治北短編2

pixiv再掲
短編集二つ目です、二人とも稲荷崎卒業後、治の開業まもなく



#5有形物が生む、無形の愛

 姉はいつも、文句を言っとったなあ。
「この手の形がコンプレックスで」
 丸くて、不格好。農家の娘で小さい頃から畑に慣れてる手は、お世辞にも華奢とは言い難い。ため息つきながら、たった一つのお気に入りのネイルを仕方なくつける。仕事柄、きちんとしておかないとあかんという化粧や服装。これまで姉は無頓着で気にしたことのなかった分野なだけに、なかなか踏み出せんかった世界なんやとか。男の俺からしたらもっと意味のわからん世界に、姉は頑張って取り入れてみようと一本だけマニキュアを買った。努力の人やから、そういう姿勢はいつ見ても偉いなと思っとる。
 色味は薄くてブラウン。きれいな発色が出るだかなんだか、姉は言ってたな。俺は横でじっと塗ってんの見とったら、俺の足の爪に一本、ぴゃっと塗ってきてん。びっくりして「いやや、こんなん」って言うたけど、姉は笑てるだけやった。あの表情こそ、してやったりって言うんやな。でもそん時ばかりは、仕事も上司も嫌なお局のことも忘れて、昔からよお知っとる、いたずら好きな姉ちゃんの顔やった。
 確かにあの手の形はコンプレックスなんやろうけど、そやって一つの笑いに変えれるんはええことやなあって、すごく思ってな。
 やから、おんなじ形しとる俺の手もな、何となく、好きやねん。

