カメタ🐢とフジサワ🗻
2024-08-13 11:40:59
42953文字
Public
 

Action

〜カメタ(@kmt9993)とフジサワ(@fujisawa135)の本編軸ちさたきリレーSS企画〜
*こちらのPrivatter+にて全編公開しております!

『Action』
【目次】
①Prologue(カメタ)
②Scene#1(フジサワ)
③Scene#2(カメタ)
④Cut & Break(フジサワ)
⑤Reaction(カメタ)
⑥Epilogue(フジサワ)



Cut & Break


「モバイルオーダー分、あがったぞ」
「はいは~い。じゃ、私、配達いってきまぁす」
 あれから二日、キッチンカーリコリコはいつもと同じメンバーで営業を行っていた。さすがにそう何度も闇雲にシナハンに出るわけにもいかず、プロデューサー・クルミからは、作品テーマについて一向にOKが出る気配もない。ならば千束とたきなが今するべきことは、こちらでの生活或いは撮影のために稼ぐことのみであった。
 たきなが名乗りを上げるよりも先に、千束はミカの用意した紙袋をぱっと手に取ると、キッチンカーのステップを降りていく。
「千束、わたしが……!」
「ああ、いいっていいって。私がぱぱ~っと行って来ちゃうからさ」
 慌てて追いかけてきたたきなに、千束は振り向かずにひらりと手を振ると、裏に立て掛けてあった電動自転車の鍵を手早く解除した。
「じゃ、いってきま~す」
 舗装された地面まで自転車を押しながら、千束は軽くキッチンカーを振り返る。そのままさっと自転車にまたがると、あっという間に道の向こうに消えてしまった。
……いってらっしゃい」
 すっかり届かなくなった言葉を零しながら、たきなが小さく手を振る。
 千束の方がコーヒーを淹れ慣れている分、こういう時先に配達へ出るのは、本来たきなの方だった。
 それがここ二日、千束が先に出ていく回数が増えている。
 別にたきなが遅れをとっている訳ではない。ただほんの少しのタイミングで、千束に先を越されるのだ。
 歯車が小さく軋んでから回っているような違和感。あの夜から何かがしっくりときていない。
 たきなが小さく溜息をつきながらキッチンカーに戻ると、カウンター前のパラソルの下、アウトドア用の椅子に腰かけながらゲームに興じていたクルミと何気なく目が合った。
「どうかしましたか?」
……いいや」
 何か問いたげな視線は一瞬のこと。クルミはそっくり返って椅子に座り直すと、顔の前へ横向きにしたスマホを掲げた。
 たきなはタブレットを手に取ると、千束が配達を請け負ったオーダーリストに出発済みのチェックを入れる。
 するとそのタイミングで、二つ目のモバイルオーダーが飛び込んで来た。
 千束が受けた配達先とは反対方向。しかもやや遠いオフィス街からだ。
「店長、モバイルオーダー追加です。ホット2つとアイスカフェオレ1つ」
「そうか。それじゃぁ、それはたきなに……んん」
「どうかしましたか?」
「いや、思っていたより豆が減っていてな」
「ついでに買ってきましょうか」
「いや、焙煎のオーダーもしたいから直接私がいこう。ミズキ、配達分を淹れたら、ちょっと出てくる」
 身を乗り出して運転手側に声をかけると、ミズキが半分面倒くさそうな顔で窓から顔を出した。
「千束は?」
「さっき配達に出た。店番を頼む」
……はいはい」
 千束がおらず、ミカも店をあける。さらにたきなも配達に出るとなれば、店番できるのは自分しかいない。ミズキが明らかに残念そうな視線をクルミに向けると、小リスからは『少しは働け』と言わんばかりの冷たい視線が、まっすぐ跳ね返って来た。
 店唯一の自転車は千束が乗っていってしまったため、たきなは店のすぐ近くに設置されているレンタル自転車を利用することにした。普段なら一台で十分事足りるのだが、たまにこんな風に逆方向の配達が重なることがあるのだ。
 ハワイに永住するつもりでもないため、後々のことを考えて身軽な方が良いだろうとこのサービスを選んだのだが、思った以上に合理的で利便性が良く、たきなは結構気に入っている。
「いってきます」
「いってら~」
 ミカから受け取った紙袋を手に、千束が消えた方角とは反対方向へ向かうたきなの背中を、画面から顔を上げたクルミがちらりと目で追った。
 そのまま視線はたきなの遥か上方へと向けられる。
……映画撮影どころじゃなくなってきたな」
 乾季のハワイには珍しく、その日の空は一面の薄暗い雲に覆われていた。


