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真那
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カルジナ
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浮いて沈んでアンダンテ
ピアノ調律師カルナ×元ピアニストジナコの現パロ小説。捏造設定過多につき何でも許せる方向け。
※本編はpixivに掲載済みですが、本にのみ収録していた「番外編」と「エピローグ」を加えて全編まとめました。
1
2
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4
5
6
7
【Pesante
―
ペザンテ
―
】
ジナコが病院に見舞いに行ってから数日後、カルナは無事にすべての検査を終えて退院した。
そしてなんとびっくり、彼は退院したその足で、そのままジナコの家へとやってきたのである。
しかしそんな彼の所行に関して、ジナコはもはや微塵も驚かなかった。
退院日を聞いた時点で、何となくそうなるんじゃないかという予想ができていた自分がちょっと恐ろしい。しかも彼が来ることを当たり前のように予想し、当然のごとく許容していた上に、らしくもなくいそいそと家の掃除など始めてしまっていたほどだった。
ぴかぴかになった床を見ながら、こんなふうにカルナの強引さを当然のものだと受け入れてしまっている自分自身に対して、ジナコはちょっと戸惑いを覚えていたのである。
そうして家にやってきたカルナは、しばらく不在にしていたことを詫び、道中で購入してきたらしいロールケーキを手渡してくれた。贔屓にしている近所のケーキ屋の看板商品で、ジナコの好物でもある品だ。あの如何にも女子好みっぽく作り上げられた空間の中、カルナがいつもの仏頂面(本人的にそんなつもりがないのは十分知っているけれど、彼とかかわりのない人からみればそう感じざるを得ない顔)でレジに並んでいるカルナの姿を想像すると、何とも言えない感慨がわいてくる。
というか、ジナコの家に来ることは義務でも何でもないのだし、別段改まって謝罪をされるいわれはどこにもない。ないのだけれど、それはそれとしてケーキは有り難いので受け取っておくことにした。
一方、ここが自宅であるかのような気軽さでいつも通り玄関を通ってリビングにやってきたカルナは、しかし唐突にふと足を止めた。ジナコが掃除をしたおかげで普段よりはいくらか綺麗になっている家の中を見てひどく怪訝な、そして何故か若干困ったような顔をするのである。
「え、何、どしたの? なんか眉間に皺寄っちゃってるッスよ」
「
………………
ジナコよ。オレが不在の間、誰かこの家に入れることがあったのか」
「あのねえ、この引きこもりエリートのボクにそんな友達が存在するとでも? こんなにしょっちゅうボクんちに入り浸るような物好きは、世界中探したってカルナさんくらいしかいないッスよ」
嫌味かと軽くにらみ付ければ、それもそうかと拍子抜けするくらいあっさり納得されてしまった。
安堵しているようにすら見えるのは一体どういうことなのか。そんなに不用心だと思われているのならば心外である。ジナコだって、見知らぬ人が部屋に侵入してきて掃除などやっていたらさすがに気が付くと思う。
何となく腑に落ちなさを感じたものの、カルナがそれで何かしら納得してくれたならよしとすることにした。いくら自堕落極まりないジナコさんだって、やるときはやるのである。
ひとまずロールケーキは夕食後にと言いながら冷蔵庫のあるほうへと向かう、もはやすっかり見慣れてしまった背中。冷蔵庫の中身を確かめながら夕飯の献立を考えている横顔。支度をするために食器類を取り出す綺麗な白い手と繊細な指先。
それらはしばらくの間ここになかったはずのものなのに、いざ戻ってきたらあっという間に馴染んでしまっていた。まるで最初からずっとここにあったかのような自然さで。
そんな彼の姿をぼんやり眺めながら、ジナコは何でもない風に声をかける。
「それで、検査結果のほうはどうだったんスか?」
「特に何もない。まだいくつか結果待ちのものもあるが、おそらくそちらも問題ないはずだ」
「へ~そりゃよかったッスね~」
あとでアシュヴァッターマンにでも、こっそり正確な結果内容を聞いておこう。
よきかな~などと適当に相槌を返しながら、ジナコは心の中でひっそりそう決めていた。だって彼が自分のことに関して言う「大丈夫」ほど信用できない言葉はないのだ。この数ヶ月でそれを学んでしまったジナコである。
「ま、何事も健康第一ッスよ。それはそうと、はいこれ。退院祝いッス」
務めて何でもない顔をしながら、ジナコはこの場のゆるいテンションに任せて用意していた品を渡してしまうことにした。ここを逃したら一生出せそうにないからと、そう自分を奮い立たせて。
数少ないリアルでも付き合いのある友人と、ああでもないこうでもないと相談しながら選んだ品で、冬物のレザー手袋である。寒くなってくる季節はいつも以上に体調を崩しやすくなると以前聞いていたから、贈り物をするならば防寒具の類がいいだろうと予め決めて用意しておいたのだ。
ぽいっと適当に見えるように乱雑な手つきで押し付けたそれを、カルナは本当に大げさなくらい喜んでくれた。渡されたそれを手にしたままたっぷり数十秒硬直し、ようやく動いたかと思えば本当にオレにかと結局五回も確認され、もはやジナコのほうもどうしたらいいのかわからなくなってしまった。ノリと流れでさっと渡して終わらせてしまうつもりだったのに、そんなにしつこく繰り返されると、いい加減いたたまれなくなってくるというか。
「ありがとう、ありがとうジナコ。オレはこの贈り物を、生涯何があろうと大切にすると約束しよう。まずはこれを万全に保管するケースを購入してこなくてはならんな」
「いやいやいや、たかが手袋に対して重すぎだから! そこはちゃんと使って! だってボクは使ってもらうためにあげたんスよ!」
「そうか?
……
ああ、そうだな。ジナコが言うのならば、そうしよう」
「ボクがいちいち言わなくてもそうしてほしいッス
……
」
普段は不健康なくらい真っ白な頬をぽわぽわと赤らめつつ、手袋の入った袋を大事そうに抱き締めるカルナの姿は、何だかいつもより幼さが感じられた。クリスマスの朝、枕元にあったサンタからのプレゼントを喜ぶ幼い子供みたいである。可愛いなあと、ジナコは存分に胸をときめかせていた。
カルナはそのあともしばらく湧き上がる歓喜と感動に浸っていたようだった。手袋をじっと眺めて、見つめて、時折幸せそうに顔をほころばせながら深い深いため息など吐いてくれちゃっている。
あまりにも尋常でないほどの歓喜っぷりに、最初こそ迷惑がられなくてよかったと胸を撫で下ろしていたジナコも、段々どうしたものかという困惑の気持ちのほうが勝ってきていた。こんなにも情緒不安定な様子を、ここ数日の決して長くないはずの期間の中で立て続けに見せられてしまうと、さすがに心配になってくるというものである。やっぱり病院で変な薬でも処方されたんじゃないか。
だってカルナはこのくらいのプレゼント、今までだっていくつももらってきているだろうに。それこそ、彼に思いを寄せる数多の女性などから。
――
馬鹿じゃないの?
