つなみ正登/ぱるこ
2024-06-15 08:17:10
39373文字
Public
 

思い出になる日が来たとしても(神田×弓場)

テキスト全体の半分くらいまで(試し読み用



 弓場と関係したことを知ったのは、他ならない王子の口からだった。


「あれ、蔵内は一緒じゃないの?」
 一年ほど前のあの日、下校した足で着いた神田が弓場隊作戦室に顔を出すと、そこには王子がひとりだけ残っていた。
 高校も性情もずいぶんと違うけれど、だからこそかもはや無二の親友とも言ってもいい蔵内を、同校の神田が伴っていないことに王子は疑問を呈する。
「学期末は生徒会も色々忙しいみたいだぞ。特に蔵内は会長職を引き継いだばかりだし」
「ああ、そうか。六頴館は三期制だっけ」
 ぱちり、と乾いた音がトリオンで形成された部屋にひそやかに響く。
 その、暇を託つというよりは優雅に耽溺しているような風情が、本――それも詩集でも読んでいたのかと思わせたが、組んだ足の上に置いた手にあったのは、二つ折りになる簡素なマグネット式のチェスボードだった。
 王子が愉しむなら、革命政府を非難して断頭台の露となったシェニエの詩集あたりが似つかわしそうだな、と思いもしたが、彼のたおやかな外見にひそむ反骨精神はよりしたたかに、狡猾に立ち回らせるに違いない、とも埒もない考えに神田は微苦笑した。
 そんな神田の雑感など知らず、王子はリバーシをもっと薄くしたようなチップの、王冠が記された白の駒を指先でつまむと、大胆に大きく敵陣へと動かした。
 ふと思い出したのは、いつかの水上の言葉だった。
『まさに、奔王やな』
『ほんおう?』
 王子に誘われてチェスを指していた水上が、彼が中座した時にぽつりとそんなことを言ったことを思い出す。
 おったんか、と彼ははにかんだように神田にほのかな苦笑を向けた。
『そういう駒があるんや。奔放の奔に、王将の王。こいつ』とクイーンの駒を指さし、『同じ動きをするねん』
『将棋にあったっけか、そんな駒?』
『俺らが指しとる九×九の盤でやるような、所謂本将棋にはあらへん。中将棋とか、そっち。もっと盤面も広くて駒数も種類も多いねん』
『へえ』
『王子はクイーンの使い方が上手い。自分によう似とるからなな』
 あまり神田は詳しくないが、水上が得手とする将棋においては飛車と角を兼ね備えた動きをするとのことだった。
 なるほど、機敏で果敢な戦い方を好む、彼らしい駒だった。
『起源は実際どうなんかはよう知らんが、字面だけなら王子らしいと思わへん?』
 癖のある笑いをかすかに浮かべた水上の表情は思い出せるけれど、自分がどう答えたのかは忘れてしまった。
 だが、その名に戴くように、他者の目は評価などに重きは置かず、自分自身の主たる王の気風を王子一彰という若者が備えていることは事実だった。今でこそなりをひそめてはいるけれど、かつて弓場の手を焼かせたほどには。
「三門一高《そっち》は二期だろ。テストの回数少なくていいな。隊長とののさんは?」
「緊急の隊長会議。システム運用面での現場の意見も聞きたいから、オペも同行だって」
「ああ、そういや俺が玄関出る時に、一年のオペレーターたちが呼びつけたタクシーに飛び乗ってたな。ありゃ、それか。真木なんか、学生としての都合も考えて欲しいものねっておかんむりだったぞ」
「はは、あの子なら言いそう。三年はもう自由登校だからいいけど」
 ロッカーにスクールバッグを放り込み、コートから袖を抜こうとした神田の背中に、王子は告げた。
「あのね、神田《カンダタ》」
「ん?」
「ぼくね、弓場さんと寝たんだ」
 例えば今日のランチのメニューを告げるかのような雑談の延長にも似た、あっさりとしたトーンで。
……何だって?」
