浮いて沈んでアンダンテ

ピアノ調律師カルナ×元ピアニストジナコの現パロ小説。捏造設定過多につき何でも許せる方向け。

※本編はpixivに掲載済みですが、本にのみ収録していた「番外編」と「エピローグ」を加えて全編まとめました。




【Con animaコン・アニマ



 アルジュナを通じてジナコから『待ってて』という言葉を受け取ってから、約半月後。
カルナはとあるコンサートのチケットを手に、街から少し離れた場所にあるコンサートホールへと足を運んでいた。

 あの後、カルナは己の全快を言い渡されてからジナコの家へ向かおうとした。本当なら熱が下がってすぐにでも足を運ぼうとしていたのだが、今回いつになくきつめに言い渡されたドクターストップにより身動きが取れなかったのである。ただでさえ体調を崩しがちなこの季節に無理をすればすぐにぶり返してしまう、そんなことを繰り返していたら今度こそ重篤な状態になりかねないから、と。
 そこまで柔ではないと言い張れれば良かったのだが、ベッドから起き上がれない状態で言ったところで説得力がないことはわかりきっていたので、素直にその忠告を受け入れざるを得なかったのだ。
 随分と良くなったはずだが、それでも未だに思い通りにさせてくれないことの多い己の身体が恨めしい。今後はもっとしっかりと鍛えていかなくては。
 しかしカルナとて、周囲に必要以上に迷惑をかけることを望んでしたいと思っているわけでもない。加えて、ジナコからも『働き過ぎなんだから、たまには何にもせずにゆっくり休みなさい! 今来たら今後一切二度と家に入れないから!』との強いお言葉をいただいた故という事情もあるのだが。
 ちなみにこの言葉は、ジナコから直接連絡がきたというわけではない。あれ以来、何故か頻繁に彼女に会っているというアルジュナを通じて言い渡された言葉である。

 何故自分が会えないのにお前が会っているのか、そして何の目的で何度も会っているのか。

 ジナコからだと伝えられたときに慌ててそう問うたのだが、彼が詳しい事情を口にすることはなかった。ただ「お前が心配するようなことは一切ありません」と、淡々とした事務的な口調でと返されたのみである。
 この清廉潔白な男がここまできっぱり言うのなら、間違いなくそうなのだろう。それでもやはり気持ちがざわつくのは抑えられなかった。仮にアルジュナのほうがそうであっても、ジナコのほうがそうはいかないかもしれない。アルジュナはカルナから見てもいい男だと断言できるような人物だから。

……貴様も、そんな顔が出来たのか」

 悶々とするカルナを見てアルジュナはそう首を傾げていたのだが、自分はそんなに妙な顔をしていたのだろうか。
 さてそういうわけで、カルナはその後もジナコに会えない日々が続くことになったわけだが、断腸の思いでその状況を受け入れることにした。自分も少し頭を冷やして考えるべきだと思ったからである。
 今ジナコにもう一度会って、傍にいてくれと再び告げたとしても、きっと同じことの繰り返しになるだけだろう。自分の思いがきちんと伝わるように、そしてジナコがそれに頷いてくれるように、いま一度伝えるべき言葉を見直すべきである。
 とはいえどんなにぐるぐると思考を巡らせても、ただジナコが愛おしくて、大切で、彼女が自分の傍にいないのは嫌だという思いが強くなっていくばかりだった。それが何よりも確かな事実なので仕方があるまい。これをどんなに伝えたところでジナコの心を動かせるとは到底思えない。
 それにしても、彼女と再会してから今までの間で、こんなにも長く顔を合せなかったことはなかったのではないだろうか。ジナコの家で無様に倒れてしまった後も一週間ほどで彼女の家へ行けたし、自分が検査入院していたときはわざわざ会いに来てくれた。ヤドカリのように家を背負っているんじゃないかと思うくらいの引きこもりが、カルナのために自ら出てきてくれたのだ。あのときのカルナの胸の中に沸き上がった歓喜は千言万語を費やしても表現し得ない。
 しかし今回に関しては、今までのいずれとも状況が違う。次にいつ再会できるのかという答えはまるきり闇の中だし、そもそもそれが許されるかどうかすらも定かではないのだ。カルナ自身にはそんなつもり毛頭ないが、このまま会うこともなくぷっつりと関係が終わってしまう可能性だって十分あり得る。
 そうやって日に日に募り、そして押しつぶされそうになるほど膨れ上がったどうしようもない寂寥感に、やはり自分はジナコがいないと駄目なのだなと痛感した。駄目というか、彼女がいなかった頃の日常がもうすっかり思い出せなくなってしまっていたのだ。

 だから傍にいてほしいと、ずっと隣で笑っていて欲しいと、ただそれだけを願う。キミが己の側にいてくれない世界は、もはや到底考えられないほどのものなのだと。

 ピアノはきっかけに過ぎなかった。ジナコとカルナを繋いでくれた大切なものであること、そしてカルナがその音に首ったけなことはもはや疑う余地もないが、もはや彼女に向ける大きな大きな感情一部であって、全てではないのだ。カルナはそうやって変化し肥大していった感情を「自分はジナコのことが好きなのだ」と定義づけたのである。
 誰かを好きになるということの理屈は知っていたが、実際に己のものにするのは生まれて初めてだった。初めてだからこれが本当に正しいものかどうかは判断できないが、少なくとも真実ではあるのだと思う。