不意に思い浮かんだ想像に対して、心の内でそう吐き捨てる己のひねくれた声が聞こえた。
カルナにそんなことをしてくれる人がいるわけがない、という話ではない。ジナコが嘲笑ったのは、カルナにふさわしいかもしれないそんな女性たちと自分とを、馬鹿正直に比べていたことに対してだった。
比較するのも烏滸がましいのに、こうやって同じ土俵に並べて、それで勝てないと悟って勝手に落ち込んでいるのだ。負け確定イベントで、それでもどうにか一矢報いることができないものかと無駄に足掻くようなものだ。初期装備の木の棒では魔王には勝てまい。むしろジナコはその棒すら持っているか怪しいレベルなのに。
そのまま鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌なカルナを見ながら、ジナコは彼に聞こえないように小さくため息をつくのだった。
とにかくそんなこんなで、カルナとジナコの今までどおりの日常が戻ってきた。当たり前のように彼がそばにいてくれる日々に。
このまま、またしばらくは平穏な日々が続いていくのだろう。ジナコは何の根拠もなく考えていた。
しかしそんな日々は、カルナのとある一言で一瞬にして崩れ去ることになったのである。
♪ ♪ ♪
「転勤することになった」
いつものように仕事終わりにジナコの家へとやってきたカルナは、しかしいつものように夕食の支度などを始める前に唐突にそう切り出した。
「オレが半ば専属となっているピアニストが、近々活動拠点を移すことになってな。オレもそれについていく形で、拠点から近いカウラヴァの支社へ籍を移すことになったんだ」
「
……
そ、うなんだ
……
」
必死に平静を装って言ったつもりだったが、絞り出した声は自分でもはっきりとわかるくらい動揺で震えていた。
「えっと、まあ、そうッスね。オメデト~
……
というと何か違うのか。ともかく、新しい経験を得るのはカルナさんにとっても良いことだろうし。精進するといいッスよ。もしかしたら出世街道に乗れちゃうかも?」
「
……
よかった、という顔をしていないように見える。不満なのか」
「そ、そんなわけないッスよ! なんでボクがカルナさんの仕事に対して不平不満をつべこべ言ったりするんスか。そんな必要どこにもないでしょーに」
だってこれはカルナにとってのいいことであって、ジナコ本人にとってのいいことというわけじゃないから。適当に誤魔化すための言い訳を慌てて付け加える。
ああ、ついに恐れていた時が来てしまった、と思った。
カルナが、いなくなってしまう。ジナコの手の届かないところへ行ってしまう。
このあいだの検査入院とはわけが違うのだ。あと何日経ったら戻ってくるからと、カレンダーを眺めながらあれこれ予定を立てることもできない。この家の中で当たり前のように馴染んだ彼の姿を見ることは、もう永遠にないのだ。
泡沫の幸福な時間は、これっきりで終わりを告げる。
つまりジナコとカルナの曖昧な関係もここまでだ。ジナコは彼と出会う前の、孤独の海の中で息を潜めて暮らす生活に戻ることになるだろう。そう一瞬考えただけでも、足元の暗く深い穴の中に真っ逆さまに落ちていくような錯覚に陥ってしまった。
怖い、寂しい、辛い、苦しい、怖い。
ひとりぼっちは嫌だ。
だからどうか、どうかお願い。私を置いていかないで。
引き留めたいという思いが洪水のように押し寄せて、どうにかしてジナコの重い図体を突き動かそうと躍起になっている。決して手放してくれるなともがいている。
だって彼と出会うまではずっと、何処よりも心地良いと思っていた仄暗い停滞の世界が、実は無理矢理そう思い込もうとしていただけだと気付かされてしまったから。誰かの温もりに包まれる幸福を、安心感を、ジナコは確かに思い出してしまったから。
「それで? 出発はいつ頃になるんスか?」
けれど何とかいつもと同じように見える顔の仮面を深く被せて、行かないでと泣き叫びたくなる衝動を飲み込んで。そうやって、ジナコは辛うじて何でもない調子でそう問うた。
今はまだ難しくても、別れのときまでにはもう少しうまく繕えるようにしておかなくてはならない。笑ってバイバイと手を振らなくてはならない。カルナが何の憂いもなく新しい場所へ旅立っていけるように。そのためにはできればもう少し時間が欲しいところだけれど、果たして。
ジナコの様子を見たカルナはほんの少し眉をひそめたものの、それ以上追求はしてこなかった。顎に手を当てて、ふむ、とジナコの問いへの答えを事務的に並べていく。
「まだ確定はしていないが、遅くとも二月後といったところだろうか。年が明けた頃は本格的に向こうに居を移しておく予定だ。だから、その
……
急な話で悪いが、お前もそれまでに準備をしておいてほしい、思って」
「え、何で? 何を?」
淡々としていた様子から一転、急に大げさなくらい神妙な顔でそう告げられたジナコは、思わずきょとんとしてしまった。
カルナが引っ越すのに、何故ジナコに特別な準備が必要となるのだろう。
もしかして、別れに際して餞別でも用意してほしいのだろうか。一瞬そう思ったが、心の中ですぐに違うと否定した。もちろん求められれば何か用意しておくのもやぶさかではないが、カルナは自分からそういうものを要求するとは思えない。先の手袋のようなしょうもない品でも、まるで神からの恵みを賜ったとでも言うように大袈裟に喜びながら受け取ってくれる人だ。そんな人が自ら自分に対して贈り物をしてくれと望むというのはちょっと考えづらかった。
けれど、じゃあ彼は一体ジナコに何をしろというのか。浮かんだ疑問は、結局何一つ進展しないそのままの形でスタート地点へと戻ってきた。
それに加えて、カルナがさっきからそんな緊張した面持ちで視線を彷徨わせているのが気になってしかたがない。そわそわと落ち着かない様子で、必死に何かを言おうとしているのは察したので、ジナコは眉をひそめつつも彼の次の言葉を根気強く待ち続けた。
そうやってしばらく沈黙していたカルナは、やがて意を決したように顔を上げた。おもむろにジナコの手を取り、どこか熱のこもった視線を向けてきたのである。もともと高めの体温を宿している手だが、今日は殊更熱い気がしてならない。しかも妙に汗ばんでいるような気が。緊張しているのだろうか。でも、それは何に対して?
ジナコはハッと息を呑んだ。こういうシチュエーションを見たことがある。けれど今想像しているそれは、自分とカルナの間に発生するイベントとして、あまりにも遠くかけ離れているもののはずで。
そうだ、落ち着け、違う。違うはずだ。
変な期待をしてはいけない。そんな幸福な未来を享受する資格など、自分にはないのだから。
カルナの薄い唇が動いて言葉を紡いでいくのが、どこか別の世界の、例えば画面の向こうで起こっている出来事のように感じられてしまう。そうしてスローモーションのように緩慢に、しかし確実に動いていくその世界の中で、彼の言葉はジナコへと届けられた。
「ジナコよ。どうか、オレとともに来てはくれないか?」
「
……
え?」
彼の口から、そっと差し出すように優しく告げられた言葉は、ジナコが戒めて封じ込めようとした期待と寸分違わぬものだったのだ。
「この家は、お前が家族と過ごしたかけがえのない場所だ。離れがたいのはもちろんオレも理解している。けれどできる限りのものは持っていけるよう配慮するつもりだ。あのピアノはもちろん、お前が望むものならば、何でも。家ごとというのはさすがに無理だが
……
何かしら、尽力はしようと思う」
「
…………
」
「オレはキミさえ来てくれれば、オレのそばにいてくれれば、それでいい。そのためならば何でもしよう。だからジナコ、どうか頷いてはくれまいか」
ぎゅう、と繋がれた手に力が込められた。
期待と不安がないまぜになった瞳が、すぐ目の前で頼りなく揺れている。いつもだったら真っすぐに、痛いくらいの強さで射抜いてくるはずなのに。
けれどその瞬間ジナコの胸の中に噴き上がったのは、歓喜の感情などではなかった。それが湧き上がるよりも先に、薄情なくらいあっけなく、体の芯がすうっと冷えていくのだ。
ジナコは握られている手を強引に振り払って数歩後ずさり、カルナから少し距離を取った。追いかけようとこちらへ足を動かしたのは、無言のまま目で制する。
「
……
ボクのピアノが聞きたいってだけなら、別にボク本人を連れてかなくてもよくないッスか?」
「ジナコ?」
「カルナは
……
アタシのピアノが好きって、そう言ってくれたね。それのために生きられたって、アタシにはもったいないくらいの言葉をくれた。それは嬉しい。嬉しいよ。これは本当。でもカルナが必要なのは、きっとアタシが弾いたピアノの音で、ジナコ=カリギリ本人なんかじゃないでしょ?」
そこを勘違いしてはいけないと、うっそりとした笑みを浮かべながら釘を刺す。カルナはもちろん、馬鹿げた期待に一瞬でも胸を弾ませてしまった愚かな自分に。
