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残りの夜が来た
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福本
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bug
一条
初出・同人誌(個人)「bug」2011年
地下ちゃんの表紙が最高だった 中身もお気に入り
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東京には熱気が渦巻いている。どこかの広告代理店が建てた巨大なビルのせいで、風の逃げ道がなくなったのだと聞いたことがある。それで関東一円の気温が数度上がったらしい。
たった一つのビルによって熱帯に近づいた、蜃気楼の立ち昇る街を、回遊魚が泳ぐように人混みが流れていく。規則的な流れに従う一条も、そのなかの一匹となりながら、熱いアスファルトを泳ぐ。この行進は地下での行列に似ているとぼんやり思う。
繁華街を泳ぐ群を離れて、細い入り組んだ路地に潜り込むと、あたりは街ごと埃がかぶったような、うらぶれた風俗店やラブホテルの立ち並ぶ景色になった。昼間は閉店している薬局と、民家なのか何なのかよくわからないボロ家の間の小さな階段を登る。鉄の板は元の塗装の色が全くわからないくらい腐食していて、ところどころ穴すら空いていた。勢いをつけて踏み出したら抜けるかもしれない。一条は膝を高く持ち上げてみて、それから少し動きを止め、結局静かに革靴を降ろした。衝動をごまかすために、雪の上を歩くように慎重に体重を移動させる。階段はみしりと音を立てたが、沈むことも、溶けることもなかった。
最後の一段は普通に足をかける。
階段の先には、同じ形をしたドアが、ひっそりと並んでいた。風俗店勤務者向けの物件だろうから、住人たちは寝ているのだろう。黴臭い静寂を踏みつぶすように足音を立てて目的のドアまで到達し、埃と油まみれの呼び鈴を押す。ブザー音もチャイム音も、それらしき音は鳴る気配がなく、中の住人が身動きする気配もない。
暢気なものだと一条は思った。暢気なものだ。どうして返せなくなる程の借金をしておきながら、のうのうと眠れるのだろう。そういう人間だから、金を借りるような状況に陥るのだろうか。一条には分からない。自分の思考回路がそういうふうに巡ったことが一度たりともないので、中の住人の気持ちは欠片も理解できない。
呼び鈴を諦めた一条は人差し指を離し、握り拳を作って、薄い扉を思い切り叩いた。重さのない破裂音が響いたが、一条を小馬鹿にするように、黴臭い静寂は依然としてあたりを支配している。
一条はもう一度ドアを叩いた。もう一度。もう一度。
隣の住人が細くドアを開け、胡乱な目つきでこちらを見たが、一条は会釈もせず、その細い目を一瞥しただけで、ドアを叩き続けた。用があるのは隣の住人ではないし、一条は静寂に馬鹿にされるためにここに来たのではなかった。いい加減関節の上に乗った薄い皮膚が熱を帯びてきていたが、一条はこのドアの向こうの住人を引きずり出すまで帰れない。なぜならこれが仕事だからだ。
拳ではなく足を使おうかと考え初めたころ、ようやくドアの向こうで空気が動く気配がしたが、一条は構わず叩き続けた。中の住人は逡巡しているようだったが、ついに意を決したのか、ドアが勢いよく開く。
「っるせえんだよ!!」
と、男は言った。男は薄汚い金髪を薄汚くのばしていて、調査書に示されていた年齢よりずっと年上に見えた。不摂生や貧困からくる衰えの上に、はっきりとした怯えの色が乗っていて、そのせいで老けて見えるのだろうとぼんやり思う。
「こんにちは」
「こんにちは、じゃねえよ!!」
「すぐ出ていただければよかったのですが、いらっしゃるかどうか、私には分からなかったので」
「っせえな、俺はもうすぐ仕事なんだよ、警察呼ぶぞ」
そんなことができるのならば、初めから彼はこんな額になるまで借金を放置しなかっただろう。それは今までの経験からしても半ば事実だったので、一条は肩をすくめてみせた。「どうぞ」
男は困惑して言葉を失う。
この程度で狼狽するのならば、初めから、と考えかけて、一条は胸中で首を振った。そんなことはどうでもいいし、今はこのクズが一条の飯のタネなのだ。だから、仕方がない。
「っ
……
」
一条が男のすぐ脇の壁を蹴ったので、彼は間抜けな音を立てて息を呑んだ。閉まろうとするドアにその足をつっこみながら、一条は男との距離を詰めた。タバコと酒と汗とその他、得体の知れない悪臭がする。