「素敵なブレイクタイムを」
 配達先のオフィスを出たたきなは、スマホで時間を確認すると、近くのレンタルステーション目指して歩き始めた。オフィスの近くに丁度良い駐輪スペースが無かったため、一旦近くのステーションに自転車を戻すことにしたからだ。
 目的の場所に辿り着くと、目の前の広場では夕方から始まるマーケットの準備が始まっていた。この間千束と出かけたところとは別の市場で、ここは野菜を中心とした食料品が主流らしい。
 運搬用のプラスチックコンテナからちらりと見えたのは、先日持ち帰った成果……ならぬ青果と同じものだった。
 一緒に行くから楽しいのだと言っていた千束の声が耳に甦る。
 ふと目線を落とした手のひらからは、握られていた彼女の手の温度まで思い出してしまいそうで、たきなはきゅっと小さく右手を握り締めた。
 あの夜つい吐露した胸の内は、今更無かったことにはできない。かといって「おやすみなさい」をまともに返せなかった程度には、たきなもあれ以上千束と向き合うことはできなかった。結局全てを曖昧にしたまま、丸めたタオルケットのように頭の片隅に押し込められている。
 たきなが小さく溜息を零して自転車のロックを解除すると、ぽつりと腕に冷たいものを感じた。空を見上げれば、細い筋がぽつぽつと降り始めていた。
 今の時期、ハワイでは滅多に雨に降られないが、一度降り出せばざっと急に強くなる。
 通り雨のようなものなので、その一時さえ抜けてしまえば問題ないのだが、あえてずぶ濡れになり体を冷やす必要もなかった。
 急げば小降りのままで間に合うかもしれない。たきなは行きよりもペースを上げてペダルを漕ぐ。
 程なくして前方に、臙脂色の羽織を着た大柄な男が、杖をつきながらゆっくりと歩いているのが見えた。
「店長」
「おお、たきなか」
 真横に来たところでたきなが強くブレーキをかけると、ミカもゆっくりと足を止めた。手元には中サイズの紙袋が二つ、濡れないように懐へ抱え込まれている。
「お店、この辺だったんですね」
「ああ、すぐそこでな。発注ついでにお試しの豆を……
 ミカがそう話し始めた途端、アスファルトに散る雨の跡が忙しなく増え始めた。ミカはその辺でタクシーでも拾うつもりだったのかもしれないが、生憎周辺の道路にその気配はない。
 代わりに数メートル先には、カフェの看板が一つ。
 ミカはふっと口元を緩めると、その看板を顎で小さく指し示した。
「ちょっと寄っていくか」
 たきなはもう一度雲の様子を見上げた後、「はい」と静かに答えて、その店の軒下へと自転車を寄せた。

