治北短編2

pixiv再掲
短編集二つ目です、二人とも稲荷崎卒業後、治の開業まもなく



#6獣たらし、二人

 秋が庭に入り込んでくるような日だった。
……あ」
 庭先の掃除をしていた大きな人間が、間抜けな声を出してこっちを見ている。しまった、バレてしまった。どきどきしながら俺は体を震わせて、なるべく身を低くした。思うように動かない右足を無理やり引きずって、この庭の木の後ろへ何とか這いずる。ううう……と唸ってみるも、この人間にはあまり効かなさそうだ。俺の大きさなんてこいつと比べたらかくだんに違う。
 食べられてしまう。熱い鍋に放られる。
 ふと、そいつが手を出してきた。山ではあまり嗅いだことのない匂いがした。でも俺は知ってる、人間の言う「飯」というやつの匂いだ。一度、間違えておれたちの山に人間が落としていったものを食べたことがある。ふくふくした、柔らかい白い小さい粒のかたまりだった。黒い海の匂いのするぺたぺたするものがついていて、妙に歯についた。塩気もある。巣立ちの前に母さんが、それは人間の世界で言うおにぎりというやつだ、と教えてくれた。こんなにでかい飯をあいつらは食うんだ、だからおまえたちはひとたまりもないよ、と。
 こいつもその匂いをさせてるってことは、多分、おれを簡単に食べる術を知ってるんだ。
 ますます縮こまって出ていかないおれに、「どうしたもんかな……」と人間は言った。声は低く、穏やか。見たことはないが、とうさんというのはこんな感じなのかな。
「治、どうしたん」
 家の中から、清涼な匂いがした。化学的なそれは、奥から出てきた別の人間が持っている籠の中からする。はらはらと、洗濯したばかりの布が風に触れてなびいていた。おさむ、と呼ばれた目の前の奴はくるりと振り返ると、「北さん」と困った声を出す。
「こいつ、怪我しとるみたいで」
 きたさん、って奴はそれを聞いて、おっきい目をくりくりさせてこっちを見た。人間の目が増えておれの怯えは更に強くなる。歯茎を剥いて、牙を持ち上げた。その時。
「ほれ」
 後ろ足を束ねてぐるん、と掴まれて、おれはあっという間に宙吊りにされた。片手でおれを持って、次に前足も束ねられる。傷を負ってる右足はじくじくしたが、それよりもこの体勢で簡単におれを捕まえてしまったこの小さい方の人間に、おれはびっくりして声を上げるのを忘れる。
「き、北さん、ワイルドやな……
「ここら辺はいつも獣が出るからな、慣れた」
 噛みつく暇もなく家の中へ連れてこられて、さっき物干しから取り込んだらしい布の上にポスンと下される。
「それ、俺の布団……!」
「あ、すまん、下ろしてもうた」
「もう……ええですよ、今日北さんの布団で寝ますから」
「おん、ええよ」
「え⁈ え、ええんですか⁈」
「えが多い。何や自分で言っといて」
 くすくす笑いながら小さい方の人間がテキパキと救急箱を取り出してる。大きい男の側で湯気を出している機械から、飯の炊ける匂いがしてきた。
「前足、やったか。右か……?」
 側に来た銀色の、おれと同じような毛色をした人間が側に座る。おれはまた威嚇しようとして、やめた。何かこいつにはこう……逆らっちゃだめな気がする。あつりょく、っていうんだっけ、こういうの。
 鍋にするなら、さっさとすればいいのに。おれは生きることを諦めようとしたけど、どうやら相手はそうじゃないらしい。手袋をして、爪が折れたおれの右足を取った。
 ここに命からがら逃げてきたのは、山に張ってあった罠にかかってしまったからだ。トラバサミはうまく外れた。だから傷自体は深すぎずに済んだけど、歩くのが厳しい。群れを出て一人になってある程度慢心していたおれへの、てひどい報いだと思ってる。
「こんなんなら食えるやろか」
 ことん、と置いた大きい皿の上に、うまそうな肉や野菜がある。その奥には卓上におにぎりがあった。大きい人間がそこから器用にひょいひょい食べ物を小さい皿に移して、おれの前に静かに差し出す。
 皿からは、肉の匂い。おれと同じ、けものの匂い。でもここには、昔感じていた懐かしさがある。
 かあさんは、噛み砕いてよくよく肉を柔らかくして食べさせてくれた。小さな肉からやがて大きな肉へ、顎も骨も鍛えられて一人前になって、自分で獲物を獲る側になって初めてかあさんのすごさがわかる。
 これには、そのかあさんの与えてくれた食事とひとしい、慈しみがある。
 小さい、と思っていたが近くで見たら意外と大きさもあったきたさん、という人間がおれの足に包帯を巻き終えている。手慣れた手つきで整えられた白い布は、これまで痛んで仕方がなかった傷への意識をいくらか緩和していた。
 おれはアオンと一声鳴いた。自由にできない足を動かして、きたさんが「おい」と心配する。その脇にちょこんとある、あの白と黒の三角形のくいものを、鼻先でつついた。
「え、お前、これが食いたいんか?」
 おにぎりとおれを交互に見て、不思議そうに目を丸くしたきたさんにおれは頷く。半分に割れたそこから焼き鮭がホロリと現れた。皿の上に移してくれて、肉と野菜とおにぎりを、人間と同じように食べる。
「変わっとんな、狐やのに、米が好きて」
 おさむはそう言って、大きな手でおれの頭をぽんぽん撫でる。おれはこんなに無防備だったことはない。だけれど、こいつらの前ではいいか、と皿へ視線を移す。
 ただ、食べたいのだ。おさむの作った慈しみを。味わいたいのだ、きたさんのくれた優しさを。
 それは一人旅を続けるおれの、ひとときのうつくしい安らぎだった。