 ……北さんのお姉さんの話は、これまで一切聞いたことがない。ビールを三本開けたほろ酔いの口から、珍しく聞けた他愛もない話。自分の手を握ったり、開いたりしながらふんわりした笑顔で話す柔らかいこの人は、しかし口を滑らせてそんな話題を選ぶことはない。
 北さんは、誠実な人や。信頼しとる家族のことを他人の俺に伝えるっちゅうんは、よほどの心持ちやったはず。
……北さん、緊張してるん?」
 ゆっくりグラスを傾けた後、沈黙。さっきまで喋っとったのが嘘みたい。雄弁に語るのは目の奥の揺らぎ。まるでちりちりとざわめく鈴が鳴るみたいで。
 窓から見える雪景色は、ここらで珍しいことやった。朝の天気予報でもリポーターが小さい雪だるまを作っとって、要はそんなんが作れるぐらい、積もりますよっちゅうことやった。今朝はまだ目の前のこの人も「そうかあそんなに積もるんか」って言うてただけやったのに。今みたいにしろくてまるい頬の輪郭がそん時は引き締まっとって、仕事前の北さんやった。
 それが帰ってきて、一本、二本と酒を開けるごとに外側は緩んでいくのがわかる。でも、北さんの内側はずっとびしっと固まったままやった。
 明日、俺らは挨拶に行く。
「なあ、治の手はなぁ」
 北さんが続ける言葉には、すでに酒混じりのまろみと温さがある。緊張をほぐすのに、酒の勢いを借りんといけない時がこの人にもあるんやなと思うと、体があつくなる。明日、挨拶に行くほど俺とのこと、真剣に考えてくれとる証拠やし、前日にこんなに気ぃ張ってんのを、俺に気づかれとうないから強がっとる。そんなん、愛おしい以外ないやろ。
「聞いとるか?」
「はい、聞いてますよ」
「うん、あのなあ、治の手は」
 デレデレしながら俺は先を促すために頷く。俺の手を、ぎゅっと取りながら北さんはぎこちなく笑った。
「ふせいじつなこと、いっぱい、してきたやろ」
 どきりと心臓が跳ねる。中学、高校と、それはそれはだらしない俺と双子の片割れの遍歴。もちろん、女性の。
 北さん、やっぱり知っとったんか。だらだら流れる冷や汗は、酒も入っとるからいつもより余計に出とる。この人に今更、しかもこのタイミングで嘘はあかん。
 正直に、でも短小に「……はい」と消え入りそうな俺の声は、もう恥ずかしくて過去を消したくてたまらんのが丸わかりやった。
「姉ちゃんはな、中学の始めの頃、初めて付き合った先輩が、おって」
 北さんが紡ぐ思い出話は、俺に一見関わりないことのように感じたけど、
「だんだん、不誠実になってったから、こっぴどく振ったんやと」
 ……どこか含まれとる、俺への圧力だった。
 いやや、ギクッとさせんといて。何を言い出すん、これ以上。ドキドキしながら恐る恐る北さんを見たら、ふふと笑うのが聞こえる。
「でも、なあ、この手がな、ふふふ」
 俺の手を撫でながらなおもおかしそうに肩を揺する北さんに、俺は意地の悪いところを見た。
 ああ、最初に話しとったお姉さんの、してやったりの顔はきっとこんなんやろな。
「俺に触る時、何であんなに震えとん? 何でそんなに大事にしてくれるん?」
 北さんの顔は、もうほどけてほどけて、今までで一番緩んどる顔しとった。
 あんた、さっきまで緊張しとったんやないの? ご家族に俺を会わすのに、慣れへんビールでごまかしとったやろ?
 それなのにもうほら、こんなに明け透けにしとって。
 何でそんな、無防備に側にいてくれるん? あんたにだけは誠実におろうと決めた、元不誠実のかたまりの横に。
 俺もだんだん前のめりになって、北さんのさらなる追撃に備える。
「男やから? 先輩やから?」
「好きやからに、決まっとるやろ」
 食い気味に言葉を被せると、また北さんは嬉しそうに俺を見る。
「きっとおんなじこと、姉ちゃんに聞かれんで。誠実であれって呪いみたいに聞かされとった弟も、聞くかもな。男同士で気ぃ合って、珍しいから付き合うてるだけやろ、って」
 北さんは口の端を吊り上げる。ニカッという効果音のよく似合う、爽やかな笑いやった。
「そん時も、お前なら、そやってズバッと言うてくれるって、信じとる」
 握られ続けてた手を頬へ擦り寄せて、北さんは目を輝かせた。さっきまで不安に揺れて鳴っとった怯えはもうない。積もった雪まで溶かしてしまいそうな熱量のある瞳は、出会った時から変わらん。
 ……思えば、北さんと初めて会うた時から、オンナノコと遊ばんくなってったなあ。あの時はバレんように、こそこそしとって、でもだんだん、後ろめたくなってやめて。気づけばあんなに考えとったすけべなことも、もう何週間も忘れるくらいにバレーと将来の夢に向かっとった。その先に、北さんがおって。夢の一端を生産者として担ってくれるって知った時は両手を挙げて喜んで。
 もう、遅かったんよな。とっくの昔に惚れとる、この人に俺は初めて会うた時から惚れとったんや、ってやっと叫び出したくなって、あの日はこんな寒空の下を駆け出しとったっけ。おかんにアホかって怒られたわ。
 冬の空気の真下、キンキンと冷える中で走って、北さんが好きや、めっちゃめちゃ好きや、て心臓潰すくらいに想ったあの日から、俺の気持ちは一度たりとも変っとらん。
「いつまでもずっと、信じさせてみせます」
 そのサラサラの細いのに量の多い髪をドライヤーで乾かす前も、布団で眠る北さんをまたいで寒くなってきた部屋のストーブをつけにいく最中も、抱いたあんたに動かんでもらって丁寧に体を拭いた後も。
 どんなに面倒で辛いことがあっても、あんたのことを思ったらすぐに背筋がシャンとなる。それはちゃんとやらな、という以外に、もう一つ芽生えた愛のおかげ。
 あんたに、かっこわるいとこ見せたくないっちゅう、不格好な俺の精一杯の意地。
「北さんの手、俺好きです。まるっこくて、あったかいから」
「何やそれ、赤ん坊みたいな」
 握られとった手の指に、するりと俺の指を滑らせた。節々まで温まる。そこを、かぷっと噛んでやると、酒のせいもあるから簡単に北さんは赤くなる。
……ふせいじつなこと、するん?」
 誠実、とは、まじめで真心のあること、やから、
「こんな夜更かしで酒も飲んで、下心もありますけど、大事にしとんのは変わらんです」
 そう言って強請ると、北さんは、はっと笑ってごろんと横になる。
「明日もあるし、ほどほどにな」
「ありがとう、北さん、愛しとる」
「そんなん、言葉やのうて、行動で示せ」
 むず痒いわ、と照れて笑う北さんの、厚手のニットの中にするりと指を差し入れた。さっき確認したこの人の手と同じくやっぱりあったかい体に触れられて、俺は嬉しさに震えた。