「弓場さんとセックスしたってこと。抱いてくださいってお願いしたんだ」
 脱いだコートを押し込み、ロッカーを閉めて振り返った神田を、チェスボードを閉じた王子はその青い瞳でじっと見つめていた。
 まさに、奔放な王とばかりに、何に恥じ入ることもなく。
「まさか聞き届けてもらえるなんて思わなかったけど」
 嘘をつけ、と思った。彼ならばその知略と慧眼と手管をもってすれば、たとえそれが弓場相手であろうとかなえられると踏んでの上のことだろう。
 勝てない勝負を、負けない勝負に持ち込むのが防衛隊員の仕事なのだから。
「それを、なんで俺に言う」
「ずっと黙ってたんだけど、きみには言っておかないと不公平だと思ったからさ」
「不公平」
「そう。弓場隊はB級一位になった。もうすぐA級との昇格戦がある。結果はどうあれ、それが終わったら、ぼくは弓場隊を抜けるつもりなんだ」
「抜ける?」
 そう、と王子は優美に頷いてみせた。
「いまの弓場隊に何の不満もないけど、自分で部隊を率いてやってみたかったんだ。荒船だって、年下の三輪たちだってやれていることだ。ぼくに出来ないとは思わないかい? 弓場さんやののさんにはもう話してある。クラウチにはまだだけど、今日会えたら帰りにお茶にでも誘いながら言うつもり。新しく出来た和カフェが素敵らしくてね、そこがいいと思うんだ」
「待て待て待て。話の流れが分からない。もっと他人に分かるように説明してくれ」
「弓場さんは、優しかったんだよ」
 奔王の駒は斜め上へと跳ねる。
「それは、知ってる」
 弓場拓磨という青年が、自分も他人にも厳しく律することを求める強面の裏で、どれだけ細やかな配慮と情愛をもって対してくれる人だということを、近しい者たちは知悉していた。
 もちろん、神田も。
「だから、前にお願いしたんだ。ぼくがあなたのお眼鏡に叶う――ん、弓場さん的にはサングラスに叶う、のほうがいいのかな?」
「脱線すんな」
「とにかく、弓場さんにとって花丸貰えるくらいに動けたって太鼓判を押してくれる出来栄えだって思っていただけたら、ひとつだけご褒美をねだっていいですかって」
 先を促すように、神田はロッカーに背を預けたまま、軽く顎だけをしゃくる。
「てめェーがおねだりだなんて珍しいな、って弓場さんは笑ってくれた」
 それも、想像できた。彼が口にした通り、やんちゃで不羈な王子にしては健気にも聞こえるそんな無心を、弓場が興がってかすかに、常ならば引き結んだ唇をほころばせるさままで、思い描けるくらいに。
「律儀な人だよね。そんな自分勝手なおねだり、なかったことにしてくれても良かったのに。ぼくはそれでも構わなかったんだ」
 本当か? と口の端まで出かかった疑問を、神田は意志の力で呑み込んだ。事実が返ってくるとも思えない問いなど、投げかけるだけ野暮だろう、と。
「なのに、弓場さんのほうから言ってくれたんだ。今期のランク戦が終わった時に、いつかのおめェーのおねだり、使うか?って。……だから、言ったんだ。今かなえてもらっていいですかって。ぼくと寝てくれませんか、ぼくを抱いて下さい。そうね」
……
「さすがに弓場さんも驚いてたけど、最終的には男に二言はない、だって。もっとロマンチックな言い方だってあるのに」
「でも弓場さんらしい」
 そうだね、と王子は微笑した。
 一度結んだ約束を違えるなど絶対彼はするまい。前しか向かず、迷わず、嵐にすら毅然と面を上げて立ちはだかる、その生き方。だから、その背をずっと守っていたかった。見ていたかった。
 でも。
 神田の瞼の裏に、未だ提出していない、進路希望調査表が浮かんだ。
 学問内容と『おまえの人生はおまえだけのものよ。父さんの事務所のことも考えなくていいから、忠臣の好きなようにしなさい』と告げた母の名だけが記された保護者記入欄以外、残りはほぼ白い紙面。