 
 運ばれてきたコーヒーカップは、品の良い真っ白な姿をしていた。
 たきなはまだ微かに揺れる水面に一度視線を落とした後、ちらりと上目で目の前の上司の様子を窺った。
 考えてみればミカと二人きりなんて、初めてのことかもしれない。かつてはリコリスの司令官だったというが、いまや街のレトロな喫茶店のマスター。家族のようなあたたかさで、自分たちを包み込む部下思いの上司だ。
 もっともたきなに家族がいたことは無いので、あくまで千束に見せられた映画や漫画の受け売りなのであるが。
 しかしそのシャツ一枚の下には、鍛え抜かれた強靭な肉体が眠っていることもたきなは知っている。東京にいた頃から何度か指導を受けたが、千束が先生と呼ぶだけあって、たきなは子どものように簡単にあしらわれてしまった。
 彼がカップに口を付けるのを待って、たきなもカップに唇を寄せた。
 香ばしいコーヒーの香り。リコリコより少し酸味が強いだろうか。しかしすっきりとした後味に加え、微かな甘みも感じられる。
 たきなにコーヒーの味を教えてくれたのも、目の前の恩師だ。
「美味しいです」
「そうだな。苦みのバランスも悪くない」
 たきなはもう一口香りを味わうと、静かにカップを置いた。
「でもわたしは、店長のコーヒーの方が好きです」
 ミカは意外そうに一度瞬きをすると、口元に笑みを弛ませてゆっくりとカップを傾けた。
「君は千束の淹れたコーヒーの方が好みだと思っていたよ」
「なんでですか?」
「顔を見ればわかるさ」
 ミカは微笑みながらコーヒーを飲むばかりで、それ以上は答えてくれそうもなかった。
 千束のコーヒーは、ミカの淹れたものよりも少しだけ苦い。だがその微かな苦さが千束自身を表しているようで、たきなは嫌いではなかった。
 通り雨は強くなり、外の景色を一気に色濃く濡らしていく。
 よく磨かれた窓ガラスには、片隅に座ったミカとたきなだけが映しだされていた。
「店長……
「ん?」
……千束は、わたしを恨んでいるでしょうか」
 窓の外の空を見上げるように、たきながぽつりと呟いた。
「なぜそう思うんだい?」
…………
 死にたがっていたから――とは、口が裂けても言いたくなかった。それをたきな自身が認めることは、絶対にしたくなかった。
 胃の奥がチリチリと焼き焦げるような感覚に再び襲われ、たきなはサロペットの左腿の上を堪えるように小さく掴む。
「そういえば、店長。昔、千束にカメラを買ってあげたんですか」
「ん? ああ、そういえばそんなものもあったなぁ」
 自分から問いかけておきながら、ミカからの問いには応えることもできず、たきなは無理やり別の話題を引っ張り出した。
「この前、千束に見せてもらいました」
「カメラをかい?」
「はい」
 ミカの顔が上司から父親に変わる。
「小さい頃、手術を怖がる千束に買ってやった物なんだが、手術が終わってからすぐに楠木に取り上げられてしまってね……そうか、返してやったのか」
 感慨深そうに何気なく呟やかれたミカの言葉に、たきなは小さく声が漏れそうになった。そして思い出す。あの時はうまく聞き取れなかったが、千束は泥棒に盗まれたとかなんとか、そんなことを言ってはいなかっただろうか。もしそれが楠木のことだとしたら、話の辻褄は合うことになる。
「どうして司令が?」
「機密漏洩を防ぐため、だそうだ」
 カップを揺らすミカの瞳に、ほんの少しだけ寂しさが宿る。その意味は理解できなかったが、どうせ幼い千束のことだ。DAの中で所構わず撮影でもしたのだろう。
 ミカが知らなかったということは、千束の手元にカメラが戻ってきたのはごく最近。ならば見せて貰った写真が新しい物しかなかったのも、なんら不思議はなかった。
 ――消したわけじゃなかったのか。
 もしかしたらメモリーカードを入れ替えたのかもしれないが、少なくとも彼女はこれまでの十年を……そして相棒の自分と過ごした時間を、否定したわけではなかったのだ。
 その事実に、たきなの身体の奥深くで、じわりとあたたかいものが広がっていく。その一方で、そのあたたかさに折り重なるように、あの夜感じた沈み込むような重たさが、再び胸の中を侵食し始めた。
 一度は自ら逃げたはずの話題に、たきなは再び飲み込まれようとしていた。
「わたしは……千束の気持ちが分かりません。ずっとずっと……謎だらけです」
 出会った頃から謎だらけ。でも前とは少し意味が違う。踏み込むのが怖い。
 漆黒の液体に視線を落とすたきなに、ミカが静かにカップを置いた。
「千束の心は、千束にしか分からない」
…………
「だから聞いてみるといい。それは君だけの特権だ」
「店長……
「君たちにはまだ、交わせる言葉があるだろう」
 秘密ばかりで汚いのは、大人だけで十分だ。
 そう独り言のように呟いて、ミカはカップの中に残っていたコーヒーを一気に傾けて空にした。

