浮いて沈んでアンダンテ

ピアノ調律師カルナ×元ピアニストジナコの現パロ小説。捏造設定過多につき何でも許せる方向け。

※本編はpixivに掲載済みですが、本にのみ収録していた「番外編」と「エピローグ」を加えて全編まとめました。

【Crescendoクレッシェンド



 その日も、いつもと変わらぬ平和な日常を過ごしていたはずだったのだ。

 ジナコ=カリギリはつい今し方まで、世界的にも有名な某狩猟ゲームにて華麗に一狩りキメていたところであった。ついでに言うと、素材集めにおおよそ三か月ほど費やした結果ようやく完成した強力な新武器をお披露目するという、自身にとっては記念すべき場でもあったわけで。
 長きにわたり敵の理不尽なまでの強さに対して時にキレ散らかし、時に嘆き枕を濡らしながらレア素材を集め続け、ようやく日の目を見ることができた新武器は、存分にその性能の素晴らしさを発揮した。その性能は当然、ここまで頑張った甲斐があると胸を張って言えるレベルである。
 それを以て、今までであれば少し苦戦していたはずのモンスターすらばったばったとなぎ倒していくのは実に快感だった。調子に乗って次々とクエストに挑戦していった結果、結局夜を徹してのプレイとなってしまったほどである。
 しかし一夜程度の徹夜など、スーパーエリートなニートである己にとっては造作もないことだった。好きなものに熱中して消費した時間だ、苦痛だと感じるはずがない。時間というものは夢中であればあるほどあっという間に過ぎるものである。何ならあともう一晩くらいなら余裕でイケる気がしている。
 とはいえそろそろキリがいいからと、ジナコは一旦ゲームを終了させ、少しだけ仮眠を取ることにした。実際今挑戦できるミッションを全て終えてしまい、少々手持ち無沙汰になってしまったのだ。
 まあ寝て起きた頃には新しいミッションも更新されていることであろう。どうせ時間は無尽蔵にあるのだし、何も急ぐことはない。寝て起きてもまだ目新しいものが更新されていなかったとしても、その時はその時で別のゲームをやればいい。
こうやって永遠に気ままな時間を繰り返す。何にも縛られない、自分の意志だけで何とでもできる自由な時間が、ジナコには用意されているのだ。ああ、何と素晴らしきことか。気ままなニート生活最高。

 けれどそういうことを考え始めると、いつも胸の奥がざわついてしまう。その正体には正直薄々気付いていたが、なるべく目を背け理解できないふりをすることにしていた。覗き込んだが最後、きっとその深く暗い穴に真っ逆さまに落ちていくことになるから。

 さて、あたたかく柔らかい愛しの相棒(布団)の上にその身を投げ出し、コントローラーを放り出してうとうとと船を漕ぎ始めたときだった。まるでジナコがコントローラーから手を放すのを見ていたかのような絶妙なタイミングで、玄関のチャイムが鳴り響いたのは。
 通販で頼んでいた何かが届いたのと一瞬思ったものの、今日届くものについては全く心当たりがなかった。食料品はこの間注文して届いたばかりだし、楽しみにしていた漫画の新刊発売日はまだ一週間も先だし、新しいゲームの類は今のところ特に頼んでいない。けれどそれ以外で、誰かがこの家に尋ねてくることなどあり得ないのだ。
 しかも鳴り響いたチャイム音は、ジナコの意識を覚醒に引っ張り戻したその一回だけではなく、その後もしつこく押し続けられているのである。
これはちょっと異常事態だ。このまま無視を決め込んだとしてもそのまま諦めて帰ってくれそうな気がしない。

「うへぇ~……何なんスかもう。めんどくさいなあ……本日のジナコさんの営業は終了したッスよ~」

 ドアホンで誰が来たのかだけちらっと確認して、どう見ても宗教の勧誘っぽかったらやっぱり応答せずに放置して、そのままお帰りいただくことにしよう。布団を深く被り、イヤホンを差して音楽でも流しておけば、いくら鳴り響き続けていたとしてもそのうち気にならなくなるはずだ。或いは見るからにやばそうな人だったとしたら、それこそ面倒ではあるが警察を呼ぶことも吝かではない。国家権力様万歳。彼らは善良な市民の味方なのだ。
 ずりずりと凝り固まっている身体を引きずるようにしてベッドから這い出たジナコは、何とも重たい足取りでのそのそと階段を降りていく。ジナコさんは己の生きる平和な世界を守るため、今日は特別に立ち上がるのである。健やかな安眠を得るためには致し方あるまい。
 玄関までのろのろと移動する間も、チャイムは一定の間隔を置いて鳴り響き続けていた。脳髄にガンガンと響き渡るそれに、うるさいと怒鳴りつけたくなる衝動が込み上げてくる。先ほどまでの高揚が一気に冷めた睡眠不足の脳みそに、玄関のチャイムの高い音は容赦なく突き刺さってくるのだ。
 いや、それにしてもこれはしつこい。しつこすぎる。執念深いと言っても過言ではない。いよいよやばい人が家にやってきたという線が濃厚になってきた。

「はいはい、どちら様ですか……って、えっ?」

 あわよくば居留守を使えるようと極力小声で囁きつつ、ドアホンを使い玄関先でしつこくチャイムを鳴らし続けている人物を確認する。どうかやばい類の人ではありませんようにと祈りながら。
 しかしてその瞬間、ジナコは目を丸くしたまま絶句してしまったのだ。

 ――イケメンである。

 そう、ジナコの目の前に突如姿を現したその男は、己の目ではっきりと視認しても尚実在を疑うような、異次元めいた雰囲気をその身に宿した、見紛うことなきイケメンだったのだ。

 身に纏っているのは、見るからに上等そうな黒のスーツ。透き通るような白い肌と、光を受けて輝く白銀の髪がよく映えていると思う。すらりと伸びた長くしなやかな手足は、男性にしては少しばかり細いような印象があったが、しかしただ単に『ひ弱そう』という雰囲気は不思議と感じられなかった。その滑らかさは鍛えられた鞭のような印象を見る者に抱かせる。
すっとした切れ長の瞳は冷たい青色をしており、刃物のような鋭さをちらつかせている。瞳の奥をよくよく観察するとそこには青に混ざって綺麗な赤色が宿っていて、まるで朝焼けをそのまま閉じ込めたような色をしていると思った。そして左耳から下がっている大きな金属のピアスが、彼が僅かに首を動かす度に静かに揺れているのが印象的だった。
 数秒の間完全に放心し、悔しくも見惚れてしまっていたジナコだったが、またしても鳴り響いたチャイムの音によって一気に現実へと引き戻された。いけない、実にいけない。スチル完全コンプリートでクリアしてきた乙女ゲームは数知れず、ありとあらゆる二次元のイケメンたちを落とし虜にしてきたジナコさんともあろう者が、うっかり三次元の男に見とれてしまうなんて。

……ってかこの人、ちょっとしつこすぎない? ホント何?」

 相変わらず鳴り続けるチャイムの音にジナコは思わず顔をしかめた。ここまでチャイムを鳴らしまくって待って、それでも出てこなかったら、普通住人は留守だと判断して諦めると思うのだけれど。
響き続ける音に若干げんなりした気分で肩を落としながら、ひとまず無表情のまま玄関の扉を睨みつけている男を改めて観察してみることにした。
 そもそもこんな三次元にあるまじきレベルのイケメンが、ジナコなどに一体何の用があるというのか。ジナコにこんな知り合いはいないというか、そもそもこうして訪ねてくるような関係にある人間自体が皆無である。
 それに加え今扉を挟んだ向こう側にいるイケメン、かっこいいとはジナコだってもちろん思うが、お近づきになりたいかと問われれば答えは間違いなく「NO」だった。ここまで現実離れしているといっても過言ではないくらいの完璧な美丈夫だと、ちょっと近寄りがたさのほうが勝ってしまう。街中で隣を歩いてほしくないし、近づいてこられたら目を合わせないようにしながらそっと背中を向けて逃げるに違いない。それに何より、正直彼はジナコが好ましいと思うタイプの男ではなかった。
 いや待て、そんなジナコの好みの話など今はどうでもいい。あと十五歳くらい若かったら恐らくオタクとしての萌えストライクゾーンど真ん中なのだとか、そこらへんの感想も今は死ぬほどどうでもいい。突然の日常の崩壊に対して己が少なからず混乱していることは理解できたが。

