浮いて沈んでアンダンテ

ピアノ調律師カルナ×元ピアニストジナコの現パロ小説。捏造設定過多につき何でも許せる方向け。

※本編はpixivに掲載済みですが、本にのみ収録していた「番外編」と「エピローグ」を加えて全編まとめました。



【Giocosoジョコーソ



 あれからというもの、ジナコは時折、自分からピアノに触れるようになっていた。

 本当に、本当に時々である。
 やっていたゲームにちょうどよくきりがついて、一瞬の暇が出来てしまったときとか。或いは手近に常備してあるスナック菓子の類いの在庫がなくなってしまい、一階のキッチンに取りに行ったときとか。そういうときにふと思い立って父の仕事部屋に足を踏み入れ、適当に一曲弾いてみて、それからまた何事もなかったかのように自室へと戻るのである。
 そこに特別大きな感慨はなかったが、ピアノに触れていると何となく心がすっと透き通るような気がしていたのだ。長年ため込んでいた泥のように重い淀みが、少しずつ、本当に少しずつ、白と黒の鍵盤に触れた指から溶けだしていくような。

 ジナコが再びピアノに触れるきっかけとなった日の翌日、カルナは自分の道具を持ち込み、改めてジナコ宅のピアノを調律してくれた。
 そんなことを頼んでいないと慌てるジナコだったが、オレがやりたいんだと強引に押し切られてしまったのだ。そこまで言うなら好きにやってくれと、もはや恒例となりつつある『渋々了承しています』のポーズを取ったまま、つっけんどんな調子で返事をしたが、声が若干震えていたのは多分ばれていただろう。けれど彼が何も言わないでおいてくれたから、ジナコも知らん顔をさせてもらうことにした。

 そうしてカルナが完璧に磨き上げ直してくれたピアノの音は、確かにジナコの心を癒やしてくれていた。

 少し前までは見るのも恐ろしかった、モノクロの鍵盤。けれど今は本当に少しずつだけれど、それに向き合うのが怖いと感じることがなくなってきている。何も考えずに自分だけの世界に飛び込める心地良さを、心踊る感覚を、カルナのおかげでちょっぴり思い出せたから。
 あの白と黒を目の前にしたときに、冷たくなった父と母の姿が完全にフラッシュバックしなくなった、というとまだ嘘がある。けれど以前はこうやってピアノを弾くどころか、遠くから眺めることすらできなかったのだから、それだけでもきっとものすごい進歩なんじゃないかと思うのだ。海牛のような、蛞蝓のような、人から見れば進んでいるのかどうかすら分からないような緩い速度での前進ではあるのだろうが。

 そしてジナコがそうして気まぐれにピアノを弾いているとき、カルナがたまたまそこに居合わせることもあった。

 完全に気の向くままのタイミングで弾いているから、当然毎回というわけにはいかない。といってもジナコは己がピアノに触れる時間を、彼が家に訪れる時間に意図的に合わせることも、逆に避けることもしなかった。あくまでも、タイミングが合えば勝手に聞いていてくれて構わない、というスタンスである。
 カルナもそれをわかっているのか、自分のほうからピアノを弾いてくれと強く求めてくることは一切なかった。ただただ静かに、鍵盤に触れるジナコの隣で、その様子をじっと眺めているだけである。
 そうして二人きりの演奏会が終了すれば、何事もなかったかのようにいつも通りの会話が開始されるのだ。本日の夕食の献立の話だとか、相変わらず部屋が片付いていないことに対するお小言だとか、カルナの職場であったことだとか。そうして互いにとりとめのない話をして、時間が来ればカルナは「またな」と言い残して帰って行く。今までどおりの流れだった。

 そう、カルナの態度があんまりにも今までどおりなものだから、ジナコは内心非常に戸惑っていた。
 あの日、帰り際に突然抱きしめてきたのは、蕩けるような瞳でこちらを見下ろしていたのは、一体何だったのかと。

 カルナが自分からそのことについて口にすることは一切なかったし、ジナコも問いただすことはしなかった。できなかった、と言う方が正しいかもしれない。
 とにかくジナコは、未だに彼の真意を知ることが出来ずにいた。何がカルナさんマスターだ。全然理解できていないじゃないか。つい数日前の調子に乗った自分を殴り倒してやりたい。それでもわかると宣うならば、今この場に引きずり出してやるところだ。

 もしかしたらあれは、ジナコが見た都合の良い幻覚か夢だったのかもしれない。
 ずっと二次元でしか触れることがなかった、そしてこれから先も永遠に自らの心から生まれることはないと思って「恋」という感情。それを突然得て、自覚して。その上、そんな相手から自分がずっと触れることがなかった、他人のぬくもりを与えられて。多分そのせいで、頭のどこかのねじが抜けてしまったのだ。
 拍子抜けを続けたジナコは、やがて自分に言い聞かせるかのように、そう考えるようになっていた。

