浮いて沈んでアンダンテ

ピアノ調律師カルナ×元ピアニストジナコの現パロ小説。捏造設定過多につき何でも許せる方向け。

※本編はpixivに掲載済みですが、本にのみ収録していた「番外編」と「エピローグ」を加えて全編まとめました。



【Appassionatoアパッショナート



 カルナがジナコの家に足を運ぶようになって、そろそろ半年もの時が過ぎ去ろうとしつつあった。

 出会ったのは、雨のにおいを僅かに残しつつ、到来するであろう暑さの足音が着実に近付いていたはずの季節。けれど今は、起床した後に布団から出るのを躊躇うような気温の日が珍しくないような時期に突入していた。

 さて、とはいえそんな季節の移り変わりなど完全に外の世界の他所事である。ジナコはその日も、いつもどおり自堕落なニート活動に精を出していた。
 前日にお気に入りのソシャゲのストーリーに新章が追加され、今日一日のほぼ全ての時間を使ってクリアしたばかりだった。何せ待ちに待った半年ぶりの新規更新である。ジナコがどれだけ楽しみに待っていたかなんて、当然筆舌に尽くしがたい。
 故に日課の掲示板巡回をしているうちにうっかりネタバレを踏んでしまった、なんてことは絶対に避けねばならなかった。
しかし廃人と言われても過言ではないくらい普段からネットの海にどっぷり浸っているジナコにとって、その一切を絶てというのはもはや呼吸をやめろと言われているに等しい。
 そうなると、ジナコが一切のネタバレを踏むことなくなおかつネットに触れない時間を最低限で済ませる方法は、たったひとつしかなかった。つまりはネットに触れないことによる禁断症状が現れる前に、ストーリーを最速でクリアしてしまうことであった。
 しかしジナコは大好きなゲームを端から端まで余すことなく堪能したいタイプのオタクである。ストーリーを読み飛ばすなんてことはあり得ない。じっくりと流れる文章の一つ一つを噛みしめながら進めていった結果、すっかり一日を使い切ることになってしまったわけで。
 結論から言うと、今回更新されたストーリーは実に最高だった。半年間虚無を貪っていた甲斐があったと断言できるレベルだ。合間にあるバトルの展開だって如何にも胸熱といった感じだったし、主人公が今までずっともだもだと半端な距離を保っていたヒロインに対して、ついに明確に言葉を告げた瞬間、感極まって拍手してしまったほどである。
 主人公が告げたのは「オレと家族になってほしい」という言葉だったが、つまりはそういうことで間違いないはずだ。とにかく推しには全面的に幸せになってほしいスタンスのジナコ的にはこれ以上ないくらい最高の展開だった。脳内ではファンファーレが高らかに鳴り響き天からは光が降り注ぎ、ついでにジナコの本体は耐え切れずにちょっと泣いた。
 一通りかみしめて落ち着いたジナコは、次の更新に期待を膨らませつつ、そっとスマートフォンを置いて天井を仰いだ。

「家族……

 それはジナコにとっては、かつて失ってしまったきり前に進めなくなってしまったもの。けれど今、まるで家族のように気の置けない間柄になりつつあるカルナは、一体どんなカテゴリーに分類されることになるのだろう
 確かに親みたいに小言を並べ立てられたり、向かい合って夕食を摂ったりしているときなんかに、何だか家族みたいだなと思ったことはある。けれど当然だが、彼と自分は本当の家族ではない。さりとて友人と呼べる間柄でもない。恋人なんていうのはきっともっとあり得ない。
 では自分と彼の関係には一体どんな名前が付くのか。何度考えてみても、ジナコの中で明確な答えを出すことはできなかった。

「ま、どーでもいいか」

 どうせあと数ヶ月も経てば、カルナだって飽きてここへ来なくなるに決まっている。そうなればもうおしまいの関係だ。名前なんてわざわざ探さなくたっていい。
 ジナコはカルナの家も、家族も、友人も、普段どんな生活をしているのかも、何もかも知らない。電話番号やメールといった連絡先も一切もらっていないし、自宅や職場の住所を聞いたこともない。つまりカルナがここへ来るのをやめてしまえば、ジナコが彼を追う術は何もないのだ。
 ジナコにはカルナを繋ぎ止める権利も資格もない。彼がここに足を運ばなくなったとして、どうしてジナコがそれを咎められようか。

「ってか、あっちが勝手に来てるだけじゃん! アタシ関係ないし!」

 だってこれだと、まるでジナコがカルナの訪問を心待ちにして、喜んでいるみたいではないか。そんなの絶対あり得ない。
カルナが勝手に我が儘を言って、ジナコがそれを渋々受け入れている。今の関係はそもそもそういう話だ。そうでなくてはならない。
 だって、だってそうでないとジナコは――

「ッ!」

 自分でも制御できない方向に思考が転がり落ちようとしたとき、ちょうど鳴り響いた玄関のチャイム音が辛うじてそれを押し留めてくれた。時計を見れば、いつもカルナが仕事を終えてジナコの家へやってくる時間帯になっていた。
 ああもうそんな時間かと、ジナコは凝り固まった身体を引きずってベッドから降り、のたのたと玄関へ向かう。

「はいはーい、今日も労働ご苦労様ッス。今日の晩ご飯は何スかカルナさ~ん」

 ドアホンで確認するまでもないと、ジナコは迷うことなく鍵を外して扉を開ける。セリフが完全にアレな感じだがもはや気にしない。エリートヒキニートには失うものなど何もないのだ。優先すべきはそんなぺらっぺらなプライドより、今日のおいしいご飯である。
 いつもであれば、ここでカルナから一つか二つ小言が降ってくるはずだ。しかし今日は何故か、気まずくなるレベルの沈黙が投げて寄越されるのみだった。

……え、ちょ、カルナさん?」

 何か妙な気がして、ジナコは顔を上げて呼びかけた。玄関の外に立っていたのは間違いなくカルナであったが、いつもとは何となく様子が違うような気がしたのだ。何となく、身体がふらふらと左右に揺れているような気がするというか。

「ジ、ナコ……?」

 ひどく、ぼんやりとした声だった。どうして此処に、とでも言いたげな彼の声音に、何のこっちゃとジナコはわずかに眉をひそめる。
 どうしてだなんて完全にこっちの台詞だ。ジナコの家に来たのだから、ジナコが出てくるのは当たり前であろうに。元々変わり者といえる部類の男ではあるのだが、しかしそれにしたって今日は何か様子が可笑しかった。

「あ、ハイ、ジナコさんッスけど。何、見ないうちに体積が増えすぎていたから見間違えそうだったとか、そういうお説教ならノーセンキューッスよ。いくらボクでも一日や二日でそんなには肥えない、ッス、けど……っ!?」

 ぼんやりとした呼びかけに首を傾げていたジナコは、しかしいきなりぐらりと傾いたカルナの身体に、そのまま言葉を詰まらせてしまった。

「え、か、カルナッ!?」

 思わず反射的に伸ばした手は、辛うじてカルナの身体が床に叩き付けられる直前に届かせることができた。
 けれどいくらもやし体型に見えるとはいえ成人男性。ただでさえ長年の引きこもり生活で、筋力という単語と無縁な身体になっているジナコに、彼をがっちり支えきることはできない。結局二人でもつれ合うようにして床の上へと転がってしまった。どすん、と鈍い衝撃が全身を貫いていく。その衝撃と痛みに顔をしかめた。

「い、いててて……じゃない、ちょっと、カルナ! 大丈夫!?」

 したたかにぶつけた腰をおざなりに擦り、ジナコは自分を下敷きにして倒れ伏している男に呼びかけた。
 ほとんど叫んでいるような声音だったのにも関わらず、カルナはぴくりとも反応しなかった。ただ荒い呼吸音が返ってくるだけだ。

「ッ、熱……!」

 どうにか下から這い出ようと彼の身体に触れたジナコは、そのあまりの体温の高さにぎょっとした声を上げてしまった。服越しでもわかるなんてよっぽどだ。
 慌てて彼の血の気が失せた頬に手のひらを当てると、やはりそこは火に当てられたように熱くなっていた。どう考えても発熱している人間の体温である。

「カルナ、カルナ!」
「ッ……は、ぁ……う」

 もぞもぞと、何とか這い出して身体を起こすことに成功したジナコ。床に横たわったカルナの瞼は硬く閉ざされ、震える唇からは熱い吐息と喘ぐような声が漏れ出ていた。だらりと放り出された四肢には全く力が入っていない。眉間に皺が寄っており、意識を失っても尚苦しみに苛まれているのだとわかった。

「え、え、何、何!?」

 わけがわからない。でもとにかく、どう見ても具合が悪そうな彼を、このまま床の上に転がしておくわけにはいかないというのはわかった。
 しかしベッドが置いてある客間やジナコの寝室があるのは、この家の二階。どんなに感張ってもそこまで運んでいくことは到底できそうになかった。倒れたのを支えることすら出来なかったのに、担いで運んでいくなんて無理ゲーにも程がある。
 それでもせめて、安心して横になれるような場所へ運ばなくては。
 回らない頭で何とかジナコが導き出した結論は、比較的ここから近いリビングのソファまで彼を運ぶことだった。これなら階段を上がらなくてもいいし、道中段差らしい段差もないので、無理矢理引きずっていけば何とかなるはず。もちろんベッドのようにゆったりと横たわれるような大きなソファではないが、こんな固く冷たい床に転がしておくよりは億倍マシであろう。

「カルナ、カルナ! お願いだから、もうちょっと頑張って!」
「っ、う……

 明らかに病人である人間に対して酷い扱いをしているとは思うが、今はこうするしかないのだからしょうがない。ジナコは彼の頬を軽く叩き、大きめの声で呼びかけた。ゆるゆると瞼が開き、焦点が合っているとは言えない瞳がぼんやりとこちらを見る。
 普段の刺すような色とは明らかに違う蕩けたそれに、何故かジナコの心臓はどきりと大きく撥ねた。蜜のようにどろりと揺らめく瞳に、身体の奥がどこかぞわっと粟立つ。
 けれど今は暢気にその理由を考えていられるようなときではなかった。はっと我に返ったジナコは、首を横に振って思考を打ち払う。
 僅かながら意識を取り戻したカルナに肩を貸す形で、ジナコはリビングへと足を進めた。よたよたと、蛞蝓のような速度で二人は廊下を進んでいく。
 耳元で聴こえてくる、掠れた弱々しい吐息。それが余計に不安をかきたててくる。彼に触れている場所が異様に熱かった。
 ようやくカルナをソファの上へと横たわらせたときには、ジナコ自身も汗びっしょりになってしまっていた。

「とりあえず、ええと!」
 
 何を――そう、何をすればいい?
 いつもリビングで昼寝をしているときに使っていたブランケットをかけてやりながら、ジナコはカルナの顔を見下ろした。
瞼は再び閉ざされ、意識もすっかり手放してしまっているようだ。はあ、と僅かに開いた口から零れる荒い呼吸が、そっと触れてみた頬の温度が、とにかく熱い。
 まずは冷やしてやるべきだろうと、ジナコは長年に渡ってすっかり用事がなかった救急箱を取り出してきた。外に出ないから怪我なんかすることもなく、風邪などの病気をうつされるほど人と関わり合ったこともなかったため、薬や何かにはほとんど縁がない生活を送ってきていたのである。
 整理なんかまるでされていない箱内を乱雑に漁ると、奇跡というか何というか、まだ未開封に冷却シートの箱がひょっこりと顔を出した。表示を見るところ使用期限がギリギリではあったが、こんなものでもないよりはましなはずだ。
 ジナコは箱の蓋を半ば強引に引きちぎるようにして開き、中の袋がなかなか開かないことに苛々しながら、どうにか冷却シートを一枚引っ張り出した。何が「どこからでも開きます」だ、そういうやつは肝心な時に限って開かないじゃないか。心の中で乱暴にそう吐き捨てる。
 そうして苦労して取り出したシートを、相変わらずかっかと熱を発している額に貼り付けてやる。ヒヤリとした感触に驚いたのか、カルナの体が一瞬だけぴくりと跳ねた。しかし瞼は閉ざされたままで、口から漏れ聞こえる呼吸の音は相変わらず頼りない。
 体が震えているように見えるが、もしかして寒いのだろうか。

「も、毛布? 布団? もう何でもいいや、とにかくなんかあったはず!」

 ジナコは弾かれたように駆けだした。
 階段を駆け上がり、自室へと飛び込む。床に転がっていた食べかけのまま放置していた菓子の袋を蹴飛ばしながら、しめ切っていたクローゼットにほとんど体当たりするように手を伸ばした。ひいひい言いながらようやく厚手の毛布を引っ張り出して、また転がり落ちるように階段を降り、カルナの上へとかけてやる。ついでに寒くないようにと、それで彼の体を包み込むように毛布の端を下へ潜り込ませた。
 あとは、これからどうしよう。薬の類いも一応あるにはあるが、そもそもどういう症状でこうなっているか判断がつかない以上、勝手な判断で下手なものを飲ませるわけにいくまい。ただ風邪か何かならばいいが、もし何か持病の発作とかだったら、もうどうしたってジナコの手には負えなくなってしまう。

 とその時、先ほど被せた毛布の下から、何かの規則的に振動する音が微かに聞こえた。

 これは多分、携帯電話の着信を知らせるバイブ音だ。不躾だとは思ったが、ジナコは布団の中に手を突っ込んで音の在処を探った。
 果たしてジナコは、カルナのズボンのポケットから、スマートフォンを取り出すことに成功した。電話は既に切られてしまっていたが、画面には電話の着信があったことを知らせるアイコンがポコンとひとつ表示されている。
 驚いたことに、画面のロックはスワイプするだけで開く一番簡単なものだった。防犯的にどうなんだと思いつつ、ジナコはすっと指を滑らせる。たったそれだけの動作で、アプリのアイコンが並ぶ待受画面が表示されてしまった。