内容を分析する気も起きないまま、一条は「失礼」と断り、好きでも何でもないタバコを取り出した。空腹に重ねて摂取したニコチンのせいで目眩がする。このまま後ろに倒れ込んでしまいたいと思ったが、後ろの廊下の溝に溜まった、黒ずんだ土埃の固まりを思い出して、軸足が勝手に突っ張った。
「何でしたっけ
…
お仕事」
「
…
な、」
何でもいいだろうとか何とか男が言っている。一条だって、そんなことを本気で聞く気はない。それよりも、生臭いのはこいつの口だったかと一条は思った。憎しみなどこの人間に対しては欠片も感じないが、嫌悪感はつのった。
「いくら」
「
……
」
「いくら稼げるんだよ、それ」
「
……
てめえには」
「あるだろう、関係
…
」
「
……
」
「聞いてんだよ、いくら稼げるか」
ドアノブに掛かっている手にタバコを押しつけようとしたが、熱を感じたのか、彼の左手はゴキブリのようにさっと逃げていった。ほんの少しだけ残念に思いながら、一条は結局タバコをドアノブでもみ消す。携帯灰皿に吸い殻をしまいながら、一条はもう一度だけ「いくらですか」と聞いてやった。それから、男が答える前にもう一度壁を蹴った。
「とっとと答えろよ、クズ。
…
まさかその金で、飯とか、食うんじゃねえよな」
「
……
」
「うちの会社からいくら借りてる?」
「
……
」
「言えよ」
男は震える声で負債額を口にした。
額面は頭にこびりついていたが、改めて音声として聞いてみると、その程度かと思うのが半分、こいつのように部屋で寝ていては一生かかっても返せまいと思うのが半分だった。男もおそらくそう考えているのだろう。返せない額ではない。ただし、今の生活は捨てる必要があった。
一条は目を細めて男を見た。それからドアを叩くのと同じように鳩尾を殴り、ひるんだ彼を蹴飛ばした。脂肪の乗った腹をまたぎ、薬品を染み込ませたハンカチを口に当てる。生臭い口臭が手に着くのが嫌だったが、仕方あるまい。
昏倒した男が立ち上がらないよう肩に足を乗せながら、一条は外で待っている社員に電話を掛けた。男を運ぶ社員が来るまでもう一本吸おうか、それともやめようか考えているうちに、階段を登る複数の足音が聞こえた。
足元の男はこれから地下に行く。
解放は唐突だった。
一条はこれからどうやって七億という負債を返済するか、それだけを考えていた。伊藤カイジのご立派な働きのおかげで、地下でのギャンブルは禁止されていた。帝愛もあの程度で怖じ気付くとは情けないが、今ここで一条がそのことを悔やんでも仕方がなかった。自分は何かほかの方法を考えなければならない。
帝愛幹部や、裏カジノに来客していた太い客の顔をひとつひとつ思い浮かべながら、一条は今の自分に使えるものをぼんやりと組み立てていた。もう失敗は許されない。今度失うものは、地位や金ではなく、今後の自分の人生だろう。慎重に動かなければならない。残された時間は、労働を義務づけられた時間に対してあまりにも少ない。あのクズに這い上がってこいなどと言われずとも、一条の野望は依然として一条の中にあったし、それを手放すことなど考えていなかった。一条は自力でここを出るつもりだったのだ。
「解放は三日後とする」
そう告げられても、一条はそれが文字通りの解放だなどとは爪の先ほども考えていなかった。いや、冷水を掛けられながら亡者のように行進する労働者達のうち誰一人として、そんなことは考えていなかっただろう。帝愛のやり口は一条が一番良く知っている。彼らは一条らを別の地底に追いやるだけだ。三日後、黒服どもが給与と言いながら封筒を配り、労働者達がざわつき始めても、一条はそう信じていた。自分の番になってもそう考えていた。
「
……
」
受け取った封筒の中には円が入っている。
ペリカなどというふざけた通貨でなかったことにうすぼんやりとした驚愕を覚えなからも、一条はまだ、これが解放だとは考えなかった。指紋に沿ってささくれ立ち、皮の厚くなった指で中を検めた封筒の中身が、ヒステリックに脳裏に刻み付けていた報酬額と一致していても、まだ考えなかった。あたりのざわめきが泣き声や笑い声や絶叫に変わりつつあっても、まだ。
「この掘削作業場は閉鎖される」
渦巻く声を止めもせず、黒服は粛々と告げる。
「ペリカの通貨価値はこれ以降一切無い。今日までの給与は今支払った分で全てだ。
…
負債額に届かない者が殆どだと思うが、ここにいる全ての人間の負債は清算されたものとする」
黒服は粛々と。
…
なんだと?
