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【再録】このすばらしき世界
2024年1月に発行した書き下ろし本。
どこかにいるかもしれないし、いないかもしれない普賢さんと、それを探す伏羲の話です。5本の短編のオムニバス。無配ペーパーにつけた外伝、あとがきもまとめて再録しています。表紙イラストにはノヒト様をお迎えしました。ありがとうございました!
「大丈夫、信じますよ」
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面影森
冷たい風が吹き荒れていた。
春は間近だというのに一向に気温は上がらず、日によっては雪もちらつくほどだった。舗装されていない農道にはうっすら霜が降りていて、歩くたび足の下でさくさくと音を立てた。
ぐるぐるに巻いたマフラーに顔を埋め、手袋をしてくるんだったなと両手をすり合わせてからポケットに手をつっこんだ。ポケットには一枚の古びた写真。ところどころ折れたり擦り切れたりした感触を指先で確かめる。
写真に写っているのは祖母の父で、つまり曾祖父だけれど、もちろん面識はない。法事で顔を合わせた遠縁の親族が「とても美しい、やさしい男だった」と褒めるので、いつの間にか、いつかどこかで会った気になっていた。
歌がうまくて博識で、でもどうにもこうにも生きていくのに不器用な男だった。
働き先もろくに見つけられず、隣保の世話好きの口利きで小学校の先生をしていたが、教えるよりも自分の好きな勉強に没頭してばかりだった。
着るものに無頓着で、いつも薄着ですぐ風邪を引くし、三日に一度は弁当を持ってくるのを忘れる。「先生はわすれんぼう」と子供たちにも呆れられるほどだったが、疑問や質問には、それがどんなに些末なことであってもていねいに答えてくれるから、慕われてはいたようだ。
流行り風邪にかかったときも、引きも切らず見舞客が訪れた。体が辛かろうに、だれが来ても「仕事をせずに布団で本を読んでいられるから楽だよ」と笑っていて、本人がそういうならと安心していたら、ある朝あっけなく逝ってしまったそうだ。
当時、祖母はまだ幼く、父親である曾祖父のことはおぼろげにしか記憶になかったけれど、曾祖母は夫のことをたいそう愛していて、よく思い出話を聞かされたという。
「だからね、いないはずなのに、ずっとすぐ近くにいるような気がしていたの」
祖母はおしゃれで表情豊かな女性だった。とりわけ、曾祖父の話をするときはいつも、少女みたいな屈託ない笑顔を見せた。
「そうしたらお母さんはいつもこう答えたのよ。あら、だって、ほんとうにあなたのすぐ近くにいるのよ、って」
仕事が忙しかった両親にかわって面倒を見てくれる祖母に、何度もその話をねだったものだ。曾祖父のエピソードはどれも情けなくて、笑ってしまうものが多かったけれど、「すぐ近くにいるような気がする」が、本当に本当だったと祖母が信じていたことが、子供心にとてもうらやましかった。
大好きだった人がいつも近くにいると信じることで、失った悲しみがいくぶん和らぐのかもしれないと、大人になった今、思わないでもないが、嘘をつかない祖母がそう言うのなら、本当にいたのかもしれない。
「わかるのよ、あ、またいるって。私のことが心配なんだなとか、なぐさめてくれてるんだなとか」
年頃の娘時代には年相応に鬱陶しく感じ「今日は来なくていいから」なんて言い放ってしまったこともあったらしい。「ものすごく後悔したわ」と肩を竦める祖母は、孫から見てもとびきりチャーミングだった。
晩年はちょっとした怪我をきっかけに寝たきりになり、いろんなことを忘れてしまっていた。学校や仕事の合間、たまに見舞いに行けば目を覚ましてにっこり笑ってくれたが、孫の顔を覚えていたかどうかはわからない。
うとうととまどろみをくり返す祖母のそばに座り、こんなことならもっとちゃんと顔を出すべきだったと、仕事を言いわけに足が遠のいていたことを悔やんだ。
お小言でもいい、祖母の生きた証を、声を、もっと聞いておけばよかった。
いつもそばにいたという曾祖父は、彼女の入院中も、命の火が消えるときも、ずっとそばにいたんだろうか。その生きざまをちゃんと見届けたんだろうか。
墓へ行こうと思い立ったのは、父から写真を見せられたからだ。祖母が亡くなり、四十九日の法要も終え、遺品整理をしていたとき「おまえのひいじいさんだよ」と手渡された。
写真は保存状態が悪く赤茶けていた。おそらく最晩年、亡くなる直前のものだろう。白い枠の中のモノクロ画面に、布団に上半身を起こし、カメラを向くことなく厚い本に見入っている若い男の姿があった。だれが撮ったのかピントすら合っていないが「とても美しい、やさしい男だった」という噂通りの、整った横顔だった。
