澪標-みおつくし-

トラブルにより身体が小さくなってしまった上、微小特異点に攫われてしまったジナコを助けに行くカルナのお話。

※発行当時のものから大幅に加筆・修正を加えております。内容自体は変わっていません。
※発行当時の情報に基づいた設定となっているので、最新の状況と齟齬が出ている部分もあります。


【第二章】



      《一》


 ──ガネーシャ神が、カルデアから消失した。

 監視役を務めていたカルナは、しかし一瞬目を離した隙に、彼女の姿を見失ってしまった。全ては自分の責任であるので、無論この失態に関してあれこれと言い訳をするつもりはない。けれど監視役を任され、最大限の警戒態勢を自分に課していたカルナをして、それは本当に瞬きの間の出来事だった。
 カルナはその夜、眠りに入ることなくガネーシャ神を監視し続けていた。その間に何か起こってしまっては事だと考えたからだ。カルデア内では半受肉状態になっているとはいえ、本来サーヴァントには睡眠も食事も必要ないのだから、多少睡眠を取らなかったところでたいした影響はない。
 翌朝、日が昇りきってもぷうぷうと呑気に寝息を立てたまま、まったく起きる様子のないガネーシャ神に顔を緩ませながら、しかしそろそろ腹を空かせる頃合いだから自然と目を覚ますだろうと思っていたのだ。食堂で朝食の提供が開始される時間を思い出しながら、現在の時刻を確認しようと時計を見て。そうして再び視線をベッドの上に戻したとき、ガネーシャ神の姿は忽然と部屋から消失していたのである。
 彼女のすぐそばに寄り添っていたムシカは、目の前で主の姿が消えたことに対して相当な衝撃を受けたらしい。ベッドの上を忙しなく走り回りながら、必死にチイチイと鳴き声を上げてガネーシャ神を探し続けていた。ひどく混乱している様子で、この従者にとっても彼女の消失が突然の出来事であったことが推し量れる。
 当然カルナも部屋中をくまなく捜索したものの、不甲斐なくも彼女の発見には至らなかった。加えて言うならば、最初に姿が変わってしまったガネーシャ神を部屋から救出できたときと違い、「ここに居る」という感覚すらも皆無だったのである。伸ばした手が空しか掴めぬことによって沸き上がる焦燥の念に、胃の底が引き絞られるような心地がした。
 もうこの部屋の中にガネーシャ神はいないと早々に判断したカルナは、何人かのサーヴァントに手伝ってもらってカルデア内もあちこち捜索した。しかしやはり彼女の姿はどこにも見当たらない。そもそもあのような姿で、一瞬にして姿をくらまし部屋の外を出歩くなどという真似が出来ようはずがないのだ。では、ガネーシャ神はいったいどうやって、どこへ行ってしまったというのか。
 そうやってガネーシャ神を探しているときのカルナは、どうやら端から見てもはっきりとわかる程度には動揺を露わにしてしまっていたようだった。きっと見つかるからそんな顔をするなと、捜索の片手間に何人かからそんな元気づけようとする言葉を賜ってしまったほどである。確実に傍にあったはずの大切なものが見えなくなってしまったということに対して、自分でも想像以上に動揺していたらしい。すまないと頭を下げるカルナを、協力してくれたサーヴァントたちは有り難いことにそれぞれ励ましてくれた。
 結局にっちもさっちもいかなくなったところで、カルナは捜索を手伝ってくれたサーヴァントたちの助言を受けて、管制室へと足を運んだ。カルデアに在籍するすべてのサーヴァントを管理しているあの場所であれば、何かしら手がかりが得られるはずだ、と。
 逸る気持ちを抑えながら足を踏み入れると、普段は冷たい機械の稼働音に支配されている独特な空間は、しかし何やら妙に騒がしい雰囲気になっていた。詳しく話を聞いてみれば、ガネーシャ神が消えたと思しきタイミングと同時刻に、微小特異点の発生が観測されたのだという。

 ガネーシャ神の消失。微小特異点の発生。

 同時に発生した二つの事象には、何かしらの関係があるとみて間違いない。そう考えたカルナがガネーシャ神が忽然と姿を消したという話をしたところ、カルデアの頭脳たちもカルナの意見に同意してくれた。
 その後カルデア内に残されている記録を片っ端から洗ったところ、件の特異点に微かな魔力反応が転送された形跡が見つかったのだ。あまりに魔力の規模が小さいので監視システムなどすらすり抜けてしまっていたようだが、改めて詳細に解析したところ、魔力反応は確かにカルデアに登録されているサーヴァントと一致するもの、つまりはガネーシャ神の持つそれであったというのである。つまり発生した微小特異点から何らかの干渉を受けたガネーシャ神は、そのままそこへ攫われてしまったのではないかということだった。
 カルナがそんな説明を受けているところで、ばたばたと忙しない足音が二つ、管制室へと飛び込んできた。

「お待たせしました!」
「藤丸立香、マシュ・キリエライトの両名、ただいま到着いたしました!」

 駆け込んできたのは言わずもがな、カルデア唯一のマスター藤丸立香と、そのパートナーであるマシュ・キリエライトだった。立香はいつもの戦闘用の礼装を身につけており、ここへ来るまでに既にある程度の説明が済んだ後であろうことが伺える。

「いつも突然ですまないね、藤丸。さて、今回もいつもどおり、微小特異点修復の仕事に取りかかるとしようか」
「うん、わかってる」

 ホームズに声をかけられた立香の横顔は、年相応の少年が見せるいつものものではなく、百余りものサーヴァントとの契約と世界の行く末をその背に負う「人類最後のマスター」のものになっていた。己ができることをやるだけだと、そういう覚悟がとっくに決まっている顔である。彼のそんな表情を認めたホームズは、どこか満足げに片眉を持ち上げながら再び口を開いた。

「頼もしいことだ。さて、では早速だが、今回の特異点についてのブリーフィングを始めるとしよう。指し示された先は日本。規模はさほど大きくないが、聖杯らしき魔力反応とサーヴァントの存在が確認されている。君の任務はいつも通り、特異点の原因となっている聖杯の回収。回収を妨害する事象が発生している場合は、その排除だ。まずは今回のレイシフトに同行するサーヴァントについてだが……
「マスター。今回のレイシフトにオレを同行させてほしい」
「え?」

 ホームズの話を聞きながら改めて気合いを入れ直していたらしい立香に声をかけると、彼はきょとんとこちらを見上げてきた。マシュも驚いたのか、表情こそ大きくは変わらないものの、アメジスト色の瞳をしきりにぱちぱちと瞬かせている。
 彼らの驚きも無理はない。カルナがここまではっきりと同行への希望を口にしたことは、恐らく今までにはなかったことだったから。
 カルナがそもそも事件の中心にいて自然とレイシフトメンバーに含まれていること、或いは必要に応じて追加で現地に馳せ参じるといった機会は、今まで何度もあった。しかし最初から自らの同行を強く願い出たのは、恐らくカルデアに召喚されてからは初めてのことであろう。
 傲慢な考えだと自覚もしているが、今回ばかりはどうしても自分が行かねばならないと思ったのだ。ガネーシャ神を消失させてしまったのは全て自分の責任である。過ぎたことはもはや変えようがないが、せめて彼女を安全にこの場所へ戻してやるのは最低限の義務だ。
 そしてそんな責任を取るという理由以上に、ガネーシャ神がひとりぼっちで何処ぞとも知れぬ暗い場所に閉じ込められているかもしれないというこの状況を、カルナ自身がただ黙って見ていることができそうになかったのだ。

……シオン、今回のレイシフト適合者にカルナは入ってる?」

 じっとカルナを見つめていた立香だったが、やがて特に理由を聞くことはせず、解析を進めているシオンの背中に声をかけた。シオンから立香の言葉に対する返事の代わりに、返ってきたのは機器の低い唸り声。トリスメギストスⅡから結果が出力されてくる。

「はいはい、カルナさんは今回のレイシフトに適合していますね。同行は可能ですよ~!」

 くるりと踊るように軽やかな様子で振り返りながら、カルナに向かってぱちんと軽快に片目を瞑ってみせた。カルナがガネーシャ神を普段から気にかけていることは、おそらく周知の事実である。彼女もそのことを知っているからこそ、ガネーシャ神の監視役にカルナをと指名したのだろう。
 シオンの報告に立香は頷き、再びカルナのほうを向き直る。

「わかった。……カルナ、ついてきてくれる?」
「ああ」

 感謝する、と口にすれば、立香はいつもの人なつこい笑みで応えてくれた。

「ふむ。カルナが同行するのならば、少なくとも単純な戦力の面での問題はないだろう。他のメンバーについては……

 そう口にしながら、相も変わらず紫煙を薫らせているかの名探偵の鋭い瞳が、トリスメギストスとペーパームーンを見上げて閃いた。




      《二》


……んあ?」

 ずっと深く潜っていた水の中からぽっかりと顔を上げたような心地で、ジナコはのたのたと重たい意識を何とか浮上させる。

 何か、夢を見ていたような気がした。具体的には思い出せないが、悲しくて、寂しくて、悔しくて──溺れてしまいそうな、そんな夢を。
 そんなことよりも、そろそろカルナが起こしに来てもおかしくない時間になるはずだ。起きろと冷たい声と共にブランケットを無理矢理はぎ取られるのはなかなか屈辱的なものがあるし、今日くらいは自主的に起きてやろうか。くあぁ、と湧き上がる欠伸を噛み殺しながら、ジナコは重たい瞼を持ち上げる。
 しかし目に入ったのは見慣れた自室の床と壁と天井ではなく、まるきり見覚えのないものだった。寝起きでぼやぼやしていたはずの意識は、そんな光景を脳内で処理した瞬間、一気に覚醒する。

「な、なに? どういうこと? アタシ、確か自分の部屋で寝てたはずでは……って、んん?」

 さらに何か妙な違和感が頭をもたげたが、その正体にはすぐに気がつくことが出来た。反射的に開いた口から、はっきりと言語として認識出来る声が出せていたのである。加えて、伸ばした手はちゃんと顔まで届くし、自分の力だけで己の身体を直立させることができていた。もはや腹這いになってひーこら言いながら這いずり回る必要もない。
 そう、つまりどういうわけか、ジナコは今、いつも通りの自分の身体を取り戻せているのだ。

「え、え、なんで? え?」

 疑問でいっぱいのまま辺りを見回す。首も通常どおりちゃんと回るから、あの謎の俵のような寸胴体型からも完全に脱却できているわけで。もしかしてまだ夢の中にいるのだろうかと、古典的だと思いつつも頬を指で抓ってみる。痛い。これは現実であるようだ。証明終わり。
 何が何だかさっぱりわからないが、とにかく元通りの体を取り戻せていること自体は素直に有り難かった。ようやく面倒なお世話係から解放してやれると、カルナに報告しなくてはなるまい。
 しかし悲しいかな、眠りにつく前までそばにいてくれたはずの彼の姿はどこにもないし、そもそもジナコは自室ではないどこか別の場所にいるときた。カルデア内の別の場所にいるのかと一瞬思ったが、どうやらそれも違うらしい。だって部屋を支配する空気が、温度が、雰囲気が、あの場所とは余りにも異なっている。
 理由は未だに不明なままだが、どうやらジナコはカルデアとは全く別の場所でがっつり眠りこけていたらしい。もう少し警戒心を持てと先日カルナに叱られたことがあり、自分だって最低限は弁えているつもりだと鼻息荒く反論したのだが、こんなことになってしまってはもう今後そんな言い訳もできそうになかった。

「と、とにかく外に……って、あ、あれぇ?」

 何となくいつもより重く感じる身体を引きずるようにして、とりあえずちゃんと立ち上がろうと足に力を込める。しかし酷い目眩を起こしたときように視界がぐにゃりと歪み、ジナコは溜まらずへなへなとその場に座り込んでしまった。最初に薬を服用したときとどこか似たような感覚だ。
 そのまま傾きかけた身体を支えようと手をつくが、腕にもうまく力が入らない。結局、何か渋い草の匂いがする不思議な床に顔から突っ込んで、鼻の頭と額に擦り傷をこさえることになってしまった。

「いっ、たぁ~い! もう、ホント何なんスかっ!?」

 ジナコはその痛みに呻きながらも、理由自体について既になんとなく察しがついていた。単純な話、魔力不足である。身体を十全に動かせるだけの最低限の魔力すら、今のジナコの肉体には正常に供給されてきていないのだ。少し身体を動かそうとしただけなのに、全力疾走した後のように激しく息が上がり、とてもではないがまともに動けそうにないのが証拠である。はいそこ、普段からいうほど活発に動いていないじゃないか、とか言わない。ジナコさんが泣いちゃうでしょ。
 慌ててマスターである立香とのパスを確認してみると、どうやらあちらからの魔力供給が正常に行われていない状態にあるようだった。故に今のジナコが己の活動のために消費できる魔力は、ここにくるまでに自分の中で貯蔵していた量──あの手の平サイズに収まっていた体に蓄積できていたものだけ、ということになる。こうして身体だけが元の大きさに戻ってしまった現状、不足してしまうのも無理はない話だった。
 幸いにも存在維持にかかるギリギリの量の魔力は残されているようだから、このままの状態を維持することに専念し、無茶しなければそうそう簡単に完全消滅するということはなさそうだ。今後の魔力消費には十分に気を遣わねばなるまい。とはいえどうせ魔力不足でスキルも宝具も何も発動できない状態なのだから、いずれにしろ生命維持にだけ注力せざるを得ない状況である。そこまで深く心配する必要はないだろう。フラグかな、と一瞬脳内を過った自分の声は、あえて聞こえなかったことにしておいた。
 とりあえず、今の自分で出来る範囲で情報を得よう。話はそこからだ。己が置かれている状況を正確に把握しなければこの先何もできない。
 そう思って目だけで部屋の中を見回せば、どうやら自分がいるのが和風な建築様式の家であるらしいことがわかった。先程顔面を擦りつけた床は、たしか畳というのだったか。周りを取り囲むのは障子と、美しい墨絵が描かれた襖。棚板が左右に互い違いに取り付けられた棚には、全体的に古ぼけた印象の和綴じの本が並べられている。
 部屋内は全体的に薄暗く、行灯の光がその暗闇の中でぼんやりと浮かび上がるように隅っこで鎮座していた。漏れる橙色の光はゆらゆらと揺れ、部屋全体を妖しく照らし出している。障子の外側はすっかり夜の帳が降りているようだ。

