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残りの夜が来た
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福本
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bug
一条
初出・同人誌(個人)「bug」2011年
地下ちゃんの表紙が最高だった 中身もお気に入り
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高速で上昇するエレベーターのせいで、頭の傷が一条の脳をがんがんと揺らした。
会長が人を集めるときはいつも別室だったので、彼のいる部屋にはほとんど入ったことがなかった。王はどのようなものに囲まれどのような景色を臨み、何を考えているのか、目を開けたまま空想しようと試みたが、どんなに思いを巡らせてみても、具体的な光景は何一つ浮かんでこなかった。会長が直々に一条を呼んだのはどうしてか、そちらに気を取られていたからだ。だがその結論を待たずに、エレベーターは静かに止まる。扉が開く。
エレベーターは部屋に直結しているらしく、開いた先は既にひとつの閉じた空間だった。
空調によって作られた人工的な空気が辺りを満たしている。照明を落としすぎていて薄暗い。大きなモニターも調度品もない部屋の中には机が一つだけあって、一条が使っているのと同じような家庭用のパソコンが、青い光を発している。
その先に彼がいた。
「
……
」
後頭部が疼いた。
いや、痛みは疼くよりももっと獰猛で乱暴な動きで一条の頭蓋骨を食い破ろうとしていたが、それが叶わないことも一条は理解していた。そんな怪我だったら俺はとっくに死んでいた。そんな怪我だったら俺はこんなふうに歩き回っていない。一条の怪我や失敗は、いつも命には届かない。
死んでいれば良かったのに。
…
いや、死ぬべきなのは俺ではない。
青白い顔が口を開けた。
「
…
久しぶり」
「
……
」
光が青いからという理由だけではなく、彼の皮膚の色そのものが青白かった。滅多に外に出ないのだろう。そういえば、あのときもそうだった。そうだ、あの時彼は、地下から出てきたばかりだったから。そうだ、あれは彼が地上に出るための、手段に過ぎなかったのだった。
「
…
テメエ、何してんだ」
「
……
」
「
…
カイジ」
伊藤カイジは表情筋を一ミリも動かさなかった。
相変わらずこの男はうだつの上がらない顔をしていると一条は思った。あつらえであろうスーツすら着こなせず、袖まくりしたワイシャツから出ている腕は貧相でうっすらと肉が乗っており、髪はだらしなく伸びたまま、場末のパチンコ屋からビルの高層階に居場所を移しただけだという顔で、カイジは突っ立っている。
足元が崩れそうになる。
…
いや、崩れない。こんなところでは崩れない。俺はこいつの前で膝など決してつかない。
這い上がって来い、
「カイジくん、君が何をしているのかって、聞いているんだが」
「
…
座れよ、怪我人なんだから」
「あ
…
?」
「ほら、」
カイジはゆらりと動き、椅子を回してこちらによこした。安いキャスターが軋みながら回転し、カイジと一条の間で止まった。「座れよ」
「
……
」
一条は右足を前に出した。次は左足。次は、右足。自分のものではないような身体をぎしぎしと進ませる。今すぐカイジに掴みかかりたい気持ちと、今すぐこの場から去りたい気持ちのどちらも押しのけて、ゆっくりと近づく。
椅子までたどり着いた一条は、そこに腰を降ろすことなく、ただ背もたれを掴んでカイジを見た。カイジもそれ以上着席を促さず、また自分も座らずに突っ立ったままでいた。
「
…
あの債務者が気になってたんだ、たまたま」
