kurotera
2025-01-02 09:59:32
73559文字
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たとかとはなし 下

2023年12月に発行した温泉スカウトパロディ本の再掲です。
書き手本人が見た幻覚で諸々をねつ造しています。
高濃度の幻覚話。


  
 まだ人の来ない早朝、狛犬の阿形はある木を見上げていた。そこへ吽形がやってきた、珍しく静かな阿形におや、と目を見開いた。
「どうした、阿形」
「吽形、今は何月だろうか」
「もう三月も終わろうとしておるなあ」
 吽形が阿形の問いに答えれば、そうか、と難しい顔をさせながら枝を睨みつけたままでいる。
「ならばもうそろそろ、桜の花が咲いてもよい頃だと思うのだが」
…………
 阿形が指し示したものは、桜の木である。本来ならば、気の早い蕾が綻んで薄紅の花を咲かせてもいい筈であるのに、その蕾はいまだ堅く閉ざされている。
「どういうことだろうか」
……ふむ」
 吽形が顎に指を添えて思案すれば、そこに不死鳥がやってきた。
「阿形、吽形、どうしたのだ」
「やあ、おはよう。桜の話をしていたのだよ
 阿形が答えれば、不死鳥が二人の前に佇む木を見上げ、えっ、と声を上げた。
「これが桜の木なのか? ……俺の知っているものとは似ても似つかないが」
「お前さん、桜を知っておるのか」
「ああ、年中うすべにの花をつけている木だ」
 不死鳥の言葉になるほど、と吽形が頷く。
「そうじゃ。まあ、こちら側は一年中花を咲かせておるわけではない。この時期から咲き始めて、数日で満開になる。それから半月もせんうちに花が散り、若い芽が出てくる。目の前にあるこの桜は……山の春告げ桜でな。これが花を咲かせれば春が来た、という合図になるのじゃ」
「それが咲かない、となると……
「毎年決まった日に咲くというわけではない。冬が長引いた年には何日も遅れて花を咲かせることもある」
 阿形がそう言って、しかし顔を曇らせた。何か、気がかりなことがあるようだ。
「だが……もう暖かい。これほどに暖かく、よい天気ならばひとつぐらい咲いてもおかしくないのだが」
……あるじにお伝えしたほうが良いかもしれん。いや、もう知っておられるとは思うが」
「ああ、分かっているよ」
 話し込む三人のもとへ、鴉天狗がやってきた。
「御剣」
……して、あるじよ、何か心当たりは」
 吽形が問うと同時、鴉天狗のもとに一羽の鴉が舞い降りてきた。主人の腕にとまれば一声鳴き、それを聞いた鴉天狗が頷きその身体を撫でた。
「そう……ありがとう」
 礼を告げれば眷属の鴉が再び舞い上がり、山へと消えていく。
 それを見送る鴉天狗の顔は険しい。
「山中のどこを見ても春の花が咲いているのを見かけないらしい。それに、山に流れる龍脈の気が乱れているようだ……少し様子を見に行ってこよう」
「心得た」
「御剣、俺も行っていいか」
「駄目だよ」
 鴉天狗が即答すれば、不死鳥がむう、と口をへの字に曲げる。
「どうしてだ」
「危険かもしれない」
「お前がいる」
「よしてくれ」
「それに二人いたほうが、安全じゃないか? お前に何かあったら……
「不死鳥くん」
 言い募る不死鳥を制すれば黙ったが、その目は物言いたげである。我が儘を言うな、と言いかけたが、暫く逡巡したあとで鴉天狗がため息をついた。
 これ以上来るなと言っても、こっそり着いてくるような予感がしたからだ。
……分かった」
 渋々承諾すれば、不死鳥の顔が明るくなった。

