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【再録】このすばらしき世界
2024年1月に発行した書き下ろし本。
どこかにいるかもしれないし、いないかもしれない普賢さんと、それを探す伏羲の話です。5本の短編のオムニバス。無配ペーパーにつけた外伝、あとがきもまとめて再録しています。表紙イラストにはノヒト様をお迎えしました。ありがとうございました!
「大丈夫、信じますよ」
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幻の青
ガタンと大きく揺れて車が止まった。最初は静まり返っていたが、やがてガヤガヤと声がしはじめて、どうやら何かトラブルがあったようだった。
先生と目を見合わせる。幌の外は見えないが、切れ切れに「車輪が」「石が挟まって」「動かせない」と聞こえた。
動けないみたいだね、と先生が小声で囁いた。この状況をおもしろがっているような口ぶりに、ざわざわした心がすこし落ち着いてくる。
先生はいつもそうだ。
出稼ぎに行ったままの父親にかわって、先生のもとで働きはじめたのは、下の弟が生まれて間もない頃だった。自分だって子供にはちがいないけれど、乳離れできない妹や弟たちよりは年長だというだけで、母親が働き先を探してきた。
「明日にはいらっしゃるからね。荷物をまとめておきな」
こちらの言い分など聞く耳持たないまま、そう言い放たれた。荷物というほどのものはなく、着替えを二、三ほど袋につめ、絵筆を一本、腰に差した。「街で売れば麦の一つかみくらいにはなるだろうから」と隣に住む老婆がくれたものだ。親指よりも太くつやがある竹のそれは、老婆が若い頃、名の知れた絵描きにもらったのだという。絵の心得があるわけではもちろんないし、どのように使うかもわからない。ただ、彼女が憐れむような目で自分を見、元気でなと声を震わせたから、黙って受け取った。自分を惜しんでくれているのはこの人だけだと、幼いなりに理解できた。
翌朝、迎えに来たのは威張りくさった小柄な老人と、ひょろりと背の高い青年だった。母親と老人が話している間、青年は暇そうに待っていたが、やがて母のそばで所在なげにしているこちらを見、腰に差した絵筆に目を止めた。
「なんだ、それ。へえ
……
お前、絵を描くのか」
その笑顔と同じ、あかるい声だった。驚いて首を横に振ると、そうかそうかと何やらおもしろそうに頷いたあと、老人にそっと耳打ちした。
「こいつは先生のところの方がいいんじゃないかと思いますよ。
……
ほら、あの筆」
そのあと、どういうやりとりがあったかは知らない。
連れられて山道を歩き、谷を超え、二晩ほどかけてたどり着いたのは街ではなく、森の中の一軒家だった。
こぢんまりして質素だが、石造りの塀も、門から玄関へと至る煉瓦敷きの小道も、きれいに整えられていて、母や弟妹たちと暮らしていたあばら家とは違う、清廉な空気だった。家主はよほどきれい好きなのかもしれない。
「くれぐれも失礼のないようにな」
繊細な彫り模様のほどこされた扉の前で、きょろきょろとあたりを見わたしていると、老人が低い声で念を押した。何をしたら失礼にあたるのかもわからないから、ただ俯いて人が出てくるのを待った。
だれかが扉を開けた。どうぞという言葉を聞いて、男たちに続いて足を踏み入れたとたん「それ」の前で動けなくなった。
扉の内側、奥の部屋へと続く廊下の壁も、天井も、青で塗りつくされていた。ややまるみを帯びた一本の濃い線が、左右の壁を上下に分かつように引かれ、目より高い部分に、羽根を広げた鳥らしきものが数羽描かれていた。
青はどこまでもあかるく、日射しが届かないにもかかわらず、日向のように光を放って見えた。
まぶしさに体が震える。瞬きもできぬほどの衝撃だった。
これはいったい、何なのだろう。
「これはね、海というんだ」
