澪標-みおつくし-

トラブルにより身体が小さくなってしまった上、微小特異点に攫われてしまったジナコを助けに行くカルナのお話。

※発行当時のものから大幅に加筆・修正を加えております。内容自体は変わっていません。
※発行当時の情報に基づいた設定となっているので、最新の状況と齟齬が出ている部分もあります。


【第四章】



      《一》


 ──ざざん、ざざん。

 遠く、近く。寄せては返す波の音が聞こえる。
 この地球上に存在する全ての生命のはじまりを産み出した、原初のゆりかごの音。

 不思議と懐かしさのようなものを感じさせるそんな優しい音に引き寄せられるように、ジナコは重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。しぱしぱと何度も瞬きを繰り返す内に、ぼんやりとしていた視界が、徐々にではあるがクリアにものになっていく。
 ジナコが顔を上げると、眼前には広い広い大海原が広がっていた。どうやら何処ぞかの浜辺に転がされていたらしいが、こんなところで呑気に眠りに落ちた記憶は全くなかった。
 天にはまんまるの月が浮かんでおり、水面に落ちたその光がまるで道のように真っ直ぐ浜辺のほうまで伸びていた。月明かりが強いおかげで、夜にもかかわらず辺りの様子はよく見える。
 現実味を失いそうなほど幻想的な景色に目をくるくるさせながら改めて辺りを見回すと、ジナコの背後、つまり海原の反対側には見上げるような岩山と、深い森が広がっていた。どうやらここはその岩山によって周囲をぐるりと囲まれているらしく、まさに天然の要塞といった様相だった。
 そんな要塞の中、浜辺のちょうど真ん中あたりで、ジナコはでろんと寝そべっていたわけであるが。

「あ、あれ……? アタシ、なんで……
「やっと起きたか。よくもまあいつもそうぐうぐうと呑気に寝こけていられるな、お前。いっそ感心するぞ」
「あっ……!」

 不意に降ってきた聞き覚えのある声によって、ジナコの意識は一瞬にして覚醒する。
 反射的に起き上がろうとしたが、うまく力が入らず軽く身じろぎをするくらいが精一杯だった。どうやら彼女から受け取った魔力もほぼ尽きかけており、存在を維持するのでギリギリといった状態なのだろう。もうこうなると、誠に遺憾ながら大人しく助けが来るのを待つほかなさそうだ。
 一寸法師は転がっているジナコのそばに腰を下ろし、ただじっと海を見つめていた。その先に何が見えているのか、ジナコにはわからない。ジナコに願いを託してくれた『彼女』であれば理解することができたかもしれないが。

「え~と、あの……い、一寸法師さん?」
「何だ」

 相変わらず淡々とした声音で降ってくる一寸法師の声には、しかし何となくこれまでに投げかけられていた中になかった何か柔らかいものが含まれているような気がした。ジナコの中にまだ『彼女』がいると思っているためだろうか。
 しかしいざ呼びかけたはいいものの、いったい何を言えばいいのかうまくまとまらなかった。今はどういう状況なのだろう? マスターたちは? カルナは? あの村は? あのあと何をどうしてここまできた? どうしてジナコを攫ったのか? これからどうするつもりなのか?
 一体何から問うべきなのかとぐるぐる悩んでいるジナコの上に、一寸法師はぽつりと言葉を零した。

「忘れてない。……忘れてなんか、いないよ」

 思わずはっと顔を上げて彼を見やる。視線は相変わらず海のほうに向けられていたが、その横顔は先ほどよりわずかに寂しそうに見えた。

 忘れていない、と。彼はたしかにそう口にした。

 おそらくこれは先ほど(時間経過がよくわからないのでこう言っていいのかわからないが)、『彼女』がジナコの口を借りて問うた言葉への返答なのだろう。『彼女』の魔力がすっかりジナコの存在維持のために消費されてしまっている今、その言葉はもう届いていないのだろうし、一寸法師とてそれは理解しているはずだ。けれどわかっていてもなお、口にせずにはいられなかったのだろう。

「ぼくは……いったい、何をしていたんだろうな」

 ぼんやりとした横顔に、微かに自嘲めいた笑みが浮かぶ。
 その問いに対する答えをジナコは持ち合わせていなかったが、そう言いたくなる気持ちは痛いほど理解できた。どうしようもない無力感に捕らわれ、そのせいでますます動くことが億劫になり、恐ろしくなり、どんどん深い穴の中に落ちていくような、その感覚を。

 ――間が悪かっただけなのだ、と。

 かつて暗闇の中で藻掻いていたジナコに向かって、かつて――或いはいつか――あの喧しい男はそう言っていた。すべての物事はたいていそれで片が付くぞ、と。今の一寸法師を見ていると、まさにその通りだというような気がしてくる。
 けれど当事者としてそんな事実を突きつけられたときの、自らを苦しめると同時に守る言い訳でもあったモノたちも含め、何もかもを暴力的に洗い流してしまったあのときの記憶が蘇る。そんなものを他者に突きつけるような勇気が、覚悟が、今のジナコの中にはありそうもなかった。自分で塗り固めた鎧を剥ぎ取られたときのあの感情を、生々しく露わにする姿を見せられたら、きっとジナコ自身もどうしたらいいのかわからなくなってしまう。ジナコだって己の傷を完治させてこの場にいるわけではないのだから。
 あの男の強烈すぎる救いに対してジナコが投げつけたものたちを、彼のように受け止めるだけの度胸も持ち合わせていなかった。ジナコは弱い人間なので、自分以外の誰かを背負えはしない。辛うじてできることといえば、背負いきれくなったその人と一緒になって潰れてやることくらいだろうが、残念ながらジナコは薄情者でもあるから、彼と一緒に潰れてやる気もさらさらなかった。結局いつだって自分のことだけで手一杯な人間なのだ、ジナコ=カリギリという女は。
 そういう意味で言えば、あの男はやっぱりいろいろな意味で大物だったのだろう。こんなところで改めて思い知ることになるとは思わなかった。

……でもぼくは、まだ、終わってない」

 そして一寸法師もまた、一度膝をついたからといって、そのまま立ち上がれないような男ではなかった。
 濡れ羽色の瞳の奥には、まだ消えない炎がじりじり燻っている。覚悟とか、抱えた重いとか、己の中にあるそういった類いのモノを薪として炎の中にくべ、自分という存在を稼働させ続けている。
 既に終わってしまったはずの取り返しのつかない生に、もう一度チャンスが与えられたならば。そしてそれに手が届きそうならば。

「まだ終わっていない。ぼくはぼくのやりたいことのために、自分のやりたいことをやった。その始末はつけなくてはならない。その結末がどこへたどり着こうと」

 地面に放り出していた刀を掴み、一寸法師は立ち上がった。

「ぼくが欲するものは変わらない。けれど君たちはそれを止めたい。ならばぶつかるのは必然だ。……なあ、そうだろう?」
――ああ、そのとおりだ」
「ッ!」

 突如響いた凜としたその声に、どっ、と全身の血液が沸騰したような錯覚に陥った。暴れ回る心臓によって流される熱い血潮によって、すっかり冷え切っていた手足に僅かながら熱が戻ってくるような心地になる。
 突き動かされるように声がしたと思しき方向へ振り向くと、ジナコの予想したとおりの人物が、いつもと何も変わらない佇まいでそこに立っていた。青白い月明かりに照らされ、彼が身に纏う黄金の鎧が清廉な光を纏いながら輝いている。

「カルナ……

 思わず名を呼んでいた。だが彼の瞳はただじっと一寸法師──己が戦うべき相手を見据えて動かない。カルナは今、相対すべき敵を見据えた一人の戦士としてこの場に在るのだと、彼から発せられるピリピリとした張り詰めた空気から感じさせられた。

「ここへきたのはきみだけか? なんだか姫を救うために、悪役の前へと進み出る物語の中の王子様みたいだな」
「オレのような男にそんな華々しい役割は不相応だと思うが」

 茶化すように笑う一寸法師の言葉にも、カルナは何一つ揺るがない。

「少なくともオレがこの場において最優先として命じられた役割は、貴様を排除することでもない。悪いがしばし相手をしてもらうぞ、一寸法師よ」
……なるほど。カルデアのマスターがこの小槌の絡繰りに気付いたのか?」

