜行が生み出した怨嗟の集合体である。己が懐に飛び込んできた異物を見逃す筈はない。稲光は雷獣の姿となり、不死鳥へと襲いかかった。
「く
……
!」
放たれる迅雷を辛うじて避け、炎をもって蹴散らす。しかし雷撃の化身たちは無限に生まれ、不死鳥を貫くべくその牙を剥けた。
いよいよ追撃は雷鳴と共に激しさを増し、暴雨に煽られた不死鳥がたまらずよろめけば、ばりばりという音と共に雷獣の顎が食らいつこうとする。
「
――
ッ!」
ぱきん、と澄んだ音と共に不死鳥の身が守られる。見れば氷の結晶が不死鳥を守るように雷獣を妨げていた。
「これは
……
」
驚く不死鳥の前で氷晶を纏った暴風が周囲に吹き荒ぶ。荒れ狂う風に巻き込まれ、雷獣たちが断末魔をあげながら落ちていく姿が見えた。
「
――
ありがとう、三千院殿、葵殿」
山中で戦っているのであろう恩人に礼を言い、黒雲を突き進む。苛烈な風と怨嗟の呻きが不死鳥に縋り、その光を滅そうと阻む。息苦しさに耐え、がむしゃらに飛んだ。
「! 何かいる!」
視界の先に蠢くものを見つけ、叫ぶ。黒雲の中心、夜よりもなお冥い闇の中にぎょろりと丸く赤い目が現れ、這い出るかのように顔が浮かび上がった。不死鳥の身の丈よりも巨大な顔は、口から上下に鋭い牙を生やし、長い舌をだらりと垂れ下げている。現れた腕、その指先から伸びる爪は互いに擦れ金切り声のような音を発していた。
邪悪というものが化身となれば、こういったような顔をしているのだろう。そんな考えがよぎった。
「こいつを鎮めれば、黒雲が晴れる
……
!」
そう確信し、炎を纏う。発せられる熱と光はまるで日輪の如く、それに気づいた黒雲の化身も怒りに牙を打ち鳴らし、不死鳥を捕らえんと爪を振るう。
化身の鉤爪を躱せば暗闇の中で炎が瞬き、黒雲を焼く。
炎をはねのければ暗闇の中、闇色の爪が不死鳥を貫く。
闇の中で不死の霊鳥と黒雲の化身が互いの身を焼いては引き裂く。黒雲は幾度となく霧散しては再び立ちのぼり、不死鳥の身が幾度となく貫かれ、引き裂かれようとも再び燃え上がってはその身を蘇らせた。
誰かがそれを見れば、舞にも見えると言っただろう。日輪が幾度となく沈み、燃え、黒雲に飲み込まれる。しかしまた、ほむらを上げて舞い上がる。
永遠にそれが繰り返されると、思っただろう。
「うおぉおお!」
不死鳥が吠える。青い目がぎらつき、目の前の敵を燃やし尽くそうと、炎の翼を羽ばたかせれば、その熱風を身に受け黒雲の化身が断末魔の叫びをあげる。しかしぎょろりと赤い目が動き、不死鳥を睨みつけた。刹那。
「がっ
……
」
槍のような爪が、不死鳥の胸を今一度貫く。不死の存在とはいえ、心臓を貫かれれば、動けなくなる。
血を吐きながら霞む視界で目の前の敵を睨めば、それは口を大きく開き
――
。
蘇る隙を与えず、不死鳥をばくん、と飲み込んだ。
一切の光無く。どこまでも虚ろ。
身を切るように冷たい風に弄ばれながら、不死鳥は闇の中を落ちていく。
胸から背に開けられた風穴から、血と風が逃げていく感覚がした。
――
ここまで、なのか。
これほどまでに世の憂いは、怨嗟は、絶望は深く強いものなのか。数多の嘆きが耳元で囁くのを聞きながら、不死鳥はぼんやりと落ちてきた天を見つめた。
何も出来ない。いくらこの身を燃やそうとも、この翼を羽ばたかせようとも、黒雲を晴らすことも、夜明けを呼ぶことも。
――
……
。
このまま終わりの無い虚空を堕ちていくのだ。
そう悟り、すまない、とひとつ零した瞬間、己の意識が朧気になったいく。