ずっと前から知っていたはずのことなのに。痛いくらい理解していたはずなのに。いつか来る別れのときのためにと、いつからかずっと己に言い聞かせ続けてきたのに。こうして改めて口に出すのは、どうしようもなく苦しかった。
今更そんな当たり前のことを確認して何になる。自分が惨めになるだけだからやめておけ。
己の中の冷静な部分がそう嘲笑する。それでもジナコの口は止まらなかった。ブレーキが壊れた機関車のように、言うつもりもなかった言葉までもが勢いのまま次々と飛び出していく。
「あ、アタシがピアノを弾き続けていれば、カルナは大好きなアタシの音が聞き続けられるんだから、それでいいじゃない。アタシは、カルナがいなくたって、一人でだって、ピアノを弾けるよ。だから、そんな面倒くさいこと、しなくたっていいの!」
鼻の奥がつんと痛みを訴える。最後の方は半ば投げつけるように乱暴に言い放ってしまった。そうしないと、声が震えているのが露骨にばれてしまいそうだったから。
ゆらゆらと歪んだ視界に彼を映さないようにと、必死に顔を俯かせ、爪の先が手の平に食い込むほど強く拳を握りしめる。ぴりっとした痛みが走るが関係ない。胸の内を蝕んでいるじくじくとしたひどい痛みのほうがよっぽどひどくて、気を抜いたらみっともなく泣き叫んでしまいそうだった。
ジナコの音が必要だというのなら、何かに録音したものでも渡しておけばいい。ああ、これなら餞別の品としても丁度いいかもしれない。もしそれ以上に欲しいと言うのなら、新しく弾いたものを後日改めて送りなおしてやってもいいんじゃないか。ネットが発達したこのご時世、連絡先さえ知っていればそれくらい造作もないことだろう。
そう、だから「ジナコ本体」が彼にくっついていくような必要は、どこにもないのだ。
「ジナコ、待て、オレは」
「それにほら、だから誰かと一緒に行きたいっていうのなら、ちゃんとカルナにふさわしい人を選んで連れて行くべきッス。ボクみたいな売れ残りヒキニートなんて側に置いてたら、きっと恥ずかしいッスよ。今は平気かもしれないけど、いつか絶対に後悔する。だからそこまで施してくれなくていい。今までだけでも十分よくしてもらった、これ以上はもう要らないッス。それにほら、ボクにはボクの変えられない生活ってものがあってですね」
「ジナコ、頼む、待ってくれ。それはどういうことなんだ?」
「
……
どういうこともこういうこともないじゃないッスか。ジナコさんはカルナさんと一緒には行かない。
……
行けないよ。ボクとアンタは友達でも家族でも
……
恋人でも、何でもない。ちょっと付き合いが長くなっただけの、ただの他人なんだから!」
諦め悪く伸ばされた手は、しかし首を横に振って、自分にそれは必要ないんだと押しのけた。後退って、彼の手が届かない場所まで逃げた。
何のためらいもなくこれを取れたら、どんなに良かっただろう。どんなに幸せだっただろう。
けれどそれはジナコだけの幸せだ。きっとジナコ一人しか幸せになれない選択だ。カルナ自身の一番の幸せにはならない。ジナコの力では、この先カルナを幸福にしてやることはできない。
だからこれが一番カルナのためなのだ。これから輝かしい将来に向かっていく大切なときに。ジナコみたいな役立たずの存在が側にいて、邪魔をするようなことがあってはいけないのだ。
けれどいくらカルナのためにと枕詞をつけて、あれこれと理由を並べ立てていったところで、結局は全部建前でしかないのだろう。本音をぶちまけてしまえば、ジナコがこれ以上傷付かないための言い訳しかない。
惨めな思いはしたくない。ただの同情で側に置いておかれるなんて嫌だった。カルナが誰よりも大切だからこそ、自分がお荷物になっていく結末しか見えない道など、たとえどんなに甘美に見えても選べるはずがなかったのだ。
だからここでカルナときっぱりさよならして、互いにそれまでの元の生活に戻ろう。あるべき場所に戻ろう。いつかくると思っていた時が今になっただけだ。
それでも彼は決して薄情な人間ではないから、流石に「そうか」と簡単に受け入れてに頷いて、さっさと去って行くとは思っていなかった。
けれど彼から返ってきた反応は、あまりにもジナコの予想の範疇から外れるもので。
「
……
ジナコの中で
……
オレと、キミは
……
ただの他人でしか、なかったのか?」
ぼそぼそと紡がれた声があまりにも苦々しいものだったから、ジナコは思わず背けた顔を元に戻してしまった。そしてそこにあった彼の表情に目を丸くしてしまう。
白い肌からはいつも以上に血の気が失せ、その顔に浮かぶ表情は凍り付いていた。はじめは驚愕のまま固まっていたそれは、じわじわと悲しみの色を滲ませ始める。朝焼けに似た色をした瞳は、動揺に揺れていた。
赤の他人だったらわからないだろうが、それなりに長い時を共に過ごし、カルナという人となりを見つめてきた自分にはわかる。目の前にいる彼が今どう思い、何を訴えかけてきているのか。ジナコが放った言葉に、どれだけの悲しみを抱いているのかが。
けれどどうして今そんな反応をしているのかだけは、悔しいくらいにさっぱりわからなかった。それに発言の意味もまるで理解できない。だって改めて問うまでもなく、それがまぎれもない事実であろうに。
ジナコとカルナの二人の関係性に、特別な名前は付けられない。それなのに今までそばにいたのがイレギュラー極まりなかっただけだ。
しかし単純な事実を述べられただけだというのに、カルナはまるで鋭い刃で切り付けられ、その痛みに歯を食いしばりながら耐えるような顔をしていた。そして震える薄い唇から、のろのろと声が絞り出される。
「オレの思いはキミのそれと同じだと。確かに通じ合えているのだと
……
そう思ったのは、オレの思い違いだったと、そう言うのか、お前は」
「
……
何、を、言ってるの?」
「愛している」
「え?」
――
愛している。
突然告げられたその一言が脳内で処理できなくて、ジナコは一瞬、呼吸を忘れた。
呼吸だけではなく、生命活動のすべてが停止したかもしれない。それくらいの衝撃が、そのたった一言によってジナコへともたらされたのだ。
呆然としているジナコに、カルナは必死に己の中から告げるべき言葉を探している様子だった。己の心を一つでも取りこぼしたくないと、そのまま自分に伝えたいと苦心しているらしいことが伝わってくる。
しかしそうやってぽろぽろと優しい雨のように降り注いでくるそれらは、ジナコにとってはあまりにも甘すぎるものだった。
「確かにキミのピアノの音に惹かれて、キミとの接触を望んだこと自体は何も否定しない。あの日の音に会いたいと、ずっとそう願っていたから。だがジナコと過ごして行く中で、オレは確かにキミ自身にも強く惹かれた。側にいたいと、いてほしいのだと、そう望んだんだ。キミのすべてを守りたいと
……
そしてキミもそれを受け入れてくれたと、オレたちは互いに同じ気持ちでいるのだと、ずっとそう思っていたんだが」
「ちょ、待ってよ
……
何それ
……
何の話? こんなときに、冗談やめてよ
……
!」
はは、と震える唇から乾いた笑いが零れる。
人間は己が想像を絶するような状況へ突然陥れられたとき、心の平静を保とうとして歪に笑うのだ。ジナコはそれを知っている。かつて絶望に叩き落されたときも、ジナコは不安定に笑っていたから。ガラスのように割れて粉々になりそうな心を、嘘で包み込んで守るために。今も面白くもなんともないのに、唇の端が勝手にひくついた。
だってカルナが自分のことを好きでいてくれたなんて、そんなことはあり得ない。だって自分はそんな風に愛される人間ではない。何も持っていない。彼が心を寄せてくれる価値がない。彼ほどの人間が好意を寄せる理由など、何一つ見つからない。
唯一、この手から生み出せるピアノの音だけが、彼という存在をこの場所を繋ぎ止めてくれていると思っていたのに。
「
……
そうか。そういう、ことか」
否定の言葉を吐いたきり絶句したままのジナコの項に降ってきた乾いた声は、いっそ別人のものかと思うくらい弱々しいものだった。吐息混じりに掠れて吐き出されたそれは、 今にも泣き出しそうなくらい情けなく震えていたから。
「オレの、気持ちは
……
キミに、一つも、伝わっていなかったのだな。
……
一つも届いて、いなかったんだな
……
」
喉を詰まらせ、途切れ途切れに紡がれては落ちていく彼の声は、酷い痛みに呻いているようにも聞こえた。
ジナコがはっと顔を上げると、見たこともないようなカルナの姿が、そこにはあった。
くしゃりと顔を歪め、唇を噛みしめ、握りしめた拳を震わせて。いつもだってまともに血が通っているのか心配になるくらいの顔色をしているのに、今はそこからさらに血の気が引いてしまっていた。顔面蒼白とはまさにこういう状態になっていることを言うのだろう。
そんな彼の姿に、ジナコは雷に打たれたようなショックを受けた。
冗談なんかじゃない。彼は間違いなく本気だった。本気で、ジナコのことを愛していると言ったのだ。
――
それは今だけじゃなくて、もしかしたらこれまでも、ずっと?