 一寸法師は徐に取り出した黄金色の小槌を、手の上で弄ぶようにくるりと回した。カルナは答えない。だがその沈黙は、この状況においてはほとんど肯定と見做して差し支えないはずだった。立香たちが今まさに事態の解決に動いているという当たり前の事実に、しかしジナコはどこか安堵の気持ちを覚える。

「でもサーヴァントを一人きりで敵の元へ向かわせるというのは、なんとも無謀なことだな。ぼくがどういう戦い方をするか、すでに見ているだろうに」

 一寸法師が言いながら小槌を振るうと。潮風によって揺れる草むらの影がうぞうぞと蠢き始めた。噴き上がった漆黒の影は、やがてそれぞれのカタチを得て自立していく。正当なサーヴァントとしての形を得ることができない残滓たち――シャドウサーヴァントだ。一寸法師が小槌を振り上げると、そんな人理の影たちは手に手に己が武器を持って、カルナへにじり寄っていく。

「ッ……!」

 しかし影たちが各々のカタチを完全に形成しカルナに躍りかかるより先に、どこかから飛んできた妖しげな色をした光の矢が、悉くそれらを撃ち抜いたのだ。急所を貫かれ、悲鳴もなくばたばたと崩れ落ちた影たちは、そのまま空へと溶けるように消えていく。光の矢はその最初の一発だけでは終わらず、次々と放たれては生み出される影たちを撃ち抜いていった。
 あの攻撃には見覚えがある。確か紫式部が戦闘の際に使っていた術の一部だ。近接戦闘には不向きである彼女が、後方に身を隠しながらカルナの露払いとして攻撃を行っているのだろう。一寸法師とカルナが一騎打ちとなる状況を作り出すために。

……陰陽の術に通ずるものがいるのか。京の都で見たことがあるな」

 一寸法師もすぐに紫式部の存在に気付いたようだった。ちらりと視線をやった先に紫式部がいるのだろうか。気配察知などさっぱりできないジナコには当然わからないし、カルナが一切顔色を変えないのでそこから察することもできない。
 しかしいずれにせよ、明確に紫式部へと攻撃の矛先を換えれば、すぐさまカルナが割って入ってくることは明白である。たとえ必殺の一撃を食らわせることが叶わなくとも、隙を見せてなお完璧にその攻撃を防げるほど、カルナと一寸法師が持つ実力は拮抗していないはずだ。古き神秘の時代において神の血を色濃く受け継ぎその名を馳せた大英雄であるカルナを御せるだけの力を今の一寸法師が持っているのは、小槌からもたらされる魔力があってこそのことである。神の分霊であるとはいえ、英霊としての格が違いすぎるのだ。そしてカルナが一寸法師と相対し時間を稼いでいる間、別に動いているらしい立香たちが小槌の無力化ないし弱体化させるということなのだろう。

「しかしまあ、なんというか、カルデアのマスターはすごいな。神話の大英雄を、まさかこんな形で使うとは。人畜無害そうな顔をしているのになかなか傲慢であると見える。古今東西、数多の英霊を使役しているのだから、それくらい面の皮が厚くないとやってられないのかもしれないけれど」
「我らがマスターを、貴様がどう思おうと勝手だが」

 じり、とカルナの周りの空気がざわめいた。周辺の温度が少しばかり上がった気がする。潮風とは別の空気の流れで、カルナの白髪が揺らめいていた。まるでそれ自体が焔であるかのように。

「それはそれとしても、オレは個人的にも貴様と戦う理由があるのでな。烏滸がましいことではあるが」

 カルナは一寸法師に向かって槍を構える。一寸法師も腰に付けた鞘から刀を抜いて、カルナをじっと見据えている。

「貴様が己の欲するもののために戦うというならば――オレもオレとして、それに応えるまでだ」

 その言葉が合図となったかのように、両者は地を蹴り、金色と鈍色の刃が火花を散らして交錯した。




      《二》


 ――小槌が奉納されていた神社からさらに山を登った先には、使われなくなって久しくなった梵鐘がある。

 宿の老婆が教えてくれた情報に従い、立香、マシュ、アビゲイルの三人は、昨日全員でのんびり登ったばかりの山道を、今度は全速力で駆け上がっていた。道に敷き詰められた落ち葉が蹴り上げられるがさがさという乾いた音と、マシュの霊基外骨格オルテナウス が駆動する独特の音が、未だ深い夜の中にある静かな山中に響いていく。

「あ、あの、マスター! やはり私が抱えていったほうが」
「オレは、平気、だからッ、マシュはそのままで! アビー、ついてきてる!?」
「ええ、なんとか!」

 魔術礼装により強化を施した身体で、今のところはまだ勾配がなだらかな山道を駆け登っていく。しんどいことにはしんどいが、かつて大英雄ヘラクレスと生きるか死ぬかの追いかけっこをしたときに比べればなんてことはない。背後に迫る絶対的な死の気配と、それをもたらす破壊の化身に追い立てられ、背中を蹴り飛ばされるようにして走っているというわけではなく、今はただただ目的地を目指して駆けていくのみだからまだ気は楽であった。
 とはいえ、マシュに抱えられていくほうが早いのはわかりきっている。だがもし一寸法師がこういう事態になることを想定して罠を仕掛けていた場合、即座に対応できるのはマシュだけだ。もし突然一寸法師が用意していた視角が奇襲をしかけてきたとして、マシュが立香を抱えていたらどうしても咄嗟の対処は遅れてしまう。今隣を走るアビゲイルも、フォーリナーという規格外エクストラのサーヴァントであり、並のサーヴァントとは比べものにならないほど力を宿してはいるものの、急襲への対処などはどうしても実戦経験の差でマシュに軍配が上がるだろう。故に今はマシュが最大限自由に動ける状態を確保しておきたかったのだ。

「よし、とりあえず神社に、ッ!」
「マスター!」

 そうしてようやく神社の広い境内まで到達した三人が目にしたのは、その場を埋め尽くすほど召還されたシャドウサーヴァントたちだった。道中に罠などはなかったものの、やはり一寸法師がこういう展開を予想し先んじて対策を講じていたようだ。
 全員をこの場で排除するという選択肢は、こちらへ対する敵意をむき出しにしながら立ち塞がる彼らを一瞥した時点で即座に捨て去った。マシュとアビゲイルの二人だけではさすがに荷が勝ちすぎるし、時間が惜しい。カルデアの解析によって居場所を突き止めた一寸法師を止めおいているカルナと紫式部とて、魔力が尽きれば役目を果たせなくなってしまうのだ。かといって、彼らがおとなしくここを通してくれようはずもない。
 何とか突破口を見いだせないものかと、壁のように行く手を遮る敵たちを睨み付ける立香の前に、華奢な背中が進み出てきた。細い亜麻色の長い髪が、夜の冷たい風にあおられて柔らかく揺らぐ。

「あ、アビー……?」
「マスター、マシュさん。ここは私に任せて、どうか先に行ってくださいな」
「! アビゲイルさん、それは――

 マシュが何か言いかけたが、地面から唐突に生えてきたぼんやりと光る蛸の足のようなものに身体を絡め取られたことで、その先を紡ぐことは叶わなかった。突如宙に浮いたマシュを見てぎょっとしているうちに、立香も彼女と同じように瞬く間に身体を拘束されてしまう。身体が宙に浮き、思わず足をばたつかせた。

「おあ、ちょ、あ、アビー!?」
「急ぐからちょっとだけ乱暴をさせていただくわ、ごめんなさいマスター!」

 アビゲイルが言うが早いか、触手は振りかぶるように大きく揺れたかと思うと、そのままマシュと立香を空中へと放り投げた。

「うおおおっ!?」
「ッ、マスター! 動かないでください!」

 ぽーん、と木の葉か何かのように軽々と宙に放り出された立香の身体を、マシュが即座に抱え込む。霊基外骨格オルテナウスが煙を噴き上げ、二人はシャドウサーヴァントたちの頭上を越えて向こう側へと降り立った。即座に反転してアビゲイルのほうを振り向くが、彼女から返された言葉はやはり変わらなかった。

