澪標-みおつくし-

トラブルにより身体が小さくなってしまった上、微小特異点に攫われてしまったジナコを助けに行くカルナのお話。

※発行当時のものから大幅に加筆・修正を加えております。内容自体は変わっていません。
※発行当時の情報に基づいた設定となっているので、最新の状況と齟齬が出ている部分もあります。


【第一章】

 

      《一》


「入るぞ、ガネーシャ神」

 部屋の主に向かって声をかけてから、カルナはいつものようにガネーシャ神の自室へと足を踏み入れた。正しい手順で操作することで、電子的に管理された見慣れた扉は従順にそちら側へと来訪者を迎え入れてくれる。
 ガネーシャ神の疑似サーヴァントであるかの女がこのカルデアに現界してからというもの、カルナはこうして時間を見つけては、足繁く彼女の自室へ足を運ぶようになっていた。
 大抵はベッドの上で自堕落に寝そべり、陸に上がったアザラシの如き状態でごろごろしながらゲームに熱中しているガネーシャ神であるが、カルナの来訪を歓迎してくれることは滅多にない。カルナの姿を見た彼女の口から飛び出してくるのは、ほとんどが文句の言葉だった。曰く、「ノックをしろそして返事があるまで入るのは待て」だとか、「デリカシーという言葉を辞書で引いて出てきた意味と一緒に百回書き取りをしてこい」だとか、何とかかんとか。
 あれこれと文句を垂れているガネーシャ神であるが、しかし本当の意味でカルナを拒絶してはいない。彼女は指摘されたところで絶対に己の口では認めないだろうが、少なくともカルナのほうはそう判断している。
 だってカルナは、今よりもっとずっと強い『拒絶』を張り付けていた丸い背中を、ずいぶんと長いこと眺めていたことがある。彼女の本気の拒絶はもっと頑なで、痛々しくて、カルナも途方に暮れざるを得ないようなものである。何故知っているのかは理解できないけれど、そういうものだとカルナは知っていたのだ。
 そもそもカルナの侵入を本気で拒みたいのならば、扉の電子ロックのパスを、カルナが操作できないような複雑なものにも変更してしまえいいはずだ。施設の電子制御システムの管理を担っているスタッフへ個別に変更の依頼を出す必要があるらしいが、本気でカルナに入ってきて欲しくないと思うのならば、その程度の手間を惜しむこともないだろう。
 つまりガネーシャ神が物理的にカルナを完全にシャットアウトしていないのは、カルナが自分の部屋へ入るのを心の底から拒んでいるわけではないという証左に他ならない。つまりカルナとしては、許されているのだから素直に甘えている、というだけのことだった。
 どこか言いようのない類の懐かしさを感じる、いつか見たのと似たような背中だけれど、何も出来ずに眺めていることしかできなかったあの頃とは今は違う。『あのとき』と比較してある程度は自分の存在を受け入れてもらえていることが、今のカルナはどうしようもなく嬉しいのだった。『あのとき』が果たしてどこだったのか、その詳細を思い出すことは何故かうまくできなかったが、この胸の内にある嬉しいという気持ちに偽りはないことだけは確かである。
 ともかくカルナは、そうやってぶつぶつ文句を言い続けるガネーシャ神の隣にそっと腰を下ろし、どう見ても苦行としか思えない行動を、自分は特に何かをするでもなく側でじっと見守る。その間、不意に通り雨が降るかのような調子でぽつぽつととりとめのない雑談に花を咲かせてみたり、部屋へ来る途中でカルナが調達してきたロールケーキやらなにやらをガネーシャ神に与えたり、逆に彼女が所持していた菓子を分け与えてもらったり。そんな他愛のない時間が、いつの間にかカルナにとって当たり前の、しかしかけがえのないカルデアでの日常の一部になりつつあったのだ。
 こんなふうに、許される限り彼女のそばに寄り添っていたいという思いによって行動するようになったのは、特に誰かに乞われたが故ではなく、他でもない己の意志で以て決めたことだった。カルデアにこのガネーシャ神というサーヴァントが召還され、その存在を己が認識してからというもの、何故か唐突に「会いたい」「そばに在りたい」と思ってしまうことがあるから。
 
 たとえば、朝起きると彼女の顔の顔がふと浮かんで、すぐにでも今のどんな顔をしているのかが見たくなってしまったり。
 たとえば食事をしているときに、彼女がきちんとした食事を摂っているか心配になったり。
 たとえば、就寝する際にその日見た彼女のはにかんだような笑顔が頭から離れず、思わず顔を綻ばせてしまったり。

 そんなふうに、いつも気がつけばガネーシャ神のことに気を割いている自分がいる。
 こんこんと降る雪のように、優しく淡くカルナの心の中に積もっていく感情たちは、しかし解けることなく静かに、しかし着実に蓄積されていた。どんどん溜まり続ける気持ちによって、自分の心の中で風船のようにふわふわと膨らんでいく何か。そうして浮かれてゆらりゆらりと楽しげに揺れる風船に括りつけられたカルナの体は、結局流されるまま彼女の元へと向かっているのだ。その行動はごくごく自然でありながら、しかし不思議と抗いがたい強い力を持っていて、まるで磁石が互いに引き合うようですらあったのだ。
 くるくると宙を舞う花びらのようにわずかな風でも翻弄されて、何となく足元が覚束ないような漠然とした不安感に苛まれて、けれど彼女の笑顔ひとつですとんとあっけないくらい簡単に落ち着いてしまう。けれどその笑顔の先にあるのが自分でないときには、また妙に腹の底がざわつくような心地にさせられる。カルナが何よりも尊び、慈しむべきだと思っている笑顔がそこにあるということに変わりはないはずなのに。
 いまだに名前を付けることができずにいるこの感情と衝動は、ただでさえ言葉が足りないと言われるカルナにはうまく言い表せないような不可解なものだった。それをもう少しうまく処理するために何か助言をもらえないかと他人に話をしてみても、大抵は「そういうのは自分で答えを見つけるべきだ」などと笑ってはぐらかされてしまう。そうしないときっと後悔するだろうから、と。
 カルナにそう告げる者は皆、まるで成長する子どもを見守るような穏やかな眼差しを向けてくる。カルナにはその眼差しの意図すらも謀りかねていたが、ただ彼らの態度を見る限り、恐らくそう悪いものではないのだろうと思っていた。

 さて、そういうわけで。
 今日も今日とてカルナは「会いたい」という己の内なる声に従って、ここまでやってきていた。

 ここ数日、カルナはカルデアのリソース補充のためにと定期的に行われているレイシフトの予定が立て込んでおり、ガネーシャ神と言葉を交わす時間が随分と減ってしまっていた。そのせいか「会いたい」という衝動はいつにもまして強くなっており、早く早くと、まるで責め立てるようにカルナの足を前へと進ませている。
 かくしてカルナは、いつもよりも随分と急いた気持ちで彼女の部屋の扉をくぐり、その中へと足を踏み入れたのであった。
 部屋に入れば即座に飛んでくると予想していたいつもの声は、しかし今日に限っては一つもぶつけられてこなかった。常に私物の山がいくつも築かれている見慣れたガネーシャ神の私室には、けれど彼女の姿だけがなかったのである。
 目に映る範囲に彼女の姿はない。けれど絶対にここには居るはずだと強く感じ取っていた。戦う生き物として歩んだ人生の中で培ってきた、研ぎ澄まされた感覚神経。それがこの部屋にいるのが自分一人ではないという事実を、淡々とカルナの脳に伝達してくる。

……ガネーシャ神?」

 がらんどうの寝床に強烈な違和感を覚え、カルナは眉をひそめながらもう一度静かに、しかし先ほどよりも強い声音で呼びかけた。
 再度のカルナからの呼びかけに、しかし相変わらず返ってくる答えはなかった。もはや慣れ親しみつつあったこの場所には似つかわしくない、しんとした静寂だけが重苦しく横たわっている。足元から徐々に体温を奪われていくような冷たい空気に、カルナは僅かに顔をしかめた。

「何処だ、ガネーシャ神」

 再び彼女の名を呼びながら、空っぽのベッドの上でひとつの塊と化しているぐちゃぐちゃになったブランケットを、繭を解くように一枚ずつめくっていってみる。案の定、そこはもぬけの空だ。彼女が直前まで貪っていたと思われるスナック菓子の袋だけがベッドの上で無造作に放り出されており、見れば中身はまだ半分ほど残されている。
 ガネーシャ神の部屋は、常日頃から綺麗に整頓されているとはとうてい言い難い場所だったが、食べかけのものが放置された状態が長く続くようなことはほとんどなかったはずだ。パールヴァティーが足繁くやってきては、きちんと整理整頓しろと叱りつけているようだったし、自分がこうして部屋に踏み入ったときにも、たまったゴミの最低限の片付けと、出しっぱなしにしている書籍類の整理整頓くらいは最低限させるようにしているから。
 つまり食べかけの菓子がそのまま放置されているということは、少なくともカルナが訪れる前、そう遠くない時間にガネーシャ神はここでこの袋を開封し、通常どおりトドのように寝そべりながらこれを貪っていたということになる。あの食い意地の張った生き物が己の取り分を残し、あまつさえ放棄したまま何処かへ出ていくとはとても思えない。マスターが急を要する収集でもかければ別かもしれないが、今のところそのような緊急事態が起こっているという話はカルナも一切聞かされていなかった。
 もしかしたら霊体化して姿を隠しているのかとも思ったが、ガネーシャ神は疑似サーヴァントであり実際に肉体を持つが故に、霊体化することはできなかったはずだ。たとえできたとしてもわざわざ自分の部屋にいてまで姿を隠す必要はないだろう。
 加えて彼女は、自分の姿が他人から完璧に見えないような状態になることを、酷く嫌がっていたような気がする。恐れていたと言ってもいい。直接言葉にして主張したことこそなかったし、理由も定かではなかったのだが、少なくとも普段の彼女を見ている中でカルナはそう感じていた。
 しかしそうだとするならば、ガネーシャ神は今、一体どのような手段を使ってカルナの目から逃れているのだろうか。そもそも何故、自分の領域である自室で存在を隠す必要があるのだろう。

「ガネーシャ神」

 カルナはその後も何度も声をかけながら部屋の中で捜索を続けたが、やはりガネーシャの姿はどこにも見当たらない。
 奇妙な違和感だけが己の中でどんどん強く、大きくなっていく。徐々に押し寄せる漠然とした不安感。胸の奥がじりじりと焦げ付くような痛みを訴えてくる。
 
 目の前にいるはずなのに、はっきりと視認できない。
 隣で話しているはずなのに、その声がどうしても聞こえない。
 自分の口は彼女の名を紡いでいるはずなのに、『彼女』にはその声が届いていない。
 
 いま起こっていることはすべて、カルナがガネーシャ神と接しているときに時々起こる現象に近い事象だった。
 かつてこの目に焼き付けたはずの愛おしい微笑みが、与えられたはずのあたたかい言葉が、不快な雑音によってかき消される。そうして自分が彼女に何を伝えたかったのか、そもそも何かを伝えようとしていたことそのものがわからなくなってしまうのだ。
 いつだって容赦なく降りかかってくるその不可解な現象は、そのたびに感じたことのないほどの深い喪失感のようなものをカルナにもたらしていた。伸ばした手の先は、掴んだはずの手の中は、いつも空っぽになっている。なかったことにされてしまう。

