kurotera
2025-01-02 09:59:32
73559文字
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たとかとはなし 下

2023年12月に発行した温泉スカウトパロディ本の再掲です。
書き手本人が見た幻覚で諸々をねつ造しています。
高濃度の幻覚話。


  
 
 未だに吐く息は白いものの、寒さは和らいできた。冬の終わりが近い。
 鳥居をくぐり、山を下る。
 ふと地面を見ればフキノトウが顔を出しているのが見えた。
 人の姿を借りて、兄狐は時折散歩をするようになった。
 きっかけというものはなく、ただ何となく気まぐれ、多少は安心が出来る寄る辺を得たので余裕が出来たからかもしれない。
……綺麗な朝だね」
 山を下りきったところで立ち止まり、深呼吸する。人間にとってはまだ少しだけ早い時間なのか、人影は見えない。兄狐の変化した容姿は殆ど変わらないが、いつもの装束ではなくセーターにジーンズと、この時期としてはやや薄着であった。
 顔を出した陽光が雪を少しずつ溶かし、雫にしていく。それがまた、そこかしこで輝くので、つい素直な言葉が出てしまった。
 不意に、犬のわめき声が聞こえて、うっかり尾が出そうになる。そちらを見れば紐に繋がれた犬がこちらに向かって吠え立てていた。紐を掴んでいるのは飼い主であろう、若い男が焦りながらこちらに頭を下げている。
 せっかくの静かな朝が台無しだ、と兄狐が片眉を上げる。飼い主と視線が合った気がしたが、相変わらず犬は自分に吠え立ててくる。
 ――犬は、鼻がいい。
 飼い主が何やら謝りながら犬を引っ張るが、聞き分けなく唸り、毛並みを逆立てているのが見えて興が削がれたと兄狐は踵を返した。
 背後から犬を叱る声が聞こえたが、気にもとめなかった。
 