「
……
」
「
…
そうしたら一条、お前が」
「たまたまヘマこいて殴られて昏倒して爆笑か。よかったな、カイジくん、さぞかし面白かっただろう
…
!!俺も見たかった」カカカ。
一条は笑い声を上げた。何一つ面白くない上に傷口が広がったような気がしたが、そうせざるを得なかった。それからすぐに笑いを引っ込める。
「
…
どうでもいいんだよ、そんなことは」
「
……
」
「会長はどうした」
「
……
」
「帝愛の会長はどこだ。
…
俺は会長に呼ばれて」
「
…
俺だ」
カイジは無表情のままだった。
「
…
あ?」
「
…
俺が呼んだ」
「ク、」
爆発する。
今度こそ本気で、一条は笑った。大きすぎる笑いで涙腺が緩み、目の端に水が溜まった。傷口ががんがんと痛む。乾いた唇が裂ける。それでも笑いは止まらない。
…
笑う以外に、何ができる。そんな滑稽な話があるか。この男が。この野良犬が。このクズが。この地を這うだけしか脳のない男がこのギャンブル中毒が、
…
伊藤カイジが、帝愛の会長など、
俺の帝愛を牛耳っているなど、「ふざけるなよ
…
」
「
……
」
ククク、はは、カカカ、は、は、は、
「ふざけてんじゃねえよ、カイジっ
…
!!」
一条の蹴った椅子が机に当たり鈍い音を立てた。
「ああ!?誰が会長だ!!」
一条は涙を拭った。倒れた時から洗っていない指先には黒い汚れが付いていて、それが水分でうっすら伸びていた。
「面白くないな
…
、全然面白くないよ、カイジくん」
「
…
兵頭を倒したんだ」
カイジは独り言のようにぼそぼそと話す。
「まず、ちょっかいを出してきた息子を倒した。
…
兵頭和也は、親父から制裁を受けた。
…
それから、和也に制裁を加えた会長に」
「
…
黙れ」
「仇だとギャンブルを持ちかけられて」
「黙れよ」
「
…
俺は」
「黙れって言ってんだろ」
「ただ」
「カイジっ
…
」
「勝ちたかったんだ」
傷が疼く。
笑ったせいで上がった呼吸を抑えないまま、一条は腕を持ち上げ、後頭部の傷に爪を立てた。血で固まった髪の毛の奥の柔らかい頭皮からは、すぐに温かい血が溢れてくる。
「兵頭がこの勝負で賭けたのは帝愛の利権だった」
「
……
」
カイジの独り言は徐々に大きくなる。一条は、赤黒く染まった爪をぼんやりと眺める。
「欲しくなかった、俺はそんなもの、」
「
……
」
「欲しくなかった
…
全然。
…
ただ、金が欲しかった。
…
いや、俺はただ、」
爪の間につまった血はあまりにも汚く、無性にあの拷問道具が懐かしくなる。あれはよかった。あれならば、こんな無様な色にはならない。
だがもうあれは手元にないのだ。あの道具どころか、沼もない。一条は別の手段で階段を登らなければならない。この男のせいで。勝利と一緒に一条の全てをもぎ取っていたこの男のせいで。
「俺は勝ちたかっただけで」
「でも取ったんだろ」
「
……
」
無様な独り言を聞き流すのが苦痛になってきたので、一条は吐き捨てた。「勝って奪い取ったんだろ、利権
…
」
「
……
」
「ゴタゴタ抜かしやがって」
「
……
」
「
…
だがまあ、そういうことなら仕方ないな。あの馬鹿息子がお前のような野良犬にちょっかいを出したがるのも分かるし、それで負けるのも分かる。制裁を加えて置いて仇討ちなんてのも、脳のイカれたあのジジイならやりそうなことだ。よおく分かるよ、カイジくん」
「
……
」
「でも許せんな」
「
……
」
「テメエみてえな無能のクズがこんなところにいるのは」
「仕方が」
「なかったのはここに来るまでだろうが
…
ここに来たんなら、」
一条は息を吸った。唾液が喉に絡んでねちねちと糸を引いていた。口に出したくなどなかったが、聞かなければならなかった。一条の人生に、一条の手に入れるべき力に、地位に、あの城に、カイジが関与してしまった以上、聞かざるを得なかった。