……いかんな」

 カルナは首を軽く横に振って、記憶に妙にへばりついてしまうその嫌な感覚を無理矢理思考の外へと追いやった。最優先で考えるべきことを見誤っていては話にならない。
 しかし、本当にどうしたものか。ここまで探して見つからないとなると、いくらここにガネーシャ神の気配を感じていると言ってもお手上げである。気配察知に長けたサーヴァントにでも助力を求めるべきかもしれない。
 そんなことを考えながら一旦部屋を辞そうと踵を返して、しかしカルナはそのまま扉へ向かうことなく静止した。部屋に背を向けたその瞬間、何かの音が耳を掠めていったような気がしたからだ。

…………?」

 聞こえてきたのは何か動物の鳴き声のようだったが、カルナが今まで聞いたことのない類のものだった。とはいえ、カルナも動物に関する知識に明るい方ではないし、加え現代の生態系とは遠く離れた時代に生きていた身である。全く知らない生き物の一つや二つは存在するだろうが、少なくとも現在カルナが持っている記憶や記録の中にはない類いではあった。
 声がしたと思われるのは、先程散々漁っていたはずのガネーシャ神のベッドがあるあたりだ。先程と同じようにブランケットを上から順にめくっていくが、やはりそこは空っぽのままで目につくものは何もない。
 となると、最後の可能性としては。

……下、か?」

 ベッドの下には、床との間に小さな空間が存在している。しかしガネーシャの豊満な体でこんな狭い場所に潜り込めはすまいと、奥の方まではよく確認しなかったのだ。
 まさかと思いつつもとりあえず床に膝をつき、ひょいと体を倒して覗き込む。埃っぽい空気がカルナの鼻腔をくすぐった。
 本来ならば何もないはずの空間には、ガネーシャ神が適当にここへ移動させたと思われる漫画本の束やゲームソフトのパッケージなどが、秩序も何もなく乱雑に詰め込まれていた。そのどれもがうっすらと埃を被っており、長い間手をつけられていないであろうことは容易に想像できる。
 次にこの部屋へ掃除に来るときにはここもきちんと掃除させようと心に決めながら、カルナは薄暗いその空間に目を凝らす。しかし照明の明かりが完全に遮断されている場所なので、如何せん奥のほうまでははっきりと視認することはできなかった。
 ひとまず手を突っ込んで闇雲に動かしてみるが、手にぶつかるのは硬くツルツルとした感触だけである。漫画本のカバーだとか、ゲームのパッケージの表面だとか、おそらくそういった類いのものに触れている感触なのだろう。少なくともガネーシャ神の持つやわらかな、触れればたちまち溶けてしまうのではないかというくらいのふわふわした感触とはまるで違う。そもそもこんなにも所狭しと物品が詰め込まれているのに、彼女が入れる場所などとうてい確保できまい。
 けれどガネーシャ神本体がここにいなくとも、彼女へ繋がる手がかりくらいはあるはずだ。先程カルナの耳が捉えた何かの音は、確実にここから聞こえてきていたのだから。

「頼む、応えてくれ」

 せめてもう一度、もう一度だけでいいから、声を上げてくれたならば。自分を呼んでくれたならば。そうしたらすぐにでもキミを見つけて、この手を届かせることが出来るのに。

「■■■……ッ」

 じりじりと、胸の奥を焦がすような焦燥感に突き動かされ、不意に唇から零れたうめき声にも近い切実なその音を、カルナは自身ではっきりと認識することが出来なかった。けれど己が今探し求めている『彼女』を呼んでいるものだということだけはわかる。
 どんなに不快なノイズに遮られようと、たとえどうあっても届かない天空の月に向かって地上から手を伸ばすような途方もない所業であったとしても。カルナは今ここで、己の声で『■■■』を呼ばなければならないのだ。

「──……

 カルナの切なる思いに応えるかのように、さきほど微かに聞こえた謎の鳴き声が上がった。

「ッ、そこか!」

 声を頼りに再び手を突っ込むが、声がしたと思しき場所までなかなか手が届かない。闇雲に動かした手に漫画本の角がぶつかるが、そんな些細な痛みはどうでもよかった。もどかしい思いで行く手を阻む紙の集合体たちをかき分けて、頭ごと突っ込んでベッドの下へと潜り込む。
 神話に名高い大英雄が、ベッドの下に入り込んでもぞもぞやっている様は何とも滑稽であり、生前の彼を知っている者が見たら一体何事かと目を剥くか、或いは現実逃避で卒倒するレベルであったことだろう。しかし自分がどんな状態になっているのかなど完全に思考から抜け落ちているカルナは、体の半ばまでベッドの下に捩じ込んで、壁際まで手を伸ばした。
 視界は相変わらず闇に覆われているので、闇雲に手を動かすことしかできない。半ば祈るような気持ちで、カルナは手を伸ばし続ける。

 ──ふにゃり。

 何ともいえない触り心地の柔らかい『何か』に、ようやくカルナの指先にぶつかった。
 無我夢中で指先を使って引き寄せ、決して離さぬようにと苦心しながら、ずるずると這うようにしてベッドの下から脱出する。埃まみれになってしまっているだろうが構うものか。
 無事照明の下の明るい場所へ戻ってきたカルナは、手のひらに収まっているその『何か』を凝視した。

…………む?」

 その『何か』の正体を視界に捉え、瞬きを一つ、二つ、三つ。軽く目を擦ってから、おまけにもう一つ。しかしそんな無意味な行動を幾度繰り返したところで、手の中に収まったものが形状を変えるなんてことはなく。

 手のひらの上にいたのは、ガネーシャ神に似て非なる謎の生物だった。

 ガネーシャのトレードマークとなっている桃色の象の被り物は、間違いなく見慣れた彼女のものだ。整えるのが面倒なのか伸ばしっぱなしになっていて、けれどその中に顔を埋めると存外柔らかく、菓子のような甘い香りがする栗色の髪も、いつまでも揉んでいたくなるような微かな桃色がさした丸い頬も、間違いなくカルナの知るガネーシャのものである。疑う余地はなかった。まさかカルナが彼女を見間違えるはずがない。
 しかしカルナが手のひらに載せることができているという時点で、ガネーシャ神がいつもの彼女と同じ姿でないことは容易に想像してもらえるだろう。あの宝具級の重量を片手に乗せて持ち上げたら、カルナの腕は今頃重力を支えきれず本来の向きとは逆に曲がり、しばらくは使い物にならない状態になっているはずだ。サーヴァントとしてのカルナの筋力ステータスはそこそこであるが、残念ながらガネーシャ神を手のひら一つで持ち上げられるほどではない。
 つまり現在、ガネーシャ神の体はカルナの手のひらにすっぽりと収まるほどの大きさになっているのである。
 カルナの手の上にいるガネーシャ神は、手足を投げ出しぺたんと腹這いになったような格好だった。しかしその延ばされている手足が異様に短く、さらには体全体が凹凸のない俵型になってしまっている。うっかり取り落としでもしたら、そのままころころと床の上をきれいに転がっていきそうだ。

……が、ガネーシャ神……なのか?」

 暫しの茫然自失の時間をようやく抜け出して、恐る恐る呼びかける。あまりに記憶の中にある姿とは異なる異質な姿に、カルナは我に返ったあとも動揺を押さえつけることができずにいた。
 ガネーシャ神によく似た手の中の生物は、声をかけた瞬間、見ていて哀れになるくらいびくりと体を震わせた。短い手足を下手くそにばたつかせながら、のたのたとカルナの顔を見上げてくる。もはや己の体の使い方がさっぱりわかっていないとしか思えないような歪な動きだった。
 こちらを見つめる僅かに潤んだ瞳を見て、カルナは理性で考えるまでもなく確信した。今己の手の中にいるこの生き物は、間違いなく自分の知っている■■■であると。
 しかし確信できたのはともかくとして、カルナの知っている■■■も、ガネーシャ神の依代としてカルデアに現界した彼女も、こんな姿になる力は持ってなかったはずだ。どちらも全身むっちりと脂肪を蓄えてはいたが、いくら何でもどこから腹でどこから胸なのか、判断できなくなるほど人型であることを捨ててはいなかったはずだ。

「■■■よ。何故お前はこんな奇妙な姿になっている? 一体何があった?」

 問いかけたが、ガネーシャからの返答はなかった。随分と小さく軽くなってしまった体をさらに縮こまらせ、ぷるぷると小刻みに震えているだけである。その様子が天敵に睨まれて怯えている小動物のように見えてしまい、こんな時なのに「愛らしいな」などという脳天気な感想が浮かんできてしまった。
 しかし、彼女にとってカルナが敵だと思われているのは心外だ。別に取って食ったりはしない。食べてしまいたいほど可愛い、とは思わないでもないが。
 しかし次の瞬間、カルナの中にあったそんな呑気な感想たちは、完全に霧散することとなった。カルナへの返答がその小さな口から出てこないまま、代わりにその丸く大きな瞳から、ぼろぼろと大粒の雫がこぼれ落ち始めたからである。

「っ!?」

 すんすん、ひくひく、と体全体を使ってしゃくり上げ、次から次へと涙をこぼしている様子は胸をつくほどに痛々しくて、カルナは思わずぎょっとしてしまう。何故、という疑問で頭がいっぱいになり、思考が完全に真っ白なまま停止した。自分はまた、彼女を泣かせるようなことをしたのだろうかと。
 ■■■が泣いている姿を見るのはどうにも苦手だった。以前からずっとだ。ひどく落ち着かない気持ちにさせられて、胸の奥や手首のあたりがひりひりとした痛みを訴えてきて、頭が真っ白になる。その結果、立ち尽くしたままうっかり動けなくなってしまうから、恐らくは苦手ということなのだと思っていた。『彼女』の形状がこうして大きく変質しようと、その苦手意識は変わらないようだ。

「な、泣くな、ガネーシャ神。……頼む、泣かないでくれ、■■■」

 もはや懇願に近い形で声をかけるが、彼女の涙は止まらない。むしろカルナが呼び掛けたことでますます涙の量が増えたようで、ひんひん、と小さな鳴き声を上げながら涙を零し続けている。腕が妙に短くなっているせいで、自分で拭うこともままならないらしい。カルナの手のひらの上には、いつの間にかちょっとした水たまりが出来上がっていた。こんなにも水分を消費して泣き続けていたら、あと数分もしないうちにこの小さな身体はすっかり干からびてしまうのではないだろうか。
 己が何をしてもガネーシャが泣いてしまう状況に、いよいよカルナは途方に暮れてしまった。今の自分に辛うじてできることといえば、彼女を乗せているのと反対の手で、そっと小さな頭(形状的にどこまでが頭なのかいまいち判断がつきかねるが)を撫でてやることくらいである。
 けれどいつものガネーシャと比べても、その小さな姿はあまりにも弱々しくて、少しでも力加減を間違えたらぐしゃりと潰してしまいそうだった。一体どのくらいの力で撫でていいのものか。こんな小動物のようなものを扱った経験はないからさっぱりだった。そもそも通常時であっても、どんなふうに触れればいいのか判断がつかなくて、衝動的に伸ばしてしまった手を、しかしどこにも触れることを許さず強引に引っ込めることが多々あるというのに。
 結局ガネーシャが完全に泣き止むまで、カルナはたっぷり数分間、その場で立ち尽くす羽目になったのだった。
 