「う、う~ん、どうしたもんッスかね」

 外から微かに聞こえる虫の声に耳を傾けながら、誰に言うでもなく独りごちる。部屋の中について把握することはできたものの、これで状況が理解できたとはとうてい言いがたい。自分は何故、誰の手に酔ってここにいるのか、最も重要かつ核心となる疑問は一つも紐解かれていないのだ。
 ジナコはうーむと小さく唸りながら、久々に謎の鳴き声以外が己の口から出るのを聞いた気がして、当たり前なのになんだか妙な心地になってしまった。試しに、あいうえおー、と適当に声を出してみるが、やはりはっきりと言葉として認識することができる。たったそれだけのことなのに、何だかじんわりと感動を覚えてしまった。人類が初めて言葉を用いたときには、もしかしたらこんな気分になったのだろうか。そんな壮大な方向に思考を巡らせかけ、しかし今考えるべきは違うだろうと、慌てて自分の意識を現実へと引っ張り戻す。
 少なくともここがカルデアでないとすれば、ジナコが眠っている間に勝手に連れてこられたと考えるべきだろう。つまり己が置かれているのは、割と危機的な状態であるということに他ならない。にも拘わらず、あまり動揺しないで冷静にこの状況を分析できているのはどうしてなのだろう。パニックになって、助けてくれ、と泣き喚いていても仕方ないような状況だというのに。
 頭にちらついたのは、ジナコが眠りにつく直前に見た、日の訪れを静かに喜ぶ早朝の空にも似た涼やかな青の瞳。ずっとこちらを見下ろしていた優しいその瞳の色を思い出すだけで、うっかり悲嘆に沈みそうになるジナコの心がふっと軽くなるのだ。きっと大丈夫だと、根拠もなくそう思えてしまう。妙なところでポジティブな彼の性質が映ったのかもしれないけれど。
 とにかく現状、ジナコは淡々と思考を回せるだけの冷静さを失わずにいられているというわけだった。となれば、あとは行動あるのみである。
 改めて詳細に確認してみたところ、立香からの魔力供給は正常とは言い難いが、繋がりが完全に断たれているわけではないようだった。距離は離れているものの、現在ジナコがいるのと同じ世界に彼が来ているということにはなるのだろう。その線が何らかの事情によりうまく駆動していないだけである、と。
 要するに彼と合流し、魔力のパスを正常に修正してもらえれば、消滅の心配する必要はひとまずなるだろうということだった。元に戻るにあたって唯一かつ最大の問題であった肉体が、理由が不明とは言え一応元に戻っている。だから通常どおりに魔力供給を受けても、おそらく問題はないはずだ。
 しかし合流を果たすにしても、亀と良い勝負が出来そうな速度しか出ない今のジナコにとって、のこのこと自ら探しに出るというのはあまりも無謀だった。こうなると、もう向こうが見つけてくれるのを粛々と待つしかない。

……よし、うん。まだ、大丈夫」

 あくまで客観的な確認。それを半ば己自身に言い聞かせるかのように、ジナコはぽつりと呟いた。
 たとえ原因や理由が何であろうと、痛いのは嫌だ。怖いのも嫌だ。耐えきれないほどのものがのしかかってきたとき、きっとジナコの心はいとも簡単にぽっきり折れてしまう。けれど何よりも一番恐ろしいのは、折れた後でうっかりそのまま立ち上がれなくなってしまうことだった。
 一度でも地面に手をついて蹲ってしまったら、もう二度とそこから動けなくなってしまう気がする。だからジナコは、ばかみたいにがくがく震えている足でも、立ち続けることを選ぶしかないのだ。昔は、そんな無様な姿を嘲笑う側にいたかもしれないが、少なくとも『ガネーシャ神』である今は違う。頑張らなくてはならない理由が、今の己にはあるのだから。
 ジナコがそんなこと考えながら、さてどうするものかと思案していたときだった。

「ッ!」

 どすどす、という乱暴な足音が、こちらに向かって一直線に近付いてくる。
 全身から一気に血の気が引いて、全身が凍り付いた。今更無駄かもしれないが、急いでどこかへ身を隠したほうがいいかもしれない。何これデジャヴ? とジナコは引きつった顔をしながらも、畳の上を這うようにして、よたよたとどうにか移動を試みる。
 ジナコがこの部屋に連れてこられている理由は未だにさっぱりだが、ジナコは『神霊の疑似サーヴァント』であり、『人理の危機』という極めて特殊な状況下でしか現界できないイレギュラーな存在だ。もしそんなジナコの存在を利用して良からぬことを目論んでいるのだとしたら。具体的に何の用途で使うのかなんて専門家でない自分には想像もつかないが、ジナコが一生かかってもたどり着かないようなすっとんだ考えを持つ者は少なくない。可能性としては大いに考えられる。
 しかしここにある『擬似サーヴァント・ガネーシャ』の身は、あくまでカルデアのもので、ひいてはマスターである藤丸立香のものだ。勝手にいじくり回されて、彼が望まないことに利用されるのは非常に困る。そのせいで立香を危険に晒すようなことになったら、ましてや霊基をいじくられた結果、彼と敵対せねばならないような事態になってしまった場合、それこそジナコはもうカルデアにいられなくなってしまうだろう。役立たずであるとかどうとか以前の問題だ。優しい立香は許してくれるかもしれないが、彼が許容するのと自分で自分を許せないのとでは話が別である。
 しかし結局ジナコが身を隠すよりも早く、締め切られていた襖が開いてしまった。すっと流れるように静かに引かれた向こう側から、一人の男が姿を現す。

「ぎょえっ!?」
…………

 思わず情けない悲鳴を上げてしまったジナコの前に姿を現したのは、いかにも「武士です」という感じの、古めかしい和風の格好をした男だった。
 目鼻立ちが美しく整った涼しげな相貌をしており、真っ直ぐに伸びた手足や背中から醸し出される雰囲気、無駄のない洗練された所作は、この男が武芸者あることをはっきりと印象付けてくる。そういう意味では、カルナと少しだけ近いものがあるかもしれない。
 頭の後ろでひとまとめにまとめられた艶やかな黒髪は、何となく清水が流れ落ちる川を彷彿とさせた。彼の纏う冷たく澄んだ雰囲気が、なおさら見る者にそう思わせるのだろう。
 そしてこちらを睨み付けるように見下ろしてくる鋭い瞳が、ジナコは怖いと感じるのと同時に、何故だか手負いの獣のようにも見えたのだ。深い傷を負っていて、けれど相手には決して悟らせまいとして気を張り詰めているような。
 眼光こそ刺すような強さを持っているが、明確な敵意や殺意といったものは今のところ感じられず、単純にジナコが威嚇されているだけのようにも見える。とはいえ、自分以外の人間とまともに関わった機会が世の一般人より遙かに少ないジナコの観察眼の精度など、とうてい当てにはなるまいが。

……ええと。ど、どちら様ッスか?」

 思い切り悲鳴を上げてしまった手前少々気まずいが、勇気を振り絞って小声で問うてみた。だが、当然のように返事はない。じろりとねめつけるような視線が寄越されたのみである。
 しかし一応反応はしてくれたので、声自体はきちんと届いているようだった。もしかしたら単純に言葉が通じていないとかなのかもしれない。もしこの男が古い時代の日本語しか解せないのだとしたらジナコもお手上げだった。日本語での日常会話は特に問題ないが、古文の類いは全くといっていいほど知識がない。アリオリハベリイマソガリーとかなんかそんなのがあったな、というあってもなくても変わらないレベルのものが辛うじてある程度だ。ガネペディアの同時翻訳でいけるかどうか。
 蛇のような目でじろりとこちらを睨み付けていた男は、やがて渋々と言った様子で口を開いた。

……あいにく、まだ名は明かせないけれど、日の本の古き物語の中に描かれた存在である、とだけ言っておこうか」
「は、はあ……

 助かった、普通の日本語だ。ジナコは曖昧に相槌を打ちながら、内心ほっと安堵の息をついた。
 刺々しさを隠さない彼の声音は、しかしそれでもなお清流を感じさせる冷たく透き通ったものだった。せっかくそんな綺麗な声をしているのに、不機嫌丸出しなのが非常にもったいないと思ってしまう。ジナコは生来声フェチなオタクなので、どうしてもそういう思考が回りがちになってしまうのは勘弁願いたい。
 そんなジナコを睨み付けながら、男──見た目の年頃からするに青年と表したほうが正しいかも知れない──は、フンと鼻で笑いながら吐き捨てるように言った。

「しかし、お前のような珍妙な生き物まで飼っているとは。カルデアというのはずいぶんと変わった組織なんだな。ペットとしてかわいがられていたのか?」
「な、ち、珍妙で悪かったッスね! ボクだって好きであんな姿になってたわけじゃないッスよ! これはなんというか、そう、事故ッス! てか今はもう戻ってるでしょ! ボクはペットじゃなくて、歴としたカルデアのサーヴァントッスからね!」
「ま、そうだろうな。そうだったからこそ、『ぼく』という存在と繋がれたのだし」
「なんて?」

 はて、この男は一体何の話をしているのか。話し始めてくれたのはいいものの、会話自体はどうにも一方通行である。というか、ジナコがわかるように話すつもりがそもそも一切ないようだった。自他共に認める口下手言葉足らずのカルナだって、もうちょっと会話らしい会話はしてくれるだろうに。言葉足らずであるとはいえ、真意を問えば彼なりにきちんと答えようとはしてくれるのだし。
 はてなマークで頭をいっぱいにしているジナコを一瞥した青年は、仕方がないとでもいいたげに肩をすくめ、自分の手の平を上に向けて開いてみせた。するとその上にすうっと溶け出すように『それ』は姿を現した。

 ──ぞわ、と全身が粟立った。

 特殊とはいえ、サーヴァントという枠で存在している今のジナコには、理屈も何もかもすっ飛ばして、『それ』が何なのかが理解できる。できてしまう。

「聖、杯……?」

 それは、万能の願望器。己が願いのために召喚に応じたサーヴァントたちが、苛烈な競い合いや殺し合いを経て手に入れるアーティファクト。

「紛い物のサーヴァントでもさすがにわかるものなのか。これは聖杯そのものというわけではないが、多量の魔力を内包し、願望器として機能するものには違いないから、まあ聖杯と呼んでもいい代物だな。これ自体にはぼく自身も少々縁があってね。今はぼくの願望を叶えるために使わせてもらっている」
「願望?」
「ああ、そうだ。今は不可能だが、万能の願望器たる聖杯により近しいものに転ずることができれば、この程度の願いは容易に叶えられるだろう。……その力で、ぼくはぼくの欲しいものを手に入れる」

 そう言いながらくるくると男が手の中で回しているのは──美しい装飾が施された金色の『槌』であった。
 何故ジナコがその小槌を瞬間的に『杯』だと判断してしまったのかは、よくわからない。けれどジナコが最もよく知っている『聖杯』は空に浮かぶ月の観測器だったりしたので、もしかしたら『願望器』としての本質を備えているのであれば、形状は特に問わないのかもしれない。
 しかし男が取り出した槌、わりと最近どこかで見かけた『何か』と酷似しているような。ちらりと見ただけの記憶だったせいで、果たして何処で目にしたものだったか、この場で詳細に思い出すことは出来なかったが。
 男は何処か懐かしむような目で手の中の槌を見落としながら語り続ける。

「こいつの力を使って儀式に必要となるサーヴァントを喚び出そうとしたのだが、残念ながら出力不足だったみたいだ。英霊の霊基を模したなり損ないしか作り出すことができなかった。だからお前が存在していたカルデアなる組織から呼び寄せ使おうと思ったんだが……『ぼく』という存在が備えている概念と、あの間抜けな状態になったお前とがうっかり繋がってしまったらしい。あの姿のお前が転がり出てきたときは、ぼくもうっかり笑ってしまったぞ」
…………

 目の前の言葉を聞きながら、ジナコは静かに思考を巡らせる。挑発に乗ってはいけないと、己をぎゅっと強く戒めながら。
 この男、言い方の端々にいちいち棘があるせいかどうしてもイラッとさせられてしまうのだ。これで声が良くなかったら、うっかり理性を無くしてキレ散らかしていたかもしれない。
 カルナだって別に優しい言葉を使うほうではないが、ここまで嫌味ったらしい言い方はすまい。カルナの言葉は徹頭徹尾、その方向性自体は色々あろうが、相手を思ってのことだ。その意図が相手に的確に伝わっているかは別として。