けれどその思いをジナコは拒絶した。今まで渡されて以下かもしれないそれらも、一切受け取ってこなかった。
カルナは他でもないジナコ本人によってその事実を突きつけられ、ひっそりと、だが確実に叩きつけられた悲しみに打ちひしがれているのだ。
「か、カルナさ
……
」
「帰る」
これ以上は何も聞きたくないと言わんばかりに、彼はさっさと踵を返した。体の横で握りしめた拳が小刻みに震えている。見慣れているはずの向けられた背中は、別人のものかと錯覚するくらい弱々しく見えた。
そんな彼の姿を見てようやく、ジナコはそのことに気付かされたのだ。自分は恐ろしく酷い仕打ちを彼にしたのではないか、と。
「ま、待ってカルナ! アタシ
……
!」
「すまない、ジナコ。今は何も言えない。
……
悪く思え」
有無を言わさぬ強い声音だった。向けられた背中からは強い拒絶を感じる。
ジナコはその声に貫かれ、すっかりその場に縫い止められてしまった。中途半端に伸ばした手は当然彼に届くことはなく、空っぽのまま哀れに宙を泳ぐことしか出来ない。
カルナからこれほど強い『拒否』を示されたことは一度もなかった。彼は何時だって、時折困った顔こそしたものの、大抵のことは受け入れてくれたから。
ジナコはそれに甘えきっていたのだと、この期に及んで知ったのだ。
そうしてカルナはそのまま一度も振り返ることなく、先程入ってきたばかりの玄関から出て行ってしまう。ばたん、と玄関の扉が閉まる音が、自分以外に誰もいなくなったリビングの中で妙に大きく響き渡る。
結局ジナコはそこに立ち尽くしたまま、深い悲しみによってすっかり縮こまっていた彼の背中があった場所を、ただ呆然と眺めていることしか出来なかった。
♪ ♪ ♪
カルナが帰ってしまってからずっと、ジナコは考えていた。
考えて考えて、頭が痛くなるほど深く考え込んでいた。
カルナと過ごしてきた今までのこと、彼が送ってくれた言葉を、思いを。記憶の中から必死に拾い集めて、並べ直して、改めて全て見返そうとしていた。
そうして現在。
ジナコは何故か突然現れた新たなるイケメンとともに、自宅のダイニングでうどんを啜っていた。
何を言っているのかわからないだろう。ああ、ジナコ自身も己が何を言っているのかわからない。誰ぞ、これが夢だというのならば疾く己を目覚めさせたまへ。
しかし悲しいかな、ジナコは間違いなく現実の中にいる。目の前にあるテーブルの上にはほこほことやわらかく湯気を上げる丼が鎮座しており、その中では良い具合に火が通っている卵がつゆを纏って艶めく麺に抱かれて、箸をつけられるのを今か今かと待っている。
「食べないのですか。麺が伸びてしまいますよ」
そうしてジナコの正面に座っている男が、静かに夜明けを待つ空のような色をした瞳で射貫きながら問いかけてくる。
「ひゃ、ひゃい! た、食べますよ食べますともいただきます! ありがとう父と母と大地の恵みに心からの感謝をッ!」
「そこまで大仰にしていただかなくともいいのですが
……
」
ジナコは半ば叫ぶように返事をすると、慌てて箸を手に取り手を合わせた。
さて、どうしてこんなことになっているのか。
ジナコはコシのいい麺を啜り、香ばしい麺つゆが喉を通り過ぎて身体全体をじんわりと暖めていくのを感じながら、少し前まで記憶を巻き戻してみることにした。
手を止めると目の前の男が怖いから、とりあえず食べながら。
さて、カルナが去って行ったあの後のことである。
数十分の沈黙の時を経てようやく硬直から解き放たれたジナコは、そのままカルナの後を追いかけようとした。
けれどカルナの自宅が何処にあるかなどジナコは知らないし、ここからどうやって家まで帰っているのかも知らない。メールアドレスも電話番号も、彼に繋がるものを何一つ知らない。追いかけようにもそのための手段を何一つ持ってないのだ。その事実に、ジナコは再び強く打ちのめされていた。
ジナコは今まで、カルナのことを何も知らなかった。知ろうとすることすらしてこなかった。
深く踏み込むのが怖くて、それ以上に自分の中へ深く踏み込ませるのが恐ろしかったのだ。深々と刺さったそれを抜き去られるときに感じるであろう痛みの予感が、ジナコの足を竦ませていたから。そんなもの、もうとっくの昔に手遅れになっていたというのに。
誰かに愛されること。守ってもらうこと。
そうしていっぱいの愛情でもって、優しく抱きしめてもらうこと。
それは多分、ジナコが本当にずっと欲していたものだった。
誰かに本気でそうして欲しくてたまらなくて、でもとっくの昔になくしてしまったから、もう永遠に手に入らないと思い込んでいたもの。
けれどカルナはジナコへ与えるそれをずっと持っていて、不器用ながらも一つ一つ、一生懸命ジナコへ与えてくれようとしていた。それをジナコは勝手な勘違いで無いものだと決め付けて、見ないふりをして、勝手に一人で諦めていたのだ。差し出されていたはずのそれから目を背けて、彼の気持ちを蔑ろにし続けてきた。
欲しいなら欲しいと、最初から素直に言えばよかったのだ。
口に出して言わなきゃ伝わらないなんていうのは、きっと今の自分が一番言われるべき言葉だろう。もはやカルナのことをどうこう言えた立場ではなかった。否、きっとカルナよりも自分の方がよっぽど酷い。
言われなかったからなんていうのは言い訳にしかならないだろう。そもそもカルナの考えていることなどわかりきっていると、傲慢な気持ちで胡座をかいていたジナコが悪いのだ。
そんなジナコの見栄っ張りな言葉すらもカルナは信じてくれて、だからああやって口にすることをしてこなかったのだろう。もしかしたら彼なりに甘えてくれていたのかもしれない。
自分の愚かさに吐き気がした。いっそ彼の手で息の根を止めてほしいとすら思った。自分がやってきた何もかもが嫌で、その手で全部消し去ってほしかった。
けれどそんなことができるはずもない。彼は最悪な形でジナコのもとから去っていってしまった。もうやり直すことはできない。何もかも手遅れだった。
拒絶を示された背中が遠ざかっていく。手を伸ばそうとしてもそれは何もない虚空を書くばかり。ジナコは静かな暗闇の中に一人で取り残される。かつては唯一無二の安寧の場所だと思っていたここは、恐ろしく寒い。そして寂しい。のしかかってくる孤独に潰されて、自分の体がべしゃりと形を失っていく。
そうして何度目になるかわからない絶叫をクッションに顔を押し付けてかみ殺したあと、ジナコはようやくずるずるとベッドの中から這い出した。
酔っ払いの方がまだましじゃないかというくらい覚束ない、これで外を出歩いていたら間違いなくもしもしポリスメン案件一直線であろう足取りで、家の中を歩いていく。
向かう先は父の仕事部屋。カルナが調えてくれた、ピアノのもとへ。
特に何か明確な意図があっての行動ではなかった。ただ何となくピアノに触れたくなっただけだ。そんなことをしている場合じゃないと罵る自分と、じゃあどうすればいいんだと子供のように喚く自分が、脳内でキイキイ高い声を上げながら争っている。その甲高い声のせいか、頭の奥が締め付けられるように痛い。
のたのたと蛞蝓のような歩みで一階に降りたジナコは、いつの間にか夜が明け、随分と比が高くなっていることに気が付いた。ベッドの中で悶々と呻いていたのは存外長い時間だったらしい。ポケットに突っ込んできたスマートフォンの画面上には、確かに記憶しているものよりも一つ進んだ数字の日付が表示されていた。
そのまま父の仕事部屋へ向かおうとしたジナコは、しかしふと足を止めた。
家の外、リビングの窓から見える場所に、誰かが立っていることに気がついたからだ。定期的に手が入れられなくなったせいですっかり荒れ放題になっている庭を囲う柵のすぐ外で、誰かがため息をつきながら手元の端末とこの家を交互に見ているのである。
そこに立っていたのは、全く見覚えのない青年だった。
年の頃はおそらくカルナと同じか、或いは少し下くらいだろう。何にせよジナコよりは年下だ。そしてカルナと同じく、見ていてほれぼれしてしまうほどの美丈夫だった。この距離でそうだと確信できるほどだから相当である。モデルとかアイドルとか、そういう仕事でもやっているのかもしれない。
