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【再録】このすばらしき世界

2024年1月に発行した書き下ろし本。
どこかにいるかもしれないし、いないかもしれない普賢さんと、それを探す伏羲の話です。5本の短編のオムニバス。無配ペーパーにつけた外伝、あとがきもまとめて再録しています。表紙イラストにはノヒト様をお迎えしました。ありがとうございました!

「大丈夫、信じますよ」



旅の途中


目の前で信号が赤になって、立ち止まった。
朝も夕も人通りが途切れることのない、大きな街のスクランブル交差点だった。同じように赤に足止めされた人々は、思い思いに連れ立った人と話をはじめたり、時計に目をやったり、せわしなく横切る車を眺めたりしている。
四方八方から耳に入るのは、なんでもない普段の会話だ。——これからどこにご飯を食べに行こうか相談する声、クライアントとの待ち合わせに遅れそうで電話で謝罪する声。昨日見た配信のダンスチームがかっこよかったこと、部活の先輩が学校をずる休みしたのを偶然見てしまったこと。
人ごみにいるときほど人は、自分の話などだれも聞いていないと考えてしまうらしい。面と向かっては言えない、でもそれほど重要ではない会話で、信号待ちの交差点はガヤガヤとにぎやかしかった。

そろそろ青信号になるタイミングで、横断歩道の先を見た。白い縞の向こう側にも同じように信号を待つ人が大勢いて、だれもが思い思いに笑い合ったり、考え事をしたり、待ちきれずそわそわしたりしていた。一つひとつの声に、一人ひとりの暮らしと人生、だれかとのかかわりや、大切なものや悲しみや別れがあるのだけれど、こうして信号待ちをしている間は、だれもが当たり前みたいに、信号の先に今の時間が続くと信じている。頭上にそびえるビル群とその向こうの青空を、見るともなく見やり、もういちど信号の向こう側に目をやったとき、
——————
はっと息を飲んだ。
「彼」がいる。人混みに紛れていて、姿ははっきりとは見えない、でも、確かにそこにいて、信号待ちをしている。
瞬間、虫の羽音のようなささやかな気配がして、周囲の音が一瞬でかき消えた。
彼もこちらに気づいたのだ。

「久しぶり。元気そうだね」
人の声や車のクラクションでにぎやかしいはずなのに、ヘッドホン越しのようにクリアにその声だけが耳元に囁く。ゆっくりと波長が合う、そんな感覚だった。
「おぬしも。ほんとうに久しぶりだ」
ため息まじりに応えると、くすりと笑うのが聞こえた。これはとても機嫌がいいときの笑いかただ、覚えている。
「ずいぶんと忙しそうではないか」
「うん。とても忙しいんだ」
「そうであろうとも。わしもとうとう今の今までおぬしを見つけられずにいる」
「だって、やることがとても多くて」
一日たりとも忘れたことのないあかるい声に、深くため息を吐いた。どうしようもなくおかしくて、腹立たしかったからだ。

何十年、何百年、何千年と時が流れ、幾千、幾万の人とすれ違った。時代が移り、幾度も国が興り、滅びても、人はいつもたくましく営みを築いていて、その都度、新しい国にも、沈みそうな国にも、旅人みたいな顔で入っていくのが好きだった。
歓待されることも、追い出されることもあった。受け入れてもらえたときには、酒を酌み交わしながら、いつの時代にも通じる愚痴や泣き言や、のろけや悩みに、耳を傾け、膝を打ち、酔いつぶれて朝を迎える。
なんだ、人であったころとあまり変わらんのう。
そう思いたかったけれど、だれもが自分よりずっと早く年を取り、あちらに渡ってしまうことに、少なからず打ちのめされたし、これが永劫続くのかと、かるく絶望もした。
それでも人と交わることをやめられなかった。
空を駆け、海をわたり、この星を何周したかわからなくなったころ、あることに気づいた。
けっして長くない一生のうちに「奇跡」を経験する者が一定数いる。
正確には「それを奇跡だと信じる者」だ。彼らは、あれはきっと神様が、天使が助けてくれたのだ、そうに違いない、と口にした。
「神なんて、そんなにたいそうな奇跡は起こせぬであろうに」
酔った勢いでそううそぶくと、酒屋で隣り合って同じように手酌で酒を注いでいた男は腹を抱えて笑った。
「そりゃあ、神様だっていろいろだ。不器用なお方もいらっしゃるだろうよ」
不器用な神様。心当たりがあった。
もしかしたらこれは、長らく会っていない古い友人が、どこかで人々の人生にかかわっている残像ではないだろうか。
大きく影響することは許されていないから、そのどれもがささやかなものばかりだ。歴史に残るほどの大事件など、たいていの人には訪れないけれど、だれにでも起こりうるちいさな「奇跡」をさかのぼっていけば、どこで何をしているかわからない人に、たどり着けるかもしれない。
今までのように旅を続けながら、無意識にその気配を探るようになった。
遺跡の土を刷毛で払うような、厚い本に挟まった押し花を探すような注意深さで、だれかの一生の、人と人とのかかわりの中のほんのわずかな片鱗を拾い集める。
追いかけるのは想像以上に大変だった。間違いなく「彼」だと確信してさえ、掴んだ瞬間、煙のように消えてしまう。彼は姿を隠すのが上手だったし、何より、人の一生はとても短い。ときには二世代、三世代を追わなければ、たどり着けないこともあった。
「いろいろ聞きたいことがある。——いったいどれがおぬしだ?」
さあ、と彼は答えた。
「僕は僕でしかないから」
笑いを含んだそれは、はぐらかそうとしているというよりは、ほんとうにただそうとしか答えようがないという口ぶりだった。でも、引き下がるつもりはなかった。
こんどいつ、こんなに近くで話せる日が来るかわからない。何百年、何千年この会話を待ち望んだかしれないのだ。
「では一つずつ聞こうか。青い鉱石を探す絵描きに海を見せたのは? バーを営む女性にカクテルを教えたのは? 曾祖父の話を聞きたかったと願う青年に、どこまでも似かよった他人の話を聞かせたのは?」
彼らはみな「あれは神様のいたずらか気まぐれだ」と信じている。「それにしてはずいぶん強引で無茶な神様だな」と笑ったのは、墓参りに来ていた青年だった。
彼らはみな、何かを願い、同時に、そんな都合のいいことが起こるはずがないと思っていた。
——想像とはすこしちがった形でかなえられるまでは。