……ん、んん?」

 そこまで考えて、はっとする。何故自分は先ほどから、目の前にいるこの男とカルナとを比べてばかりいるのだろうか。
 不意にそんな事実に気が付いてしまったジナコは、畳の上に視線を落として小さく首を傾げた。
 ここへ来る直前までずっと側にいてくれたはずの彼がいなくなり、大いに心細い思いをしているのは本当だ。けれどこんなにカルナのことばかり考えているのはさすがにちょっと病的である。どんだけカルナのこと好きなのよ私は、と己に問いかけてみれば、もちろん大好きに決まっているじゃないかとか答えてしまいそうだから始末に負えない。ただでさえ迷惑ばかりかけているのだから、頼りっきりはやめようと常々思っているのに、どんどんジナコの望んでいる方法とは逆の、手の届かない範囲へ転がっていってしまう。ジナコ自身の思考も、ジナコが置かれている事態も。
 ジナコが唐突に変な声を出したきり黙ってしまったのを不審に思ったのか、怪訝な顔でジナコを見下ろしてくる男の視線がつむじに刺さる。そのちくちくとした視線を感じながら、冷静になれステイステイ、と己に言い聞かせた。今は過ぎたことを悶々と悩んでいても仕方ない。他でもないカルナがジナコに言ってくれたことである。
 というわけで、改めて目の前の状況把握に努めることにしよう。目の前の男の正体は未だに知れないが、身体が小さくなってしまった、あるいは大きく変質したという逸話を持つ架空の存在であるというのは、先の言葉によって判明した。薬を飲んで体が縮んだ上、変な生き物へと変化してしまったジナコと繋がれたのは、おそらくその要素が共通していたからなのだろう。さらに自らを『物語の存在』とも言っていたから、そういう題材の物語の登場人物なのだろうと当たりを付けたわけである。
 しかしこの手の話は古今東西に山ほど存在しているし、ジナコも世界の物語や逸話にさほど詳しいわけではないので、残念ながら正体を完全に特定するまでには至らなかった。候補こそいくつかは浮かぶものの、どれも決定打には欠ける。
 そうやって必死に頭を回転させ、何とかもっと情報を得られないものかと苦戦しているジナコの内心を知ってか知らずか、男は相変わらず嫌味っぽい色を隠そうともせず語り続ける。

「けれどお前をこうして呼び寄せたことで、カルデアのマスターが己と契約したサーヴァントらを引き連れてここへやって来てくれたようだな。飛んで火に入る何とやら、というやつか」
「! ……やっぱりマスターたち、ここにきてるんスね」
「ああ。お前は……まあ、戦力としては完全に無以下で全く価値はないが、カルデアからやってきたサーヴァントが足りなかった場合の保険くらいにはなるだろう。一応、そんななりでもサーヴァントであることには違いないのだし」
「ぐ、ぐぬぬ……!」

 手に持った槌を、まるで揶揄うように軽く振ってみせる男をぎりぎりと睨み付けながら、ジナコは小さく唸り声を上げた。間抜けとか戦力にならないとか言いたい放題だが、ほぼ事実なので返す言葉がない。
 ジナコの身体をこうやって元に戻したのも、おそらくはあの小槌が持つ力なのだろう。彼の望む願いを叶えるには色々と不足しているが、ジナコの身体を本来のあるべき姿へ戻すくらいは造作もない、ということである。マスターからの魔力供給が阻害されているのも、小槌によって何らかの妨害を受けていると考えるのが自然だ。
 となると、力技での脱出はほぼ不可能だろう。今のジナコの肉体があの小槌で制御されているとしたら、逃げたところできっとどうとでもされてしまうに違いない。
 そうして此所までの男の発言を分析していたジナコは、ふとその言葉の中でひっかかるものがあったことに気が付いた。

……サーヴァントが、足りなかった場合……?」

 彼は特異点修正のためにカルデアから立香がサーヴァントを伴ってやってきたことを彼は明確に把握しているし、寧ろそうなったことを歓迎しているようなことすら口にしていた。しかし特異点という特殊な場所でこそできる何かをなそうとしているところに、己を阻むためにと多数のサーヴァントがやってきてしまったら、結局太刀打ち出来ずにあっという間にやられてしまうのではないだろうか。
 彼に破滅願望があって、本当は倒されたいと思っている──というわけではなさそうだ。そもそもそんな願いならば、わざわざ聖杯を利用する必要はあるまい。不死の存在であるが故に死ぬに死ねないというのならば話は別だが。
 この男の目的は、特異点に乗り込んできたサーヴァントたちそのものを、自分の計画のために利用することなのだろう。先の言葉から推測するに、男の計画においてはある一定数のサーヴァントが必要になるということは間違いないはずだ。

 彼が願望を叶えるために必要とされ、集められようとしているのは、複数のサーヴァント。
 そして今男の手にあるのは、万能の願望器としてはまだ一歩足りない聖杯。

 ジナコの中で穴あきだった場所に、ぱちん、と音を立てて唐突にピースがはまってしまった。

……アンタは、ここで一体、何をするつもりなんスか?」

 目の前の男が辿り着こうとしている先を、その嫌味っぽい口から出てくるであろう答えを、ジナコはすでにある程度予想ができてしまっていた。けれど不意に頭を過ぎった、その突拍子もないように思える答えを出来れば否定して欲しくて、だから敢えて言葉にして彼に問う。
 しかしそんなジナコの微かな祈りは、改めてはっきりと口にされたその言葉で、完膚なきまでに叩きつぶされることになった。

「決まっているだろ」

 そんなこともわからないのかと、男は唇を歪めて笑った。
 その笑みの種類を、ジナコは知っていた。胸に抱いているのは、己が力を振るう先を得た、その熱情と歓喜。戦うべき場所を見いだした、戦士の笑み。


「──聖杯戦争だよ」


 そうしてかつてジナコの心の奥深くに呪いを残すことになった儀式の名が、氷柱のような冷たい棘となって心臓を貫いていった。




      《三》


 レイシフトで立香たちが足を下ろしたのは、日本のとある場所に位置するごくごく普通の山村だった。

 温暖な気候の中にあり、ここからさほど遠くないところには海があるらしい。柔らかく頬をくすぐって去っていく風には、ほんのりと潮の香りが混ざっていた。
 しかしそんな穏やかそうに見える光景とは裏腹に、村に住む人々は突然やってきた自分たちに対して警戒心を露わにしてきたのだ。単純に突然現れた余所者を忌諱している、というだけでは説明がつかない程度には。
 しかし自分たちはいなくなってしまった友人を探していており、その手がかりを探すためにここへ訪れたということを立香が懇切丁寧に説明したところ、村人たちはひどく気の毒がって話を聞いてくれた。つまり元々警戒心が強いわけではなく、本来は心根の優しい人々の集まっている村だったということになる。
 ならば何故、そんな村人たちが今はこんな状態になっているのだろう。続いて浮上したそんな疑問の答えは、やがて村人たちから情報収集をしている内に知れることとなった。

「そちらの事情を知らなかったとはいえ、ぴりぴりしてしまって申し訳ないね。ちょっと前に困ったことがあったもんだからさ」
「いえ、俺は大丈夫です! それで、あの……もし良かったら、一体何があったのか教えてもらえませんか?」
「うん? いやあ、実はさぁ──」

 そうして村の人たちにあれこれと聞き込みをしていくと、彼らは口々に、しかし同じようなことを語ってくれた。


 ──ある日、『一寸法師』なる一人の男が突如村に現れ、村に代々伝わる『宝物』を強引に奪っていってしまったのだ、と。


 その男が初めて姿を現したとき、村人たちは旅行者であろうと判断し、特に警戒もせずに彼を受け入れたのだそうだ。名を尋ねられたその男は、前述のとおり自らを『一寸法師』だと名乗ったという。当然本来の名前だとは思えなかったが、おそらく名を明かしたくない理由があるのだろうと、受け入れた村人はその事情を深くを聞こうとはしなかった。
 そして男は村に代々伝わる『宝物』の在り処を村人たちから聞き出すなり、何とそれを強引に奪い去っていってしまったのだそうだ。
 当然、村人たちは抵抗した。そんな一方的な略奪行為を黙って見ていることなどできようはずがない。しかも奪われようとしている『宝物』は、この村で昔から大切にされていた重要な品なのだ。
 しかし『一寸法師』はおよそ人間とは思えないほどの恐ろしい怪力を振るい、止めようと果敢に飛びかかっていった腕っ節自慢の村人たちを、全てばったばったとなぎ倒してしまったというのだ。そして村人たちの制止の声など意に介さず、あっという間に姿を消してしまったのである。
 幸い死者こそ出なかったものの、大小は異なるが多くの村人が怪我を負わされる事態となってしまった。致命傷に至った者もいなかったのだが、さすがにしばらくは緊張状態が続いていたようだ。
 確かにそういう事情であれば、余所者である自分たちが警戒されるのは当然だし、寧ろ立香が事情を話しただけで受け入れられた方が不思議といえよう。
 一方、立香はその『一寸法師』という名にははっきりと覚えがあるようで、最初にその言葉を聞いた瞬間「えっ!」と驚いたような声を上げていた。さらに聞き込みを進める中でその名が繰り返し出てくる度に、何となく表情が曇っていっているように見える。

「どうしたマスター。そのような覇気の無い腑抜けた顔では士気が下がる一方だぞ」

 村での聞き込みが一段落したあと、様子が気になったカルナは霊体化を解いて(聞き込みをしている段階で相手を威圧するのは得策ではないからと姿を隠していた)、立香にそっと声をかけてみた。彼が今抱いている感慨そのものの『形』についてはある程度判断ができているのだが、出所についてはまだいまいち見当がつかない。
 微かにしょぼんと肩を落としていた立香は、カルナの言葉を聞いてはっと我に返って背筋を伸ばした。

「あ、ごめん。俺、そんなしょぼくれた顔してたかな?」
「はい。少し……

 マシュも立香の様子がおかしなことに気付いていたらしく、小さくそう答えた。気付いてはいたものの、どうやって切り出すべきか、そもそもこのことに触れて良いのかどうか迷っていたのかもしれない。
 心配かけてごめん、と再度謝罪の言葉を口にしながら、立香は困ったように眉尻を下げていた。

「いや、なんか……うん。正直、ちょっと落ち込んでて。でも、もう大丈夫だから」

 そう言って乾いた笑いを零す立香の横顔には、やはりほんの少しだけ寂寥感が漂っていた。これ以上聞くことをやんわりと拒否していることは見て取れたので、ひとまず聞き込み作業を再開することにする。

 さて、村人たちから得られた情報を整理すると、今のところ気になる点は大きく二点。一つ目は、『一寸法師』と名乗った正体不明の男。そしてもう一つは、この村で代々伝わっており、その一寸法師なる男が奪い去っていったという『宝物』の存在だった。

 考えられるのは、一寸法師によって持ち去られた『宝物』こそが、この特異点を形成する原因となった聖杯であるという可能性だった。『宝物』自体は古くからこの村に存在していたものだということであるが、そこに本来ならばあり得ないイフの存在──例の一寸法師なる男が接触したことで、本来の在るべき軸から外れて特異点となった、という顛末である。
 ただし、その『宝物』が一体どんなものなのかという情報が一切得られていない以上、現段階ではまだ断定はできない。加えて一寸法師が圧倒的な力で村人をねじ伏せたという話を聞く限り、『宝物』を手に入れる前から、既に聖杯の魔力によって何らかのバックアップを受けていたということも考えられる。この場合、『宝物』は特異点の成立自体には特に関係がなく、原因となった聖杯はまた別にあるかもしれないのだ。
 結論をまとめると、『宝物』とは一体どういった類いのものなのか、そして一寸法師がそれを奪っていった目的が何なのかを調べる必要があるということになる。

「では今度はその『宝物』について、村の方たちから詳しくお話を伺ってみましょうか?」
「無駄だ」

 少し離れた場所を行き交う人々をちらりと見やりながらのマシュの提案に、しかしカルナは淡々と首を振った。
 住人たちは、ただでさえ大切に守ってきた『宝物』を奪われたことで気が立っている。先程まではこちらの事情が完全に『宝物』とは完全に別の案件であり、さらに同情ができるものであったから平穏に耳を傾けてくれていたに過ぎない。
 しかしこの状態の中でさらに『宝物』について探りを入れたら、先ほどは自分たちに対して偽りを口にして同情を買い、その上で『宝物』に関する情報を有利に引き出そうとしたのではないかと疑われることになりかねないだろう。ともすれば、件の『一寸法師』の仲間だと思われてしまうかもしれない。そうなれば村人たちとの衝突は避けられない事態となる。
 つまり『宝物』について知りたいのであれば、現状は住人らへの聞き込み以外の方法で情報収集するしかあるまい。彼らと事を構えたいのなら話は別だがと付け加えると、とんでもないとマシュと立香は首を横に振った。

「でも、他の方法と言うと?」
「その『宝物』があった場所を、私たちの目で直接確かめに行くというのはいかがでしょう?」

 そう口にしながら立香たちの前に姿を現したのは、別行動で情報収集に当たっていたレイシフト同行メンバーだった。どうやら少し前から、自分たち三人の会話を聞いていたらしい。

「あ、二人とも、お疲れ様! 何かわかった?」
「ええ、マスター」

 答えたのは、アビゲイル・ウィリアムズだった。ひょこひょこと踊るような軽やかな足取りで駆け寄ってくると、立香の顔を見上げながら上機嫌に話し始める。

「ねえマスター、紫式部さんってお話を聞くのがとってもお上手なのね! 式部さんと一緒にお話を伺っていると、どうしてかはよくわからないのだけれど、その人の考えていることが自然と聞こえてくるの。東洋のオンミョウジっていうのは本当にすごいわ。おとぎ話に出てくる魔法使いさんみたい!」
「あ、アビゲイルさん。その点については、その、出来ればあまり触れないでいただけると助かります……

 楽しそうに語るアビゲイルの言葉に、彼女から少し下がったところで静かに立っていた女性──紫式部は、途端にあわあわと口を戦慄かせながら待ったをかけた。
 考えていることが聞こえてくると言うのは、泰山解説祭──言語系呪術の応用技で、相手の心境を見抜き、その場の不特定多数の人物に解説形式で暴露するという、彼女が身につけている例の術によるものなのだろう。だがあれは確か、本人にも完全な制御が不可能とのことなので、手放しに褒められてもどういう顔をしたらいいのかわからないのかもしれない。汗をかきかき慌てふためく紫式部を、アビゲイルはきょとんと不思議そうな顔で見上げていた。

「アビーたちのほうは、もしかして『宝物』について俺たちより詳しく調べられたのかな」
「あ、そうだったわ。まずはそのお話をしなくちゃ。ごめんなさいマスター。ええと……ほとんどは、マスターたちがお聞きになったお話と同じだと思うのだけれど」