 山の中を歩いて行く影が二つ。鴉天狗と不死鳥のものである。山を覆っていた雪はほとんど溶けきり、その水を吸い込んだ土を踏みしめながら、二人は翼も使わず地道に山奥へと進んでいた。
「どうして翼を使わないんだ?」
「歩いて様子を見て回りたくてね。飛んでいると、見落としがちになる――それにしても、やはり妙だ」
 傍らにあった木の枝に触れ、鴉天狗が呟く。その指先には木の芽があったが、それも社の桜と同じでまだ硬く、開く気配がない。本来ならば既に柔らかくなって花も咲く頃合いである。
 しかもこの木だけではなく、山のどれもが頑なに花を咲かせるのを拒んでいる。
……いや、妨げられているのか?」 
 そう思い至り、ぽつりと呟く。周囲を見渡せばふと近くにせせらぎがあるのだろう、水の流れる音が聞こえ鴉天狗がそちらへ向かった。
 不死鳥も、きょろきょろと当たりを見渡しながら鴉天狗に着いていく。
「御剣よ、龍脈が乱れていると言っていたが……
「龍脈は知っているね?」
「ああ、その地を流れる〝気〟の道だろう」
「龍脈が乱れれば、山にも悪影響を及ぼす。木々の新しい芽が生えない、その地に住むものたちが荒れ狂い、それに負けたものが人里に追いやられる……放っておいて良いことは無い。俺は山神としてその龍脈の流れを感じ取ることが出来るんだけど……ここ暫く、龍脈の出口である竜穴から気が吐き出されている気配がしないんだ」
「つまり……山を流れる気が滞っているということか」
 不死鳥の問いに返事は無かった。鴉天狗の目が、見つけた小川の傍らに、ある物を見つけたのである。
「これは……
 一匹の若い狢が倒れている。既に、事切れているようだった。
 鴉天狗が歩み寄り、その骸を検分する。しばらく眺めた後、眉を寄せた。
「傷がない」
 天寿にしては若すぎる。しかし熊や妖怪に襲われたような傷跡も見受けられない。口元には赤が混じった泡が、張りついていた。
「御剣、何か落ちている」
 不死鳥が骸の傍らに何かを見つけたらしい。そちらに視線を寄越せば、腹を食い破られた川魚が落ちていた。
……川魚を食べて死んだのか」
「なあ、御剣。このあたりの草木だが、あまり元気がなさそうだ」
 傍らに生えている植物の葉に、不死鳥が触れる。瑞々しい緑であるはずのそれが、黒ずみ萎れているのが見えた。
「瘴気の痕か……? いったい何が……
 ここ一帯の異変に眉を寄せ、鴉天狗が周囲を見渡す。――と、上流へ向かう道に、何かが這いずったような黒い跡が目についた。それも微かに嫌な臭いを漂わせている。
……上流へ行こう。この上には確か竜穴があったはずだ」 
 歩き出した鴉天狗に不死鳥が続く。そのまま小川に沿って、上へと登っていった。
 暫く歩けばすぐにせせらぎの出処に辿り着いた。そこは龍の住み処だと言われれば信じてしまいそうな、洞穴が口を開けていた。
「これが……竜穴か」
「山にあるもののうちで一番大きな竜穴だよ。いつもならこのあたりは気で満ちているのに……嫌な臭いがする。思ったより淀んでいるようだ」
 鴉天狗が指さしたものは、竜穴の入り口であると示すように佇んでいる大木である。殆ど崖に近い山肌にどうやってあんな立派なものが育ったのか不思議で仕方ないと不死鳥が首を傾げるが、それも今は春はまだ来ぬとばかりに裸の状態で、押し黙っていた。
「いったい何が起こってるんだ?」
…………
 辺りを見ていた鴉天狗がぴくりと肩を跳ねさせる。不意に竜穴の入り口に振り返り、その奥をじっと睨みつけた。
「不死鳥くん、下がって」
……っ」
 地響きと共に、何かが竜穴から這い出てくる。がらがらと岩が転がるような音に不死鳥が身構えれば、それは姿を現した。
 ――蛇のような、生き物だ。
 しかし蛇よりもずっと巨大で、大木をぐるりと囲んでもなお、余りある長さをしている。その胴回りも丸太よりずっと太い。頭に目鼻はついておらず、ただ大きな口に、ぞろりと牙が生えている。
「御剣、こいつはいったい……!」
「野槌さ。ここの瘴気はこいつが原因のようだ」
 竜穴から這い出た野槌がゆらゆらと首を揺らす。しゅうしゅうと息を吐けば酷い臭いが辺りに漂った。その顎の端から、ぽたぽたと黒い液体が滴っているのが見えた。
 羽団扇を取り出しながら、鴉天狗が野槌を睨みつける。仕方ない、と手にしたそれで一つ煽れば、鋭い風の刃が一陣、放たれた。大木をも抉る一撃が、苔むした胴を切りつける。しかし、見た目に反してその皮膚は硬く、傷一つつかない。
「厄介だな」 
 軽い舌打ちとともに、攻撃されて怒った野槌の頭が鴉天狗に突っ込んでくる。それを避け、間合いをとれば近くから火の玉が放たれ、野槌の鼻先を焼いた。
「加勢する!」
 不死鳥の指先から放たれた火炎は、野槌に驚きと多少の苦痛をもたらしたらしい。巨体が身を捩らせ、地面が揺れた。
 しかし一瞬なりとも野槌を怯ませたものの、その胴体を焦がすには至らなかったらしく、いよいよその怒りは咆吼となって周囲の空気を震わせた。頭を振り乱しながらまき散らされる瘴気は周囲の草木を蝕み、枯らしていく。
「ッ……どうすればいい、このままだと山中の草木を枯らしてしまうぞ」
「今ここで仕留める。手伝ってくれるかい、不死鳥くん」
「勿論だ」
 不死鳥が応えれば、猛禽の翼を羽ばたかせ鴉天狗が舞い上がる。それにつられた野槌が鎌首をもたげ、それを追う。大木の合間を縫いながら、山の神は野槌を誘うように飛び、野槌は山の神を追い、その巨体で這いずり回る。
 襲い来る牙を躱し、叩き落とそうとする胴を掻い潜りながら羽団扇で疾風を起こす。一振りで生み出された風の刃はばらばらに放たれ、周囲の木々を傷つけた。
 翻弄されていることを自覚しているのか、目の前の獲物を中々仕留められない野槌は苛立ちが頂点に達しようとしていた。風は止まず、鴉天狗の速さは衰えない。ばさりと羽根を舞い散らせながら野槌の頭上へ一度舞い上がったかと思えば。
「そらっ!」
 放たれた風の刃が、もう一度木々を傷つける。耐えきれなくなった巨木たちが轟音を立てて、倒れだした。
 不意をつかれたのは野槌である。
 音を立てて倒れてきたいくつかの巨木の下敷きになり、その巨体はついに捕らえられた。抜け出そうと足掻くが、折り重なって倒れてきた木々は檻の如く、野槌の身動きを止めている。
 ふわり、と無事な木の枝に鴉天狗が降り立つ。羽団扇を持たぬ手で素早く印を組み、真言を呟いた。そしてかっ、と目を見開き――
「不死鳥くん!」 
「ああ」
 待ち伏せていた不死鳥が宙空を舞い、火炎をばらまく。同時、鴉天狗が大きく羽団扇を扇げたちまち風の刃が放たれ、不死鳥の放った火炎を纏った。
 炎を纏った風刃が容赦なく野槌に襲いかかる。それは頑強な胴を抉り、焼いた。
 いくつもの風に傷つけられ、業火で焼かれる苦痛に野槌が吠え、のたうち回る。それに追い打ちをかけるように風が吹き荒び、身を焼く炎の勢いを増した。
……すまない」
 鴉天狗が一言呟き、翼を広げ舞う。一陣の風と共に野槌の頭上に降り立ち――
 羽団扇から放たれた一撃が、野槌の身体を木々の檻ごと、真っ二つに断ち切った。