「ごめんカルナさん、あとでいくらでも謝るから!」

 着信履歴をタップすると、つい先程電話を掛けてきた相手の名前が表示された。履歴の一覧をざっと見直してみると、どうやら頻繁に連絡を取りあっている仲である相手らしい。連絡すれば何か対処法を教えてくれるかもしれない。
 けれどジナコは電話の発信画面を起動したまま、「発信」のボタンをタップできずにいた。長年に渡る他人との接触の希薄さが、ジナコの指を重くしているのだ。向こうから問答無用でずかずか入り込んできたカルナはまだしも、まったくコンタクトのない赤の他人に突然連絡が出来るほど、ジナコの心は強くできていなかった。

 ――でも、このままだと、カルナが。

 ちらりとソファの上の彼を見やる。苦しそうに薄い胸を上下させ、やっとのことで呼吸を繰り返している様子のカルナを見ているうちに、ジナコの中で覚悟が決まった。
 意を決して画面をタップし、しかし耳に直接当てて声を聞く勇気はなかったので、音声を素早くスピーカーに切り替える。
呼び出し音がしばらく鳴り続いた後、ようやく電話の向こうの人間が応答してくれた。

『オイてめえカルナァ! 一体何処で何やってんだゴルァ!』

 聞こえてきたのは、明らかにジナコとは相容れないタイプの男の声だった。怒気を含んだ乱暴な声に、ひっと悲鳴を上げて携帯を放り投げてしまいそうになる。
 しかし腹の底に力を込めることで何とかぎりぎりのところで堪え、ジナコは電話向こうの人間に向かって話しかけた。

「あ……あの、も、もしもしっ」
『ああ? 誰だ、てめえは。これカルナの携帯だろ。何でお前が出てんだ』
「ぼ、ボクは、その」

 知らずしらず、声が震える。

 怖い、もうめちゃくちゃに怖い。今すぐにでもこのスマートフォンを放り出して逃げてしまいたい。
 でも頑張らなきゃ。私が何とかしなきゃ。そうでないと、カルナさんが。

 ごくりとつばを飲み込んで、ジナコはがたがたと震えながら必死に口を動かし続けた。

「ぼ、ボクは、ジナコ。ジナコ=カリギリ、です、はい……
『ジナコォ? ……ああ、カルナが最近熱心に通ってるっていう女か。どうした? 何でオマエがカルナのスマホで電話に出てんだ』
「あ、えっと」

 どうやら彼はカルナからジナコのことを聞いていたようだった。返ってくる声がほんの少しだけ柔らかくなる。ジナコが最も苦手とする圧のようなものはあまり引っ込んではくれなかったが。

「その、カルナさん、今うちに来てるんスけど。熱があって、倒れちゃって」
『は? 熱?』
「すごい、苦しそうで。アタシどうしたらいいのかわかんなくて……! そしたらさっき、あなたから電話があったから、だから、その」

 言葉が全くまとまらない。こんな説明で誰が事態を理解してくれるというのか。自分でもそう思うが、不安と緊張で頭の中がぐちゃぐちゃなのだ。視界が滲み、ぼろぼろとみっともなく涙が溢れてしまう。一度決壊してしまえば、ジナコ自身でももう止めることはできなかった。
 ひっくひっくとしゃくり上げながら、ジナコは電話の向こうへ叫んだ。

「か、カルナさんが、カルナさんが、死んじゃったらどうしよう……!」

 一体何を言い出すんだと自分でも突っ込みたかったが、本音には違いなかった。
 カルナという男はいつのまにか、ジナコの中ですっかり大きな存在になってしまっていた。ジナコの心の中心近くに我が物顔で居座っていた。これがなくなってしまったら、きっとぽっかりと暗く深い穴が空いてしまうと確信できるくらいには。今更これを失うなんてこと、ジナコには耐えられそうになかったのだ。


 だからいやだったのに。
 大切な人を作るなんてこと、もう二度としないと決めていたのに。
 失ったときの辛さや悲しみを、そして暗黒に真っ逆さまに落ちていくような深い絶望を、ジナコは既に痛いほど味わっていたのだから。

 それでもカルナは、ジナコの中へと踏み込んできた。
 不器用で、小言が多くて、言葉選びが壊滅的にへたくそで、イケメンだけど全然好みじゃない男。
 けれどその男はその不器用な優しさで、ジナコが歪に組み直してきたぼろぼろな心に、そっと触れてきた。冷え切ったそれを、足りない言葉を必死になってつぎはぎしながら、あたためようとしてくれた。いつのまにかジナコは、それを心地よいと思うようになって居たのだ。

 カルナを失いたくない。ずっと側に居て欲しい。

 それはジナコの心が素直に吐き出した欲望だった。
 出会ってからまだ一年も経っていない、ただ父の仕事の延長という縁しかない彼に対して、なんて浅ましく傲慢な願いを抱いたものか。

 こみ上げてくる色んな感情で、もう言葉が出てこない。えぐえぐとみっともなく嗚咽混じりで話し続けるジナコの声を、電話の向こうの人物は黙って聞いてくれていた。 そして、

……わかった。今からいくから、待っとけ』

 と力強い声で答えてくれたのである。
 ジナコは泣きすぎでぼうっとしてきた頭を無理矢理回しながら、自宅の住所を彼へと伝えた。今彼が居る場所からはそんなに遠くないらしく、十分もしないうちに到着できるという。
 車の運転をするからと言って電話を切るまで、大丈夫だからと慰めるように言い続けてくれた。言い方こそ乱暴だったが、ジナコを気遣ってくれているのがはっきりとわかる。そんな不器用な優しさは、何となくカルナと似た雰囲気を感じさせた。彼の「大丈夫」という力強い声によって、ジナコもようやく冷静さを取り戻せたのである。
 そうしてだいたい十分くらい経った頃、玄関のチャイムが鳴り響いた。ジナコは半ば転がるように玄関へと駆けていき、体当たりするように扉を開く。

「よお、あんたがジナコか」

 扉の向こうから姿を現したのは、どこのヤのつくご職業の方ですか、と問いたくなるような風貌の男だった。
 カルナも確かに見方によってはその類の人間に見えるのだが、この男はその上をいっていると思う。高身長の部類に入るカルナより、さらに十センチほど高そうに見える体躯は、スーツを着込んでいてもわかるくらい無駄なく鍛え上げられているのがわかった。そして常時怒っているのかと思ってしまうくらい鋭くつり上がった切れ長の瞳と、燃えるように真っ赤な髪。

 危ない、反射的にドアを閉めてしまうところだった。

 ジナコは無意識にそうしてしまう直前にはっと我に返り、彼を家の中へと導いた。大丈夫だと繰り返し言ってくれたあの声は、確かにこの人のものだったから。

「邪魔するぜぇ」
「は、はいッス! カルナさんはこっち!」
「おお、すまねえな」

 ジナコに連れられて廊下を歩く男は、自らをアシュヴァッターマンと名乗った。カルナとは幼なじみであり、今は同じくカウラヴァに勤める社員なのだという。
 どうやらアシュヴァッターマンは仕事絡みでカルナに確認したいことがあり、幾度かメールを送っていたのだが、彼のほうからは一向に返事がなかったらしい。苛立ちを募らせながら電話をかけてみたが繋がらず、カルナの自宅へ直接怒鳴り込みにいこうとしたとき、ちょうどジナコからの折り返し連絡があったのだそうだ。
 聞いている限りもの凄い乱暴者な印象を受ける人が、カルナとはそれだけ気心の知れた気の置けない仲なのだろう。やれやれしょうがねぇやつだなと苛立ちを顕にしているが、その実本気で心の底から怒っているわけではなさそうだし。
 そうこうしている内に、二人はカルナがいるリビングへと到着した。アシュヴァッターマンは相変わらずソファの上でぐったりしているカルナを認めると、すっと切れ長の瞳をさらに細める。

「ねぇ、カルナさん、大丈夫ッスよね? ね?」
「あー? まあ、これくらいなら大丈夫なんじゃねえかな、多分」

 そんな適当な。情けない泣きべそ顔をさらすジナコの肩を軽く叩いて、アシュヴァッターマンはカルナの側に膝をつく。そうして持っていた鞄から体温計を取り出すと、てきぱきと彼の体温を測っていた。どうやら額にかざすだけで計測できるタイプらしい。
 手慣れた仕草で行われるそれらを、ジナコは彼の後ろでそわそわしながら見ていることしかできなかった。そうか体温を測っておけばよかったのかと、今更思ったところで後の祭りである。
 そうして表示された数値を見て、アシュヴァッターマンは小さく肩をすくめていた。

「どう……?」
「ああ、これくらいなら持ってきた薬で何とか出来るから、大丈夫だ」
「よ、よかったぁ~」

 相変わらず何が何だかよくわからないが、カルナが大丈夫だとわかっただけでもう十分だった。緊張が一気に抜けてしまったせいか、足から力が抜けてへなへなとその場に座り込んでしまう。
 そんな情けないジナコの姿を見て、アシュヴァッターマンは小さく笑っていた。けれどそれはジナコを馬鹿にするとかではなく、もっとこう、何かあたたかいまなざしを向けてきているという感じの。

「とは言っても、こんな状態では無闇には動かせねえわな。なあアンタ。わりいんだけど、こいつ一晩泊まらせてやってくれねえか? 状態がもう少し落ち着いたら動かせるから」
「は、はいッス!」

 両親が残してくれたこの家はそれなりに広いから、一人や二人泊まる分には問題ないはずだ。ジナコは即座に了承した。
 しかし返事をしたのはいいものの、客間は滅多に使われていないから、すぐに使えるような状態にはなって居ない。どうしたものかと色々考えた末、結局カルナにはジナコの部屋のベッドを使ってもらうことにした。当然綺麗とは言いがたいが、長年の埃がこんもり積み重なっているであろう寒々しい客間よりいくらかマシではあるはずだ。それにカルナに日々お小言を言われ続けて、最近少しだけではあるが整頓しようと色々片付け始めていたところであったし。
 カルナはアシュヴァッターマンにしばらく見ていてもらうことにして、ジナコは全速力で自室の片付けに当たった。床に散らばった菓子の空袋をまとめてゴミ袋に突っ込み、ゲーム機や漫画をクローゼットの中へとねじ込み、ぐしゃぐしゃになっているベッドのシーツを新しいものに取り替えて。
 ジナコの二十数年の人生に於いて、間違いなく最も機敏にかつ積極的に動いた瞬間であった。こんな簡単に片付くならもっと早くにやっておけと、カルナのそんな説教が聞こえてきそうだ。 最低限というレベルだが綺麗になった段階で、アシュヴァッターマンにカルナを運んでもらう。見るからに体格がいい彼は、軽々とはいかないものの然程苦労せずに二階の部屋までカルナを運んでくれた。

……いや。ここどう見てもアンタの部屋じゃねぇか。こいつ寝かしちまったら、アンタは一体何処で寝るんだ?」
「え、別にボクの寝床なんて何処でもいーッスよ。最悪一日や二日寝なくてもイケるし、いざとなれば床でも寝られるし」

 部屋に入るなり問われて慌ててそう答えたが、アシュヴァッターマンにはますます顔をしかめるばかりだった。
 けれど最終的には溜息を吐いて、

「あんまり、無理なことはしないでやってくれな。こいつが目ェ覚ましたとき、ぜってーああだこうだと気にするから」

 とだけ言って、ジナコのベッドにカルナを横たわらせてくれた。
 彼の言葉の真意はよくわからないけれど、特に無理も無茶もしていないしこれからするような予定もない。ジナコはこくこくと素直に頷いておいた。
 その後、アシュヴァッターマンはカルナを持ってきた寝間着に着替えさせたり、薬を口から流し込んで呑ませたりと、てきぱきとカルナの看病をしてくれた。見た目に反してなかなか人の世話をしている姿が様になる男である。もしかしたら普段からこういうことをする機会が少なくないのかも知れない。
 つまりオカン系ヤンキーか。なるほどうまい。
 口に出すことこそしなかったが、ジナコはそんなことを思った。いつものように色々と無駄なことを考えられるくらいには、気持ちに余裕が戻ってきたといえよう。
 しかし、どうやら彼はまだ職場に仕事を残してきており、遅くとも一時間以内には職場へ戻らなければならないらしい。そして業務を終えて帰るのは、早くて明日の朝になると。その後は彼が通勤で使っている自家用車でジナコの家に寄り、そのままカルナを拾って家へと送り届けてくれる予定だそうだ。
 つまり今からアシュヴァッターマンが迎えに来てくれるという朝までは、ジナコだけでカルナの面倒を見てくれ、ということになる。それを聞いてあからさまに不安そうな顔をするジナコの頭を、アシュヴァッターマンはぽんぽんと軽く叩いていった。

「もしなんかあればすぐ連絡してくれ。もちろんすぐにとはいかねーだろうが、対応はできるようにしておく。何から何まで世話なっちまってわりーんだがな」
「いやいや、ボクのほうこそほんと助かったッスよ! ボク一人じゃ多分、ほんと、何にもできなかったから」

 あのまま一人だったら、混乱して途方に暮れて立ち尽くしてしまっていたと思う。彼が電話で告げてくれた「大丈夫だ」の一言に随分助けられてしまった。
 そう言うと、アシュヴァッターマンは少し照れくさそうに顔を背けしまう。