しかしカルナにしろ、アシュヴァッターマンにしろ、今そこに立っている見知らぬ青年にしろ、最近ジナコの周りに現れる男の顔面偏差値がバグっている気がする。おかげさまで最近は、数少ないオタ友に勧められたイケメン攻略乙女ゲームになかなかのめりこめなくなってしまっていた。いや、実際にはカルナという特定の一人の男に思いを寄せ始めたが故に、それ以外に心を砕くことができなくなってしまっていたのだろうけれど。
そんな青年はどうみてもジナコの家に用があるらしいように見えたが、一向に玄関の方へは向かおうとはしない。入ろうかどうしようか迷っているらしい。足を玄関のほうへ動かそうとしては止まり、少し考え込んでまた元の位置に戻るという、ちょっぴり不審な動きでその場をうろついていた。手元の端末を確認し、玄関にかけられている表札を眺め、そうしてため息を吐いてからまた端末に目を落としている。
しかしそんな青年の姿に対して、不思議と警戒心の類いは湧き上がってこなかった。彼の姿から、何となく見知った雰囲気を感じ取ったからかもしれない。
ジナコは玄関に並べてあったサンダルを突っかけて、庭のほうへと歩き出した。扉を開けた瞬間、冬の冷たい風が容赦なく肌を突き刺してくる。びりびりと痛みすら感じる寒さに顔をしかめて歩きながら、相変わらず困った顔でため息をついている彼をじっと観察してみることにした。
カルナとはずいぶん対照的な色彩を持った青年だ。髪の色はカルナの透けるような白銀とは正反対の漆黒で、褐色の瑞々しい肌は青白く不健康そのものと言えるカルナのそれとは比べるべくもない。ぶれることなくぴんと真っ直ぐに伸びた背筋と、凜とした清廉な雰囲気を宿す横顔が印象的だった。
しかしやっぱり、どことなくカルナに似ていると感じた。その眼差しの奥に秘められたものや、ちょっとした所作なんかが。
そのときふとジナコの脳裏に蘇ってきたのは、いつか電話越しに聞いたあの怒鳴り声だった。カルナを案じ、どこにいるのかと問いただしていたあの声。
そう、彼の名前は、確か
――
。
「ええと
……
アルジュナ、さん?」
「!」
肩を微かに震わせ、青年はジナコのほうに視線を寄越した。
どうして、とその深い夜の色をした瞳が問うてくる。本当に僅かな可能性だったのだが、どうやらばっちり当たってしまったらしかった。
「え、ええ、そのとおりですが。
……
貴女が、ジナコ=カリギリ、だったのですか?」
そうしておもむろに投げて寄越された声は、確かにあの時電話で聞いたのと同じものだった。
彼はまるでお手本のような整った動きで歩いてくると、何とも言えない微妙な顔でじっとジナコの顔を見下ろしてきた。先程の声に乗せられていた驚きの感情もそうだが、今の彼が言いたいことは何となくわかる。カルナがほぼ毎日足繁く通っていた家に住まう女と言われて、自分のような喪女を想像する人間はまずいないだろう。
ジナコは自虐に唇を歪め、ケッと吐き捨てるように答えた。
「はいはい、そうッスよ。ボクが噂のジナコさんです。すみませんね~お兄さんに相応しくないダルダルヒキニートの可哀想な行き遅れで」
「いえ、そのようなことは一言も言っていないのですが
……
過剰な自虐はやめなさい」
「だって事実だも~ん。ボクみたいなどうしようもない鈍感引きこもり女は、カルナさんには、一ミリも、相応しくないもん
……
」
「え、ちょっと、一体どうしたんです? 具合でも悪いのですか?」
「うう、何でもないッス
……
」
じわ、と新たな涙が目の奥から噴き上がってきた。涙腺が馬鹿になるほど泣いたのに。体の水分を全部出しきってしまったんじゃないかとすら思ったのに。こんなふうにめそめそ泣く資格なんかどこにもないのに。
ジナコは消え入るような声で吐き捨てた直後、ずるずるとその場に蹲ってしまった。
腕に、足に、全身に力が入らない。世界がぐるぐると回っている。苦しい。気持ち悪い。
「カルナさんは
……
こんな奴を、アタシみたいなどーしようもない駄目人間を、それでも好きだって、言ってくれたのに
……
ずっと、愛してくれてたはずなのに。アタシは、勝手に全部、そんなのないんだって決めつけて
……
! あの人の気持ちを、全部、差し出された傍から捨ててたんだ
……
っ!」
「
……
」
ベッドの中で、どこまでも停滞した暗闇の中で、一人ひたすら反芻し続けていた言葉。
刃に変えて自らに突き刺し続けていたそれを再び己の胸に突き立てていくのを、アルジュナはただただ黙って聞いていた。こんなことを今日初めて会った人に聞かせてどうすると思うのに、堰を切ってあふれ出すそれが止まらない。
「あ、アタシは
……
アタシが、カルナを傷付けたから
……
っ!」
嗚咽とともに、引き攣った声が唇から零れ落ちていく。
それが何かのスイッチになったのか、ジナコの中で何かがガラガラと音を立てて決壊した。目から落ちた涙が、乾いた地面の上にぼたぼたと落ちていく。
ジナコが今一番堪えがたいのは、そんなことを軽々しくやってしまっていた己の、救いようのない愚かさだった。
自分がカルナの言葉を拒絶したときに見せた、彼のあの顔が忘れられない。瞼の裏に貼り付いて離れないのだ。目を閉じれば、ひどい痛みに耐えるようなあの顔が何度も何度も浮かんでくる。
あんな顔をしているのなんて今まで一度も見たことはなかった。
カルナは自分が痛みや苦しみを感じても、それを押し隠す傾向にあることは知っている。そんなカルナがあんなにもハッキリと「痛い」と顔に表すほどに、ジナコの言動は彼を深く深く傷付けていたのだ。その事実が、何よりもジナコの心をズタズタに引き裂いていた。
けれど最初に心をひどく切り付けたのはジナコのほうだ。悲しんだり、この痛みに涙を流したりする資格なんかはない。あまりにも烏滸がましい。傷付けた側である自分が、どうしてのうのうと傷付いてなどいられようか。
「
……
傷付けたら、それで、おしまいなのですか?」
子供みたいに泣きじゃくり、ひっくひっくとしゃくりあげて肩を震わせるジナコに、不意にそんな言葉が降ってきた。憐れむでもなく、慰めるでもなく、ただ淡々と問うてくる声だった。
ジナコはしゃくりあげながら、のろのろと頷いた。
だって、彼はもうジナコの元を去って行ってしまった。今更どれほど悔いたとしてももう遅すぎる。何もかも終わってしまったのだ。何もできない。彼だってもう二度と自分と関わりたいなんて思わないだろう。ここまで手ひどく傷付けて、それでも一緒にいたいと願ってもらえるほどの存在に自分はなれてはいない。この先もそうなることはあり得ないと思う。
だからジナコはこの先も一生、この悔いを残したまま生き続けるしかないのだ。きっとそれが、愚かな己に課せられた唯一の罰だった。
「そうですか。
……
では、今日私がここへ来たのは何故だと思いますか?」
アルジュナはまたジナコに問うてきた。
さっきから話の流れがよくわからない。それにアルジュナがどうしてここにいるのかなんて、今日初めて会ったジナコにわかるはずないではないか。
それでも答えろと促され、ジナコは渋々小さく首を横に振る。アルジュナはやはりかと小さく呟き、そしてため息まじりに答えた。
「そうしてほしいと、他でもないカルナ自身が望んだからです」
「ッ!」
「ああ、待ってください。一応、勘違いのないように言っておきますが」
ひゅ、と喉の奥から引き攣った音を立てて息を呑んだジナコに、アルジュナは相変わらず淡々と告げてくる。けれどその声には、先ほどよりわずかに苛立ちが滲んでいるような気がした。
「本当ならばカルナ自身がここへ来たいと、そう言っていました。しかしあの馬鹿は、あろうことか昨夜一晩中外をさまよい歩いた挙句、自宅の鍵を何処かへ落としてきたために中へ入れず、玄関先で蹲っていたのです。それで案の定熱を出し、今日は一日絶対安静を言い渡されています」
「えっ!?」
「命に別状はないので、そこはご心配なく。数日大人しく寝ていれば回復するレベルのものです。しかしそう診断されたにも関わらず、今すぐ行かねばならないと繰り返して無理矢理脱走しようとするものだから、仕方なく私が代わりに来ることになったのです。説き伏せるのに苦労しましたよ。頑固者ですから、アレも」
「
……
カルナ、が」
どうして、と思った。どうしてそこまでして、自分を傷つけた愚か者に会いたいなどと言うのか、と。