あまりにもじっと写真に見入っていたからか、父が呆れたように笑った。
「こうして写真が出てくるってことは、だれかが呼んでいるのかもしれんな。久しぶりに墓参りでもしたらどうだ」
田んぼの真ん中の森に踏み入れた。古い鎮守の森のいちばん奥に、本家の墓がある。吹きさらしの道から森に一歩入ると、とたんに空気が重くなった。ぐるりと囲む木々が風をせき止めて、わずかなぬくもりをあたためているようだった。
何年ぶりだろう。昼間でも日が射さない薄暗い森は、祖母に手を引かれていても、とても怖かったものだ。昔から墓石はとっくに苔むしていて、刻まれた家の名もほぼ判別できなかったが、祖母はいつもいかにもいとおしそうに手を触れていた。
あれはきっと、大好きだった曾祖父を思って
————
思わず足を止めた。森のいちばん奥、つきあたりの墓の前にだれかが立っていた。大学生か新入社員のような風貌の青年だった。親族ではないはずだ。近い親族は自分以外に若者はいない。父母はどちらも一人っ子で、自分も一人っ子だから。
声をかけようかためらっていると、男が振り返った。黒い服だが、喪服ではない。男はやや目をみはってから小さく頭を下げ「花を」と静かに言った。手には控えめな花束があった。
「親しくしていたので。ご迷惑でしょうか」
「親しく
……
ですか?」
困惑し、おもわずそう聞き返していた。
ここに眠っているのは三十年以上前に亡くなった祖父と、それより前に鬼籍に入った曾祖父母、そしてそのずっと前の先祖だ。祖母はまだ納骨していない
——
この若者はいつ、だれと親しくしていたというのだろう。そして、
(まじで、だれなんだよ)
男は神妙な面持ちで墓前に花を置いた。色のすくない晩冬の森に、白い花はつめたい鬼火をともしたみたいだった。目を閉じて、長く手を合わせたあと、男は墓のうしろにそびえる大樹を見上げた。寒々しい木々の隙間から、うす青い空が見える。
「葬儀には間に合わなかったので。でもこうしてお別れができてよかった」
彼は空へ目をやったまま話し続けた。
「いつもの風邪だと聞いていたのです。長引いているがしばらくしたらまた外に出られる、と」
「はあ
……
」
「急変したと聞いて駆けつけるつもりが、こんなに遅くなってしまって。無理にでも会いに行けばよかった。いつも薄着ではだめだと口癖のように言っていたのですが、無頓着なのは変わらなかったようですね」
「ええ、あの」
「そうやって日々の肝心なところが抜けていたが、だれにも分け隔てなくやさしく、みんなに愛されていた。教え子たちはみな悲しんでいるのではないですか。」
ええ、まあ、と返した声がかすれた。男にはまったく見覚えがなかったが、彼がつい最近のできごとのように語る話に聞き覚えがあった。
(ひいじいちゃんの話じゃないか)
何と答えようか迷っているのを、どう受け取ったのか、男がふと口を噤んだ。
「失礼。こんな話はつまらなかったですね」
「いえ、あの
……
!」
この男がだれかはわからない。でも(もしかしたら)という空想が頭を過った。
もしかしたら、昔、曾祖父とかかわりのあった人が時空の隙間からふいに姿を現したということはないだろうか。静かで人のいない冬の森にだけ現れる秘密の扉、それをそっと開けて、こうやってひとときだけやってくる。
そんなことはありえないけれど。
「もうすこし聞かせてくれませんか」
「え?」
「お急ぎでなければ。俺たち親族が知らなかった話を、もっと聞きたいんです」
男は笑顔で頷いた。笑うと見た目よりもっと若く見えた。
自然が好きで、雪が降れば寒かろうが外に飛び出し、虹が出れば消えるまで立ち止まって眺めていたこと。新しい科学の本をどうしても読みたくて、閉館後の図書館に入り込んで寝入ってしまったこと。お見合いのときも互いの家や仕事のことよりも、宇宙の不思議や実験の楽しさを語ってたしなめられたこと。それでも相手はそんな屈託ない人となりに惹かれて、周りが反対するのに結婚を決めたこと。
エピソードはとても鮮明で、まるでつい昨日まで、時間をともにしていたような語り口だった。そして、ところどころ食い違う部分はあるにせよ、彼の話はほぼ、祖母から聞いた曾祖父の話をなぞっているとしか思えなかった。何より、男はとてもうれしそうだった。「あなたのひいおじいさまは、とてもかっこよくて、頭がよくて、びっくりするほど不器用だったのよ」と話す祖母と同じ、心底困ったような、それでいてどこまでもいとおしげな。