……いやまあ、別に。しかしなあ、こいつが熱出すなんて割と久々だったからな。薬とか引っ張り出してくるのに苦労したぜ」
「え、何それ、どゆこと?」

 アシュヴァッターマンが肩を竦めながら言うのに、ジナコは首を小さく傾げた。
 彼の口ぶりからすると、割としょっちゅうこんな熱を出しているように取れてしまうのだが。

 果たしてジナコの予想は正しかったらしい。アシュヴァッターマンは、カルナのことをぽつぽつと語って聞かせてくれた。

 元々カルナは生まれつき体が弱く、幼い頃は入退院を繰り返すような生活を送っていたらしい。熱を出すのはもはや日常茶飯事、そうでもなくとも日常のほとんどをベッドの上で過ごしているような少年時代を送っていたのだそうだ。先天性白皮症という病もあったため、外で長時間過ごすこともままならない。彼のかかりつけの医者も「恐らく二十歳までは生きられないだろう」だなんて、ドラマや漫画の世界でしか聞いた事のないような台詞を、幼少期の彼に浴びせていたのだと。

「でも今のカルナさんはそんなふうに見えないけど……ってか、そもそも普通に二十歳超えて生きてるじゃないっスか。ハッ、まさかカルナさんって、こう見えて実は未成年とか!? い、いやーっ! 未成年を家に連れ込むオタクなんて、そんなの世間様が見たら犯罪者まっしぐらッスよーっ!」
「待て、待て待て、違うっつーの! もうちゃんと成人してるし、生きなきゃならない理由を見つけたから死なないでいたってだけだ!」
「はえ? 何それドユコト」
……まあ、色々と、な?」

 アシュヴァッターマンは何故か少しばかり含みのあるような笑みをジナコに向けたあと、わしわしとカルナの髪の毛を掻き回した。う、と小さく呻き声が上がり、眠っているカルナの眉間には僅かに皺が寄る。慣れ親しんだ様子のそんな触れ合いに、二人の付き合いの長さを感じることが出来た。

「こいつ、あるときから急に『死んでなどいられなくなった』って言い始めてな。医者か止めるのも聞かずに、無茶苦茶に体とか鍛え始めやがって。最初の頃は無理矢理体動かそうと無茶してはぶっ倒れてを繰り返してて、周りかやめとけって言ってるのに聞きやしねぇ。担当医も結局『もう勝手にしろ医者の言うことを聞かない愚患者など僕は知らん』って匙を投げた」
「え、ええ~……?」
「でも実際に、ちょっとずつだが体力ついて、いつのまにか寝込むことも滅多になくなってきてたからな」

 カルナはその後、ピアノ調律師になるべくその道の専門学校に進んだ。生きて越えられないと言われた二十歳はいつのまにか軽々と越えており、医者は「根性や気合だけで何とかできるとは思わなかった」と呆れつつ驚きつつ、しかし興味深いと面白がっていてという感じだったそうで。
 そうして無事に調律師の資格も取得し、カウラヴァに就職して今に至るというわけである。
 それ故に、カルナの家にある常備薬の類を引っ張り出して来るのも随分久々だったのだと。アシュヴァッターマンはそう言って、また少しだけ笑みを零した。

「ま、そういうことだ。ここ最近仕事が立て込んでたみてーだから、さすがに疲れが溜まってたんだろ。こいつお人好しだから、自分のモンじゃねぇ仕事まですぐ頼まれちまうし」
「ああ、うん。それはなんか、わかる気がするっス」
「だろ? でもこいつが倒れたのがアンタんちである意味助かったぜ。何処ぞの道端とかでぶっ倒れた、なんてなったら大事だからな。アンタが連絡してくれたから、俺もすぐに来られたわけだしよ」
……そう、なのかな」

 自分は恐ろしく無力なのだと思っていたが、もしかしたらカルナのために、何か一つでも出来たことがあったのだろうか。そうだったら嬉しいとは思う。

「カルナさん……

 ジナコはそっと手を伸ばし、カルナの手を握る。力なくだらりとしている大きな手。しかしほんの少しだけ、ジナコの手を握り返してくれたような気がした。


       ♪ ♪ ♪



 その演奏は多分、万人が心を奪われ、喝采を送り、称えるようなものではなかったのだと思う。


 卓越した表現力があったわけではない。
 難易度の高い曲を軽々と弾いてみせたというわけでもない。
 
 ただそれでも、彼女の旋律は明確に、己の心を強く、激しく惹きつけた。ため息が漏れ出るような、身の内が震えるような、そんな感動を生んだのだ。こんなに心が動かされることがこの世界にはあったのかと、そんなことすら考えてしまうくらいには。

 彼女の紡ぐ音は、例えるなら春の訪れに淡く綻ぶ花のようだと思った。
 穏やかで、あたたかく、泣きたくなるくらいに優しい。ほんの少しでも力を込めて触れればたちまちほろほろと崩れていきそうな儚さと、それでも今ここで確かに生きているのだと活力に満ちた微笑みのような、そんな音色。

 この音を、自らの手でさらに磨き上げられることができたなら、どんなに幸福だろうか。そうして彼女の作り出す音楽を、誰よりも側で見守り続けることができたならば。
 不意にわき上がってきたその思いは、ほとんど衝動に近かった。絶対にそうしなくてはならないという強い使命感すら感じていた。

 ああ、自らの運命に出会うとは、きっとこういうことを言うのだろう。

 そんな風にぼんやりと考えながら見た、ステージの上でお辞儀をする彼女の姿は。
 きっと今まで見た誰よりも、美しい輝きをもってこの瞳に、そして心に焼き付いていた。


     ♪ ♪ ♪


……じな、こ……?」
「ッ!」

 唐突に鼓膜を震わせたのは、酷く掠れ、今にも消えてしまいそうなくらい弱々しい音。けれどうつらうつらしていたジナコの意識を覚醒させるには十分過ぎる声だった。
 弾かれたように顔を上げれば、まだ少しぼんやりとはしているものの、見慣れた空色の瞳が、確かにこちらを見つめている。

「かっ、カルナさんッ!」

 叫び、身を乗り出して顔を寄せる。
 反射的に出してしまった大声が響いてしまったのか、僅かに呻き声を上げながら顔をしかめるカルナ。ジナコははっとして口を手で押さえた。ごめんと目線で謝るが、あまりにもぼんやりしている様子だから、通じているのかどうかは微妙なところだ。
 そうしてなるべく声をひそめ、しかしカルナにははっきりと聞こえるように顔を近づけながら、ジナコはそっと囁く。

「ああ、えっと。どっか痛いとことかあるッスか? 苦しいとこは……ってまあ、苦しいのは当たり前か。そうだ、冷えピタはもう変えたほうがいいッスよね。ちょっと待ってね」
…………ん」

 数拍の後、相変わらず消え入りそうな声ではあるものの、辛うじて返事があった。「うん」だなんて、何だか幼い子供みたいだ。
 ジナコはとりあえずほっと胸をなで下ろしながら、カルナの額からぬるくなった冷却シートを剥がしてやり、それから予め側に用意してあった新しいものを取り出した。ちなみにこちら、アシュヴァッターマンがここへ来る道すがら買ってきたという新品である。必要になるだろうと言って置いていってくれたのだ。おかげでジナコ宅の期限ぎりぎりの代物を使い続けることは避けられたわけである。有り難や有り難や。これを受け取ったときもしこたま拝み倒してドン引きされてしまったのだが、心の中で再び拝んでおいた。
 しかしアシュヴァッターマンという人、あの「何かよくわからないけど怖い男」を具現化したような見た目とは裏腹に、実に気の利く男であった。とにかくアレだ。アシュヴァッターマンという男は、絶対に会社で異性同性問わず好かれてモテるやつに違いない。
 必要になるかもと置いていってくれたものは、新品の冷却シートだけではない。清涼飲料のペットボトル、氷嚢と中に入れる氷、タオル、その他諸々看病に必要になりそうな細々とした物たち。そしてつきっきりになってしまうからと、ジナコの分の食料まで持ってきてくれていたのだ。
 あまりにも配慮が出来る男だったものだから、ジナコはうっかり「やべえこういう彼氏超欲しい」とぼやいてしまったほどである。返ってきたのは「いや、それは……」という、何とも言えない微妙な返事と表情であったが。大丈夫、ジナコさんは強い子だから泣いてなんかない。
 ちなみに、アシュヴァッターマンはとうに会社へ戻ってしまっているため、今この家にいるのはジナコとカルナの二人だけである。迎えに来る時間になったら改めて連絡を入れると言っていたが、それもあくまで朝になってからの話なのでまだまだ後のことだ。
 ジナコは手つきでカルナの火照った額に新しい冷却シートを貼り付け、首筋に当ててあった氷嚢をそっと引き抜いた。すっかり氷が溶けきって水だけになっていた中身が、ちゃぷん、と少しばかり間抜けな音を立てて揺れる。手際が悪くもたもたしてしまうのは許して欲しい。人様の看病なんてまともにしたことがないのだ。

「氷、新しいの入れてくるッス。あ、でももしかしてもう要らない? 熱下がった?」
……うん……うん。いや……?」
「あー、はいはい、わかりましたわかりました。引き続きちゃんと冷やしましょうね~」

 いつもの倍は遅い反応。なるほど、これはどう考えても完全に頭が回っていない人の回答である。
 まだまだ熱が下がりきっていないに違いないと判断したジナコは、何故か無理矢理起き上がろうともぞもぞ体を動かしているカルナをベッドに押し込んだ後、さっさと立ち上がって部屋を後にする。
 一階の台所で氷を入れ直してくる間、カルナには体温計で熱を測らせておいた。戻って見たところ、予想通りまだ低くなったとは言いがたい数字が表示されている。けれど最初に測ったときから比べれば幾分ましにはなっているようだった。アシュヴァッターマンが飲ませてやっていた薬が効いてきたのかもしれない。

 それにしても、と。
 枕にぐったりと頭を沈めているカルナの顔を、ジナコは改めてそっと見下ろした。

 普段の刃物のような鋭さはすっかりなりを潜めており、何となくぽやぽやした様子の彼。見ていると、何だか庇護欲がそそられるというか、胸の奥がくすぐったくてたまらなくなるというか。とにかく、何とも言えない気持ちがかき立てられるのだ。推しに対して強烈な萌えの勘定を抱いているときと似ているような、けれどそれとはまたちょっと違うような。
 ひとまず用意してあった清涼飲料水を飲ませてやりつつ、アシュヴァッターマンが一度ここへ来てくれたこと、朝には彼が車で迎えに来ることを彼に報告した。随分心配していたし、自分も世話になってしまったんだ、と。
 ぼんやりと聞いていたカルナは、やがてぽつりと「そうか」とだけ返事をした。それ以外に言う気力がなかったのかもしれない。

「しっかしカルナさん、こんなに具合悪かったのに、よくボクんちまで辿り着けたッスねえ。そもそも家にまっすぐ帰って大人しく寝とく、っていう発想はなかったわけ?」
……すまない。会社を、出た、後から……記憶が、あまり、なく……気がついたら、ここにいた、と、いうか……
「はあ」
「オレにも、よくわからない……ただ、キミに会いたいと……そう、思っていたことは、確かで……それで、ジナコの顔を見て……急に、力が、抜けて……気がついたら、ここに、寝ていた。朧気だが……そのような、気が、する」
……ソッスカ」

 何というか、どんな顔をして彼の話を聞いていればいいのか、よくわからなくなってきてしまった。
 ジナコはどうでもよさそうに返事をしたが、正直顔が燃えそうなくらい熱くなっているのがわかる。カルナから返された飲みかけの清涼飲料のペットボトルを、うっかり手を滑らせ取り落としそうになってしまった。危ない危ない、こんなところでぶちまけてしまったら、病人のカルナに迷惑をかけてしまう。
 何にせよ、カルナがこんなぼけーっとした状態でいてくれてある意味助かった、と思った。いつものように「顔が赤いぞ」「動揺しているが何かあったのか」などと真顔で指摘されていたら、自分が照れ隠しの衝動的に任せ、どんなことをしでかしていたかわからなかったからだ。もしかしたら反射的にぶん殴ってしまっていたかも。いくら何でも病人に大してそんな無体な真似はできない。

 つまり、何だ? カルナは高熱で意識が朦朧としている中、それでもジナコの家に行かねばという意志だけははっきりしていて、ふらふらの状態でここへ向かっていた。そしてジナコに会えたことで一気にことんと気が抜けたのか、ぎりぎりで保っていた最後の糸が切れてしまったのだ、と。つまりそんなことを言っているのである。

 待ってくれ、何だそれ。いや本当に、どういうことなんだ、何だそれは。大事な事なので二回言った。何ならもう一回言わせてもらおう。一体何なんだ、お前は。

「あー、あー! そうだ。ねえカルナさん!」

 色々と耐えきれなくて、どうにか話題を変えようとジナコは慌てて口を開いた。カルナがのろのろと首を動かしてこちらを見る。終ぞ見たことのない弱った姿に、熱でとろんとした空色の瞳に、うっかりきゅんとしてしまう。
 ああもう、こんなのずるい。ときめかないほうがおかしい。胸の辺りをかきむしって暴れたい衝動を、ジナコはどうにか叩き伏せる。

「え、ええと。とりあえず、今ボクに何かして欲しいこととかない?」
「して、ほしい、こと……?」
「そうそう。たとえば食べたいものとか、飲みたいものとか。何かあれば、ボクが出来る範囲であれば聞いてあげるッスよ。どう? 病人なんだから、こんなときくらいどーんと甘えるッス。ジナコさんだってそれくらいの甲斐性はあるッスよ」