 だってジナコは既に自分を納得させてしまっている。この恋がきっと叶わないことを。
 冷たい土を押し破って顔を覗かせた芽は、しかしそう遠くないうちに無様に枯れてしまうのだろう。大輪の花を咲かせることはきっと、永遠にない。

 片や、エリート企業でその腕前を買われ働いている、すれ違いざまに誰もが振り向くであろう絶世の美男子。
 片や、人生の全てを棒に振って引きこもりを続けている、悲しきアラサーのニート(しかも腐っている)。

 思いを通じ合わせたいとどんなに強く願ったところで、カルナとジナコは住む世界があまりにも違いすぎるのだ。世界は王子様とそれにふさわしいヒロインとが結ばれるように出来ているので、NPCがどんなに手を届かせようと努力したところで決して結ばれないのである。
 現状二人の間にあるのは、カルナがジナコに対して抱いているであろう興味や関心を失えば、そうして彼がこの家に訪れるのをやめてしまえば、そこで終わってしまうだけの軽く浅い関係だ。以前からずっとそうだったし、それは今も、そしてこれから先もずっと変わらない。勝手に変わってしまったのは、ジナコの心だけだった。
 それでも、いつかくる終わりのときについて考えるのはひどく恐ろしかったから、なるべくそちらへは思考を回さないことにしていた。今、彼とこうして過ごしている何でもない穏やかな日常を、素直に享受していたかったから。
 身の程も知らずうっかり恋をしてしまった相手が、自分と同じ気持ちを持っていないとしても、己の時間を割いてジナコの側にいてくれる。それだけで十分だったのだ。
も しこれ以上を望んだら。欲しいと、手を伸ばしたら。今得られている泡沫の幸福すら、きっとたちまち手から滑り落ちて消えてしまう。何となくそんな確信があった。
 幸せとは、普段考えているよりも簡単に手から滑り落ちてしまうのだということを、ジナコはよくよく知っていたものだから。


     ♪ ♪ ♪


 さてそんな風に、カルナとの進むこともなければ後退する事のない関係を、ぼんやりと 続けていたある日のこと。
ジナコは現在、とある病院の待合室に座っていた。

 ここら近辺で一番大きな病院であるが故か、先ほどからジナコの目の前には老若男女、様々な人が絶えず行き交っている。自分で言うのもアレだが、体重が平均を上回っている事以外はそれなりに健康を保って暮らしてきたジナコは、この場所独特の雰囲気を久々に味わっていた。何というか、居心地が悪くてどうしてもそわそわしてしまう。

 さて、そもそも何故ジナコがこんなところにいるのか。
 それはカルナが入院したという一報を、アシュヴァッターマンから受けたからだった。

 その電話を受けたときのジナコの動揺っぷりといったらない。「カルナが今日から入院する」という最初の言葉を聞いた以降、頭が真っ白になってしまったのである。がたがたとスマートフォンを握りしめる手が震え、頭から血の気が引き、足下からすうっと全身が凍り付いていくような感覚。

 どうして、何で。カルナさんに一体何が。

 まさかまた無理をして倒れてしまったのか。先日倒れたとき、アシュヴァッターマンは大丈夫だと言っていたけれど、それでもあんなに苦しそうだった。それが今回は入院するほど悪いって、一体どうなってしまっているのか。まさか今度こそ、命に関わるような危ない状態になっているのでは。カルナが、死んでしまうのではないか。
 そんな風に次から次へと悪い予想ばかりが噴き出してきて、ジナコはスマートフォンを握りしめながら、またしてもみっともなく泣きじゃくってしまったのである。アシュヴァッターマンもまさか、同じ女に二度も電話口でべそべそ泣かれるとは思わなかっただろう。向こうで相当慌てていたので、本当に悪いことをしたと今では思っている。
 さて今回のカルナの入院について、冷静さと失って泣きわめくジナコに、アシュヴァッターマンは噛んで含めるようにして説明してくれた。
 なんでも今回、カルナは定期的に行っている検診を受けるために、数日間入院する必要があるのだという。つまり結論を言ってしまえば、ジナコが危惧するようなことは何もないということだった。
 ちなみにアシュヴァッターマンがジナコへ連絡を入れたのは、カルナが前々から決まっていた検査入院のことをジナコにすっかり伝え忘れていたため、その旨連絡を入れておいて欲しいと頼まれたからなのだという。
 病院内で携帯電話は使用できない。しかしすぐにでもジナコに連絡しなければ、きっと心配させてしまう。しかしただの検査のためだけとはいえ入院中の身、病院を抜け出して電話をすることも出来ない。
 そんなことをぶつぶつ言いながら、病室で一人悶々としているカルナを見かねて、アシュヴァッターマンのほうからジナコへ連絡を入れる旨を提案したのだという。
 なるほど、流石ジナコが見込んだとおりの「デキる男」である。彼氏に欲しい。ほっとした反動で冗談めかしてそう言ったら、またしてもなんとも言えない微妙な答えが返ってきた。うん、別に泣いてない。