「この野槌、とやらが原因だったのか?」
……
 物言わぬ骸となった野槌の傍ら、倒れた巨木に座りながら不死鳥が周囲を眺める。先ほどまで淀んでいた空気が、どこか澄んできたような気がした。
 鴉天狗は野槌の骸を調べていた。胴の傷に触れ、そして暫くしてから口を開く。
「竜穴を塞いでいたのは、この野槌だろうね。あの竜穴がこいつと瘴気に塞がれて、山を流れる龍脈の気が上手く行き渡らなかった……
「ならば、元に戻るのか。春は……来るのか?」
「ああ、きっとね。……ただ不思議なのは、本来ならば大人しい野槌がこんなにも荒ぶったのは、どういうことだろう」
 鴉天狗が思案に耽るのを不死鳥は暫く眺めていたが、やがて顔を上げる。
 大木のいくつかが鴉天狗の風によって倒れて、野槌の倒れている場所だけに陽光が差し込み、明るくなっていた。
「これは……
 鴉天狗が驚いた声をあげれば、どうしたんだとそちらに身を乗り出す。顔を強ばらせ、不死鳥の炎で焼けた皮膚を睨んでいた。
「ここ……黒い痣がある」
「何」
「ほら見て。ここ……
 鴉天狗が示したところをじいっと凝視すれば、確かにそこには黒い染みのようなものが見えた。
「まさか――
 不意に、影が落ちた。
「不死鳥くん!」
 鴉天狗が叫び、はっと不死鳥が後ろを振り向く。一瞬早く、それ――野槌の頭が不死鳥に食らいつき、彼を一息に呑んだ。
「くそっ」
 鴉天狗が跳び、風を起こす。突風に煽られた野槌の頭がぐらりと傾いだがその口は閉じたままで。
 ごくん。
 その喉元が動く。そしてぐぱりと口を開けば、そこにはもう何も無い。
「まずい!」
 鴉天狗の顔がさっと青ざめ、不死鳥を助け出そうと羽団扇を振り上げる。しかしその身を切り刻めば不死鳥ごと傷つけてしまうのではとよぎり、躊躇した。――と。
 