 そうして口から飛び出していった声は、自分でもちょっとびっくりするくらい、甘ったるい響きを持ったものだった。少なくとも、成人した男性に向けて出すようなものでないことは確かで。
 たとえばそれは、母が子を労るような、姉が弟をあやすような声音だった。ジナコ自身しばらく聞いたことがなく、誰かに向けてかけることもなかった声。心から思う大切な人へと向けるものだった。
 ああ、カルナが弱っていたからとはいえ、なんて声を出してしまったのか。言った側から恥ずかしくなってしまったが、一度口に出してしまったものを引っ込めることは出来ないので、ジナコはそのまま彼の答えを待った。


 ――かち、こち。


 時計の針が動く無機質な音だけが、部屋を満たす。
 沈黙に耐えきれなくなったジナコが再び口を開こうとしたとき、ようやくカルナがぼそりと零したのだ。

……キミの」
「うん?」
「キミの、ピアノが……ききたい」
「!」

 まさかの答えに目を丸くする。
 カルナ自身も特に意識しないまま口を滑らせてしまっていたのか、驚いたように息を呑んでいた。視線を彷徨わせて口を開くが、熱で頭が回っていないせいでうまく言葉が出てこないらしく、そこから漏れ出てくるのはかすれた呼気のみだった。
 一方ジナコはというと、カルナの言葉によって胸の奥がひりつくような痛みを感じつつ、けれど最初に彼と会って同じようにピアノをと乞われたときほど強くないことに、動揺を隠せないでいた。
 そんなことしたくない、とみっともなく泣き叫ぶいつもの自分の他に、けれど彼のためならばと立ち上がろうとしている、ジナコ自身も知らないジナコが顔を覗かせている。そんな存在が己の中に出現していることに、ジナコ本人が一番驚愕していた。

……カルナさんはさ。ボクのピアノを、どこかで聞いたことがあるんスか?」
……

 そうして、ジナコがふとそんな問いを投げかけた。
 彼はあの日、自分はジナコの音を知っているからと、しきりにそう繰り返していたような気がする。そしてこれだけ執着しているからには、きっと何か理由があるはずだ。
 もしかして、というほんの少しの疑惑だった。けれどそう問うた瞬間、カルナがあからさまに困ったような顔で狼狽えたのを見て、確信した。カルナはきっとどこかで、ジナコがピアノを弾いている姿を見ていたのだと。
 カルナはしばらく唇をきゅっと固く引き結んでいたが、やがてのろのろと口を動かし始めた。

……十五年ほど、前に、なるか……あのときに、一度だけ」
「え、一回だけ?」
「ああ……

 カルナは熱に浮かされた様子で、それでもぽつぽつと口を動かし続けた。
 十五年前といえば、まだジナコの両親が健在であり、当然だがジナコもピアノを続けていた頃の話だ。懐かしさと息が詰まるような苦しさが、ずっしりと肩の上にのしかかってくる。
 あの頃のことを思い出すのは未だに苦しいし、痛い。幸福だった頃の思い出は、しかしその後に訪れた絶望の色で、あっけなく塗り潰されてしまうから。幸福だった色を保ったままにしておきたいからと、ジナコは昔のことをあまり思い出すこともしていなかったのだ。
 けれどジナコは、彼の掠れた声に耳を傾け続けた。理由はよくわからないのだが、とにかくちゃんと聞いてやらなくてはならないと思った。しくしくと、古い傷口を抉られるような胸の痛みには、なるべく気がつかないふりをして。

 カルナがジナコのピアノを聞いたのは、彼が小学生のときだった。

 当時のカルナは、アシュヴァッターマンが語っていたとおりかなりの虚弱体質で、ちょっとしたことでも寝込むのが日常茶飯事といった状態だった。そのときは特に著しく体調を崩しており、一時はあわや生死の境をさまようほどの状態に陥ってしまっていたため、かなり長い期間の入院を余儀なくされていたのだという。
 そんな状態の生活を送っていたとき、カルナが入院していた病院で、ピアノのコンサートが開催されることになった。まだ入院中の身であったとはいえ、その時期には体調が比較的安定しつつあり、長い入院生活で暇を持てあましていた様子だったカルナを気遣って、担当の看護師がコンサートに連れて行ってくれたらしい。
 そういえばジナコがピアノのレッスンを受けていた教室は、地域へのボランティア活動の一環として、病院や介護施設などで定期的にコンサートを行っていた。ジナコ自身も何度か参加したことがある。カルナが聞いたというのは、そのときたまたまジナコが出ることになった回だったのだろう。

「そこで……一度だけ、キミのピアノ、を、聞いた」

 元々生まれつき音感がよく、加えて外で遊べない代わりに室内で音楽を聴いて過ごすことが多かったためか、カルナは『音』に対して人一番敏感な少年だったそうだ。人混みのがちゃがちゃした騒音の中にしばらくいただけでぐったりしていまい、酷いときはそのまま体調を崩してしまう程度には。
 そんな彼の耳に、ジナコのピアノの音が強烈に残ったのだという。がやがやしていた周囲の雑音はあっというまに遠ざかり、カルナはジナコが奏でる音の世界の中へと招かれた。ずっと身体の中を苛み続けていた痛みを、そっと包み込んで融かしてくれるような。淡い日だまりの中で抱きしめられているような。そんな優しく、甘く、柔らかく、そして何よりあたたかい音だった。
 心臓を縫い止められたようだったと、カルナは目を細めながら当時の心境を語ってくれた。

「諦観でしか、見ることが出来なかった、世界に……こんなにも、美しいものがあるのかと……オレは、心を震わせたものだ……
「へ、へぇ~、そうなんスか」

 こそばゆい。恥ずかしい。面映ゆい。
 自分のピアノをそんな風に思って聞いてくれた人が居たなんて思わなかった。両親は褒めてくれたけれど、さすがにここまで具体的に、そして熱狂的に感想を述べてくるようなそれではなかったし。

「で、でもほら、アタシのピアノ、そんなにうまかったわけじゃないデショ?」
……ああ、まあ、そうだったかな」
「エッ」

 何だか過剰なくらいの評価の言葉に耐えきれず、茶化すような声音で苦笑してみせたところ、カルナはそのままジナコの言葉を肯定してしまった。別に否定して欲しかったわけではないのだけれど、何だかこう、ちょっとガクッとなってしまう。
 そんなジナコの様子に気付いているのかいないのか、カルナはぽつぽつと、まるで夢を見ているかのようにぼんやりとした様子で話し続けた。

……実力だけ、見れば……素人に、毛が生えた程度、だったのだと思う……オレも、当時は素人、だったが……明らかに、間違えていた部分も、あったようだし」
「アンタねえ」

 病人になっていようと容赦のない言葉たちに、しかし不思議と怒りはわいてこなかった。沸いてきたのは多分、ほとんどが呆れの感情だ。
 決して嘘は言わない人だから、すべて本当なのだろうというのはわかる。ジナコの弾くピアノのレベルが絶賛されるほどのものではなかったことは、紛れもない事実だ。けれど同時に、幼い頃のカルナの心を大きく震わせたのがジナコのピアノだったことも、また疑いようもなく真実なのである。
 そして今はそれ以上に、不器用が故にひたすらまっすぐにしか言葉を紡げない彼が、妙に可愛く思えて仕方がなかった。元々そういう人なのだと知ってはいたけれど、今その姿がとてもいじらしく感じる。
 ジナコの手はいつの間にか、カルナの胸の上をとんとんと規則正しく叩いてやっていた。そうしようと明確に思ったわけではなく、自然と手が伸びていたわけだが。幼子を寝かしつけているかのようなそれに、カルナは早速うとうとと船を漕ぎ始める。
 それでも、重たそうな口を懸命に動かしながら、彼は言うのだ。

「オレは……キミの、あの音を……守れる、ような……男に……なりたいと……そう、思ったんだ」

 生きなくては、と。
 そのときカルナは強く思った。この音を誰よりも側で見守り、育て、寄り添えるような存在になりたいと、願ったのだ。
薬や機械を無駄遣いして、たくさんの人に迷惑をかけて、そうして何とか命を繋いで生きてきていた。日常のほとんどをベッドの上で過ごしているような自分に価値はないと、いつ死んだって構わないだろうと思っていた。生きている意味などないじゃないか、と。自ら命を絶とうと考えたこともある。その方がみんなのためだと。けれど周りの人にもっと迷惑をかけると思い、その度に何とか思い留まってきたのだ。
 けれどあの日を境に、カルナの心は大きく変化した。地に這いつくばってでも生きてやろうと思うようになった。己の願いのためにだなんて、ひどく傲慢なことだと自分でも思ったが、それでも諦めきれなかったのだ。
 あんなにも得がたい輝きを持つこの世界からこぼれ落ちてしまうなんて、ましてや自分から出て行こうだなんて、今となっては考えただけでも恐ろしかった。彼女の音をもう一度聞きたかった。そうしてあの音を、彼女が奏で作り出す美しい世界を、己の手で守りたかった。

 カルナはそうやって、あの日聞いた美しい音を追いかけて、ここまで生きてこられたのだ。

 ジナコはカルナの訥々と紡がれる話を聞きながら、アシュヴァッターマンが言っていた言葉を思い出していた。カルナはあるときから突然『死んでなどいられなくなった』と言い始め、生きることに対して積極的になったのだと。そしてカルナの言葉を信じるのならば、その理由はかつてのジナコがもたらしていたというのである。

「でも、アタシ、アタシは」

 言葉が出てこない。それでも何か言わなくてはと、ジナコは唇を戦慄かせた。
 だってジナコ自身は、そんな真摯な気持ちで目指すような崇高な存在じゃない。カルナが必死になって辿り着こうとしていた女は、まっとうな人生の道から自ら転がり落ち、何一つ成せないまま停滞の日々を過ごしていたのだ。
幼い頃のカルナは、己が生きている意味を見いだせなかったと言っていた。けれどそんなの今のジナコだって同じだ。生きていたって何も成せず、成そうという気持ちすらすべて放棄した。かといって、明確にとどめを刺して終わらせることもできない。
 だからカルナのそんな気持ち、自分にはもったいないのだ。そこまでの尊い感情を受け取る資格が、今のジナコにはない。

「だが……それでも……オレ、は……き、み、を………
……カルナ? カルナ! え、ちょっと待って、カルナってば!」

 すうっと、カルナの瞼が閉じていく。空色の瞳が隠れてしまう。声の多くに空気が混じり、溶けるように消えていく。
 ジナコはぎょっとし、慌てて彼の名前を叫びながら顔を覗き込んだが、とりあえずまた眠りに落ちてしまっただけらしかった。規則正しい寝息は、目を覚ます前よりも少し安定しているようにも聞こえる。

 そうして吐息と時計の音だけが、重苦しい部屋の中に小さく響いていた。

……って、何なのよそれぇ~」

 先ほどカルナが告げた言葉を反芻して、ジナコは大きく、大きく溜息を吐いた。顔全体にもの凄い勢いで熱が集まって、そうでもしないと頭が爆発してしまいそうだったから。
 こんなことが三次元(リアル)で起こりうるのか。どっかの乙女ゲームで見たような話だ。もしジナコがプレイヤーだったら「はいはいご都合主義乙~」とか言って鼻で笑ってしまうような展開である。

 しかしこれは現実だ。紛れもなく、今ジナコの目の前で起こっている事実なのだ。

 カルナが投げかけてくれた言葉が、ずっと耳の奥でこだましている。うわんうわんと頭の中を回って、ジナコの心に雨のように降り注いでくる。何処にも逃げ場がない。

「こんなんどうすりゃいいのぉ~……

 すやすやと眠っているカルナの顔を眺めながら、途方に暮れて一人ぼやくが、もちろん答えはない。ジナコはその寝顔が若干穏やかになっているのにほっと安堵の息をこぼしながら、しかしぐるぐると胸の中を渦巻く熱を持て余し、途方に暮れていた。
 ピアノなんかもう二度と触りたくない、見たくもないと心底思っていた。それに自分以外の誰かを不幸にするかもしれない音色など、一体どこの誰が望むものかと。

 けれど今、ジナコの音こんなにも求められてしまっていた。ずっとずっと焦がれ、望み続けていたのだと、熱のこもった声で言われてしまった。

 もったいない、そんな資格はないと思いつつ、嬉しいと感じてしまった自分を誤魔化すことは出来なかった。何て醜く傲慢な心なのだろう。彼が抱いているきらきらした気持ちやまなざしを前にすると、ますます惨めな気持ちになってしまう。
けれど「どうしたらいいのか」という問いに対する答えは、もうジナコの中で半ば出きってしまっていた。
 そうしてやりたいと、そうしなくてはならないと、己の中で何かが叫んでいる。そして、きっとこれが最後のチャンスなのであろうと。

……もう。呪われても知らないんだからね、ばか」

 乱暴に吐き捨て、しかしその言葉とは裏腹に恐る恐るカルナに手を伸ばし、まだ熱を持っている頬をぺちりと叩いた。よほどぐっすり寝入っているのか反応はない。それを寂しいと思ってしまう辺り、もうジナコに逃げ場なんか無かったのだ。

