夢のような、これから

pixivから再掲
治と北さんの馴れ初めのお話。高校時代から大人になるまで、忙しい青春を駆け抜けた二人が惹かれあい、大人になってようやく気持ちを確かめ合う話です。
北→侑と治が思い込んでいる描写や、侑に彼女がいる設定、大耳さんの元カノの話が出てきますので、苦手な方はご注意ください。
当初の設定では大耳さんに恋愛指南を受けている北さんって話にしたかったんですけど、その設定はたち消えて、カケラだけ残ってます。




 帰ってから夜、おやすみ、を何気なく送り合った。次の日も、おはようとおやすみを送った。その日一日は、気持ちが高揚して落ち着かなかった。
 さらに翌日の朝も、みょうに目が冴えて早起きをする。使われなくなった二段ベッドの片方を解体して自分のベッドにしているが、足先がもうすぐ出てしまいそうだ。幸いこれから暑くなるから、まだ大丈夫だけれど、冬になると寒いんよな、と思いながらスマホをゴソゴソ枕の横から引き出した。
(さすがに二日連続では来ない……か?)
 どきどきする心臓を押さえながら、画面を開くと通知が一件ある。ぶっきらぼうな「おはよう」の一文字は、昨日とまるで変わらないはずなのに。
「うわー……
 思わず声を出した。起き上がるよりも、寝返りをうって体勢を変えるよりも先に、スマホをタップして返事をかえした。
『おはようございます。毎日早いですね』
『おん、これから掃除すんねん』
 絵文字も、スタンプもない、短い状況報告だけ。北さんはたぶん、これ以降もうスマホは見ないだろう。このあとに部屋や居間を掃除して、身支度をしてから朝食をとる。そして高校へ向かうから、次に画面を覗けるのは電車の中だろうか。
 俺にしてはえらく早起きな二日目を、オカンはびっくりして見ていた。
「あんたそんな早く起きれるんやったら、もっとまえからちゃんと起きてや。毎回起こしにいくん大変なんやから」
 はあ、と見せつけるようなため息をつきながら、オカンは侑の部屋をわざと強めにノックする。掃除機をかけるついでのノックだ。こうして片割れは慌ただしく起きてくる。
 オカンより先に階段を降りて、飯の用意ができている食卓へ座る。腹持ちのいい米をよそい、いただきますと小さく告げた。オカンの作る飯は相変わらず、うまいけど味が濃い。飯がはかどる。

 家を出るころ、太陽は雲と同化して穏やかに光っていた。俺は朝練の時間に、昨日から余裕を持って着くようになった。北さんのおはよう、のおかげ。
 先に角名が部室にいた。磨かれたボールとベンチの横に立っていて、着替えを済ませている。
「治、二日続けて? なんかあった?」
「別になんも。朝やりたいことちょっと増えてん」
「へえ、メニュー増やしたんだ」
 ずず、と飲み物の入ったストローをすすりながら、角名は笑いもせずにつぶやいた。
 メニューを増やしたのは本当だ。今年度のインターハイ、もっときっちり精度を上げていきたいから。一昨日北さんと大耳さんに相談して、一人で練習のできる朝に仕上がるように調整した。
 だから決して、やましいことがあるわけじゃない。
 シューズを結んで着替えも終えて、角名と二人で廊下を歩く。錆びた柵のついた、短い廊下だ。体育館まで数メートル。だんだんボールの音が聞こえてくる。
 まるで俺の脈に沿うように、何度も打ちつけられる白いボール。心臓がひとつ鳴ると、ボールも床を打つ。規則正しい音は、やっぱり北さんそのものを表しているようだった。
「おはようございます」
 体育館の扉を開けて挨拶をすれば、少し汗をかいた銀色の頭がくるりとこっちを振り返る。
「おん、二人ともおはよう」
 床はモップがけが終わっている。自分たちの顔がワックスがけされている木目に映った。角名は体育館の端にタオルを置いて、アップを始める。同じように、横で俺も柔軟をしながら、北さんの後ろすがたを眺めていた。
 こんな調子の日々が北さんの卒業まで続く。
 昼間はつとめてなにもない、ただのチームメイトとして。朝と夜はおはようとおやすみのそれだけ。ときどき、思い出したように世間話も含む。そうするとメッセージは長くなり、寝る時間が少し遅れる。それを翌朝に本人におはようと共に伝えれば、呆れながらも「俺もや」と言う。
 朝練で眺める姿と、同じ人物がやりとりをしているとは思えないし、周りも気づいていない。
(でも、それでいいんや)
 俺の脳裏にはいつもあの女の子の影がチラつく。以前、北さんに勇気を出して告白したあの子。あんな風に北さんを欲しがっている子はいっぱいいるだろう。北さんはそんなことない、って笑うかもしれないけど、俺ははっきりそんなことある、って言う。
(だって俺も、惚れとるんやから)
 自分の内側にたまる感情は、捨てよう捨てようと思っても、心のどこかでまた拾って戻ってくる。バケツの底にははっきりと、それは恋だと書いてあった。嬉しいような、苦しいような。
 失恋の決まっている思いを無闇にさらけ出すほど、俺は頑丈にできていない。だから自分の気持ちに砂をかけてごまかしていた。
 サラサラとゆっくり流れる砂は、俺を満たして重くなる。この重しは時間が経てば薄れるだろうか。
(無理やな)
 はっきりわかる。自分はずいぶん気が長い方だ。侑との喧嘩や口答えに関してはすぐにキレるが、それ以外は大体なんでものんびりできる。
(いつか北さんが、誰かと籍を入れるとき。それか侑への思いを昇華できたとき。侑が応えることもあるかもしれへん、そんなとき、)
 自分の心は閉まっておかなくちゃならない。重しを延々と乗せたまま。
 だからせめておはようとおやすみぐらいは、許してほしい。