 開いた口から炎がちらつく。野槌の身体が膨れ上がり、瞬く間に炎があがった。
……!」
 野槌の身は、内側から燃えているようであった。みるみるうちに長大な胴体は焼け爛れ、崩れていく。吹き荒ぶ熱風で近づけず、鴉天狗はそれを見守ることしか出来ない。
 やがて野槌の身体は完全に焼け落ち、残ったのはうずたかい灰の山である。それが元は巨大な妖怪であったと、誰が思うだろうか。
 細い煙を立ちのぼらせる灰に鴉天狗が近寄り、周囲を見渡す。不死鳥の姿は見えない。
「まさか諸共……?」
 声に焦りを滲ませ、鴉天狗が目をこらして探せば少し離れた所に小さな膨らみが見えた。そこへ向かい、熱の残る灰を手で撫でる。すると見慣れた金色が微かに現れて、急いでそこを掘り出した。
「ッ……
 不死鳥が埋もれている。肌に灰をこびりつかせ、気を失っている。上体を助け起こし、背を叩いた。
「おい、不死鳥、しっかり……
「う……
 げほ、と咳き込む不死鳥に微かに安堵しながら、髪についた灰を落としてやる。ぼんやりと目を開き、視線を彷徨わせれば心配そうに見つめる金の双眸とかち合い、思わず笑った。
…………驚いた」
「それはこっちの台詞だよ」
「不死鳥だぞ。このぐらいで死なない」
「それでもさ。……すまない、油断していた」
「それは俺もだ」
 身についた灰を払いながら、不死鳥がゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。己の身から炎を発したせいか、肌から所々細い煙が立ちのぼっている。
「しかし……なんだったんだ」
「野槌ほどの妖怪とはいえ、身体を切断すれば生きてはいけない筈。それに頭の部分は別の所にあった……まるで新しい頭が生えてきたみたいだったね」
 もう調べる術はないけれど、と鴉天狗が灰を見下ろす。
「見たところ瘴気も炎で清められたようだ。この灰はこのまま土に還るだろうね」
 足下の灰を掬い、さらさらと手のひらに広げる。害がないことに安心したのか、その顔は幾分かほっとしていた。
……一旦戻ろう。一応の原因は解決できた筈だ」
 鴉天狗が翼を広げる。不死鳥もそれに続いてふわりと飛び上がれば。
「あっ……
 少し驚いたように声をあげた。その声に鴉天狗が振り返り、首を傾げる。
「どうしたんだい?」
「い、いや……なんでも……
 不死鳥が己の装束をぱたぱたと触るが、すぐに大丈夫だと眉を下げる。そう? と怪訝な顔をするが不死鳥は頷くだけだ。
……行こう」
 不死鳥が尾羽を揺らし、木々が倒れ開けた宙空へと舞い上がる。鴉天狗もそれ以上は何も聞かず、不死鳥のあとに続いた。
 山の頂上に近かったらしい。いつもはすぐそこに見える村が、本の少し遠くに見えたし、社の屋根も心なしか小さめに見える。
「ああ、ほら。見て」
 鴉天狗が指をさした所を見れば、山のそこかしこでうすべにの花の群れがあった。
「さっそく咲き始めたみたいだ。数日もしないうちに、満開になるだろうね」
 柔らかな風が頬に触れるのを感じながら、山を見下ろす。まだ山の空気は眠たげであったが、目覚める前の息づかいにも思えた。

「あるじ! 桜の花が咲いたぞ!」
 出迎えた阿形が社の桜を指さす。
 朝にはまた堅い蕾のままであったものが、ひとつふたつ、ほどけるように花を咲かせていた。それを木の根元で、興味深げに狐の兄弟が見ている。
 よかった、とほっと息を吐いて鴉天狗が桜に歩み寄る。
「すぐに満開になるじゃろうて。花見酒としゃれこむのも一興じゃのう」
「お団子も欲しいな。あんこいりの」
 狛犬たちと兄狐が語らっているのを見て、仲の良いことだと鴉天狗が苦笑いをする。
「はいはい、今日明日と満開になるわけじゃないだろう? ほら、御役目に戻るんだ」
 ぱん、と手を叩き皆を促せば狛犬がそそくさと去って行く。その姿を見送り、ふと隣を見れば弟狐がぼんやりと桜を眺めていた。
「弟君?」
…………
 桜を眺める弟狐の横顔は、どこか憂いを帯びているように見えた。それが気になって、鴉天狗がもう一度呼びかけようと口を開けば。
「弟」
……っ、はい」
「行こうか」
 先に兄狐が声を掛け、弟狐を呼ぶ。
 帯びていた憂いはどこかへと去り、弟狐はぱっと顔を明るくさせて頷いた。気のせいだったかと鴉天狗も思い至り、本殿へと戻っていくのであった。