      《二》

 
 ──カルデアにおいて『ガネーシャ神』と呼ばれている女が、カルナの手によってベッド下から救出されるしばし前まで、時は遡る。
 
 その前に、まずは前提の認識を共有するべく、この女の趣向について簡単に説明しておくとしよう。
 ガネーシャ神の依代としてカルデアに現界しているかの女──ジナコ=カリギリは、所謂ショタと呼ばれる存在が好きだった。
 ショタの丸みを帯びた柔らかい頬が好きだ。発達途中のふくふくとした指や手のひらに、しかしやがて男へと成長していく片鱗を見出すのが好きだ。小さい体をめいっぱい使って頑張っている姿が好きだ。早く大きくなって自分の理想に近づきたいと背伸びをしている背中が好きだ。
 だがしかし、誓って「もしもしポリスメン?」案件になりそうな類いの邪な行為に手を出すことはないと、断固として主張させていただく。もっと細かく言わせてもらうのであれば、この感情は単純に「好き」というより、もはや神聖なものを信仰するに近い心境であるからして。
 故にこそ、イエスショタ・ノータッチ。これがジナコ=カリギリというオタクの大原則であった。推しであるその存在が幸せそうにしている様を眺めることこそが、ジナコという一人のオタクにとって至高の喜びなのである。
 よってその神聖なる存在を、己の手で触れてどうこうしようなんていう気持ちは欠片も持ち合わせていなかった。そんな発想に至り、己の欲望のままに手を出して神聖なる存在を汚すなど、オタクとしては三流以下であるとジナコは思っている。その点に関してだけで言えば、ジナコは間違いなく一流であると言えよう。お前は一体何と張り合っているのだ、とかいう無粋な質問は受け付けないので悪しからず。
 とどのつまり、ジナコという人間はとてつもなくショタという概念が好きであるという事項を、あらかじめ把握しておいていただければいいわけである。

 さらに現在、ジナコにはそんな生来の嗜好とは別枠で、推しと呼べる男が一人存在していた。
かつて月の世界で自分を守り、生き残らせてくれたかのインドの大英雄、カルナである。

 まさかもう一度こうやって彼と再会できる日がくるなんて思ってもみなかった。もちろん会いたいという気持ちはなくもなかったし、いつかそんな日がきたらいいなと漠然と祈っていたのは確かだ。けれどそんな途方もない夢が本当に叶う日がくるなんて、一体誰が想像できただろうか。
 そういうわけでジナコは今、あれだけ会いたいと思っていたカルナとこうして再び直接言葉を交わし、さらに傍で彼の活躍を見守っていられる場所にいる。そしてあまつさえ、そんなカルナの活躍を手助けできるだけの力が与えられているのだ。これを奇跡と言わずになんと言おうか。
 そんな大いなる奇跡を得られたのだから、彼が『ジナコ』のことが認識できないなんていうのは、きっと些細なことだったのだ。
 彼が『ジナコ』を認識出来ず、『ガネーシャ神の被り物をした誰か』としてしか見ることができない現状に、もどかしい思いが全くないと言ったらおそらく嘘になる。『ジナコ』を正しく認識できなくて、伸ばそうとした手の行く先を見失って困った顔をしている彼を見て、そんな彼に対して同じく困った顔で笑うことしか出来ない自分は、とても寂しいと思うから。
 けれど自分は元来嘘吐きだ。だから大丈夫だと、こんな寂しさは何でもないのだと、取り繕った仮面を被っているくらいが寧ろ落ち着くし、ちょうどいいのだと思う。
 
 さて、そんな風にカルデアでの所謂『推し事』を続けつつ、現在マスターである藤丸立香とともに世界を救うべく戦う毎日を過ごしていた、そんなある日のことである。
 その日ジナコは、ほとんど使用されておらず、半ば要らないものの廃棄場と化している倉庫の掃除を手伝わされていた。

 ノウム・カルデアにはかつて南極に存在していたカルデアベースほどの部屋数がないこともあり、ここに在籍するサーヴァントたちは霊体化するか、あるいはシミュレーター内に構築した仮想空間内で過ごしている者が多いと聞く。しかし一部には、以前のカルデアと同じように実際に自分だけの部屋を持ち、人間と同じように生活を営んで過ごしたいという意見を持つサーヴァントもいるため、当然部屋数の制約はあるものの、強い希望があれば各自に部屋をあてがうこととなっていた。
 しかしノウム・カルデアに在籍するサーヴァントは現在も着々とその数を増やし続けていおり、それに伴って各自に割り当てる部屋にも徐々に空きが少なくなっていていた。そこで自室の所持を必須とするサーヴァントとそうでないサーヴァントとで、改めて内部の部屋の割り当てをやり直すことになったのである。その作業の一貫として、現状ほとんど放置されている状態の部屋を綺麗に片付ける作業が、カルデアベース内の各所にて行われているというわけだった。
 ちなみにジナコはここに召喚されてすぐ、存分に引きこもれる自分だけの空間が欲しいとしつこいくらい強く要求していたため、現在使用している場所をそのまま使っていて問題ないとお墨付きをいただいている。慈悲深く理解のある我らがマスターに感謝だ。
 というわけで、ジナコのマイルーム事情についてはありがたくも憂慮すべき点がないのでいいとしてだ。
 そんな自他ともに認める引きこもりが、何故こんな風に肉体労働である片づけ作業に駆り出されているかというと。

「今日は来てくれて本当にありがとう、ガネーシャさん! パールヴァティーさんが『人手なら当てがあるから任せてください!』って自信満々に言うから一体何かと思ってたけど、まさかガネーシャさんが手伝ってくれるなんて思わなかったな~」
「そうッスネ~おかーさまに感謝しとくといいッスよ~」

 まあ、概ねこういうことである。
 一緒に片づけ作業をしている立香が気持ちいいくらいの良い笑顔で言ってくるのに対し、ジナコはうっかり舌の上まで登りかけた文句と愚痴を慌てて腹の奥まで押し込んだ。代わりにフヒヒと乾いた笑いを零しておく。鏡がないから確認しようがないが、今の自分の瞳は光を失って死んでいるに違いない。
 パールヴァティーに引きずられてこの場へ足を運んだとき、ジナコは当然逃げ出す気でいた。しかし立香からあまりにも邪気のない純粋な感謝の笑みと感謝の言葉を向けられたものだから、如何にして逃げてサボろうかと権謀術数を脳内で巡らせていた感情が、途端にしおしおと萎びていってしまったのである。かんかん照りの太陽の下で、水分を失ってへろりとくたばっている雑草なんかは、きっとこんな気持ちで地面に横たわっているのだろう。
本当に、この少年は妙に人たらしの才能があるというか、「自分にできることがあるなら助けてやりたい」と自然と思わせてしまう力を持っているというか。パールヴァティーもその要素を存分に知っているからこそ、彼のすぐそばで作業することになるこの場所に、ジナコの分担をあてがうようにと進言したのだろう。さすがはインド神話における最高神の妻、恋愛脳でほわほわしている天然さんのように見えて意外と抜け目がない。
 そういうわけで、ジナコはこの薄暗い倉庫でマスター他数騎のサーヴァントとともに、片付け作業に勤しんでいるのである。
 ジナコたちが足を踏み入れた倉庫内にうずたかく積み上げられていたのは、どうやら随分前から使用されなくなっている古い備品や薬剤などだった。しかもそれらが秩序も規則性も何もなくぐちゃぐちゃに混ぜられたまま、そのへんの適当な段ボール箱にまとめて詰め込まれている状態なのである。足を踏み入れた瞬間、誰もが思わず「うわっ」と声を上げて顔をしかめてしまった程度にはカオスな状況であった。
 しかしそんな混沌の中にも、まだ使用可能であったり、なかなか手に入らないような貴重な品も埋もれたりしていることが判明したのである。レイシフト先で立香が血眼になって収集している、サーヴァントの強化リソースとなる貴重な素材とか。しかしそういったものが紛れているとはいえ再利用が可能なのはほんの僅かばかりで、そのまま廃棄処分となるものが九割以上といった状態である。よってただ捨てるだけでなく、ゴミの山から貴重な素材を仕分ける作業がさらに必要になっているというのが現状なのであった。
 しかし最初は途方もない前人未踏の霊峰のようにすら思えた廃材の山も、作業も終盤が近付いた今となってはほとんどが切り崩された状態となり、あとは空になった段ボール箱が床に散乱しているのみとなっていた。これならばあと一時間もしないうちに作業完了となるだろう。そうなればジナコもお役御免だ。

「マスター、お忙しいところ申し訳ありません。少しよろしいでしょうか」
「いいよ~。どうしたかした?」
「ええ、実はこれなのだけれど……

 倉庫の奥の方で最後の一山の切り崩しにかかっていたアルジュナとエレシュキガルが、ひょいと棚の向こうからこちら側へと顔を覗かせた。どうやら必要になるかどうか微妙なラインの品が出てきたらしく、マスターである立香に判断を仰ぎたいのだとか。

「ガネーシャさん、ごめん、ちょっとだけここ任せていい?」
「もちろんいいッスよ。いってらっしゃい。あ、足元には気を付けるッス~」
「ありがとー!」

 もうここには廃棄予定のものしかなく、残った作業はこれを所定の場所に移動させるだけだ。特に困ることはないからとすんなり送り出せば、立香は散乱した箱を避けてよたよたとしつつも、何とか無事に二人がいる場所へと移動していった。
 しかしまあ、配置された面子がこうも根が真面目さん揃いなので、自然とジナコも真面目に働かざるを得なくなっている。これもパールヴァティーの采配なのだろうか。或いは、立香の傍にいたいというサーヴァントの中には少し危険思想に染まっている者もいるため、仕事を従順にこなしてくれる人で、尚且つ風紀を乱すような展開にならない面子が選出された結果なのかもしれない。ジナコだって人様の修羅場に巻き込まれるのはなんて御免なので、そういった配慮がされているのならば有り難かった。血が流れたりする場面に立ち会うのは、サーヴァントとして戦闘行為をするようになった今でも全く慣れないし、慣れたいとも思えない。

「さーてと、ボクもさっさと自分のお仕事を終わらせるッスよ~」

 とにもかくにも、今は目の前の作業に集中すべきである。無事に終わったら食堂に直行して、夜食に特製ロールケーキを作ってもらうのだ。またカルナが小言を言いにやってくるだろうが、今日に至ってはかなり真面目に労働をしたのだから、ご褒美を要求しても許されて然るべきだと思う。

……っていうか! 何でボクはハナから、終わった後にカルナさんがボクんとこに来るの想定してんの!」

 やめやめ、と象の被り物に覆われた頭を横に振って、ほんのちょっぴり眉をひそめながら、見下ろしてくる彼の顔の幻覚を無理矢理かき消した。
 ジナコの行為にカルナが口出しをしてきて、ジナコが言い返して、まるで家族か友人かのように他愛ない会話を交わす。特に大きな成果をもたらすわけでもにないそんなやり取りは、けれどジナコにとっては何よりも大切な時間だった。
 しかしそんなやり取りが当たり前だと思ってしまうのは、恐らく非常によろしくない傾向だと思う。もちろんカルナが自分のことを気にかけて、傍にいてくれることは嬉しい。嬉しいけれど、うっかり今以上のものを彼に望みそうになってしまうから、きっとこれでは駄目なのだ。
 かつて持っていたのとは僅かに色を変えてしまったように思う、カルナに対するこの感情は、誰にも明かさず心の奥底にしまい込み、大切に抱き締めながら墓まで持っていくと決めている。現状だけでも既に奇跡なくらい幸せなのだから、これ以上望んだら罰が当たるに違いない。
 もしこの宝物を奪われるようなことになってしまったら、ジナコはもうジナコとしてここに立っていられなくなるような気がするのだ。今ここで自分を自分たらしめているのは、きっと大事に抱きしめているこの気持ちが大きいと思うから。
 とりとめのない思考を宙に泳がせながら、その後もしばらく真面目に作業を続けていたジナコだったが、不意に廃棄処理予定の備品の山からぽろりと零れ落ちたものがあった。きらりと光るそれに何故か無性に目を奪われ、そっと手に取って拾い上げる。
 手の中に収まったのは、ジナコの片手の手のひらにすっぽりと収まってしまうような、小さなガラス製の瓶だった。中身は恐らくは何かの薬品だ。ふわりと、コルクの蓋からはわずかに甘い香りが漂っている。感じ的に何かの花の香りだと思うのだが、植物の知識に明るくないジナコでは詳細な名前までは出てこない。

