浮いて沈んでアンダンテ

ピアノ調律師カルナ×元ピアニストジナコの現パロ小説。捏造設定過多につき何でも許せる方向け。

※本編はpixivに掲載済みですが、本にのみ収録していた「番外編」と「エピローグ」を加えて全編まとめました。


【Outro-アウトロ-】



「調子はいかがかしら、カルナ?」

 不意に降ってきた女性の声に、カルナは徐にピアノに向けていた顔を上げた。
 ほとんど専属で調律をしているピアニスト――エレナ・ブラヴァツキーの姿がそこにはある。子猫のような菫色の瞳が、包み込むような柔らかさをたたえながらこちらを見下ろしてきていた。
 身長差の都合で普段はかなり低い位置に彼女のこの瞳を見ているのだが、今はカルナがピアノのそばで膝をついており、彼女はその側に立っている状態である。いつもと異なる視点で見る彼女の顔には、しかしいつもと変わらないからりとした明るい笑顔があった。
 相変わらず、大人を翻弄するいたずら好きな少女のような顔と、幼子を穏やかに見守る母親のような顔を同居させている、そんな不思議な微笑み方をする女性である。そういったエレナ自身が持つミステリアスな雰囲気も、人々が彼女の演奏に惹きつけられる要因になっているに違いない。
 暗闇の中で迷っている心を導かれるような心地を味わうと同時に、幼い頃に己が抱いていた無垢な好奇心やわくわくする心をくすぐられるのだと、彼女のピアノについて以前何かの記事で書かれていたのを思い出した。そんな不思議な魅力を持つ彼女の演奏に、熱狂的なファンが多いのも頷ける。
 カルナも彼女の紡ぐ音は新鮮で、しかしどこか懐かしいような気持ちに駆られるところがあると感じていた。いずれにせよ彼女の性格をよく表しており、とても好ましいものだと思っている。だからこそ、こうして半ば専属という形で調律の仕事をさせてもらっているわけだが。
 そんなエレナがピアノの演奏を披露するのが今回のソロコンサートであり、何でもピアニストとしてのデビュー十周年を記念するものなのだとか。お前は一体いくつからピアニストとしてやっているのかと問うたら、女性に年齢を聞くのは無粋だと軽く小突かれてしまった。ぷうっと頬を膨らませる姿はまるきり少女のそれだったが、しかし彼女自身は既に少女と呼ばれるような歳ではないのだろう。詳細に聞いてみたいという好奇心も当然なくはなかったが、助言どおりその先は口をつぐんでおくことにした、
 そういえば以前、ジナコにも同じことを言われたような気がする。膨れるエレナを見ながら、カルナは何だか懐かしい気持ちにもなっていた。
 それほど過去のことではないはずなのに、もうずいぶんと長いこと彼女と会っていないような気がする。今すぐにでも会いたい気持ちはもちろんあるが、カルナは信じて待つと決めたのだ。それを反故にすることはジナコの勇気や覚悟を裏切ることになるし、カルナも彼女の望みを踏みにじってまで己の願いを叶えたいとは思わない。

 さて、そんなエレナのコンサートだが、本番は明日からとなっている。しかしカルナは彼女が使用するピアノの最終調整をするために、前日から会場入りしていた。当日の天候や本人の調子を見てから行う細かな調律は当然本番前に行うものだが、そこで行えるのはあくまで微調整の域を出ない小規模な作業だけだ。故に、前日の時点で完璧だと言える状態にはしておかねばならない。
 そして今はそのための作業を大方終了させ、さてそろそろ引き上げるかと使っていた道具をまとめ始めたところだった。
 その旨を簡潔に伝えると、エレナはうんうんと満足げに頷いてみせた。

「じゃあこれで大丈夫なのね。私も安心して明日に備えられそうだわ。まあ、あなたに任せて失敗したことなんてほぼないし、そこは信頼しているのだけれど」
「それは光栄だ。それにしても何故今お前がここにいる。入りは明日からだとお前のマネージャーから聞いていたが」
「あら。このあたしが当日まで、言われたとおりに大人しくしているだけのいい子のように見えて?」
……なるほど、愚問だったようだ」