 節分からまた数日が過ぎた。
 がらがらと鈴の音が鳴り響いて、ぽとりと紙片が落ちてくる。それを拾い上げてはそっと開き、読む。青い目が文字を追えば、不死鳥は困惑したように眉を寄せた。
「なにが書いてあったのですか?」
 弟狐がひょっこりと顔を出せば、不死鳥がその紙を見せる。
「『つい先日、山道入り口の近くで見かけた女の子にもう一度会いたいです。その女の子は今まで村の中で見かけた事がありません。しかし、僕はその子に一目惚れしてしまったのです』」
 淡々と読み上げ、ははあ、とつまらなさそうに弟狐が息を吐いて紙片を不死鳥に返した。
「なんですか、これは」
「なにって……お願いごとだろう」
 不死鳥が真面目くさった顔で答えれば、弟狐が眉を寄せる。
「もう一度会いたいなら、探せばいいじゃないですか。小さな村なんですし、すぐ見つかるでしょう?」
 なにも神頼みなんてしなくても、とぼやく弟狐に確かにと同意する。しかし、その文からは切実なものが滲み出ているように思えた。
「村の中で見かけたことがないと書いている。本人も見つけられなかったんじゃないか」
「人間の鼻はあてになりませんからね……どんな女の子なのやら」
「待て、続きが書いてある。『その女の子はとても美しいので、一目見れば彼女だと分かります。肩までのつややかな金髪に、整った鼻筋』」
「金髪……?」
「『茶色い瞳はどこか涼やかで、クールビューティーといいましょうか、それでいて愛らしいのです。遠目からしか見ていませんが、村の女の子よりは背が高く、立ち姿はまるで気品のあるお嬢様がお忍びでこの村に来たかのよう』」
…………
「『お見かけした時はセーターにジーンズとこの時期にしては薄着で、あの時どうして上着をかしてあげなかったのか、後悔しきりです。そうすればお近づきになれたのかも』」
「これだから人間は」
 弟狐が呆れ声を出したと同時、兄狐が戻ってきた。
「ただいま」
 寒いね、と獣の耳を倒す姿を見て、不死鳥が目を丸くした。
……肩までのつややかな金髪」
「いきなり何?」
 不死鳥の言葉に怪訝な顔をさせ、兄狐が首を傾げる。不死鳥の青い目がじっとこちらを見つめてくるのに、落ち着かないと稲荷社にあがり、胡座をかいた。
 どうやら人間に化けていたらしく、福も現代人の装いである。それを追うように不死鳥も室内にあがり、兄狐の前に座る。じろじろと彼を眺めれば、兄狐は苛立ったように床で尾を叩いた。
「茶色い瞳に、せーたーとじーんず」
…………ねえ、弟。不死鳥はいったいどうしたの」
…………ええっと、その……
 答え方に迷った挙げ句、弟狐が不死鳥の手から紙片を抜き取り、兄狐に渡す。それを呼んでいけばみるみるうちに兄狐の顔が険しいものになった。
「なあ、稲荷よ」
……なんだい」
 黙りこくったまま紙片を睨みつける兄狐に、不死鳥が問いかける。
「お前、ここ最近山道入り口に行ったか?」 
……行ったね。散歩をしたくて……勿論人間に化けてだけど……
…………
…………
 妙な沈黙が三人の間に落ちる。しかしその空気に耐えきれず、不死鳥が恐る恐る口を開いた。
……つまり、この人間が一目惚れしたのって……
「馬鹿らしい。こんなの一時の気の迷いだろう? それにオレじゃないかもしれないよ。本当に女の子なのかも」
「それなら……お前なのかどうか確かめたほうがいいんじゃないか?」
 不死鳥の提案に兄狐が片眉を上げ、口の端をひくりと歪めた。お前は何を言っているんだ、と言いたげな表情である。
「どうして、そんな必要――
「だってこれ、〝お願い〟だぞ?」
 そう、紙片に書かれている以上はまごうことなく人間の〝願い〟である。
「〝お願い〟を絶対叶えないといけないって訳じゃない。オレは気が進まないね」
 そう言い捨てて、不機嫌を隠さず立ち上がった兄狐が厨へと引っ込む。その姿を眺めながら、弟狐がぱちりと瞬きをさせた。
「どうしましょうか」
「小稲荷よ、お前はどう考えている」
「オレは……別に人間はどうでもいいんですけど」
 ひらひらと指先で紙片を弄びながら弟狐がなんと言おうか思案する。
「兄者がまた散歩に行って、そいつと鉢合わせでもしたらと思うと……心配です」
 あくまでも兄の心配だとこぼす弟狐に、不死鳥がそれも一理と頷く。確かに、再び鉢合わせでもして人間が兄狐に言い寄れば、怒った兄狐が彼を燃やしかねない。
 言ったとおり人間に火が点こうがどうでもいいが、そんなつまらないことであのカラスの怒りに触れるのも馬鹿らしいと弟狐が言う。
「では、せめてこの〝お願い〟をした奴がどんなやつか、確かめに行かないか」
 不死鳥が弟狐に提案すれば、琥珀色の双眸を細めて少し迷ったのち、幼い顔はこくりと頷いた。
 紙片の蝶が導いた先は、村の一軒家であった。
 一階の端、灯りがついた一室に吸い寄せられるように紙片はふわふわと飛び、そしてぽとりと落ちたのである。
 不死鳥と弟狐は部屋に面した縁側からそろりと顔を出し、中をうかがった。
 部屋の中にいたのは青年だった。平々凡々といった言葉が似合いの風貌で、学習机に座りぼんやりとしている。何も手につかない、といった様子だった。
……あいつが、稲荷を?」
「うーん、そうだとしたら不釣り合い甚だしいですね。よくも兄者と良い仲になろうとしたものです」
……お前、案外ませてる……
 辛辣な弟狐の言葉に不死鳥が思わず呟けば、じろりと弟狐が睨みつけて慌てて口を閉ざす。さてどうしてやりましょうか、と思案する弟狐に、そういえば、と不死鳥が呟いた。
「あの稲荷社を建てる時に、神主に何かしたんだろう? そういったものをあの青年にしてやって、諦めさせるというのはどうだ?」
「確かに……それは名案です。お前もずいぶんと悪くなりましたね」
「褒めるな」
 照れくさそうにする不死鳥に、では夜更けまで待ちましょうと弟狐が影に紛れる。不死鳥もそれにならって、暫く待ちの姿勢となった。