呆然としていると、ぽんと両肩に手を置かれた。母親より大きな手は、爪も指先も鮮やかな青に染まっていた。知らぬ間に「その人」が背後に立っていた。自分を連れてきた若い男よりもさらに背が高く、ゆったりと床に届くほど長い衣を着ている。
肩越しに壁に目を向けて、その人は「ごらん」と指をさした。
「この線の上が空、下が海」
「うみ
……
」
「とてもたくさんの水がある場所だよ」
低くやわらかな声で、その人は言う。男二人は背後で膝をついていた。この人が「先生」だとようやく気づき、慌ててその場で跪き、冷たい床に両手と額をついた。
「先生、いかがでしょう。何やら上等そうな筆を持っているので連れてまいった次第でして」
「どれ、見せてごらん
……
ああ」
持ってきた筆を差し出すと先生はなるほど、と笑った。
「そうだね、いい筆だ。でもこれ自体はそれほど大事ではないよ。ぼうや、顔を上げなさい」
言われるまま、おそるおそる顔を上げると、その人はにっこり微笑んでいた。長い銀灰色の髪をゆるりと垂らし、背中で結んでいる。隣の老人の家にあった、菩薩様の絵によく似た笑顔だった。あれはもっとボロボロで、すすけていたけれど。
「この絵をじっと見ていたね。お前にはどう見える?」
「どう
……
」
「あの、先生、この子供は学など何もなく
……
筆を持ってはおりますが、おそらく絵を学んだこともなかろうかと」
男が横から口を挟んだが先生は「かまわないよ」と言った。
「私は、知識があるかどうかを聞いているのではないのだから」
ほら、と手を取って立たされた。目の前にはやはり圧倒される青。
「この絵に見とれていただろう。ぼうやが何をどう感じたか教えてくれるかな」
あらためて真正面に見据えた青はやはり美しく、そして永遠の広がりを思わせた。
「あの」
緊張で喉がからからに乾いていたが、それでも口を開いた。さっき感じた、瞬きを忘れるほどの心の動きを、どうしても伝えたい。こんな気持ちは初めてだった。
「とても
……
大きくて」
「大きくて?」
背中を丸めてのぞきこみ、促す目はやさしく、そしてこの絵と同じ深い青をしていた。深呼吸を二度ほどしてから、もう一度絵を見つめた。
「たくさんの昼と夜を集めている
……
気がします」
「昼と夜
……
」
「ここの、」
先生が「海」といったあたりを指さす。
「ここの部分、昼から夜に移り変わるときの色に似ています。まだ日が落ちる前の、鳥が急いで寝床に帰るときの色」
「ほう」
「それから、」と、鳥が羽ばたく空へと指をすべらせる。
「ここの青は、神様がおわす天上にあいた穴のようです。いたずら好きな神様が雨を垂らしたり、虹をかけたりしそうな、そんな、あわくて尊い青です」
何か言わねばと、その焦りだけで口走った言葉に、先生の目が愉快そうに細められた。間違ったことを言っただろうかと口をつぐんだが、やがて先生は頭をするりと撫で「すばらしい」と呟いた。
「気に入ったよ。いい子を連れてきてくれたね」
男二人はほっとした様子で頭を垂れる。
どうやらこの人のお気に召したらしかった。
先生は画家で、普段は身分の高い人から注文を受けて、肖像画や花の絵を描いていた。「しおれた花も満開にする魔法使いなんだ」と冗談めかして言ったけれど、実際、先生の手にかかれば、やせ細って不健康そうな富豪も、恰幅のいい威厳ある名士に仕立て直された。「見る目がある」と満足そうに髭を撫でるパトロンに「光栄です」と返す笑みが、うわべのものであることに気づくのに、それほど時間はかからなかった。
「この海は、本物ではないんだ」
壁の青に触れながら、先生は同じ話をくり返した。
「私も海は見たことがない。海はとても遠いからね。だからこれは私が眼裏に想像する海なんだ」
想像だけでこれほど美しいものを生み出せるものなのだろうか。先生は「私がそうあってほしいと願っているからだよ」と言った。