 こんな風に抱いている気持ちをジナコに確実に届け、そして受け入れてもらうために、自分は果たして何をすればいいのか。

 色々と思考を巡らせてはみたものの、相変わらず画期的な考えは浮かずじまいである。時間もそう多く残されているわけではないのだ。あと一か月もすれば、カルナはこの街を――ジナコの傍にいられる場所から離れなくてはならなくなる。もちろん帰ってこようと思えば何とかなるが、現状のようにほぼ毎日顔を合わせ、夕食を共にするような関係を維持し続けることはもはや望めまい。
 ちなみに諦めるという考えはこれっぽっちもなかった。彼女のそばにいられない自分の姿など、頭の片隅で想像するのすら恐ろしいと思った。傲慢で浅ましい、身の程も知らない気持ちだと自覚してはいる。けれど生まれて初めてここまで欲しいと願った存在だ、そう簡単に手放すことなど出来るはずもないのである。
 だからジナコに自分の気持ちを受け入れて、カルナの傍にいると彼女の口から言ってほしかった。これに関しては、半分くらいはカルナの個人としての我儘である。
力づくで攫うこともできなくはない。けれどそうしてしまったが最後、ジナコは再び心を固く閉ざし、カルナを初めとするあらゆる他者を激しく拒絶するようになってしまうだろう。今まで以上に頑なになった彼女の心をもう一度溶かすことか出来るのか、カルナにはわからないのだ。今だってたくさんの時間をかけて、ようやくその末端に足を踏み入れることを許されたレベルであるというのに。
 カルナが一方的に押し付けるのでは全く意味がない。カルナはジナコの『全部』が欲しいのだ。全てでもって傍に在って欲しいのだ。
 それ故に、彼女の確かな意思でカルナの手を取ってもらわなくては意味がない。けれどそのための確実な方法がどんなに考えても得られず、カルナはひっそりと途方に暮れていたのだった。

 そんなことを悶々と考え込み続けていたある日、アルジュナから突然今回のコンサートのチケットを渡された。

 彼が最近自社にスカウトしたピアニストのデビューを記念したものらしいのだが、生憎チケットが余ってしまっているらしい。それで何とか客席を埋めるために、カルナに客として参加してほしいのだとか。
 彼が自分にそんなことを頼むのは珍しいというか、記憶している限りほぼ初めての真正面からの頼まれ事だったので、カルナは二つ返事で了承した。それ以上の詳しい事情は彼も口にしなかったのだが、それでも彼が自分に声を掛けざるを得ないような困った状況になっているということは理解できる。アルジュナとしては誰かがそこに来て座っているだけでいいはずなのに、それをわかった上で自分を選んで声をかけてくれたのだ。つまりカルナならば受けてくれるだろうと信頼されているということなのだから、それは純粋に嬉しいことである。
 さて、今回の開催されるのは、比較的小さなホールで行われる小規模なコンサートだった。チケットに記載されている公演時間的にも、そう多くの曲を披露する場ではなさそうだ。下手をしたら、一曲弾いて挨拶をしたら終了なのではないかというくらいの時間の短さである。
 会場に到着した後、カルナは特に意図はなく辺りを見回してみたが、なるほど客の数はさほど多くはないようだった。ものすごい勢いで手元の携帯端末に何かを打ち込んでいる若い女性が目に付くくらいであろう。ぶつぶつと唇から零れ落ちている独り言から察するに、あの女性はこういったコンサートに足を運ぶのが初めてらしく、いたく興奮しているようだった。物凄いネタを得てしまった、とか何とか。

 それはそうと、聞きに来てくれた人間の数がこんなに少ない状態では、演奏者のモチベーションが下がってしまわないだろうか。
 そんな心配がカルナの頭の片隅を過ぎっていった。

 実際にああいったステージの上に立つ者でなければ知らないだろうが、舞台上からの見下ろす客席というのは意外と細かな所までよく見えてしまうものなのだ。せっかくの自分の晴れ舞台だというのに、聞きに来てくれている者が目に見えて少ない光景を目にしてしまった演奏者は、恐らく大なり小なり落胆するに違いない。しかもそうなれば当然、演奏自体にも影響が出てきてしまうだろう。楽器を奏でる行為というのは、本人が意識しているより遙かに強く本人の精神的な状態が影響する。
 つまり演奏者が最高の状態で演奏に臨めるような環境を提供するために、いつも事前から綿密に計画を立ててきていたはずのアルジュナにしては珍しい仕事ぶりといえた。もしかしたらそんなことに手が回らないほど忙しかったのだろうか。いや、その程度で己のやるべきことに手を抜く男ではないはずなのだが。
 そんなことをとりとめもなく考えながら、カルナはホールの受付でアルジュナから渡されていたチケットを提示した。するとどうしたことか、受付スタッフは何故か慌てたように立ち上がると、カルナはそのまま別室へと通されたのである。
 これはアルジュナが主催しているコンサートで、カルナが受付で出したのはそんな彼から渡されたチケットだ。カルナはそもそもこのコンサート自体をよく知らなかったし、彼も渡したときに何も言わなかったのだが、もしかしたら何か関係者として特別な対応をすることになっていたのかもしれない。
 何やらそわそわした様子で先導するスタッフの背中を見ながら、カルナはそんなことを考えていた。
 とはいえカルナはたまたまそのチケットをアルジュナから受け取ってやってきただけなので、ここまで特別扱いをされるほど丁重に扱ってもらう必要もないのだけれど。