「ん~? 何なんスかね、これ」

 頭上にかざして、しげしげと眺めてみる。
 中に入っていたのは、少し粘性のある不思議な色をした液体だった。瓶を傾ける度に、きらきらと輝きながら僅かに色を変えているように見える。十中八九、理科実験室のような場所で日夜怪しい研究をしているサーヴァントたちのうちの誰かが、必要がなくなったからとここに適当に廃棄していったものなのだろう。この手のお薬を熱心に作っているのを、ジナコも何度か目撃したことがある。
 一応、ガネーシャ神の叡智の権能である『ガネペディア(通称)』で検索をかけてみるが、残念ながら引っかかるものは見つからなかった。どうやらサーヴァントの肉体に対して何らかの作用をもたらす薬らしいということはわかったのだが、まあ彼らが独自に作り出したものならば、一般に流通していないのは当然であろう。

……って、あれ? 何か書いてある?」
 
よくよく見てみれば瓶底にラベルが貼付されており、そこには走り書きといった感じで何かが記されていた。当然のごとくジナコに馴染みのある言語ではなかったが、ここでもガネペディアが役に立つ。翻訳も軽くこなせるなんてなんて便利なのか。グー○ル先生でも検索できないような言語、例えば遠く古き神話の時代に使われていた言葉であっても、ある程度は解析できるという優れものである。さすが学問の神、まじパネェ。元の自分の時代に何とか持って帰れないものだろうかと、ジナコはこの便利さに舌を巻きながらいつも思っていた。もしそんなことができたなら、マハーバーラタの原文など読んでみたいところである。文字が読めたところで、内容の解釈が色々と難しそうなところだが。
 さてそれはそれとして、問題のラベルの記載内容だ。しげしげと見つめながら、ジナコはガネーシャ神の権能によって出力された文字結果をそのまま口に出してみる。

「ええと、どれどれ……『飲むと小さくなる薬』って、ええッ!?」
「おわっ!? が、ガネーシャさんどうしたの!」

 記載されていた文字を口の中で転がした直後、ジナコは思わず大声を上げてしまった。その声を聞きつけた立香が、一体何事とかと血相を変え、足元に散乱している空箱を蹴飛ばしながら駆けつけてくる。
 彼が近づいてくるのを察したジナコは、ほとんど反射的に胸の谷間に瓶をぎゅっと押し込んでしまっていた。普段は肩が凝るばかりの無駄肉でしかない脂肪の塊であるが、まさかこういう活用法があるとは。そして瓶が肉に埋もれてしまうような小さなサイズで助かった。超近距離で上から覗き込みでもしない限り、不審がられることもないだろう。
 咄嗟に隠してしまった理由は自分でもよくわからなかったが、かといって今更手を突っ込んで取り出し直すのも、何か違うような気がして。

「ななな、何でもないッスよ! ちょっとその、そこらへんに転がってる箱に足を引っかけて転びかけて、びっくりしただけっていうか!」
「本当? あー、そういえばちょっと足の踏み場もないくらいになってるし、一旦箱を全部畳んで、端っこのほうにでも寄せとこうか」
「そ、ソウッスネ~」

 気を遣ってくれた立香の指示で、奥にいた二人も一旦各々の作業を切り上げて、全員で空の段ボールを畳む作業を開始することになった。ジナコも黙々と彼らに倣いながら、頭の中は先ほど発見してしまった薬品のことでいっぱいになっていた。
 だって薄い本や何かで散々履修してきた、一定の界隈では定番ともいえるほどの題材が、現実のものとして己の手の中に転がっているのだ。オタクとして興奮するなというほうが無理な話である。刑部姫やジャンヌ・オルタに言ったら、きっとジナコと同じ意見だと力強く頷いてくれるに違いない。「次の同人誌のネタにするから使ってみてくれ」くらいのことは言い出しそうだ。特に刑部姫は、次のサバフェスに出す新刊のネタがないとひどく嘆いていたようだし。
 ジナコが悶々とそんなことを思考しているうちに、空箱の片付け作業はあらかた終了した。分別した廃棄品と畳まれた段ボールの残骸たちを運搬担当の力自慢サーヴァントたちが引き取っていったのを確認してから、ジナコ達作業員もこの日は全員その場で解散することとなった。
 すでに消灯時間が迫りつつあり、このままここでのんびりおしゃべりなどしていたら、某ランプの貴婦人が医療用ベッドをぶん投げながら襲い掛かってくる可能性がある。どんな看護師だよとジナコだって以前は笑って聞いていた立場だが、実際に自分が味わってしまうと全然笑い話にできないのだから恐ろしい。
先日、巴御前と数日間に渡って夜通しゲームをしていたことがばれ、『あなたには治療が必要です』と言われて数日間別室に縛り付けられて監禁されたときは、本当に、冗談抜きで死ぬかと思ったのだ。ちなみにその際は何故かカルナがあれこれ言って説得してくれたらしく、おかげさまで一旦経過観察という条件付きで仮釈放が叶ったわけだが、あんなのはもう二度と御免である。あの後、全速力で追いかけてくるナイチンゲールの姿と鬼の形相が何度も夢に出てきて、それはもう大変だったのだから。
 さて、無事に解散を言い渡されたジナコは、食堂でロールケーキを食べるという当初の計画を放り投げ、立香たちへの挨拶もそこそこに自分の部屋へと駆け戻っていった。急げ急げ、と小さく呟きながら廊下をひた走るジナコの姿は、普段の彼女を知る者が見たら、何とも珍しいことだと目を丸くしていたかもしれない。
 開いた自室のドアからほとんど転がり込む勢いで中へと身を滑り込ませ、スイッチを半ば叩くようにしてロックをかける。主が突然走りだしたせいで慌てて服の裾にしがみつくことになってしまった従者のムシカが、ようやく止まってくれたとジナコの肩の上で安堵のため息を吐いていた。
 上がってしまった息を深呼吸して押さえつけてから、胸元をごそごそやって小瓶を引っ張り出す。体温でぬるく温められてしまった瓶のラベルを改めて読み返してみたが、当然そこに記された文章の意味が変わっているなんてこともなく。
 改めてそれを確認したジナコの唇は、いつのまにかにんまりと弧を描いていた。ちょっぴり、ほんの少しだけ悪戯心が顔を覗かせて、内なる部分からそっとジナコへ囁きかけるのだ。

 ──この薬を飲ませて、誰かをショタにしてみないか?

 どうせこのまま放っておいても、ゴミとして廃棄されるだけの品だ。ジナコがちょっぴり私的に使ってみたところで、実害が生じないならば誰も文句は言わないだろう。というか、もはやその程度の懸念で、この走りだした好奇心と興奮を止めることなどできはしなかった。
 さて、問題は誰に飲んでもらうかだ。できればイケメンであり、ジナコ好みの声を持っているサーヴァントがいい。ただでさえ思わず顔が緩んでしまうような良い声の、声変わり前の絶妙な発展途上の状態も聞いてみたい。
 そこでふと、ジナコの頭の隅を一人の男の存在が掠めた。声と顔がめちゃくちゃに良い、もはや美しいパーツだけを寄せ集めて作ったんじゃないかと思わされてしまうくらいの、ジナコの生涯のヒーローが。
 
 ──推し×推し。
 これって、どう考えても最強の組み合わせではないだろうか?
 
 ああ、この際言い訳のしようもないので正直に白状しよう。この時のジナコは突然飛び込んできた非現実に興奮するあまり、頭のネジが数本ほどすっ飛んでいたに違いないのだ。後々思い返してみれば、一体何を考えているのかと自分で自分をぶん殴ってやりたくなる。もしこの場にタイムマシーンとかが自由に使えるようにして置いてあったら、ジナコは即座に乗り込んでこのときの己の前に降臨し、正気に戻れこの大馬鹿者とその脳天に向かって全力で拳を振り下ろしていたに違いない。
 しかし悲しいかな、現代における人類の文明レベルは、未だに四次元ポケットを装備した自称猫型ロボットの時代に追い付いていない。レイシフトという技術こそあるものの、あれは純粋なタイムトラベルとはまた別物らしいと聞いている。原理が非常に難しいので詳しいことはジナコもよく知らないのだが、何にせよ、このときのジナコを止めてくれるような存在を寄越してくれるような代物でないことだけは確かだった。
 唯一、この場には抑止力となり得るムシカが存在していたが、ジナコと一緒に作業の手伝いをしてくれていた可愛い従者はすっかり疲れてきってしまっていたらしい。部屋に戻るなり自分のベッドに入った彼は、その時点ですでにすやすやと可愛らしい寝息を立てていた。

「うーむ。さて、どうしたもんッスかね」

 しかしカルナに飲ませるとして、もし彼の身に何か悪い作用が起きてしまったら非常に問題である。ただでさえ生前の逸話から、呪いとかそういう類のものを受けやすいところがあるのだから、注意しておくに越したことはないだろう。ならばそもそもやるなよ、というツッコミはやっぱりなしの方向でお願いしたい。
 つまり本命に飲ませる前に安全確認が必要であろう、という考えに至ったジナコは、とりあえずこの薬を自分でほんのちょっぴり服用してみることにしたのである。
 自分のリリィ姿とか一体誰得だよという感じではあるが、ちょうどいいことにジナコは明日から数日間は外出の予定が入っていない。周回に引っ張り出される予定もない。だから人と会わなくても済むその数日間の間に、この薬がどのように作用するかを確かめて、その後は効果が切れるまで誰とも会うことなく引きこもって入れば問題ないという寸法であった。
 元々ジナコが出不精であることはこのカルデアに在籍するサーヴァントやスタッフのほとんどが知るところであるし、誰とも会わないまま数日間を過ごしたとしても、特に不審がられることはないだろう。瓶のラベル表示を信じるのであれば一日ほどで効果が切れると書いてあるし、不審に思われるほど身を隠していなければならない事態にはなるまい。
 だからひとまずちょろっと舐めてみて、何かヤバそうな感じになってしまったら効果が切れるのを待ち、それから何事もなかったかのように廃棄処分場へ持っていくことにしたのである。

「そもそもどんくらい飲めば効くんスかね、これ」

 ラベルを今一度確かめてみるが、如何せん読み慣れない文字だ。しかも記載されている字が妙に小さいこと、加えて長い間放置されていたせいかあちこち消えかかっている部分があるせいで、結局服用に際する容量の記載を見つけることはできなかった。

……とりあえず、ちょびっとだけ舐めてみようかな?」

 小さくなる度合いが飲む量によって左右されるかどうかも不明なままだが、とりあえず様子見で一滴や二滴ほど口に入れてみるくらいなら大丈夫なのではないだろうか。効果が出なかったら、そこから少しずつ飲む量を増やしてみればいい。
 はやる気持ちを抑えつつ、そっと蓋を開けてみる。きゅぽん、というちょっと間抜けな音がしたかと思うと、途端に何かの花の匂いを何倍にも濃くしたような香りが鼻腔に容赦なく突き刺さってきた。そのあまりに強烈な香りに、ジナコは思わずうっと呻いて顔をしかめてしまう。
 ものすごく不味かったらいやだなあと思いながら、自室にあったマグカップに中身を少し垂らし、水道の蛇口を捻って中に水をなみなみとぶち込んだ。これだけ薄めれば、たとえ多少味がよろしくなかったとしてもギリギリ呑み込むことができるだろう。
 さて、準備が整ったところで。