 
「降られたぁ~っ」
 キッチンカーに戻って来た千束を出迎えたのは、顔面に向けて飛んできた真っ白なタオルだった。
 普段なら避けるところだが、今日は甘んじてその柔らかい攻撃を受け入れる。
 ぼふっとそれをキャッチすると、千束は顔や頭を丁寧に拭いてから、身体の水滴を出来る限り拭っていく。
 あと少しの距離が間に合わず、キッチンカーを目の前にしてだいぶ濡れる羽目になった。
「今日のはちょっと強いわねぇ。アンタ、日頃の行い悪いから」
 追加のタオルを投げてよこしながら、ミズキがキッチンカーから空を眺める。
 遠くの西の空は既に明るくなり始めていた。なんともいえないタイミングの悪さだ。ミズキの言葉に、千束は悔しそうに顔を歪める。
「たきなは?」
「配達。ミカは買い物」
「そ」
 キッチンカーの中は、珍しくミズキしかいなかった。助手席に人の気配はするから、多分クルミが避難しているのだろう。
 こういう時すぐにタオルを持ってきてくれるのは、いつもたきなだった。
「身体冷えたんだったら、コーヒーでも淹れたら? アタシも飲むから」
 キッチンカーの中に入れた丸椅子に座り、足を組んだ姿勢のまま、ミズキがさも当たり前のようにカップを顎でしゃくった。
「なんで濡れた私に淹れさせるかな。こういうとき、普通はミズキが淹れるもんだろぉ」
 ジト目でブツブツ言いながら、千束が2人分の携帯カップを棚から出して、律儀に二杯分のコーヒーを用意していく。
 雨の匂いが次第に香ばしい匂いへと変わっていき、ゆらりと湯気の立つカップがミズキの前に不服そうに差し出された。
 自分で入れたコーヒーを啜りながら、千束はキッチンカーの外に目を向ける。まだ雨はやまない。たきなは大丈夫だろうか。
「やっぱアンタのは苦いわねぇ」
「うっさい。文句あんなら飲むな」
「たきなだけは嬉しそうに飲んでるけどねぇ」
……
 軽い調子で発せられたミズキの言葉に、千束の腰が壁に預けられ、視線が足元へと落ちた。
「ねぇ、ミズキ」
「ん?」
……私が逃げた時、少しは私のこと思い出した?」
「何よ、急に」
「いいから」
 頭からかけた二枚目のタオルが、少し俯いた千束の表情を塞ぐ。テーブルに頬杖をつきながらその姿を見つめていたミズキが、面倒くさそうな溜息を一つ零して、視線を店の前の広場へと外した。
「そうねぇ……思い出してはいないわね」
 言いながら横目にちらりと様子を窺うと、らしくもなく、千束の肩が微かにぴくりと揺れた。
「キッチンに写真張り付けて、毎日呪い続けたから。時々ペティナイフ投げつけてたし」
「こわっっ!!」
 跳ねるように顔を上げた千束の頭から、タオルが滑り落ちそうになる。
「あったり前でしょうが。誰のせいで店大変だったと思ってんだ」
「ぅぐっ……
 どの口がいうかとでも言うように、けっと強く言葉を吐き出しながら、ミズキは隠すことなく千束に非難のジト目を向ける。
「クルミは毎日押し入れ籠ってアンタの捜索してたし、ミカはアンタが脱走者にならないように定期的にDAのお偉いさんに交渉して……思い出に浸る余裕なんて、ミジンコほども無かったわ」
 ぺぺっと苦い物でも吐き出すように口を曲げて、手で千束を払いながら、やれやれとばかりにふんぞり返るミズキ。完全に藪に足を突っ込んでしまったと、千束は思わずばつの悪そうに視線を逸らす。
 だがミズキの話の中に一人足らないことに気が付いて、千束は再び窺うように視線を戻した。
 こくんと一度固唾を飲んでから、ゆっくりと口を開く。
……たきなは?」
「あの子が一番、ず~っとアンタのこと考えてたわよ。それこそ24時間、年中無休。日本のコンビニかっつーの」
 ミズキの言葉に、千束の口が強張るように一文字に結ばれた。
 落ちかかったタオルを肩の上から滑らせると、千束は顔を塞ぐようにそれを押し当てる。そのまま一度、肩で大きく深呼吸をした。
「たきなになんか言われたの?」
……
 ミズキは残りの少なくなったカップで、こつんとテーブルに音を立てると、座り直すように足を組み替えた。
……アンタがいない間にね、たきなに本部復帰の話があったのよ」
「え……
 驚いたように顔を上げた千束に、ミズキは呆れた溜息を一つ返した。
「そりゃそうでしょ。作戦無視の独断行動こそマイナスだけど、真島の一件じゃ、アンタと並んで一番の功労者だからね、あの子」
 一呼吸入れるように、ミズキはカップを大きく傾ける。完全に空になったらしいそれは、テーブルに戻された時、紙カップ独特のなんとも軽い音がした。
「おまけに喫茶リコリコ所属の唯一のファーストは行方不明。当然支部の取り潰しの話も出てきたし、たきなの配置換えだって普通でしょうよ」
……
「でも喫茶リコリコは存続されて、たきなは今もここにいる。それが全てってことよ」
 ミズキはカップをくしゃりと握りつぶすと、丸椅子を立ってゴミ箱へと近寄った。ペダルを踏んで蓋を開け、中にカップを放り込むと、背後から掠れるような声が聞こえた。
……なんで?」
 そんなこと問うまでもないだろうに。ミズキはぱんと手を払った後、顔の横の髪を面倒くさそうに一度掻き上げた。
 理由は明白だ。だがミズキはそれを千束に教えてやる気にはならなかった。いまやたきなだって、自分の可愛い妹分なのだ。
……たきな、まだ怒ってるかな」
 なんとも見当違いの一言が、古株の妹の口から洩れた。
 再び項垂れた千束に近づくと、ミズキはぺしっと景気よく白金の後ろ頭を引っ叩いた。
「ぃったっ!!」
「アンタはいっぺん、たきなに捨てられるべきだわ」
 濡れたタオル二本を千束から引っぺがし、新しいタオルをばさりと頭からかけてやる。
「アンタが消えようとしたみたいに、たきなだっていつかアンタの隣からいなくなるかもしれないってこと、ちゃんと分かってなさい」
 ミズキはタオルをくるりと丸めると、洗濯カゴの中にごそっとそれを投げ入れた。
 