「王になったんなら王らしく振舞えよ
…
?何だあの、奴隷の無意味な開放は
…
?」
声がぐるぐると回る。嗚咽と歓声が回る。
あの中で、一条だけが絶望していた。一条だけが、道をまた一つ断たれたのだった。自力で這い上がることすら許されなかった。
この男のせいで。
「何のためにあんなことした
…
?すぐに再開するくせに、何であんなことをした?」
「
……
」
「地下だけじゃないだろ、カイジくん
…
。聞けば、会長の下らねえギャンブル
…
全部キャンセルされたのに、すぐにまた開催されてるらしいじゃねえか。テメエがお友達を亡くしたあの人間競馬くらいか、もうやってねえのは」
ほんの少し身じろぎしたが、カイジは黙ったままだった。黙れと言った時には垂れ流し続けるくせに、質問には答えないとは、この男はやはり無能のクズだった。
「何か考えがあったのか?王たる帝愛が、そんな無様なことをするなんて、考えられんぞ、カイジくん」
…
ったんだ、とカイジは言う。
掠れた声は今まで聞いたこの男のどの声よりもみっともなく、惨めだった。引き分けを持ちかけたあの時の方がまだ幾分かましだった。「あ
…
?」
「仕方なかった、俺は全部やめたかった、でも、金が必要だ。帝愛には金が、ここで生きている人のために、金が」
「
……
何だと?」
「金がいるんだ、一条
…
お前、店長だったんだろ。分かるだろ。
…
ましてや帝愛は、この地位に立ってみたって、どこまで大きいのやら分からない。
…
こんな化け物みてえな帝愛で働いて生きてる奴は、訳の分からないくらいたくさんいる。
…
お前だってその一人だ」
カイジは惨めったらしい声を垂れ流し続ける。
…
王などではない。これは、
「だから、帝愛の資金源を削ることなんかできない。職を奪うことはできない。
…
俺の手には負えねえ」
「
……
カイジ、」
「地下だって同じだ。
…
それに、帝愛のやってることは、全部公平だ。ちゃんと働いてりゃあ、地下労働は借金返済のための職業斡旋だ。
…
乗ったって、勝ちさえすりゃあ、ギャンブルは救済措置だ」
「て、め、」
「
…
命を奪うようなのはやめた
…
!それから、お前が今日取立てに行った人のように、家庭があるような債務者は、地下にはやらない。
…
でも、」
足元が崩れる。
…
いや。
…
でも。でも?
俺の手には負えないだと?
それ以上の言い訳は無いようで、彼は口を閉ざした。青白い顔が無表情のままこちらを見ていた。
…
いや、見てなどいない。目を合わせられるはずがない。兵頭の弁をハリボテのように貼り付けた、カイジ自身納得していないような、薄っぺらな言い訳が通用するなど、言った本人ですら思っているはずがない。カイジの語る理論はあまりに幼く、下衆だ。兵頭が聞けば文字通り床をのたうち回って悔しがるだろう。こんな男に負けるなんて。
「
……
ク、」
こんな男に。俺の帝愛が。こんな男に、牛耳られているなんて。
…
こんな男に、俺は、全てを奪われて、
這い上がって来いなんて、
「っ
……
!!」
傷口が火を噴きそうだった。
机に乗り上げた一条の膝がパソコンのディスプレイを倒した。キーボードが床に落ち、ハードディスクに繋がったマウスがぶらぶらと揺れる。
一条は目前に迫ったカイジの顔を凝視した。あの時、沼の前で挑発された時と同じくらいの距離のはずだった。
…
それなのに。それなのに、
「何だよ、その、目はっ
……
!?」
「
……
」
胸ぐらを掴んだ手に、カイジの青白い手がかかる。それを振り払う。マウスと同じように、彼の手もぶらぶらと揺れる。
全てを欲した一条は、それらを手に入れるため、上り詰めて行くだけのはずだった。一度この男に地下に落とされた後だって、同じはずだった。権力も金もシェルターも、必ず手に入れるはずだった。一条が、自分の力で、手に入れるはずだったのだ。