冬の森は寒くて、足先がしびれるように冷たくなったけれど、そんなことが気にならないくらい、男の話に聞き入った。
男も、ときどき笑いながら、しんみり考え込んだりしながら話した。思い出という引き出しを一つひとつていねいに開けて整理しているようだった。
やっと会話が途切れるころには、日が傾きはじめていた。日が長くなってきたとはいえ、そろそろ家に帰らなければ。
あまりの寒さに手をポケットに入れ、それがあることを思い出した。
「あの、写真があるんです。見てもらえますか」
「写真?」
「今日たまたま持ってきていて」
ずっと胸にしまっていた曾祖父の思い出を共有できたことがうれしくて、いそいそと写真を彼に差し出した。
赤茶けてところどころ擦り切れたそれを男がのぞきこみ、そして
——
ふ、と息を飲む気配がした。
目をまるくしてこちらを見つめる。
「あの
……
」
男は写真とこちらを何度か見比べた。しげしげと、まるで間違い探しをするみたいに眉を寄せ、いとしさとも、哀しみや嘆きとも、すこしちがったニュアンスの目で瞬きをする。何かを言いかけ、そして言うのをやめ、言いよどみ、というのを数回くり返した後、
「あの、失礼ですが、〇〇家のかたではないのですか」
「は?」
間抜けな声が出た。聞いたことのない名前だった。互いにまじまじと見つめあう。風のない、寒い森の中に、何ともいえない沈黙が垂れこめた。
「
……
いえ。ちがいます」
「
——
たいへん、失礼しました
……
!」
男は猛烈な勢いで頭を下げた。
「もしや、ずっと赤の他人の話をしていたのか
……
! ぜんぜん関係ない話を、得意げにペラペラ話してしまって、ほんとうに申しわけない!」
「いえいえ、いいですいいです」
恐縮しまくって何度も頭を下る男をなだめながら、笑いが止まらなかった。
ほんとうに、こんなことってあるだろうか。
「こちらこそごめんなさい、ああ、頭を上げてください」
あらためて話を訊くと、男が知人から伝えられた住所が間違っていたらしい。
墓に刻まれた名前が読めれば別人だと気づけただろうし、顔を合わせてすぐに名乗り合っていれば人違いだとわかったはずだった。
小さなミスと偶然が、妙にかみ合ってしまった、そんな嘘みたいな奇跡だ。
笑いが止まらないから、深呼吸した。晩冬の空気が胸に冷たかった。
「あなたの話、あながち間違いではないんです。いや、間違いなんですが、そんなに違わないというか。説明が難しいんですが、こちらが勝手に思い込んでいたからこうなってしまっただけで」
おそるおそるといった感じで、男は顔を上げた。この世の終わりみたいな表情に、また笑いそうになって、あわてて咳ばらいをする。
「お話しできてよかったです。俺が祖母から聞きたかった話でした」
「いや、それ他人の話ですよ?」
「ええ、それでも、うん。聞けてよかった」
話している間、たしかに祖母がそばにいる気がしたのだ。両親の帰りを待つ間の、膝の上で聞いた昔話を、もう一度とねだっているあの夕方みたいに。ばあちゃんが聞いていたら「やっぱりお父さんのひ孫ね」と笑っただろう。ありえない空想をまるっきり信じてしまうほどの感傷は、この森のせいだろうか。
春を待ってうずうずしている木々が、ちょっとしたいたずらを仕掛けた、なんて話も、今なら鵜呑みにしてしまいそうだ。
「別の人の話だったけれど、話してくださってうれしかったのは嘘じゃないです。それに勘違いして話を聞きたがったたのはこちらなので」
「それなら
……
よかった」
男はようやくホッと息をついた。
「お気を悪くされたのでなければ、それで」
「不思議としか言いようがないんですが、会いたい人がすぐ近くにいるような気がして」
わかります、と男は言った。
「案外、ほんとうにおばあさまがいらっしゃったのかもしれませんね。近くに来てほしくて、呪文みたいに昔話をくり返してしまう気持ちは、とてもよくわかります」
「呪文
……
?」
「声を聞いてほしい、そばに来てほしい、と願いながらする思い出話は、どこか呪文めいているでしょう」
「そういえば祖母もそんなことを話していました。気のせいかもしれないけれど、そこにいるって。そういうのは、嘘じゃないと思っていたほうが、たぶんいろいろしあわせだと思う」
男は頷いた。
「会いたい人の話をすれば会える。そう思いたくて、われわれはだれかを語るのかもしれません」
「あなたも、そうなんですか?」
風が森をすり抜けていく。ひときわ冷たいそれに夜の香りが混じる。
男は答えず、笑顔のまま黙って深く一礼した。
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