もしかしたらジナコを責めたいのかもしれない。どんなひどい罵り言葉も、恨み言も、今の彼には吐く資格があるから。
けれど彼は、そんな己の感情に任せて恨み言をつらつらと吐くような人だろうか。答えは否だった。断言できる。そんな人でないことはジナコ自身が一番よく知っている。どんなに自分が理不尽な目にあわされても、カルナはそれを理由に他者へ拳を振り上げるようなことは絶対にしない。
もどかしいと感じてしまうくらい、全てをありのままに受け止める。見ていて痛々しいと感じるくらい、全てを受け入れてしまう。それがカルナという人だった。
「人間の心というのは、そう単純ではありませんから」
どうしようもない愚かさで傷付けて、後悔して。それでも、もう何もかも駄目になってしまったと思っていても、決して変えられないものはあるのだ。手放せないものがある。譲れないものがある。手を伸ばしてくれる人は、確かにいる。
アルジュナは、何だか妙に実感のこもった声でそう言った。
「人間とは、そういうものだと思いますよ」
「
……
綺麗事ッスよ、そんなの
……
」
「いいえ、これは決して綺麗なものでありません。正しさや大義名分で制御することができない、人間の愚かな部分です。けれどそれこそが人間を人間たらしめるものだと思いますよ。あくまで私の持論ですが」
「
…………
」
ジナコは知らず知らずのうちに、こくりと頷いていた。
アルジュナの言っていることは難しくてよくわからなかったが、何となく納得できるような気がしないでもない。
と、そのとき。
――
ぐううううう。
重たい沈黙の空気を裂くように、低音が鳴り響いた。
音の出所は探すまでもない。己の中から鳴り響いた音がわからないなんてことはあり得ないのだから。
つまり今鳴ったのは、空腹を訴えるジナコの腹の叫びだった。
「
……
な、んでよもおおおお~! どうしてこんなときにお腹なんか空くんスかぁ~!?」
己の愚かしいほどの脳天気さがますます嫌になった。今はそんなことしている場合じゃないはずなのに。しかし腹の虫はそれでも空虚を訴え、早く食べ物を補給せよと赤く点滅している空腹ゲージをばしばし叩きながら訴えている。
ぐす、と洟を啜り、自分で腹を抱きしめるようにして抑えるジナコ。そんな自分を見下ろしていたアルジュナは、くすりと小さく笑みを零して言ったのだ。
「よろしければ、私が今から何かお作りしましょう。どうせ何も食べていないのでしょう?」
「え?」
「カルナが以前、貴女のことを話しているときに言っていました。『オレが居ないとまともな飯を食わない自堕落な女だから』と」
「
……
何スか、それ」
ジナコの知っている、あまりにもいつもどおりすぎるカルナの様子を聞かされて、一気に全身から力が抜けたような気がした。自分で自覚していないところで随分と体が強張っていたらしい。
こうしてあれよあれよという間にアルジュナはジナコの家の中へと入り、気がつけば目の前には美味しそうなうどんが入った丼が置かれていたというわけだった。
「ご、ごちそうさまでした
……
」
「はい、どうも」
ひととおり回想をしている間に、全てのうどんがジナコの腹の中に収まりきってしまっていた。箸を置いて手を合わせると、アルジュナは丼を引き上げててきぱきと片付けを始める。
しかしスープの一滴すら残すまいという勢いで飲みきってしまったのは、自分でもちょっと予想外だった。こんな気持ちじゃ、たとえ空腹を訴えられていたとしても何も入らないんじゃないかと危惧していたのが馬鹿みたいである。
でも、だってアルジュナが作ってくれたうどんが、本当に美味しかったから。
すっかり冷え切っていたはずの身体が、今は芯からぽかぽかしているのを感じる。疲弊しきっていた身体を労り包み込んでくれるような優しい味だった。何となく、カルナが冬の初めに作ってくれたものと似た味がしたような気がする。
「アルジュナさんって、おうちでも料理する人なんスか?」
「仕事の忙しくないときは、それなりに。誰かに食べてもらうことに差し障りない程度にはできているつもりです。お口に合いましたか」
「もちろん! あ、仕事ってことは、もしかしてアルジュナさんって社会人? ボク、てっきり大学生くらいなのかと思ってたッス。それともバイトとか?」
「ちゃんと正社員として働いていますよ。私が勤める会社に所属する、ピアニストやヴァイオリニストといった演奏家のマネジメント業務を行っています。その業務の傍ら、フリーの演奏家を発掘してわが社に引き入れるスカウト業もしていますね」
「へえ~!」
ジナコは思わず感心した声を上げていた。
この若さでそれだけ責任の重い仕事をしているのだから、かなり優秀なのだろうということはわかる。マネジメント業務はもちろんだが、スカウト業務は経験と知識、それから直感が必要とされる上、会社のこれからを左右しかねない重要な業務だ。絶対に芽の出ない種を選んでしまったら、それは会社として大きな損失になるだろうから。
しかしこれほど顔が良くて、料理も出来て、その上会社にとって重要な仕事もバリバリこなしているとは、なんという優良物件なのだろう。そしてそんな優良物件が、カルナに乞われた結果とはいえ自分の世話を焼きに来てくれた。そう思うと、今更ながらちょっぴり申し訳ない気持ちになってしまった。
「さて、先程の話の続きですが」
丼や鍋をまとめて食洗機に入れながら、唐突にアルジュナがぽつりと零し始めた。ごうんごうんと、稼働音がキッチンの中で低く唸り始める
「カルナは貴女のことを憎んだり、嫌悪したりはしていないと思いますよ。そういう男ではありませんから。そうでなくては、何故昨日の今日で、しかも高熱を出して無様に倒れているのに、貴女のところへ行こうなどと言えるでしょう?」
彼女を一人にしないでやってほしい。
そうアルジュナに言葉を投げかけたカルナは、至っていつもどおりのカルナだったという。多分それは、ジナコが知っている普段のそれと同じだろうと。
確かにジナコの放った言葉によって深く悲しみ、傷付いたことには違いないのだろう。けれど、抱いていた心を完全に壊されてしまったわけではないと。アルジュナの目にはそう見えたのだそうだ。
「それでもまだ、貴女はもう何もかもおしまいだと、そう言うのですか?」
「
……
言えない、ッスね」
強い調子で問われ、ジナコはのろのろと頷いた。
とはいえ彼に無理矢理言わされたというわけではない。ここまで言われて、それでも違うと言い張るのはもう無理である。そう悟ったジナコは大人しく白旗を揚げることにしたのだ。
カルナは多分、まだジナコを嫌いになってはいない。
好きなままであるかどうかはわからないが、もう二度と顔も見たくないというような嫌悪の感情は抱いていない、と思う。
そうぼそぼそと独り言のように口にすれば、アルジュナはやれやれと肩をすくめながら、いつの間に用意していたのかコーヒーの入ったマグカップをそっと差し出してくれた。
「納得してくださったのなら結構です。これでまだ否定されるようであれば、次の手段を検討しなければならないところでしたから」
「エ、次ってナンデスカ?」
「そこには至らなかったのですから知る必要はないでしょう。それより、それを正しく理解できていると言うのなら、何故そのように悩む必要があるのですか?」
「
……
カルナさんがどう思ってるかはこの際関係ないの。ボクが、ボクを許せない。許したくない。それだけッス。」
けれど、とジナコはそこで一旦口をつぐんだ。
それで本当に正しいのだろうか。ふとそんな疑問が頭をもたげたからだ。
温かいものでお腹が満たされて血の巡りが良くなってきたおかげなのか、アルジュナが第三者として冷静に言葉を投げかけてくれるうちにいくらか心の中を整理することができたおかげなのか、頭がいつもどおりの調子で回るようになってきている。暗くどろどろした沼の中をひたすら徘徊し、足を取られて重たい泥の中に徐々に足を取られて沈んでいくような停滞の世界から、何とか自らの意志で出てこられそうな気がする。
そうして新たに浮かんできた己への問いかけは、確かにそれまでのものとは少し違うものだった。
自分はまたカルナのことをみっともなく言い訳に使って、自分のことを守ろうとしているだけなのではないか。
立ち止まって、自分が傷付く可能性がある未来に進むのを、勝手に躊躇っているだけなのではないか。