 さらに夜が更け、この家の灯りも一つ二つと消えていく。青年もやがて深いため息をついて敷かれた布団に潜った。すっかり寝静まったのを見計らって、弟狐と不死鳥がそっと部屋に忍び込んだ。丑三つ時である。
「さて……
 青年は深く眠っているようだった。それを見下ろし、弟狐は小さく耳を動かした。
「この前の神主よりは静かに眠っていますね」
 うんうん、と弟狐が頷き、小さく咳払いをした。
「青年よ……聞こえますか……今、あなたに直接話しかけています……
…………大丈夫なのか?」
 弟狐が眠る青年に語りかけるさまを見て不安になったのか、不死鳥が口を挟む。それに答えず、弟狐が不死鳥の尾をぐっと引っ張れば慌てて口を閉ざした。
 すると、青年の目がのろりと開く。そのまま身を起こすことなくぼんやりと天上を見上げるのを見て、弟狐は満足げに頷いた。
「青年……答えなさい……お前は山の稲荷に願い事をしましたね?」
 はい、と青年の虚ろな声が返ってくる。
「もう少しばかり、詳しくお聞かせなさい……
 弟狐が重々しく命じれば、まばたきも無いまま、青年が口を開いた。

 あれは一週間ほど前のことです。
 僕は飼い犬の散歩を日課としているのですが、山道の入り口を通るのです。その朝も通り過ぎるとき、飼い犬が吠え立てました。
 叱りつけながら吠える方向を見ると、そこにはお伝えしたとおり、肩まで伸びたつややかな金髪を持つ女の子がいたのです。セーターにジーンズという服装でしたが、すらりとした立ち姿には気品が滲み出ていました。

……どうして女の子だと思ったのですか?」

 あんな綺麗な人が男なわけないでしょう。

………………そうですか」

 僕は初めて、一目惚れというものをしてしまったのです。ここ数日、あの人のことばかり頭に浮かんで何も手につきません。
 どうか稲荷神さま、願いを叶えてください。

「そうはいいましても、お前はその人に会ってどうするのですか」

 告白します。

「潔くてよろしい。しかし……稲荷神である私の見立てでは、お前とあに……ごほん、その人とお前は不釣り合いです。諦めたほうが――
「嫌です!」
「ひゃっ」
 青年が一際大きな声で叫んだのに、弟狐の身体が跳ねる。本当に起きてしまったか、と不死鳥が焦りながら青年を見れば、しかし先ほどと同じように夢かうつつかの上体である。気を取り直した弟狐が、口元を引きつらせる。
…………そんなに、好きに?」
「はい!」
「返事だけは凄いなこいつ」
 呆れたように不死鳥が呟く。いよいよ弟狐が言葉に窮しだすと――
 扉の向こうでバタバタと足音がしたと思えば、犬が激しく吠え立てる声が家中に響いた。その途端、ぶわりと弟狐の尾が膨らむ。足下では、んが、と青年が覚醒したような声も聞こえた。
「逃げるぞっ」
 不死鳥が驚いて固まった弟狐を抱え上げ、部屋から庭へと飛び出す。
 茂みに飛び込み、塀を越えて走れば後ろのほうでキャンキャンと喚く声が聞こえた。
 全速力で村を抜け、来た道を戻り鳥居のあたりにつけば不死鳥はようやく止まって一息吐く。弟狐はというと、尾を膨らませたまま、ひっしと不死鳥に縋り付いていた。
……小稲荷よ、もう大丈夫だぞ」
…………
「犬、苦手なのか」
「そんなことありません! ちょ、ちょっと、驚いただけです!」
 不死鳥の言葉に叫び、ばっと身体を離す。酷い目にあったと涙目で尾を撫でて繕えば、不死鳥は腕組みをして唸った。
「あまり上手くいかなかったな、どうする?」
…………放っておきましょう。兄者の言うとおりでした」
 救いようがありません、とぼやきながら弟狐が寝床へと向かう。そうか、と不死鳥も納得したのか、弟狐についていった。