「自分の目で見て心底美しいと感じるものを、そのまま、ありのままに描きたいんだ。今のような、何かにおもねるのではなく、ありのままの、何も足し引きせずとも人の心を打つ美しさをね」
そう目配せしながら「内緒だよ」と笑う。きっとこれは、だれにも打ち明けていない本音だ。
先生のもとで、画業の手伝いと、生活のこまごました雑用を覚えた。
何日かに一度訪ねてくる商人から、新鮮な野菜や果物を選ぶこと。決まった肉屋で決まった肉を買うこと。衣類はいつも決まったものを前日の夜に準備しておくこと。「アトリエ」と呼ぶ離れの床はいつもきれいに拭いておくこと。これは塵が絵の具に混じるのを防ぐためだ。
そしてもっとも先生が求めたのは絵の具の準備だった。
「自然から色を分けてもらうんだ」
春から夏に移ろう時期には紅花を摘み、槐や藍に水を欠かさない。岩や貝殻はごく細かく砕く。粉になった一粒たりとも無駄にしない。アトリエの奥の日の当たらない棚には、そうして集めた色がていねいに硝子の容器に収められていた。そしてありとある濃淡の真ん中には、空っぽのそれが据えられていた。
「ここには私がまだ見たことがない青が収まる予定だ。この世のものとは思えないほど、透き通っていてあかるくて、晴れた空を映した尊い海の色なんだ。幻の青だ」
だがそれはとても難しい場所にあるという。
「遠くにある岩山に、その青を含む鉱石があると聞いている。海をそのまま切り取ったみたいな、美しい青だそうだよ。山を深く削れば手に入るのだけれど、とても危険な場所だから、まだ見た者はいないんだ」
幻の青がある山は、アトリエの裏窓からその頂上だけわずかに見ることができた。歩いて二日、深い横穴をさらに一日かけて奥まで入らなければいけない。先生もいくどか試みたらしいが、その険しさに断念せざるを得なかったらしい。
「いつか、お前と一緒に見られる日が来るといいね」
そう微笑む先生があまりに屈託なくて、いつかきっと、先生のためにその青を採りに行こうと心に決めた。
その話が舞い込んだのは、先生のところで働きはじめて冬と夏を何回か超えた頃だった。肖像画を描かせた富豪が、先生の思いを耳にし、絵の報酬として人と馬、車を用意してやろうと言ったのだ。
感謝の言葉を重ねる先生に、富豪はあごひげを撫でながら口の端を上げた。
「その山は宝石も出るというではないか。もし掘り当てた暁には、お前にもいくらか分け与えてやろう」
「いいえ、私は宝石はいりません。顔料となる鉱石をいくつか、いただけたならそれで」
「何とも無欲なやつよ、くれるというものはもらっておけばよいのに」
「私のような者に使いきれるものではございませんので
……
」
宝石を独り占めできるとわかった富豪はえらく上機嫌だった。
先生の横顔をちらりと見ると、先生もこちらを見てにっこり笑った。私たちの幻の青は、宝石よりずっと尊い。そう言っているのだ。
雪が降る前に出立することが決まった。
秋の空は晴れて、高いところに雲が薄くたなびいていた。幌馬車一台と御者が二人、道案内が一人。先生と一緒に馬車に乗り込んで、一行は山へと出発した。
道はなだらかで、嵐でも来ない限り三日もあれば着けるだろうと、道案内の男は言った。道中の話題は尽きなかったし、夜に火を焚くのも楽しかった。先生はまるで子供みたいに声を弾ませた。
「その青が手に入ったら、私はおそらくしばらくは絵が描けないと思うよ」
「どうしてですか」
先生は「お前はとても素直だね」と苦笑して
「尊いものを前にすればきっと、何を描いても満足できないだろう。まずは何を描くか、その青が何にふさわしいかをじっくり考える必要があるんだ。何日も、もしかしたら何年か、かかるかもしれないんだよ」
しかし、出立から三日目になっても山には着かなかった。横目にそびえる山まで、出発したときからあまり距離が縮まっていないように見えた。山をぐるりと遠回りするみたいに、馬車はのろのろと進み続けている。
「まだでしょうか」
不安がると、先生はいつもの笑顔で「大丈夫だよ」と答えた。