もし本当にそうなのだとすれば、ジナコはこの期に及んでまだ心のどこかでカルナに甘えていることになる。あれだけひどく傷付けてなおジナコのことを想ってくれているというカルナに。このまま耳を塞いで蹲っていれば、固く閉ざした扉の側で、またジナコがそれを開けるのを待っていてくれると。
己の心の奥に秘めている本当の言葉を口にするのは、ジナコにとってはおそろしく勇気が要ることだ。しかも想像を絶するような痛みがその先に待っているかもしれない。何度もばらばらになっては歪に組み立て直し、ようやくまともに稼働している心を、今度こそ再起不能になるくらいずたずたに切り裂かれてしまうかもしれない。
それでも、自分から扉を開けて外へ飛び出し、彼の元へ行きたいと思った。
あのとき差し伸べてくれた手を、カルナがまだ完全に引っ込めてしまっていないというのなら、ジナコは今度こそそれを己の意志で握り返したかったのだ。
カルナが必死になって追いかけて繋いでくれた、けれどジナコが振り払ってしまった手を、じっと見つめながら口を開く。
「ねえ、アルジュナさん」
「何でしょう?」
「え~とデスネ。その、カルナさんのお家、どこにあるかって、教えていただくことって可能だったりする
……
ッスか、ね
……
?」
「
……
」
お前まさか知らないのか、とでも言いたげな目をして見つめてくるアルジュナ。夜の瞳に射貫かれて、ジナコはしおしおと椅子の上で縮こまってしまった。ただでさえ何とか絞り出していた声も、それに伴ってあっという間に小さく萎んでいく。
彼がそう言いたくなるのもわかる。ジナコだって彼の立場だったらきっとそう思うに違いない。むしろそれをそのまま口に出さないだけ、アルジュナはジナコより人間が出来ていると思う。
しかしジナコはもう退かないと決めたのだ。
カルナが側に居て欲しいと言ってくれた、それに恥じないように
――
というのも急には難しいだろうが。それでもせめて、自分の足でそこに立つという最低限のことはしたいと思う。
そのためにはまず、ジナコはカルナが差し出してくれた心に、きちんと返事をしなくてはならないのだ。
「わかりました。カルナの連絡先は後程お伝えいたしましょう。ただし、今日すぐに会いに行くというのはおやめなさい。あの馬鹿が興奮しすぎてさらに熱を上げないとも限らない」
「お、仰るとおりッス、ハイ」
焦る気持ちは当然あるが、体調を悪化させるのは当然ジナコの本意ではない。しかも間接的とはいえジナコのせいで起こっている体調不良である。故にまずはしっかり療養してもらい、そのあと落ち着いて話をすることにしよう。
「
……
さて、と」
こうしてカルナの話が一旦落ち着き、無言の時間が少し続いた後、アルジュナが改めて口を開いた。
「これでカルナへの義理は果たしました。これより先は私個人からのお話をさせていただきます。具体的に言うと、私と貴女の『仕事』の話ですね」
「はえ?」
藪から棒に、一体何を言い出すのか。
きょとんとするしかないジナコを他所に、アルジュナはいそいそと鞄から何かを取り出し始めた。そうしてジナコの前に差し出されたのは、何やら大きめのタブレット端末だ。彼が仕事で使用しているものなのだろうか。
アルジュナの形の整った指が、淀みなく画面の上を滑っていく。イケメンは指までイケメンなのかとぼんやり思いながら黙ってそれを追っていると、やがて目当てのものを表示出来たのか、彼は端末を回転させてジナコの方へと差し出した。そこに表示されているのは、世界的に有名な動画投稿サイト。
そしてそこで今まさに再生されている動画には、見覚えのありすぎる、というか人生において最も目にしてきた女が映り込んでいた。
「
……………………
は?」
女が指を動かしているのは、確実に見たことのあるピアノの鍵盤の上。隣に寄り添っている白いワンピースの少女も自分は知っている。そして流れてくる音にも確かに覚えがあった。
何故、どうしてこんなものが、こんなところに。
湧き上がる疑問と困惑の大波に言語能力を攫われてしまい、ジナコは意味をなさない間抜けな音を発することで精いっぱいだった。
そうして一音を零したきり口をあんぐりと開けて固まっているジナコに、アルジュナはにっこりと微笑みかけた。見た者に不快感や不信感を与えない、完璧に整えられた美しいスマイル。
「この動画の中で演奏をしているのは、貴女で間違いありませんね? 驚きましたよ。ずっと探していて手がかりがなかった相手と、まさかこんなところで出会えることになるとは」
「え、あ、あの、ボク」
「この動画は最近この動画サイトに投稿され、SNS上で話題になっていたものです。その反応を見る限り、貴女が許可をしたものではなさそうですが」
「と、当然でしょ! だって、だってアタシ、こんな、アタシは!」
「わかっています、落ち着きなさい。無断で動画をアップした投稿者に対して法的措置を取りたいというのなら後程相談に乗りましょう。まずは私の話をさせなさい」
「あ、アルジュナさんの話って
……
?」
「言ったでしょう。仕事の話ですよ、ジナコ=カリギリ」
仕事。
さきほどアルジュナは何の仕事をしていると言っていたか。そうだ、演奏家のマネジメント業務をしているとか言っていた。いや違う、今の彼がしているのは、多分そっちの話じゃない。
重要なのはそのあとに言っていた業務だ。確か、演奏家を発掘するスカウト業務
――
。
「動画越しではもったいないと思うくらい、貴女の演奏は素晴らしかったので。私、耳は確かなんですよ」
彼がジナコを最初に見たときの、不躾なほどの凝視の本当の意味が、ここにきてようやく理解できた気がした。
♪ ♪ ♪
ふ、と意識が浮上する。
それと同時に上下の平衡感覚が歪み、ぐらりと世界が回った。その不快感とこみ上げてきた吐き気に眉をひそめながら、呼吸を繰り返してどうにかそれを落ち着かせる。もはやこのやり方は慣れたものだった。吐き出した息が、嫌になるくらい熱く湿っている。
そうして落ち着いたのを見計らって、のろのろと重たい瞼を持ち上げた。薄暗い見慣れた天井は、間違いなく自分の寝室のものだ。枕元のこれまた見慣れたデジタル時計に目をやると、はっきりと記憶しているものからいくつか進んだ数字が表示されていた。
睡眠と覚醒との狭間をしばらくうつらうつらしながら行き来していた自覚は何となくあるのだが、自分で思っていた以上に長い時間が経過していたらしい。つかの間の覚醒のときに何度かアルジュナが部屋を訪れ、水分を取らせたり氷枕を代えてくれたりしたのは、何となく覚えている。
奴にはまた世話をかけてしまった。実家からの要請があるとはいえ、自分の世話などをさせられるのは好ましいものではないだろう。後できちんと埋め合わせをしなくてはなるまい。
それはそうと、ジナコは今頃どうしているだろう。まとまらない思考でぐるぐると考えているうちに、ふとそんなことを思った。
あのとき、一緒に来てくれないかと告げた瞬間の、彼女の凍り付いた顔が目に焼き付いて離れてくれなかった。
頭がガンガンする。脳髄にまとわりつくような鈍く重い痛みに、カルナは思わず顔をしかめた。
いつもとは比べ物にならないくらい重くなっている手を持ち上げて、ベッドサイドのチェストの上に置いてあったペットボトルの清涼飲料を一気にあおった。熱と痛みを訴えていた乾いた喉がじわじわと潤いを取り戻していき、けほ、と小さく咳き込む。
言うことを聞かない重たい体に忌々しさを感じていると、枕元のスマートフォンが何らかのメッセージの受信を知らせるためにその身を震わせた。
手に取ってみると、どうやらアルジュナからメッセージアプリで何やら連絡が飛んできたようだった。そういえば姿を見ないし気配も感じないが、もしかしたらどこかへ外出しているのだろうか。そうでなければわざわざメッセージを送ってくることもあるまい。ぼやける視界で、苦労しいしい表示された文字を追う。
しかしその文面の意味を解した瞬間、カルナは掛布団を跳ね上げて勢いよく起き上がっていた。視界がぐにゃりと回るが構ってなどいられない。根性でねじ伏せて起き上がり、表示されている文字を改めて読み直す。
『今、ジナコ=カリギリの家にいます。約束は果たしたぞ』
約束。
約束とは何だ。自分は奴と、一体何を話した?
