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【再録】このすばらしき世界

2024年1月に発行した書き下ろし本。
どこかにいるかもしれないし、いないかもしれない普賢さんと、それを探す伏羲の話です。5本の短編のオムニバス。無配ペーパーにつけた外伝、あとがきもまとめて再録しています。表紙イラストにはノヒト様をお迎えしました。ありがとうございました!

「大丈夫、信じますよ」



酔っぱらいの天使


廊下の奥で照明がついたり消えたりしていた。チカチカと目障りだ、そういえば昨日の夜にも、その前の日にも思ったのだ、今日こそは早めに店を閉めて新しい蛍光灯を買いに行こうと。またこんな時間になってしまった。
客のグラスにはまだ七分目ほど水割りが残っている。六人も座れば満席になるカウンターに、一人でいる男は常連で、閉店の時間を三十分過ぎても帰ろうとせず、舐めるように飲んでいる。常連だからこそ「閉店ですから帰ってください」と言えないことを知っているのだ。
看板の電気を消したり、カウンターにまるくついたグラスの水滴を拭いたり、洗ったグラスをしまったり、何となく遠回しに閉店をにおわせてみたが、ちらりと横目で見るだけで立ち上がる気配はない。
「あんたももういい年なんだからさあ、こんな店さっさとたたんで足を洗った方がいいよ」
いつもの無責任なお説教だとわかっていたけれど、「こんな店」のひと言が思った以上に心に重く響いた。せいいっぱいの愛想笑いで頷いたけれど、本当はこういう態度もよくないのだ。「余計なお世話です」と言い返す気力が、針を刺した風船みたいにみるみるしぼんでいく。じわっと視界がぼやけて、慌てて廊下の奥に目を逸らした。チカチカと目障りな明滅が永遠に続くような気がした。
(ねえ、教えて)
心の奥で「その人」に訊ねる。
(私、いつまでここにいなきゃいけない?)

「その人」と出会ったのは二年前だ。駅前の居酒屋でアルバイトをしていた時、客として来ていた彼女にスカウトされた。
「あなた、うちの店で働かない?」
肩より長い髪をいつもきれいに巻き、きまったブランドのスーツを優雅に着こなしていた。駅から徒歩五分ほどの昔ながらの路地裏で、古いバーをほそぼそと続けているという噂だったが、その頃すでに彼女は重い病を患っていて、それでもあちこち飲み歩いては酔いつぶれていた。救急車に乗せられそうになるのをかたく何拒んでいる姿を見かけたことも、一度や二度ではない。
「もうちょっと体を労わればいいのに。何をそんなにやけになってるんだろうね」
バイト先の店長が気の毒そうに嘆いたのを覚えている。いま思えば、あれは必死で跡継ぎを探していたのだ。なぜ自分に声をかけたのかと訊くと、「あなたなら、私が教えたことを簡単に忘れたりしないだろうから」とからりと笑った。
「あなた記憶力いいし、見かけによらず義理がたいでしょ。そういう人になら頼んでもいいかなって」
とはいえ、彼女が教えてくれたのは、レシピ数品とオリジナルカクテル、それだけだ。いずれもメモに書き残すまでもない簡単なものばかり。忘れようがない。
「店なんか、なくなったっていいの。嫌になったらいつだってやめてくれればいい。でもね、」
病床で、天井を見上げながら彼女は言った。
「でも、そのカクテルだけは覚えておいてほしいんだ。いつか飲みに来る人がいたら、出してあげて」
ウオツカやブルー・キュラソーを加えたカクテルを考案したのはしかし、彼女ではないらしい。
「天使に教えてもらったのよ。酔っ払いの天使」
病室の窓から外を見つめて歌うように呟いた。
春には満開になる街路樹の桜は、葉を落として寒々しく、枝の隙間から見えるのは灰色の空ばかりだった。すっかり痩せ、あんなにきれいだった髪も抜けてしまったその人が見るにはあまりにも淋しい景色だった。それでも、冗談めかした横顔はいつも通り凛として美しかった。そう、だれよりも美しい人だった。
息を引き取ったのはそれからすぐあとだ。看取りはできなかった。開店準備をしているときに、弁護士だという男性が訪ねてきて、彼女の死を知らせた。ああ、桜には間に合わなかったんだ、と頭の隅でぼんやり思った。
弁護士は型通りのお悔やみを述べた後、遺言を託されていると告げた。
店の権利を譲ると書いてあり、三年分の賃料とおおよその光熱費はすでに支払い済だということも、その時に聞かされた。そんなに周到に準備をしているなんて寝耳に水で、死んでしまったことよりも衝撃だった。
「三年は続けろということですか」
震える声で訊ねると、男はすこし押し黙ってから「死んだ人のことは気にする必要はないです」と淡々と名刺を差し出した。
「あなたにはあなたの人生があるから自由に、と彼女が。店を手放すなら相談に乗りますよ」
あれから二年経った。もとから接客業に向いていなかったのか、足しげく通っていた常連は一人減り二人減り、バーの経営は風前の灯火だった。だからといって店をたたむ決心はつかなかった。どうせ他に仕事のあてはなかったし、何より、あのカクテルを出すという約束を、まだ果たせていない。
金庫の底にしまい込んだ弁護士の名刺を、幾度となく出してはまたしまい込み、をくり返して、すっかりよれよれになってしまった。それでも捨てられないでいる。
「飲みに来る人がいたら」と言われて待っていたけれど、結局二年間、一度も注文する人は現れなかった。あわいブルーで金平糖みたいに甘そうなくせに、とびきり度数が高くて喉が焼けるクレイジーなカクテル。いったいだれがそんなものを頼むんだろう。
儲けのほとんどない店を続けている理由は、単にそれを知りたいからだ。