 求められて、望まれて。
 それでもなお真っ直ぐに頷けない弱虫な自分が嫌になるけれど、肯定的な答えを出せるだけ、勇気を振り絞っていると褒めて欲しいくらいである。

 ジナコは自分の心を掻き乱すだけ乱して、呑気に眠ってしまっている彼の整った横顔を眺める。存外幼く見えるその寝顔に、また勝手に胸の奥をざわつかせながら。


      ♪ ♪ ♪


 カルナが一度目を覚ましてから数時間後、空がうっすらと朝の日差しに色を変え始めた頃、ようやく仕事を終えたというアシュヴァッターマンが、言っていたとおり自家用車に乗ってジナコの家へと戻ってきた。
 そうして、随分熱の下がったカルナを担ぐようにして車に乗せ、そそくさとジナコの家を後にしていったのである。

 そして当然といえば当然なのだが、それからカルナがジナコの家にやってくることはなくなった。

 あれだけの高熱を出して倒れてしまったのだ、しばらくは家で大人しく養生するのだろう。ジナコとしても彼にはきっちり休んでもらいたかったし、間違っても無理矢理来いなんて言える立場じゃない。そんな権利はない。
 カルナとは相変わらず連絡先を交換していなかったから、その後体調がどうなったかも、勝手に想像することしか出来なかった。また無理をして倒れていないかだけが気がかりなのだが、アシュヴァッターマンがきちんと見張っていてくれることを期待しておくとしよう。
 ちなみにアシュヴァッターマンからは連絡先を貰っていたので、その気になればカルナのことを聞くことも出来た。けれどいちいち状況を聞けるほど親しい仲ではないので、何となくそれもはばかられたのである。世話焼きの彼が、また倒れるほどの労働を勝手にしているカルナを見過ごすとは思えないし、きっと大丈夫だろう。

 そう、だから別に、寂しくなんかない。

 言うなれば、彼がジナコの家にやって来る前の生活が戻ってきただけだ。寧ろこっちの方が長いのだから、慣れっこのはずである。やかましく小言を言われることも無いし、彼の無遠慮な発言で怒ったり心を乱されたりしなくなったし、平和的でいいことじゃないか。
 ジナコは自分に対してそう言い聞かせながら、それからの日々を淡々と過ごしていた。

 けれどいくらそう思っていても、いつもカルナが玄関のチャイムを鳴らす時間帯になるとそわそわしてしまったり、彼が向かいに座っていない食卓が妙に寒々しく思えてしまったりしてしまう。要するにジナコは自分が一人きりの時、一体どのようにして時を過ごしていたのか、すっかり分からなくなってしまっていたのだ。

 さあ、どうしたものか。

 開始したはいいものの全く集中できないゲーム画面をぼんやり見ながら、ジナコは深いため息を吐く。この行為が何度目になるのかは、もうとっくに数えるのを諦めていた。こんなに自分の世界にあの男が深く入り込んでいたことに、居なくなってから気付くなんて。ジナコさん大失態である。
 とりあえず何か食べようと、ジナコは被っていた布団から海牛のような速度でのろのろと這い出し、重たい足を引き摺って階段を降りていった。カルナによってある程度規則的な生活に矯正されてきていた胃袋が、ちゃんとした時間にちゃんとした食事を所望するようになってしまっていたのである。
 迷惑なことを、とはさすがに思わない。食事を用意してテーブルについたとき、向かいに見慣れつつあった白髪と青い瞳がないことに、胸がほんの少し痛むだけだ。
 何を食べようかと冷蔵庫を開けたちょうどそのとき、玄関のチャイムか来訪者の存在を家主に伝えるべく無機質に鳴り響いた。はて、通販で何か買っていただろうか。外に出るのが面倒くさいからと、何か色々と食材の類を買っていた気がするが、アレの到着予定日は果たしていつだったか。
 取り留めもなく思考を空中浮遊させながら、ジナコはドアホンのカメラの映像を確認することも無く玄関を開けた。カルナさんがいたら「さすがに不用心だ」とか小言が飛んでくるんだろうな、などと思いつつ。
 そうして開いた扉の向こうに見えた見慣れた色に、油を刺し忘れた歯車のように鈍くなっていたジナコの思考回路は、今度こそ本当に、完全に停止した。

「久しいな、ジナコ。暫く期間が空いてしまった、すまない」

 振ってきた淡白な声。この世のものとは思えないくらい整った顔立ち。スラリと伸びたバランスのいい体躯。そして何より、こちらを見下ろすアイスブルーの瞳。

 間違いない。間違えようがなかった。
 ずっとジナコの頭の中を支配していたその人が、突然目の前に姿を表したのである。

「え、え、えええ!?」

 ジナコは絶叫した。
 近所迷惑だと隣人が怒鳴り込んできても弁解できないレベルの悲鳴だったが、抑えることが出来なかった。暫くまともに声を出していなかったからか、掠れたそれが喉に突っかかってしまい、そのままげほげほと派手に噎せてしまう。
 慌てて背中を摩ってくれる手の温かさに、そしてちょっとその力が強すぎる不器用さに、これが夢か何かでは無いことを如実に告げてきていた。
 ぜいぜいと呼吸を繰り返し、それが落ち着くのもそこそこに、ジナコは性懲りも無く大声を上げる。

「な、ななな、なんで、カルナさんがここにっ!?」
「ああ、訪問がいつもの時間と大幅に乖離していることについては事実だからな、そこは謝罪しよう。お前は常に家にいるのだから、事前に知らせる必要はないと判断したのだが、やはり少しばかり無遠慮だったかもしれない」
「いや、そうじゃなくて!」

 なるほど、この微妙に話がズレている感じ、間違いなくカルナのそれだ。
 それはわかる。わかるのだけれど。

「何でカルナさんが今日、今、ボクんちに来てんのかって聞いてるんスよ!」
「仕事のことならば要らぬ心配だ。会社からは引き続き一週間ほど休むようにと言い渡されている。熱も下がった故出勤しようとしたのだが、療養に努めろと追い返されてしまったのでな」
「療養しろと言われたのに何でうちに来てるんスか!」
「療養しろと言われたからここへ来たのだが」
「あのすみません、ボクの話聞いてる? 聞こえてる? コミュニケーションしよう? コミュ障通り越して相互の言語理解に何か致命的なバグ生じてない?」

 カルナの言葉がいつになくわかりにくいのは、彼がまだ本調子でないからか、或いはジナコがカルナと一切接することがない時間ができてしまったせいか。わけがわからないよと途方に暮れながら呟けば、オレもお前が何を理解できていないのかわからん、と真顔で返されてしまった。解せぬ。
 どちらにしても、現状ジナコがすべきことは一つだ。わけのわからないことを言いながら我が物顔で家に上がってきたこの男を、一刻も早く自宅へ帰らせること。そしてカルナが職場の同僚か上司に言われたであろうとおり、大人しく静養させることである。

「とにかく、今日はもう帰んなさい! ハウス! そしてゴートゥーベッド! おやすみなさい!」
「む、それはできない相談だ、ジナコ。オレの療養のためを思うならば、オレをここに居させてくれないか」
「ぐ、ぐぬぬ、相変わらず意味不明だけど圧だけは一丁前……ッ!」

 カルナは空色の瞳でまっすぐこちらを見つめてくる。一歩でも認識を間違えれば睨みつけているのかと思ってしまうくらい、強い視線だった。言葉こそ提案の形を取っているが、否定など受け付けないと見つめてくる瞳が雄弁に語っている。
 ジナコは小さく呻き声を上げて唇を噛んだ。こうなったら梃子でも動かないことをよくよく知ってしまっているから。
 ここでもし無理矢理外へ閉め出したとしても、カルナはジナコがここへいることをよしとしない限り、きっと何時間でも玄関の前で粘り続けるだろう。容易に想像が付いてしまう。つい先日その玄関でばったり倒れてしまったような男を、こんな寒空の下で延々と問答させるほうがよっぽどよくない。

「あーあーあーあ! わかりました、わかりました! ジナコさんが降参します! もう好きにすればいいでしょ! 具合悪くなっても知らないんだからね!」
「ありがとう、ジナコ。……ところで、今朝は朝食はきちんと摂ったのか。まだであれば今から何か作ろう。オレが来ない間、また不健康に菓子をむさぼるだけの生活をしていたのだろう?」
「要らん! 今日くらいは大人しく座ってなさい!」
……承知した」

 何故そこで不服そうな顔をするのか全く意味がわからない。療養を言い渡されている半病人に心配されるほど自分の生活レベルは低いのかと、ジナコは少しばかり落ち込んだ。反論の余地がないからなおさらである。
 とはいえカルナがジナコのことを気遣ってくれているというのは、ただ純粋に嬉しかった。いくら何でもカルナがジナコのことを心配してくれていることくらいはわかる。自分が来なければあの女はきっとろくな生活をしてない、と彼の中で断定されているのは業腹だが、完全に事実なので口を噤むしかない。

「そ、そういえば、今日は随分と厚着してるッスけど、どしたの。何か心境の変化?」

 何とか話題を変えたくて、ジナコはぱっとカルナを見て気付いたことを問うてみた。カルナはジャケットを脱ぎながら、唐突な質問にきょとんと目を丸くしている。
 普段は見ていて寒々しくなるくらいすっきりした服装でいるカルナだが、今日はハイネックのシャツの上に厚手のカーディガンを着用していた。さらにもこもこしたダウンジャケットを羽織っており、首にはきっちりとマフラーまで巻いているのである。普段見ている彼からはちょっと離れた格好だし、そもそも今日身に纏っている服の雰囲気が、カルナが普段着ているそれらとは明らかに趣味が違うような。
 もしかして、という可能性が、ちらりと頭の隅を掠めた。

……誰かに、着せてもらった、とか?」

 聞いてしまってから後悔した。ここでうんと頷かれたらどうするつもりだったのだろう。

 果たしてカルナは、どこか照れくさそうに目を伏せながら頷いた。

 ジナコは頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。
 有り得ないと思って、冗談のつもりで聞いたのに。それをまさかこんなにあっけなく肯定されるとは思わなかったからだ。

 カルナはそれ以上、自分からそのことについて何か口にすることはなかった。明らかに言いづらそうな様子である。ジナコには言えないような間柄の人にしてもらったのだろうか。たとえば、恋人とか。或いはそれに近い人とか。

……あー、うん。別に言いたくなければいいッスよ。カルナさんのプライベートな部分に踏み込むようなことはしないッス。ボクは適切な距離感が保てる健全なオタクなので!」

 よくもまあいけしゃあしゃあと、と自分でも思った。
 適切な対応ができるのならば、今こんなに傷ついているわけがないのに。

 カルナほどのイケメンだ、そうやって世話を焼いてくれる女性が一人や二人、傍に居ても何もおかしくないだろう。彼に見目は確かに人を惹きつけるし、性格面もいろいろなところに目をつむって広い心で見てやれば、優しく思慮深いものだとちゃんとわかるはずだ。
 彼にそうやって寄り添ってくれる人がいるのならば、それはジナコとしても喜ばしいことだろう。彼を理解し、支え、側にいてくれる存在がいて、そうして彼が心から幸せになってくれるのならば。オタクは推しの幸せを切に、しかし勝手に願う生き物なので。
 それなのに――ジナコの胸の奥は、みし、と僅かに軋む音を刻むのだ。そんなの嫌だと、幼い子供みたいに癇癪を起こして泣きわめきたい気分になる。

「あー、その……よかった、ね?」

 辛うじて返せた言葉は、自分でも分かるくらい固くぎこちなく、そして冷たかった。カルナの顔が見られない。彼がここで幸せそうに顔を綻ばせてなんかいたら、その場で崩れ落ちて泣いてしまうかもしれないから。
 結局それきり言葉が紡げなくなってしまったジナコを見下ろしていたカルナは、やがて気まずそうに口を開いた。

「いや、その。……弟が、だな」
……え? 弟?」

 唐突に出てきた意外な単語に、はっと俯かせていた顔を上げた。そこにあったのは、ジナコが勝手に想像し落ち込んでいたようなものではなく。どこか面映ゆい感じというか、何となく気まずそうなものだった。
 しかし弟、弟と言ったか。英語で言うとブラザーである。
 いや、そんなの小学生でも知っているけれど、そうじゃなくて。

「カルナさんって、弟いたの!」

 こくりと、カルナは無言で頷いて返した。
 彼の口から初めて聞く彼の家族の話に、ジナコは目を丸くした。カルナはあまり話したくないのか、顔を僅かに俯かせたままもごもごしている。まるで叱られた理由を問いただされた幼い子供のような様子に、何だか胸の奥がむずむずする。有り体に言うと、可愛い。
 さて、カルナは相変わらず微妙に渋い顔をしながら、ジナコの興味津々な視線に負けたのか、ぼそぼそと話をし始めた。

「先日、オレが倒れたと聞いて、実家から様子を見てこいと寄越されたらしくてな。ここへくる直前に自宅の玄関で鉢合わせてしまい、出かけるなんてとんでもないと怒鳴り散らされてしまった」
「ワァオ」
「だがオレは仕事はともかく、ジナコの元へ行かねばならなかった。だからジナコに会わねばならないということを誠心誠意語って聞かせ、あいつを説き伏せて此処へきたんだ」
……ワァオ」

 身内に一体何を語ってきやがったのか、この男は。
 正直嫌な予感しかしないが、たぶんその弟と今後直接会うことはなさそうだから、それ以上は何も聞かないことにした。自ら薮の蛇をつつく必要もあるまい。どうせトドだマナティだといつものよくわからない、そして失礼極まりない比喩でジナコのことを話してきたのだろうし。
 とりあえず、あのときのオレは間違いなく一言足りていたぞ、とドヤ顔しながら褒めて褒めてオーラを飛ばしている目の前のイケメンは、とりあえず後でお菓子でも施してやるとしよう。