 そういうわけで、安堵の気持ちと、入れ替わりに湧き上がってきたとんでもない羞恥のせいでその場に座り込んでいたジナコ。そんな自分に対して、アシュヴァッターマンはからりと言ったのだ。
 よかったら暇を見つけて見舞いに来てやれ、と。

 彼のそんな提案に、ジナコはぽかりと口を開けたまま、そのままたっぷり数秒間固まってしまっていた。
 ジナコの普段の生活上、暇な時間などわざわざ探すまでもないので、そこに関しては特に問題は生じない。けれど見舞いに行くということは、当然自分から外へ出なくてはならないということだ。普段の必要最低限の買い物のために出かけるのとはわけが違う。
 それにたった数日ぽっちの検査入院だというのなら、特に急いで顔を見に行く必要もない。だって退院したらまた今までどおりに家にやってくるのだろうし。そう、たった数日会えないというだけだ。
 いつもならばそんなことを言って一蹴していたであろう誘いに、しかしジナコは気が付けば了承の返事をしていた。このままだともうしばらくカルナに会えなくなってしまうと、少しでもそんな思いが頭を過ぎってしまったら、もうだめで。

 こうしてジナコは十数年ぶりに自ら電車に乗り、カルナがいるという隣町の病院までやってきたというわけだった。

 ちなみに今待合室でぼんやりしているのは、アシュヴァッターマンと待ち合わせをしているからだった。彼は今日、仕事を中抜けしてこちらへ寄る用事があるらしく、それならば時間を合わせて一緒に行こうとジナコのほうから提案したのである。
 とはいえ本音を言うと、一人で会いに行くのが何となく気まずいような感じがして、ついでに連れてきてもらったんですよという体を取りたかったのかもしれない。相変わらず名前のつかない関係を続けているカルナに会いに行くのに、何となく理由というか、建前が欲しかったのだ。会いたくてたまらないと思っているなんて、例え天地がひっくり返っても口にするものか。それにしても、アシュヴァッターマンが深く理由を聞かず、二つ返事で了承してくれたのは大変助かった。
 久しぶりの遠出であることに鑑み、迷ったりトラブルがあったりしてもいいようにと早めに家を出たのだが、そのままスムーズに来られてしまったせいで随分時間を持て余してしまっている。時計を見れば、待ち合わせの時間まであと一時間近くはありそうだった。

「うーん、どうしたもんスかね」

 とりあえず電車に揺られ続けて疲れていたから腰を下ろしていたものの、あと一時間ずっとこのままというわけにもいくまい。どこか別の場所へ移動しよう。大きな病院だし、院内にも見舞に来た客が入れるカフェか何かくらいあるだろう。
 よっこらせ、と知らずしらず年寄りくさいかけ声を出してしまった己に若干落ち込みながら、ジナコは待合室を後にした。

「えーと、地図地図~、地図はどこッスか~……って、あれ?」

 院内の案内図は何処だろう。廊下をうろうろしていたジナコは、ふと耳慣れた音にはっと足を止めた。

「ピアノの音……?」

 そう、これはピアノの音だ。
 しかし、具体的に何かの曲を弾いているというわけではないらしい。ただポロン、ポロン、と鍵盤を押している音が不定期に響いてくるだけだ。

「こっちかな?」

 何となく気になって、足がそちらに向いていた。音を頼りに廊下を進んでいく。
 やがて辿り着いたのは、院内のレクリエーションルームだった。そこにはやはりピアノが置かれており、その前には一人の少女が座っている。白いワンピースを身にまとった銀髪の彼女は、何やら寂しそうな顔でピアノに触っていた。

「あれ、おねえさんだぁれ?」
「へ?」

 と、少女が突然顔を上げ、ジナコの方を見つめてきたのだ。
 まさか声もかけないうちから気付かれると思っていなかったジナコは、少女の問いかけに素っ頓狂な声を上げてしまった。他には誰もいないのに辺りを見回し、「ぼ、ボク?」と自分を指さす。少女はこくんと頷き、ピアノの椅子から降りてジナコの方へやってきた。

「ねえ、あなたはだあれ? 病院の人……じゃないよね。どうかしたの?」
「えーと、ボクはその、ピアノの音が聞こえたから、それで、気になったっていうか。えっと、何て言えばいいッスかね」

 ピアノの音が聞こえたので、それに誘われてふらふら来てみました、なんて不審者めいた回答をするわけにもいくまい。とはいえ事実としてそれ以外答えようがないのだからどうしようもない。
 もたもたと微妙な答えになっていない答えを口にしたところ、「ピアノ」という単語を聞いた瞬間、少女はぱあっと顔を輝かせた。猫を思わせる大きな目を見開いて、ジナコの顔をじいっと見つめてくる。それはまるで、それこそ面白そうな玩具を見つけた子猫のようだった。

「もしかしておねえさん、ピアノが弾けるの?」
「え? えっと、それなりには?」
「わあ、ほんとに!? やったぁ! ね、弾いて弾いて! こっちきて!」
「ちょっと待っ、ってナニコレ力強イデデデデデ!」