「では、いざ!」

 ジナコは息を整えたのち、覚悟を決めてコップの中身を口に含んだ。水でがっつりと薄めた甲斐があったのか、或いは元々味自体は匂いから想像するほどきついものではなかったのかは定かではないが、先ほど鼻を突き刺してきた強烈な匂いとは裏腹に、シロップのような穏やかな甘さがほんのりと舌の上を滑り落ちていった。匂いさえ頑張って無視してしまえば、寧ろちょっと美味しい部類に入るんじゃないだろうか、これは。
 ごくごく、と喉を鳴らして中身をすべて飲み干したジナコは、空になったコップをテーブルの上へ戻してからベッドの上に腰かけた。すっかり夢の世界の住民になっているムシカの頭をなでながら、じっとその時がくるのを待つ。
 瓶に貼り付けられていたラベルに曰く、服用してから凡そ五分で効果が出始めるとのことだ。しかしわくわくと期待に胸を膨らませながら待っているせいか、そのたった五分の時間が今はひどく長いように感じられた。ただひたすらに待っている時間というのは、ただでさえ必要以上に長く感じてしまうものなのである。ちなみにこれは経験談だ。
 しばらく待っていると、やがて何となくではあるが手足が先端の方からじわじわと熱を持ち始めた。いよいよ薬の効果が現れ始めているらしい。目の前で手のひらを開いたり閉じたりしてみるが、今のところ大きな変化は見られなかった。

「うーん、やっぱり量が少なかったんスかねえ」

 もう少しばかり薬の量を追加しようかと思い、のそのそとベッドから立ち上がった瞬間だった。

「ッ、あ……!」

 ──ぐにゃり、と。

 目の前に広がる見慣れた部屋の光景が、たわんで、歪んだ。
 ひどい熱を出したときのような悪寒が、続いて一気に全身を駆け上っていく。強烈な痺れを訴え始めた手足が、まるで生まれたての小鹿か何かのようにがくがくと激しく震えて、ジナコはたまらず床の上に両膝と手をついてしまった。しかし床についた手には思うように力が入らず、そのままべしゃりと顔から崩れ落ちてしまう。
 冷たい床の上に倒れ伏してもなおろくに動けないまま、ジナコはただじっと襲い掛かってくる強烈な感覚たちに耐えていることしかできなかった。しかし自分は微動だにしていないはずなのに、まるで嵐の中に放り出された船の上にいるときのように、世界はぐらぐらと揺れ続けている。
 気持ち悪い。平衡感覚がめちゃくちゃで、もはや自分がどんな格好で床に転がっているのかすらもわからない。くるしい。
 たまらず叫び声を上げそうになるが、声帯がその機能を手放してしまったのかと思うくらい、喉からは何の音も出てこない。たすけて、と唇を動かすことすらままならなかった。呼吸をしようとどうにか口を戦慄かせるが、吐息とともに自分の体を構成する重要な中身が全部対外に出ていってしまうような錯覚を覚え、ジナコは震える手で咄嗟に自分の口元を抑える。
 目を固く閉じて、手足を縮こまらせて、ジナコは軽率にこんな薬に手を出したことを心底後悔していた。サーヴァントの肉体に変化を及ぼすような強烈な作用を持つ薬を、その疑似でしかないジナコが摂取したらどうなるか。少しでも冷静に考えればその危険性に思い当たったはずなのに。今更何を思っても遅すぎる。
 こうしてジナコは揺れる世界に訳も分からずもみくちゃにされ、そのまま意識を手放してしまった。自分的には一瞬の間だったのだけれど、実際にはもっと長い時間気を失っていたのかもしれない。

……?」

 黒いインクをぶちまけたような真っ暗闇からふっと意識を浮上させ、ジナコはのろのろと瞼を持ち上げる。そうして目の前に広がっていた光景に、ぎょっとして目を何度も瞬かせることになった。しかしその動作を幾度繰り返したところで、眼前の景色が見慣れた正常なものに戻ることはなく。
 例えば、先ほど手を伸ばそうとしていたコップが置かれたテーブル。ジナコの腰くらいの高さにあったはずの天板が、今は何と遥か頭上に聳え立つ塔のように巨大になっていたのである。
否、テーブルだけではない。ジナコのマイルームが丸ごと超巨大なものへと変化していたのだ。棚も、ベッドも、椅子も、床も壁も天井も、何もかも。
 目の前の光景が夢ではなく現実であることは間違いないが、だからといって今の自室の状態はとうてい受け入れられるようなものではなかった。不思議の国のアリスにでもなったみたいだと、ジナコは信じがたい気持ちで己の手で目元を擦る。
 
 ──否、正確には、擦ろうとしたのだ。
 
 けれど顔に向かって伸ばそうと持ち上げた腕は、しかし生まれた瞬間から一緒だったはずの己のものとは思えないくらい別物にと変化している。
 端的に言えば、異様に短い。そのためどう頑張っても手の平が顔まで届かず、ぺちぺちと床を叩くのが精々といったところだ。それだけの行為にしたって、いつもと比べるとあまりにも弱々しい。

……え?)

 ぱくぱくと、喘ぐように口を戦慄かせる。
 慌てて立ち上がろうとしたが、今度は足がうまく地面につけられないことに気が付いた。四つん這いのようになっている今の状態から動くことができないのだ。まるで四足歩行の動物になってしまったみたいに。

(何、何、ナニコレ? ……って、エッ、はあ!?)

 叫び声を上げたはずの口からは、ジナコが知っているどんな動物からも聞いたことのないような奇妙な鳴き声が漏れるばかりだった。
 
 ──もしかして『小さくなる薬』というのは、年齢が戻って幼くなるということではなくて、体のあらゆる部位が物理的に縮小した、別の生き物に成りはてる代物だったのか?
 
 ジナコは絶望して、冷たく硬い床に顔面を突っ伏した。とはいえ、何故か首がガチガチのギプスをはめられて固定されているように、横にも縦にもろくに動かない。よって、正確にはそういう心境になったというだけなのだけれど。
 今更気が付いたところで何もかも手遅れだったが、瓶の中身を全部飲み干さなかったのは僥倖だったと思った。心底安堵した。数滴をたっぷりの水で薄めたものを摂取してこのレベルの縮み具合だ。もし全部飲み干していたらなどと、考えただけでぞっとする。

(ど、どうしよう、どうしよう……!)

 とにもかくにも、一刻も早くこの異様な状態をどうにかしなくてはならない。漠然とした焦燥感に駆り立てられるものの、いくら考えても自分で状況を打破する方法にたどり着くことはできなかった。
 こういう異常事態が発生した場合、真っ先にマスターである立香に助けを求めるのが正解なのであろうが、残念ながら連絡用にと貸与されている専用端末は遥か頭上のベッドの上である。仮にすぐ目の前にあったところで、手足が極端に小さく短くなっている上、何故か全身あちこちがいつも通りに稼働せず、這って床を前に進むことすら難儀な状態で正常に操作できるかは甚だ疑問だった。
 それならば、とジナコはこのままの状態で他者からの助力を得る方向へと思考をシフトさせた。
 たとえば、せめて何とかしてこの部屋から外へは出られないものか。廊下で誰かに見つけてもらえば、ジナコが異常事態に陥っていることくらいは把握してもらえるはずだ。
 しかし電子ロックで制御された扉を開けるには、扉のすぐ隣についている制御パネルを操作する必要がある。しかしいつもは何の気なしに手のひらを伸ばせていた小さなパネルが、今はあまりにも遠かった。頑張ってジャンプしてどうにかなるようなレベルの高さではない。感覚としては、高層ビルの屋上に向かって地面から手を伸ばしているようなレベルである。もしジナコが高名な魔術師ならばうまいことやれたのかもしれないが、生憎そんな高等な技術は持ち合わせていない。
 ああ、本当にどうしたものか。
 ぐるぐると着地点が見つからないまま思案しているジナコだったが、突如床の上を規則的に伝わってくる地響きがこちらへ向かって近づいてきていることに気がついてしまった。今度こそ頭が完全に真っ白になってしまう。
 怪獣映画などに出てくる登場人物たちなどは、きっとこんな気持ちになるのだろう。自分の想像の範疇を超えた巨大な未知なる存在が、確実にこちらに近づいてきているという事実によってもたらされる、制御不能の本能的な恐怖。

(ひ、いっ……!)

 ジナコは思わず引き攣った悲鳴を上げていた。実際には奇妙な鳴き声が上がっただけなのだけれど、とにかくろくに動かない手足を必死にばたつかせてこの場から逃げようと躍起になった。
どうやってどこへ向かえばいいのかなんて見当もつかないが、とにかくこのままここにいるのはまずいような気がする。このままぷちっと踏みつぶされて圧死、なんて結末は想像もしたくなかった。圧倒的質量に押しつぶされてぺしゃんこになるなんてまっぴらである。こんなところでトラウマを掘り返さないでほしい。ただでさえ動かない手足と頭が、普段はよそに追いやっているはずの真っ暗な絶望に染められて、余計に凍り付いてしまうだろうが!
 そういった黒々したものを無理矢理思考の外へと押しのけつつ、さながら蛞蝓のような速度でじりじりと地面を這ったジナコは、自分にとって巨大な建造物と化したベッドの下へと滑り込むことができた。その辺りに散らばっている漫画本やゲームのパッケージの端を手で無理矢理掴み、そのまま体全体を引っ張るようにしてさらに奥へ奥へと進んでいく。不格好な匍匐前進といったところか。舞い上がった埃が目にしみるが、構ってなどいられなかった。
 そんな気の遠くなるような逃走劇を経て、ジナコはようやく壁際ぎりぎりまで逃げ込むことに成功した。ただでさえ小さくなっている手足をさらにぎゅっと縮こまらせて、近づいてくる巨大なモノがさっさと立ち去ってくれることをただひたすらに祈る。

(こ、怖い、怖いよぉ……っ!)

 感じたことがない類の恐怖によって、ジナコの全身が勝手に震えだす。どっどっどっ、と心臓が重く跳ね回って肋骨を叩く。そのまま胸をぶち破るか、さもなくば口から飛び出してきそうなほどだった。この音で気付かれてしまったらどうしようと、普段なら鼻で笑い飛ばしてしまいそうなあり得ない懸念が、今だけはジナコの中に巣くう恐怖を無慈悲に駆り立ててくる。
 やがて地響きが限界まで近づいてきたかと思うと、ジナコの部屋の扉が開いた音が聞こえてきた。もうだめだ、と冷たい絶望がひたひたと胸の奥を支配していく。
 しかし聞こえてきた声に、ジナコの全身を支配していた恐怖と緊張は、みるみるうちに解けていくこととなった。

「入るぞ、ガネーシャ神」

 ジナコの耳に届いたのは、もはやここが自分の居場所だと言わんばかりの無遠慮さでジナコの部屋に入ってくる、いまやすっかり聞き慣れてしまった男の声だった。
 いつもと全く同じトーンで紡がれた、いつもと全く同じ言葉。信じたくないほどの非日常へ突然叩き落とされていたジナコは、しかし日常の中で当たり前になりつつあった彼の声によって、ようやく現実へと引き戻されたのだった。

……ガネーシャ、神?」
(か、カルナ! ここだよ、アタシはここにいるよ!)

 たすけて、と必死に叫ぶ。しかしジナコの口からは相変わらず言葉らしい言葉は出てこず、奇妙な鳴き声が飛び出してくるのみだった。
けれど今はそれでもいい。今ここでカルナがジナコの存在に気付いてくれるのならば、自分がどんなに無様に見えていたって構うものか。

「ガネーシャ神、何処だ」
(だからここ! ここだって! ねえ、気付いてよ! ねえってば!)

