さもゆ
2024-12-10 03:39:04
61538文字
Public 吸死
 

【ドラロナ】目を閉じろ、息を殺すなキスするぞ

キスしないと息ができなくなる催眠をかけられた若造と、はーやれやれな同居吸血鬼のすったもんだ話。
ド(無自覚)ロ(自覚済み)がくっつくまで。

2024.7.29 たべものpixiv投稿作品


 あの人気退治人ロナルドが、キスをされないと息ができなくなってしまった!

 という見出しがもしでかでかと世間に知れ渡ってしまったときには、もういっそ、棺桶の中にでもしまい込んでしまおうかしら、ドラルクは思いながら、ロナルドの後を追いかけた。ああ、しまおうかしら、というか。
 しまい込んでしまう、きっと。



 Day.3



 さて十九時半だ。
 ドラルクがぐう、と伸びをしながら棺桶の蓋を開けると、今宵は冷房がついていた。リビングの明かりもついている。遮光カーテンは閉じられたままだ。開けようかと思ったが、外はまだ夕陽が残っているかもしれない。常々、夏の陽射しというものはしぶといと思う。しかしここは田舎ではないから、蝉や蛙の大合唱が聞こえないだけマシかもしれない。(だってそれだけで死ねる)まあ、この町は蝉や蛙の大合唱にも引けを取らない騒々しいおポンチばかりなのだが。
「ヌー!」
 快適な目覚めのままナイトキャップを外し、身支度を整えようとしたところ、使い魔が泣きながらドラルクに飛びついてきた。今夜も彼には、ロナルドの様子を見てくれるよう頼んである。何かあったのか、とすぐ勘付いて、ジョンに促されるまま裸足で棺桶を出る。
 連れられた先はすぐそこ、ロナルドのソファベッドだった。
 ドラルクは、一瞬、自分の息こそ止まってしまうかと思った。
 ソファベッドにはロナルドが大きな体を丸めて横たわっている。その呼吸が荒い。
「ロナルドくん」
 そばに跪き、呼びかけると、ロナルドは歪めた顔で「まだヘーキだ」と言った。
 確かにまだ喋れているし、息が乱れているだけだ。ドラルクは昨日の自分の発言を思い出し、舌打ちをしたい気分になった。“およそなんて当てにならない”全くもってその通り、おポンチ吸血鬼はなんて言っていた? “キス一回でおよそ一時間分の呼吸を得られる”だから多くしておくにこしたことはなかったのに!
「こっち向け若造」
 限界まで耐え忍ばれても迷惑なだけだ。そうやってドラルクの棺桶のそばで丸まれるだけ、まだマシかもしれない、などとは微塵も思えなかった。いつもの調子で床を歩き、いつもの調子で棺桶の蓋を叩いてくれないと、そうしてくれないと、ドラルクはロナルドのことを助けられない。
……いやだ」
 なのにロナルドはまだドラルクを頼ろうとしなかった。
「まだ息、できる。ちょっと息苦しいだけ」
「なに意地張ってんだ」
「まだ人工呼吸、いらない。あっち行ってろ」