 そうして少女に手を引かれ、ジナコはあれよあれよという間にピアノの前に座らされてしまった。

「ちょ、待ってってば! 何でそんなにピアノ聞きたいんスか?」
「あのね、いつもはおかあさんが弾いてくれるの」
「お母さん?」
「うん」

 お母さん。

 その言葉を口にした少女は、先ほどまでとは打って変わり、どこかしょんぼりした様子でそう言った。
 どうやら彼女はこの病院に長いこと入院しているらしい。そして足繁く見舞いに来てくれる彼女の母親が、いつもここでピアノを弾いて聴かせてくれるのだそうだ。そしてこの少女は、その時間をいつもとても楽しみにしているのだと。
 けれどここ数日は母親の仕事が忙しいせいで、なかなか見舞いに来られない日が続いているらしい。そこでせめて寂しさを紛らわそうと、彼女は初めてこの場所に一人で足を運んでみた。しかしピアノの前に座ったはいいものの、少女はただ闇雲に鍵盤を押すくらいしか出来なかったため、余計に寂しさが募ってしまい、どうしたものかと一人で途方に暮れていたのである。そんなところに、ちょうどジナコがやってきたのだそうだ。

 でも、そんな、急に弾けだなんて言われても困る。ジナコが家で一人、自分のためだけに弾いているのとはわけが違うのだから。

 それにジナコのピアノなんか聞かせたら、もしかしたらこの少女も不幸な目に遭わせてしまうかもしれない。呪いのピアノはいまだに健在かもしれないのだ。馬鹿げていると笑い飛ばされそうな、有り得ないと自分でも花で笑い飛ばせそうなそんな考えが、それでも頭の端にこびりついたまま離れていってくれないのである。

 どうしよう。何か理由をつけて、うまいこと断れないだろうか。

 そんなふうに悶々と後ろ向きなことを考えていたジナコの脳内に、ふとあの日のカルナの声が蘇ってきた。

 ――オレは、お前の音を知っている。

 聞いた人を不幸にさせると忌み嫌ってきたジナコの曲に、酷く眩しいものを見たのだと言った彼。
 美しいと、心の底からそう感じたという音に、少しでも近付きたくて、己の手で直接触れたくて。
 そのために、今日までこうやって生きてきたのだとまで言ってくれた、傍から見れば変な男。

 あの言葉は正直、自らピアノに触れられるようになった今となっても、ちゃんと受け入れきれているとは言い難い。だって、自分のピアノの音はそんな大層なものじゃないから。それどころか、聞く人を不幸にするかもしれない呪いの音だ。
 けれど彼は、それをめいっぱい慈しんでくれた。いつも静かに耳を傾け、噛み締めるように味わってくれていた。まるで、自分は今これを聞いているからこそ幸せなのだと、そんなことすら言いたげな顔をしながら。

……ボクは、きみのお母さんじゃないッスよ。それでもいいんスか?」
「うん、いいよ。ほんとはおかあさんが一番だけど、今はいないんだからしょうがないもん」

 お願い弾いて、と必死な顔で手まで合わせてまで乞われて、ジナコはとうとう白旗を上げることにした。

 大丈夫。こうして弾くことを望まれて、ジナコはただそれに応えているだけ。だからきっと、多分、大丈夫なはず。

 心の中であれこれと言い訳をしつつ、ジナコは鍵盤の上に手を添えた。
 さて、弾くための気持ちを整えることができたところで、演奏する曲は何がいいのだろうか。そこでジナコは、一応少女にリクエストはあるかと尋ねてみることにした。とはいえおそらく具体的な要望はないだろうし、適当に「猫ふんじゃった」でも弾いておこうかと思っていたのだが。

「ええとね……トロイ、メライ? っていうんだっけ。うん、それがいいなあ」

 しかしそんな予想はすっかり裏切られ、少女からは思いのほか明確な答えが返ってきた。何でも彼女の母親がよく弾いてくれるのがその曲らしく、ここでもよく聞かせてくれたのだとか。

「でもおねえさん、トロイメライを知ってる?」
「一応は……
「それってだいじょうぶ?」
「モーマンタイッス!」

 曖昧な答えを返したジナコを見て、不安げに表情を曇らせる少女。それを見て、ほとんど反射的に大丈夫弾けるはずだと力強く頷いて見せたものの、正直なところ、脳内の奥底にある引き出しから引っ張り出してきた楽譜は随分と曖昧なものになってしまっていた。
 トロイメライは偶然にも、かつてジナコへの課題として先生から出されたことのある曲だった。おかげさまで幾度も練習を繰り返し、何かの発表会で弾いた曲でもある。残念ながら、それも随分と昔の話なのだけれど。
 恐らくではあるのだが、まあ何とかできるだろう。だってここは別に発表会やコンクールの場ではないのだし、全部を完璧に仕上げた究極の演奏などを目指さなくてもいいわけで。記憶が曖昧になってしまっているところは、適当に上手いことアレンジしてしまえば乗り切れるはずだ。
 この少女も恐らく、ジナコがミスもなく完璧に弾けているかどうかなんて気にはしないと思う。もし正確無比な演奏を求めるのであれば、CDなどの記録媒体に入っているプロが演奏してた音源を聞けばいい話である。しかし今この少女が己の寂しさを埋めるために必要としているのは、ただ紡がれる音そのものではなく、誰かに自分のためにピアノを弾いてもらうというという行為そのものなのだ。