「ああ、もう! しょうがない、出るか……

 このまま諦めるのを待っていても埒が明かない気がするし、もしかしたら何処か別の家と間違えているのかもしれない。もしそういう事情だったら、さっさとその旨を説明して帰ってもらった方が話は早そうだ。
 ジナコは鍵を開けると玄関ドアの防犯チェーンをかけつつ、扉をゆっくりと開いた。

「はいは~い、一体何のご用で……
――ジナコ=カリギリ、か?」

 そうして届いた声はなかなか耳の保養になる、所謂イケボというやつであった。低すぎず、高すぎず、特に張っているわけではないのに不思議とよく通る凛とした声。耳の奥がこそばゆくなるような不思議な声で、ジナコはうっかり聞き入ってしまった。その声が迷いなく己の名を告げたことに驚いてしまった、というのもあったのだが。

「ええと、ああ、はい。ジナコはボクッスけど。何の用ッスか?」
「そうか。……そうか、お前が」
「あ、あの~?」

 噛みしめるように頷いたきり黙ってしまった青年に、ジナコは怪訝な顔を向ける。
 全く見知らぬ男が一方的にジナコの名を知っているのは不気味だったが、とにかくはっきりと呼ばれてしまった以上、家を間違えたという線はなさそうだ。ジナコさん違いという可能性もあるにはあるが、そんなにありふれた名前でないと思うし、ご近所に同姓同名が住んでいるというのは聞いたことがない。
 つまり彼が尋ねてきたのは、残念ながら間違いなく自分ということになる。であれば用件をさっさと聞いて、できる限りさっさとお帰りいただこう。厄介事の匂いがぷんぷんしている。長年ネットの闇の中をうまく渡り歩いてきたジナコは、厄介事(=炎上して面倒くさいことになる)に対してそれなりには鼻がきくのだ。
 ジト目で睨み付けるようにしているジナコの視線に、青年はようやくハッと我に返ったようだった。そうして身に纏っている良質そうなジャケットの内ポケットに手を突っ込むと、ジナコに向かって何かを差し出してきた。一体何事かと、ジナコは扉のこちら側ではっと身構える。

 果たして彼が差し出してきたのは、小さな手のひら大の紙切れ――彼自身のものと思われる、シンプルなデザインの名刺だった。

「ええと……『ピアノ調律師』?」
「ああ」
 
 名刺の一部を読み上げたジナコに、彼はこくりと頷いた。ずいっとさらに押し出され、困惑する。受け取れということなのだろうか。促されるまま恐る恐る名刺を手に取って、ジナコは再びそこに印字されている文字に目を通した。
 強引に手に取らされた名刺によると、この青年の名は『カルナ』というらしい。カウラヴァという楽器販売などを取り扱う会社に所属しているとあった。カウラヴァといえば、音楽に関わる者でなくとも一度は名前を聞いたことがあるような超大手の会社である。そんな文句なしの大企業で、本人の実力だけが物を言う『調律師』という肩書を堂々と背負って働いているというのは、おそらく相当な腕を持っているということに他ならない。
 しかし、どうしてそんな男が自分なんぞを尋ねてきたのか。それがますますわからなくなってきてしまったジナコは、名刺を見つめたまま小さく首を傾げた。これでただの販売員だったなら楽器の押し売りにでも来たのかと予想できるが、調律師となると話が全く変わってきてしまう。

 それから、もう一つ。

「ピアノ、ね……

 その単語を見た瞬間、ジナコの胸の奥にはじわりと、黒く重たく、そしてひどく淀んだものが滲み出ていた。まだ治っていない傷を覆うかさぶたを無理矢理はぎ取ったせいで、血が滲み出し痛みを訴えるみたいに。
 やっぱりできる限り早急に用件を聞きだし、さっさと帰ってもらうことにしよう。これ以上、指一本すらも、この傷には触れられたくないから。
 ジナコはきゅっと唇を噛みしめ、しかしそれを悟られないようわざとどうでもよさそうに冷たく言葉を返した。

「それで? その大手企業のエリート調律師さんが、ボクなんかの家に何の用ッスか?」
「オレにそのような過分な肩書は不要だ。お前の父君は生前、調律師をやっていただろう?」
「ッ……何で、そんなこと知ってるの」

 カルナの言葉を聞いたジナコははっと目を見開き、そして僅かに後退った。その拍子に手から落ちた名刺がひらひらと床に落ちる。
 父がこの家に帰ってこなくなってからもう十五年近くが経過している。それなのに、今更一体何の用があるというのか。
先ほどまでのただただ面倒くさそうな態度とは打って変わり警戒心を露わにするジナコに、カルナは相変わらず淡々と言葉を紡いでいった。

「カリギリ氏はかつて、我が社に籍を置いていたことがあった。先日古い倉庫を整理していたとき、当時彼が使っていたと思しき作業用具と資料などが大量に見つかってな。故に、オレがそれを返しに来たというわけだ」
「え……じゃあ、ホントに、わざわざそれだけのために?」
「ああ」

 カルナははっきりと頷いたが、ジナコの頭の中にはますます疑問符が浮かぶばかりだった。
 彼が説明してくれた内容自体については当然事実として理解できるのだが、それによって彼が起こした行動についての意図がいまいちわからない。
 十年以上前に籍を置いていただけの、しかも今後使われることはまずないと断言できるような品をわざわざ本人の家に返しに来るなんて、一体何の意味があるのだろう。しかも今の今まで倉庫の奥で埃を被っていたというような代物だ。そのまま廃棄してしまったところで誰も文句は言うまい。唯一文句を言う資格があるジナコの父がそれらを手にすることは、もう永遠にないのだから。

……それはそれは、ご足労どーも。じゃあ、パパの仕事場にでも置いとくから、さっさとちょーだい」

 しかしそんなカルナの行動の理由をいちいち問いただす必要もない。自分にはもう一切関係のない話だ。ここでさっさと全部を終えてさよならしてしまえば、あとはもうジナコの世界の外の話だ。
 ジナコは防犯チェーンを外して玄関の扉を開け、その品を寄越せと彼に向かって手を差し出した。しかしカルナは静かに首を横に振ったのだ。

「量がある。その上重い」

 カルナがついっと自分の右下後方へと視線を反らした先を辿れば、そこにはかなり大きめの段ボールが置かれていた。あの中に父のものだという道具がぎっしりと詰め込まれているのだろう。
 つまり自分が中までこれを運ぶから、家に上げてくれということか。見るからに「私は重量物ですよ」と主張しているこの荷物をジナコが一人で抱えていくのは、確かにちょっと無理があるかもしれない。とはいえ目の前の、到底屈強とは言いがたい見目の男が運ぶというのも、ちょっと難しいんじゃないかとは思うが。

「ま、そういうことならしょーがないッスね。入っていいッスよ。何のおかまいもしませんけど」
「恩に着る」
「大げさッス」

 ぺこりと律儀に頭を下げてみせるカルナに、ジナコは小さく苦笑を漏らし、こっちこっちと手招きをした。詳しい置き場所なんかわからないが、とりあえず父のかつての仕事場まで案内して、適当な空きスペースにでも置いてもらえればいいはずだ。どうせ誰も使わないどころか、家主であるジナコですら、今となっては足を踏み入れることすら滅多にない場所だ。

「は~い、ここッスよ~」

 廊下を進み、突き当たりを曲がるとすぐに、かつての父の仕事部屋に辿り着く。鍵は元々かけていないため、扉は簡単に来訪者を招き入れてくれた。
 今まではずっとこの部屋に来るのが、父の姿のない父の部屋を見るのが怖くて、随分長い間足が遠ざかっていた。けれど実際に入る必要が生じたというだけで、こんなにも呆気なく入ることができてしまった。若干拍子抜けしてしまっている自分に自分で驚いてしまう。今手をかけている扉はもっとずっと重く、そして大きいものだと思っていたのに。
 きっとここへ頻繁に足を踏み入れていた頃より、自分が大きくなってしまったから。そしてあれから、それだけの時間が過ぎ去ってしまったからだ。
 何となく薄ら寒いものを感じながら、ジナコはカルナを中へと招き入れた。