 ロナルドは寝返りを打って顔を隠してしまった。ヌーと泣いて肩をよじ登ろうとするジョンの頭は撫でてやっている。けほ、けほ、隠した顔が咳き込んでいる。そのまま。
 そのまま息ができなくなるまで、私に待てって?
「おい若造」
「なに、」
 ちゅ、と。
 髪から覗く耳に、分かりやすく唇を落とした。
「ッ、は!?」
 ロナルドが飛び上がって起きる。驚いていてもジョンを振り落とさず抱き留めたあたり、さすがとしか言いようがなかった。ジョンを抱いた両手は殴る素振りを見せない。ドラルクは首筋に右手を這わし、ロナルドの胸に左手を当てた。寝起きで、体温の低い自分の素手が、特に右手が、一瞬、焼けそうになって表面が塵と化したが、構いやしなかった。
……ひょっとすると口じゃなくても、と思ったが。やっぱり口じゃないと駄目みたいだな」
「へ、? ……ひっ、ほ、」
「は行を網羅する気か?」
「ふざけんなテメェ、ほんとになに、なんで、」げほっ! ロナルドが大きく咳き込んだ。
 ドラルクはすかさずロナルドの口に自分の口を押し当て、離した。
 両手に心臓がふたつできたみたいだった。首筋の熱さも、胸の鼓動も、とても良いものに思えた。何だかちょっと愛しさすらこみ上げ、ドラルクは小動物か赤ん坊にそうするように、もう一度顔をすり寄せ、口を合わせた。
 顔を離しても殴られはしなかった。蹴られも、頭突きもされない。
 真っ赤な顔して泣きそうなロナルドが、正常な呼吸の仕方を取り戻したはずなのに、やたら上擦った声でこう言った。
「つ、次するときは、髪あげろ。……くすぐったい、から」
 そしてジョンを押しつけ、ドスドスと床を鳴らして、事務所へとたぶん逃げて行った。
「ふ、ふふ」
 その背中を見送ったあと、ドラルクはジョンを肩に乗せステップを踏みつつ棺桶までの短い距離を歩いた。おかしな男、ロナルドくん。まだ熱の灯る両手でジョンを抱き、無意味にくるりと回る。「分かるかい、ジョン。これが若造の体温だ」ジョンは少しばかり主人を案じるような眼差しを向けていたが、ひどく嬉しそうな主人に、ヌヒと可愛らしく微笑んで見せた。ドラルクは本当は声を上げて笑い出したくて仕方なかったが、戻って来て鉄拳をお見舞いされ兼ねないので、ジョンの腹毛に顔を埋めて笑いを嚙み殺した。
「耳へのキスであんなにも狼狽えちゃってさ、ほーんと」
 ほんと?
 ……面白い男! ロナルドくん。
「口にしたらどんな反応なんだろうな。失神してもおかしくないんじゃないか?」
 ヌ、ジョンの笑みが少し引きつったが、ご機嫌な主人に撫で繰り回されすぐに相好を崩し、小声でキャッキャウフフと笑いあった。
 ごぼっ、水槽でキンデメがなぜか噎せるように気泡を吐き出している。声のない貴重な意見だ。ところが残念なことに、踊る吸血鬼と使い魔には、聞こえていないのだった。