キイと音がして風が吹き込んだ。乾いた冷たい夜の風だった。
カウンターに突っ伏して眠りこけていた客が顔を上げた。見れば若い男が一人、ドアの隙間から顔をのぞかせている。やや小柄で、黒いフードつきのコートと、黒い手袋。これといった特徴のない、どこにでもいる大学生のような風貌だった。
「なんだお前。もうとっくに閉店だぞ」
店員気取りで客が声を荒げた。起こされたことも、自分だけだと思っていた根城に、前触れなく見知らぬ輩が入り込んできたことも、不愉快だったらしい。
男はきょとんと瞬きをしたあと、
「そうですか。ではあなたも、もうお会計ですね」
客は酔って充血した目をしばたかせた。
男がちらりとこちらに目くばせをする。
「お客さん、お帰りだそうですよ。いくらですか?」
……三千円ちょうどです!」
すかさず叫んだ。なんてタイミングだ。
客はしばらく唖然としていたが、やがて何度も首を傾げ、ぶつぶつ文句をいいつつ、薄い財布から千円札を抜き出す。きっちり三枚をカウンターに叩きつけると、こちらを睨みつけて店を出て行った。
深く、深くため息をついた。張り詰めていた糸がふっと切れたように体から力が抜け、椅子にもたれた。何年もの疲れが一気に出たみたいだった。知らずほろほろと涙がこぼれた。
男があわてて「余計なことをしてしまって」と覗き込む。いいえ、と首を横に振り、「助かりました。ありがとう」と声を絞り出したが、涙が止まらなかった。
この店たたもう。ここまで意地で踏ん張ってきたけれど、きっと待っていたってその人は来ない。彼女には悪いけれど、これ以上は無理だ。