「とりあえず何処でもテキトーなとこに置いといてくればいいッスから。ボクは正直どこが何なのかもよくわかんないし」
「承知した」

 如何にも重そうな荷物を、しかし彼は驚くほど軽々と持ち上げていた。もやしみたいな見た目とは裏腹に案外力があるらしい。けれどよくよく考えれば、調律師という仕事柄力仕事も多いはずだから、そこまでへなちょこなはずがなかったのだ。
段ボールを抱えたまま中へ入ったカルナは、どこか感慨深そうに部屋の中を見回していた。
この仕事部屋には、かつて父が使っていた調律作業用の工具などがずらりと並べられている。主が不在となって久しいのでずいぶんと埃が溜まってしまっているが、どれが何の道具だかすらさっぱりわからないジナコには触ることができないため仕方がない。
 下手に触って、万が一壊してしまったりしたらと思うと、怖くてたまらなかったのだ。もしそうなってしまったら、ジナコにはもうそれを直すことが出来ない。だから父が使っていたものは出来ればそのままの形を保って置いておきたかったのだ。そうすることで、この家の中の時間を止めてしまいたかったから。
 そして部屋のおおよそ中央にあたる場所には、これまた埃を被ったグランドピアノが一台ひっそりと置かれている。久々に相見えたそれに対して、一体どんな感情が浮かぶのかとジナコは恐れていたが、意外にも己をぐちゃぐちゃにしてしまうような激情の類いはわき上がってこなかった。こんなものかと、扉を開けてしまえた時と同じような感情が精々顔をのぞかせるのみである。
 けれど胸の奥では確実にざわざわと不快な細波が立ち始めていて、ジナコは耐えきれずにふいと目を反らしていた。このままだと、硬く蓋を閉めて押し込めていたものがうっかり溢れてしまいそうだ。

……ナコ、ジナコよ。聴いているのか」
「え?」

 降ってきた冷たい声に、意識をすっと深い思考の沼の中から引き戻される。引き寄せられるようにして反射的に顔を上げたジナコは、しかしカルナの顔が予想以上に近くにあったことにぞわっとして、少しだけその場から後ずさった。あからさまに距離を取られたカルナはほんのりと眉をひそめているが、そんな顔をしたいのは自分のほうだ。パーソナルスペースが狂っているんじゃないだろうか、この男。友達少なそう。
 そんな若干失礼な考えはまさか伝わっていないだろうが、カルナは眉をひそめたまま口を開いた。

……持ってきた物を整理して収納し直したいのだが、ここにある工具の類に、オレが触れても構わないだろうか。もちろん、破損などさせぬよう丁重に扱うと誓おう」
「ああ、うん。別にいいッスよ。何にもわかんないボクが適当にいじり回すよりはマシでしょ」

 しかし、いきなり名前呼び捨てか。先ほどジナコがぼんやりしているうちにやたらめったら近付いてきていたこともそうだが、相当に馴れ馴れしいなこの距離感ゼロ男。
 一瞬そんなことを思ったものの、そんなに目くじらを立てることもなかろうと、ジナコは大人の余裕で頷いた。
カルナは「感謝する」と短く述べると、段ボールを開封して何やらがちゃがちゃと中身をいじり始めた。具体的に何をやっているのかは正直さっぱりだったが、まあとりあえず任せても大丈夫だろうと思えた。残された道具たちに触れる手つきは恭しく、優しく、父に対する尊敬の念が確かに感じられたから。

「そういえばカルナさんって、パパのことは直接知ってたんスか?」
「ああ。お前の父は実に優秀な調律師だった。この業界で、彼の名を一度も聞いたことがないという者はまずいないだろう。オレも彼の技術を非常に尊敬している。恐れ多くも、かつて弟子入りを志願したこともあるからな」
「えっ、嘘!?」

 父が弟子を取っていたなんて話、一度も聞いたことがない。ジナコは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
 生前、父はどちらかといえば己の感覚だけに従って物事を行う部類の人間であり、理屈を並べて理論的に説明するということを不得手としていた。故に弟子を取って自分の技術を教えている姿というが、全く想像の埒外だったのである。そういう言葉で説明しなくてはならないような場面に出くわした場合は、いつもしっかり者の母が代行していたくらいだし。
 そもそも父が弟子としてこの青年を側に置いていたというなら、ジナコが彼のことを知らないはずがない。父が存命の頃、ジナコはほとんど毎日この仕事場に足を踏み入れ、彼が調律し終わったピアノに触れていたのだから。
 驚きに目をぱちぱちとしきりに瞬かせるジナコに対し、カルナは首を小さく横に振った。

「結局オレは彼に弟子入りすることが叶わなかったからな。当時のオレはまだ小学生で、最低限の知識や技術すらないのだから当然だが。オレがお前とここで邂逅を果たしたことは皆無だ」
「えっ、そ、そうだったんスか?」

 まるで心の中を見透かされたかのような言葉を投げかけられ、ジナコは少しぎょっとしつつ、なるべく平静を装って首を傾げて見せた。段ボールの中に無造作に放り込まれていたらしい書類を整理する手を止めないまま、彼は小さく首肯する。

「そも、オレの年齢などの問題より先に『子供とはいえ、お前みたいな男を家に上げるのは断固拒否する。私の一人娘に何かあったら困るからな! あんな可愛い子を見たら最後、心を奪われて自分のものにしたくなって誘拐したくなるに決まっている。私だったら絶対にそうする。親だから許されるけど。とにかくそんな獣になる可能性のある存在を娘には近寄らせん!』と固辞されてしまった」
「ぱ、パパってば、なんてこっ恥ずかしいことを……!」
「ちなみに、オレにとってそれは全く杞憂だと再三説明したのだが、わかってはもらえなかった」
…………

 あくまで淡々と告げられた彼の言葉に、ジナコは返すべきそれを見失ってしまった。
 だって彼が言っているのはつまり、「オレがお前に惚れるようなことは万が一にもあり得ないから安心して欲しい」ということを、ジナコの父親に何度も言い聞かせていたということになんじゃないだろうか。事実とはいえ、それを本人の前でさらりと告げてしまうのは如何なものかと思ったのだ。
 もちろんジナコだって、己のことを誰もが目を惹かれる絶世の美女だとは思っていない。父親がジナコを可愛いと連呼し賞賛していたのは、単に親馬鹿のそれである。
 それにしたって、お前になど興味が沸くはずがないと断言しているも同然の態度と言葉は、怒りを通り越して呆れすら抱くレベルだった。

「パパの親馬鹿のせいでせっかくの機会を逃して残念でしたッスね~。でもボクは全く悪くないんで、そこんとこヨロシク」
「違う、オレはお前を責めたわけではない。弟子になれなかったのは単にオレが未熟だった故だ。そもそも言の葉にすべきものを見誤っていたんだ。オレは」
「ハイハイ、ボクはそのへんどーでもいいッスけど」
……そうか」

 何故か肩を落とす姿にちょっぴり良心が痛むが、事実なのだから仕方ないのだ。だって彼とはどうせ、この一瞬だけの縁。この先ジナコがカルナと関わることは二度とない。だから彼が自分のことをどう思っていようが、ジナコには一切合切、全く関係がないのである。
 それに彼とこうして話をしていると、自分をとても愛してくれていた父のことを、それにいつも寄り添い支えていた優しい母を、そしてその二人との思い出を否が応でも引きずり出されてしまうのだ。自分がまだ、確かに幸せだった頃の懐かしい記憶が。
 今はまだ押さえ込むことができているが、ひとたび決壊したらそのあとはきっと止まらなくなる。諦めて、俯瞰して、逃げて、手放して、遠ざけて。そうしてようやく形を保つことができている今の自分が、またあっけなく崩れ、壊れていくような気がしたのだ。
 だから彼にはさっさと用を済ませてもらい、お帰りいただくのが最善なのである。そうしてジナコは再びドアを堅く閉ざして部屋に引きこもり、何の変化もない微睡みのような生活へと戻るだけだ。現実を遠ざけ続ければ、今日のこともさっさと忘れられるに違いない。
 かくしてこの世界を脅かす驚異は去り、ジナコさんの世界は平和を取り戻しました。それで文句なしのハッピーエンドとなるわけである。本当にそれでいいのかと問う声は無視だ。向こう側に追いやってシャッターを閉めてしまえばもう聞こえてはこない。