「それで、会いに行くこと自体は了承させたのだが、せめて着込んで行けと無理矢理押しつけられた故だ。貴様の大丈夫ほど信用ならない言葉はない、と」
「あー……なるほど、納得した」
「? 何故そこでお前が落ち込む」
「カルナさんにはわかんないッスよ~!」

 そう、どうせ彼には理解できないだろう。ジナコが勝手に勘違いして、嫉妬して、それで心を痛めていたなんて。
 馬鹿馬鹿しいにも程があるし、思い返すだけでも羞恥で死んでしまいそうになるので、説明なんか絶対にしてやらない。そんな子犬みたいな顔をしてこちらを見つめたってダメだ。ちょっと心が揺れたけど、やっぱりダメだ。
 そもそも常日頃、あれだけジナコの元へ足繁く通ってきていたのだから、恋人なんているはずがないのだ。他にいい人がいるならば、こんなところに毎日やってくる暇などあるはずがないのだから。そんなこと少し考えればわかるはずだった。少なくとも、いつもの冷静な状態のジナコであれば、すぐ彼の家族の存在に思い至ったはずで。
 つまりジナコはさっき、いつも通りの冷静さを失ってしまっていたということになる。カルナの側に自分以外の女性がいるかもしれないという、ほとんど皆無なはずの可能性が一瞬頭の隅を掠めただけで、たまらない気持ちになってしまったのだ。

「ジナコ?」
「ううん、何でもないッスよ。……それより、えっと」

 震える唇と足を叱咤して、ジナコは告げる。

……ちょっと、カルナさんに、聞いてほしいものが、あるんだけど」

 やるなら、今しかない。勢いとノリでやり切ってしまおう。
 不意にそう決意したジナコは、カルナに向かってそう言った。

「何だ?」
……ここじゃダメ。一緒に来て」
「? 承知した」

 よくわからないという顔をしつつも、カルナは大人しくジナコの後をついてきてくれた。
 深く聞いてこないのは気遣いか、単純に聞くまでもないと思っているのか。どちらにせよ今のジナコには有り難いことだった。何がどうしたと根掘り葉掘り全部問いただされて、この場のノリと勢いを封じられてしまったら、そのまま気持ちが揺らいで、やっぱりいいやとやめてしまっていたかもしれない。
 廊下を歩く今だって、後悔の黒い波が押し寄せて溺れてしまいそうなのだ。必死に押しとどめてはいるけれど、きっとちょっとしたことであっけなく決壊する。自信を持って言うことではないが、今のジナコには断言できた。だからこの波が壁を乗り越えて心の中に流れ込んでこないうちに、ジナコはこのミッションを完遂せねばならないのである。
 到着した部屋のドアノブに手をかける。軽く捻って回せばいいだけの冷たい金属のそれが、今はどうしようもないくらいに重く、そして冷たく感じられた。伝わってきたその温度に身体の芯がすっと冷えていくのを感じるのに、さっきから変な汗がだらだら噴き出してくる。

「ジナコ?」
……何でもない。入って」

 しかし不意に降ってきた彼の呼びかけが、何とかジナコを正気に戻してくれた。はっと我に返り、首を横に軽く振ってドアノブを捻る。罪人を閉じ込める重厚な鉄扉のようにも思えたそれは、しかし拍子抜けするくらい簡単に来訪者を招き入れた。
二人がやってきたのは、ジナコの父の仕事部屋だった。
 あちこちに父が使っていた道具がしまい込まれたまま埃を被っており、部屋の中央にはかつてジナコが使っていたピアノが鎮座している。

「ジナコ」
「黙ってて」

 何を言わんとしているのか何となくわかる。けれど、だからこそ今は何も言わないで欲しかった。カルナの視線を振り切るように奥へと足を進めていった。
 無言のままピアノの屋根を開いてセッティングし、鍵盤蓋を開ける。考えるまでもなく自然と身体が動いた。何百、何千と繰り返した動作。当然といえば当然だ。手放して、忘れて、捨てたはずのものがまだ己の中に残っていたことに、ジナコはひっそりと息を呑んでいた。

「ジナコ」
「そこら辺に座って」
……承知した」

 何かしら問いかけたいと思っている視線を投げかけられているのは、もちろん最初からわかっている。けれどジナコはそのまま無視を決め込み、カルナもそれを受け入れてくれた。カルナは壁の端に沿うようにして置いてあった、いくつかの椅子のうちの一つをピアノの近くまで持ってくると、黙ってそこへ腰を下ろした。その間に、ジナコもピアノの前に座る。
 この景色を再び見たとき、どんな感情が押し寄せてくるのかと恐怖していたが、案外激情の類いは沸いてこなかった。ただ目の前には黒と白の鍵盤が並んでいて、手を伸ばせば懐かしい感触が指先から伝わってくるだけで。

 深呼吸を、ひとつ。
 そうしてジナコは数年ぶりに、己の両手を白と黒の鍵盤へと導いた。

 指に力を入れ、鍵盤を沈ませて。
 すっかり寒々しくなってしまったこの部屋の中に、十年ぶりに音が流れた。

 そこからはもう何も考えなかった。「覚えている」としきりに言ってくれている指に身を任せ、頭を真っ白にしたまま、ただ鍵盤の上に指を滑らせていくことにしたからだ。
 ジナコの指は従順に、次々と音を奏でていく。響いた音は繋がり、流れ、やがて『音楽』と呼べるものへと変化していくのだ。ジナコ自身が紡ぐ、ジナコの曲に。
 もちろん、今弾いている曲自体をジナコが作ったというわけではない。けれど作られた曲というものは弾き手によってその色を変える。つまりジナコが今弾いている曲は、今この瞬間のジナコにしか作れない、ジナコだけの曲になっているのだ。

 ああ、そうだ。自分は確かに、この瞬間が好きだった。どうしようもなく好きだったのだ。
 何も考えず、自分だけの世界に深く、深く溺れていける、この瞬間が。

 やがて曲が終わり、ジナコはふうと一つ大きく息を吸い、そして吐いた。両肩にどっと疲労感がのしかかってきて、そうでもしないとそのまま倒れてしまいそうだったのだ。演奏中に呼吸するのを忘れてしまっていたんじゃないかと思うくらい、肺が必死になって酸素を求めているのがわかる。

……ジナコ」

 そうして部屋に響いたピアノ以外の音に、ジナコははっと顔を上げた。別に忘れていたわけじゃないのだけれど、いっぱいいっぱいになっていて完全に存在が意識の外だったというか、何というか。
 ジナコは恐る恐るカルナの方に目を向け、そして静かに息を呑んだ。

 こちらをじっと見つめるカルナが――何とも言えない、ひどく渋い顔をしていたからだ。

 すうっと、指先から体温が抜けていくのがわかった。
 どうして今更こんな真似をしたのかと、嘲笑う声が聞こえてくる。だってジナコがピアノを弾いていたのは、もう十年以上も前のことなのだ。今、こうして一曲をまともに弾き切れたことすら奇跡に近い。
 その当時カルナを感動させられていたのだとしても、あくまでそれはその時だけの話だったのだ。きっとカルナが心を揺り動かされた音を、もうジナコは紡ぐことが出来ない。カルナが手を伸ばしたくて、側で見守りたいと願ったというあの日のジナコの音は、もうどこにもない。
 ここでピアノを弾いてみせて、ジナコは一体何がしたかったのだろう。カルナに喜んで欲しかったのか。それとも認めて欲しかったのか。君こそオレの探していた人で間違いなかったのだと、そう言われたかったのか。
 多分ジナコは、カルナが焦がれているというかつてのジナコ自身の音に、嫉妬していたのだ。彼の心を強く縫い止めているものが、今も自分の手の中にあると思いたかったのだ。
 嫉妬の理由はわかりきっている。ここまではっきりと顔を出してしまった気持ちに見ないふりができるほど、ジナコは己の感情に鈍感にはなれなかった。

 ――ジナコはこのカルナという青年に、恋をしてしまっているのだ。

 カルナの体が床に向かって倒れていったあの瞬間、体の芯に氷を流し込まれたみたいに感じたこと。彼が死んでしまったらどうしようと、幼い子供のように泣き喚いてしまったこと。心から欲しいと願っているというものに対し、ちりちりと胸の奥が焦げて痛むような嫉妬の念を覚えたこと。彼の側に別の女性が居るのではないかと、そんなあり得ないことを少し想像しただけで、たまらない気持ちになってしまったこと。
 それらは全て、ジナコがカルナに心を寄せているからという理由で、悔しいくらい簡単に説明がついてしまうのである。
前にも思っていたとおり、顔は全然好みじゃない。もう十歳若くなって出直してこいと言いたい。それから、銃器で心の弱い部分を容赦なく撃ち抜きぶち抜いてくるみたいな、遠慮も何もない彼の言葉は、今でもちょっと怖い。見つめてくる刃物のような瞳も同様だ。

 それなのにジナコは、いつのまにか恋に落ちていた。
 カルナのことを好きになってしまったのだ。

 でもジナコの恋は、やっと自覚したばかりだというのに、しかしどこにも辿り着くこともなくあっという間に破れてしまった。
 今のジナコにはカルナが望むものを与えられない。だからカルナが欲するような相手には、なれない。
 つん、と鼻の奥が熱くなった。こんなことでいちいちめそめそ泣くなど、なんてみっともないんだろう。鼻水を啜り、浮かんだ涙を堪えようと唇を強く噛み締める。それでもぼろぼろと溢れる涙は止められない。ジナコは勢いよく立ち上がるとピアノに対して背中を向けた。

「じ、ジナコ?」
「いい、いいよ、もう……っ。やっぱり、アタシのピアノ、なんかっ」
「いや違う、そうじゃないんだ。少し待ってくれ」

 カルナは慌てたように立ち上がると、ジナコの肩を軽く叩いた。どこかへ行かないでこのままここに居てくれ、ということなのだろうか。
 カルナは何も言わず、先程までジナコが弾いていたピアノの正面に立った。一体どうするつもりなのだろう。ジナコは目頭を上着の袖で乱暴に拭い、もう一回鼻水を啜りながら、彼の動向をただ見守ることしかできない。
 細く長く、そしていっそ病的なまでに白い指が、先程までジナコが触れていた鍵盤の上を軽く滑っていく。足下のペダルを何度か踏んでみたり、ぽん、ぽん、といくつか指を沈ませて、音を鳴らしてみたり。
 そうして再びジナコの方に顔を向けたかと思うと、カルナはジナコがまるで予想もしていなかったことを突然口にしたのである。

「ジナコ。この部屋に置いてあるカリギリ氏の道具を、少しだけ使わせてもらってもよいだろうか?」
「へ?」
「このピアノは随分と長い間、手入れがされていないと見た。故にお前が許してくれるのならば、少し調律作業をさせて欲しいのだが」
「えっ? で、でも、アタシ、ピアノはもう……それにカルナさん、まだ体が」

 病み上がりでそんなことをして大丈夫なのか。
 そう問うたジナコに、カルナは一瞬驚いたように目を見張った後、何故かはにかむように顔をほころばせたのだ。どこか嬉しそうで、照れくさそうな柔らかい表情に、どきりと胸が高鳴る。

「そのような心配、オレには必要ない。見くびってくれるなよ」
「う、うん?」
……ああ、なるほど。すまない、恐らくこれだと言葉が足りないのだな。ならば付け加えよう。お前がオレの身を心配してくれるのはとても嬉しい。オレのような凡夫には身に余る喜びだ。だがそこまで激しく動いたりするわけでもないし、オレとてそこまで貧弱ではないつもりだから、心配は無用だ。……うん、よし。これでどうだ?」

 えへん、と言わんばかりの得意げ顔に、ジナコは思わず噴き出してしまった。
 残念ながらそこはドヤ顔をするところじゃない。その付け加えたものがなかったら、他人の心配を無下に払いのける冷徹な人だと思われても仕方ないくらいである。口に出してようやく及第点にいくかいかないか、という程度だ。ジナコさんが相手でよかったですねと、茶化す言葉の一つや二つ送ってやりたくなる。
 けれど、褒めて褒めてと尻尾を振っている子犬のような顔で見つめてくるものだから、そんな気持ちもあっという間にしぼんでしまった。有り体に言えば、きゅんとした。惚れた方が負けとはよく言ったものである。

「ああもう、わかりました! いいッスよ、好きにしてもらって。どうせパパの道具なんて、もうあとは埃被っていくだけの代物だし。ただ、ちょっとでも具合悪くなったらそのときは即刻休むこと! 看病イベントは一攻略対象につき一回で十分っスからね」
「? よくわからんが、承知した」

 そうしてガタゴトとピアノの調整を始めたカルナの姿をぼんやりと見つめているうちに、彼の仕事が『調律師』であることを、ジナコはようやく思い出した。最初の邂逅時以降、ピアノの存在を感じさせない付き合いが続いていたものだから、今の今まですっかり忘れていたのである。
 ジナコが自分からその話題を拒絶し、避けていたというわけではない。彼と過ごしている中で、意識的にそうしようと思ったことは一度もなかったからだ。しかし考えてみれば最初の言い争い以降、カルナはジナコに対してそういった話を一切しなかった。この人なりに気遣ってくれていたのかも知れない。

 ああ、もう、本当に――

……そういうところッスよ、カルナさん」
「何か言ったか?」

 ぽつりと、どう考えても聞こえないであろう音量で零した声を、しかしカルナは耳ざとく拾ってしまうのだ。作業の手を止め、心配そうに顔を覗き込んでくる。急に近付いた距離に驚いたり、ほんの小さなことでもジナコを気にかけてくれるのが嬉しかったりと、色んな思いで顔がかあっと熱くなる。