「行ってちょうだい、マスター!」
「アビー!」

 それでもひとりでは置いていけないと叫ぶ立香に、しかしアビゲイルはきっぱりと首を横に振った。わかっているだろうと、水縹の瞳がはっきりと訴えかけてきていた。
 この場を切り抜けるには、確かにこれが最適解かもしれない。掃討するわけではなくただ足止めをするのであれば難易度は格段に下がる。けれどだからといって、アビゲイルをたった一人で置き去りにするなどできるはずがなかった。

「でも……っ」
「ねぇ、マスター」

 小さく震えているそのか細い声は、しかし不思議とはっきりとした響きをもって耳に届いてきた。彼女が口にした音だけが切り取られ、喧騒を潜り抜けて直接目の前に差し出されてきたかのようだ。
 そして彼女は不安げに眉尻を下げながら、しかし真っ直ぐに己が主に問いかける。この場のおける己の在り方を。

「マスターは……私が、少しだけ悪い子になるのを、赦してくださるかしら?」
……!」

 空色の目を立香はハッと見開き、しかし落ち着かせるようにそっと閉じた。
 逡巡は、一瞬だった。おそらく立香が要したのは、流星が空から落ち、人の目に映らなくなる程度の時間で。
 一度瞼の舌に隠されたその色が再び光を受けたとき、立香の目には確かに覚悟が宿っていた。ここにアビゲイルを置いていくためのものだけではない。彼女がこれからしようとしていることを許し、そして受け入れるためのものだった。

「ッ、令呪をもって命ずる!」

 立香の手の甲に刻まれた紋が、流れる魔力によって輝いた。
 カルナと紫式部が別働隊として行動をするのに必要な魔力を補充する用途で既に二画使用しているため、これが最後の一画だ。マスターとして最大の切り札と言えるそれを、しかし立香は迷うことなくアビゲイルへと行使した。

「アビゲイル! 俺たちがやるべきことを終えるまでここを頼む! ――信じてるから!」
……!」

 だが立香はアビゲイルに対して、『許す』とは決して口にしなかった。その代わり、ただ許すよりももっと重たい枷になるであろう言葉を、マスターとしての絶対命令権とともにアビゲイルに残す。

「ええ、わかったわ!」

 マスターのそんな命令を、しかし彼女はぱっと明るい笑顔とともにしっかりと受け止め、喜んで自らをその重い枷で縛りつけた。そんなアビゲイルにしっかりと頷き返し、立香は踵を返す。

「行こう、マシュ!」
「ッ、はい!」

 そして今度こそ振り返らず走り出した立香の背を守るように、マシュも神社の奥に広がる森へ向かって駆けていった。
 シャドウサーヴァントたちは当然、自分たちが足止めを命じられている立香たちを追いかけようと踵を返す。しかしその行く手を遮るように、先ほど立香たちをぶん投げた異形の足が壁のように連なって出現したのだ。
 それらは近付くモノたちを威嚇するように、地面にその身を激しく叩きつける。轟音とともに大地が振動し、シャドウサーヴァントたちは僅かに後退した。目の前にあるものが力尽くで突破できるほど柔なものでないことを、肌で感じ取ったようである。
 牽制するように暴れ回っていた足たちは、しかし不意にその姿を消した。代わりに現れたのは、この場に一人残された華奢な少女。

「いぶとぅんく……へふいえ……んぐるくどぅるぅ……

 影たちの行く手を阻むべく立ち塞がったアビゲイルの口から、奇妙な単語が零れていた。
 この世界に存在しない、遠く、とおく、異なる次元で紡がれるコトバたち。

「──ふふ、ふふふっ、あはははははっ!」

 そうして少女は、突如狂ったように笑い声を上げながら天を仰いだ。
 かつて清廉なる町を狂気の混沌へと陥れた無垢なる少女は、その身に降ろした未知にして強大なる『力』を僅かに覗かせながら、高らかに笑う。さきほどまで臆病そうに身を縮こまらせていたとは思えぬ少女の異様な姿に、影たちは僅かにざわめいた。
 そんな影たちを冷たい瞳で一瞥し、アビゲイルはすう、と己の細く白い両手を持ち上げた。元々生白くはあれど、確かにヒトの色をしていたはずの淡い肌が、しかしこの月明かりの薄暗い闇の下で変貌していく。
 天に向かって広げられた小さな手が、指先が、艶めかしく宙をかき混ぜた。そして少女の祈りに応えるように、古めかしい装飾が施された重厚な扉が虚空から姿を現す。
 ぎいい、という錆びた鉄同士が擦り合わさる心臓に悪い音を立てながら、扉は僅かに開かれた。そうして少女が相対するものたちは、その『向こう側』にいるモノを開いた扉の隙間から垣間見ることとなる。

 嗚呼、彼らは目にしたことだろう。
 開いたほんの僅かな隙間から、毒々しいと形容するのも生ぬるいような色を纏った名状しがたき『モノ』が、ぞろり、ぞろりと、不気味に這い回っているのを。

 やがて扉の隙間から、その片鱗がゆっくりと『こちら側』へとその姿を現した。

「──────ッ!」

 本能的に何かを悟った者たちは、各々が弾かれたようにアビゲイルから距離を取った。
 だが愚かにもその場に留まってしまった者たちは、己に向かって伸びてくる幾本もの触手を切り落とさんと手に手の武器を振り上げている。こんな幼い少女の放つ攻撃など、たとえ如何に不気味に見えようとも、さしたる驚異にはなるまいと。
 しかし眼前に迫りくる圧倒的な『恐怖』を前に、全てが一瞬で、凍り付いた。

 そうだ、『恐怖』だ。

 ここに顕現せしは、圧倒的な力で己が敵を蹂躙し、排除し、その偉業を以て英雄と呼ばれた者たちの影。しかしその勇猛果敢に戦い抜いた猛者たちが、今やたった一人の少女を恐れ、足を疎ませて動けなくなっているのである。
 扉から溢れるように姿を現した異形の触手たちは、濁流のような勢いでずるずると地を這いながら、彼女を囲むシャドウサーヴァントたちをあっという間に絡め取っていく。恐怖で縛り上げられ、もはや動かぬ人形と化した影を排除するなど、もはや赤子の手をひねるよりも簡単なことだった。
 本来であれば決して見ることも能わぬ、こことは別の『外なる場所セカイ』から伸ばされた手足。それが人理の守護者の影たちを容赦なく締め上げて、引き裂いて、押し潰していく。抗いがたき圧倒的な『力』を以ての蹂躙。ぐちゃり、ぐちゃりという耳障りで粘着質な音の合間に、耳を劈くような悲痛な断末魔が迸る。
 そもそも扉の向こうにあるものと彼らとでは、生命としての格が違う。在り方が違う。生まれいずる意味も、意義も、何もかもが違うのだ。
 故に今行われている残虐なまでの蹂躙とて、例えるのならば道を歩く人間が、ごくごく自然に地面の土を踏みしめているようなものだった。そこに特別な感慨などがあろうはずもない。ただ踏みつけた土が己の靴の裏を汚すことに、一体何の感慨を抱こうか。
 彼らにモノを考える知性があったならば、消滅する直前に理解したはずだ。『ソレ』を直視してはならない。理解してはならない。さもなくば、この世界の理で生きる者では到底受け止めきれない狂気に、身も心も捕らわれるのだと。
 生きとし生けるものがすべからく抱く、原始的な感情。たとえ神のごとき力によって呼び出された境界記録帯ゴーストライナーであろうが、或いはその模倣でしかないものであろうが、そんな些細なことは関係なかった。心を持つ生ける物である限り、『恐怖』という感情から完全に逃れることは叶わないのだ。『恐怖』を押さえつける術を知る者は数多と存在しようが、その感情を知らぬ知性体など存在し得ないのだから。

「ごめんなさいね。本当はもっと、ゆっくりあなたたちのお相手をしてさしあげたいのだけれど……『アビゲイル』がそうすることを、マスターはきっとお喜びにはならないでしょうから」