 ほんのり笑みを浮かべながら、カルナは小さく頷いておいた。
 エレナがここにいるのは、もちろん今しがた彼女が口にしたことも含まれているに違いないが、恐らくそれだけではないはずだ。きっとエレナはカルナに用事があってわざわざここに出向いたのだろうというのは、何やら企んでいるらしい様子からうかがえる。
 とはいえ特に嫌な感じはしないし、そもそもエレナがカルナを害するような真似をする必要はない。もし今カルナに何かあったら困るのはエレナ自身だ。それににやにやとなにやら楽しそうにしている笑顔から察するに、そう悪いことを企てているとは思えない。
 そして予感通り、エレナはさも今思い出したという様子で軽く手を叩いた。

「あ、そうそう。今回の私のコンサートなのだけれど、実はゲストをお呼びしているのよ」
「初耳なのだが」
「だって今初めて言ったんだもの」

 くすくす、と小さな肩を震わせながら、いたずらっぽく笑うエレナ。
 なるほど企み事はこれかと、ある程度予想がついていたカルナは、内心ほっと安堵の息を吐いていた。ゲストが来ると言う話はもちろん初めて耳にしたことだったのだが、事前に知らされていたプログラムには妙に時間が多く取られている部分があり、サプライズで何かをしようとしているのは察しがついていたのだ。

「それでオレに、何をしろと?」
「あら、話が早くて助かるわ。そのゲストの人がここのホールの最寄りの駅まで電車でいらしたそうなのだけれど、あそこからここまでって結構距離があるでしょう? だから誰かに頼んで連れてきてもらおうと思っていたのだけれど、どうも間が悪いことに、迎えに使える車がみんな出払っているそうなのよ。それで悪いんだけど、貴方にお迎えをお願いできないかしら。貴方、自分の車を持っていたわよね?」
「む、オレでいいのか?」
「ええ、もちろん。……きっと、貴方ほど相応しい人はいなくってよ?」
「ふむ」

 理由は分からないが、とりあえずエレナがカルナにこそ行って欲しいと望んでいることは確かだった。他のだれでもないカルナに頼みたいと言うのならば、それを断る理由はどこにも無い。

「承知した。駅まで行けばいいのか?」
「ええ、そうよ。あなたのことは既に相手に伝えてあるから、会えば直ぐにわかると思うわ」
「承知した」

 カルナはさっと立ち上がり、いってらっしゃいと手を振るエレナに見送られて会場を後にした。
 車に乗って駅まで出発すると、もう随分と見慣れてしまった街並みが窓の外には流れていく。ジナコとともに過ごしていたあの街もいいところがたくさんあり、住みやすかったと思うが、こちらはこちらで素晴らしいところがたくさんあった。
 自宅の近くには桜並木があり、それが春になると本当に息を呑むほど美しく咲き誇っていること。近所のケーキ屋には、テレビ局が取材に来たこともあるほど美味なロールケーキが売っていること。冬の雪深い日には、家の窓のそばまで小鳥たちが遊びに来てくれること。それ以外にもたくさん素敵なものを見つけている。カルナはその一つ一つを、早くジナコに伝えてやりたいと思っていた。
 日常の中で心を揺らすものや新しいもの、楽しいものや美味なものを発見をするたびに、ジナコがここに居てくれたらと、そんな一抹の寂しさが頭の片隅を過ってしまう。とどのつまり、カルナはジナコとさよならをしてから今日まで、ジナコのことばかり考えて過ごしているのだった。

 とりとめのないことを考えているうちに、車は駅へと到着した。所定の場所に駐車させて駅舎の中へと向かっていく。平日の昼下がりということもあり、行きかう人々の数はまばらだった。

 そのとき、カルナの耳をとある音が擽った。
 聞き間違えようがない。人生において最も耳にしている楽器の音――ピアノの音だ。それも駅内に流れているBGMなどではない、生の音である。

 そういえばこの駅の構内には、確か誰でも自由に弾けるピアノが設置されていたような気がする。恐らくそれを弾いている人間がいるのだろう。先日用事があってこの駅に訪れたときにも、小さな子供たち数人が、キャッキャと高い声を上げながら鍵盤を叩いていた。楽しそうに音を紡いでいる姿が微笑ましくて、思わず足を止めて見つめてしまったのを思い出す。
今度は誰が音と遊んでいるのだろうかと、カルナはそのピアノがあった場所へと足を進めていく。
 しかし奏でられている音がはっきり聞こえる距離まで行ったとき、カルナはふとその場で足を止めてしまっていた。カルナの足を縫い止めてしまったのは、聞こえてくるその音楽に、強烈な感情を引きずり出されたからだ。
 自分の心をこんな風に掻き乱し、抉り、そして同時に癒し、温める音。
 そんな風にこの心を揺さぶれるそれを、カルナはこの世界でひとつしか知らないから。