「それで、今やってる作業ってあとどれくらいかかるんスか? もしまだ時間かかるようなら、ボクは部屋に戻ってるんで、あとはもう適当にやってくれていいッスよ。鍵は後で閉めとくし」
「待て、ジナコよ。この時世、そのような防犯意識では良くないぞ。いくらお前が平均より重量のある身体をしているとはいえ、一応女であることには変わりないのだからな。それにそのたるんだ贅肉を見るに、護身術の類いを心得ているようにも思えん。防衛手段としては、せいぜいその無駄肉を使った体当たりが関の山だろう」

 わざとどうでもよさそうに放ったジナコの言葉に対し、カルナはしかし過剰なくらい真剣な顔で説教がましいことを言い返してきた
 なるほど、言っていることはもっともだ。いやまあ、確かにもっとではあるのだが。

「えーっと……アンタ今、ボクに対してめちゃくちゃ失礼なこと言ってるって自覚はあるっスか?」
「?」

 きょとんと首を傾げられてしまったが、聞いているのはこっちのほうである。ジナコは小さく溜息を吐いた。
 さっきから薄々感じていたが、このイケメン、言葉選びがあまりにも雑というか、残念すぎるのだ。多分、一番言うべき肝心な部分の言葉にしていないのだろうなあ、と思う。敢えてなのかと思ったが、この態度や顔を見ている限り完全に無意識なのだ。だからこそ性質が悪い。
 彼なりにジナコのことを心配してくれているのは確かにわかるのだが、この調子で言われたのでは誤解を生むばかりだ。あなた絶対にその言葉選びの粗雑さで損をしたことがあるだろう、と今ここで聞いてやりたいくらいだった。
 こんな性格では、きっと普段の生活の中でもコミュニケーションの面では苦労しているはずだ、何とも可哀想に。そんな同情の気持ちすら顔を覗かせつつある。

「仮にボクが男性向け陵辱エロジャンルのソリットブックみたいな目にあったとしても、あんたには関係ないじゃないッスか。それにボクんち、こう見えてセキュリティはちゃんとしてるんでご心配なく」
「ソリ……?」
「そこはつっこまんでよろしい。むしろ言及すな。オタクの業深き深淵にうっかり触れるとそのまま呑み込まれるッスよ。とにかく、それを終わらせたらさっさと帰って欲しいって話ッス。ボクは夜通し励んだ巨大竜の尻尾を切り落とす作業のお陰で、現在眠気マックスの赤疲労状態なんスから」

 そうしてくるりと踵を返したジナコだったが、「待ってくれ」と背中にかけられた言葉に再び足を止め、彼の方を振り返った。
 ジナコがそのまま立ち去らなかったことにほっとしたらしいカルナは、ほんの少し顔を綻ばせながら口を開く。

「作業についてはまもなく終了する。だがこれとは別にもう一つ、オレはお前に聞いておきたいことがあるんだ」
「は? ボク? パパのことなら、ボクからは何にもしゃべることないッスよ」
「いいや、オレの本来の用向きはお前に対してだ。……キミは、ピアノを、弾いているのか?」
……あのさ。逆に聞くけど、これで弾いてるように見えるんスか?」

 ジナコは自嘲めいた笑みを唇の端に浮かべながら、ひらひらと己の手を振って見せた。
 ゲームのコントローラーを長時間握りしめ続けるばかりの生活を続けてきたせいで、歪なタコができた指。手入れも何もしていない、がさがさの手のひら。一定の動きばかりしていたことで、すっかり堅くなった指の関節。
 彼も調律師なのだから、ピアニストの手指などはこれまで飽くほど見てきたはずだ。そんな彼の目を以てすれば、この手がもう鍵盤に触れなくなって久しいことなどすぐにわかるだろう。加えて、ここにあるピアノがこれだけこんもりと埃を被っているのだから、普段から使っているのかどうかなんてのは一目瞭然である。

「そりゃあパパはピアノを嗜む界隈では有名人だったかもしれないけど、残念ながらボクは平々凡々の一般ピーポーのモブキャラAッスから。ピアノを弾くなんて高度な芸当、その道のおプロ様だけがすることッス」
「違う。楽器は人を選ばない。演奏する人間のほうが、勝手にそうだと決めつけているだけだ」
「どっちでもいいッスよ、そんなの。そういう音楽の深~い哲学的なお話がしたいなら他を当たってくれッス。とにかく今のアタシに、ピアノを弾く資格なんてないんだからね」


 みしり――と。
 塞き止めている心のダムが、耐え切れないと悲鳴を上げる音が、聞こえた。


 ジナコは胸の辺りをぎゅっと掴んで、それを押しとどめるかのように必死になって歯を食い縛る。これ以上はいけないと、頭の中で警告音がけたたましく鳴り響いていた。
 これ以上彼の言葉を聞いていたら、今までぎりぎりで積み上げて均衡を保ってきたものたちが、きっとがらがらと音を立てて崩れてしまう。

「はい、ジナコさんからは以上! ほら、もう聞きたかった答えは聞けたでしょ。もうカルナさんの用事は終わったはずッスよ。だから……お願い。さっさと、帰って」

 もはやあなたと交わすべき言葉はないと、ジナコははっきりと拒絶の意を示した。
 声が震えないようにと努めたせいか、自分でも驚くくらい冷たい声が唇の間から滑り落ちていく。けれどここまできっぱりと言えば、いくらピンポン粘り続けた彼でも諦めてくれるはずだ。
 けれどそんなジナコの予想に反して、カルナは一歩も引こうとしなかった。寧ろぐいぐいとこちらへ距離を詰めながら、真摯な表情で言葉を重ねてくる。

「待ってくれ、ジナコ。違うんだ。お前は確かにピアノを弾いていただろう。今だって弾けるはずなんだ」

 しかしその声はまっすぐ過ぎるが故に、ジナコに鋭い痛みをもたらすのだ。突き刺さるようなそれが、かさぶたを剥がされたむき出しの傷をさらに抉っていく。どろどろと血が流れ続ける。

「オレは知っている。オレは確かに、キミの音を、知っている。だからお前は」
「冗談やめて。あんたにアタシの何がわかるって言うの」

 痛い、痛い、痛い。
 じりじりと奥からせり上がってくる痛みのせいで、息の仕方がわからなくなりそうだった。遠ざけていたはずのあの日の光景が脳裏を掠める。どんなに握りしめ続けても冷たく、硬いままの手の感触が蘇ってくる。

 違う、違うんだ。だって、だって私は――

「わかるんだ、ジナコ。オレはお前が紡ぐ音が」
「ッ、もうやめて!」

 しつこく食い下がられ、続々とジナコの中へと流れ込んでくるカルナの言葉たち。それによって押し潰されたジナコの心のダムは、呆気なく決壊した。
 押さえ込んでいたはずの真っ黒い感情たちが、大波となって一気に押し寄せてくる。こうなってしまえばもう、ジナコ本人でさえ止めることはできないのだ。
 そうして悲鳴のような声で絶叫したジナコに、カルナははっと身を固くしていた。彼が寄越してくる気遣わしげな視線が、今はただただ煩わしくて、痛くて。

「アンタなんか、何も、何にも知らないくせに、無責任なこと言わないで! アタシの音が何だって? そんなの何にもならないでしょ! 聞いたところで何だって言うの! あ、アタシのピアノなんか、何にもならないどころか、人を不幸にするばっかりなのに!」
「ジナコ、オレは」
「うるさい! アタシはっ! アタシはもう二度と、ピアノなんか弾かない! アタシがピアノなんかやってなければ、パパとママは死ななくて済んだんだから!」

 だって知らないだろう、彼は。いつまで経っても客席に姿を見せなかった両親のことも。そうして何にも知らず、暢気に鍵盤の上で指を滑らせ楽しんでいた己の愚かさも。ステージを終えた後に躊躇いがちに事を聞かされ、病院へ向かう車中でジナコがどんな思いだったかも。いってらっしゃい、頑張ってねと、たった数時間前に笑顔で送り出してくれた二人が、すっかり冷たくなって横たわっているのを見たときの絶望も。
 