 そんな神田の葛藤を知ってか知らずか、王子は事の経緯を淡々と告げる。
「自分勝手なお願いだったからね、酷くされても当然というか、むしろそれを期待してたくらいなのに、すごく優しく抱いてくれたんだよ。男を相手にしたことはない、って言ってたのに、溶けて、ぐずぐずになっちゃうかと思った。体の奥まで弓場さんを感じたあのまま、おかしくなってしまいたかったくらい」
 含羞すらなく告げる彼の唇から、それでも洩れる吐息には、交合のおりのことを思い出した官能が濃厚にしたたっていた。
 ぞくりと神田は身を震わせた。神田も今でこそ決まった相手はいないが、実のところ他人の肌を知らない身ではない。
 重なる他人の重さに、丹念な愛撫に、身の奥を貫かれる快楽と僅かな痛みに身をよじらせ、強張らせた王子の上へと覆いかぶさる弓場の汗が浮いた背を、想像してしまい。
 受験を機に別れることにはなったらしいが、弓場が年上の女性と交際していたことも知っている。だがその時には思い浮かべもしなかったというのに。
 神田がずっと追ってきた、見つめてきた、弓場の背。責任や自負や或いは少しばかりの恐れもすべて背負って揺るがない背中を支えたいとは思っていた。でも。
「そりゃ、良かったな」
「ありがとう」
 しれっと王子は応じた。
「で、それとこれ――隊を抜けるってのがどう関係あるんだ。別にボーダーの規定には恋愛関係にある者が同じ隊に所属することについてペナルティなんかないだろ」
「恋愛関係じゃないよ。確かに、ぼくは弓場さんが好きさ」
……
「好きでなきゃ、わざわざ抱いてくださいなんて言えないよ、いくらぼくだって。でも、弓場さんは違う。まだ」
「まだ」
「そう、まだ。人なんて繋がってるうちに、気持が引っ張られることはあるものだろう? 弓場さんだって人だもの。情が篤いから、もしかしたらほだされてくれるかもしれない。でもね、ぼく、そんなのつまらないな、って思ったんだ」
 神田へとひたとあてられた瞳の青が、一際重さを増す。それはまるで、透明なくせに底など見通せないほどに、深い、深い、湖のような。
「もし、そういう関係になれるとしたら、その前に弓場さんと互角になりたいって思ったんだ」
「そんなおまえ個人の惚れたはれたの戯言に蔵内は付き合わされるのか?」
「言ったろう、クラウチを連れていくなんて決めてないって」
「おまえがそうでも、あいつがついていくだろう」
「どうかな」
「まあ、見てろ。一日か二日くらい熟考してから、弓場さんに頭を下げて脱退を申し出るから。そういう奴だろう」
 おまえを野放しには出来ないだろうし、と付け加えると、野放しは酷いなあ、と王子は肩をすくめたものの、
「神田《カンダタ》は他人のことが良く見えてるね」
「そりゃ、たかが二年足らずとはいえ、それなりに付き合いは濃いからな」
「そうだね。きみはそういう人だし、きみのそういうところにぼくたちも助けられた。……でもね、きみはどうなの」
「俺?」
「ぼく、言ったよね。きみには伝えておかないと、不公平だって」
 王子は立ち上がり、神田へと歩み寄るとすっと手を伸ばした。その手が神田のがっしりとした首を正面から鷲掴みにする。予想もしていなかった行動で、さしもの神田もとっさに反応できなかった。
 底の見透かせない王子のまなざしが、間近に迫る。
「ぼくはね、手合い割《ハンデ》なんてつけた勝負は大嫌いなんだ。互角だと思ってる相手とはね」
 低く抑えられた声とはうらはらの、艶やかな微笑。
「もう一度言うよ、きみは、どうなの?」
……弓場さんにベッドの中でも可愛がられたいってことか?」
「それだけと限ったことじゃないけど、ありていに言えばそうだね」
『神田、よくやった』
『こっちは俺が抑える、そっちは任せたぞ!』