 二時間分の呼吸しか得ていないのに、急遽退治人組合からの連絡で下等吸血鬼の退治へと飛び出して行ったロナルドを、もちろんドラルクも追いかけた。外は暑すぎるのでジョンはお留守番だ。
 現場では、下等吸血鬼が熱帯夜のむわりと広がる外気のように群れをなしていたが、到着した退治人たちの手によって瞬く間に吹き飛ばされ、捕縛され、VRCの護送車に押し込まれていった。簡単だったが、数が多い、すべてを片付けるころには全員汗みずくになっていた。

「やべー、」
 と声を漏らしたのはショットである。額の鉢巻きを取り、ポンチョをぱたぱた扇いで体に風を送ろうとしている。「暑すぎ。俺の田舎より暑い。ビル壊して風の通り道作った方が絶対いい」
「危険思想」
 ロナルドが突っ込み、同じく帽子でぱたぱた自身を扇ぎながら言った。「けどマジでやべえ。一旦ギルドに行って何か飲もうかな」
「そうしようぜ。じゃないと干乾びて死ぬ。サテツは?」
「俺も行く」
 と返したサテツは滴る汗を拭ってもどうせ無駄だと思っているのか、汗だくのまま素直に頷いた。
「お前が一番やばそうだもんな」ショットが笑い、「んじゃ行こうぜ」と歩き出した。
 サテツが続き、次いでロナルドが足を踏み出しそうになったところで、ドラルクがその腕を掴んで引き止めた。
 ドラルクは必要最低限な筋肉しかついていないし、もとより代謝というものがあまり重要でない吸血鬼なので、暑さは感じても、退治人たちのように汗のひとつも掻いていなかったが、焦ったせいかこめかみから汗の代わりの砂が流れ落ち、再生した。「ロナルドくん」幸い、前の二人は足を止めたこちらに気づいていなかったものの、なるべく小声で呼びかけた。
「なんだよ」
「そろそろ二時間経つ」
「は?」
 ロナルドは訝しみ、すぐにドラルクの言わんとしていることを察して声を潜めた。
「や、まだだろ。一時間ぐらいしか経ってねーじゃん」
「阿保ルド。一時間二十七分だ。およそ ・・・だよ」
「つっても、こ、……ここ外だぞ」
……もしギルドで酸欠になったときに、されてもいいってんなら、別に今じゃなくてもいいがね」
 むぐり。ロナルドは口を噤んだ。
 距離が開いていくショットとサテツの背中を見やり、現場分析を続けている幾人かのVRC職員にも視線をやり、規制線を管理している吸対の目立つ白色にも目をやった。「無理」そしてドラルクに視線を戻して言う。「ぜってームリ。不可。こんなとこでできっこねえ」
「できっこねえって思うのは自由だけどさ。やるのは私なんだよな」
「お前できんのか。誰かに見られでもしたら、」
「知り合いはいないだろ」
「二人がいる!」
 思いのほか大声を出したせいで、先に行っていた二人が振り返り、「どしたー? 喧嘩かー?」と声を投げてきた。言葉に詰まったロナルドよりも、当然ドラルクの方が弁が早かった。「いつもの通り! なにすぐ向かいますよ、先に涼んでてください!」
 二人は顔を見合わせると、程ほどになー、熱中症になる前に切り上げてくださいね、とそれぞれ肩を竦めてもう振り返りもしなかった。それを最後まで見届けたあと、ドラルクがロナルドに人差し指をつきつけた。「これでいいだろ。ほかに懸念は?」
「だ、だって、まだひとがいる」
「こんな往来のド真ん中でしようなんて私も思わないさ」してもいいけど、とは言わないでおいた。「おいでロナルドくん、きみだって早くアイスココア飲みたいだろ」
 ドラルクはロナルドの手を引き、狭い路地を見つけると、路地の奥まで見通せる目で闇の中に危険はないことを素早く確認し、ロナルドを暗闇に連れ込んだ。「ここならいいだろ」
「け、けど、でも、……こんなとこで」ロナルドは泣きそうに鼻をすんと啜った。「し、しなきゃだめ? ほんとに?」
