bug

一条
初出・同人誌(個人)「bug」2011年
地下ちゃんの表紙が最高だった 中身もお気に入り


2

 37度。
 気温のせいではないが、今日は債務者が誰一人として姿を現さず、全く仕事にならなかった。さらにそのせいで運悪く上司の逆鱗に触れてしまった一条は、彼に殴られてずきずきと痛む顎に苛立ちながら帰路に着いていた。
 一条が家に帰るには早すぎる時間だったが、債務者様方が姿を現さない以上、自分にはもはやできることが何もなかった。現在の仕事は月給制でも時給制でもなく、歩合制だ。この時間に帰ることよりも、事務所で無為な時間を過ごすことのほうが無益だと一条は思う。上司もそれは分かっていて、だから一条を殴ったのだろう。
「クズ一人確保できねえで」
申し訳ございません」
お前、本社の用意した家に住んでんだってな」
……
「元債務者様が、破格の扱いだなあ」
……
「いい気になるなよ」
……
「努力もしねえで、のこのこ出てきやがって地下に行かねえ分、テメエの方が余程クズだ」
……
元、帝愛の、犬らしいが」
……
「テメエは犬以下だ」
……
 一条は何も言わなかった。
 彼の言い分が正しいと思ったわけではないし、犬以下なのはこの男も同じだが、それでも彼は、一条の上司だった。それに、こんな人間に何を言っても無駄だ。
 だが、自分を殴っておきながら、こんな下らない言葉しか吐けないような人間に与えられる痛みは、まるで空洞だった。一条はそのことに苛立っていた。あの年老いた気違いの王に文字通り飲まされた苦汁が懐かしいわけではない。断じて無いが、あの苦痛の方がずっとましだった。意味があるからだ。それにしても、暑い。
 顎が熱を持っているのが外傷のせいなのか、それとも気温のせいなのか分からなくなり始めた。どちらにしても癪だったし不快だった。汗を吸わない糊のきいたワイシャツは、それらの感情を増長させる一因にしかならない。クリーニング代がかさむ。そうだ、スーツを買わなければ。
 汗を垂らしながら、一条は自分を殴った上司を胸中で8回殺した。8回のうち数回は、上司の姿が兵頭会長になったり、伊藤カイジになったりした。会長はともかく、なぜ伊藤カイジが出てくるのか、一条には分からなかった。それでより一層苛立つ。

 夕食時なのか、住宅街の最寄り駅周辺に人影はまばらだった。閑散とした商店街の中にペットショップを見つけた一条は、主のいない水槽のことを思い出し、その安っぽい看板のほうに足を向けた。本当はスーツを買わなければならないのだ。まだ店は開いている。だが一条は、スーツよりも、この暑さに耐えるための理由を欲した。
 空調の切られた夜のペットショップは暑く生臭く、何となく陰鬱としていた。檻の中でもぞもぞと動き回る犬や猫と視線を合わせないようにしながら、汗だくの一条は、店の奥に鎮座している大きな水槽のほうへ足を進めた。
……
 水槽の大きさを鑑みても酸素が足りなくなるのではないかというくらい大量に放り込まれた小さな魚が、半透明の鱗に照明を反射しながら、目的もなく不規則に動き回っている。
「何かお探しですか」
 店の奥、というより、ほとんどスペースの無いように見えた空洞から店員が這い出てくる。一条は返事をせずに水槽を眺め続ける。
 店員は勝手に続けた。
「餌にね、いいですよ、それ」
餌」
「やっぱりね、肉食の魚には生き餌がいいですよね。食べ残しても水が汚れないし。メダカもいいけど、小赤もありますから、うち」
……
「あ、お客さん、何飼ってるんですか。アロワナ?」
……
 一条はここで初めて店員の顔を見た。彼はこの蒸し風呂のような店内で汗ひとつかいていなかった。青い照明に照らされている眼鏡が鱗のように光を反射していて、彼がどんな目で自分を見ているのか、一条には分からない。
いや」
「じゃあ、ガーとか」
 水が揺れた。
 一条は黙って魚に視線を戻す。売り物としてはあまりに雑多な扱いだと思ったが、餌だとすれば、このいかにも劣悪そうな環境も理解できた。
これ」
「はい?」
「いくらですか」
「メダカ?メダカは百匹で一二〇〇円」
……
「高いですか。結構うち、安いんですけどね。まあでも、百匹っていっても、大体だから。ねえお客さん、何飼ってるんですか。珍しいのだったら、メダカおまけしますよ。そのかわり、魚繁殖させたらうちに持ってきて下さいね。買うから」
……
 なんて、と店員は言った。冗談です。はは。
 何が冗談なのか分からなかったが、一条もその乾いた息に合わせて笑う。