 彼は何にも知らない。知らないから、こんなにも残酷なことが言えるのだ。

「ジナコ、すまない。違うんだ、オレは」
「うるさい、うるさいッ!」

 なおも何か言いたげに詰め寄ってくるカルナが、ジナコにはひどく恐ろしい存在に思えてしまった。どうしてこの人はそんな酷いことを言うのか、ジナコにさせようとしているのか、わからなかった。
 ジナコは手近に放置されていた、恐らくは楽譜らしき紙の束を掴み、それでもこちらへ歩み寄ろうとしてくるカルナに向かって思い切り叩きつけた。ぐしゃぐしゃになったそれが目の前の光景を遮るように広がる。舞い散った白の向こうで彼が小さく呻き、ひるんだ気配が伝わってきた。
 ばさばさと床に散った紙たちの上に、ぼたぼたと大粒の雫が落ち、丸い跡を描いていた。目の前の景色がぐちゃぐちゃに歪み、滲む。

「もう帰って、帰ってよ! アタシの前から消えて! もう二度とアタシの前に現れないでッ!」

 ジナコは投げつけるように叫ぶと、そのままカルナの返事も聞かずに部屋を飛び出した。後ろから彼がジナコの名を呼んでいるような声がした気がするが、そんなのは知らない、聞こえない。あんな酷いこと言う人の声なんて、もう二度と聞きたくない。
 ジナコは階段を駆け上がり、自室のドアを蹴破るように開けて中へと飛び込んだ。扉を閉めて鍵をかけ、ベッドの中に潜り込んでしまえば、ほら、あっという間にそこは自分にとっての永遠の安全圏へ。


 何も変わらない、生み出されない。ただそこに存在しているだけの停滞の世界。


 ジナコはここで、きっとまた自分を組み立て直していくのだ。絶望を叩きつけられ、ひび割れ砕け、ばらばらになってしまった己の心を。
 繰り返す度に大切なものが歪み、擦り切れていくのを感じながら、それでも『ジナコ=カリギリ』という形をどうにか保って息をしていくために。

「ひっ……く、うう……っ」

 頭から布団を被り、嗚咽を噛み殺す。頭の芯ががんがんした。

 もう何も見たくない、聞きたくない。ああ、どうしてアタシばっかりがこんな目に。

 そう恨み言を吐いたところで、答えてくれる声は何処にもない。答えてくれる人は誰もいない。この狭い世界はジナコの心をぬるま湯のように包み込み守ってはくれるが、慰め、癒やしてくれることはなかった。助けてと泣き叫んでも誰にも届かない。

 けれどここが、ジナコの望んだ世界。
 唯一息をしていける場所だった。

 己の意志で作り上げた薄暗く狭いこの場所で。
 ジナコはどうしようもなく、ひとりぼっちのままだった。


      ♪ ♪ ♪


 ジナコ=カリギリがまだ『少女』と呼ばれる年頃であった頃のこと。
 ピアノはいつも彼女の生活の側にあった。

 仕事をしている父を見るのが、幼い頃から大好きだった。
 カルナの言うとおり、父は調律師として、実に優秀な腕を持っていたのだろう。次から次へと舞い込んでくる仕事に、父はいつも忙しそうにしていた。
 そんな父は、ジナコをとても深く愛してくれていたのだと思う。どんなに忙しくても、ジナコの誕生日を家族全員でともに祝うことを忘れなかったし、学教の行事などにも積極的に顔を出してくれていた。あくせくと働きながら、それでもできうる限り、ジナコと共に過ごせる時間を作ろうとしてくれていた。

 そんな父の姿を見て、自分にも何かできないか、多忙な生活の中で少しでも父が喜んでくれることがしたいと思うようになったのは、多分自然なことだったのだと思う。
 そうして幼いジナコが自分で考えて始めたのが、父が調律師として命を吹き込んでいるピアノを、己の手で弾いてみせることだった。

 天賦の才があったとは当然思っていない。レッスンでも先生には怒られるばかりだったし、コンクールで主要な賞を取ったこともない。ジナコ自身、自分がプロを目指せるような才能を持った人間ではないことはよくよく理解していた。
 けれど両親は自分がピアノの前に座る度に、和音を一つ覚える度に、弾ける曲がひとつひとつ増えていく度に、本当の心から喜んでくれた。父は自分が調律した最高のピアノをジナコには弾いてほしいと、そういっていつも笑っていたのだ。

 二人がジナコの弾くピアノの音で笑ってくれるのが、何よりも幸福だった。
 だからジナコは、父が調律してくれたピアノでこれから先も練習していくのだろうと、そう信じて疑わなかったのだ。

 あの日、街は近年稀に見る大雪から一夜明けたばかりで、街の人々はあちこちで雪かきに精を出していた。
 ジナコはピアノの定期発表会があり、両親はもちろん聴きに来てくれることになっていた。そのとき弾く予定だった曲は、両親がとても好きだと言っていた曲だった事もあり、頑張らなくちゃといつになく張り切っていたのを覚えている。
 事前に準備があるジナコは、他の発表者たちと一緒に朝早くから会場に向かい、両親は時間までに父が出す車で後からやってくることになっていた。楽しみにしていると笑う両親に手を振って、ジナコは会場へと向かっていったのだ。

 しかしジナコの演奏順が近付いても、演奏が始まってしまっても、そして全部弾き終わってしまっても、両親が会場に姿を現すことはなかった。

 もしかしたら自分の演奏時間を間違えて伝えてしまっていたのだろうか。せっかくあんなに頑張ったのに聴いてもらえなかった。
 そうしょんぼりしながらステージを降りた自分の元へ、ピアノの先生が血相を変えてとんできたのだ。携帯電話を持つ綺麗な手は、震えていた。
 そこで先生から聞かされた言葉を、ジナコは理解できなかった。頭をハンマーでいきなり殴りつけられたような衝撃に、ただただ呆然と立ち尽くしていることしかできなかったのである。
 その後ジナコは車へと押し込められ、病院へと向かわされたらしいのだが、本人はそのときのことは全く覚えていなかった。窓の外が白くて、ただひたすらに白くて、それがひどく恐ろしいと感じたのだけは何となく記憶の底に残されている。
 そこから記憶を辿ってはっきりと思い出せるのは、ぼろぼろで、傷だらけで、氷のように冷たくなった両親の変わり果てた姿だった。

 ――ねえ、どうしていつまでも寝ているの。発表会、もう終わっちゃったよ?

 ジナコは震える声で話しかけながら、それから長い時間、両親の手を握っていた。握りしめ続けていた。
 冷え切った手をもっとちゃんとあたためてあげれば、きっとすぐに目を覚ましてくれると思ったから。ごめんごめんだなんて苦笑しながら、いつもみたいに頭を撫でて、抱きしめてくれるに決まっていると。
 けれどどんなに擦っても、強く握っても、二人の手が体温を取り戻すことは二度となかった。
 ジナコは物言わぬ両親の側でゆっくりと、しかし確実に、絶望のどん底へと落ちていったのだ。

 そこから先のことも、ジナコはあまり覚えていない。
 ただ葬儀がどうのとか、ジナコの養育権が何だのとかで、親戚連中は大いに揉めていたそうだ。両親を撥ねたダンプカーの運転手が支払った賠償金と、父が残した財産とで、ジナコの手元に入ってきた遺産はそれなりに莫大な額になったらしい。人間一人が、一生働かないでも不自由なく生きていけるくらいには。
 うちの子になればいいと声をかけてきた名前どころか顔も知らなかった親戚たちは、ジナコ本人ではなく、その大金を手に入れることが目的だったのだと思う。当時まだ中学生だったジナコにもそれくらいのことは簡単にわかった。注がれる視線から、差し伸べられる手から、ねっとりした声音から、わかりたくなくてもわかってしまったのだ。
 今までろくに会ったこともない、他人といっても過言ではないような希薄な関係のくせに、莫大な金が転がり込んできたら我先にと群がってくる。そんな人たちと一緒にいたくはなかった。そもそも自分の父と母は、大好きだったあの二人だけだ。他にはいらない。代わりなんて真っ平御免だ。