「オッケー。じゃあそこらへんでテキトーに聞いててくれッス」
「はぁ~い!」

 少女は学校で発言する際のように、ぴしっと綺麗に挙手しながら元気よく返事をし、レクリエーションルーム内にあった椅子をピアノの側まで引きずってきた。膝の上に手を乗せてきちんと座って、ジナコの演奏が始まるのを今か今かと待っている。「わくわく」という擬音がそのまま聞こえてきそうなくらいの様子だった。
 注がれる眩しい視線に若干尻込みしつつ、深呼吸をしてから改めてピアノに手を添える。そしてゆっくりと、紡ぎ出す音をこの部屋の空気の中へと沁み込ませるように、鍵盤に指を沈ませていった。

 トロイメライ。
 十三の曲からなる『子供の情景』のいうピアノ曲集の中の一つである。『夢』という意味で、『子供の情景』の中では最も有名な曲なのではないだろうか。

 それにしても、子供に聴かせるにしてはずいぶん変わった選曲だ。もっとリズムが早くて楽しくて、思わずぴょんぴょんと跳ねて踊りたくなるような曲の方が、子供には合っている気がするのだけれど。元々この『子供の情景』は子供向けに書かれた曲というわけではなく、「大人が子供の頃を思い出す」的な、そういう安らかでノスタルジックな意味を持つ曲なのだと聞いたことがあるし。
 けれど彼女の母親にとって、もしかしたらこの曲は何か思い出深いものなのかもしれない。自分の子供に幾度も聞かせたくなるような、何かの強い思いが込められているとか。楽器を演奏するとき、それを弾く人間によって曲がその人のものに変わるように、聴く人によっても大きくその色を変えたりするものだから。
 少女の母親の思いを、その演奏を聞いたことがない赤の他人であるジナコが完璧に汲み取り、それを表現することはできない。

 だからせめて、今のジナコの気持ちをめいっぱい詰めて、彼女に贈ることにした。どうか彼女が楽しい夢を見られますように、と。

 ずっと病院に入院していると言っていたから、彼女は恐らく何か重い病気を患っているか、或いは深刻な怪我を負っているはずだ。小さな体では抱えきれないほどの痛みを、苦しみを、彼女は独りぼっちで背負い続けているのだ。
 だったらせめて、眠りの中で見る夢くらいは、彼女にとって優しく、そして楽しいものであってほしい。自分にできることは、音を紡ぎながらそう祈ることくらいだから。

「はい、おしまいっスよ~……って、うええっ!?」

 そうして一通り演奏を終え、ふうとため息を吐いて少女の方を振り向いたジナコは、そこにあった光景にうっかり椅子から転がり落ちそうになってしまった。
 さっきの少女が、手が痛いんじゃないかというくらい一生懸命手を叩いて、すごいすごいと目を輝かせている。それはいい。ありがとう、可愛い。お姉さんの穢れた心がみるみる浄化されていくのを感じる。

 しかし今この部屋の中で響いている拍手の音は、彼女一人分ではなかったのだ。

 二人、三人どころではない。ぱっと見ただけでも十数人がジナコの周りを囲んでおり、明るい顔でジナコに向けて拍手を送っているのである。一体どうして、そしていつからこれほどの人が、ここでジナコの演奏を聴いていたのだろう。

「ありがとう、すごい演奏だったわ!」
「お嬢さん、もしかしてピアニストなのかい? とっても上手だったぞ!」
「オレ、音楽の難しいこととか全然わかんねーけど、何かぐっときちゃった~!」
「聴かせてくれてありがとう!」
「え、え、うええっ?」

 わっと群がってきた人たちが、口々にジナコの演奏の感想を述べてくる。
 これほど多くの人間から視線を、言葉を浴びせられることが久しぶりすぎて、ジナコはすっかり頭が真っ白になってしまった。ぱくぱくと口をしきりに開閉させるが、一向に言葉らしきものが吐き出されることはなく。

「えっと……なんか、ごめんね? おねえさんが演奏を始めたら、いつの間にか人がいっぱいきちゃってたみたいで」

 最初にジナコに演奏を頼んだ少女が、少し困ったように笑いながらそう言った。何でも、少女も夢中で演奏を聴いていたため、この事態に気が付いたのが実はついさっきのことなのだと。
 自分の演奏に惹かれた人が、こんなにもいるだなんて。唐突にそんなことを言われても信じられない。けれど目の前にいる人たちは紛れもない現実だ。一体どうしてこんなことに。
 入れ代わり立ち代わり握手を求められ、流されるままそれに応え続け、贈られる賞賛の言葉に目を回して。
 そうして全員がレクリエーションルームを後にした頃には、ジナコはすっかり全身から力が抜けてしまっていた。あわや床に座り込んでしまうかというレベルだ。辛うじて、さっきまで腰かけていたピアノの椅子の上に落ち着くことができたけれど。
 そうして最後に、初めに弾いてくれと頼んでくれた少女が上機嫌でレクリエーションルームから出ていくのと入れ替わるように、二人の男が部屋に入ってきた。