 翌々日。
 
「おい、おいっ、小稲荷」
 鈴から紙片を受け取った不死鳥が何やら焦った様子で兄狐と遊んでいた弟狐に声をかける。そのただならぬ様子に、弟狐の目が細まった。
「どうかしましたか?」
 お手玉をぽとりと落とし、弟狐が問う。不死鳥が差し出した紙片を受け取れば、目を見開き渋い顔をさせた。
「なんですか、これは」
「何って……これ、あの青年のものだろう?」
「お前たち、まだそいつを気にかけていたのかい?」
 兄狐が呆れつつ紙片を読む。そしていよいよ苦りきった顔をして二人を見た。
「何したんだい?」
「いや、お前を諦めさせようとしたんだが……どうやら余計に酷くなったようだ」
 紙片に書かれていたのは、一昨日と殆ど同じ内容だった。
 弟狐と不死鳥が枕元に立ったせいか、いよいよ稲荷社の御利益を確信してしまったようである。
……『三月半ばには大学進学のため、上京してしまいます。なのでそれまでに会わせていただけると幸いです』」
「図々しいやつだ。放っておけばいい、春になればここから消えるということだろう?」
「しかし稲荷よ、この様子では青年は初恋相手に心残りがあったまま、ジョーキョー? するのだろう? 妙な拗らせ方をしないだろうか……
「知ったことか」
 兄狐の態度は頑なである。何故こうも強情なのかと首を捻りながら、弟狐を見る。彼は彼で、もうあそこの家には行きたくありませんと言いたげな顔をしていたので、何も言えずに頷くほか無かった。

 兄狐の態度もどこ吹く風と、一週間、毎日のごとく青年からの紙片が届いた。
「こんなにしつこく願掛けをする暇があるだなんて、幸せですね」
 皮肉を漏らす弟狐の隣には、紙片が積み上がっている。
 いよいよ興味をなくしたらしく、いっそこれほどまでに当の本人に願っているというのに一向に叶う気配がない青年が哀れに思えてきて、不死鳥は不機嫌そうに紙片の山を睨みつける兄狐をちらりと見た。
…………分かった」
 大きくため息を吐き、兄狐がついに折れた。
「こんなのがあと半月も続くだなんてごめんだ。そいつに分からせてやろう……不死鳥、首を突っ込んだ以上、お前も手伝うんだよ」
 兄狐の言葉の圧に、有無を言えず不死鳥が頷く。
「ただ……どうやるんだ? お前がオスであることを言うのか?」
「いや、いっそのことオレに惚れたのは良い思い出として残してやろうじゃないか」
……まさかお前、メスに間違えられたのを根に持って――
 兄狐がじろりと不死鳥を睨めば、慌てて口を閉ざす。
「せめてもの情けだよ。慈悲深いだろう?」
 そうきっぱりと言い切った兄狐の表情は、どこか読めない。
「やれやれ、この前の礼を届けにきたら妙なことに巻き込まれたものだ」
 そうぼやく雪女の声色は、しかしどこか楽しげであった。
 目の前にはどういうわけか女物のセーラー服を着た兄狐が、行儀良く正座をしている。そのかんばせに雪女が手際よく化粧を施していくのを眺めながら、弟狐は尾を揺らした。
「狐は女性に化けるものさ。化かしきってやるのも礼儀だと思わない?」
 つん、と済ましながら答える兄狐に、はいはいと雪女が相槌をうつ。
「まあ顔は整っているんだ。尻尾を出さなければ、愛らしい人間のおなごに見えるとも……それで、お相手役は不死鳥ってわけか」
「お、お相手?」
 兄弟が持ってきた襟詰めに袖を通した不死鳥が、戸惑いがちに聞けば兄狐がそうだよ、と笑う。
「まあ、万が一の為さ。オレの断りだけで駄目だった場合は、きちんと助けにくるんだよ」
「? ……彼はそんなに危ない人間のように見えなかったが」 
……。兄者、大丈夫でしょうか?」
 不死鳥の隣でやれやれと弟狐が肩を竦める。まあどうとでもなるさと楽観的に兄狐が答え、手渡されたリップを唇に塗った。