 ジナコは己に差し伸べてられていると見せかけて、その実背後にある金へと伸びてきた手を全て断っていった。固持して、喚き散らして、暴れて、叫んで。
 そうやって頑なに閉じこもって外界との接触を断っていったら、気がつけばいつのまにか、ジナコの側には誰も居なくなっていた。

 そうしてジナコはその後高校へも進学せず、働きもせず、ただただ両親との思い出が詰まった家の中に閉じこもり、何を成すでもなくただただ惰眠を貪るような日々を過ごすようになっていた。
現実を見たくなかったのだ。大好きな両親はおらず、ひとりぼっちで残酷な世界に放り出されてしまったという、そんな現実を。

 あの日、いってらっしゃいと笑顔で送り出してくれた二人の顔を、もっとちゃんと見ておけばよかった。
 あんな日に開催される発表会になど、ジナコが出なければよかった。そもそもジナコが、ピアノなんかやっていなければよかった。
 そうしたらきっと、二人は死なずに済んだのに。
 ジナコがこうして全てを閉ざし、引きこもり、暗闇の中でどうにか自分をつぎはぎして保ちながら生きていくこともなかったのに。

 ジナコのピアノは大好きな父と母を奪った。そしてジナコ自身の人生をも狂わせたのだ。

 自分のピアノはきっと呪われていたのだと思う。
 不幸の呪いを振りまく呪いの旋律なんて、まるでおとぎ話の中みたいだ。けれどこれは現実だった。ジナコがやろうとしていたことは、結果として大好きな人を、そして自分をも不幸のどん底にたたき落とす最悪の行為だったのだから。

 だからジナコはもう、誰とも深く関わらない。二度とピアノなんか弾かない。

 ジナコ自身もこれ以上不幸にはなりたくなかった。
 そして何よりも、自分が大切に思った人を、もう二度と呪いたくなかったのだ。


♪ ♪ ♪


 あの無礼極まりないイケメンがやってきた、翌日のことである。
 そう、あれからたったの一日後のことだ。

……あのさ。ボク、もう二度とここへは来るなって言ったはずッスよね? あんたの耳は飾りか何かなんスか? 何で当然のようにここにいるわけ?」

 ジナコはげんなりしている今の気持ちを隠すこともせず、盛大に顔をしかめながら、目の前に立っているかの男に向かってそう吐き捨てた。
 何事もなかったかのように再び目の前に現れたカルナは、相変わらず表情筋が死んでいるとしか思えないほどの真顔で、じい……っとこちらを見下ろしていた。

 昨日はあのまま布団の中で丸まって泣いているうちに、疲れ果てて気絶するように寝落ちてしまったようだった。

 そんなジナコを無慈悲に叩き起こしたのは、またしても繰り返し鳴り続けるチャイムの音。

 まさかと思いながらドアホンを確認すると、そこにはやはりカルナが立っていた。昨日の今日でやってくるとは思いもしなかったジナコは、幻でも見たのかとうっかり扉を大きく開け放ってしまったのだ。
 果たしてカルナの姿はそこにはっきりと存在しており、ジナコは己の軽率な行動を滅茶苦茶に後悔した。こうして扉を開けて顔を合わせてしまった以上、もう居留守は使えない。追い返すのにもまた苦労しそうだ。

 ああ、何で、一体どうしてこんなことに。

 一人であうあうと呻きながら頭を抱えるジナコを余所に、カルナはまた淡々と言葉を返してくる。

「そうだな、確かに言われた。言われたが、オレがそれを了承した覚えはない」
「はあ!? 何それ、バッッッカじゃないの!? あの状態で、アンタからの了承も拒否も何もないでしょ、普通ッ!」

 ジナコは怒鳴り散らしながら躍起になって扉を閉めようとするが、当然カルナが手を伸ばし、素早くそれを阻止してくる。男と女という差ももちろんあるが、長年に渡るニート生活で筋力というものに微塵も縁がなくなっていたジナコが単純な力の勝負で勝てるはずもない。ぎりぎりと全力で引っ張っているはずの扉は微動だにせず、押さえているカルナは涼しい顔。ジナコは全力を使いすぎて、すでにぜえはあと息を荒らげているというのに。
 結局ジナコが出来たことと言えば、悔し紛れにぴぎいいっと金切り声を上げて、自分を見下ろすカルナの顔を思い切り睨み付けることくらいだった。
 対してカルナは、相変わらず腹が立つくらい飄々とした様子であった。

「ジナコよ。そうやって豚のような声を上げていると、いずれは本当にそのような声になってしまう」

 なんて、失礼極まりないことを平然と言ってくる始末である。ちくしょう、極大に余計なお世話だ。ジナコは地団駄を踏んで猛然と抗議した。

「ほんと無礼極まりない男ッスね! まさかボクが豚みたいだとでも言いたいんスか!」
「む、それは違うぞ、ジナコ。豚の体脂肪率は平均一四から一八パーセント。人間の女性のそれは二一から三四パーセントと言われている上に、お前はどう見ても標準を大きく上回るゆるみきった体型をしているだろう。一緒にするのは豚に失礼だ」
「それってつまりボクは家畜以下ってことッスか失礼な! ……って、ハッ」

 すっかりカルナのペースに呑まれている。このままではいけない。彼は昨日、自分に向かって酷いことを言ってきた最低な男だ。百害あって一利なし、これ以上関わってはならないのに。
 ジナコは見下ろしてくるカルナを警戒しつつ、先日やっていた格闘ゲームよろしく、すり足で彼から距離を取った。
いや、正確には取ろうとしたのだが。

 がつん、と。

 かかとが玄関に設置されているシューズボックスの角がぶつかり、電流のように激痛が走ったのだ。

「ひぎゅっ」

 ジナコが潰されたカエルのような声を上げたのと、体勢を崩したジナコの身体がぐらりと傾いたのは、多分ほとんど同時だった。
 目を見開いたカルナの顔が遠ざかり、代わりに天井の色が視界の大半を占めることとなる。

「ジナコ!」

 そのまま堅い床の上へと投げ出され、絶対不変の大いなる力である重力に従い勢いよく叩き付けられるはずだった哀れなジナコの身体。しかしカルナの鋭い声が響いたのと同時に腕を掴まれ勢いよく引っ張られたことで、今度は反対側へと勢いよく倒れ込んだのだ。
 ぼすん、とお世辞にも柔らかく心地いいとは言いがたく、しかし無機質な床よりは余程あたたかい何かに包まれる。

「無事か、ジナコ。……ジナコ?」

 降ってきた声があまりにも近いことに驚き、ジナコは襲い来るであろう衝撃に備えて反射的にぎゅっと閉じていた目を恐る恐る開ける。
 果たしてそこには、うっかりすると鼻先がくっつきそうなくらいの距離まで近付いたカルナの顔があった。女性のジナコですら羨むくらい白くきめ細かな肌が目に刺さり、朝焼けを思わせる切れ長の瞳の中には、ぽかんと大きく口を開けたまま呆けている間抜けな顔のジナコが映り込んでいて。
 つまり無様にすっ転びかけたジナコはカルナによって助けられ、その結果彼の腕の中に抱きしめられるような状態になっているのだった。

……何なんスか、この乙女ゲームも真っ青なクソテンプレ展開は。そしてへし折れるフラグ乙~」
「お前は何を言っているんだ」
「カルナさんは知らなくてもいいことッスよ」
「?」

 脇の下に手を差し込まれ、きちんと床の上に立たせようとしてくるカルナの手つきには、所謂そういう「男女の色」なるものがまるで感じられず、どちらかと言えば親が幼い子供にしているみたいだった。カルナもじっとジナコを見ていたが、大丈夫そうだと判断したが早いか、支えていた腕をさらりと外してしまったし。ジナコは妙に冷静な気分になってしまう。
よろけつつも体勢を整えたジナコは、うっかり熱を持ちかけてしまった頬を冷まそうと顔を手で扇ぎながら、ううっと小さく呻き声を上げた。
 だって違う、そもそもこれはそういう類いのアレじゃない。他人の体温を感じることなんて長いことなかったから、それで少し動揺しているだけだ。再三言うようだが、こんな男、欠片もジナコの好みじゃないのだから。
 というかアラサーともあろう大人の女性が、これくらいのことで取り乱してどうする。そうだ落ち着け、落ち着くんだジナコさんよ。己の中に眠る大人の女性の余裕を引っ張り出すのです。しかし残念、MP(と書いて人生経験と読む)が絶望的に足らない。
 あーあー、と意味もなく喚きながらそわそわしているジナコを見下ろしていたカルナは、少し困ったような顔で首を傾げて見せた。
 能面のような青年だと思っていたのだが、こうしてよくよく見ていると意外にころころと表情が変わっているように見えた。とはいえその動きが極小なので、わかりにくいということには変わりないのだが。
 ジナコがぼんやりとカルナの顔を観察し、そんな感想を抱いている間に、彼は随分と難しそうな顔をしながら言うのだ。