 ◇

 何十回目のおはようとおやすみを経て、卒業の日がきても、北さんは変わらずにメッセージを送り続けてくれた。そして俺もきちんと返した。それが今ではもう、当たり前になった。
 専門学校へ行き、仲間内で夜遅くまで、次に発表する試作をどう作ろうか悩んでるときも、
『遅くまでお疲れさん、おやすみ』
 ときたら、そっとメンバーの中を抜け出して返信をして、気合を入れ直した。
 成果発表の打ち上げが朝まで続いて、クタクタになった体に鞭を打ってシャワーを浴びた朝帰りの日も、
『おはよう、きっと酒抜けてへんやろ』
 と図星を刺されて頬をかきながら、返事をかえす。
『おはようございます。抜けてないどころか、今まで飲んでました』
『ようやるわ』
 まるで北さんがそこに立って、クスクス笑っているような気がした。
 侑が試合に出る日は、朝からメッセージを送るのに緊張した。今でもあいつのこと好きですか、と裏側で問いかけながら、
『おはようございます。いよいよ今日あいつ出ます』
 と言い、
『おはよう、おん、録画しとく』
 と言われ。
 専門学校の卒業式前日に、珍しく写真を送った。スーツ姿の俺を見て、
『似合っとる、それ以上太らんようにな。お前のサイズやと、買い直すの大変やろうから。おやすみ』
 とオカンと同じことを言っていた。
 俺の中のどろどろとした重苦しい砂はもうとっくに溢れていて、全身を巡っている。感じのいい女の子も、付き合おうと言ってきた子もいて、その子たちの後頭部や、耳元や、肩の細さを見るたびに、北さんを思い出す。
 もっと丸い頭をしてたなあ、とか、ピアスなんて一個も似合わんやろな、とか、今はもう大学の実習と農作業で肩周り筋肉ついとるやろうなあ、とか。
 北さん。今でも、ツムのこと好きですか。作業と作業の合間にたまに送ってくれる写真は、あいつにも送ってますか。録画の試合を見て、どんな気持ちでいますか。

 北さんに、もうすぐ会えると知ったのは、アランくんにOB会の話を聞いたときだった。
『お前の店の、開店祝いも兼ねてやるから』
 内装が半分ぐらいできてきた未来の自店舗のまえで、そうメッセージをもらった。その日の夜も、いつものようにおやすみがきた。
『今度、OB会で会えるの楽しみにしてます。おやすみなさい』
 いつもなら、ここで既読がついて終わるはずのやりとりは、珍しく北さんが終わらせなかった。
『お祝い、なにがいい?』
 カラカラに潰れそうな喉奥から、叫んでしまいたかった。「あんたがいい」と直接通話をして、北さんに注ぎたかった。
 北さん、北さんが欲しい。
『なんでもいいですよ、もらえるもんはなんでももらいます』
 早足で打った文章はろくに漢字も使わなかった。取り繕うのに必死だった。打ち終えた指先は、仰向けになってスマホを眺めている俺の顔に落ちる。やけに冷たい体温が目の下あたりに感じた。
 何秒か、何分か、待っても既読以外の反応はつかない。一度メッセージアプリから抜け出し、ふたたび起動して見てみるも、なんの変化もなかった。
 そのうち、手元が滑って顔面にスマホが落ちてくる。
「いった……!」
 額と鼻の頭をしたたかに打って、目尻にじわりと涙が滲んだ。グズと鼻をすする音をさせ、一人暮らしの八畳ワンルームの端に敷いた布団の中で、布団を被って丸くなった。