熱で朦朧としていた時間が随分と長かったせいか、頭の中に残されている直近の記憶がかなり混濁し、そして曖昧になってしまっている。しかも現在も相変わらず頭が回らないせいで、もう何が何だかよく分からなかった。深く考えようとしても思考はどこか真っ白な彼方へと上滑りしていくばかりで、何処の結論へも辿り着けそうにない。
それでもふわふわした意識の中に埋没した記憶の欠片たちを闇雲に掘り返していくうちに、時間はかかったものの、ようやくそれらしきものに触れることができた。
そうだ、自分は確か、ジナコのところへ行こうとしていた。彼女を一人のままにしてはいけないと思ったのだ。
背中を向けてしまった。耐えきれなかった。
喉の奥が引きつって言葉を吐こうとしても痛みを伴うばかりで、手首のあたりがひりひりして、息が出来なくて。このままここにいたら死んでしまうんじゃないかだなんて、情けない考えに陥ってしまって。気がつけばカルナは、ジナコの家を飛び出してしまっていたのだ。
戻らなくてはと、頭の中では何回も繰り返しそう思っていた。
カルナの言葉によって凍りついたジナコの顔は、これまで見たことがないようなものだった。今まで決して短くない時間をともに過ごしてきたはずなのに。
とにもかくにも、カルナがあんな風にしてしまった彼女を、ひとりぼっちのまま放ってはおくことはできない。
けれどカルナの両の足はまるで鉛の塊を括り付けられたかのように重くて、一向にジナコの家の方を向いてはくれなかった。自分の体が、心が、自分のものではなくなっているような不可解な感覚。病状が悪化してベッドの上に転がっていることしかできない状態ならまだしも、普通の状態のときにこんなことを感じるなんて思いもしなかった。
結局その後はぐるぐると行く宛てもなく近所のあちこちを彷徨い、彷徨い、気が付けば辺りはすっかり暗くなっていた。吐く息が真っ白で、かじかんだ指先にはほとんど感覚がなくろくに力が入らなくなっていた。ぬかるんだ泥沼の中に放り込まれたかのようにぼうっとした思考で、今日のところはとりあえず一旦自宅へ帰ろうと思ったのだ。今からジナコの家に押し掛けるのも迷惑だろうし、と。
自分の中できちんと心と言葉を整理して、改めて伝えるべき言葉を伝え直そうと思ったのだ。聞いてくれるかはわからない。もう来るなと強く拒絶されてしまうかもしれない。けれど、それでも、自分は。
そうして自宅に入るため鍵を取り出そうとしたカルナだったが、ふらふらしているうちにどこかへ落としてきてしまったのか、カバンからもポケットからもそれを見つけ出すことはできなかった。
通った場所を探しに戻ることも一瞬考えたが、道中の記憶がほとんどないため辿ることは難しい。それに例え鍵を拾った者が家に侵入してきたとしても、特に取られて困るようなものは置いていないからと、鍵を探しに出ることは早々に諦めた。その日はアルジュナが仕事終わりにやってくることになっていたから、そのまま自宅の玄関先で待っていることにしたのである。この辺りからはもうかなり記憶が曖昧になっている。
それでやってきたアルジュナが悲鳴のような声を上げていて、些か乱暴に家の中へと担ぎ込まれて。幼い頃から世話になっている医者がやってきて、
「しばらくは絶対安静だ、このどうしようもない愚患者が。いい加減寝台に縛り付けるぞ。ついこの間の検査は何のためにやったと思っている?」
と乱暴に吐き捨てられた。
しかし寝てなどいられるか、自分はジナコのところへ行かなくてはならないと無理矢理起き上がろうとして、ベッドに押し戻されて。
そうしてそんな攻防をしばらく繰り返したあと、必死にアルジュナに訴えて、渋々といった体で頷かれたのを確認したのを最後に、ぷつんと記憶が途切れていた。
ああ、そうだった、確かに約束した。あのときカルナはアルジュナに頼んだのだ。
己は情けないことに今動くことができないけれど、それはジナコを一人にしていい理由には決してならない。今頃、きっと自分を責めているだろうから。だからどうかジナコの元へ行ってはくれないかと。
そうさせている張本人であるカルナがこんなことを言うべきではないかもしれない。わかっている。だがどうしたって諦められそうにないのだ。ジナコの傍で彼女を守ること、それを受け入れてカルナの居場所を彼女の中に作ってもらうことを。
それにここでうっかり手を離してしまったが最後、もう二度とその手を握ることができないような気がしたから。だからカルナから逃げようとしているジナコに追い縋るために、どうしてもそうしなければならないと思ったのだ。
このまま一人にしてしまったら、ジナコはカルナが時間をかけてゆっくりと溶かしてきた心の殻を再び固く閉ざし、今度こそ誰も受け入れることを許さなくなるだろう。ひとりぼっちが寂しいことに気が付かないふりをして、崩れた心の欠片を歪に組み上げ直しながら、あの自ら作った昏い場所で縮こまって生きていくのだろう。
それはあまりにも悲しい在り方だった。ジナコが心からそういう生き方を望んでいるのなら、カルナはもう何も言うまい。しかし違うのだ。あの女は嘘つきで、強がりで、けれど脆くて、本当は誰かと一緒にいることを誰よりも強く望んでいるはずなのだ。ただそれを唐突に奪われてしまったから、また手に入れた瞬間また失くしてしまうことにひどく恐怖している。
だからカルナは、彼女がそうすることに躊躇いや恐怖がなくなったらいいと思った。誰かと生きることを望み、それを自分の心から生じたものとして素直に受け入れられるように。
誰かと寄り添って生きるのは人間として生きていくための当たり前の営みだ。確かにいつかなくなることは決まっているけれど、それでも最初から全て無ければ良いなんていう生き方は悲しいし、ジナコにそんな寂しい人生を送って欲しくはなかった。
ジナコは奇跡の音と生きる力、共に過ごす尊い時間を与えてくれた。そしてカルナのために必要な言葉を拾い伝えてくれた、カルナにとって何よりも大切な人になったのだから。
共に生きたいという望みの先に自分がいたらいいのにと、そんなことを思うようになっていたのは、果たしていつからだっただろう。
素直に望んで欲しいという傲慢な願いには、いつしか自分と生きることを望んでくれればという我欲の色が混ざり込むようになっていたのだ。
けれどそう願って差し出してきたカルナの想いは、残念ながらこれっぽっちも彼女に届いていなかったわけで。
もう少しうまく手を取る方法があったのだろうが、それでも自分はまた間違えてしまった。せっかくジナコが上手にやれる方法を助言してくれたというのに、これでは台無しである。しかも自分はそのあと言葉を費やすことを放棄し、彼女の元から逃げるように去ってしまったのだから。
だって、こんなにも苦しいものだなんて知らなかったのだ。思い続けていた大切な相手に、まるきり振り向いてもらえていなかったことが。
それでもやはり、諦めるという気持ちは微塵も湧いてきてくれなかった。
ここまで何かに執着したのは生まれて初めてだ。そもそも、これまで伝わるように努力してこなかったカルナの怠慢である。彼女が「全部わかっているよ」と言ってくれたのが嬉しくて、事もあろうにすっかり甘えきっていたのだ。努力をするべきだと言われたのに、完全に彼女の優しさに頼って怠っていたのである。
カルナが一を口にしてジナコが十わかってくれたとしても、そこから百をくみ取れというのはどだい無理な話だ。カルナとジナコはどんなに寄り添ったところで一人と一人の別の人間。わかり合いたいと望むならば、きちんと必要な言葉を費やさなければならない。ジナコがカルナにそう教えてくれたのだ。
「とはいえ、流石にこれでは動けんな
……
」
カルナはまだ熱っぽさの残る重い息を吐きながら、掠れた声でぼそりと零した。
己が動けないことはそうなのだが、それ以上に単なる風邪とはいえジナコに移してしまうようなことがあってはならないと思ったのだ。
無菌室で育った花は、外に出されれば環境に耐え切れずたちまち枯れてしまうのだという。普段からろくに外に出ず、免疫らしい免疫を身体に備えていないことが容易に想像できるジナコだから、抵抗力がなく風邪とはいえあっという間に重症化してしまうかもしれない。
人生で何度も経験してきた病院での長い入院生活の中で、カルナはそういう風にころりと命を落としてしまう人を何人も見てきた。同じようなことがジナコの身に降りかかったらと、考えるだけで恐ろしい。自分の身は自分でどうとでもできようが、ジナコの身体に何かあったときはどうこうしようがないのである。何のために彼女の健康管理に努めて口うるさくしてきたと思っているのか。
とはいえ、このまま何もしないというわけにもいくまい。何より自分がそうあることが許せない。カルナは先程のメッセージの画面をタップして呼び出すと、またもや大変苦心しながら文字を打ち込んでいった。
『ジナコは今どうしている。叶うならば今から電話をさせろ。貴様の端末を使っても、オレの携帯電話の番号を彼女に伝えてくれてもいい』
あれこれ考え込んでいる内にさらに熱が上がっていたのか、どうにも視界が霞んでいていけない。指の動きも覚束ない。そのせいで誤字だの誤変換だのがあったかもしれないが、今は構うものか。とにかく急いで伝えることが重要だ。アルジュナであれば多少の間違いも何とか飲み込み、噛み砕いて理解してくれることだろう。
しかし、いつまで待ってもアルジュナから返信も、ジナコからの電話も一切来なかった。うとうとと船を漕いでは覚醒し、何の変化も無い画面を見てほっと安堵の息を吐き、そしてまた微睡みに身を委ねる。
そんなことを幾度も繰り返しているうちに、結局カルナの意識は深い眠りの波にさらわれてしまったのだった。
♪ ♪ ♪
『ごめん、もう少し待ってて』
再び意識が覚醒したとき、いつのまにか帰宅していたアルジュナによって伝えられたのは、ジナコからのそんな言葉だった。
一体何を待つべきなのか、アルジュナは言わなかった。彼が何かを隠しているというのはすぐにわかったが、ジナコから伝えられた言葉に乗せられているものは、決してそれが全てではないような気がして。
とにかくそれを聞いたカルナは、朦朧とした意識のまま家を無理矢理飛び出していく騒ぎを起こし、結果的に絶対安静の期間が延びる羽目になった。
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