「私はね、知っているから」
「知っている
……
何をですか」
「私たちが、悪いようにならないことを、さ」
ガタンと大きな音と振動とともに馬車が止まった。最初は静かだったあたりがだんだん騒がしくなってくる。外から切れ切れに聞こえてくる言葉をつなぎ合わせると、「車輪に石が挟まってしまい、にっちもさっちもいかない」ようだった。
しばらく待ってから、先生は馬車から降りた。
「動けないようだね」
話し合っていた御者と道案内は先生を見て頭を下げた。
「申しわけございません」
「こんなに悪い道を通る予定ではなかっただろう。いつごろ直りそうか教えてくれるかい」
実は、とおずおずと道案内が切り出した。
「
……
道を間違えたようでございます」
「間違えた
……
では引き返そう」
「それが
……
」
そわそわしていた御者の一人が「申しわけありません」と地面に膝をついた。
「実は、旦那様に頼まれて、できるだけ遠くにあなたを連れていくようにと」
「え?」
「
……
その間に山を掘る算段です」
「どうして」
「あのかたは、あなたが宝石を独り占めするのではないかと、勘繰っていらっしゃったので」
思わず悲鳴に似た声が出た。確かに宝石などいらないと言ったはずだ。
あの言葉を、富豪は信用していなかったのだ。
「それでは
……
この馬車はどこに向かっているのですか」
先生の衣の裾を掴み、震える声で訊くと、男たちは顔を見合わせ、悲壮な表情で首を横に振った。
「ただ、遠くへ行け、としか」
最初から先生は目的地に着かない旅を強いられていた。腹の底からわき上がる怒りで、口を開けば叫び出しそうだった。
見上げれば、先生はわずかに眉を寄せ、口を真横に引き結んでいる。あんなにも焦がれた場所に、青に、手が届きそうなのに、こんなにもひどい形で道を閉ざされてしまうなんて。
先生はしばらくじっと男たちを見つめていた。そして一度山を遠くに見やり、最後にこちらを見て、ふと笑んだ。
「しょうがないね」
悲しんだり、怒鳴り散らしたりせず、どこまでも静かだった。そして平伏して罰を待っているだろう男たちに「立ちなさい」と呼びかけた。
「修理をしてくれるかい。先へ進もう」
男たちは信じられないといった表情で顔を上げた。
「私は家には帰れない。アトリエにも」
「先生、それは
……
」
「引き返したところで、難癖をつけられて首をはねられるだろう。それなら、まだ見ぬ世界へ行ってみようじゃないか」
御者たちは泣きながら馬車を直し、道案内は近くの村まで走って食べものを調達した。それは人をだましていた罪悪感によるものかもしれないが、先生は「人というのはそういうものだよ」と言った。
「私だって金を握らされてそう囁かれれば、断る自信はない。彼らは正直に打ち明けてくれたんだ。私たちはまだ、最悪の状況ではないはずだ」
翌朝、馬車は動き出した。この先に大きな街があるので、まずはそこまで行きましょうと道案内は言った。
「物知りな人も多いはず。何か手がかりが掴めるかもしれません」
それはいい、と先生は頷いた。
「青があるのが、あの山だけでないことがわかれば、いくぶんか気持ちが楽になると思うよ」
人に裏切られ、心を折られそうになっても、どうしてそんなにも前向きでいられるのか。笑顔でいられるのか。そして、だれも見たことがないそれを、どうしてあきらめないのか。
馬車に揺られながら訊ねた。先生はそうだねと笑った。
「もしかしたら、そんな青など存在しないのかもしれない。どこかにあっても私が手にすることは叶わないかもしれない。そう思わないでもないのだよ。でも昔、大丈夫と言ってくれた人がいたから。私はその言葉を信じたいんだ」
「大丈夫
……
だれにですか」
知るかぎり、先生はずっと一人で生きてきて、決まった付き人も長らくいなかったという。その先生がこんなにも心を寄せる人とはいったいどんな人なんだろう。
先生は目を細めて遠くを見つめた。
「この世のどこかにおわす人だよ」