穴倉の中は徐々に静まっていく。一条は沈黙の中でぼんやりする。
…
いや、ぼんやりするな。落とし穴はこの後やってくる。そんなやり口は、一条が一番良く知っている。
思考能力を失いかけた脳に向け、黒服の声はさらに続いた。
…
ぼんやりするな。「
…
以上だ」
「
……
」
声が爆発する。
一条は反響する咆哮を他人事のように聞き流しながら、黒服の言葉を何度も反芻した。意味が分からなかった。いや、意図が。
…
なんだと?
「一条君」
泣き声、笑い声、絶叫、の隙間から、惨めったらしく掠れた声で呼びかけられる。自分のものではないような頭をひねって振り向くと、大槻が、自分と同じようにぼんやりと突っ立っている。
「
……
」
「
…
なんだ、これは」
「
……
」
一条は答えない。分からないからだ。
大槻はもう一度「なんだ」とつぶやいた。返事はいらないのだろう。彼のつぶやきは一条に対する問いかけなどではない。「どういうことだ」
一条は深く息を吸った。砂塵の混じった空気が喉の奥を刺激する。
…
這い上がって来いなどと言われずとも、そうするつもりだった。だが、これは?
息をすることしかできない一条の周囲で、垂れ流される大槻のつぶやきと、誰かの泣き声と、笑い声と、絶叫、野蛮な音楽のようなそれらが、思考回路を停止させんとするかのように、ぐるぐると回る。
彼の声が遠くに聞こえる。
…
そうだ。俺は這い上がっていくつもりだった。お前に何を言われようが関係なく、這い上がっていくつもりだった。
帰宅した家は吐き気を催すくらい暑かった。駅からここまで歩く間にかいた汗をさらに押し流すように、体中から水分がこぼれる。短い廊下を歩きながらジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す。エアコンのスイッチを入れると、水槽に突っ込まれたエアポンプのモーター音が、ぎこちない送風の音にかき消された。衝動買いした水槽には主はおらず、ただ水だけがぐるぐると循環している。
ご丁寧にも帝愛は、家を失った負債者に対して1年間の住居を提供した。既に就職した一条も、期限を迎えるまではここに住む権利があるのだという。
一条の人生は依然として残りわずかだから、救いの手はありがたく握り返す。足を救われない程度に使えるものは使う。それでも、一度奴隷になった者にそのような情けをかける、いや、情けに見せかけた支配にすぎないとは思っていたが、そういった帝愛の行為に、一条は得体の知れない不気味さ、というより不快感を覚えていた。
パソコンが立ち上がる間にジャケットをハンガーに掛けていた一条は、襟に白っぽい汚れが浮いているのを見てげんなりした。空のままの水槽に魚を泳がせてやるより先に、スーツをもう一着買わなくてはならない。三着や四着では、この肉体労働はつとまらない。
一条らを解放した後も、帝愛は依然として阿漕な商売を続けていた。一条はその阿漕な帝愛グループの、最下層の企業で働いている。
仕事のあてはいくらでもあった。それでも一条がこれを選んだのは、この仕事がまだ残っていることに疑問を抱いたからに他ならない。一条は、劣悪債務者を確保し地下へと送り届ける。それで食っている。
地下。
一条が地下に入ってから出るまでの期間はほんの数年。その数年の間に、地下施設建設事業は中止された。一条は確かにそう聞いた。一条と共に穴を掘っていた作業員たちも、すべて解放されたはずだ。だが、一条が職を探し始めた時点で、既にこの職種は復活していた。
…
事業が再開されているのだ。
そもそも、地下事業の中止などという事件からして、一条は未だに理解も納得もできていなかった。会長が心血を注いでいた事業が、あれからたった数年で中止されるなど、ジジイが呆けたためなのかヤキが回ったためなのか、それともかの暴君が天に召され、代わりにシェルターなどに興味を示さない馬鹿息子が帝愛を牛耳り始めたためなのか、一条にはそれくらいの可能性しか思い浮かばなかった。そこへ来て、事業の再開。
