治北短編2

pixiv再掲
短編集二つ目です、二人とも稲荷崎卒業後、治の開業まもなく



#4もう半分に、浸かる

 夏風邪が流行り出した。
 バイトの子が最初は電話口で、ガサガサの声で「すんません、今日、熱ありまして……」ってかわいそうなほどひどい声で訴えてきて、次に俺が移って鼻風邪を引いた。俺は三日くらいで持ち直したし、もともと休みやったってのも重なって、何とか上手く事を運べた。
 その後もちらほら風邪が移ったり治ったり、また別のやつがぶり返したり。衛生的にもあかん、と頭を抱えてぼやいた言葉を北さんは、ふうんとつぶやきこう続けた。
「俺、手伝いに行こか?」
 ……こうして雨天時で北さんの仕事がぽっかり空いた時や、のっぴきならない事情の時だけ、おにぎり宮には臨時で店に北さんが立つことになった。

 ◇

 サアサア降る雨は未だに止むことをせずに店から出る人の足を渋らす。傘立てに入りきれてない傘はぽたりと雫を落として天気のひどさを物語っとる。ますます蒸すなと誰かがひとりごちて、続けてほんまやなあって常連のおばちゃんが相槌を打つ。
 憂鬱な昼過ぎである。厨房の影で掃除をし終えた北さんが、何やらゴソゴソと作業をする。俺は首を捻ってそっちを向いた。数個のタッパーを開けて、何かの味を確かめとる。
「北さん、何しとお?」
「ん、あのな……ちょうどええわ、治、味見して」
 覗き込むと、二、三種類の惣菜が北さんの手元に美味しそうに広げられていて、冷蔵庫の扉がパタンと閉まった。ここ数日忙しすぎて、北さんがそんな手料理を入れていたことにさえ気づいてなかった。賄いとして入れといてくれることはよくあるけど、これはまかないにしては分量少ないし……
 考え事が先行してボーッとしとったら、目の前に箸と食材がぬっと出てきた。俺は我に帰る。北さんの真面目な顔と、美味そうな惣菜が交互に視野に入ってくる。戸惑いながら口を開けて箸を受け入れると、ほのかな塩味とこりこりした漬物の触感が広がって俺の頭がぱっと冴えた。これは美味い。白飯によく合いそうな。
「ばあちゃんに習った作り方、やってみてん」
 柔らかく微笑んだ北さんは、やっぱりおばあさんの話になるといつでも嬉しそうだ。漬物以外にも色鮮やかな南蛮漬けと煮物が詰められている。きっとこれらも、北さんが仕事を終えた後に自宅で作ったんやろう。
「美味いです、すぐ店に出せそうや」
「そんなことないやろ、もっと美味いの他にもある」
 謙遜する北さんも、同じようにきれいな箸でいくつかつまんで口に放る。頬を動かす仕草はどこかあどけない。
「定食につける付け合わせ、悩んどったやろ、この間」
 ごくんと白い喉が動いて、きちんと食べ終えてから話し出すこの人は、じっと俺の目を見る。しばらく俺はぽかんとして、思わず見つめ返して考える。
「こんなんで良ければ、何かの参考になるかと思ってな」
 あ、そうやった、それは四日前か五日前にぼやいた、ある晴れた日。北さんが米を納品しに来てくれとって、軽トラに乗り込む前に俺が。
 ──最近、夏バテに良さそうなの、考えても浮かばんくて。
 俺は誰も見とらんのをええことに、たまらんくなって北さんをぎゅうと抱く。「まだ仕事中やぞ」はっきりと不満そうに言われるけど、「もうちょっと、だけ」って言うと仕方なさそうにぽんぽんと背ぇ叩いてくれた。
 だって、なあ。そんなちょっとしたの、覚えといてくれとるの、嬉しいやろ。風邪ん時も、定食に使う副菜のメニューが決まらんて時も、ただでさえ米使わせてもろてお世話になっとんのに。
「北さん、うれしい」
「お前の店、売れんかったら俺の米の行き場が一つ減るからなあ」
「うわ、いけず。そんな言い方」
「フッフ、でも半分はそれや」
 俺は当然残り半分が何かは知っとる。でも、それをここで言ったら多分今日はもう営業できへん、止まらんくなる。そのちっさい口にかぶりつきたくなるのをどうにか堪えとる俺の顔は、さぞ不細工やったと思う。その証拠に、北さんが面白そうに笑っとる。
 こんな時、北さんからキスしてくれたらと思うけど、そんなことすんのはこの人やない。あくまで今は仕事中。けじめと真面目のかたまりの人である。
 好きやなあ、ほんまに。気遣いのあるとこも、メリハリあるとこも、きっと今日の仕事が終わった後、労いに酒を注いでくれるであろうとこも。
……仕事、頑張ります」
「おう、張り切ってやりや。俺は休憩もらう」
 この夏の空に不釣り合いな、カラカラ笑った顔をして、北さんはひらりと手を振った。
 三日後、定食につく南蛮漬けのレシピをおばちゃんたちに問い詰められて、困った顔しとる恋人を見ることになるのは、予想できんかったけど。