「来たな、カルナ」

 関係者の入口から入ってしばらく歩いた場所にあった応接室らしき場所に通された後、係員に言われるがまましばらく待っていると、慌ただしい様子でアルジュナが部屋までやってきた。主催者としてあちこち奔走しているに違いない。
 しかしカルナがここにいることに対して、何処か安堵しているらしい様子を見せているのは少し不可解だった。

「オレがお前との約束を反故にすると? 侮られたものだな」
「そうではない、そうではないが……ええい、もう少し言い方を考えられないのかお前は! いや、今はもうそれはどうでもいい。とにかく、間もなくコンサートの開始時間です。来なさい」
「ああ」

 言われずともそのつもりだと淡々と返せば、何故か大きなため息をつかれてしまった。
 なるほど、どうやらまたしても言葉が足りなかったようだ。ここ最近はジナコに叱られる機会がめっきりなかったから、自分でも気が付かないうちに気が抜けてしまっていたのかもしれない。一つ一つをジナコが補足し怒ってくれることがなくとも、普段から自分の力で努力するのが当然なのに。
 このようなことでは全く駄目だ。きっとジナコをひどく呆れさせてしまう。望んで差し伸べた手を取って握り返してほしいと願うのに、こんな人は嫌だとそもそもそっぽを向かれてしまったらたまらない。気を引き締め直さねばなるまいと、カルナはアルジュナの背を追って歩きながら、ほんの少しだけ意識して背筋を伸ばした。

 そうしてアルジュナ自らに案内され、カルナは会場であるホールへと足を踏み入れた。

 予想通りというかなんというか、客の入りは目に見えて少ない。両手で数える程しかいないのではないだろうか。
 そんな中チケットで指定されていたカルナの席は、何と最前列のセンター席だった。特等席と言っても過言ではないような位置である。しかもカルナの席の隣には、見慣れ過ぎた大柄な男が座っていた。

「アシュヴァッターマン?」

 思いもよらない人物のその横顔に、カルナはきょとんと眼を丸くしながら呼びかける。
するとその人物――アシュヴァッターマンはこちらを振り向き、何やらニヤリと含みのある笑みを向けてきた。

「お、ようやく来やがったなカルナ! 遅かったじゃねーか!」
「ああ。しかし、何故お前がここにいる?」
「彼も私が呼んだのですよ。彼も一応『関係者』ですので」
「?」

 何か含みのある言い方をしながら、アルジュナはカルナの隣――アシュヴァッターマンとは反対側に腰を下ろした。
 一体どういうことだと問おうとするカルナを、その濡れ羽色の目で厳しく制する。するとそれを合図にしたかのように、会場内の客席照明がゆっくりと暗転し始めた。コンサートが始まる合図である。
 頭の中に疑問符を浮かべたまま、カルナはとりあえずステージの方へ意識を集中することにした。アルジュナがカルナの預かり知らぬところで何か企てているのは明らかだが、あれこれ考えるのはまた後にしよう。終わった後でいくらでも話を聞くことはできる。
 今こカルナがすべきことは、初めてこうやってステージの上へ立つ権利を得た演奏者の音を、しっかりと最後まで聞き届けてやることだけだ。例え客が少なくとも、お前の演奏を聞いているものは確かにここにいる。例え多くはなくとも確かに存在している。まだ見ぬ産声を上げたばかりの演奏者に、せめてそれだけでも伝わってほしいと祈りながら。

 磨き上げられた板張りのステージの上で、コツコツと足音が近付いてくる。

 なるほど、どう聞いてもステージに立つことにまるきり慣れていないことがよくわかる足音だった。何となくよれよれしている印象を受けるというか、真っすぐ歩くだけでも精一杯な様子だ。よほど緊張しているのだろう。誰かが支えてやらねばそのままへたり込んでしまいそうだ。いっそカルナが支えに行ってやりたくなる。いつの間にか少し腰を浮かせてしまっていたことに気付いて、カルナは小さく苦笑を漏らした。自分でも理解し難い衝動だったが、どうにも放っておけないと思ってしまったのである。
 どうか転んでくれるなよとぼんやりとその音を聞いていたカルナだったが、その演奏者がステージ上を煌々と照らすライトの下に姿を現した瞬間、うっかり大きな声を上げそうになってしまった。

 だってスポットライトの灯りの下に姿を現したのが、あまりにも予想の範疇を飛び越えた人物の姿だったから。

「ジナコ……ッ!?」

 会いたいと、どうにか傍にいる方法がないかと考え続けていた愛しい人。
 そんな風に想い続けていた人が、緊張で壊れかけたロボットのようなぎこちない動きで、ステージの上に立っていたのだ。


     ♪ ♪ ♪


 カルナが己を呼んだ声が聞こえたが、ジナコはあえて気が付かなかった振りをした。
 だって今の自分がすべきことは、彼の呼び掛けに答えて駆け出すことではないのだから。

 今の自分はステージの上の奏者。
 そして彼はそれを聞くためにこの場所に座っている観客だ。

 その間に横たわる段差を超えるのは、自分が与えられたその役目をつつがなく終えたその後である。カルナだってこの業界で生きてきて長いのだから、その辺りの線引きはきちんと心得ているはずだ。流石にステージに無理矢理乗り上げてくるような強引な真似はしないだろう。それに何かあれば、両脇のアルジュナとアシュヴァッターマンが何とかしておいてくれることになっている。
 というか彼の声にこたえてやれる余裕が、そもそも現在のジナコには一切なかった。身体的にも精神的にも。
 プロの演奏家ならにこやかな微笑みを向けるくらいできるのかもしれないが、ジナコにはとても無理な話だ。カルナの顔を見てしまったが最後、全ての力を失ってその場でべしゃりと溶けて崩れてしまいそうなほどである。装備なしでラスボスの前に引きずり出されたような気分だった。
 舞台袖からピアノまでの数メートルもないはずのわずかな距離が、今は何故だか途方もなく遠いように感じられてしまう。