「いーえ、ボクは何も言ってません! お気になさらず!」

 そうしてジナコが、ほとんど照れ隠しのためにぶっきらぼうに放った言葉に、カルナは気を悪くするでもなく「そうか」とだけ返事をして作業へ戻っていった。
 こういう、一見わかりにくいがとても深い優しさにこそ、きっとジナコは強く心惹かれたのだと思う。ずっと凍り付いていたジナコの世界を、カルナはそのあたたかさでゆっくりと解かし、満たしてくれていたのだと。彼のそんな優しさに触れる度、まるで太陽の光に当たっていたみたいに、胸の奥がぽかぽかとあたたかくなるのだった。

 さてジナコがそんなふうに考えている一方、カルナは手馴れた様子で弦を調べている。
 その姿に、ジナコはかつてここで仕事をしていた父の姿を重ねて見ていた。

 こみ上げてくる切ない気持ちは、どうしたって隠しきれることはできない。ジナコはぎゅっと拳を握りしめ、しかし決して決して目を反らすことなく、黙々と手を動かし続けるカルナの背中を目で追い続けていた。
 そうして真剣な眼差しで作業をしている彼のそんな姿を見ている内に、「もしかして」という気持ちが顔を覗かせた。
 先ほどカルナがひどく渋い顔をしていたのは、長年放置されていたピアノの音が酷いことになっていて、調律師として黙っていられないレベルだったからではないだろうか。弾くことに夢中になっていたジナコにはさっぱりわからなかったが、それを生業としている彼にとっては、どうしても我慢ならない部分があったのかもしれない。人一倍耳がいいのだとも言っていたし。

 ――ああ、やっぱりこの人は、致命的に言葉が足りてないじゃないか。

 そう思いつつ、勝手に勘違いして勝手に泣きそうになっていた先程のまでの自分自身が、急に恥ずかしくなってきてしまった。カルナがそういう人だってこと、ジナコは今まで彼と過ごしてきた時間の中で、ちゃんと知っていたはずなのに。
 その後窓の外がどんどん暗くなり、ジナコが慌てて部屋の電気を点けたことにも気付かないくらい、カルナは作業に集中していた。あまりの熱中具合に、このまま無理をしてまた倒れるんじゃないかとひやひやしてしまうくらいだ。
 けれど彼が具体的に何をしているのかジナコにはわからないため、声をかけるのは躊躇われた。音叉を叩いて音を調整しているときなんか、邪魔になるんじゃないかと息すら止めていたくらいである。

 そうして数時間後、カルナは特に問題なくピアノの調律を終えていた。

 終わったぞ、という一言に、ジナコがどれだけ深い安堵の息を吐いたのかは察してほしい。当のカルナは力が抜けた様子のジナコを見て、丸くした目をぱちぱちと瞬かせるばかりで、自分がそこまで心配されていたとは考えもしなかったようだが。

「とにかくこれでいいはずだ。もう一度弾いてみろ」
「ううっ……ボク、もうピアノなんか弾かないって言ったのに」
「先ほどは自ら弾いていただろうに」
「さっきというには既に遠い時間の話ッス!」
「そうか? ……そうか、そうだな」

 とにかく頼むと背中を押され、あれよあれよという間にまたピアノの前に座らされてしまっていた。
 持ち上げた手が、震えた。ここまでやってもらって、それでもカルナが満足するような音を奏でられなかったらどうしよう。そんな不安が頭をもたげる。
 けれどすぐ隣には、わくわくという擬音が聞こえてきそう顔でこちらを見下ろすカルナの姿がある。子供か。
 これはもう後には引けないな。ジナコは覚悟を決めて、或いは半ば諦めて、盤の上に指を置いた。

 ――トーン、と。

 響いた最初の一音に、背筋をぞわりと何かが駆け上がっていくのを感じた。
 けれどそれは決して不快感などではない。寧ろ逆だ。何処までも遠く、深く、澄んで響いていきそうなその音に、鍵盤を押して沈んだ指から伝わってくる感触に、腹の底を通り抜けていった振動に。ジナコは確かに気持ちよさのようなものを感じていたのだ。
 次へ次へと、夢中で指を滑らせ、鍵盤を押す。このピアノが発する音を、もっと聞いていたいと思った。もっと弾いていたいと思った。ジナコの世界が、突き抜けるような美しい音だけで満たされていく。心の奥に溜まっていた淀みのようなものが、吹き抜けるさわやかな春風によって瞬く間にさらわれていくような気がした。

……どうだ?」

 ようやくジナコが手を止めた後、たっぷり数十秒待ってから、カルナは口を開いた。
 顔を上げて彼の方を振り返り、そうしてそこにあったカルナの顔にジナコは目を丸くしてしまった。だってこちらを見下ろす彼が、あんまりにも嬉しそうに目を細めていたから。興奮しているのか僅かに頬を赤く染め、口元を緩ませている。

「ジナコ」
「え? あ、うん、その、ええと」

 感想を、と再び促されてようやくはっと我に返る。惜しげもなく注がれてくる「うれしい」の感情のシャワーに、何だかいたたまれなくなってきてしまった。慌てて首をぐりんと元の位置に戻し、無意味に鍵盤の上へと視線を戻した。
 ダメだ、これ以上彼のあんな顔を見ていたら、何だかおかしくなってしまいそう。
 それはそうと、彼の仕事ぶりは素晴らしいものだった。調律に関してはドのつく素人であるジナコにもわかる。あの数時間の作業を経ただけで、こんなにも音が生まれ変わるとは思いもしなかった。 そう、彼の手で調律されたピアノから奏でられた音は、生まれ変わったと形容する他ないほどに美しい音だったのだ。

……すごい。すごいよ、カルナ」

 鍵盤の上を指の腹でそっと撫でながら、ジナコは半ば呆然としながら言った。

「こんなに音って変わるんスねえ……びっくりしちゃった。もう全然違うピアノになっちゃったみたい」
「それは違うぞ」

 ほわほわと、どこか夢見心地で語るジナコに、しかしカルナは首を横に振った。再び目を丸くするジナコに、カルナは淡々と説明を始める。

「これがこのピアノが元々持っていた音は、恐らくもっと素晴らしいものだったはずだ。だが長い間手入れもされずに放置されていたから、元通りにするのにはさらに綿密な調律が必要になるだろう」
「ううっ、ぐうの音も出ぬ……スミマセンね~、まともな手入れが出来てなくて」
「だがオレごときが少し手を入れただけでここまで音が戻るのだから、これは本当に良いピアノなのだと思う。カリギリ氏がジナコのためにと用意したピアノなのだろうが」
「え、ボクのために? 何で?」

 そんな話、今まで聞いたことがなかった。
 だってジナコがピアノ弾きたいんだと言い出す前から、このピアノは父の仕事場の真ん中に鎮座していたのだ。だから多分ジナコが生まれる前、それこそ両親が結婚して、この家を購入した際にでも併せて搬入したのではないだろうか。
 これを弾けるようになりたいんだと、そう言ったときの父の驚いた顔と、その直後に咲いたはじけんばかりの笑顔を、ジナコは今もまだ何となく覚えている。
 けれど、そもそもジナコが弾くためにと用意していたのなら、あんなに驚愕の表情を見せたりはしないはずだ。
首を傾げるジナコに、カルナはピアノの屋根を持ち上げると、中の一部を指し示した。金属部品の端に、なにやらアルファベットと番号が刻まれている。

「この製造番号を見ればわかるが、このピアノの製造年は今から二十九年前だ」
「う、うん?」

 指し示されたはいいものの、日付がそのまま刻んであるものではないので、ジナコは首を傾げるしか出来ない。まさかこの男、この数字の羅列でしかない製造番号をぱっと見ただけで、そのピアノが何年にこの世に誕生したか理解することができるというのか。さすがプロである。
 しかし、それはそれとして。

「え……二十九年前?」
「ああ。ジナコ、お前は今年いくつだ」
……あのさ、そんな真顔でレディに年齢を聞かないでもらえません? あんたにはデリカシーってモンがないんスか?」
「お前はどう見てもレディを呼べる年頃からは逸脱しているだろうに」
「そうだねカルナさんにデリカシーなんかを求めたボクが間違ってたッスねアハハハ。はいそーですよ、ボクはもう二十代ラストの哀れな引きニートですよー!」

 なんだこれ、自分で言ったのに虚しくて死にそう。
 あはは、と乾いた笑いを零したジナコに、やはりというか何というか、カルナは特にフォローを入れてこない。わかっている、こういう男だ。そもそも大前提として、こういう発言に対してフォローを入れる必要性を感じていないのだ。
 さて、それはともかくとして。

「じゃあこのピアノは、ボクが生まれた年に作られたものってこと?」
「それだと半分だな」
「何が?」
「正解部分が、だ」

 カルナはポケットからスマートフォンを取り出すと、何やらかちかちと打ち込み、表示された画面をジナコに見せた。どうやらこのピアノの制作会社のホームページのようで、製造番号を所定のページに打ち込むことで、製造年月を表示してくれるツールがあるらしい。
 そこに打ち込まれているのは確かに今目の前にあるピアノの番号であり、検索結果としてとある年と月の数字が表示されていた。

「これはお前の生まれた年に作られたもので間違いない。だがそれだけでは情報が不十分だ。製造年は先程言った通りだが、さらに言えば製造月が十一月となっている。そしてこれは」
「アタシの、誕生月……

 十一月三日。それは、ジナコ=カリギリがこの世界に生を受けた日だ。
 カリギリ夫婦にとって初めての子供であり、不安と期待でいっぱいだったのだと、父は誕生日の度に語って聞かせてくれた。ジナコを抱いたときどんなに嬉しくて、どんなに心が満たされていたのか、と。そして話の最後は、腕に抱かせてくれた看護師が心配するほど泣いていたのよと、母が茶化して終わって――

……キミは、カリギリ氏に深く愛されていたのだな」

 カルナはそっと目を細めて言うと、再びピアノのほうへそっと目を落とした。視線の先をたどり、身を伸しだして中を覗き込む。
 そしてそこに短く刻み込まれていたのは、随分長い間見ることがなかった、父の字だった。

『愛する娘、ジナコの誕生を祝して。××××年十一月三日』

 調律の作業をしている最中に、たまたまこれが目に入ったのだとカルナは言う。
 このピアノがグレードとしては最高級レベルであろうと感じたカルナは、このピアノ自体にも興味がわき、製造にかかる情報がないかと中を覗いたときに発見したのだそうだ。

「カリギリ氏はキミの生誕を祝い、このピアノを購入した。或いは、誕生の日に併せて作らせたのかもしれない」
「パパが、アタシのために……?」
「そうだ」

 いっそ冷淡に聞こえてしまうくらい、カルナはあっさりとジナコの問いを肯定した。何を当然のことをとでも言わんばかりの口調だ。
 けれどそれだけで、ジナコの中で何かが勢いよく爆発した。
 ジナコが投げかけた問いに対し、遺された情報から答えを推測することは出来るが、本当にそうだという確証は得られない。どれだけ証拠が揃い真実に近い状況を得られたとしても、唯一それが真実だと告げられる人は、もうこの世界のどこにもいないのだから。
 答えられる者を永久に失っているジナコの問いを、けれどカルナは迷うことなく肯定した。躊躇うことなく頷いてくれた。疑いようもないと、お前は父にそれほど深く愛されていたことは間違いないのだと、そう言ってくれたのだ。
 父の口から直接聞くことは出来なかったが、彼の言ってくれたそのたった一言だけで、それがジナコの中での唯一の真実になったのだ。

 ジナコがいつか大きくなって、己と同じ誕生日のピアノを弾いてくれる日が来たら。

 父もずっとそんなことを思ってはいたのだろう。けれど無理強いをする気などまるでなかったに違いない。だってそんなふうに言われたことは一度もなかったから。このピアノをジナコのためにとここへ置いたことさえも聞かされていなかった。そんなことを言えばジナコにピアノを弾くことを強要していることと同じにとらえかねないと、優しい父はきっとそう考えたはずだ。
 だからこそジナコが自分から「弾きたい」と言い出したことに驚き、そしてあそこまで喜んでくれたのに。

「アタシ……アタシは……っ!」

 熱い熱が喉の奥から激流となって迫り上がり、嗚咽となって震える唇からこぼれ落ちていく。ぼたぼたと瞳から溢れた涙が、冷たかった床板に次々と落下し、足下に散っていく。

 父はジナコの生誕を祝福し、その証としてこのピアノを用意した。今まで何十、何百とピアノを見てきたであろうカルナをして興味をそそられるほどの、最高級レベルの高価なピアノを。
 ジナコはそんな大切なものを、知らなかったとは言え蔑ろにした。閉じ込めて、鍵をかけて、封じ込めて。そうして一人、見ないふりを決め込んだ。自分勝手に呪いをかけて、背中を向け続けていた。
 そうやって十年余り埃を被り続けていたピアノはそれでも、そんなジナコの指にちゃんと応えてくれたのだ。

「ごめん……ごめん、なさい、ごめんなさい……!」

 口元を手で覆いながら、ジナコはよろよろとその場に膝を突いた。
 自然とあふれ出していた謝罪は、誰に対してのものだったのだろう。父か、ピアノか、或いはその両方か。ジナコ自身にもよくわからなかった。
 ひっく、ひっくと子供のように泣きじゃくり、肩を震わせしゃくり上げる。そんなジナコの肩を、ふわりと優しく抱きしめる者がいた。

