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残りの夜が来た
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福本
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bug
一条
初出・同人誌(個人)「bug」2011年
地下ちゃんの表紙が最高だった 中身もお気に入り
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一条は会長の椅子になり、気違いいじみたギャンブルを見て胃液を飲み下しながら拍手をし、足の浸かったワインをタライごと干し、手を叩いて喜ぶ老人にそのタライを投げつけられ、それでも頭を下げて礼を言った。会長は一条を杖で指し、黒服に向かって「お前らもこの男を見習え、この気違いを」と言った。「顔が気に食わん。だからこいつは出世しない、だが、行動だけは立派だ。だから、お前らもこの男を見習え」
一条は黙って頭を下げた。遜りでも皮肉でもなく、文字通り、本当に身に余る光栄だ。黒服のうちの誰かが失笑を漏らし、彼は何処かへ連れて行かれたが、そんなありふれた光景は視界に入れる価値もない。一条は頭を下げ続けた。笑いもせずに下げ続けた。それで良かった。正しかった。
会長は王だった。この男が傍若無人に振舞えば振る舞うほど、それは彼が王であることの証明のように見えた。彼が地位を高めるということは、いつか一条の手中に収まる力も大きなものになるということだ。あれは苦痛でも何でもなかった。筋の通った、正しい行為だった。俺の帝愛。俺のシェルター。俺の城、俺の全てを手に入れるための正しい行為だった。
こちらを挑発してくるみすぼらしい格好の若者は、単なる餌だった。帝愛という一条のペットをより一層大きくするための餌。何人たりとも分け隔てなくチャンスを与える帝愛の、大きく慈悲深い、愛の手を差し伸べられた若者は、その手の中で全てを失い死ぬべきだった。死ぬべきだったのではないか。カイジ。
いや。
お前が生きようが死のうが、結局帝愛には、ひいては俺には、全く関係のないことだ。帝愛の失敗はきちんと俺の地下行きで清算された。そして王たるもの、あんな場所からは自力で這い上がってくるのが当然だ。だから俺は落とされたのだ。はじめからそう、決まっていたのだ。
ではどうして俺は開放されてしまったのだろう。
どうして帝愛は俺を試してくれなかったのだろう。
帝愛は。俺の帝愛は。
…
カイジ。お前なんかに気を緩めた俺が馬鹿だった。やはり俺は、帝愛にとって必要な人物だったのだ。俺が帝愛に残っていれば、こんな無様な行為は、例えそれが会長の意志であろうと必ず食い止めた。労働者の無意味な開放など、美学の欠片もない。
…
カイジ。やはりお前のせいだ。
だから、お前を殺さなければ、俺は先には進めないんだ。
…
お前のことなんか、どうでも良いのに。テメエのくだらねえ一言で、俺は、
這い上がって来い。
犬以下だ。餌にね、いいんですよ。私はまだここにいたい。ゴキブリが。這い上がって来い。
言われずともそうする。
俺は這い上がって、登り詰めて、俺の帝愛を、
雨が降っているのかと思ったが、瞼の外の世界は黄色く明るいように見えた。湿度も低い。雨ではない。
一条は目を開けた。
覚醒と同時に目玉の裏側が燃えた。痛みと一緒に鈍く光る灰皿を思い出し、こめかみのあたりから怒りが噴出しそうになる。怒りは痛みと共に一条の脳をがんがんと揺らした。
…
クソ。クソ。クソ。殺してやる。あの男、殺して、
「
……
、」
病室と思しき白い室内には、消毒液の匂いが充満している。天井にはどこか見覚えがあったが、病院の天井を見ていちいち場所を同定するような趣味はない。
一条はゆっくりと上体を起こした。自分がまだワイシャツを着ていることに半分げんなりし、半分は安心する。ネクタイはサイドテーブルに丸めて置いてあり、首の後ろに位置していたと思われる一部分が血で黒く汚れている。思わずワイシャツの首に手をやると、汗や糊とは明らかに違うもので襟が固まっていた。
クソ、と一条は繰り返す。やっぱり殺してやる。
呪詛を吐き捨てながらも、頭の片隅ではそんなことは不可能だと一条はきちんと理解していた。自分がこうして手当を受けているということは、外で待機していた社員が異変に気づいたということだ。あの男は恐らくもう地下で、今頃は誰かの為にシェルターを掘っている。
…
地下事業は再開された。
誰のために?