 その言い方が随分と子どもっぽかったので、ドラルクは「分かったよ」と言ってずれている真っ赤な帽子を直してあげた。「五回だけにしよう。そうしたら五時間は、きみの安寧が守られる。アイスココアは飲みきれるし、まあ、ほかの退治に駆り出されたとしても、充分家に戻ってこられるだろう。たぶん」
「ご、ごかい……
「そう。できない?」
 ドラルクが煽るように牙を見せて笑うと、いとも簡単に煽られたロナルドはむっと唇を尖らせ言った。
「できる」
「いい子だ」
 ここは誰の目も、光も通さない路地裏の暗がりだった。けれどもドラルクは自身のマントでロナルドを覆い隠すように包み、そのむっと尖った唇に自分の唇を押し当てた。ぱちっ。不意をつかれたのか、ロナルドの長いまつ毛が瞬く。ドラルクは口を離し、「あと四回」と言った。
 ロナルドはサッと耳たぶまで赤く染めあげ、「お、おまえ、」と震える手でドラルクのマントを握りしめた。「おまえも、目、閉じろ。ふぇ、フェアじゃねえ」
「フェア?」
「俺はあんま、見えてねえのに。おまえだけ見えてるなんてせこい」
「せこいって。えー、」
 ……きみのそのすぐに湿るまつ毛も濡れる瞳も、頬の赤さも、ぜんぶ見ていたいんだけど、ドラルクは不満に思った。しかし握りしめたマントをちょっとだけ引っ張り、ロナルドが目線の低いドラルクに対して縋るように瞳を伏せたので、抗議のひとつも言えやしなかった。
「ど、ドラルク。頼むから……
 だからどうして、彼の視線には引力があるんだろう。
 隠されかけた青を追い求めるため顔を寄せる。鼻先同士が触れあい、ここまでくれば、瞼を閉じたとて繋がった視線が切れることはなさそうだった。ロナルドがまつ毛を震わせながらそっと目を閉じる。ドラルクも仕方がないなと瞼を閉じ、視線の代わりに、口をぴたりとくっつけた。
 そこで初めて、馬鹿みたいだが、ロナルドの唇の熱さに気がついた。
 大気の方がよほど暑い。なのに、合わさった皮膚の表面から、体の内側まで、燃えるような熱さが駆け巡り、ドラルクは死んでしまいそうになった。
 すぐ死ぬ吸血鬼、だけれども、死んでしまうわけにはいかなかった。というか、死ねなかった。いつもなら不調を感じる前に、本能的に、この身は崩れ落ちるというのに、指の一本も、いやさ髪の毛一本も塵になりはしなかったのだ。
 死とは無縁な何か。
 ロナルドの唇の熱さには、それがあった。
 ゆっくりと顔を離し、きっとバレたら粉々にされるだろうが、まじまじロナルドの顔を見つめて、ああ、と思う。
 キスしたいな。
 キスがしたい。
 ドラルクはもう一度そう思って、そうだね、と抗うことなく自分に頷いた。彼の腰を引き寄せ、うなじに手を回し、この熱い唇に愛を囁きたい。こんなお遊びじみた善行じゃなくて、真剣に、彼を甘やかし、堕落させて、もっと深くまで、血潮の熱さを感じたい。彼の体の奥まで暴き、そして吸い尽くしてしまいたい。
 でもこれは人工呼吸だった。
 キスって。とひとり顔をしかめる。キスって、どんな相手に、どういうときにするものだっけ?
 ああ、あんまり考えている暇はないぞ、ロナルドくんの眉根が寄っている。今にも目を開けてしまうだろう。今あの綺麗な青い瞳と目が合ってしまうのは、何だか非常にマズイような気がして、ドラルクはまたロナルドのくちに自分の口をくっつけ、離した。
「あと二回だ」
「さ、さっさと、しろ」
「仰せの通りに」
 四回目、五回目。
 けぶる睫毛に覆われた青色が姿を現し、ドラルクは寸の間、太陽光が雲の隙間から零れる様をイメージした。あくまで想像の中でしかなかったが、それを向けられれば、ドラルクは今度こそ熱に焼かれて塵になってしまうに違いなかった。
 されどロナルドはドラルクを見ることもなく、自分を覆った夜をどかし、ぶっきらぼうに「早く行くぞ」と背中を向けた。「こんなとこ誰かに見られたら、大事になる」
 