 そこまで言ってしかし口を噤んだアビゲイルは、ちらりと紫式部の顔を見上げた。見つめられた彼女は一つ咳払いをした後、今度は落ち着きのある大人の女性らしい美しい微笑みを返してみせる。お任せします、ということなのだろう。アビゲイルはぱっと顔を輝かせ、立香への報告を再開した。

「私たちがさっき村の皆さんにお話を伺っているときに、その『宝物』が祀られていたという場所を教えていただいたの。マスターのお国の……何というのだったかしら。そう、ジンジャ!」

 アビゲイルはこれまで見たこともなかった日本独特の街並みや、そこに住まう人々に大変興味があるらしく、空色の瞳をキラキラと輝かせていた。興奮しているのか、まだ子供らしさを残す柔らかな頬がわずかに紅潮している。

「そこでは、大昔にその『宝物』を人間に与えてくれた神様を祀っておられるそうよ。『宝物』を奪っていった人が荒らしてしまったから、早くきれいにして差し上げないと申し訳ないのにって、お話をしてくださったおじさまが仰っていたわ」
「そこへ行けば何かしら手がかりが残されていると思うのです。かの方が訪れたときからどれほど時間が経過しているかにもよりますが、もしかすると私の術で痕跡を追うことも可能かと」
「了解。じゃあ、ひとまずそっちの調査をしてみようか」

 紫式部とアビゲイルの収集した情報を受けて、一先ず今後の方針が決定した。『宝物』が奉納されていたという神社を調査し、『一寸法師』の行方についての手がかりを探すこと。そしてもう一つはその『宝物』についてさらに詳しく探ることだ。
 件の神社は、ここからさらに山道を登った山中にあるらしい。さほど距離があるわけではないから、日暮れ前には村まで戻ってこられるはずだ。まだ敵の正体が見えない以上、夜間むやみに出歩くのは避けておきたいところである。カルナはまだしも、夜目がきくものばかりではない。
 先頭をマシュ、その後ろを立香、アビゲイル、紫式部と続き、殿としてカルナが最後尾を歩く編成で、一行は整備されきっているとはなかなか言い難い山道を登っていくこととなった。
 頭上には大樹が枝葉を伸ばして生い茂っており、トンネルのようになっている。まだ日が十分に照っている時間帯にもかかわらず、辺りは随分と薄暗かった。しかし不気味だという印象を受けないのは、この山全体が瑞々しい生命力に溢れているおかげだろうか。おそらくこの近くか、或いはこの山自体に良質な霊脈が通っているのだろう。時折降り注ぐ木漏れ日の美しさに、思わずため息が零れるようだった。

「ところで皆様は、『一寸法師』が何かご存じですか? あ、ええと、言葉そのものの意味ということではなくて、その名を冠する一つの『物語』のことなのですが」

 神社まであと半分ほどといったところで、不意に紫式部がそう口を開いた。
 立香の生まれ故郷であるこの日本に伝わる古い御伽噺の一つであったはずだ、ということまでは知っているが、カルナの中にある知識はあくまでそこ止まりである。サーヴァントが現界に際して得られる知識は、あくまで己がマスターに仕えるために支障がないとされる最低限のものでしかない。故にカルナ自身も、どういったものなのかという概要に関する知識こそあるにはあるものの、流石にその内容の全てまでは把握できていなかった。元々日本に馴染みのないアビゲイルも同様らしく、首をふるふると横に振っている。

「では僭越ながら、私のほうから簡単に物語の内容をご説明させていただきますね」

 現時点で謎の中心にいると思われる人物、『一寸法師』。彼の辿った物語を知ることで、少しでも今回の特異点修正の手がかりが得られるのではないか、ということらしい。
 そうして彼女の口から語られたのは、日本の平安時代から室町時代にかけて成立したとされる、とある一人の青年の物語だった。

 昔々あるところに、長らく子供のいなかった老夫婦がいた。彼らが幾度も神に祈って子を望み、やがて何とか生まれた子供は、しかし何年経っても一寸(現代のメートル法に則ると三センチメートル程度)から全く大きくならなかったという。老夫婦は子供を化け物ではないかと気味悪く思い、一寸法師と呼ばれるようになった彼は、居づらさから泣く泣く自分から家を離れざるを得なくなってしまった。
 流れ流れて京の都に住まうようになった一寸法師は、身を寄せた先の宰相の娘に一目惚れをする。一寸法師は彼女を自分の妻にすることを望んだが、こんな小さな体では婚姻を望んだところで許してはもらえるはずもない。
 そこで一寸法師は、一計を講じることにした。眠っている娘の口元に神棚から取った米粒を付け、娘が夜半にひっそりと米を奪って食ったのだと嘘をついたのである。
 神聖な祈祷などに用いる米に手を出したと聞いた宰相は怒り、娘を殺そうとした。しかし一寸法師はその場を取り成し、結果的には勘当されてしまった娘を連れて家を出ていったのである。
 まんまと欲した娘を手に入れた一寸法師は、船旅の果てに薄気味悪い島へと辿り着いた。そこには鬼が住んでおり、鬼は一寸法師をぺろりと飲み込んでしまったが、彼は己の体の小ささを生かして、鬼の目から体の外に出てしまう。何度もそんなことを繰り返しているうちに、鬼はすっかり一寸法師を恐れ、持っていた宝物──打出の小槌を置いて去ってしまったのだ。
 一寸法師が「大きくなぁれ」と唱えながらその小槌を己に向かって振ったところ、一寸法師はたちまち大きく成長し、立派な青年の姿を手に入れられたのだ。

「──というのが、日本の『御伽草子』における一寸法師の物語です」

 と、紫式部はしずしずと語りを締めくくった。この後、鬼退治の噂が広まったことで一寸法師は宮中に呼ばれ、最終的には中納言まで出世したらしい。世に言う『ハッピーエンド』というやつである。

「うーん。でもその一寸法師の話の内容、俺が知ってるのとちょっと違う気がするんだけど、何でだろ?」

 感嘆の声を上げ、しかし疑問が残っているらしく少し首を傾げる立香。すると今度は、そんな彼を見ていたマシュがおもむろに口を開いた。

「原典である『御伽草子』に掲載されているものと、現代の日本において『昔話』として一般的に知られている物語は、内容が少し異なっているのだと聞いたことがあります。確か、娘を得るために策を弄したという部分が削除され、鬼に攫われた娘を果敢に守ろうとした、というようなお話になっていたかと。普通の人間でも恐れるような驚異に小さな身で立ち向かったという物語のほうが、幼い子どもに聞かせるものとしては適切だと判断されたのかもしれません」
「ええ、そのとおりです。さすがはマシュ様。考察についても的を射ていらっしゃいますね」
「き、恐縮です」

 にこやかに賞賛を送る紫式部に、マシュは肩を僅かに縮こまらせながら小さく頭を下げていた。

「時代を経ることで、物語がより多くの人に受け入れられやすい形に変わっていくのはよく見られる現象です。マシュさんがおっしゃったとおりの理由もあるのか、子供が読む御伽噺や童話では特に顕著ですね」
「そっか、グリム童話とかも本当は怖いってよく聞くもんね。つまり一寸法師って元々そういう話なのかぁ……
「む」

 どこか寂しそうにそう零すのに、カルナは立香の苦悩の出所を見つけることができた気がした。
 立香はおそらく、かつて己が幼少より伝え聞いていた物語の主人公が悪事を働いているかもしれない現状を、少なからず憂いていたのだ。
 しかし原典の中で語られていた一寸法師は、立香が思っていたような単純に正義感溢れる勇敢な存在というわけでもなく、策略によって欲した女を手に入れた狡猾な男であったかもしれないという。そんな事実も、少なからず立香にショックを与えたのだろう。
 平凡に優しい心を持つ、この藤丸立香という少年らしい感慨だった。けれどこういった当たり前の善性を当たり前に抱いている彼の在り方は、排斥すべき無駄なものなどでは決してなく、むしろとても尊いものだとカルナは考えている。
 心身が成長し、子供のままではいられなくなるにつれて、そういった心は徐々に擦り切れて失われていくのが常だ。しかし普通に大人へと至っていく以上に辛い道を歩み続けているにもかかわらず、藤丸立香という少年はその心を完全に失ってはいない。
 カルナが他人の心に関してどうこうと口を出すのは傲慢でしかないが、そういう今の立香の在り方を、出来れば損なわないままでいて欲しいと思う。そういう立香がマスターであるからこそ、自分を初めとするカルデアにいるサーヴァントは、自ら彼に着いて行こうと思えるのだから。

「マスターよ」

 少し沈んだ顔をしている立香を見かねて、カルナはそっと声をかけた。

「先に紫式部が口にしたことを聞いていなかったのか? 古くから伝承されてきた物語などというのは、そも語り部などによっていくらでも変質するものだ。真実がどうだったのかなど、後世の人間には想像することしかできん。己の中で理想を抱くのは自由だが、裏切られたと逐一落胆するのは、到底賢いこととは思えない。悪戯に心が疲弊するだけの無駄な行為だ」

 たとえその存在の原典が異なっていたとしても、今まで信じてきたものの全てが嘘になるわけではない。だから立香が信じていた『一寸法師』を、立香自身が全て捨て去らなければならないわけでもなく、他の誰かがそうしろと強制することだってできないはずだ。幼い頃から信じ、憧れ続けていた存在が立香の中にあったということ自体は、紛れもなく彼にとっての揺るぎない真実なのだから。
 じっと聞いていた立香は、少しの間黙ったままカルナの言葉を噛み砕いているようだった。そうしてしばらくして、少し自信なさげに口を開く。

「えっと……もしかしてカルナさん、俺のこと励まそうとしてくれてる?」
「む……いや、一応、そのつもりだったのだが」

 どうやらあまりうまくは伝わっていなかったようだ。相手が立香であったからギリギリ意図を拾ってはくれたが、もし別の人間であったらまた不快な思いをさせていたかもしれない。まだまだ精進が足りないようだと、カルナはかつて『彼女』が与えてくれた言葉を胸の内で繰り返した。
 あのとき与えられた金言を、自分はもっと大切にしなくてはなるまい。そう、たとえ己の手を伸ばした先が見えなくとも、胸の内に秘めたものは健在なはずで──。

「ッ……
「カルナ、どうかした?」
……いや、大事ない」

 一瞬脳裏を駆けていく不快な雑音に、知らずしらず顔をしかめてしまっていたのだろう。心配そうに顔を覗き込んでくる立香に、カルナは首を軽く振ってみせた。頭の片隅に居座り続けるノイズを払いのける意味もあったのだが。
 カルナの中にあるコレは長らく悩まされていることの一つであり、いずれは必ず自分の手で解決すべきであると思ってはいるが、少なくとも今最優先で対処すべき問題ではない。
 しかし知らず知らずの内に、握りしめた拳には力が篭もってしまっていた自分に気がついて、小さくため息を吐いた。「カルナさんちょっと顔が怖いッスよ~」と苦笑をこぼしながら、この手を解いて笑ってくれる存在が、ここにはいないから。

「え、ええと。カルデアから誘拐されてしまったガネーシャさんの行方については、今のところ一切情報がありませんが……その……

 カルナの顔が僅かに曇ったのをガネーシャ神を案じての事だと思ったのか、マシュが改めてそう話を切り出してきた。彼女なりに何とかカルナを励まそうとしてくれたのだろう。しかし口に出した言葉が到底慰めには至らないようなものだと口に出してしまってから思ったのか、その声は徐々に萎んで消えていってしまう。

「構わん。聞き出せばいい」

 何を言うべきか迷っておろおろと視線を彷徨わせているマシュに、カルナは淡々とそう答えた。澄んだアメジストの瞳が、カルナを捉えてぱちりと瞬く。

 ガネーシャ神をカルデアから攫った者と、聖杯を手にして特異点を作り上げた者。

 この二つは恐らく同一の存在であると、カルナはこの特異点に足を踏み入れた時点からそう感じていた。少なくとも片方の正体がはっきりしつうある今、カルナがやるべきことは決まっている。いや、たとえわからなくともカルナがなすべき使命は変わらない。特異点の修正のために、マスターの行く手を切り開くサーヴァントとして、全力で彼の命令に従い遂行するまでだ。そうすればいずれガネーシャ神の行方も知れよう。

「よし! 話しながらちょっと休憩もできたし、あとはガンガン登っていこう!」

 立香の言うとおりだ。ともかく今は情報収集である。元気よく歩き出した彼に続いて、カルナは降り積もって絨毯のようになっている柔らかな地面の落ち葉を踏みしめた。




      《四》


「聖杯、戦争……?」

 青年が紡いだその単語を、ジナコは呆然としながらも己の口で繰り返した。
 ある程度予想していたこととはいえ、実際に事実として突き付けられた衝撃を完全に消しきることは難しい。握りしめた手ひらの中が、知らずのうちにじっとりと汗ばんでいた。さきほどより明らかに張り詰めた空気が部屋の中を支配している。
 彼の言う聖杯戦争とは、恐らくジナコが体験したものとは違うのだろう。ここに月の聖杯はない。混乱する頭の中で、それでも何とかガネーシャ神が蓄積している知識の部分を稼働させると、彼の言うものに近いと思われる聖杯戦争の記録がヒットした。
 各クラスの英霊七騎が相争い、最後に残った勝者が聖杯を手にできるというルールの下で行われている魔術儀式。それが本来の聖杯戦争だったようだ。かつて『冬木』という街で行われていた儀式で、他の聖杯戦争についても概ねその基礎を前提とした上で成り立っているらしい。寧ろジナコが知るトーナメント制で行われていた月の聖杯戦争のほうが特殊事例だったのかもしれない。
 そして冬木の聖杯戦争が最終的な到達点として目指していたのは、『大聖杯』を起動させて根源へ至ることだった、と。
 ガネーシャ神の叡智の中から開示された記録は魔術的な専門用語が多く、正直なところジナコにはちんぷんかんぷんな内容ばかりだったが、ともかくサーヴァントの七騎分の魂を回収することで『大聖杯』は起動し、その結果無尽蔵の魔力が手に入れられるということだけは辛うじて解することができた。ひとまず単純な話として、使える魔力が多ければ多いほどできることは増える。故にこの男は聖杯戦争を行うことにより、大聖杯に近いものを己の手で作り出してその莫大な魔力を得ることで、己の願望を叶えようとしているわけだ。
 小槌を大聖杯として機能させるためには、聖杯戦争という儀式と同じようにサーヴァントの魂を集める必要があると、この青年はそう考えたのだろう。だからこそ彼は立香とサーヴァントたちの来訪を歓迎するようなことを口にしていたのだ。自分と小槌の力だけでは、その儀式で必要とされるに足るだけのサーヴァントを用意できなかったから。