文字通り、闇に溶けていく。そんな心地だった。
――
それで、いいのかもしれない。
そう思い至った瞬間。
何かが尾羽を掴み、脚と腕に絡みついた。不死鳥の肉を喰らおうと、闇の中で何者かが笑ったが、それも不死鳥は最早、己の運命だと受け入れようとしていた。
――
君があそこから落ちてしまったのは不運だったけど。
「
……
だれ、だ」
幻聴か。知る声が聞こえた気がして、閉じかけていた瞼を開く。しかし己がいるのは変わらず闇の中で、際限なく落ちているように思えた。
しかし、はっきりと聞こえたのだ。
――
……
そんな事を、いつか言われた気がする。
いつだったか。冬だ。あの雪の降り積もった年の瀬。
己は、なんと返したか。
――
朧気だ
……
何を語ったか。何を、見ていたのか。
「
……
星を、見ていたんだ
……
」
そう、星だ。星空。
きんと冷えた空気の中、散りばめられた瞬きを見ていた。
「屋根の上から見ると
……
本当に綺麗なんだ」
――
星を見た。星だけじゃない。あの屋根の上で、天界では見なかったものを見た。
――
見たはずだ。俺は。
「またたきのうちに葉が染まって
……
またたきのうちにそれが落ちて、枯れていく」
知る声は笑った。まるでその移ろいが好きだと言いたげに、笑っていた。
――
そうだ。俺もそれが好きだと思った。
「不運なんかじゃない」
「不運なんかじゃないんだ。御剣。俺は、幸運なんだ」
囚われかけた腕を動かし、天へと伸ばす。
――
君はこの地で葉が染まって、木々が朽ちていく姿を見た。
――
……
でもまだその先は見ていないだろう?
「ああ、まだ見ていない」
ひとつ、瞬きをする。
今宵、見えぬ筈の月が闇の向こうで輝いていた。
手を伸ばす。
手を伸ばせば、堕ちていく速さが鈍る気がした。
それからひとつ、また思い出した。
「ずっと考えていた」
――
何をですか?
今度は幼い声がした。これも、知る声であった。
「ここに落ちてくる前、天界の池のふちで
……
地獄や、ここで苦しむ人々を眺めていた。どうして彼らはそうなるような罪を犯したのか、どうすれば彼らは
……
安んじる事が出来るのか。よく、考えていた。俺が地獄に降り立ち、この尾を垂らして一人でも引き上げればよいのか、それとも
――
」
――
その答えのひとつを得るために、ここに落ちる運命だったのかもしれないよ。
「得られたかは分からない。分からないが
――
」
貫かれた胸の内に、炎がともる。己の炎では無い。ただ、よく知る炎が二つ。
情によって優しく温かになり、あるいは怒りによって全てを灰燼に帰す。
人の心に似た白い焔。
「俺は、お前達に救われた」
冷え切っていた己の身が燃える。
尾羽を掴んでいた手が、脚に絡みついていたものが、瞬く間に燃え尽きる。
「ならば俺は、お前達の寄る辺を
――
絶望の雨に沈ませはしない」
目を見開き、空を仰ぐ。燃える翼と尾羽を広げ、不死鳥は羽ばたいた。
その姿に何者かが追い縋り、今一度堕とそうとする。
重力にも似たそれを振り切り、不死鳥は闇に舞い上がった。
――
灯火のように。
閃光が山中を駆け、夜空を照らす。
それは翼を広げた霊鳥の姿にも見えた。
「
……
っ
……
」
光が黒雲を貫き、魑魅魍魎が悲鳴を上げてその光から逃れようと我先にと逃げ出していく。社に満ちていた瘴気も強い熱風に吹き飛ばされていくのを、鴉天狗は金の目を見開き見つめていた。
「雲が
……
」
