雨宮水月
2024-07-18 14:26:53
8154文字
Public 企画
 

第二回誰の文章だゲーム

参加者6名の中で、どの作品を誰が書いたのか当ててみよう!



【作品B】

 「おかえり〜!」
 「ここに来て嫌だった言葉ランキングが更新されることあるんだ」

 堂々の第一位は「別れよう」である。もう何度見たかわからない短いメッセージに気づいたのは、疲れ果てた身を揺れる電車に任せていた時だった。最寄り駅に着いてすぐのコンビニに駆け込んで、気になっていた缶チューハイすべてを買い物かごに入れたところまでは良い。財布から出ていったお札の枚数を考えると良くはないが、深く傷ついた自分を慰められるのは己と実家の斑猫しかいなかったに違いない。
 問題はやけ酒を飲んだ後だ。明日が休みであろうとシャワーは諦めたくないと床を這ったものの、記憶は洗面所に辿り着く前に途切れている。そんな弱き人間のために目覚まし時計の代役を買って出たのは、異様な暑さと焦げた臭いだったらしい。まさか火事かと跳ね起きると確かに辺りは燃えていた。おまけに見覚えのない人たちが炎に包まれながら悲鳴を上げていた。あれまだ夢の中、と頬を抓る前に熱が肌を撫でて、反射で口から聞いたことのない絶叫が転げ落ちる。気持ちは嬉しいけどもっと優しく教えてほしい、柔らかい羽で擽るとか。
 追い立てられるように走り出してどのくらい経ったか、わかったのはどこへ行こうと火から逃れられないこと、ここが我がオアシスたるマンションではないこと、ずっと痛みや苦しみを嘆く声が聞こえることだけ。鎖で縛りつけられて、煮え滾る液体の中を引きずり回されたり頭からかけられたりと、散々な目に遭っている人々を見て悟る。ここは地獄では、と。つまり、私は死んだのか。
 なかなか切ない事実だった。事前に知っていたら焼肉屋に行ってシャトーブリアンを注文したというのに。それよりも地獄行きになるような人生を送ったとは思えなかった。次々と恋人を変えたことがいけなかったのか。告白するのも振るのもいつも相手からだったが、来る者拒まず去る者追わずの私が悪いことになるのだろうか。こちらは彼または彼女を真摯に愛していたつもりだ。それでも別れの言葉を突きつける前に言うことは皆同じ、「私のこと好きじゃないよね」。
 物心がついた頃から己を支配する、喪失感を埋める何かを探していたことは認めよう。誰と付き合っても整合する者がいなかったからこそ、次を求め続けたことも。しかし神に抗議したい。地獄に落とすくらいなら、片割れと出逢わせてくれても良かったのでは? 届くはずもない不満を漏らして、少し休もうかと速度を緩めた時、それは音もなく降り立った。

 ――美しい女だった。雪よりも白い肌の上で、淡い紅色をした髪が軽やかに躍る。すらりと伸びた脚は惜しげもなく晒されて、両足首の連環の装飾が涼やかな音を立てた。明け方の空に輝く一対の星に射止められて、呼吸を忘れてしまいそうになる。私に息を継がせたのは彼女の唇で、陽光に透かした花びらのようなそこから、地獄への帰還を喜ぶ毒が放たれたのだ。
 私は人として生まれる前にもここにいたのだろうか。そして結局天国には行けず逆戻りしてしまったと。かなりショックである。言われた相手が彼女でなければちょっと泣いていたかもしれない。今涙が湧かない理由は、別の考えに囚われているから。
 「もう、突然いなくなって心配したんだから」
 「どこかで会ったことあるかな?」
 やはりあるようだ。星が光を弱めたのを感じて、慌てて言葉を探した。私は彼女を見たことがないはずだが、確かに知っている。答えを見つけ出すまで、どうしても引き留めておきたかった。
 「違うんだ、こんなことを誰かに言うのは初めてだよ」
 「……いいの、ひとりでも見張れなくはないし。大変だけど」
 踵を返す女の腕を、思わず掴んでいた。これまでに触れた何よりも滑らかな手触りをしているという感想を持つ。その直後に襲う浮遊感。私の体は、宙に投げ出されていた。
 眼下に広がる闇。底の見えない穴。地獄で死んだらどうなるのだろう。二度死ぬのか、生まれ変わるのか、意識ごと砕け散って何も残らないのか。天を仰ぎ見る。こちらを突き飛ばしたはずの彼女がひどく苦しそうな顔をしていたから、早く傍に戻らなければと思った。

 「なんてね、冗談……
 「ごめん」
 自分の脚に桃色の艶やかな髪が絡みついている。千切れてしまう前に丁寧に解いて、手櫛で梳いた。助けようとしてくれたのは嬉しいが、彼女の一部であろうと傷つけたくはないし、私も宙吊りにされていたら辛かったかもしれない。でも、もう二度と墜落を恐れることはないのだ。
 分かち難い片割れが息を呑んで、飛びつくように首に腕を回す。その背中を引き寄せて、つい先程取り戻したばかりの翼で包み込んだ。
 「ただいま、マールート」