『思い出してくれる人がいれば、自分はいつ消えてもいいってことですか』

 どこか鬱屈としたものを滲ませたあの言葉は、きっとたきなの本音だ。
 あの時自分が続けたかった言葉は、彼女が吐露した小さな声を前に、何も言えなくなってしまった。
 千束はポケットからスマホを取り出し、写真フォルダをあける。
 中にはかつてと違う意味を得た写真が、山ほど笑顔で詰まっていた。
「思い出すことなんて、一度もない……か」
 再会してから、いや、その前からずっと感じていた隣の温度。思い出すことなんてない。確かにその通りだ。千束の口元から自嘲気味な笑いが零れる。
 雨に濡れたせいではなく、今はただ、何かが欠けたように隣が寒かった。
 たきなの声が聞きたい。
 ぴこんと短い音が鳴って、メッセージが一通、千束の元へ飛び込んで来た。
『雨があがったので帰ります』
 まるでこっちの気持ちを察したようなタイミングに、千束は思わず小さく笑いを漏らす。
 文字だけのはずなのに、たきなの声が聞こえた気がした。
「ねぇ、ミズキ」
「ん?」
「私、たきなが撮りたい」
……は?」
 レンズは時に被写体の思いも、撮影者の思いも克明に映し出す。
 それがパチリと嵌った時、たきなに伝えたかった閉じ込めるだけではない何かを、形にして彼女に見せられるような気がした。
 たきなを思い出にするために映画を撮るわけじゃない。
 たきなと一緒に見るために、大好きな映画を撮るのだ。
 あれほどアスファルトを濡らした雨はもう殆ど上がっており、雲の隙間から差し込んだ夕日の筋が、地面に小さな虹を描いていた。