 あの人気退治人ロナルドが、キスをされないと息ができなくなってしまった!

 という見出しが、もし、でかでかと世間に知れ渡ってしまったときには、確かにロナルドの言う通り大事になりそうではある。
 ファンも彼の家族も黙っちゃいないだろうし、半田やカメ谷という友人らも面白おかしく騒ぎ立てるだろう。ドラルクだってその状況は楽しむに決まっている。
 それからそのあと、もしも、もしそんな状況になったら、もういっそのこと、彼を棺桶の中にでもしまい込んでしまおうかしら、ドラルクは思いながら、ロナルドの後を追いかけた。ああ、しまおうかしら、というか。
 しまい込んでしまう、きっと。
 自覚したのは執着だった。
 それも限りなく、純粋な欲求だ。
 ドラルクはロナルドに、真実、キスがしたい。



 事務所に帰ってこられたのはきっかり五時間後だった。
 階段をのぼっているときから様子がおかしかったが、事務所の扉を開け、閉めて、扉が閉じきった途端に、ロナルドはドラルクのマントを掴んだ。
「ドラ公」は、はー、酸素を充分に取り込もうと肩が大きく上下しているのが、電気を点けていなくともドラルクの目にはよく見えた。「……ドラ公」
 助けてとも人工呼吸しろとも何も言わなかったが、その呼びかけには、懇願が滲んでいた。
 ドラルクはほんの少しだけ躊躇した。
 つい五時間前、自分は、この男にキスがしたいと自覚したばかりだ。そう思う相手と唇を触れ合わせるのは、少なからず、緊張をもたらした。誰しも下心というものはあまり悟られたくないだろう。ドラルクとて例外ではない。
 しかしまあ人工呼吸だ。
 ドラルクは本気でそう思っている。これはキスじゃあない。
 キスじゃないから、キスがしたいと思っている。ブラッド・ワインを飲んで本物の血を飲みたいと思うのと同じだ。
「メビヤツに帽子をかけろ」
 何よりドラルクはロナルドに死んでほしくない。
 暗闇に言われた通り帽子を外したその手首をドラルクは掴み、びくりとお互いの体温に驚いたのも束の間、メビヤツの頭に誘導してかけさせた。スリープモードになってはいるようだが、念のため、ドラルクが深く被せ直し、ロナルドに向き直る。夏用の退治人衣装の袖は短く、掴んだままの太い手首はどくどくと脈打っていた。熱い。そしてそのまま、ドラルクはロナルドに人工呼吸をした。
 ロナルドは大きく目を見開いて後退った。
「て、てめ、するときはするって、こっちは見えねえんだぞ」
 壁に背中をぶつけたロナルドを追い、ぱち、壁のスイッチを押した。電気が点く。そしてもう一度、唇を重ねた。離して、ニヤリと笑う。
「きちんと見えたかい、ロナルドくん。きみに息を与えているのは、この私だ」
 感謝し、畏怖しろ、ひれ伏したまえ。もちろん言う前に砂にされた。



「結構大変だったよ、ジョン。下等吸血鬼の群れはどうってことなかったが、それからも吸血蝉やら吸血鬼あの頃の夏おじさんやら人間露出魔やら……まあぜんぶロナルドくんと愉快な仲間たちがボコボコにして万事解決だったが」
 汗まみれゴリラをシャワーに見送ったあと、リビングのソファでお留守番をしていたジョンを撫でまわし土産話を話して聞かせる。「それからね、」ドラルクはまるで他人事のように言った。「どうやら私はロナルドくんにキスがしたいらしい」
 