 おかしい、絶対におかしい。リハーサルの時はこんなに遠くなかったはずなのに。

 足を踏み出しても、踏み出しても、ピアノのある場所が恐ろしく遠い。しかも踏み出す足が自分のものではないような感覚に陥っており、進む度にそれが盛大にもつれて転びそうになる始末だ。何て格好悪いのだろう。
 けれど自分は、どうしてもここでやりとげなくてはならない。

 だってジナコは、きちんと覚悟を決めたのだ。
 カルナに自分の正直な気持ちをすべて伝えるのだと。

 けれどジナコが振り絞ったそんな勇気は、まだ生まれてで弱々しかったから。ちょっとでも横からつっつかれたりでもしたら、よろけて、倒れて、その場で蹲って動けなくなってしまいそうだったから。
 だからジナコは彼が好きだと言ってくれた、かつて彼の心を激しく揺さぶったというピアノの力を借りることにしたのだ。

 その場をコンサートとして計画し実行してくれたのはアルジュナだが、何らかの場を用意してくれと頼んだのはジナコだった。カルナにきちんとした形で自分の演奏を聞いて欲しい、だからそのためにあなたの力を貸してほしいのだと。まさかこんなちゃんとしたコンサートホールで弾くことになるとは思っていなかったので、最初に提案された時はひっくり返りそうになったものだが。
 しかし、この短期間でよくもまあここまで場を整えたものだ。お友達にどうぞなんて言われながら、きちんとデザインされ印刷されたチケットを渡されたときには、改めてひっくり返りそうになったものである。
 自分の音を信じてくれたカルナのために、そして何より己自身が前へと進むために。
ジナコはアルジュナと突貫の打ち合わせを幾度も重ねながら、モノクロの鍵盤に向かい合いながら、少しずつ自分の心に整理をつけていったのだった。
 それにしても、ステージの袖から歩き出して以降、だらだらと噴き出す汗が止まらない。せっかくそれっぽくしてもらった化粧が、全部端から剥げて流れ落ちているんじゃないかと心配をするほどには。
 煌々と照り付けるライトの熱のせいというのももちろんあるのだが、おそらくそちらは二割程度だ。残りの八割は、間違いなく極度の緊張からくるものである。これまで十数年、スポットライトどころか日中の太陽の光すらもまともに浴びない生活を送り続けてきたのだから当然だろう。
 ジナコの体と心の全てに対し、柔らかいところも固いところも関係なく、遠くから近くからぐさぐさと視線が刺さってくるのを感じる。ただ単純に対面した相手からのものからでは絶対に感じることのない、客席とステージという違う世界を跨いでこちらへ注がれる、この場に立ったものしか知ることのできない独特な視線だ。
 しかし息が詰まるほどの緊張をもたらすそれに対し、一抹の懐かしさのようなものを覚えている自分に気がついて、ジナコは小さなため息をついた。すっかり手放して捨ててしまって、もう己の中からは一切追い出してしまったと思っていたものたちだけれど、結局捨てきれずにどこかに残っていたものがあったのだ。

 どんなに繋ぎ合わせても、元の形に戻ることはもう二度とないのだろう。過ぎていった時は戻らないし、手放してしまったものが全て帰ってくることはない。
 けれど僅かに残っていたそれを糧にして、新しく芽吹いたものが確かにここにある。それを抱えているのが、今ここに立っているジナコ=カリギリなのだ。

 しかも足下でボロボロに崩れて落ちて転がったまま、誰にも――ジナコ本人ですら見向きもしなかった欠片たちに、気が付いてくれた人がいた。
 彼はそれらをせっせと拾い集め、不器用な手つきでジナコの心の穴に埋め直し、塞いでいってくれた、とっても物好きな人だった。

 その人は今、ステージの下で、どんな思いでジナコのことを見上げているのだろうか。

 深呼吸の後ぺこりと観客席に頭を下げて、少しだけ落ち着きを取り戻したのを感じながら、そっと客席を見る。そこには当然だが、ここしばらく会うことができなかったカルナの姿があった。今まで見たこともないような驚愕の色を顔に乗せて、それでもじっとこちらを見つめている、彼の姿が。

 正直、カルナと再会するのは少しだけ怖かった。

 最後に見たひどく傷付いた顔が目に焼き付いていて、思い出すたびにその姿ばかり浮かんでしまって、再び彼と顔を合わせたときにどんな思いが湧き上がるのか自分でもわからなかったからだ。
 もし彼を好きだという自分の気持ちが、離れていたせいでわからなくなってしまっていたらどうしよう。自分は今、彼のことがどれくらい好きなのだろう。彼の何が、何処が、あんなにも好きだと、離れていくのが耐えられないと思ったのだろう。
 けれど何というか、めいっぱい見開かれた彼の瞳がこちらを見つめているのを見た瞬間、ああ大丈夫じゃないかと思った。すとん、と心の中に何かが落ち着いたのだ。
 彼へ抱く気持ちの色は何一つ変わっていない。会えなかった間にしんしんと募らせていた寂しさや諸々を餌に、自分でもびっくりするくらいに肥大化していただけで。