いろんな感情の波がすっかり引いたのはずいぶん経ってからだった。
頭と喉が痛い。手足が冷たい。顔を上げると、男はどこか所在なげにカウンターの端の席に座っていた。声をかけたり、励ましたり、なぐさめたりせず、じっと時を待っているようだった。見れば店の看板が店内にしまい込まれていて、どうやら彼がいつの間にかやってくれていたらしい。壁の時計は夜中の一時をさしていた。
「ごめんなさい」
頬を拭い、わざとあかるい声で謝った。実際どこかしら吹っ切れた心持ちだった。早く帰ろう。熱いシャワーを浴びて、ビールでも飲んで、明日は昼までぐっすり眠るんだ。それで明後日にはあの弁護士に連絡して、店じまいの相談をしなければ。
男はちょっとホッとしたように笑った。
「疲れていたんですね」
「いろいろあって。でももういい。なんかスッキリしちゃった」
「それならよかった。では」
「あの、」
思わず引き止めていた。
「よかったらお礼に一杯飲んでいって。おごるから」
男は驚いて
「いや、別に何をしたわけでもないし……
「私の自己満足だから。これを出して店を終わりにできれば、それで本当に踏ん切りがつく気がする。よかったら付き合ってください」
ためらう男の前に、グラスを差し出した。一度腰を上げかけた男はもう一度座り直した。ありがとうと笑いかけて、ウオツカの瓶を手に取った。
メモに残すほどじゃない、簡単なカクテル。常連客にすすめたことはない。メニューに載せる必要はないと言われていたからだ。
「注文するのはきっと一人しかいないよ。その人にだけ作ればいいから」と片目をつぶってみせた、彼女のいたずらっぽい笑顔が脳裏に浮かぶ。
(ごめんなさい。でも、これで終わりにさせて)
シェイカーを傾け、小さな三角形にあわいブルーを注いだ。森の中で静まり返っている湖を思わせる青。天井の電球がスポットライトのように真上から照らして、丸い光のわっかが浮かんで見える。
——酔っぱらいの天使だ、これは。
「看板メニューなんですか」
男が小声で訊ねた。
「いえ。実は初めてなんです、これを出したの」
「初めて?」
「これを頼む人がきっと来るからって言われて、そのために店を続けてきたようなもので。でも結局来なかった。最初からそんな人、いなかったのかも。——あの人にそそのかされちゃったのかな」
どうぞ、とすすめると男はグラスの足に手を添えたまま、じっと見つめた。そして注意深く持ち上げる。揺らさないようグラスの端に口をつけ、目を見開いた。
生まれて初めて雪に触れた子供みたいな表情だった。
「もしかして、お酒は苦手でした?」
うまいともまずいとも言わず黙り込んでいるので、おどけたように笑いかけると、男は「失礼」と苦笑した。
「いえ、とてもおいしい。……オリジナル?」
「私が考えたわけじゃなくて、前のオーナーから教えてもらったんです。詳しいことは知りません。でも、オーナーもだれかに教えてもらったみたい」
男は目を細める。
「刺激的ですね」
「そう。見た目よりずっと鮮烈」
「鮮烈」
「甘そうに見えるくせに、ひと口で酔っちゃう危険なカクテル」
男はまたちびりとカクテルに舌をつけた。痺れる感覚に眉を寄せ、それからさっきと同じ苦笑いをした。
「その人は——どんな思いでこれをあなたに教えたんでしょうね」
……さあ……どうだろう」
あまりにも曖昧な約束だ。いつ来るかわからない一人のために、そんな不確かなもののためになけなしの財産まで譲るなんて。
「ずっと体が悪かったから、夢を見たのかも」
「夢?」
「天使に教えてもらった、なんて言ってたから。いつか来る人のために覚えておいてほしいって、そのためだけに彼女は私をここで働かせたんです。ほんとうに、何だったんだろうって思う」
その言葉に、男はしばらく考え込んでいたが、
「案外、夢ではないと思います」
「夢じゃない?」
「もしかしたら、天使がほんとうに来たのかもしれない」
……そうかしら」
まだ桜の咲かない並木道をぼんやり見つめていた彼女の横顔を思い出した。悔しいとも辛いともひとこともこぼさなかったけれど、どこか名残惜しそうな目で「お願いね」と言った。
「ほんとうに来たなら——
一度は凪いだ胸の奥に、やるせない気持ちがせり上がってくる。それは、この店を任されたときから抱えていた、怒りにも似たやりきれなさだった。
「それがほんとうなら、天使は何をしに来たの? 酔っぱらいにきただけ? 注文されないカクテルを私に教えて、守らせようとして。——こんなの残していくなら、助けてあげてほしかった——病気を治してくれればよかったのに」
ひと息に吐き出してしまうのを、男はじっと見守っていたが、やがて残っていたカクテルを飲み干した。やや顔をしかめ、そして「ごちそうさまでした」とグラスを置く。
「できなかったんです、きっと。それだけしか」
「天使なのに?」
「天使だから、です。それでも、できることを必死で探したはず」
「できること?」
男は立ち上がり、フードをかぶり直した。その奥の、子供みたいな澄んだ目がくるりとこちらを見つめる。
「あなたはさっき、この店を閉めるといいましたね。その必要はなくなります」
「必要……? え?」
「何も心配いりません。いいように解決しますよ」
「どういうこと? もう店を続けるつもりは……
「駅の南西一帯は再開発エリアに指定されました。近々、市の担当者から連絡が来るでしょう。あなたはとてもいい条件で立ち退きを提示されます。補償金も支払われます」
あまりに唐突な話に、ぽかんと口を開いたまま、瞬きも忘れて男を見た。
……なんの冗談?」
「次の仕事を探す間の生活には困らない。別の街で新しいい仕事をしてもいいし、しばらくのんびり過ごしても、」
「待って、どうして」
「彼女が、そう願ったからですよ——自分の人生のすべてであったこの店がすこしでも長く続きますように。でも引き継いだ人がつらい目には逢いませんように」
「なんなの、あなたは市役所の人? それともあの弁護士に頼まれた?」
「市役所の人でも弁護士でもない。たまたま通りかかっただけです」
「たまたま通りかかっただけで、普通はそんなこと知らないし、言わないでしょう?!」
混乱のあまり声が上ずった。「それもそうか」と呟いて、男はそれを、と空になったグラスを指さす。
「この店にはたまたま目について入っただけだったが、おそらくはたまたまではなかった。だれかがここに来させた——そのカクテルが証拠です」
「全然わからない」
「天使に教えてもらったのでしょう?」
「だから、それはきっと彼女の夢だって」
「夢じゃないのかもしれない」
男の口調はどこか確信めいていた。
息をするのも忘れて、ただ男の顔をじっと見つめた。淡々と、台本を読み上げる静けさで男は語る。
「その人が何と約束したのかはわかりません。どうしてカクテルだったのかも、もはや知りようもない。でも、天使が来たのなら、余命いくばくもない人の願いを聞き届けようと必死に考え、時間をかけて周到にシナリオを書いたはず」
どこにでもいる大学生みたいな風貌なのに、その横顔がずいぶん大人びて見えた。若く見えるけれど、もっと——もしかしたらとほうもなく長い時間、この世界を俯瞰しているような。
「少々しゃべりすぎた。今度こそ失礼します。ああ、やはりおごりというのも申しわけないので」
ごそごそと、男はコートのポケットに手を入れた。一見して使い古したとわかる薄い財布から千円札を一枚、そっとカウンターに置いた。
……足りないですか?」
呆然としていると男が覗き込んだ。小さく「いいえ」と返したが、そもそも値段など決めていなかった。男は「よかった」と息をついた。
「大丈夫、何もかもうまくいきますよ」
ドアを開けながら男は「酔っぱらいの天使をありがとう」と笑った。
冷たい夜の風が一瞬だけ吹き込んで、その向こうに姿を消した。