……ジナコ」

 緊張しているのか、降ってきたのはどこか固い声だった。
 カルナはジナコをそっと、まるでガラス細工にでも触っているかのように優しく、柔らかく抱きしめていた。とんとんと背中を叩く手つきは、まるきり泣く子供をあやすみたいなそれだ。推定年下の男にこんな真似をさせてと思うのに、ちょっぴりぎこちない手のひらの温度で余計に涙が溢れてくるから、参る。カルナはますます激しく泣きじゃくるジナコの背を、そうやってしばらく撫で続けていた。
 こうやって他人の体温に包まれるなんて、一体何年ぶりのことだろう。抱きしめられるなんて、それこそ間違いなく両親が生きていたとき以来だ。それをつい半年前に出会ったばかりの、家族でもなければ友人でもない男にしてもらうなんて、何だか奇妙な状況だと思った。
 やがてジナコが落ち着いた頃に、カルナは小さな声でぼそりと言った。

……すまない、ジナコ。こういうとき何を口にするのが最適なのか、オレはわからない」
…………

 降ってきた声が、あんまりにも困り果てた情けない声だったものだから。ジナコはお陰様で、ずるずると垂れていた鼻水を啜って涙を拭う心の余裕が出来た。
 ぐずぐずと洟を啜るジナコをよそに、カルナはもたもたと困った様子で口を動かし続けている。

「お前がそうやって泣いているのは、よくない。いや、よくないと言うと語弊が生じるだろうか。その、お前が泣く姿を見ているのは、少々、困る、というか。だがこの状況で『泣くな』と命じるのも酷なことだろう。だが逆に『泣け』というのも違うし、それにお前がもっと泣いたら、オレは、きっと困る、から」
「あ~、はいはい。大丈夫ッスよ、もう」

 言いたいことは何となくわかった。黙っていてくれればそれでもいいのに、ジナコから「お前は一言足りない」と指摘されて以降それをひどく気にしているらしい彼は、何か伝えねばと考えたのだ。しかし適当な言葉が見当たらず、こうしてぐるぐるとらしくないほど困り果てているわけで。
 うろたえている彼の姿が何だか妙に可愛く見えて、ジナコはくすりと笑いを零してしまった。本気で困っているのを笑うなんてどうかと思うが、それでもこみ上げるものはどうしようもなかった。
 案の定、怪訝そうな顔でこちらを見下ろすカルナに手を伸ばし、灯りに透ける白銀の髪をわしゃっと軽くかき回した。ジナコの行動の意図が読めなかったのか、空色の瞳がめいっぱい見開かれている。

「カルナさんがボクを気遣ってくれたのは十分わかったッスよ。だから、その、アリガト」

 そうして冷静になったおかげか、こうやって抱きしめられ慰められているのが今更ながら照れくさくてたまらなくなってしまい、ジナコはそっと顔を埋めていた固い胸板をそっと手で押しやり、カルナの腕の中から脱出した。鼻水をつけてしまっていないかだけが心配で、恐る恐る顔を離す。しかし幸いにも、粘着質な水が彼の身体からびろーんと糸を引くような事態にはならず、とりあえずほっと胸を撫で降ろした。

「しかしジナコ、オレは何も言ってはいない。お前はそれでもいいのか」
「あー、そうね~。ま、ボク限定であればいいッスよ。だってボクはもうカルナさんマスターみたいなもんッスから。皆まで言わずとも、カルナさんの気持ちは全部伝わってるッス」
「! ……そうか。オレの気持ちは、全てキミに伝わっているのか」
「え、ええっと」

 しまった、ちょっとオーバーに言い過ぎたか。
 そう思ったが、カルナがあんまりにも嬉しそうに顔をほころばせているものだから、今更「いいえ違います」などとは言えなくなってしまった。結局ジナコは、あはは、と適当な笑いを零してこの場を誤魔化しておくことにした。なおこれがいけなかったことにジナコが気付くのは、ここからもっと後のことである。
 さて、二人が父の部屋を後にしてリビングに戻った頃、聞き慣れないくぐもった着信音が微かに耳を擽った。それに気付いたジナコが顔を上げたのと、カルナがリビングに放置していた自分の鞄から携帯電話を取り出したのは、多分ほとんど同時だったと思う。全身を震わせながら電話に出よと声高に訴える端末の画面を見たカルナの眉が、ほんの少しだけ下がる。しまった、というような顔だった。
 そうして、先日ジナコも使ったことのあるそれにカルナが耳を当てた瞬間、向こう側から耳をつんざくような怒号が轟いたのである。

『一体何度電話させるつもりだ、貴様はッ!』
 ひ、とジナコは小さく悲鳴を上げ、亀のように首を竦めてしまった。スピーカーにしているわけでもないのに、はっきりと聞こえてくるほどの怒鳴り声。
 耳のすぐ側でそれをまともに食らってしまったカルナは、眉をひそめて腕を伸ばし、端末をめいっぱい自分から遠ざけていた。そんなカルナの姿に想像がついたのか、電話の向こうからは「聞いているのですか」というような内容の言葉が飛んでいるのが微かに聞こえてくる。
 カルナは小さくため息を吐き、画面をタップしてスピーカーモードに切り替えた。おそらくジナコに聞こえるようにと気を遣ってくれたのだろうが、極大に余計なお世話であった。別に聞きたいとか微塵も思ってない。出来れば今すぐこの場から逃げたい。
 カルナの電話から男性の怒鳴り声を聞くのはこれで二回目だった。けれど今回のそれはアシュヴァッターマンのものではない。もう少し声の印象が細いというか、普段から大きな声を上げて怒りを露わにするタイプとは思えない感じである。

 はて、では電話の相手は一体誰なのだろう。
 首を傾げるジナコを横目に、カルナは電話の向こう側の男性に声をかける。

「アルジュナよ、そう声を荒らげるな。貴様らしくもない」
『誰のせいだと思っているのですか、誰の! 無理矢理出て行った挙げ句、いつまで待っても帰宅せず、連絡をしようとしても電話は繋がらない……! 貴様、つい先日無様に倒れた身の上であることを忘れたか!』
「ほう、わざわざ待っていてくれたのか?」
『ッ!』
「ちょ、カルナさん、それはあんまりにもイカン返答ッスよ……!」

 カルナは単純に驚いたという意味か、またはそうしてくれたことが嬉しいという気持ちでぽろっと口にしたのだろうが、この言い方だと煽っていると捉えられかねない。横で聞きながら我慢できなくなってしまったジナコは、ひそひそ声でカルナに向かって囁いた。
 しかし電話相手に聞こえないようにと声を潜めたのに、残念ながら向こうには自分の存在があることが伝わってしまったらしい。カルナをがみがみと怒鳴っていたものと比べると少し落ち着いた、恐らくは彼の本来の声音に近いであろう声が聞こえてきた。

『失礼、誰か側にいるのですか?』
「ジナコが居る」
「いいい、いませんーッ! ボクはいないものと思ってくださいッス! 本日のジナコさんは営業終了しました閉店ガラガラ!」

 ぴゃっと踵を返して自室へ戻ろうとしたジナコは、しかしカルナに肩を掴まれただけで簡単に止められてしまった。男女の差があるとはいえ、こんな片手間で御されてしまう自分が何とも情けない。
 電話の向こうの男性はしばらく黙っていたが、やがてぼそりと言った。

……一人でないのならば、いいです』

その声音が、カルナと何となく似ている、と思った。何処がと問われると答えに難儀してしまうのだが、それでも近いものを感じたのだ。変なところで妙に不器用そうな感じ、とか。

『ジナコ、と言いましたか。私の声は聞こえていますか?』
「は、はいッス……
『非礼をどうかお許しください。そこの阿呆といつまで経っても連絡がつかず、少し気が立っておりました』
「そんなかしこまらなくても良いッスよ! カルナさんのこと、心配だったんスもんね」
『いいえ一切合切これっぽっちも心配などしておりませんのでそこだけは誤解なきようお願いいたします』
「さ、さいでっか」

 なるほど、彼にとってはここら辺が地雷原らしい。これ以上触れるのはよそう。ジナコさんは空気が読めるオタクなのである。
 さて、そうして丁寧に詫びを入れてくれた青年は、名を「アルジュナ」と言った。どうやらカルナがここへくる直前に揉めた弟というのは彼のことらしい。
 なるほど、道理で何となく似ていると感じたはずだと、ジナコは一人心の中で膝を打っていた。ただし何だか複雑な関係であるらしいことは窺えたし、さっきの全力否定ぶりを見るにあまり深く突っ込まないほうがよさそうである。ジナコは口を噤んだまま、カルナとアルジュナのやり取りをぼんやりと聞いていることにした。

……承知した。では、今日のところは戻るとしよう」

 色々と説教を受けた後、とりあえずカルナが大人しく家に帰るという着地点で話が落ち着いたようだった。
 まだちょっと不満ですとカルナの顔に書いてあるが、心配をさせている上にすでに無理を通して出てきてしまっている手前、これ以上強くは出られなかったらしい。けれどそれも当然の話だ。そもそも療養中なのにここに居るのがおかしいと、ジナコだって再三言ったではないか。
 カルナはそそくさと電話を切ると、名残惜しそうな顔をジナコに向けてきた。離れるのが寂しいと、もしかしたらそう思ってくれているのだろうか。
ここ数日ですっかり乙女のそれに変貌してしまったジナコの胸は、たったそれだけの、勘違いだと鼻で笑って捨てられることにすらきゅっと締め付けられてしまう。

「悪いが、そういうわけだ。今日はここで帰宅させてもらう」
「別にカルナさん悪いことしてるわけじゃないんスから、そんな申し訳なさそうな顔しなくていいんスよ。それに今日が最後じゃなくて、また来てくれるんでしょ?」

 問うてしまってから、しまった、と思った。これじゃあ「また来て欲しい」っておねだりしているようなものじゃないか。気づいた所で後の祭りなのだけれど。
 そんなジナコの言葉を聞いたカルナは、ほんの少し目を丸くした後、ゆるりとそれを細め、ジナコに向かって手を伸ばしてきた。一体何をし始めるのか。おろおろしながら見つめるジナコの視線の先で、彼の手のひらはジナコの身体を通り過ぎ、背中へと回されて。
え、と声を上げる暇もなく、ジナコはカルナの腕の中へと閉じ込められていた。

「ッ!? え、おぁ!?」

 びっくりした。びっくりしすぎて、おおよそ人語と判断できる音を話せなくなってしまった。幼稚園児だってもう少しまともな言葉を喋るだろうに。
 でも、だって、仕方ないじゃないか。子供扱いしないでとか、そういうのはいいから早く帰りなさいとか、言おうと思って予め準備してあったはずの言葉たちが、カルナの体温によってどんどんその形を溶かされ、どこかへ墜落していってしまうのだから。だというのに、すっかり真っ白になって干上がってしまった頭は、次に出すべき言葉を生み出してはくれない。
 しかも、次いでたたみかけてきたカルナの声が、ますますジナコの正常な思考を破壊していったのである。

――ジナコ」

 蕩けるような、甘く、そして優しい声だった。耳を擽る優しいその声に、ジナコはそっと息を呑んでいた。

 こんな風に紡がれる己の名の音を、ジナコは知らない。今まで聞いたことがない。どうしたらいいのかわからなくなってしまう。行き場を失った両手を、中途半端な位置で彷徨わせるくらいが精々だった。
 こういう場合、同じように背に腕を回し抱きしめ返すのが普通――なのかもしれない。けれど自分とカルナは、そういう触れあいが許容されるような関係ではないはずだ。
さっき父の仕事部屋で、カルナがジナコを抱きしめてくれたのは、子供みたいに泣きじゃくっていたジナコを慰めるためだった。わかっている、彼は目の前で泣いている人が居たとして、何もせずに放っておけるような人じゃない
 でも今は状況がまるで違う。ジナコはこれっぽっちも涙なんか流していない。だからカルナが今になって何故、しかも突然こんなことをし始めたのか、さっぱりわからなかったのだ。悪戯でこういうことをして、他人を困らせ喜ぶような人ではないと知っているから、尚更である。

 でも、じゃあ、一体何故?

 そうこうしているうちに、カルナは腕を解いてジナコから離れていってしまった。こちらを見下ろす嫌味なくらい整ったかんばせは、勘違いでなければどこか満たされているように感じる。
 どうしてだろう。その理由が、ジナコにはわからない。わからないのだ、何も。

「また来るぞ、ジナコ」
「え、あ、はい、ドウゾ……?」

 混乱の渦の中であっぷあっぷと溺れているジナコに対し、ムカつくくらい軽やかな足取りで玄関から出て行くカルナ。ジナコは呆然と突っ立ったまま、行き場を失っていた手をとりあえずひらひらと振って見せた。それに気付いたカルナも己の手を軽く上げて見せながら、何故か益々笑みを深くしている。

 いや、ちょっと待って、待ってくれ。何であんなに楽しそうにしているんだ。いきなりこんなわけのわからないことをし始めたあたり、やっぱり熱が引いていないんじゃないか。

 ルンルン気分としか形容できないくらい上機嫌な彼の背を呆然と見送り、足音が完全に聞こえなくなった後、ジナコはへなへなとその場に座り込んでしまった。
 抱きしめられたときに触れていた部分が、大きな手のひらで撫でられた背中が、顔全体が、熱い。急激に上昇した体温でのぼせてしまいそう。

 ああ、次からどんな顔でカルナに会えばいいのだろう。最後の最後でとんでもないことをしでかしてくれやがった。何なんだあの男は。

 ジナコは頭のてっぺんから湯気を吹き上げながら、しばらくその場から動く事が出来なかった。