 好きだった。
 彼を目にした瞬間、どうしようもなく彼のことが好きなのだと、そう叫び出したい気分になった。
 たったそれだけのシンプルな答えだったが、きっとこれで十分だったのだ。

 そうしてジナコは、先ほどよりいくらか冷静な気持ちでステージ中心に設置されているピアノの前に腰掛けた。艶やかな鍵盤に手を添えると、慣れた感触が指先から伝わってくる。
 一つ深呼吸をして、ジナコはゆっくりと流れていく音に身を委ねていった。

 奏でるのは、あの日――かつて幼い日のカルナが初めてジナコの音を聞いたという日に弾いたのと同じ曲だ。

 カルナのいた病院でジナコがピアノを弾いたというのは既に遠い過去の出来事で、ジナコ自身もすっかり記憶の中からすっ飛ばしてしまっていたものだから、探し出すのにも随分苦労した。けれどそこまでしてでも、彼のためにあのときの曲をもう一度弾きたかったのだ。
 記憶の端からどうにかその日弾いた曲を引っ張り出し、十数年ぶりに当時通っていたピアノ教室の先生に連絡を取って楽譜を取り寄せ、この日のためにと猛練習してきた。寝食も何もかもを忘れ、無我夢中でピアノに向かい続けていた。廃人レベルで入り浸っていたオンラインゲームにも長い間ログインをしなかったために、数少ないリアルでも付き合いのあるゲーム友達から「ジナっちゃん大丈夫!? 生きてる!?」と鬼気迫ったメッセージが飛んできた程度には。
 当然いくら練習したところで、半月にも満たない付け焼刃だ。それだけでどうにかなるとはもちろんジナコだって思っていない。音楽というものは、そんなに甘っちょろい努力でどうにかなるような容易い世界にあるものではない。
 しかし最初にカルナが演奏を聴いた当時のジナコだって、誰もが舌を巻くような完璧な技術を持っていたわけではなかったはずだ。それでも彼は強く、激しく、その音に心をつかまれ、揺さぶられたのだと言う。つまり大切なのは技術力などではなく、これを弾く演奏者であるジナコの心の持ちようだ。
 とはいえ、難しいことは結局よくわからない。演奏で心情が伝わる表現の仕方なんていうのも実際のところさっぱりだ。そんな高度な技術は持ち合わせていない。
 そもそも自分の心の向く先すらすぐに見誤ってしまうのに、それをさらに演奏に乗せて表現しようなんてのはどだい無理な話だった。

 だからただ、心の底から願う。がむしゃらに、真っすぐに、祈る。
 どうか届いてほしいと。
 頑なだった私の世界をぶち破って、強引にそばまでやってきてくれた、あなたへ。

 最初に会ったときは、なんて酷い男なのかと思った。
 ずっと治ることなく血を流し続けていたのに、治そうともせずただじっと黙って抱え続けていた傷に、カルナはそっと触れてきたから。痛くてたまらなくて、苦しくて、お願いだから触らないでと、ジナコはみっともなく泣き喚いて彼を拒絶した。凍りつかせたことで何とか仮初の安寧を得た己の世界に、これ以上入ってこないでほしいと。
 けれどカルナは決してジナコの傍を離れようとしなかった。ジナコがどんなに拒んでも居座り続けていた。此処こそが己のあるべき場所だと、例えジナコが拒絶しようとそれは変わらないと強く主張し続けた。ジナコにとって、彼がそこに居ることが当たり前になってしまうほどに。
 そうして彼と触れ合う中で、ぽつぽつと紡がれる拙い言葉を拾ってみれば、実はとても優しい人なのだと知ることになった。恐ろしく不器用だけれど、それは相手のことばかり考えすぎて空回っているだけだったから。
 そして表情がころころ動く性質でないせいで一見冷たい印象を抱かれてしまいがちだけれど、その実胸の奥には誰よりも熱いものを秘めていた。それを目の前にして目を輝かせている様はまるで宝物を見つけた無垢な子供のようで、何だか見ているこちらまで心の奥が熱くなってくる。

 そんなカルナを、ジナコは好きだと思った。

 いつの間にかそんな彼の姿に強く惹かれていた。こんな酷い男、顔すら二度と見たくないなんて思っていたのが嘘みたいだ。嫌いなところ、酷いと思っていたところを端から上げて並べていこうとしても、それを遮るかのように好きだと思うところが前に出てくるのだから、もうしょうがなかった。

 そして生まれて初めて心の底から愛しいという感情を抱いた人が、己の情熱と、精一杯の愛情をジナコへと注いでくれたのだ。
 すっかり温度を失い凍りついていた心にそれはちょっと熱すぎて、痛くて、眩しかった。

 でもカルナがそうしてくれなかったら、ジナコの心は頑なに閉ざされたままだっただろう。血を流し続ける傷を抱えたまま、何処へも行けず、誰にも気付かれずに一人腐って死んでいっただろう。
 めちゃくちゃに泣き喚きながら拒んで振り払った手を、それでもカルナが必死に追いかけて捕まえてくれたから、ジナコは今ここに立つことが出来ている。

 だから今度こそ、ちゃんと自分の意思で、あなたが伸ばしてくれた手を固く握るから。
 つまらない見栄も、己が傷付くかもしれない恐怖もどうにか全部押しのけて、今度こそそれを離さないから。
 どんなに恰好悪くても、歩くようなゆっくりの速度でも、絶対にそうできるように頑張るから。