 ばさばさと頭上でカルナがジナコの姿を探しているらしい気配は感じるし、音も聞こえてくるが、彼がベッドの下にいるジナコの存在に気付く様子は一向になかった。喉よ裂けよとばかりに必死に叫んでいる声は、しかしカルナには全く届いていないようだ。
 しかし今ここでジナコの声がカルナに届かないことを認めてしまったら、何もかもが終わってしまうような気がした。足元からひたひたと冷たく暗いものがせり上がってくる感覚が、恐ろしくてたまらなくて、ジナコはひたすら彼に向かって叫び続けた。到底聞こえないだろうと思いつつも、床をとにかく力一杯叩いたり、蹴ったり、近くにあった漫画本の表紙を持ち上げては下ろしてばさばさと音を立ててみたり。とにかく手近にあるものを使って、カルナへ救難信号を発し続ける。
 けれどジナコのそんな切なる願いが届くことはなく、やがてカルナの気配はゆっくりとベッドの位置から遠ざかっていってしまった。

(あ、ああ……

 目の前が真っ暗になる。底なしの深く冷たく、暗い穴の中へと堕ちていく。手足の先から体温がどんどん失われていった。
 
 ──カルナなら、気付いてくれると信じていたのに。
 
 わかっている。こんなのはただのジナコの我が儘だ。そもそもこんな、簡単に見つからないような場所へ逃げ込んだのが悪いのだし。
 でも、だってカルナは、誰もができっこないと諦めることでも、自分がすべきだと思えば無理無茶を全部押野家で成し遂げてしまえるような人だったから。本来ならばわからないのが当たり前なのに、けれど当たり前のような顔で目の前の壁を壊して、その先にいる『ジナコ』へと手を伸ばしてくれる人だったから。
 だからいつの間にか、そんな異常事態が『普通』なのだと錯覚していたのだ。今はある意味正しい形に戻っているのだから、ジナコが悲しむ必要も、意味もない。
 けれど今はどうしてか、胸の内から悲しみが溢れてきて止まらなかった。
 いつもならば「しょうがないかぁ」と諦めて流せてしまいそうなことが、ちくちくと身の内を痛めつけて、いつまでもジナコの内から出ていってくれそうになくて。カルナに見つけてもらえないことが、とてつもなく寂しくて、胸が張り裂けそうで、苦しくて。
 
 ──さみしいの。ねえ、さみしいよ、かるな。
 
 次から次へと噴き上がってくる自分勝手な気持ちが、抑えられない。
 いつのまにかジナコの目からは、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちていた。手が短いために拭えないしょっぱく生温い水が、硬い床に落ちて小さな水たまりを作っている。嗚咽やしゃくりあげる声は、やっぱり奇妙な鳴き声に置き換えられてしまっていた。どうせこの声だって、今のカルナに届きはすまい。
 しかし、そのとき。

「──■■■!」

 誰も紡げるはずのない己の名前が、聞こえた。
 闇に染められつつあったジナコの世界に差し込んだ、一筋の光。眩しくて、美しくて、見ていると苦しくなるほどで、けれど永遠に目に焼き付けたいと願ってしまうような、そんな光だ。
 ああ、カルナがジナコを呼んでいる。他の誰でもない、ジナコの名前を呼んでいる。

(カルナ……!)

 ジナコは思わず、夢中で彼の名前を叫んでいた。
相変わらず声らしい声が口から出ることはないが、だからといって簡単には諦められない。彼が伸ばしてくれた手を、自分が勝手に諦めて無駄にするようなことはしたくなかった。かつてこの手によって救われたジナコに、そんな真似ができるわけがない。
 するとほどなくして見慣れた、しかし見知ったものよりはるかに巨大な手が、ぬっと眼前まで伸びてきた。びっくりしてその場で思わず小さく飛び上がりはしたものの、その手のひら自体には不思議と恐怖は感じない。
 カルナはそのままジナコの体を掴んで、孤独な真っ暗闇の中から引っ張り出してくれた。慣れ親しんだ熱いくらいの彼の体温を全身に感じて、何だかまた涙が出そうになる。あたたかくて、こんなときなのに「幸せだなあ」なんて呑気なことを考えてしまって。
 光の下へと引っ張り出されたジナコが見たのは、通常時であれば思わず笑いを零してしまいそうなくらいに困った顔をした、ジナコの大好きなカルナの顔だった。
 
 

      《三》

 
 こうして無事にベッドの下から救出されたジナコは、安堵のあまりカルナの手の上でたっぷり十分以上は泣きじゃくったのち、彼の手の上に乗せられたまま管制室へと連れていかれた。
 カルデアの頭脳とも言えるかの場所には、頭脳の一部を名乗るに相応しい面々が、日夜世界を救うためにその能力を遺憾なく発揮している。そんな彼らの手をこんなしょうもないことで煩わせてしまうのは本当に気が引けたのだが、言葉が全く話せないジナコに拒否権などがあろうはずもなかった。
 そうして管制室へと持ち込まれたジナコは訳のわからない機械に次々と通され、ぐるぐるとあちこちを巡らされ、血液(こんな状態でもちゃんと血が通っているのは驚きだった)だの皮膚だの何だのをサンプルとして採取された。全てが終わって再びカルナの手の上に戻ったときには、もうすっかり体力気力を使い果たしてぐったりしてしまっていた。珍しく労働をしたことと、薬を飲んだときに襲いかかってきた強烈な変化の不快感で、元々かなり疲れていたのもあったけれど。

「夜分に騒がせるな」
「これくらいのことは構わないさ。寧ろ私の好奇心が大いに擽られる案件で何だかわくわくしてきちゃった! それにしても……ふむふむ、なるほどねえ~」

 ここに来る前にカルナが目に留めて回収してきてくれた例の小瓶を改めて眺めながら、レオナルド・ダ・ヴィンチはうんうんと興味深げに頷いてみせた。

「まさかここまでサーヴァントの霊基と魔力に深く干渉し、さらに変質させるような薬物が開発されていたなんてびっくりだ。私個人としても大いに興味があるなあ~」

 一体誰が作ったのだろう、と小さく首を傾げるダ・ヴィンチ。その顔はどこか悔しげであり、ちょっぴり困っているようであり、尚且つ何となく悪戯を計画しているような楽しげなものでもあり。

「ダ・ヴィンチよ。貴様の知的好奇心を満たすのは今最優すべき事項なのか」
「もう、わかってるってば! 今は何よりも彼女を元に戻す方法を探るべきだ、って言うんだろう? 天才というのはいつだって破天荒なものだけど、一応それくらいの弁えはあるとも。安心してくれていいよ」
「そうか、感謝する」
「当然さ。ガネーシャ神という戦力を喪うのはカルデアとしても痛手だものね」

 ダ・ヴィンチは小瓶をカルナの前で揺らしながら、改めて口を開いた。

「瓶に記載されている分を、さっき軽く解析してみた。ざっとだけれどだけれどね。詳細な結果は今解析中だからもうちょっと待ってね。どうやら一日で効果が切れると書いてあるようだけど、信用に足るかどうかは正直微妙なところかなぁ?」
「欺瞞だな」
「ふえ?」

 ぴしゃりと、まるで冷たい水をいきなり顔面に向かってぶっかけるような声が飛んでいった。突然そんなものを浴びせられたダ・ヴィンチは、それこそ凍り付いたように固まったまま、幼い子ども特有のくりくりとした丸い目だけをしきりに瞬かせている。
 一方そんな二人の様子をカルナの手元で見ていたジナコはというと、「ああああ!」と呻きながら頭を抱えたい気持ちになっていた。しかし今はそんな動作もまともにできないので、代わりに短い手で己が乗せられているカルナの手のひらをぺちぺちと叩きながら、声が届かないことも忘れてきいきいと叫ぶ。端から見れば、そういう動物が飼い主にじゃれついているような、微笑ましい図に見えたことだろう。

(か、カルナさん、そんなんじゃ全然だめだってば! 伝わってない! 全然! もう、ホント、そういうところがいけないんだってボクは──)
「ああ、すまない。今のは言葉が足りなかったのだな」

 すると、まるでジナコの必死な声が届いたかのように、カルナは続けて言葉を紡ぎ始めたのである。

「そのラベルに記載されている文章は、そのほとんどが虚言だ。一日で自然には元に戻らぬのだろう。解呪のためには何か別の方法が必要となるはずだ」
「あ、ああ~、そういうことか。びっくりしたなあ、私の言葉が疑われたのかと思っちゃった」
「む、そのようなつもりはなかった。もし不快な思いをさせたのなら謝罪しよう」
「ううん、私は気にしてないから大丈夫。とにかく、他でもない君がそこまではっきりと『嘘』だと言うのなら、間違いはないのだろうね。重要な手がかりだ、感謝するよ」

 さて、そんな風に雑談めいた話をしている内に検査の結果が出揃ったらしい。シオンが興味津々といった顔で、結果が出力されたデータをタブレットのようなものに表示させ目を通しつつやってくる。緊急事態と言うことでマスターである立香にも収集がかかっていたらしく、同じタイミングでちょっぴり眠そうな顔で管制室に駆け込んでくる。あくびを噛み殺す少年の姿に、ジナコが罪悪感で押しつぶされそうになったのは容易にご想像いただけるだろう。

「すみません、遅くなりました!」
「いや、お前は悪くない。このような夜分に事を起こし、お前たちに多大な迷惑をかけているのはすべてガネーシャ神の失態だ。真に責められるべきは彼女のほうだろう。お前が謝る必要はない」
(ぐ、ぐうの音も出ねえッス~!)

 端的な事実しか述べられていないはずなのに、他でもないカルナの口から聞かされると余計に刺さるものがあった。くうっ、とジナコは顔を伏せて突っ伏したい気分になる。穴があったら入りたいとは、まさにこういう心地のことを言うのだろう。
 さて必要な人員が全て揃ったところで、さっそくシオンが話を切り出してきた。

「では手っ取り早く結論から。今のガネーシャ神の肉体は、この薬の作用によって魔力を体外へ過剰に放出してしまったことによるものだと推測されます。本来、肉体を構築する最低限の魔力すら失ってしまったサーヴァントはそのまま消滅しますが、この薬が肉体に作用することによって消滅とは別の結論をサーヴァントへもたらすことになります」
「つまり今のこの姿は、彼女が消滅するのを防ぐための緊急措置。過剰に少なくなってしまった魔力でも現界を維持できるように、急ごしらえながらも自ら肉体を自己改変した結果だ。件の『小さくなる薬』の本質はそこにあるということだよ。小さくなるという結論をいきなりもたらすのではなく、そこに至る原因を対象に埋め込み、結果として小さくならざるを得ない事象を発生させるわけだ。そして『ならざるを得ない』という概念に介入して、肉体の改造を容易にしている」

 手にしたパイプの紫煙をくゆらせながら、いつの間にか話に混ざっていたホームズがそう付け加えた。というか彼は一体いつからここにいたのだろう。あまりにも気配がないままの登場だったため、驚いたジナコはピエッと情けない声を上げてしまった。

「えーと。じゃあガネーシャさんに、元の体を維持できるだけの魔力の供給を行えば解決できるってこと?」
「う~ん、実はそうでもないみたいなんだよねえ」
「? どういうことだ」
「風船のようなもの、と言えば理解してもらえるだろうか」

 怪訝な顔をするカルナに対し、くるり、とホームズがパイプの先で空中に円を描いてみせる。ここ本来は禁煙なんですけどねぇ、とシオンが揺らめく紫煙を見ながら若干渋い顔をしているが、何処吹く風といった様子だ。

「どうやらこの薬には、小さくなった状態で彼女のカタチを固定するような術式も同時に薬に仕込まれていたようでね。風船は空気を送り込めば、当然体積を増して膨らむ。だが容量を超えた分の空気を無理矢理入れ続ければ、いずれはその器は耐え切れずに破裂するだろう? 今の彼女の状態はまさしくそれだよ。彼女の体にいくら魔力を送り込んでも、体の容量が変わらない以上はいずれ外側が壊れるだけだ」
(ひ、ひえ~……!)