 ヌ、ジョンが硬直した。
 ごぼっ! 水槽内で気泡が弾けた。
 静かな空間ではよく響いたため、冷静なドラルクが水槽へと顔を向けた。

「大丈夫ですかキンデメさん。どうかされましたかな」

 どうかしたのはお主の方だ、とキンデメは言った。「この数時間でどういう心境の変化だ」訊ねておきながら、いや、話さんでいい、と言う。「吾輩を巻き込むな。本当にどうしようもなくなったときだけ、助言をくれてやる。それまでは一切関与しない」
 吸血デメキンはそれきり沈黙し、ドラルクとジョンに一瞥もくれないで水草に引っ込んだ。
 べつに巻き込んだつもりはないのに勝手に迷惑がられたドラルクは何だあの金魚と顔をしかめたものの、金魚とは違って全肯定し一緒に悩んでくれるであろう膝元のアルマジロに目をやった。ジョンは頭を抱えていた。
「ジョンどうした」
「ヌ、ヌヌヌヌヌヌ」ドラルクさま。「ヌンヌヌーシヌ」ヌンにちゅーして。
「何だい、甘えたがりめ」ドラルクはジョンを抱え上げると、小さな鼻先に自分の尖った鼻筋をこすりつけた。
 ジョンがくすぐったそうにヌヒーと笑い、「ヌヌヌヌヌンヌヌ」ロナルドくんにも、と言う。こういうのをしたいの?
「いや、……
 ドラルクはどう言おうかしばし悩んだ。有り体に言えば、こういうのではない。五時間前に考え損ねたことを、今ここでなら、熟考できるかもしれなかった。口にするキスとはどういうときに、どういう相手にするものか。
 相手は簡単だ。
 甘やかしたい者、篭絡したい者、愛しい者に。
 吸血鬼とて、お国柄はあるがキスは愛情表現として立派に存在している。でなければ、ドラルクの父ドラウスが棺桶の蓋裏に貼ってある妻の写真に毎朝キスするはずがない。(それを思い出したドラルクは内心舌を出した。“げえっ”。両親の仲が良いことは素晴らしいが、それはそれとして、いくつになっても両親の甘やかな空気に晒されるのは微笑ましい通り越して居た堪れなくなる)
 しかし当たり前だがロナルドはドラルクの妻ではない。
 やむを得ない相棒ではある。
 そして甘やかしたいかと言われれば、そんなわけがないと即答できるが、ちょっと考えるまでもなく、毎日の食事を作ったり部屋の掃除をしたり、使いもしないトイレの芳香剤を自分好みのにおいで選んで買ってくる程度には、まあ何というか、世話を焼いていた。だがそれは吸血鬼の特性とも言える。城に招き入れた者を油断させ、血を吸うための。特にドラルクの一族は人間と良好な関係を築こうとしてきた一族だ、この身には人間を甘やかす血が流れているとしてもおかしくはない。甘やかしたくて甘やかしているわけじゃない。決して。これは逃れられないさだめだ。ドラルクは別に、ロナルドを甘やかしているつもりなんてない。
 じゃあ次は? 篭絡したい者。ロナルドのことは家に棺桶を持ち込めた時点で篭絡できたと言っても過言ではないと思っている。だから篭絡したい、はおかしい。それにとっくにロナルドはドラルク城の下男だ。攻略は済んだと言える。
 最後。
 愛しい相手に。
 愛しい相手におくるキスなら、ジョンにするキスと同じでいいはずだった。
 でも違うのだ。
 ロナルドくんには、もっと、とドラルクは思う。だってそうだろう。腰を抱き、唇の上で愛を囁きたいと、そう思わなかったか? 食い気も色気も刺激され、すべてをこの唇で感じたいと、そう思ったのでは?
 え?
 じゃあ何だ。ロナルドくんって。
 私の愛しい相手なの?
……喉が渇いたな。ジョン。何か飲んでくるよ。興味深い問答はそれからにしよう」
 こめかみがサラサラと崩れている感覚がする。脳神経のどこかがショートを起こす寸前に塵となり、耳の穴から零れていっている。ジョンが心配げにヌーと鳴くのを一撫でして宥め、ドラルクは立ち上がってキッチンに向かった。頭の中がザラザラとしている。しっちゃかめっちゃか、大事なものが砂の中に埋もれていて、大事なことだけは分かっているのに正体も分からず、上手く手で掴めない感覚。
 ドラルクは冷蔵庫を開け、もう片手で試しに自分の頭に手を突っ込んでみた。砂は掴めなかった。いつの間にか頭が全部崩れてしまっている。冷蔵庫を開けた手は中を手探りし、やがて飲み物を一本掴み取った。再生した頭で確認すると、それは昨日ロナルドが天邪鬼にもドラルクに買ってきたトマト炭酸だった。
 大事なものの正体を見つけた気になって口角が上がる。あの若造、クソ生意気でお野蛮で情緒不安定だが何だかんだこういう可愛げがあって好きだ。ムカつくがかなり愛しい。詮を開ける。中身を飲む。

 途端、ドラルクは全身塵となってトマト炭酸を引っかぶった。
 
 ああ、そういうことか。
 なんだそういうことか!