「いやあ、アンタの演奏ってすげーんだな。大人気だったじゃねーか」

 降ってきたのは聞き覚えのある声で、ジナコはのろのろと亀のように顔を上げた。そこに立っていたのは予想通りの人物と、それから。

……ジナコ」

 何故かほんの少し不機嫌そうに顔をしかめている、今日自分が会いに来たその人だった。はっきりとわかるくらいむすっとしているカルナの顔が何だか珍しくて、ジナコは首を傾げてしまう。

「え、アシュヴァさんとカルナさん? どーしたんスか、こんなとこで」
「あん? どうしたとはご挨拶だな。アンタが約束の時間なのに待合にいやがらねーからわざわざ探しに来たんだろうが。メッセージ飛ばしても既読すらつかねえし」
「え? そんなバナナ……って、うっわマジだ! いつのまに!」

 アシュヴァッターマンの言葉に慌ててポケットから端末を取り出してみれば、メッセージアプリの通知がいくつも画面に表示されていた。夢中になって演奏していたし、病院だからと完全に音もバイブも消えるマナーモードに切り替えていたせいか、連絡がきていたなんて全く気が付かなかった。約束の待ち合わせの時間がすっかり過ぎてしまっていたことも。
 話を聞けば、連絡がつかないことを心配したアシュヴァッターマンが、まずは病院内を探してみようと歩き出したところ、ピアノの音――ジナコの演奏を耳にしたため、慌ててこちらにやってきたのだという。そしてそこにはたくさんの人に囲まれて演奏するジナコと、なぜか少し距離を取って聞き入っているカルナの姿があったのだと。
 ジナコを探して歩き回っていたアシュヴァッターマンはともなく、何故入院中であるはずのカルナがこんなところへいたのか。そう問えば、彼は相変わらず少しむすっとした顔で、

「オレも待合へ向かう途中で、お前の演奏が耳に入ってきた故、先にこちらへ足を運んだ」

 と答えた。
 もしかしたらアシュヴァッターマンが見舞いに来る話は聞いていて、それで出迎えに行こうとでもしていたのだろうか。オレがジナコの演奏を聞き間違えるはずがない、お前のものだとすぐにわかったと断言されて、どういう顔をしたらいいのかわからなくなってしまう。
 しかしそれはそれとして、彼が若干機嫌を損ねている理由がさっぱりわからない。ジナコが何かしてしまったのだろうか。
 いや、彼に対してはまだ何もしていない。断言できる。病院へやって来て、待合室でぼーっとしていて、でも居心地の悪さに耐え切れなくてふらついて、それからここでピアノを弾いていただけだ。ほら、彼が怒るような点はどこにもなかろう。
 とりあえず理由がはっきりわからないことについてはひとまず置いておくとして、先にアシュヴァッターマンに謝らなければ。仕方なかったとはいえ、何の連絡もせずに約束を反故にしてしまったのだから。

「いやその、面目ないッスアシュさん。ちょっと色々あって可愛いロリに可愛い声で懇願されて、つい断るに断れなかったって言うか。あれを断るなんて人間のすることじゃないッスよ」
「そこでキリっとすんな、何か無性にイラっとくるから」
「あははは~。えっと。それでカルナさんは、何でさっきからそんなにぶすくれてるんスか? ボク、カルナさんに怒られるようなことは何にもしてないッスよ」
「? オレは、何かおかしい顔をしているか」

 何故かむすっとしたまま黙っていたカルナだったが、どうやらジナコに指摘されて初めてそれを自覚したらしい。虚を突かれたような顔をしている。
 そうして唇を引き結んでしばらく考え込んだのち、らしくもなくぼそぼそと言葉を紡ぐのだ。

「その……お前の音が素晴らしいものだということが、オレ以外の人間が知るのは良いことはずなのだ。大勢に認めてもらい、賞賛を浴びるお前を見るのは確かに誇らしい。だが……すまない、心の底から素直に喜べそうにない」
「オウ、何だ何だ? お前まさか、自分だけが独り占めしたいってことか? わはは、お前も欲深いことを言うようになったもんだな~!」

 アシュヴァッターマンはけらけらと快活に笑いながら、今度はカルナの髪の中に手を突っ込み、わしわしと乱雑な手つきで搔き回していた。やめろと困った顔をしているカルナの顔は、ジナコの気のせいでなければ、ほんのりと赤らんでいるように見える。
 なるほど、彼もこんな風に照れたりするのか。そして羞恥を覚えているということは、つまりアシュヴァッターマンの指摘が図星だったというわけで――