……ぼくは、ただ、己の忌まわしい過去を変えたいんだ」

 ぽつりと、男がそんな言葉を零したのは、本当に突然のことだった。
 ジナコははっと顔を上げる。今まで見ていたものとは違う、最初に若干感じた、まるで手負いの獣のような雰囲気を醸し出す青年の姿がそこにはあった。
 そして過去を変えたいという彼が口にした願いには、ジナコも少なからずぎくりとする部分がないでもなかった。かつては自分も同じようなことを願い、遙か空へと上った。どこへもいけずに詰んでしまった人生をなかったことにしたい、やり直したい、幸福だった頃の自分を取り戻したいと。結局あそこでジナコが掴めたのは、最初に願ったのとは全然異なるものだったわけだけれど。
 彼もかつてのジナコの同じように、己の過去に対して深い後悔の念があるのだろうか。彼の整った薄い唇の合間からぽつぽつと零される独り言に、ジナコはそのまま耳を傾け続ける。

「ぼくは、理不尽に見放された。目を向けることもないと捨て置かれ、取りこぼされた。その上で、それでも求めてくれたと思ったから応じたのに、結局彼らから返されたのは恐怖と拒絶だけだった。こんなひどい話があるか? だからぼくは、ぼくという存在を根底から作り替え、欲しかったものを手に入れるんだ」
……聖杯を、作り出して?」
「ああ、そうだ。そのためにぼくは今ここにいる」

 ジナコの問いに、青年はよどみなく頷いた。
 彼は本気で信じているのだろう。この方法で、本当に全てをやり直せるのだと。自らが望む幸福な自分は、聖杯の力があればきっと手に入れられるのだと。
 手の中の小槌を見下ろす熱のこもった瞳には少しだけ覚えがあって、ジナコは何とも言えないむず痒さのような感情を彼に抱いてしまった。何となく重なってしまったのだ。出来もしないことがわかっていたのに己の願望を捨てきれず、だからといって自ら立ち上がることもできず、目の前の戦いから逃げ出したかつての自分の姿が。
 けれどたとえどんなに杜撰な計画であっても、滑稽に見えても、彼は己の抱く願望のために自らの力で行動しようとしている。その点だけ見て言えば、隠れて蹲っているしかなかったかつてのジナコより数十倍は勇者に違いなかった。
 しかしジナコだって、もう外の世界現実を拒絶して、停滞の世界に閉じこもっていただけの頃の自分ではない。引きこもり気味なのはもう本能レベルで擦り込まれているから仕方ないとはいえ、それでも今は、何処へも進めない停滞などを望みはしなかった。
 サーヴァントとして人理の危機を救うべしとして召喚された以上、もう成り行きを見ているだけの傍観者ではいられない。己に与えられた役割に対する矜持だって、多少は持ち合わせている。人と比べれば本当にちょっぴりしかない、薄っぺらいプライドかもしれないけれど。

「お前もぼくの気持ちを少しくらいは理解できるだろう? お前だって己が望むものを手に入れ、望む姿となるという願望を叶えるために、サーヴァントとして召喚の喚び声に応えたはずなのだから」

 男は語る。それがサーヴァントという存在の根底であろうと。
 確かにこれは正論だ。教科書通りのテンプレな答えを求められている、しごく簡単な問答だ。マスターとサーヴァントという関係が、双方向に成り立つ上での大前提だ。
 けれどその答えは、今のジナコには全てに当てはまるというわけではなくて。

「う~ん、残念。ボクは別に、理想の自分に何がなんでもなりたいっていうわけじゃないッスよ」

 熱っぽく語る一寸法師に、ジナコは冷や水を浴びせる気持ちでそう呟いたのだ。

……何、だと?」

 まるで夢から覚めたように、すうっとその瞳から熱が抜け落ちていくのがわかった。
 刺さってくる視線だけで射殺されそうなくらいだが、如何せん今のジナコはもっと苛烈な瞳をいくつも知っている。カルデアにはもっと怖い人がいっぱいいるのだから、こんな男一人くらいはたいしたことない。そりゃあ冷や汗は噴き出すし、手足は震えるし、血の気は失せるけれど。でも、別に、怖くなんかない。全然。これっぽっちも。積み重ねる虚言の壁で、今にもガラガラと音を立てて崩れ落ちてしまいそうな自分を何とか支える。
 自らを自らが望む理想の姿に変えたいというのは、生きている限りは誰だって抱く当たり前の願望だろう。しかし願いを抱いた全ての人間が、己が理想としているところへ辿り着けるわけではない。寧ろ、理想の自分というものを完璧に実現出来る人間のほうが、圧倒的に少ないのではないかと思う。
 それでも人間はあがくのだ。到底辿り着けないとどこかでわかっていても、本当に手の届くことはないのだとどこかで理解し、納得してしまっていたとしても。
 少なくともジナコ自身は、そのように在りたいと思う。だってそうやってもがきながら生きる平凡な人間は、そう在るだけで全てが平等に尊いものなのだと、たとえ何も成せずともそう在ることに意味はあるのだと、ジナコに言ってくれた人がいるから。

「だからボクは、なりたい自分になるんだって、自分なりに踏ん張って立っている姿を見て欲しいだけ。結果は別にどうでもいい。ただ頑張ったなって、素晴らしいって、褒めてくれる人がいてくれればいい。だからボクはそのために頑張るだけッスよ。そういう意味じゃ、残念ながらアンタの言葉に全面的は同意できないッスね」

 ジナコは万人から浴びせられる喝采が欲しいのではない。ただ一人、心から慕う大切な人からの賞賛が欲しい。たとえ全世界の名前も知らぬ人々がジナコを褒め称えたとしても、あの人がジナコを見てくれなかったら、恐らくこの心は満たされないのだ。

「でもさ、アンタも本当はそうなんじゃないッスか? 過去を変えて、自分が望む姿になるってのは、多分アンタにとってはただの過程の話ッスよね。そうなった自分を、見て欲しい人がいるんじゃ……
「黙れッ!」


 ──ヒュッ、と。

 目と鼻の先で、空が鋭く斬り落とされた音がした。
 ジナコの目では到底追えないような速度で、青年が腰に差していた刀を抜き放ち、ジナコに向かって振り下ろしたのである。鈍色の刃はジナコの鼻先を掠め、切っ先は目の前の畳に沈んでいた。その周辺に、軽く斬られていたらしいジナコの焦げ茶色の前髪が、ひらひらと数本落ちていく。漫画か何かでしか見たことのないような、まさに見事な太刀筋だった。
 そうして一歩間違えば自分の体が真っ二つになっていたかもしれないという事実を、脳が数拍遅れてようやく処理をし終える。そしてジナコ自身が状況を飲み込むと、瞬間的にわき上がってきた恐怖でぶわっと全身から嫌な汗が噴き出した。
 凍り付いたままがたがたと震えることしかできなくなったジナコに向かって、青年は忌ま忌ましげに吐き捨てる。

……フン。お前のような英雄ですらない紛い物のサーヴァントに、同じ志を問うたぼくが馬鹿だったらしいな」

 刀を引いて鞘に収める彼の声音と態度には、ジナコに対する強烈な拒絶が貼り付いていた。これ以上この傷に触れてくれるなと、頑なに他者を拒んでいる目だ。これもジナコには覚えがあるもので。

「もはやお前とは交わすべき言葉はない。必要ない。それにどうやら奴らがあの場所へ到着したようだからな。ぼくもそちらへ向かわなければならない。まあ、そういうわけだから……お前はもう、ここで黙らせる」
「──ッ!?」

 青年はそう言って、再び手にした小槌をおもむろにジナコに向かって振り上げたのだ。
 逃げようと、脳が必死に身体へ運動信号を伝達する。けれど鉛の塊をくくりつけられているかのように重くなっている手足は、その指示を脳が望んだ速度で処理するだけの力が残されていなかった。
 助けて、と思わず唇を震わせる。
 しかし覆い被さるようにやってきた重い恐怖のせいか、はたまた単純にそうするだけの力を失っているのか、かすれた呼気が漏れるだけで声にはならない。
 
 そうして場違いなくらい美しくきらきらと輝く金の槌が、己の脳天めがけて振り下ろされるのを、ジナコはただ何も出来ずに見ていることしかできなかった。





      《五》


 その後、特に何事もなく深い森を抜けて神社がある場所に到着した一行は、鳥居をくぐって御社殿がある中心部へと足を運んだ。

 社自体は特筆すべきほど立派なものではなく、柱や屋根に使われている木材の劣化具合から察するにかなり年代物であることがうかがえた。けれど決して寂れた印象を抱かないのは、麓の村人たちがこの神社を大切にしていたことの証左なのであろう。積み重なってきた年月による劣化は当然感じざるを得ないものの、これ以上その劣化を進ませまいという意思による手入れがあちこちで丁寧に施されているようだった。
 一行が拝殿の正面まで近づいたとき、立香とマシュの二人が思わずといった様子で「あっ」と声を上げた。本来ならば固く閉ざされているはずの本殿の扉が、まるで引きちぎられたかのようにひどくひしゃげ、誰もが奥まですんなり入れるような状態になっていたからである。

「こんなの、ひどいわ」

 と、破壊された扉を見たアビゲイルが悲しげに眉をひそめている。信仰する神こそ異なるが、信ずるべきものを奉っている場所を蹂躙される様を見るのは、信心深い彼女にとっては耐えがたいものがあるのだろう。
 カルナがためしにと破壊された扉に手をかけてみると、見た目から予想できる以上に重量があることがわかった。一見すると完全に木造なのだが、扉を形成している板の内には鋼が組み込まれているらしい。
 しかし目の前に転がるそれは、まるで紙か何かのように引きちぎられ、およそ原型がわからないほどぐちゃぐちゃに破壊されているのだ。つまり相当な剛力を以て無理矢理開かれたということになる。加えて紫式部が調べた結果によると、簡単には開けられないようにと魔術が仕込まれていた形跡があるというのだ。

「普通の人間が勝手に入れないようにというのは、こういう神社では当たり前ですが、わざわざ魔術がかけられているという話はあまり聞いたことがございません。おそらくここに奉納されていた『宝物』っていうのは、魔術的な価値を見出せる類いのものだったのでしょう。つまりマスターが最初に予想されていたとおり、聖杯に近いものである可能性はおおいにありますね」

 とのこと。
 ただし本当に聖杯だった場合はもっと厳重に保管されていたはずなので、ここに存在していたのはあくまで『聖杯になり得るだけの魔力を持った何か』だったということになるだろう、と。どちらかといえば、微少特異点などでときおり発見される聖杯の欠片あたりが近いのかも知れない。
 彼女の予想が正しいとするならば、この破壊を行った何者かは、力業で魔術を強引に破り突破していったということになる。例の『一寸法師』の仕業だとすれば、重量のある鋼鉄の扉を引きちぎるように破壊していったことも含め、やはり普通の人間ではないことが現時点で確定した。その正体はサーヴァントか、或いはもっと別の何かか。

「とりあえず中に入って、『宝物』があった場所を調べさせてもらおう。神主さんとかそのへんにいないかな?」
「いいえ。見たところ、私たち以外には誰もいないようです」
「もしかすると、村のほうへ避難していらっしゃるのかもしれませんね。また襲撃がされる可能性があるかもしれませんし、自衛手段も持たない方がここにお一人でいるのはかなり危険でしょうし」
「そうかもね。一旦村に戻って探してみようか?」
……いや。その必要はなさそうだ」

 カルナの声に、立香ははっと顔を上げた。
 その視線の先、境内に敷かれた石畳の道の上にぽつんと立っているは、アビゲイルよりも少し年が下と思われる一人の少年だった。真っ黒な丸い瞳をいっぱいに見開いて、自分たちのほうを凝視している。

「こんにちは。麓の村の子?」
「こ、こんにちは。えっと、うん、そうだよ」

 立香がゆっくりとした足取りで近付きながら、いつもの人なつこい笑顔でそう声をかける。
 少年は完全に警戒を解きはしなかったものの、ぺこりと礼儀正しく頭を下げて挨拶を返してきた。警戒ながら接近した相手にあまりにも毒気がないので拍子抜けしているらしい。どうしてこんなところに一人でいるのかと続けて立香が問えば、彼は困ったように視線をさまよわせていたが、やがてぼそぼそと口を開いてくれた。

「えっとね。ぼく、ここをしらべたくて」
「調べる?」
「うん、そうだよ!」

 話を聞いてみると、少年はこの神社を襲撃し、村で大切に守ってきた『宝物』を奪ったのが一寸法師だと聞き、いても立ってもいられずここへやってきたのだそうだ。彼自身が信じるもののために、真実を己の目で確かめる必要があるから、と。

「だって、一寸法師が村のみんなにひどいことしたなんて、そんなの信じられないんだもん!」
「もしかしてあなたも、一寸法師の物語がお好きなのかしら?」
「うん、大好きだよ! ちいさいころから、おかあさんが一寸法師のお話をたくさんよみきかせてくれたんだ。だからぼくは知ってる。一寸法師は小さいけど、勇気をいっぱいもってて、あたまも良くて、じぶんよりずうっとおおきな相手にだって、大切なひとをまもるために立ち向かっていける人なんだ。だから村のみんなに乱暴して、大切な『宝物』をとっていっちゃった人が、一寸法師のはずがないよ!」