「ジナコよ。オレはお前が言っていることが、何故か時折ほとんど理解できなくなるのだ。お前は異国の言葉を交ぜて話すほどの教養の持ち主なのか? いや、口にしている言葉自体は異国のものではないはずなのだが、しかし」
「違うけど。でもそんな真面目に理解しようとしなくていいッスよ、多分カルナさんのこれからの人生において永遠に必要ないと思うから。でもまあ、とりあえずありがとッス……
「いや。床に穴が空かなくてよかったな」
「まさかのそっちの心配!? いくらボクだって、一般邸宅の床をぶち抜くほど重量級じゃないっつーの! って、あああああ! もう駄目、また呑まれてる!」
「?」

 何故だろう。この人と話をしていると、どうしてかペースを崩されてしまっていけない。
 彼の言葉には悪意が感じられないというか、とにかくひたすらにまっすぐなのだ。悪気も嘲笑もなく、ただ純粋に本心から言っているであろうことがひしひしと伝わってくるので、何となく邪険にしづらいところがある。まあそれはそれとしても、「お前は豚以下だ」と本気の真顔で告げてくるのも、それはそれでだいぶ問題だとは思うのだが。
 一人でじたばたしているジナコを余所に、カルナはどこかしょぼんとした様子で口を開いた。待て、何故そこで急に落ち込んでいるんだ、この男は。

「とにかくオレは昨日、お前に不快な思いをさせてしまったのだろう? それを謝罪したいと思ってやってきた」
「へ?」
「本当に、すまなかった」

 愚かな己が傲慢だったのだと、彼は目を伏せながら本当に申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする。見るからにしおらしいカルナの態度に、ジナコもすっかり毒気を抜かれてしまった。

「べ、別にそんなんいいッスよ、そんなの! ほら、ボクもみっともなく喚いちゃったし。ボクの無様を忘れてくれるなら、昨日の件は不問とするッス」
「承知した。……感謝するぞ、ジナコ」

 ほっと安堵の息を吐きながら頭を下げたカルナを、ジナコはハイハイと適当に返事をしながら受け流した。
 昨日ぼんやりと予想していたとおり、彼は本当にただただ言葉選びがへたくそなだけなのだろう。少なくとも投げかけられた質問にジナコを傷付けようという明確な意図はなかったはずだ。真摯に謝罪の言葉を述べている彼の姿からは、それがはっきりと伝わってきた。
 ジナコは彼のそんな性格を自分で先に予想しておきながら、それでも「ピアノ」というトラウマ単語に過敏になりすぎたのだ。その結果、うっかりそれを忘れてしまったジナコは、彼に対して我を忘れて怒り狂うなんてことになったわけで。
ちょっと大人げないことをしてしまったかなあと、ジナコは小さく苦笑を漏らした。

「とにかく、もういいの! この件はもうチャラね。あと一応言っとくけど、ボクはもう絶対にピアノは弾かないッスから。これはカルナさんがボクを怒らせたとかそういうのは関係ないッス。ま、そこんとこは予めよろしく~」
……そうか」

 念のためとあえて口にしてみたところ、やはりというか何というか、カルナはわかりやすすぎるくらいがっくりと肩を落としていた。
 声音は相も変わらず淡白なままだが、彼の表情の微妙な変化に慣れつつあるジナコには彼の内心を汲み取ることができてしまう。それ故に、非常に気まずい。

「あの、すんません。そんなあからさまにしょんぼりされると、さすがのジナコさんも良心が痛むというか、何というか」
「む、お前はオレの考えがそれほど明確にわかるのか。素晴らしい観察眼の持ち主だな。さすがはあのカリギリ氏の娘だ。お前はその才を活かそうという気はないのか?」
「う~ん。これってボクの才能とかじゃなくて、単にカルナさんがわかりやすいだけだと思うッスけど」
……………………そうか、そうなのか」

 もの凄い沈黙の後、見ていて哀れになるくらい項垂れながらカルナはそう言った。何故だろう、しょんぼりと垂れた犬の尻尾と耳の幻覚が見える。
 昨日あんなに恐ろしく冷徹に見えたはず目の前の青年が、今となっては妙に可愛らしく見えてしまっていた。可笑しい、自分にとっての『可愛い』の定義が、この男には何一つ当てはまっていないというのに。

「そういうわけだから。やることやったならもうボクに用はないでしょ。今度こそさっさと帰ったらどうッスか?」

 いい加減いたたまれなくなってきたジナコは、しっしっとそれこそ犬を追い払うように手を動かした。今度こそもう二度とこの青年と関わることもあるまい、と思いながら。
 しかしカルナは、突然ジナコの予想外のことを述べ始めたのである。

「ああ、今日果たすべき目的は達成したからな。ではまた来るぞ、ジナコ」
「は?」

 今、彼はなんと言った? また来るって?

 そうだ。ジナコの耳がおかしくなっていなければ、カルナは再びここへ来ると、そう口にしなかっただろうか。

「待って、待って待って待って。何それおかしくない? え、何で?」
「いいや、何も可笑しいことはない。カリギリ氏のこととは関係なく、オレが現在個人的にジナコに会いたいと思っている故だ。お前は……どうか、オレの傲慢な祈りを許してくれないか」
……だから、アタシはもうピアノは弾かないって、そう言ってるじゃない」
「そうだな。確かにいつかは聞きたいという思いもある。しかしそれはオレがお前に対して望む全てではない。うまくは、言えないのだが。とにかくそういうことだ」
「いやどういうこと?」

 この男は本当に何を言っているのだろう。ジナコはへろへろと足の先から力が抜けていくのを感じていた。
仕事で仕方なくやってきた先でいい年した引きこもりの女に喚き散らされて、楽譜の束を顔面に叩き付けられて、早く帰れ二度と来るなと一方的に泣き叫ばれて。
 そんな散々な扱いを受けたというのに、それでも自らその女に会うことを望むというのか。一体どういう神経しているのだろう、この男は。
 自分で言うのも悲しくなるが、ジナコ自身を冷静に分析すると、恐らく何度もお目にかかりたくなるような麗しい見目をしてはいまい。特にカルナのような、すれ違う人のことごとくが振り返り、上から下まで凝視しそうなレベルの超次元のイケメンであれば、周りに寄ってくるのも自然と見目麗しい女性ばかりになるはずだ。目が肥えているはずのそんな人間が、何故わざわざジナコに会いたいと思ったりするのか。
 もしかしたら、逆にジナコのような平々凡々かそれ以下の女が物珍しくて、興味を惹かれるところがあったのかもしれない。珍獣のような扱いで近付かれるのはちょっとどうかと思うし、いい気はしなかった。

 いい気は当然しなかった、はずなのだけれど。

……いいよ、勝手にすればいいんじゃない。おもてなしは何もしないッスけど」
「! 感謝するぞ、ジナコ」

 結局彼のペースに呑まれてしまった自覚はあるが、今となってはもういいやと許せる気持ちになってしまっていた。諦めて投げやりになってしまったとも言う。
 とにかくカルナがこちらに向かって飛ばしてくる予想外の言動の数々に、ジナコのほうはもうあれこれ問答する気力をすっかり削がれてしまっていた。だからもう好きなようにしてくれ。私も好きなようにさせてもらうから。そんな気分である。
 そうして何だか妙に嬉しそうな顔をしているカルナに、ジナコはまた一つ溜息を吐いたのだった。