 いつのまにか手に握っていた長大な鍵をくるりと回し、アビゲイルは改めて残ったシャドウサーヴァントたちに向き直った。先ほど咄嗟に身を翻して距離を持った賢き者達が、再びアビゲイルを排除せんと敵意を向けてきているのである。爪が、牙が、手に取った武器が、月明かりを受けてぬらりと妖しく光っていた。
 身を竦ませる恐怖を押さえつけ、己が目的のためにその恐怖の対象を排除しようとしている。乗り越えようとしている。これこそまさしく、世界に刻まれた英雄としてのあるべき姿だった。
 けれどアビゲイルは決して彼らを通すわけにはいかない。こんな己を信じると言ってこの場を任せてくれた立香に、自分は報いなければならないのだ。
 たとえこの行いが贖罪にはならずとも。人理に刻まれた『アビゲイル=ウィリアムズ』という記録に何かをもたらさずとも。何もかもが終わった後には消える夢幻だとしても。今ここにいる『藤丸立香のサーヴァント』としては確かに意味があることなのだと、アビゲイルはそう思っているから。信じているから。

――いあ! えいややはあふたぐん!」

 偉大なる父を讃える言葉を歌うように口ずさみながら、ぎいい、という扉の開く音を背後に、反英雄アビゲイル英雄人理の影たちの前に立ち塞がった。




      《三》


 青白い月光の下で、武士と戦士による激しい剣戟が繰り広げられていた。

 身を隠すものの一切ない平坦な浜辺で、二人はただ純粋に己の技量のみを以てぶつかり合っている。
 刃が合わさる度に夜の中へ目映い火花が散る。硬質な金属同士が激しく激突する音は、カルナの心を僅かに高揚させていた。幾度も渡り歩いてきた戦場で聞いてきた、既に耳慣れた音。心地よさすら感じる互いの技と技とのぶつかり合いに、戦士としての歓喜を求める心がどうしようもなく疼いているのを感じていた。
 カルナが宵闇を槍の穂先でなぞるように横薙ぎに振るうと、そこから真っ赤な炎が生み出される。噴き出した炎は、そのものが意志を持つかの如く不規則に曲がりながら、相手を翻弄しつつ焼き尽くさんと向かっていった。
 しかし一寸法師が同じく空を切る刀を振るうと、どこからともなく激しい水しぶきが噴き上がり、空気を焼きながら進む炎と正面から激突し、相殺した。じゅう、という水分が急激に蒸発する音と共に、白い蒸気が辺りにまき散らされる。
 そんな白い蒸気を貫き、レーザーのような攻撃がカルナの心臓や脳天を狙って真っ直ぐに放たれた。さきほど防御壁として一寸法師の周りへと噴き出した水しぶきが、今度は攻めの一手へと変化させられたのだ。間髪入れずに次々と発射されるその攻撃を、カルナは瞬時に身を翻すことでかわし続けていく。
 標的を射貫くことなく代わりに地面に突き刺さったそれは、浜辺の砂を吹き上げて地面に深々と穴を生み出していた。高度に圧縮された水は、金剛石ダイヤモンドをも削ることができるほどの鋭さを擁した刃と化すと聞く。今しがた彼が放ったレーザーのような攻撃もおそらく同じ原理で放たれており、まともにくらえばあっというまに身体に風穴を開けられてしまうことは間違いないだろう。だが強く圧縮されているためか攻撃範囲自体はさほど広くないので、ただ避けること自体はまだ容易である。
 レーザーのような攻撃と、そこに混ぜて放たれる散弾のような水の弾を避けながら、カルナも手のひら大に圧縮した火炎の玉を前方へとばらまいた。しかし一寸法師がその都度自分の周りに分厚い水壁を発生させるせいで、こちらの攻撃も相手の身体を焼くことはできない。
 炎と水が激突する度に激しく蒸気が噴き上がり、その向こうから一寸法師が刀で斬りかかってくる。刀と槍とではリーチの差でこちら幾分有利なはずなのだが、その有利をかき消せる程度は一寸法師がそういった差を加味した戦いに慣れているようだった。元々攻撃範囲が大幅に劣る小さな身体で戦ってきた経験と、彼が持っているとカルナが先に予想した『流れ』を見極めることのできる目が、この戦い方を可能としているのだろう。
 だがカルナとてこれまで様々な敵と相対してきた。リーチの差を覆されたごときで翻弄されることはない。距離を詰められると逆に不利となりがちな槍を、しかし己の手足と同じであるかのように的確に操りながら一寸法師の攻撃をさばき、尚且つ自分の攻撃を隙なく織り交ぜていく。
 現状、互いの力はほぼ互角の状態で拮抗しているといえた。
 しかしこちらは燃費が大変に悪い上に、マスターである立香がそばにいないがために、魔力の供給に大幅な制限が課せられている。一方、向こうは小槌という亜種聖杯によってほとんど無制限に供給可能であるときた。長期戦になればなるほど、状況がカルナの不利に傾いていくことは火を見るより明らかである。
 だが自分の役割は彼を倒すことではなく、あくまでこの場に彼を止めおいて時間稼ぎをすることだ。そして立香たちが小槌を無力化することができたことを確認した後、残った魔力を費やして一気に畳みかける。もちろん、そのときのために最低限の魔力も残しておかなくてはならない。カルデアの頭脳たちが先に分析したとおりであれば、一寸法師自身が元々持っている能力とて決して侮れるものではないのだから。

「くっ……!」

 しかし一寸法師の顔には徐々に、しかしはっきりとわかるほど焦りの色が見え始めていた。もしかすると立香たちの方へ打っていたという『対策』が既に打ち破られており、そのことを何らかの形で感じているのかも知れない。
 故に早急にカルナを倒してそちらへと向かいたいのだろうが、カルナが足止めに徹しているため、離脱の隙を見いだせないでいるようだった。さすがにシャドウサーヴァントを次々と召喚する余力はないのか、紫式部の牽制が的確なのか、彼らの攻撃がカルナに向くことも現状ないように見える。
 小槌の魔力ブーストがなければ、一寸法師とて今の均衡を保つことも難しいだろう。この特異点が存在する日本という国における圧倒的な知名度補正や、彼というサーヴァントが持つ元来の力があるとしても、魔力の供給がなければそれを十全に発揮することはできないのだから。
 そして、ついに。


 ──ごぉーん、ごぉーん。


 鈍く重たく、しかし不思議と遠く響く音が、辺りの空気をびりびりと震わせた。
 カルナたちが待ち望んでいた、一寸法師にとっては終わりの象徴であろう音が、辺りに鳴り響いたのだ。
 浜辺に召喚されていたシャドウサーヴァントたちが、響き渡る荘厳な音に呼応するかのように、みるみるうちにその姿を消していく。見れば一寸法師が手にしている小槌も、さきほどまでと比べると輝きが失われているように見えた。どうやら立香たちのほうもうまくいったらしい。

……ははは。これでついにおしまいか」

 手の中の小槌を見下ろしながら呟く一寸法師の顔は、しかし予想していたほど絶望に支配されてはいなかった。憑きものが落ちたような、とはまさしくこういう表情を指していうのかもしれない。

「ここまでお膳立てされていて、結局ぼくは何も成せなかったわけだ。これでは出来損ないだと捨てられ、何にも顧みられず、愛されなくて当然だ。ぼくには何の価値もない……
「いい加減見苦しいぞ、一寸法師よ」

 嘲笑を浮かべる一寸法師にそう告げる。一寸法師はじとりとした目でカルナを睨み付けた。しかしこれだけはどうしても告げなくてはならない。

「サーヴァントは、人の祈りや願いによって喚び出される存在だ。ここに在れと何かに求められなければ、オレたちはこの世に姿を現すことすらできはしない」

 一寸法師がサーヴァントとしてここに立っている以上、彼は確かに求められている存在なのだ。もちろんこれは一寸法師が望む求められ方――愛され方ではないのかもしれない。
 だが、それでも。

「貴様が動いたのは確かに己の願望のためかもしれん。だが、その始まりは貴様を求めた者の、たった一つの祈りだ」
…………
「その事実を告げた上で、敢えて問おう。貴様は真に何者にも顧みられず、愛されず、求められぬ存在だと言うのか?」
――ッ!」

 一寸法師は目を見開き、刀の切っ先を足元の砂浜に叩き付けながら叫んだ。

「黙れ……黙れ、黙れ! お前にぼくの、何がわかる! 我が身を生み出した親から理不尽に手を離され、放り出され、あげく落ちていく様にすら目を向けられることもなかったぼくの気持ちなど! たとえ死後にいくら己を求められたところで、その傷は消えやしないんだ!」