「~~ッ!?」

 今度はジナコのほうが顔を赤くする番だった。
 気取られたくなくて顔を背けたけれど、髪をぐしゃぐしゃにされ俯きながら手櫛で直しているカルナはまだしも、こちらをにやけながら見ていたアシュヴァッターマンにはきっとばれてしまっている。

 だってそんな、独り占めしたいって、なんだ。いやほんと、何なんだそれは。つまりカルナは嫉妬をしていたということなのか。

 当然それはジナコ本人についてではなく、ジナコが奏でる音に対しての話である。それでも生まれて初めて心から好いた男が、一部分であるとはいえ己のことを大切にしていて、誰にもとられたくないと思っているだなんて聞かされてしまったわけだ。正気でいられるはずがなかった。

「ところでジナコよ、何故お前が病院などにいる。日毎増え続ける贅肉の加重に、とうとう足か腰かが耐え切れなくなったのか? 整形外科はこことは反対側だ、案内するからすぐに行こう」
「相変わらず失礼千万フルスロットルで草」

 しかしいくらイケメンでも、これじゃ百年の恋も冷めるというものだ。すっかり惚れている上に、これが本気で心配しての言動なのだと理解してしまっているジナコは、こんなことでカルナを嫌いになれたりしないのだけれど。けれどお陰様で少し冷静さを取り戻せたので結果オーライとしよう。
 やれやれ、とため息をついて肩をすくめていると、アシュヴァッターマンが眉間に皺を寄せながら口を挟んできた。

「カルナよォ。てめえの見舞いに来てくれた女に対して、その発言はどうなんだ?」
「オレの、見舞いに? ジナコが?」
「そうッスよ、悪いッスか。カルナさんのお見舞いのためだけじゃなくて、わざわざボクに連絡くれたアシュヴァさんに直接会ってお礼がしたかったってのもあるけど……ああもう、そんなレアモンスターを見つけたみたいな目でこっちを見るのはやめるッス!」

 カルナのアイスブルーの目が、めいっぱい見開かれながらジナコを凝視してくる。そうしてジナコは彼の射貫くよう視線に気圧されてか、うっかり投げつけるように叫びながら素直に肯定してしまった。ひええやっちまった、と後悔しながら恐る恐る彼の様子を窺う。

……そうか、そうなのか」

 カルナは丸く見張っていた目を柔らかく細め、微笑んでいた。とびきり優しい顔だった。ジナコが一瞬息を詰めて魅入ってしまうくらいには。
 そうして彼はふっと一つ吐息を零すと、あたふたして微妙な位置を揺蕩っていたジナコの手を握りしめた。冷たそうな見た目に反して存外あたたかい彼の手のひらの感触に驚いて、弾かれたように顔を上げる。嬉しそうに綻んだカルナの顔が、すぐ目の前にあった。
そうしてこちらに向けられているその顔は、あんまりにも幸せそうで、蕩けてしまいそうなくらい甘くて。
 何だかこっちまで嬉しくなってしまって、ジナコは何となく、胸の奥がきゅうっと締め付けられるのを感じていた。
 胸が締め付けられるようだ、などというのは、二次元の恋愛モノの描写なんかでよくある表現だ。けれど実際にそういう場面に出くわすと、本当にそうとしか説明できない感じがするらしい。知らなかった。
 カルナはジナコの手を、それはそれは尊いもののように握りしめながら、どこか恍惚とした顔でこちらを見下ろしていた。あんまりの喜びように、嬉しいとか照れくさい以前に何だか怖くなってきた。こんなしょうもないことでここまで喜べるなんて、この人の情緒は一体どうなっているのだろう。

「オレごときの身を案じて、わざわざ家から出てきたのか。それは御苦労なことだな。お前が自ら家を出るなど、天変地異の前触れかもしれない。明日の天気予報を確認すべきかもしれんが、今はその奇跡を素直に受け止めるとしよう。オレは今いたく感動しているぞ、ジナコよ」
「明日の天気は晴れだって今朝ニュースで言ってたから何も問題はないッス! ドーゾ安心してください! ふんだ、ジナコさんだってやればできる子ってことッスよ。これを機に見直すがいいッスよ」
「ああ、その通りだジナコよ。オレはお前に対する認識を改める必要があるようだ。お前は正しく泳ぎ方を心得たトドだったわけだな」
「その認識で一体何をどう改めたと宣う気なんスかアンタは?」