 それからというもの、カルナはほとんど毎日といっていい頻度でジナコの家へ顔を出すようになった。


 とはいえ特に何をするでもなく、ただジナコの顔を見て、いくらか話をして。それだけで何故か妙に満足そうな顔をして家へと帰っていくのである。
 正直言って、そんな彼の行動はジナコにとっては謎でしかなかった。毎日をゲームとネット徘徊と睡眠に費やし、目新しい話題を何も提供出来ない女と一緒にいて、一体何が楽しいというのか。自分が逆の立場だったら絶対にこれっぽっちも面白くないと断言できる。
 しかし自分でそんなことを指摘するのはあまりにも刺さるブーメランが痛すぎるので、ジナコは特に何も言わず、聞かず、彼のしたようにさせておくことにした。これ以上の面倒事は御免被りたいところである。

 その後しばらく経つとカルナも慣れてきたのか、ジナコの私生活にちまちまと口を出すようになってきた。
 曰く、

「その寝ているのか起きているのか食べているのか判別出来ないような生活は改めるべきだ」
「栄養バランスのよい食事をしろ」
「視線を正しく保たねば将来骨を病むことになるぞ。女性はただでさえ老年期に骨が弱りやすい」
「ゲームをするのは構わないがきちんと電気を点けてやれ。目を悪くする」

 エトセトラ、エトセトラ。
 並べたてられる説教は段々とその回数と種類を増やしていき、いつのまにか顔を合わせれば絶対に何か一言は叱られているような状態になっている。しかもその一言は日を追うごとに鋭さを増すばかりときた。ああだこうだとお小言を述べてジナコの身の回りの世話を焼こうとしてくる様は、まるでジナコの父親か何かのようだった。
 彼の中では、仲が良くなった=遠慮なしに言葉をぶつけても問題ない、という意識なのかもしれない。
 
 待て、一体何なんだ、その絵に描いたような典型的なコミュ障具合は。

 いつのまにかジナコの内心は、いい年になって説教を受けている羞恥と怒りと、それを補って余りある、カルナの私生活でのコミュニケーションに対する心配で埋め尽くされていた。
 この人ちゃんと友達とかいるのだろうか。否、この分だと多分いない。それにもしいるとしたら、ジナコなんかのところにこんなに足繁く通うこともなかろう。
 しかしカルナが紡ぐ言葉は確かに鋭い刃のようではあったが、悪意を持って闇雲に振り回すようなものではなかった。ただ本当に一直線が過ぎるのと、それを包み隠すということを知らないのと、言葉の選び方が致命的にへたくそなだけで、本人的は本気で相手のためを思って言っているのだ。
 しかも本人的には相手を全力で気遣っているが故に、言うべき言葉を敢えて短く切ってしまっており、そのせいに余計に悪印象なほうへ勘違いされてしまうのである。

 
 ――せめてもう一言、自分で思ったことをちゃんと話すようにすればいいのに。


 ある日、ジナコがぽつりと彼に言ったことがあった。
 カルナはいつも気の遣う方向が少し頓珍漢なことになっている。本当に相手を思うならば、飲み込んだ言葉をこそ口に出して伝えてやるべきだろうに、と。
 何処までも淡白な態度と言動と、浮き世離れした見た目も手伝って、なかなかとっつきにくいように感じる彼。けれどこうして言葉を交わして共に時間を過ごしてみると、存外わかりやすいところもある、とても思慮深く優しい人であった。
 嬉しいことがあれば顔を綻ばせるし、悲しいことがこうやって可哀想なくらい落ち込む。そして紡がれる短い言の葉の奥には、彼なりの思いやりがその数倍は秘められているのだ。ジナコも正直イラッとさせられることはある――というか、正直言ってそればかりなのだけれど。
 だからそれを伝えるように意識的に努力すれば、もう少し親しみやすい人になれるのだと思ったのだ。カルナ自身、元々特別に人嫌いというわけではないのだし。
 何の気なしにそう言ったところ、カルナは何故か恐ろしくショックを受けたようだった。そうか、そうだったのかと何度も何度も繰り返し呟きながら、よろよろと床に崩れ落ちていくのを見たときは、一体何事かと目を剥いたものである。

「か、カルナさん?」
……オレは……そうか、そうだったのか」
「ちょっと、ねえ大丈夫? 聞こえてる? もしも~し!」

 返事がない、ただのイケメンのようだ。
 と、そんな冗談はさておき、ジナコが軽い気持ちで呟いたことがカルナにとってはそれなりに衝撃的なことだったらしい。今まで誰も指摘する人はいなかったのだろうか。見るからにがっくりとうなだれているカルナを見ていると、何だか胸の奥がくすぐったくなるような、何とも不思議な心地になってしまった。

「ま、まあとにかく、これからは思ったことを最後までちゃんと言い切ることッスね。カルナさんの無駄に洗練された無駄のない無駄な語彙力は、そういうときにこそ発揮するべきッス。ボクを謎に太ましい動物に例えなくていいから。わかった?」
「ああ……ああ、感謝する。感謝するぞ、ジナコ。この凡夫の身には余るほどの得がたきものを、キミにはもらってしまっているな」
「それはちょっと大袈裟なのでは?」

 ジナコの手を握りしめながら頬を染め、きらきらと子供のように目を輝かせて言うほどのことではなかろうに。
そう言おうとしたのだが、カルナがあんまりにも嬉しそうにして目を細めて笑っているから、水を差すのも悪い気がして。ジナコは結局、むぐぐとうなり声を上げたきり口を噤んでしまったのだった。
 ジナコはぽわぽわと花を飛ばしているようなカルナの笑顔からそっと目を反らし、何故かかっかと温度を上げてしまっている己の頬の熱さを、ひどく持てあましていた。

 その後もジナコは変わらずやってくるカルナを特に歓迎はしなかったし、カルナもそれを強要するようなことはなかった。ほとんど中身がないようなどうでもいい言葉を交わし、特別何かをするでもなく、ただぼんやりと同じ時間を共有するだけだ。カルナはそれでよかったらしいし、ジナコも色々言いたいことはあったものの、嫌というわけでもなかったし。
 何か大きく変わったことがあると言えば、恐らくは仕事を終えた後にやってくることもある彼を少しだけ気遣って、夕食を共にするようになったくらいだろうか。
 ジナコの家から自宅へ戻ってから食べると言っていたのだが、それだとかなり遅い時間になってしまう。常に自宅警備員として家の中で勤務しているジナコはともかく、社会人として普通に出勤して仕事をしているカルナにとって、夜しっかり休めないというのはかなり負担だろう。そもそもそんなに一生懸命ジナコのところへ来なくてもいいのだけれど、勝手にしろと了承してしまった以上、今更『来るな』というようなことを言うわけにもいかない。どんなにカルナのためにそうしたほうがいいと言ったところで、彼はそんなことはないと首を縦には振らないはずだ。
 そこで色々ジナコなりに気を遣った結果、ある日彼にぽんと提案してみたのだ。どうせなら、ここでジナコと一緒に夕飯を食べていけばいいじゃないかと。
 そういったときのカルナの喜びようと言ったら、提案したこっちがうっかり照れてしまうくらいで、どうしてそんなにと困惑したものである。けれど今はもうダイニングのテーブルを挟んで食事をするのが当たり前になっていて、カルナが夕食を作るからとキッチンに立つことも日常となりつつあった。
 ちなみにカルナが料理をするようになったのは、ジナコがろくに自炊をしていない現状を嘆き、もはや手遅れかも知れないが少しでも身体にいいものを摂取しろと無理矢理食事を作るようになったという経緯があったりする。手遅れとかテラ失礼だが、カルナの手料理はなかなかの腕前だったので、今度も勝手にしてくれと許可してやることにした。ジナコさんだってちゃんと大人の寛大さを持っているのである。

 それにしても、随分と自分の領域に立ち入ることを許してしまったものだ。
 誰とも関わりたくない、関わらせたくないと、これまでずっと堅い壁を作って他人を拒絶してきたのに。カルナはその壁を何でもない顔でぶち破って、強引にこちら側へ踏み込んできてしまっている。そしてジナコも、押し切られてしまったとはいえそれを許容し、いつのまにか日常の一部として受け入れてしまっている。

 こんな現状に関しては、ジナコ自身も少し驚いているのが本音だった。
 まるで家族か何のようにカルナと過ごしているこの現状に、心地よさすら覚えていることにも。