 万札で餌を買った一条は、その釣り銭で出来合いの惣菜を買った。両手にぶら下げたビニール袋のバランスを取りながら歩いていると、一歩足を踏み出す度に汗が噴き出す。顎の鈍痛は一条の脳を揺らし、餌の入った袋の水と共に、ちゃぷんちゃぷんと跳ねた。日は沈んでいるはずだったが、気温は一向に下がる気配を見せない。
 平静を装って歩いてはいるが、一条は気温にも体温にも水音にも耐えられなくなりかけていた。なぜかはわからない。痛みに苛立っているのかもしれない。それとも、メダカを守るように歩いている自分に苛立っているのかもしれない。それとも、伊藤カイジのことを思い出したからかもしれない。
 這い上がって来いなどという言葉は、地下労働中はおろか、敗北の瞬間にすら必要なかった。ましてや、一条のこれからの人生に、伊藤カイジの存在そのものが必要なかった。一条は王になりたいのだ。莫大な金、莫大な力、唯一無二の地下帝国。そこに伊藤カイジが絡んでくる可能性も、利益もなかった。カジノでの出来事は、事故であり教訓だ。これから王になる人間が受けた試練であり戒めだ。
 だから本当は、魚だって必要ないのだ。タバコ以上に必要ない。一条はあの部屋で、帝愛が本性をさらけだすのを待てば良いだけだ。それなのに、水が揺れる度に、ぼんやりとした疑念がメダカと一緒に跳ねる。
 帝愛は依然として王として君臨していて、本性を探っている一条も、現状はあの上司と同じ穴のムジナだった。それどころか、地下に落ちる劣悪債務者共とすら、同じ穴にいるのかもしれない。いや、それでも良いのだ。一条はムジナ、の、ふり、をしているのだ。上司や濁った目の債務者共のように一生このままで終わるつもりなどないし、道が見えているのだから、そんなことはあり得なかった。
 では、道の先にある帝愛は、本当に一条のもとめ
……
 赤信号だ。
 目の前を走るトラックの大きさに眩暈がする。立ち止まって頭が揺れたせいで汗が落ち、顎の痛みが頭蓋骨を通過して後頭部に響く。
 空っぽだ。空っぽだから、こんな無意味な痛みが響くんだ。
(早く)
 早く、家に帰らなくては。メールが来ているかもしれない。それに、明日こそは債務者を確保しなければならない。早く。
 一条が袋をアスファルトに叩きつけずに玄関までたどり着くことができたのは、たまたまだった。
 熱気に蹂躙されながら、部屋の奥へ大股で進む。ペットショップの巨大な水槽を見た後だからか、自宅の水槽はとてつもなく小さな箱に見えた。電気を付けずにその小さな箱の前に立った一条は、その水面に、今度こそ餌の入った袋を叩きつけた。
 今までぼんやりとしか波立つことのなかった水面が大きく揺れ、中から溢れた餌たちが右往左往しながら散らばって行く。袋についた埃がうっすらと拡散しながら浮き上がり、油膜のように水槽を覆う。エアポンプの生み出す水流に白いビニール袋が翻弄され、それから、水槽の隅に追い詰められて動かなくなる。
 やっと主を迎えた水槽を、一条は、火照った頭でぼんやりと眺めた。水槽の空白は埋まったはずだったが、なぜかこの箱の中は今まで以上に空洞に見えた。
そうだ」
 しまった、と一条は独りごちた。
 やはり、間違えた。これは水槽の主ではない。餌だ。だからまだこんなに空虚なのだ。
 それどころか、メダカは熱帯魚ではなかった。こいつらを入れたところで、この部屋が暑すぎる理由にすらならないのだ。
……
 一条は、水槽の底に沈む大きな魚を思い浮かべた。
 店員の語った肉食魚の姿を、一条は知らなかった。それでも獰猛な魚は、一条の脳内でメダカを喰い尽くす。一片の肉も残さず喰い尽くす。腹を空かせた水槽の主は、アクリル越しに飼い主の一条を眺める。
 そうだ。喰い尽くせ。意味の伴わない無駄な痛みも、伊藤カイジの妄言も、下らない疑念も全て、お前が喰い尽くしてくれればいい。そうすれば俺はまた動ける。そうしていれば、いつか必ず、
 いや、どうでもいい。どうでもいいことだ。魚なんて、ただの暇潰しだ。
 それでも、自分以外に動きまわるものを眺めていると、このまま何時間も水槽の前でぼんやり過ごしてしまいそうだった。一条は水槽に背を向け、顎に釣られるように痛み出した首をゆっくり回しながら、ネクタイを外した。ぼんやりしている時間はないのだと言い聞かせながら、パソコンを立ち上げる。
 メールはなかった。