 ドラルクはロナルドのことが好きなのだ!
 好きだからキスしたいと思っている! 
 それは彼が死んでしまうとつまらないから人工呼吸するのと、根底の部分は同じだった。根が大きすぎてそこから生えた枝葉に意識が向かなかった。第一に、死んでほしくない。享楽主義者にはそれが全てだと思っていた。第二に第三に、キスがしたい、愛を囁きたい、血を吸いたい、自分のものにしたい、体の奥深くまで本当は甘やかしたい……まだまだ育つ。育った枝葉の数を数えることは、この古の血を持つ高等吸血鬼にも不可能かもしれなかった。ドラルクはロナルドの全部が欲しい。何が純粋な欲求だって? まあ確かに。“キスだけならね”
「ジョン、私のジョン、永遠の友よ」
 ドラルクが呼ぶとジョンはすぐに駆けつけてくれた。ヌーと泣いてトマト炭酸まみれの散った塵を掻き集めてくれる。ドラルクは塵のまま「ジョン、答えを言っていいかい」と言った。「ロナルドくんには、きみと同じふうにはできないよ。似たようなものだ、彼と遊ぶのは楽しいし、私の作った料理を食べさせ、健康的に生きていってほしいと思っている。でも違うんだ。私は彼が欲しい」ロナルドにキスをしても許される権利が欲しい。自分だけが。ほかの誰にも奪われたくはない。「……ロナルドくんは私のものじゃない。だから、したくても、キスなんてできない。それは紳士違反だ」
 たとえどれだけロナルドがドラルクに自分の領域を許していても、ドラルクが彼のことを城の下男だと思っていても、この気づきを得たのは、相手を愛しいと感じ、キスをしたい体に触れたいと思ったのは、ドラルクだけなのだ。
 今夜はいい夜だ。
 そして酷く最悪な気分だ。
 二百八年の吸血鬼生で、こんなにも諦めをもったことは、自分が頑丈にはなれないと悟りを開いた子どもの時以来に違いない。あのころは、それはそれで楽しみを見出したから、べつにすぐ死のうがへっちゃらだった。けれどこれは駄目だ。二百八年生きている。同居人の男の退治人に欲深いキスをすることが不可能なことくらい、簡単に予測がつく。
 なぜならあの男はドラルクなど眼中にない。
 性的嗜好は年上のお姉さんのおっぱい。デートと言えば夜景しか出てこない恋愛観が小学生止まりの──いまどき小学生だってもっとマセている──猥談語彙もない子どもみたいな大男だ。ロナルドがドラルクと同じ気持ちでキスがしたいと思うことは確率的にゼロ、どころかマイナスだろう。
「ふ、ふふ、ふ」
 ドラルクは乾いた笑いを漏らし、ジョンを抱え上げ再生した。百八十年前、この一等大切なアルマジロを手にした。一度は手放そうとした。それが彼のためだと思って……
 ジョンとは違い、ロナルドはドラルクのものではない。
 諦めなければならない。
「残り四日ほどか。まあ、何とかなるだろう」
 四日間かけて、この欲望を御してみせるよ、ジョン。ドラルクはジョンの腹毛に鼻を埋めて言った。「あれは人工呼吸だもの。どうってことない」 
 


 たくさん汗を掻いたためか、やはりいつもより長風呂をしてきたロナルドと入れ替わりでドラルクも風呂場に向かう。その後ろで、ろくに服も着ないで冷蔵庫へと直行したロナルドは、扉を開け、「あ」と小さく声をあげた。「のんでる」
 飲んでる。
 それが指し示す言葉を容易に汲み取ったドラルクは、風呂場に向かいざま、「まあ美味しかったよ。飲みやすかった」と言っておいた。ロナルドが出てくる前に床にぶち撒かしたものは本当に勿体ないことをしたが丁寧に掃除をしたし、行儀悪くも塵の状態で吸収できるものは吸収したので、感想に嘘は言っていない。ロナルドはまた興味なさげに「ふーん」と言ってそっぽを向いていた。
 