二日ほど道なりに進んでから、大きな街に着いた。ここで数日宿をとり、詳しい人がいないか探すということだった。馬車を止めたのは街はずれだったが、風に乗ってにぎやかしい声が聞こえてくる。
「これはほんとうに大きな街だ。うまいものもあるかもしれないね」
先生が疲れを見せぬまま歩き出すので、あわてて後を追った。
街の広場は市が出ていて、あちこちで果物や野菜や肉が売られていた。
客を呼び込む声、それにこたえる声、値切る声、断る声、笑い合ったり怒鳴り合ったり。聞いたことがないほどたくさんの人の声が、右からも左からも波のように押し寄せる。
先生は途中でりんごをいくつか買い求め、それをかじりながら煉瓦道をそぞろ歩いた。りんごは甘く喉を潤し、旅の疲れも癒される気がした。
これで青が見つかれば、何もいうことはない。
「あれ。先生じゃないですか」
人ごみで声をかけられて足を止めた。先生がああ、と顔をほころばせたその人に、覚えがあった。
先生と引き合わせた人買いの青年だった。
「どうしてこんなところに。元気にしていたかい」
懐かしがる先生に、青年は「実はあのあとすぐにクビになっちまって」と苦笑した。ではもう人買いから足を洗ったのだ。やけに整った身なりをしていて、ここでは別の仕事をしていると話した。
「ああ、お前も。ちゃんと先生のお役に立っているか」
青年は相変わらず人懐こい笑顔で笑いかける。あのとき彼が筆に目を止めてくれなければ、きっと先生のもとで働くことはなかった。
「この子がいなければ、私はこんなにも気丈にいられなかった。ほんとうにいい子に引き合わせてくれたよ」
先生の言葉に自然と背筋が伸びた。青年もその言葉にいかにもうれしそうに顔をほころばせ、手を伸ばして大きな手のひらで頭を撫でた。
「頑張っているんだな、よかった。俺の見立て通りだ」
それにしても、と青年は先生に向き直った。
「どうしてこんなところに、はこちらの台詞です。先生はなぜこちらに」
先生は事情を説明した。幻の青を求めてやってきたこと。わざと遠くへ連れてこられたこと。この街で何か手がかりを探したいこと。青年は眉を寄せて先生の話に耳を傾けていたが
「残念ながらここには詳しい人間はおらんでしょう。俺はけっこう長いことこの街におりますが、芸術がわかる者の話を聞いたことがない。
……
ああ、でもちょっと待って」
青年は斜めにかけた鞄から、小さく折りたたんだ紙切れを出した。擦り切れたそれは、雑に書きなぐられた地図だった。
「黒い服を着た旅人に聞いたんですがね、なんでもあの山を越えたあたりに、だれもが見とれるすばらしいものがあるらしい」
急いで書いたから縮尺は合っていないが、ここから歩けない距離ではないという。先生はその地図にじっと見入った。
「だれもが見とれる
……
」
「先生がおっしゃる鉱物かどうかは、残念ながらわかりませんが」
どうします? 青年が先生を覗き込んだ。
「ここで会ったのも、俺がその話を覚えていたのも、何かの引き合わせかもしれません。もし先生が行ってみるというなら、おともしますよ」
「引き合わせ、か」
先生がぽつりとつぶやいた。目をゆっくりと閉じ「行きましょう」と言った。
御者と案内役はこの街で待つことになった。青年が「道が険しいから身軽な方がいいでしょう」と言ったからだった。
先生とふたりで馬に乗り、青年が馬を引いて歩いた。想像した通り道はどんどん険しくなり、何度も馬は足を止めた。ときには馬を降り、先生も岩だらけの急坂を自分の足で歩いた。大丈夫ですかと気づかうと、もちろんだよと返ってくる。
途中でやむなく多くの荷物を手離したが、先生は「それもまたいいかもしれない」とどこかふっ切れたような面持ちで笑った。
坂を上り、上り切ったかと思えばこんどは馬も転ぶほどの下り坂が続いた。
「幻と言われる意味がわかるよなあ」
青年が息を吐きながら苦笑した。
「こんなに苦労してそれを見たがるなんて、よほどの変わり者か欲張りだけだな」