 アビゲイルの問いに興奮気味に応えながら、少年はぎゅっとその小さな拳を握りしめている。
 少年は村の同世代の友人たちと比べると体格が小さめで、そのことをからかわれて悔しい思いをすることが多かった。そんな折りに一寸法師の物語を母親が読み聞かせてくれたことで、大いに勇気をもらったのだという。小さな自分でも、彼のようにきっといつかは大きな事を成せるはずだと。だから自分にそんな勇気を与えてくれた存在が悪者になっているなどという疑いを晴らすために、一寸法師を名乗った不届き者を、どうしても己の目で確かめたかったのだ。
 幼子特有のたどたどしい言葉で必死に語る少年の濡れ羽色の瞳は、湖面のようにゆらゆらと揺れており、今にも決壊してしまいそうだった。見知った大人たちが攻撃されて怪我をして帰ってきたという自らの目で見た事実と、自分の中にある『一寸法師』を信じたいという気持ちで、小さな体と心はぐるぐると翻弄されているのだ。
 つまりどうやらこの少年は今、立香が先ほど道中でカルナたちに話してくれたのと似たような感慨を抱いているようだった。だから己の信じる英雄の無実を証明するため、自分にできることはないかと思い立ち、現場に足を運んできた。そこで見慣れぬ一行を見付けたことで、その目的を問いたださねばなるまいと接触してきたに違いない。

「お兄さんたちは、ここで何してたの? もしかして、一寸法師をやっつけにきたの?」
「ううん、違う。実は俺たちもキミと同じなんだ。一寸法師って名乗った人が本当は何者なのか、この神社を調べにきたんだよ」

 すべてを明かすわけにはいかないが、かといって適当に誤魔化す言葉を労したところで、この少年が素直に納得してくれるとは思えない。であれば、ある程度目的が同じであることを開示したほうが信用してもらえるだろう。そう判断したらしい立香は、少年の目の前まで歩み寄ってからそっとしゃがみこみ、目線を合わせるようにしてやりながら答えていた。

……お兄さんたちは、一寸法師が悪いひとじゃないって、しんじてくれる?」
「もちろん。俺も一寸法師のお話は好きだから、信じてる。信じたいんだ。だからよかったらなんだけど、ここを調べるのを手伝ってくれないかな?」
「! うん、わかった!」

 立香がにこりと微笑みながら言うと、少年はぱっと顔を明るくし、幾度もこくこくと頷いた。
 きっと少年は同じような主張を村の大人たちにも告げたのだろうが、誰も信じてはくれなかったのだろう。たとえ少年がいくら己の中の英雄像を信じていると口にしたところで、自らを『一寸法師である』と名乗った男が乱暴な真似をしたという事実は揺るぎようがない。だからこそ少年は、たった一人でこの場所に足を運ぶことを決意したのだ。危険があるかもしれない場所へ子ども一人だけで行かせることを、ただでさえあんなふうにピリピリしていた大人たちが許してくれたとは考えづらい。おそらくこの少年は、誰にも見つからないようひっそりと村を出てきたに違いない。
 何にせよ、魔術のかけられた扉を簡単に引きちぎるような存在がうろうろしているかもしれない場所で、こんな少年を一人放置しておくことはできなかった。となれば目の届くところへいてもらったほうが安全だ。少年自身は即座に脅威になるような存在ではないし、目的がある程度同じであるならば同行させてもさほど問題にはならなかろう。現段階で好意的な現地協力者が得られるのは大きい。

「とりあえずその盗られちゃったっていう『宝物』が置いてあった場所に入って調べたいんだけど、どうしたらいいかわかる?」
「ふつうに入っても大丈夫だよ。村にいる神主さんに聞いてみたんだけど、どうせもうさわられてこまるものは何もないし、とびらはぐちゃぐちゃだし、怒らないから好きに入ってもいいよって言われた」
「呆れた管理だ」

 突然の理不尽な襲撃に見舞われたことで精神的にも参っているのかも知れないが、仮にもこの場を預かっているとしてはあまりにも責任感のない発言である。だが自由にしていいという言質が取れているのであれば、有り難く中を調べさせてもらうとしよう。
 少年を新たに調査メンバーへ加えた一行は、ひしゃげた扉を乗り越えて社の中へと足を踏み入れた。不測の事態が起きてもすぐに対処できるよう、サーヴァントたちは各々少年と立香を守るように側につく。
 本殿に入ってすぐ目に入ったのは、正面に鎮座する厨子だった。観音開きの扉には古びた南京錠が取り付けられていたが、こちらも外の扉と同様に強引に引きちぎられてしまっている。歪に力を込められたせいで歪んだ扉は開け放たれたままで、中身は案の定もぬけの空となっていた。外もここも、一寸法師なる男が侵入したあとのままの状態で放置されているのだ、とは少年の談。修復を行うにも、村人たちは再びの襲撃を警戒して手をこまねいているようだ。

「『宝物』はね、ずうっとあの中にあったんだ」
「ご存じなのですか?」
「うん。ぼく、お祭りのお手伝いでここに入ったとき、あそこに入ってるの見たことあるんだ。中の台みたいなやつの上に置いてあったよ。すごくきれいでびっくりしたんだ!」

 開ききったままの扉から中を覗き込むと、ひんやりとした空気が肌の上を撫でていく。うっすらと混ざっている独特な匂いは、中で焚かれていた香によるものだろうか。
 そして少年の言葉どおり、今はない何かがここに安置されていたと思われる形跡があった。唯一無二の役割であるはずの、己が受け止め支えるべき『宝物』を失った設置台が、どこか寂しそうにぽつんと設置されている。
 厨子自体や中の台の大きさから察するに、『宝物』自体はさほど大きなものではなさそうだった。どんなに大きくとも両手で抱えられる程度のものだろう。
 興味深げに厨子の中を覗き込む立香の背後では、紫式部が何やら魔術を行使している。ここへくる途中で離していた、特定の相手の足跡を辿る術式なのだろう。するすると宙を動いていた白く細い手がやがて徐に止まったのを見て、マシュが問いかける。

「紫式部さん、どうでしたか?」
……申し訳ありません。少し時間が経ちすぎてしまっているようです」

 紫式部が手に持っていた筆をくるくると宙に何か描くように動かすと、何やら文様が浮かび上がり、そしてすぐに空へ溶けて消えていった。一瞬光って現れた文様は、彼女が師事していたという安倍晴明が用いていたとされる五芒星と呼ばれるものだったか。
 彼女曰く、ここに立ち入った何者かの気配を感知し記録することはできたものの、此処を出た後に何処へ向かったのかまでは追い切れなかったとのことだった。先ほど告げたとおり、痕跡が薄くなりすぎて彼女の術ではうまく捉えられなくなっている。
 しかし術で手がかりが得られなくとも、目に見える範囲でそれが残されている可能性はおおいにあった。或いは気配が濃く残る場所を見つけられれば、紫式部の術を再度使用することで足取りが追えるかもしれない。
 そこで一行は手分けをして、本堂の中やその周辺をさらに詳細に調査することにした。分け方については、立香とマシュとカルナ、アビゲイルと紫式部と少年という二組だ。最初に村で調査していたときと同じ別れ方で、人数が少ない方に少年が追加された形だ。
 ひとまず立香たちが本堂の外を、アビゲイルたちが中をそれぞれ調べて回り、おおよそ三十分後にまたここへ集合する手はずである。もう片方の組に一時の別れを告げ、それぞれに割り当てられた場所へ向かった。
 再び訪れた神社の境内は、不思議な雰囲気と静けさに包まれていた。風に身を揺らす葉の音や、手水舎で流れ続けている水の音が常に聞こえてくるから、完全な静寂に包まれているというわけでは決してない。しかしここに立っていると何となく「静かだ」という印象を受け、心の内にある波のようなざわめきが自然と収まっていくような気がするのだ。

「あ、そういえばさ。一寸法師の歌っていうのがあるんだけど、マシュは知ってる?」

 あちこち見て回ってしばらくした頃、立香が唐突にそんなことを口にした。境内の雰囲気によって穏やかな心地にさせられたことで、何となくとりとめの無い雑談がしたい気分になったのかもしれない。

「歌、ですか? いいえ、物語は知っていますが、歌は聴いたことがありませんね」
「オレも知らん」
「えーと……うん、言い出しといてごめん、俺も結構うろ覚えだった」

 残っている記憶を掘り出そうとしているのか、こめかみのあたりを指先で突きながら、立香はぽつぽつとその歌を口ずさむ。

「えっとね、確か……指にー足ーりないいーっすんぼーし、ちーいさいかーらだにおーきなのぞみー、お椀の船ーに箸の櫂~、京へーはるばーるのぼりゆく~……ええっと、次なんだっけな」

 つっかえつっかえで何とかその部分までいって、しかしついに先に続く歌詞が全く思い出せなくなってしまったらしい。うんうんと腕を組みながら唸っている立香を、歌を全く知らない二人はただ黙って見ていることしかできない。
 しかし、そのとき。

「京は三条の大臣どのに 抱えられたる一寸法師 法師法師とお気に入り 姫のお伴で清水へ──」

 明朗な声が続きを口ずさみ始めたのだ。
 歌の続きを引き取ったのはもちろん立香の声ではなく、カルナやマシュのものでもない。これまで耳にしたことのない、別の誰かの声だった。

「ッ!」

 すわ敵襲かと、カルナとマシュは反射的に各々の武器を構え、声がした方へ向き直る。
 そこには立っていたのは、村で出会った人たちとは明らかに雰囲気が異なる、一人の青年だった。
 いかにも和風な服装に身を包み、腰には立派な刀を差している。一見穏やか雰囲気だったが、隙だらけというわけではなかった。もしカルナが斬りかかれば彼はすぐさま刀を抜き放ち、応戦するだろう。鋭くこちらの様子をうかがう瞳は、カルナがよく知る「戦う者」のものに相違なかった。
 しかしこの距離に近づくまで、全くこの青年の気配を感じ取れなかったのは明確な失態である。だが今は己を責めている場合ではない。さらに警戒心を強めながら、カルナは青年を見つめた。敵か、味方か、或いはそのいずれでもないか。マスターを守るため、自分は見極めなくてはならない。

「初めまして、カルデアのマスター」

 青年は微笑みすら浮かべながら、先ほど歌を口ずさんだのと変わらない穏やかな調子でそう言葉を紡いだ。即座にやり合おうという気はないようである。もちろん、あくまで「今のところ」はというところではあろうが。

……初めまして。あなたが一寸法師、ですか?」

 すぐに戦闘態勢に移れるようにカルナとマシュに目配せで端的に指示をすると、立香は目の前の青年に問いかけた。立香がカルデアから来たことを知っているということは、彼は確実にこの特異点に関して何かを知っているはずだ。
 立香の問いかけに、一寸法師はふわりと唇を綻ばせた。だがあれは友好的なものでは決してない。獲物を油断させるための罠。そのうっそりと細められた濡れ羽色の瞳の奥には、底知れぬ欲望がちらついている。己が求めるもののために必要とあらば全てを斬り捨てると、雄弁に物語っていた。

 ──奴は、敵だ。

 カルナの目は即座にそう判断した。明確な目的は未だ知れないが、何らかの形で立香やそのサーヴァントである自分たちを害する意図があることは間違いない。

「下がれ、マスター」
 その一言だけである程度状況を察してくれたらしい立香は、一歩分だけ後ろへ下がって青年から距離を取った。サーヴァントたちに魔力を回すことに注力する体勢に入っているのが気配で感じ取れる。

「あーあ、野蛮なことだな。ぼくはただ、カルデアのマスターと話し合いをするためにここへ来たというのに」

 一寸法師はやれやれと小さく肩をすくめると、己の手を武器である刀に──ではなく、懐から何かと取り出したのだ。
 彼が手にしているのは、美しく繊細な装飾が施された黄金の槌。

「って、あーっ!?」

 その小槌を目にした瞬間、立香は指さしながら素っ頓狂な声を上げたのだ。
 突然の出来事に驚き、マシュもカルナも揃って立香を振り返る。ぽかんとした表情で目を瞬かせている一寸法師も、立香がこういう反応をするのは完全に予想外だったようだった。

「その小槌って、鬼一師匠の持ってたやつ!?」
「!」

 思わずといった様子で放たれたその一言でようやく得心がいった。
 立香が何故、一寸法師が取り出したものを見てここまで驚いた反応を見せたのか。彼が此処とは異なる場所で、今取り出されたのと同一のものを既に目にしていたからだ。
 ある日突然カルデアにやってきた鴉天狗、鬼一法眼。彼女(正確にはかの存在に性別はないらしいのだが、カルデアでは女性の体状態で存在しているので便宜上そう呼称している)がカルデアに襲来した際に持っていたモノ。それが『打出の小槌』だった。あれも多量の魔力を貯蔵した一種の亜種願望機であったと、カルナも騒動の顛末とともに聞き及んでいる。
 もし彼が手にしているのが打ち出の小槌ならば、聖杯に準ずるものとして特異点の形成に深く関わっていると見て間違いない。そしてその原因となるものを所持している目の前の男も、また然り。

……なんだ。お前、鴉天狗なぞに師事しているのか?」

 突如大声を上げた立香に驚いてしばらく目を丸くしながら呆然としていた一寸法師は、やがて呆れたように嘆息混じりにそんなこと言った。

「ぼくが言うのもなんだが、やめておいたほうがいいぞ。あれは人間とは根本的に生き方や考え方が違う生き物だし、どうせろくな目に遭わない。お前が人間としての在り方を捨て、人の域を外れようとしているなどというのならば話は別だが──」
「御託は不要だ」

 立香が何か言いかけていたが、カルナが口を開くほうが僅かばかり早かった。ばっさりと切り捨てるような感情のこもらない一声に、一寸法師は僅かに眉をひそめている。

「そういう貴様は何者だというのだ。己が目的のために他者を害し、人が作り上げたものを躊躇いもなく破壊するお前が、その口で『人間』の在り方を問うのか?」
……ぼくを挑発しているつもりなんだろうか、きみは」

