bug

一条
初出・同人誌(個人)「bug」2011年
地下ちゃんの表紙が最高だった 中身もお気に入り


3

 粘液のような汗に身体中を覆われて、一条は目を覚ました。夜明け前だというのに既に暑い。忌々しい気分になって舌打ちをする。ベッドにうつ伏せになったまま、目線だけ水槽の方を見る。水草も砂利もない箱の中で、メダカは涼しげな顔をして泳いでいた。
 もしこのまま肉食魚を入れなかったら、彼らはどうなるのだろうとぼんやり考える。餌としてここに来たのに、水槽の主がいないままだったら。奴らは退屈を持て余して、共喰いでも始めるのかもしれない。
 一条は生ぬるいフローリングに裸足で降り立った。髭でざらつく顎を擦りながら、昨日買った惣菜を食べずにそのまま放置していたことを思い出した。
……
 腐っているかどうか、一条には分からない。分からないまま、容器ごとゴミ箱に捨てる。
 買わなければよかったという後悔すらしないまま、シャワーを浴び、髭を剃り、髪を整える。熱気は動くそばから汗を呼び、一条の行動を無に帰そうとした。
 出掛けに5分だけテレビを付けた。左上の気象情報は、東京の最高気温を36度としていた。昨日よりは涼しいらしい。だが、一条はその一度を感じる受容器を持たない。