 それでもやっぱり、最初はうまくいかないかもしれない。だからそのときは、ジナコが落っこちていかないように引っ張りあげてやってほしい。
 そしてもし、いつかあなたがそんなふうになることがあったら、ジナコのほうからも引っ張り上げてあげられるようになりたいのだ。

 ジナコは指を鍵盤の上で踊らせながら、ただひたすらにそう祈る。
 どうかこの感謝が伝わりますようにと。彼へ抱くこのいっぱいの想いの全てが、届きますようにと。

 やがてすべての音がホールに響き渡り、曲が終わる。最後の音が完全に消えるその瞬間まで、ジナコは大切な人への想いを指先に込め続けていた。
 鍵盤から手を放し、のろりと立ち上がる。全身のあるとあらゆるものを演奏のためにと使い果たしていたせいで、もう何処にどう力をいれたら立ち上がれるのかも判断がつかなくなっていた。脳がどう指示を出せばいいのか分からなくなってしまったと悲鳴を上げている。
 それでも歯を食いしばってしゃんと背筋を伸ばし、客席に向かって頭を下げると、歓声とともに拍手がジナコへと降り注いできた。妙に照れくさくて、顔にかっと熱が集まるのを感じる。誤魔化すように笑みを浮かべながら顔を上げると、決して多いとは言えない客たちがそれでも各々が席から立ち上がって拍手をしているのが見えた。

 そんな中、俯いたまま席に縛り付けられているかのように動きのない男が、一人だけ。

 長い前髪に隠れているせいで、ジナコのいる位置からその下の表情を窺い知ることはできなかった。微かに肩を震わせているように見えなくもないが、それが何の感情によるものなのかは定かではない、
 カルナはどんな思いでこの演奏を聴いてくれていたのだろう。自分の思いは、少しでも彼に伝わったのだろうか。
 ジナコは一抹の不安に駆られながら、ステージを降りて彼の前へ向かう。その間、彼は隣に座っていたアシュヴァッターマンに促されてのろのろと己の席から立ち上がっていた。今度はカルナのほうが壊れかけのロボットのような状態になってしまっている。
 ジナコは小さく肩をすくめながら、そっと彼の顔を見上げた。カルナは自分の片手で顔を覆うようにしているため、相変わらずどんな顔をしているのかさっぱりわからない。

 ぽたり――と。
 細く白い顎を伝って、雫が一つ零れ落ちたのが見えた。

 それが何かの呼び水になったかのように、次から次へとそれは溢れて床へ向かって落ちて、上質な床の上へと落ち、点々と染みを刻んでいく。アシュヴァッターマンやアルジュナが、そんな彼の姿を驚いたように目を見張りながら見つめていた。
 相変わらず顔を覆っている白い手がほんの少し震えているのに気が付かなかったふりをして、ジナコはわざとおどけた調子で彼に話しかける。

「ふふん、どうだったッスか~ボクの渾身の演奏は! 是非とも感想を聞かせて欲しいッスね」
…………不愉快だ」

 この場にいるあらゆる人が、ぎょっとして息を呑んだ気配が伝わってきた。何を言い出すんだと、きっとほとんどが彼にそう言いたいと思っているに違いない。
 そんな中、ジナコだけが動揺を見せずに、相変わらずぽろぽろと泣いているカルナをじっと見つめていた。そりゃそうだろうなと、ざわつく周りの声を遠くに聞きながら思っていた。この状況でいきなりこんな言葉を口にされてしまったら、そりゃあ誰だって大なり小なり驚くに決まっている。
 ジナコが驚かないでいられるのは、彼がまだ己の内側に言葉を隠していると知っているからだ。きっと彼の中で色んなものがいっぱいになってしまっているのだと。しかしそれを加味してもやっぱりこの人は言葉の選び方がちょっと特殊というか、へたくそというか、何というか。

「あー、もう! それじゃわかんないッスよ。……ねえ、カルナ」

 ジナコはそれを確かにわかっていた。きっとこの場にいる誰よりも理解していたけれど、敢えてその先を口にして欲しいとカルナに乞うた。俯かせた顔を下から覗き込むようにしながら、ゆるやかに笑う。
 だって、全部わかっているからと受け止めたつもりになるのは簡単だけれど、それはどこか諦めや拒絶にも近い行為だ。結局彼と自分は他人なのだから、本当の意味でわかり合うためには言葉を交わすしかない。
 どんなに言葉を労したところで全てが通じ合えるわけではないと知っていても、足りない部分をうまく埋めることができずに余計に拗らせることになってしまうかもしれないけれど、でもそうありたいと努力したこと自体は、きっと絶対に無駄にはならないと思うから。