 ぴくり、と一瞬だけ不快そうに眉の端を動かした一寸法師だったが、深く吐いた一息の後にはまた先ほどまでの貼り付けたような薄ら笑いへと戻っていた。己の感情をひた隠すあの仮面は、一体誰のためのものなのか。

「いいだろう。挑発に乗るわけではないけれど、少しだけ相手をしようか。ぼくも色々と確かめたいことがあるし、この際ちょうどいい」

 一寸法師は小槌を持った手を軽く持ち上げて、小さく振り下ろした。持ち手の部分にくくりつけられた朱色の紐が揺れる。

 ──と同時に、彼の目の前で大きな魔力が膨れあがるのを感じた。

 ずるり、と彼の足下から色濃い影が生じる。そこからしみ出すようにして姿を現したのは、ヒトガタを取った何者かの残滓だった。それぞれがそれぞれに、シミュレーターなどで仮想敵として討伐しているエネミーたちとは比べものにならない魔力を有している。

「シャドウサーヴァント……!」

 今までの特異点でも何度か対峙してきたことがある。召還者の実力や魔力の不足などの理由でサーヴァントの形を取りきれなかった、或いは霊基を破壊されて消滅してもなお残されたサーヴァントの残滓が周囲の魔力、怨念などと結びついて現界したものたち。正式に現界したサーヴァントと比べれば当然ある程度は出力が落ちているものの、十分脅威であることには変わりない。しかもそんな存在が次々と染み出すように姿を現し、今やその数はざっと見る限りでも二十を超えていた。

「いくつもの特異点を踏み越えてきた優秀なるマスターへ、ぼくからの歓迎だ。この程度だと少し役不足かもしれないが、ここで全力を捧げてしまうわけにはいかなくてな。容赦してくれ」

 一寸法師が試合開始だと言わんばかりに小槌を持っているのとは逆の手を天に向かって上げる。
 ごう、と。人理に刻まれた英雄の残滓が、己の敵を見定めて咆吼を上げた。

「マシュ!」
「はい!」

 立香に向かって一直線に突撃してきた一騎の剣の切っ先を、滑るように割り込んできたマシュの盾が真正面から防いだ。ぶつかり合った金属がならす甲高い音と、マシュの盾が駆動する低い機械の唸り声とが重なる。
 白亜の城を内包したその盾に噛みついたその切っ先を、マシュは絶妙な力加減で絡め取り、上方へと強引にかち上げた。

「やぁっ!」

 武器の行く手を反らされ隙だらけになったシャドウサーヴァントの胴に、即座に切り返された盾の先端が深々とめり込んだ。

 ――ぐしゃり。

 肉が潰れる耳障りな音と共に、シャドウサーヴァントの体がそのまま地面へと叩き付けられる。盾の攻撃と激突した地面から貫いた衝撃をまともに食らった仮初めの肉体は、びくり、と一度だけ激しく痙攣し、次の瞬間には形を失ったただの魔力として空中に霧散していた。

「はぁッ!」

 先鋒があっという間に倒されたことで一瞬だけひるんだシャドウサーヴァントたちの横から、カルナは槍を横薙ぎに一閃させる。
 慣れ親しんだ、己の刃が空を切る音。
 放たれた斬撃とそこから数拍遅れて噴き上がった炎によって、数体のシャドウサーヴァントが一気に消滅した。断末魔の声が解けゆく影の残滓らと共に遠くなり、やがて消え去っていく。

「カルナ!」
「ああ」

 鋭く飛んできた立香の声に、短く答える。
 大技を放って一掃することは簡単だが、カルナの持つ攻撃用の宝具はその全てが対軍ないし対国宝具だ。加減をしなければあっという間にこの神社ごと全てを破壊することになりかねない。よってカルナが今ここですべきことは、敵を確実に各個殲滅していくことだった。そもそもここで全力を出してしまうと、特に燃費が悪いカルナは早々に魔力不足に陥りかねない。魔力の供給自体はカルデアから行われているとはいえ、その間でパイプの役割を果たしている立香には当然莫大な負担がかかる。
 マシュとカルナは立香からのバックアップを受けつつ、こちらへ向かって次々と攻撃してくるシャドウサーヴァントたちを、一体一体確実に屠っていった。

 盾が唸り、槍が吠える。

 一寸法師が感心したように目を細めている様子が、折り重なるように襲いかかってくる数多の影の隙間から僅かにうかがえた。シャドウサーヴァントは続々とその数を減らされているというのに、焦っているような様子は欠片も感じられない。寧ろ倒されて当然だとでも思っているような顔だ。少なくとも今この瞬間、彼自らが加勢する気はさらさらないらしい。

 彼はいったい、何を狙っているのか。

 一寸法師から意識を完全に反らさぬように注意しながら、次々と躍りかかってくるシャドウサーヴァントたちを、カルナは槍の一閃を以て叩き伏せていく。
 これはおそらく足止めだ。先の発言に鑑みても、一寸法師とてこのような残骸たちでカルナやマシュを屠れると本気で考えてはいないのだろう。そうなると、目的は自分たちのマスターである立香であるとみて間違いあるまい。
 カルナは少しばかり戦闘場所を後退させ、立香の立っている方へと距離を詰めた。この程度であれば、仮に背後から立香を狙う何者かがいたとしても即座に対処できる。ただしあまり戦線を下げるのもそれはそれで危険だ。仮にマシュとカルナのいずれかがシャドウサーヴァントを討ち漏らし、最悪立香が彼らと真っ正面勝負をせざる得なくなった場合、御せるだけの力を彼は持ちあわせていない。
 カルナは再度一寸法師の様子をうかがう。すると先ほどまでとは違って何やら苛立ちを覚えているらしく、手の中にある小槌を忌ま忌ましげに睨み付けていた。これは違う、と顔にはそんな感情がありありと浮かんでいるのが見て取れる。しかし、いったい何が違うというのだろう。
 圧倒的に劣勢というわけではないはずの一寸法師が、何故か少しばかり険しい顔をしながら再び小槌を振るうと、倒され地にたたき伏せられたシャドウサーヴァントの影から、また同じ存在が召還されて立ち上がってきた。いくら倒してもこれではキリがない。だが相対しなくてはマスターである立香に危険が及ぶ。
 そして再び立ち上がり飛びかかってきたシャドウサーヴァントに注視していたせいか、カルナはいつの間にか一寸法師の気配を感じ取れなくなっていることに気付いてはっと顔を上げた。影たちの隙間から確かに見えていたはずの男は、いつの間にか忽然とその姿を消していたのだ。小槌を振るい新たなシャドウサーヴァントを召還した後、瞬時にどこかへ移動したのか。否、敵が動くような気配があったのならばさすがに何かしら気が付いたはずだ。
 ではどうやって、彼はあの場所から姿を消したというのだろうか。
 そして姿が見えなくなったというのに、カルナの肌は未だに『ここにいる』という確信に刺し貫かれている。
 ああ、この感覚には覚えがあった。小さくなってしまったガネーシャ神を、部屋で探しているときに感じたものと似ていて――
 ハッと息を呑んだのと同時に、視界の端に一瞬ちらついたもの。指の大きさにも満たないほどの何かが、弾丸のような早さで自分たちの横をすり抜けていったのだ。

「ッ、マスター!」

 しくじった、と判断したときには既に遅かった。
 立香の立っていた場所を振り返ると、先ほど姿を消したと思われた一寸法師が、今まさに立香の目の前へ再びその姿を見せるところだった。
 どういった芸当なのかはわからないが、奴は気配を見失うほど己の体を小さくし、影とカルナやマシュらの間をすり抜け、そうして再び元の大きさに戻って立香の目と鼻の先に肉薄していたのである。

 ――指に足りない一寸法師。

 紫式部が道すがら語ってくれた物語と、立香が口ずさんでいた歌が、頭の隅を掠めていく。
 そうだ、やつは元々体の小さい生き物のはずだった。カルナたちがこれまで目にしていた青年の姿ではなく、恐らくその小さくなった状態が本来の姿なのだ。

「きみを捕らえてしまった方が話は早そうだ。ぼくの知りたいことへの近道も見つかるかもしれないしな」
「ッ!」

 伸ばされた一寸法師の手が、立香に向かって迫る。

「マスター!」

 切羽詰まった声で立香を呼んだマシュは、シャドウサーヴァントたちへと叩き付けていた盾を即座に切り返し、一刻も早く一寸法師を立香から遠ざけんとして地を蹴った。見た目の華奢さとはかけ離れた力が込められたことにより、みしり、と地面がきしむ音が聞こえる。
 しかしその電光石火の進行を止めるべく、再び影から無数のシャドウサーヴァントが滲みだし、間に壁となって立ちふさがったのだ。
 マシュが駆けた勢いをそのままに盾を水平に振り回し、遠心力も存分に乗せた渾身の一撃を放つが、覆い被さる分厚い漆黒の壁は、彼女が向こう側へたどり着くことを決して許しはしない。一寸法師の持つ小槌によって次々と召還されてくるシャドウサーヴァントは、それそのものがひとつの生き物になったかのように折り重なり合いながら行く手を阻んでいる。
 カルナも即座に立香の元へ戻ろうと駆けるが、やはりシャドウサーヴァントたちが進行方向を遮った。ただただカルナの進行を止めるためだけに、己の命すらも省みない無謀な特効を仕掛けてくるのである。魔力放出を使って跳ぼうと試みたところで、恐らく足が地を離れるより先に彼らがそこへ絡みついてくるだろう。放たれた魔力によって、自らが焼失することも厭わずに。
 こういった自爆特攻を仕掛けてくる手合いほど厄介なものもない。カルナは槍を振るって次々と霧散させていくが、シャドウサーヴァントたちは次から次へと飛びかかってくる。絡みついてくる。その様子はさながら、襲い来てはべったりと張り付いてくる泥の濁流を浴びているかのようだった。
 一方、一寸法師が立香の喉元へ手を伸ばしたのと、立香が一寸法師から距離を取ろうと後ずさりながら腕を地面と水平に構えたのは、おそらくほとんど同時のことだった。彼の指先は、銃口のように真っ直ぐ一寸法師へ狙いを定めている。
 呪う相手を人差し指で指し、その体調を崩させるというルーン魔術――ガンドの構えだった。
 立香の持つ魔力ではさすがに敵を倒しうるには至らないが、カルデア式の魔術礼装によってその効果を最大限底上げされているため、相手の動きを数秒止める程度にはなるはずだった。
 よって立香が行うのは、ただ真っすぐに狙いを定めることと、その術の発動に必要となる一工程を口にするだけ。

――『ガンド』!」

 指先からまがまがしい色の光弾が放たれ、一寸法師へ一直線に向かって飛んでいく。
 だが、立香が己に向かって攻撃を仕掛けたことをその目ではっきりと認めた一寸法師は、その瞳をぎらりと輝かせながら笑ったのだ。それは獰猛な獣すら思わせる、戦いに楽しみを見出す生き物の顔。

「はっ、ははは! ――まさか寄りにも寄ってこのぼくに対して、病の呪いとはなぁッ!」

 直後、一寸法師を守るようにして噴き上がった魔力が、ごう、と低く咆吼した。
 敵を打ち抜いて炸裂し、確実にその動きを鈍らせるはずだった呪いの弾丸は、しかし一寸法師が放った魔力の波によって呆気なく遮られた。水をかけられて流れ去る泥汚れのように、静かに流れ落ちていってしまったのである。
 立香のガンドを跡形もなく消滅させたのは、あの小槌から出力されたものではなく、どうやら一寸法師が元来持っているらしいものだとわかった。噴きだした魔力の質が、シャドウサーヴァントたちを生み出したときのものとははっきりと異なっていたからだ。

「残念。決め手を誤ったな、カルデアのマスターよ。このぼく相手にこういった呪いの類は一切意味がないぞ。だが敵わないと判断していながら、自分の力で状況と変えようと挑んでくるのは悪くない。ぼくはそういうの、けっこう好きだ」
「っ、くそ……!」

 立香が即座に使用できる魔術の中で、ガンドはほぼ唯一といっていい、敵へ対する直接の対抗手段だ。これ以外は基本的に味方のサーヴァントへの支援に特化したものを優先して身につけているため、これを真っ向から潰されてしまった以上、もはや打つ手がない。

「せ、先輩ッ!」

 再び上がったマシュの叫び声は、今度こそ悲鳴だった。一寸法師が腰に差している刀をすらりと抜き放ち、立香に向かって振りかぶったのを見てしまったから。
 立香は咄嗟に、普段はサーヴァントたちにかけている強化魔術を自分に向けて発動させようとしているが、人間用でない以上さほど効果は期待できまい。数秒の後、白銀の一太刀は淀みなく立香の体に突き立てられ、彼の血潮を浴びていることだろう。
 もはやこうなっては致し方あるまい、とカルナは己の宝具を展開すべく魔力を高めた。飛びかかってくる無数のシャドウサーヴァントごと、一寸法師を焼き払う。相当量の魔力を食うだろうし、余波によって立香自身にも被害が及ぶ可能性があるが、確実に命を失う危険が迫っている以上、なりふり構ってなどいられなかった。
 問題は奴の刃が立香に届くより先に、カルナの宝具の発動が間に合うかどうか。

「『梵天よブラフマー、』――

 しかし魔力の高まりを感じてか、シャドウサーヴァントたちが一斉にカルナに向かって飛びかかってきたのだ。信念も何も残っていない影ではあるが、その身に刷り込まれた戦闘に対する感覚はなくなっていないらしい。カルナの放とうとしている攻撃が危険だと、理性などではなく本能的に判断し、阻止せんと躍りかかって来ている。
 宝具を発動する隙を与えまいと殺到する影を蹴散らしている間に、一寸法師の持つ刃が空を切り裂き、淀みなく立香に迫っていた。その一点の曇りもない澄んだ太刀筋は、まるで清流の流れる美しい川のようで。
 駆け寄ろうと必死になっていたマシュの横顔が、じわじわと影たちの漆黒に呑まれるように絶望に染まっていく。だが今にもその刃が立香に突き立てられるようとした、まさにその瞬間。