 数日後、鴉天狗が言ったとおりに社の桜は満開になった。
 それは確かに不死鳥が見慣れていた桜の姿であったが、今、月明かりに照らされているその木は淡くぼんやりと輝いている。先駆けて咲いたものの花びらが、はらはらと落ちていくのを屋根の上から眺めつつ、不死鳥は手元の硝子瓶を弄んでいた。
「不死鳥さん」
 背後から声を掛けられ、そちらを向く。そこには弟狐が佇んでいた。
 おう、と応えれば彼は隣に座り、小さく首を傾げる。
「功徳は集まりましたか」
「ああ……桜の一件のあと、いつの間にか中身が増えていた。ほら、見てくれ」
 不死鳥が瓶を見せれば、それはもう八分、といったところまで増えていた。それをじっと見つめてから、そうですかと弟狐が頷く。しかしそれ以上は何も言わないまま、桜を眺め始めたのだった。
「満開になったな。綺麗だ」
「はい。でも、すぐに散りますね」
…………寂しいことを言うな、お前は」
「本当のことですから」
 つん、と澄ました顔で弟狐が言えば、不死鳥が眉を下げる。
「だが、こちらの桜は毎年春に咲くのだろう」
……来年も咲くかどうかなんて、分かりませんよ」
「なぜだ」
 弟狐の言葉が癪に障ったのか、眉を寄せて身を乗り出す不死鳥をちらりと見やり、何故って、と弟狐が口をへの字に曲げた。
「あれが、人間の手によって切られることは無いと言い切れますか」
……それは、いや、しかしここは社だ」
「この社が、ずうっと、永遠に在るものだと言い切れますか」
 琥珀色の目を細め、問いかける弟狐の声はどこか冷たい。
 いつも不遜な物言いではある彼だが、今だけはその言葉が重く、冷ややかなものにしか聞こえず、不死鳥は戸惑いがちに、首を振った。
……小稲荷、お前の言っている事が俺には分からない。山の神である御剣は、麓の村人たちに慕われているだろう? お前達だって、手段はともかく稲荷社を作った。願いだって叶えているし、それに感謝している者もいる。これが、この瓶が何よりの証だ。……そうだろう?」
――……はい」
 不死鳥の言葉に弟狐が頷く。肯定され、安堵した笑みを浮かべて不死鳥が頷いた。その顔をじっと見つめたまま、弟狐は沈黙を守っている。

 ごとり。

 不意に、何か重たいものが動いたような音がした。
「今、なにか音がしたか?」
「えっ、そうですか?」
 弟狐が耳をぴんと立てる。しかしそれきり、しん、と周囲は静まりかえっている。気のせいかと、不死鳥が首を傾げれば。
「あれ……
 今度は弟狐が声を上げた。その視線の先には満開の桜、弟狐はその根元をじっと凝視している。何かいるのか、と思い不死鳥もそちらを見たが、視界にうつるのは舞い落ちる花びらのみである。
「今……誰か……? 気のせい、でしょうか」
 白い尾をゆらしつつ弟が呟くが、何の影も見えない。枝の影がそう見えたか、と無理矢理に納得し、それからくしゅん、と小さなくしゃみをした。
「うう……まだ冷えますね。そろそろ寝床に戻りましょう」
 ぱたぱた、と装束の埃を払いながら弟狐が立ち上がる。不死鳥も頷き、立ち上がればぴょん、と白い尾を揺らして屋根を降りた。


 ごとっ

 
 再び音が聞こえた気がして、不死鳥の動きが一瞬止まる。慌てて屋根の下を見れば、弟狐がこちらを見上げていた。
「どうしましたか」
 琥珀色の双眸が見上げてきている。屋根の影が僅かに彼にかかって、その瞳はいつもより炯々として見えた。
……いや、すぐに行く」
 尾羽を揺らし、下に降りる。見上げるかたちになった桜はやはり淡く、輝いていた。一際強い風が吹き、その力に負けた花びらが花吹雪となって闇に消えていく。