 そしてそれ以上に、ジナコがカルナの口から直接聞きたかったのだ。彼がどう感じ、何を求め、そして今何を思って泣いているのかを。

 そうしてカルナは顔を手で覆ったまま、訥々とその心の内をジナコの前で零していった。ぱらぱらと、相変わらず落ちていく綺麗な涙の粒と一緒に。

……オレは、悔しい。悔しいんだ、ジナコ」
「うん」
「ジナコの音を、磨き上げるのは、未来永劫、オレ一人の役目だ。少なくとも、お前と出会った後からは、ずっと、そのつもりだった。そんな傲慢な、ことを、オレはずっと、信じて、疑わなかった。心から思っていて、それが揺らぐことはないと、思っていたんだ。……ジナコの音を、最も理解しているのは、オレなのだと」
「うん」
「だが……それでも、今お前が聞かせてくれた音は、美しかった。オレが今まで聞いた中でも指折りだった。オレが初めてジナコの音を聞いたときと同じ……いや、それ以上に苦しく、それでいて熱い気持ちにさせられたほどに。でもオレは、それが、悔しい。悔しくてたまらない。嫌なんだ。ジナコの音は、オレだけのもの、だった、はずなのに」
……うん」
「だが、それでもオレは、心のどこかで、それを、喜ばしいと思っている。ジナコの音は、きっと、誰でもない誰かを、幸せにするから。……ジナコの音を待っている者が、確かに、いるはずだから」

 ずび、と顔を覆った手の平の向こうで、洟を啜る音が聞こえた。つっかえつっかえ、情けない声音で紡がれていく拙い言葉が、ジナコの心をじんわりとあたたかいもので満たしていく。まるで枯れた土に水が染み込むように。
 こういう感情に、人は「愛おしい」と名前を付けるのだろう。それはカルナと出会ってから、ジナコが確信を持って言えるようになったことだった。
 それにしても、せっかくのイケメンが顔を上げた瞬間鼻水だらだらなんて台無しである。そんな無防備な彼の姿を自分以外の誰にも見せたくない。

「あ~あ。何か、ボクも大概ッスねぇ」

 そんな欲張りな思考に自然と流れていってしまっている自分をくすくすと笑いながら、ジナコは肩をすくめてそっと踵を返す。とりあえず楽屋裏にティッシュかタオルかと取りに行こうかと思ったのだ。
 しかしジナコはその足を前へ踏み出す前に腕を掴まれ、ぐいと力強く引っ張り戻されていた。そうしてすぐさま、まるで周囲の目から隠したいとでも言いたげに勢いよく覆い被さってきたのは、自分よりいくらか体温の高い温もり。正体は見て確かめるまでもない。
 やれやれと肩を竦めながら、しかし素直に身を任せることにした。細く貧弱そうに見えて、実はきちんと筋肉がついている固くしなやかな腕の中に閉じ込められる。痛いくらいの力で抱き締められているのが、どうしようもなく心地よかった。それほどまでに強く、強く求められているとわかるから。
 耳元のすぐ近くでぐすぐすしている音が聞こえる。力を込めてすり寄ってくる様は、何だか飼い主に行かないでと縋ってくる大型犬を彷彿とさせた。

「ジナコ……ジナコ、ジナコ……ッ」
「は~いはい、ジナコさんは此所にいるッスよ~。まったくもう、いい年して急に甘えん坊になるのはやめるッス」
「急ではない。全く、全然、急ではないぞ、ジナコよ。オレはこうしたかった。ずっと、ずっと、こうしたかったんだ。……だが、キミがそれを、理解してくれていなかったから」
「あ~……うん、ハイ。それについては正直全く弁明の余地がありませんというか、誠心誠意謝罪をさせていただくことしかないというか、ジナコさんもピコッと反省してますよというか」
「そうだ、反省しろ」

 あからさまに責めているような言葉とは裏腹に、くぐもったその声には隠しきれないほど嬉しそうな色が溢れ出ていた。駄々をこねる小さな子供みたいな彼の姿が可愛くてたまらない。それでいて甘くて、くすぐったくて、熱のこもったため息が零れてしまう。
 しかしジナコがここでやろうと決めていたことはまだ終わっていない。寧ろここから先が本命だ。胸の内から込み上げたものをぎゅっと押し込めて、わざと何でもない風を装って声をかける。

「そうだ、カルナさん。ボクね、ちょっと聞いてほしいことがあるんスけど」
「何だ」
「この状態だと話しづらいし、いい加減恥ずかしいから、そろそろ腕を解いていただけませんッスか」
……承知した」

 辛うじて自由に動く手のひらでぺちぺちと腕を叩くと、カルナは不精不精といった様子でのろのろとジナコを解放してくれた。
 体を捻って彼と改めて向かい合うと、目と鼻がすっかり赤くなった顔と目が合って笑みがこぼれてしまう。不服ですと書いてあるみたいな顔が、あんまりにも可愛かったものだから。
 しかし今はその可愛さにほだされていていいところではない。口にするのは苦しいけれど、でも今ここで言わなくては。ジナコはなけなしの勇気をいっぱいに振り絞って、口を開く。


「アタシは……ううん。ボクはまだ、カルナさんとは、一緒には行けないッス」


 口にしたのは、確かに離別の言葉だった。

 嘘吐きな自分で何とか外を固めて、崩れ落ちてしまわないように取り繕う。

 カルナの鮮やかな朝焼けを宿したような瞳が、みるみるうちに見開かれていく。どうしてと、その震える唇がその言葉を発するより先に、ジナコは微笑んだ。
 これは確かにさようならだけれど、全てを手放す終わりの言葉とイコールではないから。
またいつかを約束する、互いを強く固く結ぶ誓いの言葉だから。

「ボクね、アルジュナさんにスカウト受けたんスよ。ピアニストとして生きていかないかって。いや~、ボクが病院で弾いてた姿をデスネ、勝手に撮って動画サイトに上げた人がいたんスよ。それが知らぬ間にめっちゃバズってたらしくて」