「きみは、その人たちの幸運が、僕の仕業だと思っているんだ?」
「そう考えれば、無理やりな奇跡物語も、つじつまが合うからのう」
信号が変わらないのを確かめる。冬のうすい青空に、赤信号はまだこうこうと灯ったままだ。
「そう……僕がカクテルを教えたかもしれない」
かるく息を吐くのが聞こえた。一瞬、空を仰いだのだろう。
「それを天使だと信じていた女性が僕だったかもしれない。彼女が店を託した若い女の子が僕だったかもしれない。絵描きを海に導いた人買いだったかもしれないし、絵描きを家に帰らせないよう仕向けた富豪だったかもしれない。餞別に絵筆を贈った老婆だったかもしれない。老婆に絵筆を授けただれか。遺言を届けた弁護士」
さしずめ、懐かしい歌をぽつりぽつりと口ずさむみたいだった。
「写真の中の曾祖父。墓参りに行けとすすめた父親。どこにだって僕はいたかもしれない。でもそれも全部、単なる偶然だったかもしれない」
「ごまかすでない。彼らの願い事がうまく運ぶよう、わしがほんのすこしだけ関わるように仕向けたのも、おぬしの計らいだったのではないのか」
「楽しかったでしょ?」
「は?」
「きっと彼らを放っておかないと思った。これ以上ないほどの孤独を選んだくせに、本当はだれよりも人とともにありたいはずなんだ、きみは」
横断歩道の向こうで、顔も見えないけれど、きっと彼は今、いたずらっぽく目を細めている。
「みんな生きるのに必死で、神様なんて信じてなくて。どこかで奇跡を疑いながら、でもすこしだけ縋りながら、日々を生きて、生き抜いていた。いいことも、悲しいことも辛いことも、何もかも抱えたまま、ときどき手放したり、わざと取りこぼしたり、それを後悔したりしながらね。そんな一つひとつがとてもいとおしくて、哀しくて、ささやかすぎる願いごとに、僕はただ、耳を傾けていたんだ。何百年も、何千年も」
彼の言葉が、自分がたどってきた時間と重なり合う。
気が遠くなるほどの時を、別々に移ろいながら、もしかしたら同じものを見てきたのかもしれない。
「悲しいね、つらいねって一緒に泣いたり、話を聞いたりするだけ。でも、みんなそれだけで、ちゃんと前を向いて歩き出せるんだよ。僕の力じゃない」
それはそうだろう、と息をついた。
「だが、悲しい、つらい、苦しい、そういうときに、ともに涙を流したり、何も言わず耳を傾けたりする、それだけの存在に、どれほど心救われるかは、わしがいちばん知っておる」
……そうだね。僕も知ってる。だからね、」
すこし間をおいて、彼は続けた。
「どこかの誰かの、一人ひとりの中にある何かであろうと決めたんだ。僕は僕でしかない。不器用な神で、いたずら好きな天使で、心配性な先祖で、おせっかいな隣人で、ときどき寄り添ったり、涙を拭ったり、黙って隣に座って、空を見上げていたりするんだよ」

ほら、もうすぐ青だ。
晴れやかな声を合図に、街の音が次第に戻ってくる。信号が変わり、人が流れはじめた。話したり、笑い合ったり、さざめく中に立ち尽くしたまま、こちらに向かってくる人波と、自分を追い越していくたくさんの背中を見つめた。
そろそろ歩き出さねば。
「ねえ、またどこかで見つけたら声をかけてよ」
あいかわらず、こちらのことはおかまいなしだ。そんなことがどうしようもなくうれしくて、心の中で(エセ聖人め)と悪態をついた。
「声をかけてほしければ、もっとわかりやすく見つかれ。たまには話し相手をしろ」
「あれ。淋しいの?」
「ダアホ。んなわけなかろう」

——きっとね、見えないだけで、僕は、いつだって、きみの、近くに、


波を拾えないラジオが音を手放していくときの、ざらざらしたそれが耳をくすぐって、無音が訪れた。

すれ違った瞬間、ただ風の気配がして、後は雑音に紛れていく。