 世間は日曜日だったが、一条には関係ない。いつもよりもほんの少し電車が空いているというだけで、相変わらず外は暑く、涼しい風のひとつも吹かなかった。控えめな空調の埼京線の車両には、暑さに文句を言い続ける頭の悪そうな若い男女が乗っている。彼らの文句を聞き流しながら、一条は路線図を眺める。
 やっと見つけ出した債務者は、風俗街の薄汚いアパートではなく、ごく普通、ごくごく普通の一軒家に住んでいた。都心というには東京から離れすぎている埼玉県の外れにその家はあったが、それでも家を構えるということは、今までそれなりの生活を送ってきたということだろう。それがどうして場末の消費者金融から金を借りるようになったのか、一条には分からない。情報としては全て把握していたが、そこに至る愚かしい思考回路のことは、薄汚いアパートの住人のことと全く同じように分からない。いや、そんなことは知った事ではない。
 埼玉は都内よりも暑かった。自分の実感ではなく、知識でそう考えながら、閑散とした住宅街の角を曲がった。先に到着していた社員の車が目に入る。冷房の効いた車内でぼんやりとしている男をほんの少しだけ妬ましく思う。
 ドアの隅には黒ずんだ土埃のひとかけらもなく、家は綺麗に手入れされていた。小さな庭にはミニトマトが植えられた四角いプランターが置いてあって、その青いプラスチックの上部に平仮名で名前が書いてあった。苗字は今日地下に行く男のものと同じだった。
……
 呼び鈴を押すと、すぐに足音がした。10センチ程だけ開いたドアから、青白い顔をした中年の男が現れる。獲物が現れず殴られた昨日が嘘だったかの様に、今日の仕事は滞りなく進んでいた。そもそも、この時間に、と指定してきたのもこの男本人だ。
こんにちは、」
……
「早速ですが、」
少し待って頂けますか」
 男は掠れた声で囁く。「10分だけ」
はあ」
餌をやるのを忘れていて」
……
 尋ねてもいないのに、男は言葉を続けた。「子供の飼っている魚に」
構いませんが」
 炎天下の軒先で、蝉の鳴き声と共に10分待つのは苦痛だったが、一条は無表情で頷いた。事を荒立てる必要は無かった。10分で暴力沙汰にならないのならばその方が楽だ。この気温の中、暑苦しく中年男と揉みあうのはごめんだった。それに、一条は昨日から何も食っていないのだ。
 魚以下だな、と考えていると、
「暑いでしょうから、中へ」
と、男が言った。「妻も子供も、プールに行っていますから」
 一体どんな顔をしてこんな事を言っているのか、一条は男の顔を見ようとしたが、彼は既に丸まった背中をこちらに向けていた。開け放されたドアの前で所在なく佇みながら、暑さでぼんやりする頭を持て余す。やはり、風俗街の住人よりもずっと、分からない。それでも足を踏み入れてしまったのは、暑すぎたからかもしれない。もしくは、熱でもあったのかもしれない。
 家の中は、外装と同じようにごくごく普通で、また、同じように手入れも行き届いていた。まともな他人の家の匂いを、久しぶりに嗅いだと思った。この男がいなくなれば、ここは荒れ果てるのだろうか。それとも、今と何ら変りなく、小奇麗なまま運用されるのだろうか。
 知った事ではない。
「リビングは冷房が入っています」
ご丁寧に」
 ほとんど何も考えずに言葉が落ちる。早く涼しいところに行きたかった。
 リビングは薄暗かった。カーテンが閉じられている。真ん中に鎮座しているテーブルに乗った、輪ゴムで口を留めたスナック菓子をちらりと見てから、一条は水槽を探した。壁際に鎮座している水槽は一条の家のものより一回り小さく、その中には、
「メダカ」
そう、」
 一条はぎくりとした。男はメダカの餌を手にして、いつの間にか一条の背後に立っていた。
メダカは、意外と飼うのが難しいんですよ」
そうなんですか」
 跳ねた脈を元に戻そうとしている一条の脇をすり抜け、男は水槽の前に立った。顆粒状の餌がぱらぱらと水槽の中に落ちる。肥料のように鼻を突く臭いが、他人の家の匂いの中にかすかに混じる。
でも、大きくなったんですよ、これでも」
……
 一条は、この男の挙動に苛立ち始めた。同情を買おうとしているのだとしたらお笑い種だ。そうでないのならばより一層癪に障る。地下に落とされる程の負債を抱えておきながら危機感や絶望感のない人間など、生きている価値がない。ああ、ようやく頭が冴えてきた。やはり、暑すぎたのだ。
子供が、理科の実験で使うのに学校で飼ってたのを、持ってきたんですがね。それが上手く交配して、卵が孵化までして、メダカの稚魚を見たことはありますか。初めは線みたいだったのに」
 冴えた分、一条は余計に苛立った。
早くして頂けませんか」
「10分と言ったでしょう」
 掠れたままの男の声はほんの少し大きくなった。
 一条は舌打ちをし、胸のポケットからタバコを取り出そうとした。本当は、こんなものは吸いたくないのだ。吸いたくないのに、苛立つと、別の何かで抑えつけなくてはならなくなる。
「タバコ吸われるんですか」
ええ、失礼します」
「でしたら、灰皿」
 男は再び一条の横をすり抜けた。本当にご丁寧に、灰皿まで用意するつもりらしかった。
……
 苛立ちと不快感に耐え切れなくなって、一条は灰皿を待たずにタバコを咥えた。火をつけながら水槽を見ると、明らかに過剰と思われる顆粒が水面に散っていた。メダカはそれをつつきもせずにウロウロしている。
……
 何だ、クソ。狂ってんのか、この男は。
 辛気臭い、と一条は思った。よくある話だが、よくある話に自分が関わるのはごめんだった。こんな案件さっさと、「っ!?」
 ごっという音がした。
 視界が白くなる。
 後頭部が熱い。熱は目玉の裏側で破裂する。殴られたと気付いたのは、その痛みが脊椎まで落ちて来てからだった。「な、」
「私はまだここにいたい」
「テ、メエ」
 一条は崩れそうになる足を踏ん張り、男を振り返ろうとしたが、すぐに二発目が降ってくる。
「まだここにいたいんだ」
 声が遠くなる。タバコが落ちる。男の泣き声が聞こえる。三発目。
 首筋を生温かい液体が這った。クソ、ざけんな。ざけんな。ざけんな!!
 こんなことをしても何の意味もないではないか。それとも、地下労働よりも殺人のほうがマシだとでもいうのだろうか。クソが。無駄だ。外には社員がいる。運良く逃げおおせたとしても、帝愛は必ず追いかけてくる。こんなことをしても、お前の借金は消えない。お前のクソみたいな人生は精算されない。それどころか負債は増える一方だ、このクズが、
 やっと振り返った一条は男の手を掴もうとしたが、力の入らない右腕は空を切るだけだった。ついでのように痛みはじめた顎の熱が、後頭部と一緒に蠢いた。男は醜い顔で涙を流しながら、再度灰皿を振り上げる。透明で分厚いガラスは、遮られた日光と男の手の脂で鈍く光っている。やめろ。無駄だ。クソ、
「この、」
「まだここに」
「ゴキブリがっ
 四発目で、一条は床に落ちた。
 床は冷えていた。燃えるように痛む頭だけが、一条とは別の生き物のように暴れている。頭蓋骨の中で、魚が跳ねている。頭皮を食い破ろうとする魚は、大きな水音を立てる。
 クソ。
 タバコなんか、吸うんじゃなかった。メダカなんか眺めるんじゃなかった腐った飯も食えばよかった。そうだ。そもそも昨日殴られたのが悪い。あんなクズに苛立たなければよかったメダカなんか買わなければよかった。そうだ。暑すぎたのだ。街が、あの部屋が暑すぎたのがいけない。冷えびえとした地下だったら。こんなクズ共がのうのうと生きている地上ではなくシェルターだったら。俺の城だったら。いや。あの時負けなかったら。
 空っぽのシェルターには、伊藤カイジの顔が浮かんだ。
 男の濁った目は彼の燃える瞳とは程遠かったが、不条理な出来事と惨めったらしい自分の姿が、あのときと重なったのかもしれなかった。それでも一条は、何でだ、と、声に出さずに叫んだ。何でだ。出てくるんじゃねえよ。テメエなんざ、こいつらと同じように、俺のために、穴掘ってるくらいしか、役に立たねえくせに、クズのくせに、まだ言うのか。俺に、這い上がって来いなんて、どの面下げて、クソ。
 なんでこんなことに。疫病神が。
 男の濁った目とカイジの燃える瞳と魚の虚ろな目が一条を覆った。どれが疫病神なのか、一条には分からなかった。
 なんにせよ、不快感や違和感は、早々に取り払う必要があったのだ。それがどんなに取るに足らないものだとしても。