夢のような、これから

pixivから再掲
治と北さんの馴れ初めのお話。高校時代から大人になるまで、忙しい青春を駆け抜けた二人が惹かれあい、大人になってようやく気持ちを確かめ合う話です。
北→侑と治が思い込んでいる描写や、侑に彼女がいる設定、大耳さんの元カノの話が出てきますので、苦手な方はご注意ください。
当初の設定では大耳さんに恋愛指南を受けている北さんって話にしたかったんですけど、その設定はたち消えて、カケラだけ残ってます。




 朝日が差し込んで、目を開けると、狭い一人用の布団には俺しか眠っていなかった。北さんの姿はやっぱりない。そばには畳まれたタオルと、俺が昨日脱いだ服が置いてある。
 ひどいことに、欲求を盛大にぶちまけたおかげか、体は酒が抜けていないというのにみょうにスッキリしていた。
 けれど心は沈んでいる。酒を飲みすぎて言いたいことだけ言い募って、北さんに迷惑をかけた。ぐらぐらと足元がおぼつかなくて、俺は頭を抱える。
 ふと、古いワンルームの床がぎしりと鳴った。北さんがまだいるのかと思って顔をガバリと上げたが、外の風の音だった。胸がぎゅうぎゅう締めつけられる。
 もしも北さんが今、ここにいたとして、なにを話せた? 最低だった自分のことか? アホみたいに縋った自分の反省か?
 蘇るのは、真夜中に静かに息を殺して抱いた北さんの背中だ。まっすぐな背骨と、ぼんやりと白く浮かぶ皮膚と、声を抑えてうめく顔。壁がうすいから、隣の部屋に聞かれないようにひそやかに行われたセックスもどき。
(もどきや、あんなん)
 挿入はしなかった。当たり前だ。二人で抜き合って、体を重ねて太ももで挟んでもらって、まるでセックスだった。どこもかしこも舐めて、口でも咥えた。苦いのも飲んだ。北さんは「吐け」って赤い顔で言ってて、俺は「もう飲みました」って言う。その口に北さんがキスをして、「まずい」ってすぐに離れた。笑うけど、目はずっと俺を見ていた。暗がりでこっちを見ている北さんは、なにを言いたかったんだろう。
(なんで俺、寝てしまったんや)
 あれがきっと人生で最後の、北さんとの交わりだろう。だって北さんは、きっと拒絶する。昨日は自分が酔いが回りすぎて昏睡したから聞けなかったけど、この二日酔いでガンガンとした頭に、叩きつけるように「すまん」という北さんの台詞が降ってくると思うと、恐ろしかった。
 今思えば、カードケースのお祝いも、いろんな人と関わっていく中でいい出会いもあるだろうし……っていうあの人なりの配慮なんじゃないだろうか。
(んなわけあるか。北さんならはっきり言うわ)
 どうも思考が卑屈になることしかできなくて、奥歯を噛み締める。
 けれどそうでもしないとやるせなくて、怖くて、仕方ない、とも思う。
……みっともな」
 そうつぶやいていたら。
 ──スマホが鳴った。鳴らないと思っていたのに鳴った。通知が一件、と画面に表れる。
 心臓が跳ねる。全身が震えた。緊張が走り、平べったいただの機械を持ち上げるだけなのに、とてつもない勇気がいった。人差し指で画面をタップする。人生で何度も当たり前のようにやってきたこの行動さえ、息を飲んだ。
 律儀で丁寧で、真面目な北さんからのメッセージだった。こんなときまでその丁寧さを出さなくてもいいのに、とちょっとだけ恨めしく思う。そんなあの人からのメッセージの始まりは、いつも見慣れた『おはよう』からだった。
『体、平気か。冷蔵庫に飲み物入ってるから』
 え、と思わず口にして、痛む頭を抑えながら起き上がる。本当だ。背の低い単身者用の冷蔵庫の中に三分の一ほど、すぐに食べられそうなものが詰まっている。
『すんません、ありがとうございます』
 メッセージは既読にならない。きっともう仕事に行ったんだろう。北さんだって同じくらいの量を飲んでいた気がするけど、タフだなと感心してしまう。
 俺がスマホをテーブルに置こうとすると、もう一度通知音が鳴った。慌てて画面を見ると、メッセージが既読になっていて、その下にたった一行のメッセージが付け足されている。
『納品の日、話すことあるから』
 俺はここから、眠れぬ三日間を過ごす。