 自分の体が膨らみ、皮膚と肉がみちみちと悲鳴を上げ、そのまま耐えきれずに張り裂けて、肉片と化した身体があちこちに飛び散る。そんなスプラッタな様子をうっかりリアルめな感じで想像してしまったジナコは、思わず身体を縮こまらせていた。そんなグロ指定まっしぐらな展開に自分がなるなんて冗談じゃない。スプラッタホラーなゲームは別に苦手ではないが、あれは画面の向こうだからこそだ。自分がそんなふうになるなんて夢にも思わない。
そしていくらサーヴァントという特殊な身であるとはいえ、体が爆発四散したらさすがに復活することは難しいだろう。ジナコだってそんな「汚ぇ花火だ」状態になるなどまっぴらだった。とはいえ今ホームズがしたのはあくまで例え話なので、本当にジナコの体が張り裂けて爆散することはないのだろう。いや、あったら困る。頼むからないと言ってほしい。
 そんなジナコを横目に、立香は彼らの説明をふむふむと一生懸命自分の中でかみ砕きながら聞いていた。そして顎に手を当てて考え込む仕草をしながら、カルナの手の上のジナコを見つめてくる。

「ええと、じゃあガネーシャさんを元に戻すためには、そもそもこうやって小さくなってしまった体を先に元に戻す必要がある、ってことだよね。……あれ、でも……うん? 体を戻すのがそもそもの最終目標なのに、戻すために最初に体を戻すことが必要になるって、もうどうしようもないんじゃ?」

 そんなご無体な、とジナコは嘆きの悲鳴を上げた。これからずっとこんな体でいることになるなんて、それこそ笑えない冗談である。自由にゲームもできないし、漫画も読めないし、食事も一人の力では食べられまい。他の誰かと言葉を使ってまともな意思疎通を行うことすらろくにできない。
 そして、何よりも──。

(カルナさんの役に立てない。ううん、役に立てないどころか、これから先ずっと迷惑をかけ続けることになっちゃうかも……

 己の知的好奇心によるちょっとした暴走が、こんなに大きな影響を及ぼすことになるとは考えてもみなかった。ちょっぴり、本当に少しだけ、調子に乗ってしまっただけだったのに。
 様々なきっかけで聖杯やその欠片を手に入れ、暴走して微小特異点などを作ってしまうサーヴァントがいると聞いたとき、ジナコは「何をやっているんだか」と内心鼻で笑っていたのだ。けれど好奇心という魔物は本当に恐ろしいもので、当事者になると後先など考えることができなくなってしまうらしい。ジナコは三十年弱人間として過ごしてきたこの人生の中で、そんなことを今更身を以て学んでしまった。これからは調子に乗って特異点を作ってしまったサーヴァントたちを笑ったりできそうもない。
そして同時に、あの薬をいきなりカルナに飲ませるほど暴走しなくて良かったと、本当に心の底からそう思った。カルナは現状、カルデアに現界しているサーヴァントたちの中でも指折りの強者である。比較的初期に召喚されたということもあり、練度も高く、また他のサーヴァントたちとの連携においても欠かせない存在となっている。
 立香が重要な局面で彼の力を頼りにしているということは、カルデアに来てまだ日が経っているとはいえないジナコでもよくよく知っていた。カルナはサーヴァントとして十全に、否、期待値以上の成果をマスターにもたらせるだけの力を持った、チート級の戦士であると。その点に関してはジナコも身をもって知っているので、疑う余地はない。
 しかしそんな最高峰の戦力を、他でもないジナコの手で無にしてしまう一歩手前まで事は転びかけていたわけだ。ちょっと考えただけでもぞっとする話だ。
幸い回避されたカルナの話は置いておくとして、今はジナコのことだ。もしこのまま二度と元に戻れないというのなら、もういっそ契約を解除して座に還して召還をやり直そうなんていう結論が出てくるのはおそらく時間の問題だった。この先永久に役に立たないことが確定したサーヴァントに割くようなリソースが、今のカルデアにあるはずがないのだから。

 もしそうなったら今度こそ、本当にもう二度と、ジナコはカルナと会うことはできないだろう。

誰に直接的に言われたわけでもないが、恐らくそうなのだとジナコは感覚的に判断していた。そもそも今の状態だって、いわば完全にボーナスタイムでしかない。本来ならば役目を終えたあの異聞帯で、ジナコの出番はおしまいだったはずなのだから。しかし運命の悪戯か、再びこうやって彼の側にいることを許されてしまっている。
 だからきっと、今回ジナコに再び与えられた奇跡はギリギリで、有限で、さらには時間制限もあるかもしれないものだった。だから一度手放してしまったら、もう永遠に取り戻すことができない。特に悲観するでもなく単純な事実として、ジナコはそれを受け入れていた。
 だからいつかくる別れの予感も全部受け入れた上で、次にカルナと別れるときには、胸を張ってちゃんとお別れを言おうと決めていた。私は、私なりにちゃんと頑張ったのだと。あなたに命を繋いでもらった私という人間は、何者でもなかったはずのただのジナコ=カリギリという人間は、それでもきっとここで何かになれたのだと。そう言って、心から彼に笑ってみせたかったのだ。
 だというのに、こんな謎の生き物になってしまって、奇妙な鳴き声しか出ない状態で、ろくに挨拶も出来ないまま突然の別れなんて、そんなのあんまりである。
 けれど今回の件に関しては全面的に自分の責任だから、仕方ないのかもしれない。調子に乗って、今手元にある尊い奇跡に慣れてしまった。そしてこれは、そんな奇跡を自ら蔑ろにした罰なのだ。
 だったら、自分はもう──。

「ガネーシャ神よ」

 ずぶずぶと重たい泥に沈みかけていた思考は、しかし不意に降ってきた淡白な声により、一瞬にして浮上した。
 はっと顔を上げると、何故か妙に沈痛な面持ちのカルナが見下ろしている。かちあった視線が、二人の間でぱちんと弾けた。ぱちぱちと音を立てる炭酸水に浮かんでいるような不思議な心地になっているジナコの中に、カルナの声は不思議なくらいよく響いてくる。

「過ぎたことを過剰に気に病むのは、何の成果ももたらさない無駄な行為だ。お前がいくら己を責めたところで、進む時計を逆に回すことは叶わぬのだから。お前が常から無駄を好む性質であることはオレも重々承知しているが、流石にそれ以上は目に余る」

 言い方こそちょっと刺々しく、聞く人によっては突き放すように聞こえてしまう冷たいものだ。けれどジナコを撫でる手つきは、思わずほうっとため息を零してしまいそうなくらいには優しかった。
 触れていると汗ばんでくるほど熱いカルナの体温が、接している部分からじわじわと伝わってきて、染み込んできて、冷たくなった胸の奥底をゆっくりと溶かしてくれる。身体に正常な熱が戻ってくるにつれ、急にわあわあと大きな声を上げて泣き出てしまいたいような気分になった。もし自分が元の姿であったら、カルナの腕の中に飛び込んで、縋り付きながら泣き喚いていたかもしれない。
 カルナが不器用ながら一生懸命励ましてくれているのが心の底から嬉しくて、でも彼をそんな風にさせているのが申し訳なくて、自分が情けなくて。もう心の中はめちゃめちゃだ。

「な、泣くな。何故泣く」

 またジナコの意識の外で、勝手にぼたぼたと涙が零れ始めていたらしい。またみっともなくべそべそ泣いてカルナを困らせるなんて、と頭では思うのに、ひっひっとしゃくり上げてしまうのがどうにも止まってくれない。
 そんなジナコを見たカルナは、端から見ればちょっと愉快に見えるであろうくらいには狼狽えていた。最初にジナコをベッドの下から引っ張り出してくれたときのように、不器用な手つきでのろのろと、しかし必死な様子でジナコを撫でさすってくれる。眉をハの字にしてもたついている姿は、少しだけいつもより幼く見えた。
 しかし何だろう。この珍妙な姿になってからというもの、どうも感情の制御がうまくいかないような気がする。泣きたいなと思ったときにはもう涙が出ているし、カルナの手の中があたたかくて幸せだと思えば自然と顔も身体もゆるゆるに緩みきっているし。ちなみにこれは単純な構造になってしまった肉体に引っ張られて、感情表現も単純化しているせいだったらしい。ジナコがそんな話を聞くのは、ここからずいぶん後の話となる。

「すまん、泣かせるつもりはなかった。オレはまた言葉が足りなかったのか?」
(違うッスよぉ……だから、何でそうやって、カルナが謝るの……

 ともかく、今はジナコが勝手にめそめそ泣いてしまったせいで、図らずも彼を責めているような状況になってしまっていた。でも本当はそうじゃないのに。涙は悲しいときにだけ溢れるものではないのだ。ジナコも随分と長い間、そのことを忘れてしまっていたけれど。
 ジナコは今の彼の気遣いが嬉しい。嬉しいから泣いているのだ。
だからそもそもカルナが自分の言動を反省する必要はないし、悪いことなんかちっともない。そんな悲しい勘違いされたままでは困る。また自分は間違えたのかと、自分自身につけられた傷は完全にそっちのけで、相手の負った傷ばかり見て。しかも他人の負った傷がよくよく見えてしまう性質だから、なおのこと要らないものまで背負ってしまって。

(カルナのばかぁ……

 色々言いたいことはあるが、やっぱり何にも言葉になってくれない。悪態をついてはみたものの、本当に言いたいのはそんなじゃないことも、ジナコ自身が一番よく知っている。
 結局何を言えばいいのかわからないまま、ジナコはまだ手放したくない温もりに縋り付くことしかできないのだった。

……ところで。ガネーシャ神の本体については、これからどうしますか?」

 ジナコの体の状態については引き続き調査を進めることとし、必要であれば呪いなどに詳しいサーヴァントに改めて協力を仰ごう、という形で一旦話がついたところで、シオンからそんな指摘が飛んできた。

「このまま何もせず、彼女の自室に戻して後は明日の朝まで放置、というのも些か危険な気がしますケド」
「あー……

 つまるところ、先ほどのカルナの言葉をそのままの意味で受け取るならば、『小さくなる薬』という文言そのものが嘘かもしれない、ということだ。
実際にこうして体が縮んでしまっており、その状態で固定する術式が仕込まれていた以上、効果の一部としてはもちろん間違ってはいないのだろう。しかし本命の効果はもしかしたら別にあるという可能性は否定しきれなかった。今は何も出ていないとはいえ、未だに不明な効果が遅延的に現れることを考慮すると、状況を見極められるまでは適切に監視しておく必要がある。

……えーと。つまり、ボクはどうされちゃうんスか?)

 実験動物が入るような固いケースに詰め込まれ、同じように容器に詰められた得体の知れない物体たちと並べられ、寒々しい倉庫のような場所で孤独に夜を明かす自分の姿を想像したジナコは、思わずぶるりと身を震わせていた。勘弁してくれ、そんな場所に放りこまれたら、身体がどうこうなる以上に精神的にどうにかなってしまいかねない。
 不可侵の箱の中に入って、いつ来るかもわからない迎えを待ち続ける痛苦を、ジナコはあの異聞帯で一度乗り越えてはいる。しかしアレをもう一度やりたいかと問われれば、全力で首を横に振らせていただきたいところだった。あのときは色々な奇跡が重なって、心に秘めて抱き締めていた大切なものに支えられて、本当にギリギリで耐えきることができたというだけである。当然、今回はあそこまで絶望的な状況にならないだろうが、とにかく無理なものは無理だ。トラウマをほじくり返すようなこと誰が進んでやったりするものか。
 しかしダ・ヴィンチの口から飛び出したのは、ジナコのそんな予想とは全く異なる提案だったのである。

「そうだなぁ。じゃあしばらくの間、第一発見者のカルナにガネーシャ神の監視の任をお願いしましょうか?」
(はいぃ!?)