 ジナコ自身が顔も名前も知らない何処かの誰かの心に、ジナコの音は強烈に響いていたのだという。捕まえて離さず、虜にした。かつてカルナがそうさせられたように。
そうやってネットの海に放たれた音が、ジナコにとっては何者でもない誰かの心を癒していたのだ。
 アルジュナはネットで話題になっていたその動画をある日たまたま目にし、この女性はいつか必ず大きな花を咲かせると確信したらしい。そこで声をかけるべく、ずっと「動画の女」の消息を探していたのだが、手がかりは全くなく困っていたのだと。そんな折、突然兄から頼まれた面倒ごとに関わった結果、奇跡的にジナコに辿り着いたのだった。

 そしてアルジュナからジナコへと提案されたのは、自分の元で腕を磨き、ピアニストとして生きていく新しい人生だった。

 長く続けてきた今の生き方を変えられるものかと、もう新しいことに挑めるような若さも気力もない年齢になっているからと、ジナコは最初こそその提案を全力で拒否した。そんな輝かしい場は、きっと自分には似合わない。
 けれどカルナの隣に自信を持って立てるようになるために、きっとそれが一番ジナコ自身も納得できる方法なのではないかと思うようになっていったのだ。カルナのためにも、自分のためにも。
 悩みに悩んだ末、ジナコはアルジュナの提案を受けることにした。引きこもりからいきなり社交的にはなれないので、まずは段々と普通の生活に戻していくことから始めなくてはならないだろうが。

「しかしそれは、このままオレのそばにいても可能なのではないか」
「それだときっとボクが甘えちゃうから駄目ッス。せめて今まで頑張ってこなかった分くらいは、ピコッと一人で頑張ってみたいかなって。それで、私が胸を張れるくらいの私になれたら、そのときは自分の足でカルナの隣に行きたい」

 おんぶに抱っこの状態で彼に連れて行ってもらうことも出来ただろう。けれどそれではどうしても嫌だった。カルナがどうと思っているかとか、そういうのは一切関係ない。
これはジナコが自分の意志で決めた、ジナコ自身の勝手な我が儘だった。

「カルナが好きだって言ってくれた音を、ちゃんと大事に出来る自分になりたいの。だから、それまでちょっとだけ待っててほしい」

 お願い、と日の出の時間の空を閉じ込めたような色の瞳を、じっと覗き込む。
 とてもずるい約束だとはわかっている。けれどカルナだってきっとわかってくれるはずだ。
 最後のほうには振り絞った勇気もすっかり枯れ果てていた。固く深く被っていたはずの気丈な仮面は、突き上げてくる寂しさにぼろぼろと崩れていった。そうして思い切り湿っぽい声音になりつつあったジナコの言葉を、カルナは一つも零すまいというように聞き入っている。ジナコの言葉を噛みしめている。
 ジナコの我が儘でしかない一方的な約束を聞いたカルナは、一体何を感じたのだろう。

……承知した。それが、キミの心からの望みだというのならば」

 カルナはやがて小さく、けれど確かに頷いてくれた。
 カルナは人の嘘に敏感だが、だからこそ心から出た真の言葉を一方的に否定することは絶対にしない。それを知っている上で持ちかけた約束だから、やっぱりジナコは狡いのだ。
けれどカルナは、きっとそんなジナコの狡さも全て理解した上で、望みを受け入れると言ってくれたに違いないから。
 そうしてカルナはジナコの眼前でそっと跪いた。何事かと目を白黒させていると、唐突にそっと取った手の甲に口づけを落としたのである。あまりにも突然のことで、ギャアッと到底乙女らしからぬ野太い悲鳴を上げてしまった。何だかんだあってこのコンサートに招待させてもらうことになった、前述のメッセージをくれたジナコのリア友が観客席の後ろのほうから上げた悲鳴のほうが、まだもう少し女子らしさがあったと思う。
 顔を真っ赤にして、あうあうと意味をなさない言葉を戦慄く唇から零すことしかできない機械になってしまったジナコに、カルナはどこかすっきりした顔で微笑んだ。泣いていたせいでちょっと目鼻が腫れぼったくなっているのに、それでも美男子だと断言できそうな顔のままなのは本当に凄いと思う。いっそ感動すら覚えてしまう。
 そしてカルナはそんな、姫に傅づく王子様のような状態で、甘ったるい声で歯が浮くようなことをジナコに言うのである。しかも、繋いだ手から刷り込ませるかのように。

「幾星霜を経ようと、オレはただキミを待ち続けると誓う。キミがオレの元へ来てくれたならば、たとえそれが久遠の時の先であろうと、刹那に感じることだろう」
……あのさ。何で普段は言葉足りてないのに、こういうときだけ妙に言葉費やしてくれちゃってんスか。こっぱずかしい」
「安心しろ、キミにだけだ」
「ふ、ふーん、それは良かったッス。でも、じゃあボクは、この先離れてる間も浮気される心配をしなくてよさそうッスね?」
「要らぬ問答だな。そのような欺瞞に言葉を費やすことはない」
……うん、知ってる」

 痛みを伴ってしまうほどに真っ直ぐで、助けると言ったら何が何でも助けてくれそうなそんな人だと、ジナコはよくよく知っているから。
 そう褒めながら言うと、照れくさいのか頬を僅かに染めながら、嬉しそうに顔を綻ばせるものだからたまらない。

「ねえ、カルナ。――あの日、私を見つけてくれて、ありがとう」

 そうしてジナコは突き上げてきた衝動に身を任せ、再び世界で一番愛しい人の腕の中に飛び込んだのだった。