「──やめてぇぇぇぇっ!」


 甲高い絶叫が、森の澄んだ空気の中で木霊した。

――――ッ!?」

 その瞬間、うわん、とこの空間にある空気が激しく揺れ、唸り声を上げてカルナの横を駆け抜けていった。通り過ぎていくその刹那、ひどい耳鳴りのような感覚が僅かにカルナたちへ襲いかかり、しかし数秒と経たずに跡形もなく消え失せていく。
 放たれた絶叫とともにこの身を貫いていったのは、放たれた叫びそのものとはまた別の音だった。吹き抜けた風に乗せられているモノが、かすかに肌を粟立たせる。
 叫び声は社の方から駆けてきた少年のものだった。彼のそばには紫式部とアビゲイルの姿もある。外の騒ぎに気が付いて慌てて駆けつけてきたのだろう。
 そして彼の絶叫が響いた瞬間、一寸法師は振り上げていた刀をぴたりと止めたのである。刀を立香に振り下ろす直前の格好のまま、まるで突然縄か何かでがっちりと拘束でもされたかのように動かなくなったのだ。彼の顔を見上げていた立香は、夜の深い海のような色の瞳を、零れ落ちそうなほどかっと見開いている。

「ッ、マスター!」

 カルナは誰よりも早く硬直から抜け出し、一方でまだ解放されきっていないシャドウサーヴァントを槍の一閃を以て強引に薙ぎ払った。僅かに空いた隙間をかいくぐり、一寸法師へと槍を構えて躍りかかる。
 しかし一寸法師は瞬時にカルナの間合いの外である場所まで飛び退き、槍による神速の一閃を紙一重で交わして見せた。あと一歩で立香の命を刈り取れる距離まで迫っていたはずの一寸法師は、しかしあっけなくその位置を手放したのである。

「貴様は……
「ああ、困った。ここまでするつもりはなかったんだが。そこな勇敢なるマスターがぼくへ果敢に挑んだりするものだから、苛々していた気持ちがひっくり返ってうっかり楽しくなってしまったよ。今ここできみを殺してしまったら何の意味もないのに」

 先ほどまでの熱狂的な色は既にそこにはなく、一寸法師の態度はあっけらかんとしたものだった。彼の目的は、どうやら己の邪魔をするカルデアのマスターの即時排除というわけではないらしい。先の発言から察するに、寧ろ目的のために彼を生かしておかねばならない理由があると見た。現時点でまだ立香を殺せないという言葉の中には、おそらく彼自身以外にも彼が使役する自分たちにも役割があるという意図が含まれている。
 呆気ないくらい簡単に刀を鞘に収め、立香に視線をやる一寸法師。

……カルデアのマスターよ。傲慢にも数多の英霊を従えし者よ。時がくれば、ぼくはお前のサーヴァントをこの手で全て殺しに行く。お前はお前のサーヴァントたちを、大人しくぼくに差し出せば良い。ぼくがお前に望む役割は、唯一、ただそれだけだ」
「な、にを」

 そう言うが早いか、一寸法師は瞬きの間に霊体化して姿を消してしまった。先ほど感じた奇妙な気配は既になく、完全にこの場から立ち去ったらしいことがわかる。
 その姿が空に消える直前、彼はほんの一瞬だけ少年に視線を向けていた気がしたが、その真意は定かではなかった。少年のほうは地面を見つめたままうずくまっていたので、おそらくそのことに気付いてはいなかっただろうが。

「ま、マスター、ご無事ですか!」
「うん、大丈夫。ごめん、マシュに心配かけて」
「そんなこと……!」

 泣き出しそうに顔を歪めているマシュに、立香は安心させるように笑みを浮かべてみせた。そしてよろめきながら立ち上がると、そのまま肩を震わせている少年の元へと駆け寄っていく。

「俺たちを助けに来てくれてたんだよね、ありがとう」
……あの人が、一寸法師、なの?」

 立香の言葉には応えないまま、少年は引きつったような声でそう問うた。泣くのを必死に堪えている声音だ。立香を見上げる瞳は決壊寸前で、今にも零れ落ちそうなほど水をたたえて激しく揺れている。
 彼の問いかけに立香は一瞬言葉を詰まらせ、しかしはっきりと一つ頷いて見せた。少年の顔からさっと色が失われていったのが、カルナの目から見ても手に取るようにわかった。

「一寸法師は……お兄さんたちに、ひどいこと、しようとしてた」
……うん」

 立香は何を言うでもなく、ただ静かに一つ頷いた。少年の方が震え、しゃくり上げるような声がだんだんと大きくなっていく。彼の幼子特有の丸みを帯びた頬を伝って落ちた雫が、乾いた地面に点々と模様を描いていた。

「やっ、ぱり……一寸法師、は悪い人っ、なの、かな……っ?」
……わからない。今は、まだ」

 少年の問いを、立香は肯定も否定もしなかった。その言葉には、恐らくは彼自身の中にもいまだ残されているであろう信じたいという気持ちが見え隠れしている。立香はくしゃりと顔を歪めた少年の小さく細い肩に手を置き、しかし何を言うでもなくただ黙って擦り続けていた。
 おそらく今の少年の気持ちに一番近づけるのは、彼と同じように『一寸法師』への憧れを抱いていた立香だけだ。そんな立香が少年に対して何も言えなくなってしまっているのに、他の者たちが声をかけることなどできようはずもない。今の少年の内を満たしてしまっている絶望が生じた理由を察することはできても、その深さや色に本当の意味で共感することは、カルナたちには不可能だ。

……ええと。マスター、本当にどこにもお怪我はない? 大丈夫?」

 重たい空気が場を支配する中、アビゲイルがおずおずと立香にそう問いかけた。少年を見つめていた立香ははっと顔を上げ、彼女に何ともいえないへたくそな笑顔を見せる。

「なんとか大丈夫。……ごめん、カルナ、マシュ。足引っ張った」
「いや、お前を守れなかったのはオレたちの責だ」

 通常の聖杯戦争とは大きくかけ離れた状況で現界しているとはいえ、マスターが殺されれば終わりという根本的な状況に変わりはない。だというのに、あと一歩でその命を危うく刈り取られるような危機的な状況に陥らせてしまったのだ。敵の力が未知数だったとはいえ、サーヴァントとして最低限の役割すらこなせなかったのだから、立香が責めるべきは己自身ではなくカルナたちのほうである。
 再び重苦しい空気が場を支配しかけていたとき、立香が腕に付けている腕輪型の通信機が、緊急連絡を知らせるけたたましいアラート音をかき鳴らし始めた。この中で唯一その音に聞き覚えのない少年が、驚いたようにびくりと肩を跳ねさせる。
 立香があわあわしながら通信を開通させるための操作をすると、即座にダ・ヴィンチの焦った声が飛び出してきた。

『立香くん! 立香くん、無事かい!?』
「あ、うん、何とか。ダ・ヴィンチちゃん、どうかした?」
『どうかした、じゃないよぉ! サーヴァントの魔力反応が君たちのそばに現れたかと思ったら、通信が妨害されていてこちらから一切連絡が取れなくなるし! でも無事でいてくれて本当によかった。一体何があったんだい?』

 聞いたところによると、カルデア側からの通信が切断されてしまったのは、立香がカルナたちに一寸法師の歌の話をし始めた直後かららしい。

……ええと、実は――

 その後に起こった出来事を、立香がかいつまんでダ・ヴィンチら管制室のメンバーたちに向けて報告した。
 一寸法師なる青年と接触があったこと。彼が持っているのは『打出の小槌』であり、この神社に収められていた『宝物』であり、そしてこの特異点形成に関わった『聖杯』である可能性が高いこと。あとは一寸法師との戦闘についてなど。

……なるほど。じゃあやはり、その一寸法師……と名乗った男が、この特異点における鍵と見て間違いなさそうだね』

 まるでこの世の終わりに立ち会ってきたかのような顔でどんよりと沈んだままの少年のことを気遣ってか、若干言葉を濁しつつそう結論を述べるダ・ヴィンチ。
 立香が持っている端末から戦闘データを拾い出してひととおり解析したところ、あのシャドウサーヴァントたちは間違いなく小槌の魔力によって生み出されたモノであり、一寸法師本人の直接の能力ではない、とのことだった。しかしシャドウサーヴァントを生み出す手段が一寸法師の手中にある以上、ほとんど彼の能力と判断して差し支えないだろう、とも。

『先ほどの戦闘データもあわせて解析し、こちらでざっと一通りは確認した。あの一寸法師は間違いなくサーヴァントだね。クラスはおそらくライダー。少しパラメータ数値が特殊みたいだけど。……特に彼の持ってる属性のランクが、ちょっとばかり妙なんだよねぇ』
「妙って?」

 むむ、と困ったような唸り声を出すダ・ヴィンチに、立香は小さく首を傾げている。

『ああ。まずはこれを見てもらえるかい?』

 そんな彼の疑問に答えるべく、ダ・ヴィンチが何やらかちかちと操作をすると、立香の通信機を介してホログラム画像が目の前に浮かび上がった。そして立体的になった画面のあちこちに、カルデアの解析スタッフたちによってざっくりとまとめられた参考資料の一部が表示される。
 立香はそこにずらずらと並んでいる詳細なデータを、じいいっと食い入るように見つめて、少し遠ざかってから眺めて、一言。

……ごめん、どこの何が妙なんだか全然わかんない」
『キミィ! 仮にもカルデアを代表するマスターなのだから、サーヴァントのステータスの見方くらい学んでおきなさいよ!』
「ご、ごめんなさーい!」

 ダ・ヴィンチの後方から飛んできた怒鳴り声は、おそらくゴルドルフのものであろう。レイシフト出発のときは管制室にいなかったが、今は司令官としてあそこで状況を見守っているらしい。てへ、とばつが悪そうなごまかし笑いを浮かべる立香に、ダ・ヴィンチも通信機の向こうで苦笑を漏らしていた。

『ごめんごめん。いつも立香くんに見てもらっているものは、もう少し簡易的にまとめたわかりやすいものだったからね。今はちょっとまとめ直す時間がないから、このまま説明するよ。簡潔にいうとね、物語から派生したっていう出自のサーヴァントにしては、一部高すぎる値が出ているところがあるのさ』
……強い神性を持っている、か?」
『あ、やっぱりカルナは気付いてたのかい?』
「ああ」

 カルナがランサーのサーヴァントとして持つ槍は、インドラより授かりし神を殺す宝具である。己が武器で確実に殺せるかどうかという加減は、その使い手であるカルナが最もよく理解しているところだ。
 そしてカルナはかの者を見据えてはっきりと感じたのだ。目の前の男は、この槍で確実に殺しうる存在であると。

「加えて言うならば、あの打出の小槌とそれを所持するあの男には、妙な既視感を覚えた。ヤツとは特に既知の間柄というわけでもないと思うのだが」

 言うまでもないが、一寸法師は日本の御伽噺で紡がれた存在であり、カルナはインドの叙事詩に刻まれた英雄である。ともに物語によって人々に語り継がれた身という共通点こそあるものの、言ってしまえばそれだけだ。生前をはじめ、関わり合いは皆無のはずだった。
 それなのにカルナは、何故かどこかで感じたことのある気配を、あの小槌や一寸法師自身からうっすらと感じていた。ただしその感覚があまりにも薄いがために、その気配を明確に捕まえることは叶わなかったが。

「けれど一寸法師は物語の中で、とある老夫婦が神に祈ったことにより授かったとされる子どもです。神に連なる属性をお持ちでも不思議はないのでは……?」

 と、これは紫式部の意見である。
 元々神が手ずから生み出したるモノであれば、大なり小なりその性質を受け継ぐことになるはずだ。これは妙だと、わざわざ首を傾げるほどのことではないのだが。
 カルナのそんな内心に応えるように、ダ・ヴィンチは続ける。

『う~ん、それにしては神性の数値が妙に高いんだよなあ。おそらくBランク相当か、ヘタしたらAランクくらいあるよ、彼』
「えっ!?」

 マシュと立香が同時にぎょっとした声を上げるのも無理はない。最高峰であるAランク相当の神性を持つ者といえば、たとえばインド神話の最高神の化身アヴァターラであるラーマ、第四天魔王の血を継いでいるとされる鈴鹿御前、大神ゼウスが一子である大英雄ヘラクレスなど、並べてみればそうそうたる顔ぶれだ。ちなみに太陽神スーリヤの子であり、死後にはその神と一体化したとされるカルナもAランクの神性スキルを所有している。
 つまりあの一寸法師という男は、こういった面子に並ぶほど神に近い出自であるいうことに他ならないのだ。当然、「神が人の願いを受けて手ずから作り出したから」という理由だけでは成り立たないレベルであり、ダ・ヴィンチがおかしいと口にした理由にもここでようやく合点がいく。
 考えられるのは、その出自にかなり位の高い神が明確に含まれているか、何かの要因で別の神が霊基に深く混ざり込んでいるか、或いはアビゲイルのように外宇宙の神と繋がっているかだ。最後の一つは特例中の特例なので、ひとまず可能性としては除外して構わないだろう。もしそういった存在なのであれば、他でもないアビゲイル自身がもっと早くに気が付いているはずだ。念のためと視線をやって問いかけてみたが、やはり彼女はふるふると首を横に振るだけだった。
 そうなると残り二つが濃厚となってくるわけだが、決定打となるだけの情報にはまだ一切たどり着けていない。
 なかなか導き出せそうにない結論に一行がそれぞれに頭を悩ませていた、そのときだった。

「その……みなさまは、一寸法師のルーツをご存じでいらっしゃいますか?」

 紫式部がふと、そんなことを口にしたのは。