 ◇

 店の中はだいぶ片付いた。新品の厨房がまぶしくて、嬉しくて、写真を撮る。のれんも、引き戸も、シャッターも、ばっちり確認済み。開店の直前ギリギリまで店の準備に追われるなんていうのは、したくなかった。ちゃんとやれば、ちゃんと終わる。前もっていろいろと終わらせておきたかった。ここまでは計画通りに進んだ運営も、客が入ればどんなことがあるかわからないから。
 厨房の一角に小スペースがある。カレンダーと、予約表と、自分が休憩を取れるわずかな場所だ。そこに体を預けて座ると、張り詰めていた肩や首が固まっているのがわかった。あの日ジョギングをして以来、健康的な体の動かし方はしていない。手と足を伸ばして、天井を見上げる。
 居抜きで譲り受けた店舗は、まだ新しい壁紙に張り替えたばかりで、すぐに前の持ち主が退去してしまったらしい。理由はあまりよろしくないんだとか。それでもここに決めたのは、立地の良さと規模にある。地域住民の目に止まりやすい場所柄と、自分がある程度目を配りやすい座席の位置関係。
(なにより、俺みたいなデカい体でも厨房が広く使えるし)
 気に入っている厨房をもう一度眺めて、満足してうなずいた。そうすると、少しだけ緊張の糸が切れる。作業のために開け放った勝手口から入る隙間風が、体に心地良かった。
 冬の匂いがする。あまり雪を見たことはないが、あの冷たい雪の断片から香ってくるような。しゃくしゃくと足で踏み鳴らす、道路の端に積まれた雪から、漂うような。

 俺はなんとなく、勝手口の方を向いた。まだ約束の時間よりは早いけど、あの人が来る気がした。そして案の定、足音がだんだん近づいてくる。
 外の空気を巻き込んで、ひょこっと銀髪が現れた。
「納品、来たで」
 やわらかなトーンで北さんが言い、米袋をいくつか担いでやってくる。ずしりと重たそうな袋を簡単に所定の位置に降ろすと、軽トラへまた戻ろうとする。
「手伝います」
「ええよ、疲れとるやろ」
 北さんは邪険にするわけでもなく、あっさりと言って外へ出た。汚れの少ない作業着は、それでもずいぶん着こんでいるのか袖がほつれているところもある。きっとあの服も、一日の作業を終えたら北さんの手で丁寧に洗われているんだろう。
「これで全部や。伝票、そこに置いた」
「はい、ありがとうございます」
 初めての納品だった。初めて、北さんの米が本格的にここに積まれて仕入れられる。その前にもいくつか試験的に使わせてもらったことはあったけれど、ついにこれを客に提供する日が近づいていると思うと、背筋がしゃんとなる。
……北さん、」
 なんや、とも言わず、北さんは首だけをこちらにかたむけた。わずかに揺れる瞳孔が見える。
「飯、食うてって。……話は、それからでもええでしょ?」
 俺は、自分に猶予をもらいたくてそう話す。もしも拒絶されるのなら、まだ少し心の準備の時間が欲しい。
……ええよ」
 たっぷり間を開けて、北さんは了承してくれた。
 杉の木の一枚板を使ったカウンターに北さんが座る。なめらかな木目に手を添わせ、感触を楽しんでから北さんは腕を組んだ。飯を待つとき、北さんは必ずこうする。いつか、一緒に飯を食いに行ったときもそうだった。あのときは浮かれていて、デートってやつやないか、と思っていた。今でも鮮明に覚えている、だって今でも好きだから。思い出は美化する、と誰かは言うけど、なんぼでも美化したらええと思う。俺はそれぐらい、北さんとのあのひとときを大事に生きてきた。
 試食用にあらかじめ渡されていた北さん家の米を、丁寧に握る。力がこもりそうになるのを懸命に抑える。何も入らない塩むすびができた。海苔をまく。
……治」
 一つ、おにぎりが皿の上に乗っかったタイミングで、北さんが話しかけてくる。俺は目だけを向けて返事をした。
「目の下、クマができとる」
 それは、あんたが。
 言いかけて、口をつぐんだ。代わりの言葉を探して、告げる。
……準備、忙しかったんで」
「そうか」
 うっすらと目を細めて、北さんが少し目線を下げた。俺は揺れるまつげを見つめて、二個目のおにぎりを握る手を一旦止める。
……うそです。忙しかったんはほんまやけど、今日のこと……考えとって」
 そう言って、ふたたびおにぎりを握る。ふっくらした米が粒だって、中に押し込む具を受け入れる。細かくきざんだ梅と大葉。北さんが好きそうやな、となんとなく思った具材。北さんはそれを、何気なく眺めて返事をする。
「俺の話、聞いてくれるか」
 静かな口調で、しかしこの店内に凛として響くはっきりとした言い方は、俺にとっては絶対だった。だからうなずいて、北さんの次の言葉を待つ。
……一回だけ、練にな、」
 突然聞き覚えのある名前が登場して、俺は目を開く。北さんは構わず続けた。
「好きになったやつがおる、って言ってん。高校のころ」
 ──ツムのことや。
 俺はぎゅっと下唇を噛んだ。
「高校三年になって、これからってときに浮かれてられへんから、練に言って気持ちの整理して終わりたかったんやけど。練に、気持ち伝えへんのか? って言われてな」
 やかんから湯を出して、茶を注ぐ。北さんのまえにことりと置いた。
「気持ちを伝えるってこともあるんや、って思ってな。でも迷惑やろうし、男やし、俺はこのまま、好きってだけでええかな。って返した」
 茶を一口すすって、息を吐く。温かさがしみたのか、北さんの表情がやわらかくなった。
 そこから、茶が潤滑になったかのように、北さんはするすると淀みなく話し出した。