『てめェーがいてくれて助かった。あのチビが、でかくなりやがって』
 戦いの場で、訓練の場で、日常で、注ぐ慈雨のようにかけられた声と信頼と期待。それに値するだけの男になりたかった。
(少しは、なれたんだろうか)
 そして。
『おい、チビ。動けるな? だったら行け、そいつを連れて』
『神田、神田忠臣か。……いい名前だな、度胸もあるし、根性もある。よく踏ん張った』
 今まで見ていた世界がひっくり返ったあの日、たまたま出くわしたあの人が、己も怪我をしていたのに神田へと向けてくれた笑みの深さと潔さ。頭を撫でてくれたあの掌はまだ中学三年で、神田よりたったひとつだけ年上なのに少し父と似ていた。
 あの後、あの人が着ていたのが六頴館中の制服だったということを思い出し、中学の進路表に六頴館高と迷わずに書いた。それはもちろん、将来の夢も前提ではあったけれど。
 高校で、そしてボーダーで。
 あの人の傍にいることが、何よりも嬉しかった。楽しかった。
 おそらくは無邪気なほどに。
……考えたこともなかった」
 考え抜いた末の神田の答えに、はは、と王子は軽やかな笑いで応じて、神田の首から手を解いた。
「拍子抜けだ。意外と初心なんだね。もっと遊んでると思った。
澄晴《スミ》くんが言ってたよ。『神田はモテ過ぎて女がランク戦ワンシーズンももたないけど、すぐに後釜が出来るから余裕なんじゃない』って」
「犬飼の野郎」
 人のことは言えないだろうに、と神田は苦笑いをする。
 それは間違いなく事実ではあった。寄せられる好意を無碍にしたくなくて、友達からでいいなら、という言葉を鵜呑みにして交際を始めたものの「やっぱりわたしじゃダメなんだね」などと言われておしまいになったことは、傍から見ればそういうことなのではあろう。
「それともあえて考えないようにしてたとか?」
 王子の挑発するようなまなざしが神田の腹の底まで見透かすようだった。
「だったら考えてみるといいさ。まだ時間はあるだろう?」
「時間……
「そう。まだ高校生活は一年残ってる」
 意味ありそうに王子は目を細めた。王子とは進路について話したことはない。けれど、大規模侵攻が起きる少し前に事故死した父の遺した建築設計事務所を継ぎたいということなら、もしかしたら洩らしたかもしれない。
 まだ一年。たった一年。
 十七の神田にとってはどちらも等しく。
「あと、ぼくの名誉の為に言っておくけど、独立は前から考えてたことなんだ。だから、これ《、、》はただのきっかけのひとつだよ」
 どこまで額面通りに受け取ったらいいのか、と一瞬思わないでもないけれど。
 だが、それが彼の矜持であろう。彼が持ち、そして弓場隊で磨き上げた。
「そう言うからにはそうなんだろ。その程度にはおまえを信用してるよ。弓場隊攻撃手、王子一彰を」
「はは、光栄だね」
 この日一番晴れやかな笑顔を彼は浮かべた。
「おう、どうした。何盛り上がってやがる」
 そこに会議を終えたらしい弓場と藤丸がやっと戻ってきた。
「神田の初恋の話ですよ」
「おい」
 ほう、と藤丸がにやりと笑う。
「それはあたしも聞きたいな」
「違います!」
「やめとけ。そういうデリケートなことでからかうな。そういうのは野暮ってェーんだよ」
「はぁい」
「はーい」
 それぞれがそれぞれに答えたのを見計らったように、震えた携帯端末のグループメッセージには、蔵内からの「遅くなった。もうすぐ着く」という一言が届いていた。
「いい案配だ。蔵内が到着次第任務に出るぞ、おめェーら」
 弓場の号令がかかって、神田は背を引きしめた。
 その、鋼のように曇りなく研ぎ澄まされた声にも表情にも、部下を抱いたことなど少しも伺わせるものはなかった。
 それに、少しだけ神田は安堵していた。