 セーラー服に薄手のカーディガンを羽織り、足下は薄地の黒いハイソックスとローファーを履いただけの出で立ちでは流石に冷える。山道入り口に構える石造りの鳥居の下で、女子学生に化けた兄狐は白い靄を口からこぼしながら佇んでいた。そこから少し離れた茂みで、弟狐と不死鳥、雪女が隠れて事の次第を見守っている。
「来るだろうか?」
「話を聞く限り、来るんじゃないかい? 一週間程度で諦めるような熱の入れようじゃなさそうだけど」
「いっそ諦めてくれたほうが、兄者の手を煩わせないのですが」
「しっ、静かに。向こうから誰か来たよ」
 雪女の声にお喋りを止め、二人がそちらを向く。朝靄の中からやってきたのは、確かにあの青年であった。
 あ、と兄狐の姿に気がついたのかまだ垢抜けない顔をかっと赤らめ、身を強ばらせる。兄狐も彼に気がついたのか、そちらを無表情で見据えていた。
 茂みの中の三人はというと、息をひそめて二人を見守っている。人ならざるものたちに見守られていることも知らず、青年はぎこちない動きで、狐が化けた女学生に歩み寄った。
「お、おはようございます」
「おはよう」
 少し低めながらも涼やかな声の返事が返ってきて、青年はどきりと胸を高鳴らせた。飴色の双眸がじいっと青年を見つめ、そのまま小首を傾げれば淡い金髪がさらりと揺れた。ど、ど、と鼓動を早くさせながら何かを言わなければという焦りで青年は口をぱくぱくとさせている。
 先に口を開いたのは、女学生だった。
「君……この前もここを通りがかったね」
「え、あ、はいっ、気づいていたんですね!」
「ふふ、君の犬がこちらに向かって吠えていたから。今日は……おや、連れていないのか」
「そ、そうなんですよ。また貴女に吠えるといけないんで……
 ははは、と笑う青年を見て、茂みの中で弟狐が唸る。それをなだめながら不死鳥はごくりと喉を鳴らして成り行きを見守った。
……そう。じゃあ、君だけで散歩かな」
「いえっ、そういうわけではっ!」
 大声で否定され、女学生の肩が跳ねる。少し戸惑った様子で、じゃあどうして? と聞けば青年は顔を真っ赤にしたまま、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「あ、あなたに会いにきました!」
…………お、……私に?」
「はい!」
 威勢のいい返事に、へえ、と女学生が微笑む。
「どうして?」
「そ、その、あのですね、……ぼ、ぼ、ぼぼ……僕、……貴女を見たときから……
 一瞬、青年が黙りこくる。しかし意を決して、勢いよく頭を下げた。
「貴女みたいに綺麗な人を、生まれて初めて見て……一目惚れしました!」
「おや……ずいぶんと真っ直ぐだね……
 雪女がいっそ感心だと小さく声を漏らす。
「しかし気の毒だが……稲荷は断るのだろう?」
「当たり前です」
 不死鳥が心配そうに身を乗り出し、弟狐がふん、と鼻を鳴らす。とうの兄狐はどう答えるとそちらを見れば、彼は少し頬を赤らめて目の前の青年から目をそらしている。
……まんざらでもなさそうだが、あいつ大丈夫か」
「あ、兄者はちゃんと断りますっ」
「しっ、声が大きい」
 女学生は軽く頬を赤らめ、頭を下げたままの青年をちらりと見、それから軽く指で己の髪を撫でた。 
「そ、そう……ありがとう……嬉しいよ」
「それなら!」
 青年が顔に喜色を浮かばせながら顔を上げる。
 しかしそれを制して、女学生は首を振った。
「でも私、君とは付き合えないんだ」
「どうしてですか!?」
「えっ、いやだって私と君、いま会ったばかりじゃないか」
 女学生の言葉に驚いたように青年は目を見開いたが、すぐにそんなこと、と笑った。
「大丈夫です!」
「何が?」
「貴女が不安ならば、お友達から始めましょう!」
 青年の鼻息は荒い。一目惚れをした女学生とついに出会えたことで心が昂ぶってしまい、勢いづいたらしい。まだ望みがあると考えているようで、一歩も引く素振りを見せない。怖い物知らずな若者特有の勢いに、女学生は僅かにたじろいでいる。
 それを見かねた弟狐が、たまらず不死鳥の襟詰めの袖を引っ張った。
「出番です! ほら、行ってください!」
「えっ、今か?」
「今です! 兄者を迎えに行くんですよっ」
 弟狐が訳も分からず立ち上がった不死鳥の背中をぐいぐいと押す。促されるままに茂みから出て、二人の元へ向かう。
 困惑したままやってきた金髪の男子学生に、女学生がほっと安堵の表情を見せた。
……愛童」
「あいど……?」
 男子学生――愛童が目を丸くすれば、きろりと女学生が視線を向ける。その鋭さに黙っていたほうがよさそうだと愛童が口を閉ざして、女学生の傍らに歩み寄れば、青年はうさんくさいものを見るような眼差しを乱入者に向けた。
……なんだ君は、見かけない顔だが」
「あー、えっと、俺は」
「私の家族だ」
 愛童の言葉を遮りながら、ぐっとその腕を引っ張り女学生が言い放つ。 
 家族? と青年が訝しがれば、愛童は曖昧に頷いた。
「それって……婚約者、とか、許嫁とか、そういう……?」
……申し訳ないのだけど、君の申し出は受け入れられないんだよ」
 女学生の言葉に青年がぽかんとした顔で、彼女とその許婚と呼ばれた男の顔を見比べる。再開からものの数分で終わってしまった恋路の、あんまりな結末に脱力したか、へなへなとへたり込み、しかしそれでもまだ納得していない様子で顔を赤くさせたり、青くさせたりした。
「そ、そんな――
「それじゃあ、さようなら。もっと素敵な〝人間〟を見つけることだね」
 目の前にしゃがみ、その顔を覗き込みながら女学生が告げる。その飴色の瞳があやしく輝けば、たちまち青年は呻き、昏倒した。
……やれやれ」
「彼は……大丈夫なのか?」
……幻を見たんだよ、彼は」
 立ち上がれば女学生の表情からいつもの稲荷の表情に戻った兄狐が肩を揺らす。気を失った哀れな青年を見下ろし、小さく息を吐いた後で仮初めの婚約者――不死鳥に向き直り、笑みを向けた。
「ほら、前に言っただろう。恋ってどうしようもないものだって。見なよ、人間ですらないものにさえ、自分が思い込んだ理想を向けるんだから」
 さあ、帰ろうか。と茂みに向かって手招きする。ほっと安堵した表情の弟狐と、雪女が出てくれば人の来ない内にとそこを立ち去った。
 