 ──練が、信介がそれでええんやったらなんも言わんけど。ってみょうにチラチラこっち見ながら言うからな。俺、笑ってしまってん。気にしてくれとるんやな、って。
 やから、一応聞いた。告白したことあるんか? って。もししたことあるんやったら、どうやったか教えてほしいしな。
 練は……一回だけ、したことがあるらしい。中学のころ、付き合った彼女に。幸せやったって言うてた。別れたのも、嫌いとかでなく、ただ高校が離れるからってだけの理由。それでもときどき連絡するんやって。もしかしたら、よりを戻したっていいのかもって思うタイミングもあるかもしれへんし、そのとき相手も同じ気持ちやったら、またやり直せばいい。って言うてな。
 俺は、相手とははっきりキッパリ向き合うのんが大事やと思っとったけど、それはあくまで先輩後輩の関係だとか友達との間で、恋愛に関しては違うんやな、って知った。好き、と、付き合う、との間には、いろんな複雑な関係があるもんやな。って知ったんや。
 やから俺も、無理して告白することはないし、どうせ一度好きになったら、俺のことやからずっと好きやと思うから、気長に待っとこうって決めると気が楽になってな。
 ……でもそいつと話すとな、用意されたみたいに、道ができてるねん。将来進む道は微妙に違うのに、一緒にやりましょう、って言うてくれるし。トントン拍子で話は見えて、そのあと出かけたりもしてな。
 練の言う幸せっちゅうのが、わかった気がした。わざわざ恋人にならんくても、繋がっとるってだけで、幸せやってん。
 卒業しても、なにかあっても、こいつとは続いていけるってことに満足しててな。きっと相手も、同じ思いなんちゃうか、って慢心もしてて。好きって伝えることに特に執着してへんかったんやけど……ちょっと、後悔もしとる。
 そいつが、えらく苦しそうな顔しとんねん。俺のこと、好きやって言いながら。
 ああ俺は間違ったんやな、ってそんときわかった。そこはいつもの俺らしく、はっきりせなあかんとこやった。
 追い詰めてしまってた、お前のこと。やから、ちゃんと言いたかった。
 俺はずっとお前んこと好きやったよ。……遅うなって、ほんまにごめんな。

 北さんは、ひと呼吸おいてもう一度俺を真正面から見つめた。
「治、気づいてくれてありがとうな」
 俺は鼻をすすった。嬉しさと、長い時間気づいていなかった俺へのいらだちに、ぐしゃぐしゃと袖で目をこする。
「俺、てっきり、あんたはツムが好きなんやと思っとった」
 キョトンとした顔をして、目の前の人は口元を歪ませた。
「侑か、チームとして気にはかけとったけど……そうか、そう見えとったんやなあ」
「はい」
「やから、お前が好きって言ってくれたとき、あんな切羽詰まってたん?」
…………はい」
 俺の真っ赤になっただろう目元を見て、北さんはおかしそうに笑った。そして、できたてのおにぎりに口をつける。
「うまいなあ、治のおにぎり」
 単純な感想なのに、めいっぱいの幸せと感謝を感じて、涙のせいで大事な人のすがたすらふやけて見えてしまっていた。北さんはハンカチを出してくれて、俺の顔を拭く。
「作り、ます。北さん、なんぼでも。あんたのためなら」
「うん」
「一生、作らせて」
「うん……一生うまいって言い続けるわ」
 俺は北さんに近づくためにカウンターを抜け出して、足元に置いてあった掃除用のバケツを蹴ってしまう。中にはなにも入ってはいなかったが、俺にはこれまで自分の中に溜め込んできた重しの砂が、ざらざら流れて土に還っていくように見えた。底に残ったこの人への想いが溢れてたまらない。ガラガラとみっともなく派手な音を鳴らしながらも、俺は北さんを抱きしめた。
 力を込めても、同じくらいの力で返してくれる。涙で北さんの肩口が濡れた。でも俺の服の鎖骨あたりも心なしか、温かい水滴で濡れた気がする。体を離すころには、きっと俺もこの人も、目を腫らしている。

 この日以来、冬の匂いを嗅ぐといつも少し気恥ずかしくなる。その感覚はまるで、昼寝のときに見る浮ついた夢みたいだった。
 けれどこの気持ちは、一生忘れないでおこうと決める。