 一寸法師が己の胸の辺りを掻きむしるようにしながら吐き出すその叫びは、どこか悲痛な色を宿していた。まるで嵐の海原に唐突に放り出されたような、そしてそんな不安定さのさなかから、必死に助けを求めて手を伸ばしているような。
 そんなことはない、自分にもその気持ちは多少理解できる――などという言葉を、けれどカルナはとうてい口にはできそうもなかった。そう彼に伝えることは、あまりにも傲慢なことである気がしたからだ。
 確かにカルナ自身も赤子の時分にその存在を疎まれ、川に流され捨てられた身ではあるが、そんな事実を述べたところで彼の傷を癒やすことは決してできまい。捨てられたといっても、カルナはその後命を拾われ、信頼できる友を得ることができた。偉大なる実父の力に守られてもいた。己の運命を呪ったことが一切ないと言ったらさすがに虚言になるかもしれないが、今ここで振り返ってみればすべてが不幸でしかない人生だったとは思えなかった。

 けれど、彼だってきっと同じはずだ。

 ともに大義を成した得がたい友がいた。謀略を巡らせてでも共にありたいと願うほど愛した伴侶がいた。故に一寸法師とて、完全なる孤独の存在はなかったはずなのだ。
 しかし完全に孤独に身を浸すだけの生涯ではなかったからこそ、誰かを想い、そして想われる幸福を知ってしまったからこそ、一寸法師は己の愛されなかった部分をどうしても否定したかったのだ。自分を思ってくれる大切な人たちの心を、ただまっすぐに受け止められるような、そんな自分に成りたくて。
 けれどそんな事実を今の一寸法師に突きつけるのは、あまりに残酷なことに思えた。

……貴様に理解は求めん。何にせよ、今更な話だ」

 故にカルナは口をつぐみ、これ以上の問答は不要だろうと切り捨てた。たとえどんなに言葉を交わしたとしても、互いの結論が交わることは決してないことはわかりきっている。

「これだけははっきり告げさせてもらうぞ、一寸法師よ。お前が如何な方法で己のための『愛』を求めようと、オレにそれを糾弾する権利はない。だが――

  だが、それでも。
 たとえ目の前の相手がどれほどの悲哀の中にあろうと、何を求めて足掻いていようと、カルナの心は端から決まっていた。相手が自らの望みのために行動しているように、カルナも己の願いのためにこの場へきた。そしてそんな私利私欲でしかない望みを受け入れてくれたマスターのために、カルナはこの槍を振るうのだ。

 己の願いのため。
 そしてそんな己の願いを受け入れてくれたマスターのため。

 つまりカルナとて一寸法師と同じように、ただ一騎のサーヴァントとしてこの場に存在しているのだった。


――オレの『愛』を、貴様にくれたままにしておくわけにはいかんのでな。悪いが返してもらうぞ、一寸法師よ」


 神すら終わらせることができる灼熱の烈火が、カルナの周りを俄に渦巻いた。




      《四》


 知っている。
 目映い炎を、黄金が砕ける刹那の輝きを、ジナコは知っている。

 めりめりと鎧が裂け、剥がれ、彼の一部が壊れていく音がする。鉄錆の香りが立ち上がり、しかしそれもすぐに圧倒的な熱気によってかき消されていった。
 想像を絶する痛苦が身を苛んでいるだろうに、カルナは顔を歪めることもなく一寸法師を静かに見下ろしていた。そしてカルナの痩身は、ごうごうとその身すらも焼き尽くすのではないかというほどに燃え盛る炎にいざなわれるかのように、ゆっくりと浮上していく。背中にある翼状の装飾が開いていくさまは、まるで太陽がゆっくりと地平の向こうから姿を現すかのようだった。

 綺麗だ、と思った。
 相対する敵に終焉をもたらすその姿は、しかし今のジナコの目にはひどく美しいものに映っていたのだ。

 決してそうなりたいとは思えない。思えないけれど、それでもジナコが救われた彼の在り方そのものが、彼自身をそういう壮絶な美しさを持つ者として、ジナコへ認識させているのかもしれない。

「たとえその結末を貴様自身が愚かだと断じ、切り捨てようと。己が抱くただひとつの願いのために戦った貴様の愚直さを、オレは讃えよう。故に我が渾身の一撃、手向けとして受け取るがいい」

 神々の帝王インドラより賜りし、絶対破壊の一撃。カルナがその身に備えている全ての防御を代償にして放つ、彼の持ついくつかの宝具の中でも最も威力が高いと思われる宝具。
 それが今、浜辺でどこか所在なさげに立っている一寸法師へ向けて炸裂しようとしていた。
 眼下で彼を見上げていた一寸法師は、やがて徐に顔を伏せる。そうして次に顔を上げたとき、その顔にはどこか不敵な笑みが浮かんでいた。

……それは、それは。武人としては実に誉れだな。ならぼくも一端の戦人として、全霊を以てきみの心に応えるとしよう!」

 一寸法師はそう言うと、手にしていた刀を地面へと突き立てた。
 彼が立つ背後、宵闇の静けさを抱いて揺れていた海面が、にわかに騒ぎ始める。唸り始める。彼を中心として、辺りはいつの間にか深い霧が立ちこめていた。
 そして白い濃霧に包まれた海の向こうから、大波と共に一隻の小船が姿を現したのだ。先の尖った木の実を割ってできたような形の小さな船。暴れ始めた波によってあっという間にひっくり返ってしまいそうなそれに、しかし一寸法師は躊躇いなくひょいと飛び乗った。

――我、常世より参りし天津の神なり。彼方より参りし遙かなる我が旅路を、今再びここに示さん」

 一寸法師の静かな、それでいて不思議とよく透る声。
 そんな澄んだ音で紡がれる彼の言葉たちに応えるように、ごうごうと海が吠えた。激しく荒れ狂う潮が、渦を巻きながら一寸法師の乗った小舟を包み込むように噴き上がり、その行く末を導かんとしている。

 海の遙か向こうにあるとされる常世と、我らが住まうこの現世の境を越えたという、神話に描かれたその姿。
 かつて神々の住まう高天原より、たった一人でこの小さな島国へとやってきた、少名毘古那神の旅路の再演。

 一寸法師がくるりと手を動かすと、激しく荒れ狂う波が生き物のようにうねりながら収束していく。意志を持つ蛇のようにうねる渦潮は、眼前に立ち塞がる主の敵へ向かって放たれるときを今か今かと待っているようだった

――神々の王の慈悲を知れ。絶滅とは是、この一刺し」

 だがそれは、カルナの放とうとしている灼熱の焔とて同じこと。
 身の丈を優に超えるほど巨大なものへと姿を変えた槍の穂先が、ゆっくりと一寸法師に狙いを定めていく。ジナコとカルナがいる位置とではそこそこ距離があるはずなのに、露出した肌の部分が僅かに焼け、ひりひりとした痛みを感じるほどだった。あれをまっすぐ向けられている一寸法師は、一体どれほどの熱をその身に浴びているのだろう。
 見下ろす視線と、見上げる視線が、静かにかちあった。
 そして――

「焼き尽くせ――日輪よ、死に随えヴァサヴィ・シヤクティ』ッ!」
「境界を駆けよ――天乃羅摩船アメノカガミノフネ』!」

 互いが発動した宝具が、咆哮する炎と海が、真正面から激突した。

……ッ!」

 噴き上がる炎と荒れ狂う海がぶつかり合う。
 耳をつんざくような轟音と、激しく揺れる大地。

 唐突にひどい嵐のど真ん中に放り込まれたような衝撃に、もはや悲鳴を上げることすらままならなかった。ぎゅうっと強く目を閉じ、自分の身体を抱きかかえるように縮こまり、この恐ろしい時間が一秒でも早く過ぎ去るように祈ることしかできない。二人が放つ宝具の余波によって身体をもみくちゃにされ、砂浜の上に転がっているのか、海に放り出されているのか、そんなことすらさっぱりだった。自分が今どういう状態になっているのか見当も付かない。
 やがて轟音が徐々に消え、周囲の状況に気を回せる段になるまで意識を手放さないでいられたことが奇跡だと思った。