 シオンからさらりととんでもないことを言われた気がして、ジナコは反射的に素っ頓狂な声を上げていた。実際は相変わらず妙な鳴き声しか出ないので、その悲痛な声は誰の耳にも届いていない。
 こんな不安定な気持ちを抱えている中で、他でもないカルナがずっと側にいてくれるというのは願ってもない提案だった。今もジナコを包んでくれているこのあたたかい手の中にいられるならば、きっと何があっても大丈夫だろうと思えるのだ。寧ろこの状態に若干やみつきになりつつあり、この温もりをずっと味わっていたいと思う自分がいなかったと言えば嘘になる。
 しかし理性的に考えれば、カルナにはああやって助けてもらい、テーブルの上に放置していた薬とともに自分を管制室まで連れていかせ、事情の説明まで全てをさせてしまった身だ。いくらなんでもこれ以上彼に迷惑はかけられなかった。
 だから頼むどうか断ってくれ、と目線でカルナに訴える。カルナがきっぱりと断ってくれれば、ダ・ヴィンチたちだって別の案を考えてくれるはずだ。
 そんなジナコの必死な視線に気づいたらしいカルナは、しばらくじっとこちらを見下ろしていた。そして力強くひとつ小さく頷いて、こう言ったのだ。

「承知した。すべてが解決するまで、オレが責任を持ってガネーシャ神の世話をしよう」
(し、承知すなぁぁぁぁぁ!)

 駄目だ、何ひとつ伝わっていない!
 言葉などなくとも心は通じると、一瞬でもそう信じたジナコが愚かだったらしい。しかし目と目で通じ合うなんてことが簡単に出来ていたのなら、カルナは生前も今も苦労していなかったはずだから、仕方ないといえば仕方ないのだろう。
 けれどそれにしたって、何故ここでそんなにドヤっていらっしゃるのだろう、この男は。こんなのは迷惑だから嫌だとはっきり言ってくれればいいのに、何故逆にそんな嬉しそうにしているのか。
わかりそうでわからない、追いかけていたものをようやく捕まえたと思ったのにいざ手を開いてみたら中は空っぽだったみたいな、複雑な心境になってしまったジナコは、ほへぇと気の抜けたため息を零す。カルナと一緒にいると何かとこういう感覚を抱くことばかりである。いつだってジナコの予想の範疇を遥かに超えたことやってのけてくれるのだ、このカルナという人は。そのおかげで今ここに存在できている身の上なので、あまり大きなことは言えないのだけれど。
 混乱しているジナコを置いてきぼりにしたまま、頭上で繰り広げられている会話はとんとん拍子で先へと進んでいってしまう。

「力強いお言葉ありがとうございます! あなたの元で保護していただけるのなら、我々も安心です」
「ああ、任せておけ。要介護生物の世話には覚えがある。全身全霊を以て事に当たるとしよう」
(誰が要介護生物じゃい! ホントにもう、カルナさんはボクのことを一体なんだと思ってるんスかッ!)

 相変わらず謎に自信満々な笑みを浮かべるカルナの手のひらを、ジナコは怒りに任せてぺちぺちと叩く。しかし結局そんな抵抗も虚しく、ジナコを大切に手のひらにのせたまま管制室を後にしたカルナは、再びジナコの自室へと戻っていったのだった。
 さて部屋に戻ると、いつの間にか夢の世界から戻ってきていたらしいムシカが、チューチューとしきりに鳴き声を上げながらこちらに向かって飛び付いてきた。本気で心配してくれていたであろう真摯なその姿に、ジナコはまたしても涙ぐみそうになる。
 カルナはジナコを乗せているのとは反対の手でムシカを持ち上げると、二人(正確には一人と一匹、この場合はもはや二匹と言うべきか?)を並べてベッドの上へと下ろしてくれた。そのすぐそばに自分も腰かけ、こちらを柔らかい表情で見下ろしてくる。
 注がれる視線が何だか妙に甘やかで、くすぐったくて、ジナコはそんなカルナからほとんど反射的に目をそらしてしまった。

(あーあ……しかし、なんでこんなことになっちゃったんスかねえ……

 チューチューと鳴きながら鼻をすり寄せてくるムシカの愛らしさに存分に心の傷を癒やしつつ、そんな自責の念からくる疲労感が相変わらずどっと肩にのしかかっていて、ジナコは小さく項垂れていた。
 なんでもなにもそもそも完全にジナコのせいではあるのだが、まさかこんな深刻な事態になってしまうとは。前もってわかっていたらやらなかったのに、なんて後悔が無駄であることは十分承知しているが、やっぱり自分を責めずにいられない。
 その時、もふん、とジナコの体にあたたかいものが覆い被さってきた。伝わってくる熱いくらいの体温でわかる。先ほどまで自分をのせて守ってくれていた手だ。ちゃんと撫でてやりたいのに力加減がよく分かっていないというか、妙におっかなびっくりというか、そんな手つきだった。
 首が動かないので目だけ使って手の先を見上げると、少しだけ緊張しているようなカルナと目が合った。ジナコが自分を見ていたことに気がついたのか、日の出を迎えた空のような、赤と青が同時に存在する不思議な瞳が緩く細められる。慈しみに満ちた、柔らかい微笑みだった。
 もしかして、彼なりに励まそうとしてくれているのだろうか。
 彼が自分を思って行動してくれたのが嬉しいと思う一方、何だか見てはいけないものを見てしまったような心地がして、ジナコはまた慌てて目をそらしていた。心臓がどきどきし過ぎていて、顔が熱くなってしまって、頭が真っ白になってしまう。
 何というか、こういうのは、困る。とても困る。だって、うっかり勘違いしてしまいそうになるから。
 誰にも見せないまま、ずっと大切にしまい込んでおこうと思っていたこの心の中の宝物を、うっかり見せてしまいそうだ。白日の下に晒されたその気持ちが、願いが、どんなに傲慢なものなのかを自覚してしまったが最後、きらきらと輝いている今の色がたちまち濁ってしまいそうで、少し恐ろしい。
 背中を撫で擦るあたたかな手の温もりに包まれているうちに、いつの間にかうとうとと眠気の波が襲いかかってきた。現金なことに、あれほど元気よく跳ね回っていた心臓も徐々に落ち着きを取り戻し、今は一定のリズムを刻んでジナコを夢の世界へと誘っている。

「眠るのか、ガネーシャ神」

 ジナコがうつらうつらし始めたのを感じたのか、カルナは不器用に撫でていた手をどかして顔を覗き込んできた。見つめてくる瞳が、もはやこの世のものとは思えないほど綺麗で、見惚れたジナコは思わずほうと大きく息を吐く。
早朝の澄んだ青空のような瞳に、意識がゆっくりと吸い込まれていくようだった。あやすように体の上を往復して触れてくる彼の指の感触も、染み込んでくるあたたかい温もりも、ぜんぶが心地良い。身を委ねたいという衝動に抗いきれない。何だか幸せだなぁと、知らず顔が緩んできてしまう始末だ。
 ずっとこの手の中にいられたらいいのに、と思う。
絶対に叶いっこないような思いだ。けれどだからこそ、夢に見るくらいは許されたっていいだろう。大好きな人のぬくもりに包まれて眠るという、甘く優しい夢を。

……おやすみ、■■■」

 耳をくすぐった穏やかな声に、ジナコはとうとう残されていた僅かな意識すらも、波の向こうへ攫われてしまったのだった。
 



      《四》
 
 

 ──ならぬ。ああ、これではならぬ。私の望みは、こんなものではない!
 
 不意に、声が聞こえた。知らない声だった。
 声は泣き叫んでいるようにも、怒号を放っているようにも思える。そこには強い嘆きと怒り、そして海のように底が知れないほどの深い悲しみが満ちていた。その叫びを聞いているこちらのほうが、胸を切り裂かれていると錯覚するような痛みを覚えるほどに。
 
 ──ああ、ああ! 斯様な姿ではならぬ。誰にも己を見つけてはもらえぬ。誰も、己を見てはくれぬ!
 
 そのとおりだ。
 誰にも見つけてもらえないのは、悲しい。手を伸ばしても何処にも届かず、誰にも握ってもらえないのは、恐ろしい。そしてきっと、とてつもなく寂しいことだった。
 自分はそれを知っている。その上で、そんな暗く寂しい中へと伸ばされる手のひらの眩しさも、尊さも、痛いほど知っている。
 けれどこの声の主には、本当に、己に手を伸ばしてくれる人がいないのだろうか?
 
 ──ああ、駄目だ。やはりこれでは足りぬ。満たされぬ。我が心を十全に癒やすことは決して能わぬのだ!
 
 それも仕方のないことなのだ。心の傷というのが完全に治ることは、きっとないから。だからいくら傷を埋めようと足掻いても、以前と同じものには決して戻れない。嘆き悲しむ声を聞きながら、そう思う。
 たとえ時が経って傷が塞がったように見えたとしても、一度ずたずたになった心は永遠に血を流し続けている。本人が気付かないふりをしているか、常に激しい痛みを伴いすぎて「痛い」と感じられなくなったか。或いはその傷を負った記憶ごと全て忘却の彼方へと追いやってしまうか。
 とにかく治ったと錯覚していても、きっと実態はそんなところなのだ。ふとした瞬間にまた血を流し、こころのあるじに痛みを訴える。そしてあるじはその痛みを、苦しみを、一生抱え続けていかなければならない。
 
 ──故に己はもっと、もっともっともっと、ふさわしい姿にならねばならぬ。
 
 どんな姿になれど、人間は人間である以上、一人きりでは絶対に生きていけない。どんなに壁を作って一人になったつもりでも、心から望んでいる振りをしていても、結局は自分以外の誰かを求めてしまう。
 けれど、この声の主が言う『ふさわしい姿』になれれば、自分自身を満足できる自分に作り変えられれば。たとえ誰にも見つけてもらえなくても一人で立っていられるのだろうか。抱えた傷を完全に塞いで、痛みに苦み喘ぐことも、そもそもそんなものが不意に顔を覗かせてくることに怯えなくてもいいようになるのだろうか。
 
 ──故に、故にこそ、『力』が必要なのだ。己を望むままに改変出来るような、圧倒的な力が。自分はそれを手に入れなくてはならない。
 
 ああ、それは何となくわかる。現状の己の力だけでは何も変えられないのだとしたら、外的な要因によって自分を変えるという方法を見いだすのは自然な結論であろう。
 でも、そんな力が、本当にあるというのだろうか?
 
 ──ああ、もちろんあるとも。己は既にそれを知っている。それはここに在る。だからあとは、手を伸ばすだけだ。
 
 手を、伸ばすだけ?
 そうすれば、全ての望みが叶う。自分の理想とする姿になって、望みを果たすことが出来る。
 もしそんな奇跡があるのならば、私は。
 
 ごぽり、ごぽり。水が歌い踊る音が、遠く聞こえる。
 揺らめく水面から、沈みゆくものへ光が零れ落ちてくる。
 眩しくて、目を閉じる。訪れた闇の中で、ぼんやりと響き続ける音に意識を絡め取られてしまう。
 
 そうして心地よい音と光に、ジナコはあろうことかそのまま身を委ねてしまったのだった。