ぽつりと呟けば、晴れきった夜空から光の粒が落ちてきた。狐の兄弟や狛犬たちも、呆然と空を見上げている。
山の輪郭を照らしていた強い光はやがて収束し、霊鳥の姿も闇に溶けていった。
静寂を取り戻した夜空の空に人影が一つ、落ちていく。
「不死鳥!」
弾かれるように翼を広げ、鴉天狗が飛ぶ。満身創痍の身体はひどく痛んだが、一瞬のうちに落ちる影を捕らえ、受け止めた。腕の中でぐったりと気を失っている不死鳥を見、ほっと息を吐く。
「
…………
良かった」
ぽつりと呟き、ゆっくりと境内へと舞い降りる。
目の前には般若と狂骨が立っていて、それを見た狐の兄弟と狛犬が鴉天狗と不死鳥を庇い睨んだ。しかし般若は妖艶に笑い、扇子を揺らす。
「お見事! というわけだ。狂骨、お前を連れていこうではないか」
「何を勝手な
……
!」
「勝手なのはお互い様さ。しかし其方たちにとっても、これは悪い結末じゃあない。
……
この子にとってもね」
怒る兄狐に般若が返した言葉に狂骨が首を傾げる。
「
……
いいの? 僕、ここから出ていい?」
「勿論。賭けは賭け。さ、行こうか
……
人を待たせてる。では霊峰の者たちよ、再び相見える夜まで
……
」
笑い声と共に般若と狂骨が闇へと消える。百鬼夜行も完全に失せて、残されたのは静寂のみであった。
「
…………
終わったん、ですか
……
兄者
……
」
「
…………
うん、きっとね」
兄狐が肯定すれば、弟狐がくったりとその身を預ける。
山も里も、梅雨の前触れのような大雨が降ったこと以外はなんの変哲もない夜であったかのように、静かであった。
琵琶の弦がひとつ、切れた。
紫水晶の双眸がゆっくりと瞬く。黒雲と雨風が消え去り、露わになった夜空を見上げ、琵琶弾きはゆっくりと息を吐いた。
「
……
見事に晴れたねえ」
そこに現れた金髪の鬼
――
般若がくつくつと笑いながら男に話しかける。何も返さずにいれば、肩を竦めて近寄ってきた。
「星空を見るのは何年ぶりだい?」
「
…………
晴れているのか」
「ああ、そうさね
……
お前の目にはどう映っているのかは知らないけど
……
星々がようく見える。憎たらしいぐらいにね」
般若の言葉に被っていた笠を目深く被り、弦をつま弾く。気の利いた返事ひとつ寄越さない琵琶弾きに肩を竦め、それから茂みに向かって手招きした。
のそり、と現れたのは狂骨である。
「どこに行くの」
「
…………
楽土」
「楽土。遠い?」
「さあな」
そっけない琵琶弾きの声に、狂骨が瞬きをする。
「連れて行ってくれる?」
「知らん。俺が決めることではない
……
好きにしろ」
「じゃ、行こうか。
……
道連れ、あの不死鳥の仕業で随分減りはしたが、まあすぐに増えるだろうね」
くすくすと笑う般若にため息を吐き、琵琶弾きが立ち上がり歩き出す。それに続くのは二つの影である。
「雨、降らないかな」
「ふふ、其方は雨が好きか?」
「うん、僕は好き。
……
井戸にいた頃、雨が降るときれいな音がしたんだ」
狂骨が空を見上げる。雨上がりの星空はいっそう燦めいて見えるが、狂骨にとっては初めてみるものであった。
「あれは、降ってこない?」
「星かい? そうさな、たまには降ってくる。どこかの不死鳥みたいにねえ」
「見てみたい。楽土に行けば、見えるかな」
「
…………
ふん」
三つの影が夜闇へと消える。
彼らを追うように、生温かな風が吹いた。
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