「は……

 恐る恐る開いた目に飛び込んできた光景に、ジナコはぽかんと間抜けに口を開けた状態で固まってしまった。
 絵になるほど美しく静かな情景が広がっていたはずの目の前の海岸は、対軍宝具が真正面からぶつかりあった余波によって抉られ、吹き飛ばされ、かき混ぜられ、もはや完全に違う場所へと成り果てていた。
 平坦だった砂浜は大きく形を変え、クレーターのような大穴があちこちで口を開き、砂も激しく吹き飛ばされて先ほどまではなかったはずの岩が露出している場所が多々見受けられる。一方、間違いなく元々あったはずの岩は姿を消し、近くにばらばらになった残骸らしき小石の群衆が、残された砂に半ば埋もれながらばらまかれていた。
 その変わり様は、実は先ほどの巻き込まれた激しい嵐によって、自分が全く別の場所へ吹っ飛ばされたあとなのではないかと思ってしまうほどである。

 そんな変わり果てた砂浜で、膝を突く男が二人。

 片方は黒衣を纏う、ジナコがよく見慣れた男。元の錫杖のような形態に戻った槍をつき、ふらつく身体を支えている。黒いからよくわからないが、彼が膝をついている地面にぼたぼたと赤い花が咲いていることから、身体のあちこちが切り裂かれ鮮血が噴き出していることは明白だった。
 もう片方は、和風な美しい衣に身を包んでいたはずの男。しかし全てずたずたに切り裂かれ、もはや元々どんな形の衣だったのかわからないレベルになっていた。炭化した布はぼろぼろと崩れ、その下から覗く肌は目を覆いたくなるような酷い火傷を負っている。
 この勝負は引き分けかと思われたが、しかしよくよく見れば一寸法師の身体が僅かに粒子化し始めていた。魔力を全て使い切り、存在を保つことができず退去する寸前なのだろう。カルナとてボロボロではあるが肉体は形を保っており、治療さえ行えばまた問題なく動けるであろう。
 だがそんな中、先に動いたのは一寸法師のほうだった。
 彼を突き動かしているものは、もはや執念としか言いようがなかった。サーヴァントとして存在するために必要な魔力を極限まで失った状態で動くのがどれだけ大変なのか、今のジナコは身をもって知っている。
 だが一寸法師は精神力でその不可能を押しのけ、重たい足を無理矢理前へと進ませ、まだ十全に動けないらしいカルナに向かって刀を振り上げたのだ。

 ――カルナが危ない。

 とにかく瞬間的に、そう思った。
 そしてジナコの脳がその結果を出力したが最後、勝手に手が動いて、己の中に残された僅かな魔力をめいっぱい駆動させていた。




      《五》


 己に死をもたらさんとするものがゆっくりと、しかし確実に己が元へと迫ってくる気配。
 魔術の施された鉄扉を引きちぎる力を持つ豪腕が、渾身の力で放つ一撃。

 これは確実にこの命を刈り取るであろう。全ての防御を捨て去ることで発動する宝具を放った直後である今のカルナの状態であれば、なおのことだった。
 黄金の鎧を再び編むだけの魔力が残されていないどころか、槍を持ち上げようとした腕にもまだ宝具発動の反動が残っているらしい。大量の鉛をくくりつけられたように思い手足は、とうていいつもどおりには動いてくれそうになかった。あまりにも全てが重く、そして遅い。
 攻撃を放った直後にここまで隙を見せるのは、戦士としてあるまじきことだった。相手の反撃を想定し、すぐにでも動ける状態を保持しておくのは、もはや言うまでもない基本的な心得である。
 だがそれを放棄するほどの力を宝具発動へと注ぎ込んだのも、すべてはカルナの自分勝手な思いだった。己が抱く願望のためにと足掻き、戦うことを決めたこの男に、全力で以てぶつかりたかったから。ともすれば愚者であると誹られそうな姿を、それでもカルナは人としての美しい在り方だと思ったから。カルナはそういう愚者が願いを叶えるためにと求められ、この世界に顕現する存在なのだ。
 故に今この一撃を防ぎ切れそうにないのは、そんな己の傲慢さがもたらした結果としか言いようがない。
 そして、彼の中に僅かに残る力のすべてを注ぎ込んだ一撃が、真っ直ぐに振り下ろされる。

「はああああっ!」
「ッ……!」


 ――硬い金属同士がぶつかるのにも似た音が、響いた。


 しかしそれは、カルナが己の槍で一寸法師の攻撃を防いだことにより生じたものではない。
 カルナの頭蓋を叩き割り、脳漿をまき散らすと思われたその一撃は、しかしその聞き慣れたものとは似て非なる音と共に、不可視の壁に阻まれたのだ。
 眼前まで迫っていた一寸法師の瞳が、不測の事態によってもたらされた激しい動揺によって、一瞬だけ揺れる。
 だが一瞬であろうと、勝負を決するには十分過ぎる時間だった。

「っ!」

 カルナは未だに痛みを残す手足を叱咤して、再び槍を握り締め、振るった。
 槍の穂先が相手の肉を深く抉り、切り裂く感触。
 己の記憶の中にいくつも存在するその慣れた感触が、理屈であれこれ考えるまでもなく教えてくれる。相手は反射的に身を引いたようだが、それでも今その身に刻まれた傷の深さは恐らく致命であるに違いなかった。小槌から受けていた無限の魔力供給を一時的に失い、宝具の発動によって退去する寸前まで魔力を消費していた彼に、もはや勝ち目があるはずもない。

「ッ……!」

 月夜の中に散った鮮血の向こう、カルナの手が届かぬ先に立っていたその人の姿に、カルナは目を見張った。
 彼女はガネーシャ神の『障害の神』としての権能を、攻撃から身を護る防御として一時的に味方に付与するスキルを所持していたはずだ。先程カルナの命を潰えさせるはずだった攻撃を防いだのは、恐らくその効果によるものなのであろう。

 だがそのスキルを行使するだけの魔力が、今の彼女の中には果たして残されていたのだろうか。

 元々肉体の状態を保てないほど魔力を放出し、手のひら大の小さな生き物となってしまっていた彼女。身体の大きさが元に戻っている理由は定かではないが、マスターと唐突に放されてしまった状況に鑑みれば、その後も十分な魔力が供給されていたとは考えにくい。

「■■■――!」

 思わず口からこぼれ落ちていったその名は、彼女にもはっきりと届いたのだろう。榛色の瞳が一度見開かれ、その後ゆるりと優しく細められた。
 何もかも、もうこれで十分なのだとでも言いたげなその色に、女が己の中で何かを手放したのだという予感がカルナを貫く。
 終ぞ感じたことのないような感覚が、ぞわりと背筋を駆け上がっていった。
 待ってくれと叫びたいのに、喉の奥が引きつれているかのようでうまく言葉が出てこない。スローモーションのように進む時間の中で、けれど自分の動きはその世界の速度以上に遅い。

「間に、合った……ッス、ね……フヒヒ……
「あ……

 何もかもがゆるりと緩慢に、しかし残酷なくらい確実に回り続ける世界で、彼女の声は不思議と明瞭な響きを以て、カルナの脳髄に突き刺さってきた。
 そしてその言葉が柔らかな唇からこぼれ落ちきったかと思うと、■■■の身体はゆっくりと地面に向かって傾いたのだ。寿命を終えた樹木が、人知れず静かに倒れ、土に還っていくように。
 もし■■■が今、己の存在を保てるぎりぎりの魔力しか有していなかったとしたら。その上で無理矢理スキルを行使してカルナを守ったのだとしたら。辿り着く結果はもはや明白だった。
 魔力の枯渇。霊格の消耗。行き着く先は、サーヴァントとしての『消滅』である。

「■■■ッ!」

 無我夢中で手を伸ばすが、しかしあまりにも遠い。からっぽなまま何も掴めない手は、虚しく宙を掻く。何故、と奥歯が軋む音を刻むほど歯を食い縛ったが、その行動すら何も意味を持ちはしない。
 そうしてカルナの手の届かない場所で、彼女の身体は冷たく砂の上で崩れ落ちていった。