 相変わらず比喩の表現がいまいちよくわからない男である。彼としては、恐らくわかりやすいようにと気を遣っての言葉なのだろうが、そのせいで余計にややこしくなっている。その不器用さが悲しいというか、何というか。ちなみにここで「可愛い」と思ってしまうのは、あくまでジナコという個人がカルナに惚れきっており、初めての恋に乙女心が全開になっているからであり、つまりは例外的な感情だ。
 今だって、恐らく「トドは陸の上でこそ動きが遅いが、いざ水に入ればすいすいと早く泳ぐことができる。ジナコだって、動くべき状況の中で動くべき時はきちんと動ける生物だったと、今改めて知ったのだ」とでも言いたかったに違いない。褒めたのに、とでも言いたげの難しそうな顔を見ればわかる。しかし本当に言いたいであろうことが全部すっ飛ばされているから、これだとただの悪口でしかない。
 アシュヴァッターマンのほうをちらりと見やれば、盛大に眉間を指で押さえていた。気持ちはよくわかる。とてもよくわかる。
 しかしこの一連の会話によって、カルナの機嫌はすっかり上向いてくれたらしい。むしろ、鼻歌を口ずさみながらスキップでもし出しそうなほどになっている。
 本当にどうした。病院での検査の関係で、何か情緒不安定になる薬でも処方されているのか。もしそうだったら全力で転院を勧めたいところである。理由はなんであれ、ヤバい薬を患者に与える病院に彼を居させるのは不安でしかない。
 助けを求めるようにアシュヴァッターマンにちらりと視線を向けたところ、なぜかとてもいい笑顔で親指を立てた手を突き出された。意味がわからない。ついさっきは無言ながらも認識を共有してくれたじゃないか。だというのに、今は視線で助けを求めても何も応えてくれない。どうしてこんな急に手を放されたのか。
 ぴえん、と困って眉尻を下げるジナコをよそに、相変わらずうきうきした調子のカルナが口を開く。

「ところでジナコよ。オレの病室には生憎お前が好むような菓子の類は置いていない。この先に売店があるから、途中で好きなものを何か買うといい。ロールケーキは存在していなかったかもしれないが」
「あのね、カルナさん。いくら何でも、人様の見舞いに来たってのに、その横でばくばくお菓子貪るような真似をジナコさんがすると思うの?」
「違うのか」
「敢えて言おう、断じて違うとッ!」
「ふむ。それはそれで少し心寂しいものがあるな。お前がロールケーキなどを貪り食っている姿を見るのが懐かしくなったのかもしれん」
「カルナさんが一番に見たいボクの姿ってそんななの? それでいいの? アンタの中でのボクの印象どうなってんの? ああごめんね、聞くまでもなかったッスね~」

 ぺっ、と吐き捨てながら、ジナコは大股で彼の横をすり抜けようとする。しかし握りしめられていた手をぐいっと引っ張られ、バランスを崩した体は背中からカルナの痩身に受け止められる形となった。上から覗き込んでくるアイスブルーの瞳は、どこか楽しそうだ。
 なるほど、これはからかわれているのか。
 それに気付いたジナコざむっと頬を膨らませ、唇を尖らせると、カルナは何故かますます笑みを深くした。楽しそうで何よりだ。

「そう拗ねてくれるな、ジナコよ。オレは先ほどからお前を褒めているのだから。そも、オレの言いたいことなど、お前にはすべて伝わっているのだろう?」
……あのねえ。わかってもらえるからって、言うべき言葉を略すのは全く感心しないッスよ。ボク相手なら大丈夫だとしても、ほかの人にもその調子じゃ困るでしょ。急にボクと他の人の対応を切り替えられるほど、カルナさんが器用だとは思えないし。ボク相手だとしても、ちゃーんと言葉を尽くす練習をしたほうがいいと思うッス」

 だってカルナは、いつかは必ずジナコの元へ訪れるのをやめてしまう。そうなってしまったときに、ジナコはもうカルナの言いたいことを噛み砕いて理解し、足りないところを埋めてやるようなことはできなくなるのだ。
 そんなものがいちいち必要があるのかといえば、まあ確かに必要不可欠ではないだろう。事実、ジナコと出会う前のカルナはそうやって生きてきたのだから。
 それでも心を寄せた大切な人に、なるべく平穏無事な人生を送って欲しいと願うのは、きっとごくごく普通のことだと思う。ジナコは彼の不器用なところも含めて愛していたが、万人がそれを理解するのはきっとちょっとばかり難しいから。
 けれど彼の優しさは、ちゃんと表に出せば伝わるもののはずなのだ。だからジナコの存在がどうのこうのではなくて、心の底にあるあたたかいものをきちんと相手に伝え、そうして誰かに寄り添えるようになればいい。
 流石にここまで語るのは恥ずかしいので口を噤んだが、カルナはふんふんと神妙な顔をして頷いてくれた。

「む、確かにそのとおりだな。さすがはジナコだ。今後はそのように努力しよう」
「ジナコさんが文句言えないくらい、それができるようになるのが目標っスからね」
「承知した。肝に銘じておく」
「はいはい、素直ないい子で大変よろしい」

 ちょっと無理な体勢ではあったが、ジナコは無理矢理手を伸ばしてカルナの頭を撫でてやった。お姉さんが弟にするみたいな、或いは母が子にしてやるみたいなつもりだったのだ。カルナは嬉しそうに眼を細め、己を撫でる手にすり寄ってくる。猫みたいだなと思ったら何だか可愛くて、ジナコも釣られたように顔をほころばせていた。
 そしてその後ろで二人を見守っていたアシュヴァッターマンがどんな顔をしていたか、二人が知ることはないのであった。