 ちちち、と鳥が囀っている。
 狐に化かされ容赦なく初恋を打ち砕かれた青年は、未だその場に倒れたまま大空を見上げていた。
「ああ、かわいそうに」
 それを見る影がひとつ、柘榴のように紅い目が哀れな青年をじっと見下ろしていた。

 翌日。紙片が落ちてこなかったことに安堵しながら、不死鳥は鈴をがらがらと鳴らしていた。
「それにしても、もっとマシな〝お願い〟はないのかい? 今年は豊作でありますように、とか、畑が荒らされませんように、だとか」
 本殿の供物からくすねてきた水ようかんを、黒文字で切りながら兄狐がぼやく。その姿はいつも通り、稲荷の神使としての装束姿である。
「なあ、あの〝お願い〟は功徳になるのか? 俺は彼の恋を打ち壊しただけで、なんにも良いことをしたとは思えないんだ」
「結果はどうあれ、彼が願った『もう一度会いたい』は叶えましたよ……恋路を成就させるのは、彼本人の責任でしょう?」
 不死鳥と弟狐が話し合っていると、水ようかんを一口味わった兄狐が小さくため息を吐く。
「人間って身勝手なものだからね。いちいち付き合っていられないよ」
 これに懲りたら下手なちょっかいは出さないことだね、と釘を刺す。ちらりと見た壁の暦は、既に三月半ばを過ぎていた。