      《六》


 もうこの際だから、素直に白状しておこう。
 正直なところジナコは、何にも考えていなかったのである。

 つまりほとんど反射的に動いてしまっていたから、ジナコ自身も止めることができなかったのだ。はっと気付いた時には、全てが終わっていたので。
 今ここでカルナという戦力を失うのはおそらくマスターにとってもかなりの痛手で、きっと『ガネーシャ神』を失うよりも影響は大きいはずだと、自分の中でそんな建前の言い訳を作り上げた。怒られたらあとでそう伝えておくとしよう。これならば反論の余地はあまりないはずだ。いや、あのお人好しの化身みたいなマスターのことだ。たとえどんなに理屈の上で正しかったとしても、『ガネーシャさん』が失われることを良しとはしないかもしれない。まあ、怒られたらそのときはそのときである。
 ついでに言うと頭の中で微かに悲鳴のようなものが聞こえた気がしたが、あれはもしかしたら己の中に宿るガネーシャ神のものだったのかもしれない。何にせよ、結局は全部都合良く聞こえなかったことにしてしまったのだけれど。

 ──ヴィナーヤカ。またの名を「無上」。

 ジナコが依代となっているガネーシャ神の別名でもあるその名は、ジナコが疑似サーヴァントとして使用できるスキルの名称にもなっている。「障害の神」として権能を防御の形で発現させて他者に付与し、一定時間あらゆる攻撃から守ることができる力だ。
 だが強力であるが故に、デメリットも当然存在する。神の名を冠した権能を、一部とはいえ人の身で行使するのだ。単純に魔力を大きく消費することになるが、今のジナコには、存在を維持するギリギリの魔力しか残されていなかったわけで。

「あ……

 発動したスキルによってカルナの身がしっかりと守られたのを視認した瞬間、がくん、と全身から力が抜けていくのを感じた。
 今までは魔力不足のせいで動かすのが億劫になるくらい手足が重かったのだが、それとは全く別種の感覚だった。自分の肉体を構成しているものが、致命的に抜け落ちていくのが手に取るようにわかる。するすると色々なものが抜け落ちていくせいで、寧ろ身体が軽くなったな、という印象すらあった。
 視界がじわじわと、暗闇に蝕まれていく。意識が呑まれていく。落ちていく。
 
 怖かった。

 ジナコは死にたくないし、消えたくなんかない。
 カルデアで再召還が可能であること自体は知っている。だがそこで喚び出された存在が、果たして今ここにいる『ジナコ』と同じであるかどうかはわからなかった。様々なイレギュラーによって奇跡的に此処で存在することを許されている身が、その『もう一度』に適応できるかどうかなんて、ジナコ自身にも判断できやしないのだ。
 でもそんな、泣き叫びたくなるような真っ暗な恐怖の中で、不明瞭になっていく世界の中で、それでも最後まで彼の色だけははっきりと視認することができた。

 痛いくらいに眩しくて、思わず目を覆ってしまいたくなるのに、手放すことができない光。
 ジナコの奥に宿り、深く根付いてしまった祝福呪い

 そんな顔をしなくていいのに、と思った。
 ジナコはきっともう、これで十分役割を果たせたのだ。かつては足枷にしかなれなかった自分が、彼の力になれた。与えられた役割を全うできたという以上に、そのことがただ単純にジナコとしては嬉しかったのだ。
 当然、全て悔いなく終えられたかというともちろんそんなことはない。けれどどんなに一緒にいたかったと嘆いたところで、本来ならばあり得ない奇跡を与えられたことに対して相応の代償を支払うときがきてしまったのだとしたら、それはそれで仕方がない。
 代償が自身の突然のおしまいだとしたら軽すぎるくらいだ。そんな奇跡をもらっていた上に、たくさんの手に余るほどの報酬を、カルナ自身が惜しみなくジナコへ与え続けてくれたのだから。

「■■■──!」

 だって、ほら。彼はこんなときにだって、こうやってジナコを呼んでくれるから。
 名前を呼んでくれるというだけことがこんなにも嬉しくてたまらなくなるなんて、ジナコは知らなかった。自分が本当は誰なのか、ここにいるのが何なのかという不安に苛まれているときに、彼はそんな気持ちが見えているかのように『ジナコ』を呼んでくれた。二度と紡がれることがないはずだった名前を、他でもないカルナが呼んでくれるだけで、ジナコは十分すぎるくらい恵まれている。
 自分は本当に、もったいないくらい幸せだ。幸運値の基準が若干バグっている彼に分けてあげたいくらいには。
 でも本音を口にして許されるのならば、やっぱり『今のジナコ』として、もっとずっとみんなと一緒にここにいたかった。マスターである立香の旅が終わったときに、ああやりきったのだと、カルナやみんなと一緒に笑い合いたかった。
 彼に伝えたかった気持ちは――まあ、これに関しては秘したまま墓まで持って行くつもりだったから、別にいい。自分にもこんな気持ちが芽生えるのだと、誰かを愛せるだけ自分は真っ当に『人間』なのだと知ることができた。だからこれを胸の内に抱えていることが、ジナコがジナコという人間である証左になる。そんな唯一無二の自分を証明できるような宝物になったから。
 そう、ジナコはどこまで行ってもただの人間なので、お別れが哀しい気持ちを無視することはできないし、後悔もなく清々しく全部を終われるなんてことは決してない。
 けれど、だからこそジナコはいつもどおり、虚勢で何とか己を塗り固め、笑って見せたのだ。最後のお別れは笑顔でしたいと、ずっと前からそれだけは心に決めていたから。
 そうして最後の最後まで、己が愛したその光を目に焼き付けながら、ジナコは覆い被さってくる暗闇に静かに意識を委ねたのだった。

 たとえどんなに閉ざされたはこの中であろうと。
 あの光を胸の内に大事に抱きしめ続けている限り、この標が自分の中にある限り。
 きっと自分は、何処でだって生きていけるから。





      《七》


 泥濘のような生温さの中から、ずるりと意識を引き上げられる。
 徹夜で何日もオンラインマッチに潜り続け、その疲労を癒やすべく全てを放り出して眠りにつき、そしてようやく目覚めた朝みたいな、まさにそんな感じ。
 そして不意に何やら生温いものが強引に唇を割って来たかと思うと、口の中に何かどろりとしたものが流し込まれるのがわかった。あたたかくて、不思議とよく舌に馴染むような、そんな何か。
 舌の上を滑り落ちていったそれは、今まで口にしたことがないと思えるほど甘美な味だった。思わず熱っぽいため息を零してしまいそうだ。実際にもう漏らしていたのかもしれないが、柔らかいものに塞がれているせいでどうにも呼吸がしづらかったため、本当のところはよくわからない
 そうして流し込まれたものは喉を伝い落ち、やがて身体の中心部分にまで到達する。奥深くまで入りこんだものは、やがてぼっと音を立てて炎を生み出した。そこから発せられた熱が、身体を構成する細胞一つ一つにまで染み込んでいくのだ。氷のように冷え切っていた手足に、指先に、僅かずつではあるがじわじわと体温が戻っていく。
 与えられ、生み出された熱が全身くまなく、奥の奥まで余すことなく染み込んでいくにつれ、全身の神経がびりびりと強烈な痺れを訴えてきた。けれどその感覚は決して不快ではなく、むしろもっと味わっていたくなるようなもので。凝って硬くなっていた肩を力いっぱい揉みほぐされているときみたいな。うまく表現できないのだけれど、とにかくそんな感じだった。痛いけど、苦しいけれど、でもそれ以上に気持ちが良くて。

