治北短編2

pixiv再掲
短編集二つ目です、二人とも稲荷崎卒業後、治の開業まもなく



#1宮治という人間は、

 嫌なやつがおる。
 そいつには稲荷崎に旧友がいて、古くからの学びの友やと言っとった。嫌なやつはおっさんで、朗々とした語り口調でまた喋り出す。ここへ来てもう幾度話したことか。五十を過ぎた、白髪まじりの髪を撫でつけ、その手でそのまま箸を掴む。
 旧友は、佐野と言うそうや。何遍も話すからすっかりと覚えてしまった。寒くなってきたからと頼まれたおでんをふうふう拭きながら、周りに汁が飛ぶのも気にせずそいつは食べ始める。
 佐野は、蛇みたいに賢く、教師に気に入られていたらしい。蛇の真似をしながら嫌そうに顔を歪める仕草は定番の定番。箸を手に持ったままジェスチャーするから飯粒も落ちる。
 そのおっさんは、旧友のことが嫌いらしい。
 嫌なやつだと前から思っとった。
 佐野の話をしだすと、おっさんは途端に気色ばむ。イライラと貧乏ゆすりし出す。カウンターの横で聞いている今日の犠牲者は、二度目の来店になる若い会社員。気の毒に、次からはもしかしたら来ないかもしれん。定食で頼んでたおにぎりの具を、少し多めにしてやった。
 そういう気配りがかけらもできないおっさんをカウンターの上から睨んでみる。相変わらず、他人の視線なんかはかけらも気にせんで話は続く。
 そいつは、何と酒が入っとる。昼間から、しかもかなりの量。店に入って席に座ると飯の匂いが霞んでまずい。
 佐野の話は長いから、その分酒混じりの呼気が店に充満していく気がして、俺はピクリと眉間にシワを寄せる。
 おっさんの、旧友と仲違いした理由はまあ酷いもんや。金の貸し借り、女の奪い合い、荒む生活に二人での乱闘。佐野への罵倒は止まらない。
 嫌なやつや、ほんまに嫌や。
 せっかく今日の定食につける豆腐の味噌汁のええ匂いしとるのに。あの人の、いちばん好きな銘柄の、何に使ても美味いんやでって笑うあの人の選んだ豆腐やっちゅうのに。
 手には包丁、俺はちょうど菜葉を切っている。これから別の味噌汁を作るのに、入れようと思っとった緑色の植物の根本をストンと切った。
 ああ嫌なやつ。
 はらわたにえくりかえる。
 なんでおまえ、まだしゃべっとんの。
 いっそ、このまま。
「治」
 裏口から勝手知ったる厨房へ出入りできる人は一人しかおらん。米を抱えてまるい目をぱちぱちさせて、俺の顔をじっと見た。
 カウンターにおったおっさんは、入ってきた北さんを見るなり肩を竦ませた。急いで飯をかき込んで、今までペラペラやかましかったのんが嘘みたいに、会計済まして帰ってった。
 ポカンと俺がその後ろ姿を見つめとると、北さんは言う。
「あのおっさん、農協の人やねん。ちょっとした知り合いでな」
「あ、ああ……そうやったんですか」
 でも、それにしちゃえらい怯えようやない?
 北さんがふっと息を吐いて、まな板に放っておかれてる菜葉と包丁を見ながら、くつくつ煮込まれそうになっとる鍋の火を止めてくれた。
 北さんの服の袖が濡れている。ここへ入る時にきっちり洗われたのであろうきれいな手は、それでもなるべく衛生を保てるよう、一連の作業を触れる箇所が少ないように動いてくれる。
 それだけ。たったそれだけなんやけど、俺の心はじいんと痺れる。
 こん人を好きになって良かったと、今ほど思ったことはない。それに、
「治、よお我慢したな」
 人、殺しそうな顔しとったで。と付け加える北さんは、また俺の目を覗く。奥の奥まで吸い寄せられるような薄い色の目の中は、キラキラとして恐ろしい。
 その力は、まるで心を引きずり出されるみたいだった。
……北さん、おらんかったら、危なかったです」
「おん」
「前に一回、迷惑やって言ったの、あいつ、酒で忘れてて」
「そうやろな」
「ちゃんと出禁にせんかった俺が悪い」
「それも、そうや」
「今度から、そうします」
……なあ、治」
 稲荷崎での、バレーの時を思い出す。腕を組んだ主将の前で、目を伏せながら話す俺。たらたら冷や汗を流していたあの頃よりは、随分近い距離で話せるようになったこの人とも、やっぱり真剣な場となれば違う。
 北さんは、開いた口で清水が流れるように話す。
「高校の時やったら、すぐ侑に手ぇ出とったお前が、色んなもん我慢して経営やって店守るために考えとんの、知っとるよ」
 じんわりと、俺という岩に染みいる北さんの優しい声は、主将の威厳とも年上の風とも違う。風景に馴染む夏夜の虫のように撫でていく。
「頑張っとるの、見とるから……もっと頼りや」
 とんと俺の肩を叩いて、北さんは荷物の搬入を再開する。裏に止めとった軽トラの方へ、日に焼けた肌が去っていった。
 俺は大人になって、それぞれの道を歩んで、あの人と向き合えるような関係になったからこそカッコつけたくて。でも北さんは、きちんとそれをわかっとった。笑うことも怒ることもせず、俺のしたいようにさせてくれた。
 あの後ろ姿は、いつも俺を引っ張ってくれる。だから早く、俺も側にいて支えられるような男になりたい。
 今の時点で、俺はまだまだ未熟。でも厳しくて優しいあの人が見てくれとるなら、俺という人間は伸びしろ無限大やないか、と、両頬をパチンと叩いて気合を入れた。
 ……そうして数年後、北さんに「男前に、なったなあ」ってふと豆腐の味噌汁を啜りながら言われて、また俺は心を痺れさす。
 何度でも惚れ直させたい。ずっと俺を見とってほしい。そしたら俺は、いつまでも走れる。