「俺のためだ」
一条は声に出して宣言した。掠れたのは初めの母音だけで、あとはきちんと声になった。
ベッドの下を探っていたつま先が、固い革靴にぶつかった。一条はそれを引っ張り出し、靴下を履いたままの足を中に突っ込む。革靴の中は未だ汗で湿っている。まだそれほど時間が経っていないのだ。
スリッパの一つも用意がないとは、病院にしては杜撰な施設だと思ったが、自分の働いていた下らない会社のことを考えれば、妥当なところなのかもしれない。いや、破格だ。
一条はゆっくりと立ち上がる。血が重力に負けて落ちると共に痛みが存在を主張したが、歯を食いしばってそれに耐える。
起きてみて初めて気づいたが、病室には窓がなかった。それから、壁際に水槽が置いてある。水槽の中には水草が揺れていて、その間を何かの影が動いていた。
ああ、雨ではなくて水槽の音だった。
ほとんど無意識のままその音のする方に歩み寄りかけて、一条は立ち止まる。窓のない部屋の水槽に光が差す。
ドアが開いたのだ。
「意識が戻ったか」
「
……
」
一条は光源の方を振り返った。廊下の照明を逆光にして立っているのは、黒崎だった。
顔が見えなくても分かった。
「
……
」
絶句している一条に、かつての上司は
「会長がお呼びだ」
と言った。
頭の後ろで水が跳ねる音がしたが、一条はついに水槽の主の姿を確かめることができなかった。
ここは病院ではなく、帝愛本社ビルの医務室だった。天井に見覚えがあったのはそのせいだ。
一条は数回この医務室に入ったことがあった。確か初めは、会長に熱湯をかけられ火傷を負ったのだった。その次は、似たような目に遭った誰かを運び込んだのだったと思う。あの頃は、黒崎と共に帝愛の本社にも良く出入りしていた。社員だったし、ナンバー2の黒崎に最も近いところにいたのだから、当たり前と言えば当たり前だった。
…
では、今はなぜ。
手入れされた黒いスーツの背を見つめる。現在の自分とはかけ離れたところにいる元上司の後ろについて、一条は長い廊下を歩いている。
「
…
黒崎様」
「
……
」
「私はなぜここにいるのでしょうか」
「会長直々の計らいだ。
…
お前が殴られたのを会長が知ったのは、単に偶然だったが」
「私が働いていたのは取り立て屋でしたが、あの事務所に会長に近い人間がいたなんて、存じ上げませんでした」
「事務所にはいない。あんな最下層の職場にそんな人間がいるか」
「
……
では、」
「お前には関係のないことだ。
…
もっと喜べば良いだろう。散々嗅ぎ回っていた帝愛の中枢だ」
「
……
ク」
笑いが漏れる。ばれていた。
それはそうだ。そんなことは一条も予測済みだった。また、例え自分の行為が明るみに出たとしても、それが結果的に帝愛の利益になるのならば、帝愛はこの行為を咎めはしないだろうと思っていた。一条の知る帝愛とはそういう所だ。
一条は病巣を探ろうとしていたが、帝愛が今なおそのようなスタンスでいるのならば、それはそれでいいような気がする。あんな夢を見たから尚更だ。
それなのに、後頭部の痛みは増し続けた。思考が上滑りしている。
…
なぜだ。
黒崎は振り返らずに続けた。
「
…
ずいぶん泳がせてやったが、お前は何か有益な情報を得たか」
「
…
いえ」
「
…
だろうな。所詮お前はこちら側の人間だ。同じ側にいる人間が、探れるはずがない。探ったとして、意味もないが」
「
……
」
一条は眉を潜めた。黒崎の言っていることがよくわからなかった。こちら側とはどういうことだろう。帝愛側ということだろうか。
…
黒崎は、最下層の人間を帝愛の人間と見なすような男だっただろうか。
「どういうことですか」
「自分で考えろ。
…
もしくは、会長にお伺いを立てればいい」
黒崎の口から出る『会長』という単語の響きに、一条は違和感を覚えた。帝愛の動きを探り始めようとしたときに感じた違和感と同じだった。
やはり、あの老いた王は死んだのだろうか。では現在の会長は、息子?
利根川が失脚しているにも関わらず、黒崎がその地位に着いていないのだから、それしか考えられない。
…
それにしても。いや、あの子供は馬鹿だから。
…
いや、それにしても。
それらの考えは何度も否定した。何度も肯定した。それから、投げてきた。
…
投げてきた。その結果がこれだった。
…
いや。こうして会長の元に辿り着けたのだから、悪い結果ではあるまい。殴られ損ではなかった。むしろ、これ以上ない程の幸運だった。自分に決定的に欠けていたのは、こういう運なのかもしれなかった。
一条は、胸中で何度もそう繰り返した。繰り返さなければ、ここに立っていることすら危うくなりかけていた。
…
痛みのせいだ。恐怖などではない。そもそも、一体何に恐怖するというのだ。
「
…
直接お伺いを立てられるのならば、ぜひそうしたいところですが」
「すればいい。会長は寛容だ。誰にでも手を差し伸べる。まさに帝愛の王に相応しい」
脊髄が微かに震える。
…
何に恐怖しているというのだ。
「
…
黒崎様」
「
……
」
「
…
会長は、」
「着いたぞ」
一条を遮り、黒崎は歩みを止めた。
会長室専用のエレベーターが、一条のいる地下フロアに向かって落ちてくる。順番に点滅する数字を眺めながら、一条は唇を結んだ。夏だというのに粘膜が乾燥して皮がめくれていることに、一条は今やっと気づいた。
「私は業務があるので戻る」
黒崎は、医務室を出てから初めてこちらを振り返った。
少し老けたのか、皺が深くなり、顔の皮膚が薄くなっているように見えた。頬に落ちる影を眺めながら、ぼんやりと、この男も老けるのだな、と考える。かつては、会長の衰えの先に、この男の衰えも待っていたはずだったが、なぜか一条の気分は高揚しなかった。
未だに会長になれない彼に興味を失いかけていたのかもしれなかった。
会釈をすると黒崎は背を向けた。
彼の姿が視界から完全に消える前に、一条は再び体をエレベーターの扉に向ける。
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