百夜通い、ならず

pixiv再掲
kbnz馴れ初め編。
100日自分のところに通い続けることができたら、恋人になりましょう。というネさんに、キさんが頑張る話です。
日付がぽんぽん飛ぶので読みづらかったらすみません。映画「500日の○マー」みたいなのを意識して書きました。



89日目

 ここのところ、ネズはずっと機嫌が良い。一週間と少し、キバナの仕事の都合で飯が共に食べられず、前のようにまた振り回してしまう日もあった。詫びを先に入れても、ケロリとしている。イライラとはもうしない。
 以前は、おそらく自分を避けていた。一緒に夕飯を取ってもそそくさと片付けてしまい、家事をこなして触れられないようにしていた。それをキバナは、笑って見ていた。芽生えているであろう気持ちに動揺しているだけなのだろう、とタカを括っていた。
 ……それが、あの一晩でまるきり変わってしまった。抱きしめて眠った八十一日目となる翌朝、ネズは揺り起こしてくれたキバナの額にキスをした。驚いてガバリと起き上がった際に互いに頭をぶつけてしまう。それでも悪態こそつけど、やわらかい笑みで「早くしないと遅れますよ」とベッドから一足先に離れていった。
 訳がわからず額をさすっていたら、温かいスープの香りがした。
 ネズはそこにいた。向かい合った食卓で、新聞を読んで。前みたいにさっさと立ち上がったり、背を向けたりしない。家事に勤しむこともしない、ゆったりした落ち着いた姿で。
 キバナは「ごちそうさま」を言った。ネズは「お粗末さま」と食器を受け取った。汚れていたはずの上着は、乾いてブラシをかけられていた。別れ際、「いってくる」と笑顔で言えば、「気をつけて」と応える彼がいた。
 キバナは、緩んでしまう頬を締められない。
……オレさま、期待しちまうけど)
 あと十九日を、待ちきれない自分が過去にいた。

 そして今、キバナは困惑している。
 あれから一週間と少し経った今日、午後九時を過ぎて、風呂上りにテレビで流れる中継を変えることができず、固まったまま動けずにいた。
 自分の右腕付近に頭をもたれさせてネズは、膝の上に譜面を置いたまま眠っている。あどけなく隙のある顔なんて初めてで、キバナは早る心臓を抑えられない。
 珍しく自分が温かい飲み物を淹れて、二人で飲んでいた。「ここ数日、曲作りに追われていて」とネズは新譜を何度も舐めるように見ていた。テレビで笑う芸人がおかしくて小さく笑っていたら、やがて隣から音が聞こえなくなり、書きかけの譜面の上をコロコロとペンが滑り落ちる。キバナが見たときには、くったりと羽を休めるネズがいた。
(どうしよ……このまま運ぶか……?)
 左手で、彼を起こさないようにリモコンを取る。ぷつりと切れた電気信号。ゆっくり体を掴めば、全く起きない。軽い胴体を担いで、足を持ってもびくともしなかった。
 クマのある表情は、決して健康とは言えない。青白い肌も変わらない。いつもふわふわとなびく髪は少し傷んでいる。
 あの、ネズと二人で眠った日。あれ以来彼は、自分の気持ちに正直でいてくれている。触れ合えば返してくれて、指を絡めれば愛おしそうに撫でてくれる。唇へのキスはさすがに拒絶されたけれど、ネズから不意にそこかしこに唇以外のキスを受ける。扉を開けかけている彼の気持ちと、もう充分に彼という深い湖に落ちている自分と。
 けれどこの恋は、相手が自覚しなければきっと完成しない。だからキバナは百日を辛抱強く待っている。
 運ぶ今をも、その前髪にキスを落とすに留めて、寝室へ運んだ。リネンの色は今日は群青で、彼がたゆたう海に沈んだようだ。
 抱えた時に床にばらけてしまった譜面を拾う。コード進行もベースラインも完璧なのに、歌詞はまだ半分だけのまま。
 キバナは、過去に見たネズの、本能の片鱗を思い出す。ぐしゃぐしゃに丸まった紙の中の、美しい文字。

『愛を知らない自分にも、誰かを愛することができたなら』