 ――けれど、まだ足りない。もっともっと欲しい。

 突き上げてくる衝動に身を任せ、咥内に入り込み熱を与えてきた何かへ一心不乱に吸い付いて、もっと寄越せと欲望のままにねだった。手を伸ばした先にあったものを掴んで、離れていこうとする体温をがむしゃらに引き寄せて、行かないでと恥も何もなく夢中で縋り付く。
 びくりと、掴んだモノが強く震えたのが手のひらから伝わってきた。驚いたのか。恐れたのか。嫌悪したのか。けれど拒絶の意図が込められているとしたら、もうこの甘美なものを与えてはくれないのだろう。残念だが仕方がない。今与えられているものを、惜しみながら味わうしかなさそうだ。そう思った瞬間、するすると全身から力が抜けていく。
 けれどジナコが掴んだモノが逡巡したのは、おそらく瞬きの間のみだった。
 再び口の中へ、熱く柔らかいものが侵入してくる。まるで親鳥が雛に餌を与えるように、求めたものが次々と優しく、甘く、口内へと滑り落ちてきた。ジナコは喜んでそれを啜り、喉を鳴らして飲み込む。
 息が上がって苦しくて、ひどく酔っ払ったときみたいに頭が芯からくらくらしているのに、「もっと欲しい」というその欲だけが奇妙なまでに鮮明だった。

「ジナコ」

 懐かしい声がする。自分を呼んでいる。他でもないジナコを求めている。

「ジナコ」

 その声音は確かに、愛おしく思っている人を呼ぶときの声だった。
 いいなあ、と思う。こんなふうに優しく、甘く、やわらかく名を呼ばれるのは、とても心地が良いから。誰かに愛されているのだとこうやって実感できることは、本当に得がたい奇跡だとジナコは知っていた。
 その呼び声に引っ張られるかのように、のたのたと重たい瞼を持ち上げる。最近意識を失っては目を覚ますことが多いような気がした。
 そうして眼前の、超至近距離でこちらを見下ろしていた何かが、ジナコが目を開けたのを見てほっと安堵の息を吐いたのがわかった。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、その「何か」の正体を見つめる。

「無事、のようだな」
「ん、ぇあ?」

 ジナコもよく知っている顔面偏差値が狂った顔が、ものすごく近くでほわりとその表情を綻ばせていた。ンギュッ、と心臓を絞り上げられたような心地になり、思わず奇怪な声を上げてしまう。己が置かれている状況が飲み込めず、硬直したまま沈黙すること、一秒、二秒、三秒――

「ヴォォェアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 夜の静寂をつんざく、絶叫。
 ジナコは自分を抱きかかえながら顔を覗き込んでいたカルナを、渾身の力で突き飛ばしていた。
 すっかり不意打ちで吹っ飛ばされたことと、実はBランクもある筋力が遠慮も何もなく発揮されたせいか、カルナは木の葉か何かのようにぽーんと軽々吹っ飛ばされ、少し離れた場所の砂にべしゃりと落っこちていた。

「かかっかか、カルナ、かる、えっ何、な、何、アタシ、だって、あれ、エッ、え?」
……
「が、ガネーシャ様!」

 情緒が荒れ狂い、脳内がこんがらかってがくがくと震えるジナコの元に、紫式部が大慌てで駆け寄ってきた。先ほどの全力をもっての突き飛ばしで力を使い果たしたのか、そのままぺしゃりと崩れ落ちそうになったジナコの身体を、寄り添うようにしてそっと支えてくれる。うわおっぱいやわらかい最高か。そしてなんかめっちゃ良い匂いする。

「よかった、どうやら何とかなったようですね……
「む、紫式部サン? ええと、ボク、あの、何がどうなってんスか?」
「ガネーシャ様はさきほどまで、魔力の枯渇により消滅してしまう寸前だったのです。応急処置的なものではありますが、カルナ様が急いで魔力の供給を行い、繋ぎ止めることができたのです。とはいえ、まだ不安定な状態であることには変わりありません。マスターがご到着されるまで、どうか安静にしていてくださいましね」
「あ、はいッス。あれ? でも魔力の供給って、いったいどうやって?」
「そっ、それはですね、そのぅ……
「?」

 ジナコがまだ呆然としながら疑問を口にするが、紫式部はもごもごしながら吹っ飛ばされたカルナの方を見やるだけで、その問いには答えてくれなかった。カルナは砂まみれになった髪を手で払い落としながら、よれよれとこちらへと戻ってきている。
 もしかして、とあまり考えたくない予想が、ジナコの頭の隅を過ぎろうとしたときだった。

……なあ。ぼくは一体いつまで、きみたちのどつき漫才を黙って見ていなくちゃならないんだ?」
「ッ!」

 声のしたほうをハッと振り返ると、同じく砂浜に腰を下ろした一寸法師が、やれやれと言いたげに肩をすくめていた。相変わらずズタボロのままだが、両手を上げて困ったように眉尻を下げている。手には相変わらずあの小槌があったが、最初に見たときのどうしようもなく惹き寄せられるような輝きは、やはりもうそこにはないように見えた。

「そう警戒しないでくれよ。もうぼくにはきみたちをどうこうする力もないし、その気も全然ないからさ。安心してくれ。そもそもこんなナリで何かできると思うか?」
「で、でも……

 退去寸前までいっていたはずの肉体が、しかし今はそこそこ安定しているように見えた。だが感じ取れる彼自身の魔力の気配は未だに希薄なままで、恐らくそう時間を経ずに完全に退去してしまうことは変わりないようだった。

「鐘の音が止まったから小槌の力も戻ってきているんだが、今は消滅寸前だったぼくをこうして現世に繋ぎ止めておくのが精々といった感じみたいだ。小槌の力がすべて戻るより先に、ぼくは消滅するだろうね。それにさっきも言っただろ、もうぼくは何もする気はないよって」

 そういう一寸法師は、何だか妙にすっきりした顔をしているような気がした。何か自分の中で整理がついた、とでも言わんばかりな様子である。

……あなたは、これからどうなさるおつもりなのですか?」
「ん? そうだなぁ、どうしようか。どうせもうすぐ消えるわけだし」

 まだ警戒を解いていないらしい紫式部がきつい声音で問いかけても、一寸法師はけろりとしたものである。ほとんど答えになっていない答えをぽつぽつと口にしていたが、やがてこちらへ戻ってきたカルナに目を向けた。そして一瞬迷ったように唇を噛みしめたあと、そっと問いかける。

「一つ聞かせて欲しい、日天の子よ。きみはサーヴァントして存在することそのものが、己が存在を求められていることの証左だと言っていたな。では、きみ自身はそれで良いのか? 己はそれだけで救われると、満足だと……そう言うのか?」
「ああ」

 一寸法師の問いに、カルナは迷うことなく頷いた。

「オレのような凡夫であっても、己の願望を叶えるために、必要だと求めてくれる者がいる。オレ如きの力であっても、救いになるからと手を伸ばしてくれる者が、この世界には確かに存在している。この過分なほどの栄誉こそが、オレという存在へ与えられる何よりの報酬だ」
……そう、か」

 一切の躊躇いもなく断言するカルナに、一寸法師はどこか満足げな表情を見せていた。たぶんカルナの口からそういう答えが聞きたかったのだろうことがわかる。

「じゃあ、ぼくはもう行くよ。カルデアのマスターによろしく」
「あ、ちょ、ちょっとお待ちください! 聖杯は……

 小槌をくるくると手で弄びながら立ち上がる一寸法師に、紫式部が大慌てで声をかけた。そう、特異点を修正するためには、その原因となった聖杯を回収する必要がある。故に一寸法師がそのまま小槌を持って行ってしまうのは困るのだ。
 だが一寸法師は首を横に振る。

「どうせもうこの小槌には特異点を維持するだけの力はない。ぼくがこれを在るべき場所に戻せばすべて終わるよ」
「信用していいんスかねぇ~」
……我が伴侶が信頼して全てを預けた者に対して、この期に及んで嘘はつかないさ」
「エッ、アッハイ」

 そんな言葉と共に、突然一寸法師から愛おしい者を見つめる優しい視線を向けられ、ジナコは思わずビャッとその場で飛び上がりそうになってしまった。しかしその視線を遮るように、カルナが無言のまま間に割り込んでくる。何だろう、背中から感じるオーラが若干怖いような。
 そんなカルナの姿を見た一寸法師は一瞬目を丸くしたのち、くすくすと楽しそうに笑っていた。何かそんな面白い顔をしていたのだろうか。完全に背中しか見えない状態のジナコにはさっぱりわからない。

「じゃあ、ぼくはもう行くよ。……すまなかったな」

 そう言い残し、一寸法師は静かに姿を消したのだった。
 波に攫われる砂のようにあっけなく見えなくなったその姿が最後にあった場所を、ジナコはしばらくじっと見つめていた。