早すぎる再開は、唐突な中止よりもずっと奇妙だった。兵頭会長の意思にしては一貫性が見られないし、馬鹿息子も親父に似て頑固だから、一度自分の手で止めたものを、父親と全く同じ形ですぐに再開するとは考え辛かった。調べてみると、地下事業以外にもそういった事象が確認できた。例えば、地下事業と同じ時期に中止され、すぐに再開した、悪趣味なギャンブルがいくつかある。
不快だ、と一条は思う。不快だ。
帝愛が奇妙な動きをしているのが不快だったし、ギャンブルはともかく、自分の欲している地下シェルターが軽く扱われているのが不快だった。さらに、意味の分からない動きを見せたくせに、のうのうと王として君臨している現在の帝愛も不快だった。
水がちゃぷんと跳ねる。
水槽を振り返るが、水面には波すら立っていなかった。いつ魚を入れても良いように、というよりは、水槽に付属していたからというだけで稼働させているエアポンプが、小さな気泡を吐き出し続ける、その動きしかない。部屋の中にはそれしかない。
「
……
」
何にせよ、不快感や違和感は、早々に取り払う必要があった。それがどんなに取るに足らないものだとしても、一条がかつてそれによって階段を踏み外した以上、そういった感覚を馬鹿にする気分にはなれなかった。
帝愛の深層で何が起こっているのか、下働きの一条にはその正体を直接探る手だてがない。帝愛のすべての事業は、金の流れはともかく、仕事や情報の流れが最下層のみで完結するよう、トカゲの尾のようにデザインされているからだ。
…
だからといって放置するのは馬鹿のすることだ。かつての自分のように。
うっすら頭痛を感じながら、一条はパソコンの前に座り、青白く発光するディスプレイと対峙した。
メールは二通届いていた。
直接探る手だてを持たない一条は、今までのコネを片端から使おうとしていた。例えば、会長の悪趣味なショーの顧客がそれだった。もう少しで会長と同じ位まで達する資産を持っている(と錯覚しているであろう)顧客と、コンタクトを取る。彼らにほんの少しだけ情報を流す。地下に送られる人間の健康状態や財務状況やその他、些細な情報だ。その見返りにほんの少しだけ情報をもらう。帝愛の中心部に近い情報をほんの少し。
一部の金持ちが劣悪債務者の情報を必要としていることは、あまり知られていない。気が長く、時間と金の有り余ったクズどもが、どの債務者がいつまでにいくら稼いでいつ死ぬか、途方もない時間をかけたギャンブルの種にしていることなど、下働きには知る由もない。だが一条は知っていた。それだけだ。
この下衆な職業も、都合が良いと言えば都合が良いのだ。ちょうど一条が地下脱出の為に使おうとしていたコネと概ね一致していたこともあって、すぐに行動に移せたことも良かった。あとは、金持ちが出し惜しみするほんの少しの情報から、現在の奇妙な帝愛のしっぽをつかみさえすれば良い。きっとそれは帝愛の病巣だ。ウィークポイントを突くことができれば、一条があの莫大な力を手にすることも、想定よりずっと早く、可能になるかもしれなかった。
…
そうだ。どんなに下衆な仕事でも、目的が明確ならば、耐えられる。
短いメールを斜め読みしながら、一条はぼんやりと地下に思いを馳せた。一条が突き落とした人間たちが掘っている地下を手に入れる未来を描こうとしたが、それはなぜか、非常にぼんやりとしていて、空虚だった。
いや、そんな筈はない。自分はそのために生きてきたのではないか。
「
……
」
頭痛のせいかもしれない。
…
タバコなんて吸うから。どうしてこんなものを吸い始めてしまったのだろう。
届いたメールの情報が有益かそうでないかは判断しなかった。どれも頭に刻み込み、一条は電源を落とした。
深夜のくせに、東京は暑すぎる。エアコンがまるで役に立たなかったので、一条は室温を18度まで下げた。それから、この暑さなら、熱帯魚を泳がせることができるかもしれないとぼんやり思った。そうすれば、都内の気温にも耐えられるかもしれない。
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