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【再録】このすばらしき世界

2024年1月に発行した書き下ろし本。
どこかにいるかもしれないし、いないかもしれない普賢さんと、それを探す伏羲の話です。5本の短編のオムニバス。無配ペーパーにつけた外伝、あとがきもまとめて再録しています。表紙イラストにはノヒト様をお迎えしました。ありがとうございました!

「大丈夫、信じますよ」



エンドレス


ビルの壁の巨大なモニターに、一枚の絵画が映し出されていた。
華やかな街に似つかわしくない、素朴な絵だった。描かれているのは、夕暮れの麦畑で祈る農家の夫婦。近くの美術館で展示されていると、すこし前から話題になっていて、初めて海外から運ばれたその絵の前に、連日人だかりができるとニュースで見た覚えがある。
一人の女性が瞬きも忘れて見上げていた。
この絵が好きなのか、思い入れがあるのか。つられるように隣に立ち、収穫と一日の終わりに感謝をささげる絵を見上げた。

絵を描いたのは四百年ほど前の画家で、ごく普通の働く人の姿を題材にした作品で知られる。農作業の手を休めて空を見上げる人。家に帰って子を抱き上げる人。質素な食卓に小さな灯りが点る夜。
貧しい生活の中、独学で絵を学んだ画家にとって、それらがいちばん身近なモチーフであったのだろうが、同時に、彼が考えるもっとも美しい風景だったにちがいない。何百年を経ていても、なんでもない日常のワンシーンから、静かな息づかいや日々の会話が聞こえそうだった。

「奇跡だと言ったら笑いますか」
女性がぽつりと呟いた。こちらに話しかけるというよりは、心にあふれたものがこぼれ出たという感じだった。
「昔、美術の教科書で見て、覚えてたんです。展覧会があると聞いて、絶対に来るつもりだったけど、間に合わなかった。最終日は早く終わっちゃうんですね」
小走りで駅に向かい、改札を抜け、階段を駆け上がった。息を切らしてエントランスに向かった、それなのに無常にも「本日は閉館しました」の札が下げられた。
肩で息をしながら立ち尽くしていると、警備員が「最終日は閉館が一時間早いんですよ」と頭を下げる。
もっと早くに来るべきだった。大好きな絵を見られるチャンスだったのに。
呆然としていたのがよほど哀れに見えたのか、警備員は遠慮がちにつけ加えた。
「せっかく来てくれたのに申し訳ないですが、決まりなので。どこかでおいしいものでも食べて行かれては。あっちにおいしいイタリアンがありますよ」
帰る気にもなれず、かといって行くあてもなく、彼が指差したほうへふらふらと足を向けた。街は冬のイルミネーションがキラキラして、見上げる人たちはみな楽しそうで、自分だけどうしようもなく情けなくて、涙がこぼれそうだった、だから慌てて顔を上げた。そうしたら、
「この絵が、目の前に。奇跡じゃないかって思った。だれかがここに私を来させて、見せてくれたんじゃないかって」
広告宣伝に使われるモニターには、普段、人気アーティストの新曲のプロモーションや、話題の映画の予告編などが映される。人の目に触れやすい繁華街に、会期が過ぎた絵画展の宣伝が流れているのは、おそらく業者の設定ミスか、機材トラブルか何かだ。
「もちろん実物じゃないのはわかってる、だけど、神様がこっそり計らってくださったみたいに思えて、もちろん普段は神様なんて信じてないんだけど、何ていうか、うまく言えないけど」
「大丈夫。信じますよ」
まだ半信半疑の女性に笑いかけた。
よくある偶然だし、ほとんどの人には気づかれない。でもこれは、だれかが彼女のために、小さなパズルのピースをはめたのだ。
「見えぬものを信じろというつもりはないですが、それでもだれかが奇跡だと信じるものに水を差すほど野暮ではない。あなたがそう信じるなら、きっとそこに神様がいるのです」

ご好運を。それだけ言って一礼した。
ささやかな奇跡が、こうして続いていく。