それをこんな愚鈍な男に。
俺を倒したくせに、全てを手に入れたくせに、こんな、救いを求めるような目をした男に。
「まさか、こんな事言うために俺を呼んだんじゃねえだろうな!?懺悔するために!?助けてもらうために!?このクズ、以下、がっ
…
!!」
「
……
、」
「テメエはどんだけっ
…
」
「一条、」
「どんだけ俺から奪えば気が済むっ
…
!!」
「たす、」
「っ
……
!!」
一条はカイジの首を締めた。
その先の言葉など言わせない。絶対に言わせない。例え前科がついたとしても、そのほうがましだった。例えカイジを殺したところで何も変わらなくても、例え今より下らない人生を歩まなければならなくなったとしても、そのほうがずっとましだった。ずっと、ずっと、ずっと、
…
いや、もしかしたら。
(餌にね、いいんですよ)
(犬以下)
(こちら側の人間だ)
(化け物みてえな)
暗い水底で魚が蠢いた。
肉食魚はメダカを喰らい、風俗街の男を喰らい、一条の上司を喰らい、黒崎を喰らい、兵頭和也も、兵頭和尊をも喰らい、地下シェルターをなぎ倒し、絶望する一条の前で、餌を欲して大きな口を開けていた。ぽっかりと空いた黒い穴の中には、彼の飲み込んだものは何も見えなかった。
空洞だ。
何もない。
「
…
い、ち、」
もしかしたら、その魚の正体は、伊藤カイジですらないのかもしれなかった。
「じょ、っ
……
」
「
……
」
(化け物)
…
いや。それでも、俺は、欲しい。
どうしても欲しい。手に入るのならば喰われてもいい。そうしなければ俺の人生は。
俺は今まで。
水がちゃぷんと跳ねた。
一条はゆっくりと手を離した。
カイジは咳き込みながら机に手をつき、涙目でこちらを見上げた。地位によって牙を失った可哀相な男を、
…
自分から全てを奪った男を、目を細めて見下ろす。
「
…
分かった、カイジくん」
息も絶え絶えの惨めな男に対して、一条は頭を下げた。「いえ、会長」
もはや傷は疼きもしない。
「雇っていただけませんか、私を。直々に」
頭の向こうでカイジが息を呑む。
…
本当に愚鈍なクズだ、この男は。こんな男に飼い慣らせるはずがない。
そうだろう、と呼び掛ける。
それは返事をせず、ゆっくりと旋回する。
「差し出がましいこととは存じておりますが、私ならば、なんとかこの化け物を飼い慣らせるかもしれません。
…
少なくとも会長よりは向いておりましょう」
「
……
な、」
「そしていつか、あなたをこの地位から追って差し上げましょう。私は王になりたいのです。
…
あなたと違って」
顔を上げる。
動く度に頭の中の水が跳ねたが、水の中にいるものの大きさも形も本当の正体も、結局一条には分からなかった。
…
どれほど探ったところで、分からないのだ。こちら側の人間には。
それでも良かった。
「だが、手順を踏まなきゃいけないからな、王になるには。
…
だからとりあえずは、今、王であるお前の下に」
「
…
一条、」
「
…
そこからゆっくり、這い上がってやるよ」
「
…
お前、」
這い上がって。
掠れ声と共に、呪いのような台詞がかすかに聞こえたが、もはやまるで意味を成さないその言葉は、既にところどころ喰いちぎられており、今この瞬間にも、ぼろぼろと飛散していった。水の中に散らばる肉片は、あの時のカイジのものなのか、それとも一条自身のものなのか、判別がつかなかった。それでも良かった。
…
いや、最高だ。望み通り、あれが全て喰い尽くしてくれたのだ。
だから、この虚無感は錯覚だ。
そうだろう、
「
…
なあ、カイジ」
最後に名前を呼ぶ。
同時に大きな穴が一条を飲み込んだ。
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