 ドラルクはジョンとともに風呂に入り、出て、簡単な食事の用意をし、ひとりといっぴきに食べさせる。
 綺麗に空になった器の後片付けをし、あとは寝るだけとなって、「ロナルドくん」とソファで既に横になっていたロナルドの前に跪いた。ロナルドは眠そうな顔でドラルクを見上げた。夏の暑い夜を駆け回り、腹もくちくなっている、時刻は夜明け前。ロナルドはとろんとした瞳にドラルクを映し、「なに」とむにゃむにゃ言った。「おれもう寝るから、ゲームするなら音、ちいさくしろよ」
「私も寝るよ。その前にやることがあるだろ」
「なんにもしたくねえ」
「きみは何にもしなくていいけどさ。ほら、くち閉じて」
 ん、とロナルドは素直に口を閉じ、ドラルクを不思議そうに見つめてくる。眠すぎて阿保になっている。いや元から阿保ではあったが。ドラルクはロナルドの顔に影を落とし、唇を押し当て、離した。
 ロナルドは眠そうだった目を見開いたあと、殴られるのを予想したドラルクを裏切り、むっとした顔を作って見せた。それからソファベッドに投げ出していた手を、ドラルクの額へと向ける。ドラルクの垂れた前髪を掻き上げた。
「くすぐってえから、やだって言ったじゃん」
 ドラルクは髪の生え際から崩れ落ちるかと思った。
 実際に、ロナルドの手指の隙間に挟まっていた前髪の何本かがぱらりと塵になって零れていった。「え」ロナルドが若干引き気味に言う。「何も髪失くさなくても」
 うるさいわ若造。
 ドラルクはこれ以上塵になりたくはなかったので、そのままロナルドの唇に口をくっつけた。馬鹿みたいに本能が死を回避しようとしている。このままこの熱さを感じていたい。唇で食み、牙を突き立て、血を啜りたい。触りたい。キスしたい。抱き合いたい。ああほらやっぱり、これは純粋な、クソみたいな性的欲求だ。
 だからドラルクは口を離し、「ロナルドくん、数えて」と言った。ロナルドは「え、?」と理解の追いついていないような反応を示したので、続けて囁いてやった。「数えて。人工呼吸の回数。あと16回もすれば、明日の夜までは確実にもつだろうから」
「な、なんでおれ」
「足し算を教えてやると言っただろ。それともやっぱり、できない?」
「できるわい」
「じゃあ今からね」
 ドラルクはロナルドにまた人工呼吸を施した。「ほら、何回?」
 青い瞳が潤んでいく。頬と鼻が赤みを帯び、ドラルクの額に当てたままの手もじとりと汗を滲ませた。ロナルドは小さく言った。「い、一回目」
「いいスタートだ」
「馬鹿にしてんだろ」
「いいや、大真面目さ。続けるよ」
「んっ、ぅ」
「何回目?」
「に、二回目……
「その調子」
「っ、さん、三回目っ」
「うん。いいね」
「ひっ……四回目、」
「うん」
「ご、五回目……ゃっ、うぅ……っ六回目!」
「あと十回だよ」
「ど、どらこぉっ、ちょっと休憩、んむっ」
「順調だったじゃない。ほら、何回目?」
「あぅっな、なな、はち……や、続けてすんな! っ、きゅ、きゅーかいめ!」
「正解。難しくないね?」
「やっぱおまえ馬鹿にしてっンぅ! ン、ぅー……じゅっかいめ……
「素晴らしい。あと六回だ。頑張れロナルドくん」
「ンぶっ、ぐぬ、じゅういっかい! っ~! じゅ、じゅうに……!」
「はは。大きな声で言えて偉いね」
「ガキ扱いすんな! っひ、ぅ。じゅうさん……っ」
「阿保言うな。ガキだよきみは」
「ガキじゃねえっ、ん! ……ぅ~……は、ぅ。じゅ、じゅうし、」
……ガキなんだよなあ」
「テメ、どら、んぅっ……ふ、……じゅう、ごぉ……
「こんなにさ、」
「どらこー……?」
「子ども体温で、すぐ暴れて、すぐ泣いて、」
……どらるく」
「こんなに、……ああ。何回目だった?」
……じゅうごかいめ」
「そうか」ドラルクは自分のことをひどく理性的な大人だと思った。「おめでとう。ちゃんと数えられたね。これで最後だ」
「ン……
 口をくっつけ、離す。
 ロナルドに数えさせるのはいい案だった。数えてもらわなければ、自分はきっと際限なくやってしまう。それこそこの身を流れる永遠のように、ずっとだ。
「今日はもう疲れただろう。おやすみ」
「う、うん。おやすみ……
 額から離れていく手を名残惜しく感じる。もぞもぞと体勢を整えるロナルドのそばから立ち上がり、背を向けたところで、「どらこぉ」となぜだか泣きそうな声がぽつりと言った。「おれ、ガキじゃねーから」
……ムキになるのがいかにもガキっぽいといい加減気づきたまえよ、五歳児ゴリ」ラ、を言い切る前に飛んできた枕によって塵にされた。枕を投げたロナルドはもう寝る! とやはり子どもじみた仕草で自分の投げた枕をふんだくるようにして拾い、ソファベッドにまた横になって声を上げる。「おやすみジョン! キンデメ!」ごぽ、水槽では気泡が返事代わりだった。ドラルクは再生し、事のなりゆきを自分の寝床で静かに見守っていたジョンへと歩み寄り、ロナルドにおやすみの挨拶を返している小さな頭を撫でてから、棺桶に潜った。
 棺桶の中で、知ってるよ、と瞼を閉じながら思う。きみがガキじゃないってことくらい。
 ガキじゃないから、こんなにも。キスがしたいのだから。