 ーーああ。居るのか、そこに。

 染み入るように心の渇きを潤していくそれに、カルナはほうと吐息を零す。
 手を伸ばして触れてみたい、と思った。あのときと同じように。
 そうしてカルナは見えないものに手を引かれているような感覚で、音の聞こえる方へふらふらと歩いていく。
 いつもは閑散としているはずの駅の中は、ピアノの周りにだけちょっとした人集りが出来ていた。手元の端末で演奏している姿を撮影している者、緩やかな微笑みを浮かべながら音に身を委ねている者、目を輝かせて演奏している姿を見つめている者。様々な人からの視線が注がれるその真ん中で、彼女は音と共に指を躍らせていた。
 楽しそうに、嬉しそうに、音が跳ねている。彼女の高揚する気持ちを表すように、くるくるとこの空間を飛び回り、人々の心を悪戯に擽っては、捕まえてごらんとでも言いたげにさわやかに去っていく。
 嬉しいと叫んでいた。ようやくここへ来られたのだと。願いを叶えることができるのだと。
もしかしたらそれは彼女の心というだけではなく、その音を聞いたカルナの心も混ざっていたのかもしれないけれど。
 そう、混濁していってしまうのだ。音に乗せられた彼女の心が混ざり、解け、自分の奥深くに入り込んでくる。ひとつになっていく。そうして流れる旋律に心を攫われていくのが、何とも心地よかった。彼女の指先が紡ぐ彼女だけの世界に招かれているのだと、そんな風に感じる。
 そうして演奏が終わり、余韻もそこそこにわあっと歓声と拍手が上がった。照れくさそうに笑う彼女が椅子から降り、周囲に向かって軽く頭を下げる。より一層大きな喝采が湧き上がり、惜しみなく彼女に注がれていった。
 ある人はその女に声をかけ、ある人は一緒に写真を撮ったりしつつ、少しずつ人の輪がほどけていく。やがてピアノに聞き入っていた者たちのほとんどがその場を去った後、カルナはようやく彼女の元へと歩み寄った。
 足元に置いていた大きな荷物を動かそうと四苦八苦している彼女に手を伸ばし、後ろから抱き締めた。ギャッと悲鳴が上がったが、そんな色気のない声すらも今は胸がつぶれそうなほど愛おしい。最初は何事かと全身を緊張で強張らせていたのに、抱き着いてきた人物の正体に気付くなり、やれやれとため息をつきながらそれを解いてくれるのも。
 後ろでひとくくりにまとめられた栗色の髪に顔をうずめると、懐かしい匂いが鼻腔を擽った。かつてともに過ごしたあの家の香りだ。
 ああそうとも、一つも忘れていない。忘れられるはずがない。離れていた間、一度だって手放したことはなかったのだから。

……えーと。その、お待たせしましたッス」

 抱きすくめられたまま、彼女は――ジナコ=カリギリは静かにそう言った。何を言えばいいのかわからないらしい。気持ちはわかる。今、二人の想いはきっと一緒のはずだから。

「ーー素晴らしい成果だ。素晴らしい成果だ、ジナコ=カリギリ」

 そうして散々迷った末、カルナがようやく絞り出せたのがそれだった。
 この心の震えが、歓喜が、衝動が、どうやって言葉にすれば的確に彼女に伝わってくれるのかわからない。
 腕を解いて、振り向いた彼女と向き合う。あの頃と何一つ変わらない、無垢な光を宿したままの栗色の瞳に見つめられて、思わずくっと息を詰まらせた。
何だか無性に声を上げて泣き出したいような気分になった。うっかり気を抜くと嗚咽が溢れてしまいそうだ。
 けれど何とかこの思いを口にしなければ。伝えなくては伝わらないのだと、彼女は散々教えてくれた。成長したのは、変われたのは、前へ踏み出せたのはキミだけではない。そう言う気持ちも込めて、きっと自分は今ここできちんと言葉を費やさなくてはならないのだ。
 口をしきりに開閉させながら言葉を探しているカルナを見て、しかしジナコは突然ふわりと顔を綻ばせた。そして腰に手を当て、何やら偉そうに胸を逸らしながら言うのである。

「あーあ、もう。しょうがないなあ。ねぇカルナさん」
……何だ」
「今日のボクは、実はめちゃくちゃに機嫌が良いのです。つまり、今日限りの特別大サービスッスよ! 今の演奏の感想、一言だけでも許してあげるッス。だから一言、頑張って絞り出すといいッスよ」