あはは、と先生はかろやかに笑う。
「じゃあ私は世界一の欲張りだ」
「先生は欲張りではないですよ!」
「いいや、私はずいぶんと欲張りだよ。ほんとうにあるかどうかわからないもののために、こうしてお前たちを巻き込んでいるのだからね」
坂を上ったり下りたりを数え切れないほどくり返した。先生がふと足を止めた。どこか具合が悪いのか、それともさすがに疲れて歩けないか。馬に乗りましょうと声をかけたが、先生は唇の前に指を立てて耳をそばだてている。
「あの音は
……
これは」
青年もふと耳を澄ました。
なんだろう。遠くから聞こえる。嵐の日に風がどっと押し寄せるよりももっと低く、足元から揺るがすような音。規則正しく、しかし雷鳴のように近づいてくるでもない。動物の群れだろうか。
「俺が見てきますよ。待っていてください」
青年は駆けだした。ようやくゆるくなった下り坂に、その背中が消えていくのを、先生はしばらくぼんやり見つめていたが、やがて「私たちも行こう」と歩き出した。馬を引く足取りは最初はゆっくりと、しかし次第に早足になる、それにつれて耳を揺るがす音もだんだん大きくなる。
気づけば先生は走り出していた。
何日も歩き、疲れがたまっているだろうに、どこにそんな力が残っていたのだろうと思うほど全速力で。先生を追って走りながら胸騒ぎがした。これは、何かの前触れだろうか。あの青年が何かひどい目にあっているとかではないのか。
先生のあとを追いかけて、駆けて、駆けて、駆けて、これ以上走れば息が続かない、と思ったとき、ふいに視界が開けた。
真正面に、見たことがない光景が広がっていた。嗅いだことのない香りと、止まらない音、そしてやや丸みを帯びた線が、はるか遠くで世界を上下に分かつ。
「先生」
声が、体中が震えた。先生はただ呆然と立ち尽くしていた。瞬きをわすれたように目を見開き、正面からごうごうと吹く風を受け、縫い付けられたように動かない。足は砂に埋もれていた。
「先生、」
先生の視界にあるものを見た。アトリエにあったどの色とも違う青。
世のものとは思えないほど、透き通っていてあかるくて、空を映した尊い、
「海だ
……
」
先生の声が風に溶けた。
互いの顔も見えないほど暗くなってから近くの林に戻った。
耳の中に波音が絶えずくり返していて、リフレインに酔いそうだった。砂まみれの足を払い、波しぶきでベタベタする顔や手を小川で洗った。小さく火を焚いて、気持ちをすこし鎮めてから、持ってきたわずかな食べ物を二人で分けあった。
体はくたくたに疲れているのに頭と気持ちは妙に冴え冴えとしていた。先生は波音を聞きながらぽつりぽつりと話をした。
「ずいぶんと前だよ。私に、大丈夫と言った人がいた。あなたの願いはいつかかなえられると」
どんな人だったのかももう思い出せない。青い鉱物をただただ追い求めて、漠然とした言葉を信じて、もしかしたら夢で終わるのかと諦めそうになりながら、これまで描いた絵も、絵の具も家も、暮らしも何もかも手放して、もたらされたものが「こんな形だったとは」と苦笑する。
「もう絵は描けないかもしれないし、何も持ち帰れないかもしれない。でも、やっぱりあの言葉は嘘ではなかったと思うんだよ」
波音は途切れることなく、その音に揺られるようにだんだんと眠気が襲ってくる。重い瞼が落ちてくるのをこらえて火を見ているうちに、あることに気づいた。
ここまで案内してきた青年がいない。先に様子を見てくるといって駆け出したはずなのに、砂浜には姿はおろか、足跡ひとつ残っていなかった。あの親切な人は、無事だろうか。先生が海を見たことを、知っているだろうか。
「どこかで道を間違えたか、踏み外してはいないでしょうか」
眠りに落ちる寸前、寝言に紛れさせた問いに、先生は一瞬押し黙った後、小さく「彼だったか」と呟いた。
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