 はいどうぞ、と呑気な様子で両手を広げてみせるジナコ。
 何だか急に大人みたいな顔をして、年上みたいなことを言うようになったなと、悔しいやら嬉しいやら、何とも言えない感慨が喉の奥からこみ上げてきた。
 まあ実際にジナコのほうが年上だし、それ自体はカルナがどんなに努力しても覆せないことだからいいのだけれど、あからさまに年下扱いされるのは何となく腑に落ちない。かつては口うるさい父親や何かみたいだと散々言われていたが、今度は弟みたいに見られているような気がしたのだ。お姉さんが甘やかしてあげようと、にんまりと細められた瞳が雄弁に語っている。
 けれど、残念ながらカルナはその手には乗らない。自分が驚かされているばかりでは気が済まないのだ。それに姉と弟という関係は、カルナがジナコとの間に求めているそれではないので。
 だから一言ぎゃふんと言わせてやるつもりで、カルナは薄らと笑みを浮かべながら口を開いた。

「承知した。では、一言だけ口にしよう」
「うん」
「愛している」

 ブハッ、とジナコは異音を発しながら何かを噴き出し、その場にへなへなと崩れ落ちた。不意打ちに弱いのは相変わらずらしい。さすがにここまで効果覿面だとは想像しなかったが。
 震えながら両手で顔を覆っているが、耳まで真っ赤になっているのでどんな顔をしているのかなど手に取るようにわかってしまう。込み上げてくる「勝った」という謎の感動と達成感に、カルナは静かに拳を握り締めた。

「そ、それは、ちょっと、反則じゃないッスか……?」
「何が反則だ。そもそも、お前がここまでオレを驚かせるような所業に走ったことからして反則だろう。この程度の報復は許されて然るべきだ」
「ぐ、ぐうの音も出ねぇ~。で、でも違うんだもん! カルナさんをビックリさせようとかって最初に言い出したのはエレナさんッスよ! ボクは別に初めはそんな気全然なくて、でもせっかくだからって詰め寄られて、それで渋々乗っかっただけッスよ! つまりボクは無罪放免、むしろ被害者ッス!」
「提案者が誰であれ、乗った時点で共犯者であることには相違なかろう。課される罪の重さとしては同等だ」

 カルナはジナコの前に跪いてから、キョトンとする彼女の腕を引っ張って強引に立ち上がらせた。ダンスの始まりのように、もう片方の手で腰を引き寄せる。

「ジナコ、オレはこの先何度でもキミに言うぞ。学んだからな。オレは、君を、愛している」

 噛んで含めるように言うと、ジナコはかーっと茹で上げられた蛸のように真っ赤な顔で唇を戦慄かせた。さすがにここまですれば、自分の想いは存分に伝わっただろう。
 とはいえこれで全てだと侮ってほしくはない。きっと一生言い続けたって足りないくらい、ジナコへの感情は常にこの体の奥底から溢れかえっている。それを彼女にはこれから存分に知ってもらわなくてはなるまい。

……たし、も」
「うん?」
「アタシも、その。カルナのことが、好き、だよ……

 ひええ、と呻きながら両手で顔を覆うジナコは、今にも頭から湯気でも噴き上げそうだった。しかし今それを指摘できる唯一であるカルナも、恐らくは彼女に負けないくらい顔が赤くなっているだろうからおあいこだ。心臓が肋骨を突き破らんばかりにばくばくと跳ね回っていて、もはやそのせいで具合が悪くなりそうだった。握りしめた手がじっとりと汗ばんでいたが、これはジナコのものなのか、それとも自分のものなのかわからない。もしかしたら二人のものが混ざり合っているのかも。

……お前は……本当に……

 呻くようにどうにかそれだけ絞り出すと、うん、と小さく頷き返された。
 何というか、そうやってただ無言のまま頷かれても、困る。いつものように冗談めかして、無駄に言葉を重ねて、軽い顔で笑い飛ばしてほしかったのに。そうしてくれないとますます照れくさくて、苦しくて、どうにかなってしまいそうなのだ。

 そうして二人は、いつまで経っても帰ってこないことを心配したエレナが別途手配して寄越してくれたスタッフが迎えに来るまで、向かい合ったまま無言で照れまくっていたのだった。
 けれど繋いだ手は最後まで決して離さなかったから、つまりはそういうことなのである。