epilogue:善隣友好
3月21日(晴)
幾日か前、突如ポストに入っていた一通の手紙。差出人はまったくの不明。
不要な家具も衣類もその他生活用品の何もかも全て置いて、この地に来た時と同じように抱えて行ける程度の支度だけをして、ただそのまま部屋を出て行くようにという知らせ。
そんなものに従って行動するなんて、どう考えてもおかしな話。
……などと、この期に及んでなお言えるわけもあるまい。
「平和島さんも、行ってしまうんですね」
平素お世辞にも賑わっているとは言えない八十稲羽駅は、少年少女の見送りで俄かに温まっていた。
ちょうど一年ぶりの春、穏やかな空気。寂しいような、吹っ切れたような。どちらとも言い難い心境に少し落ち着かない気持ちが混じり、
三琴はわずかに瞼を伏せる。
惜別の浸みた声音に髪を引かれはしまいと決意し、返せたのは「うん」という端的な肯定だけ。
手紙を受けてから急いでまとめた
――と言っても、もともとそんなに多くはなかったのだが
――荷物の重さが、現実感のない頭をかろうじてこの場に繋ぎとめてくれている。
「また会いに来てよね、絶対!来ないならこっちから行っちゃうんだから!」
やや眉を下げた直斗に続けてりせが心持ちきっぱりとそう言った。その目は確かな意思を有していたが、わずかに潤んでもいる。
……彼女だけでなくその周囲の皆もまた、同様に。
些か身にあまるほどの温もりにはどんな顔をしていいのかわからず、ただひたすらに胸が詰まるばかりだ。故に
三琴はまたしてもただ一言だけ感謝の言葉を紡いでみせる。
その後は鳴上とどちらからともなく目配せし合い、彼に続くよう確かに改札を抜けた。
「会えるさ、きっと。いや、絶対に」
「
……随分はっきりと仰いますが、根拠は」
「なんとなく、だけど。保証してもいい」
「鳴上先輩、結構そういうところありますよね。
しかしそれで不思議と納得できちゃうものですから、ずるいというか」
「光栄だ」
「予言は私の専売特許なんですけど
――って、前にも言いましたっけ?
まあ自分のことはわかりませんでしたし、折角なのでありがたく頂戴しますね」
「
……ところですみません、先輩。
失礼だとは思うのですが、耐えきれそうにないので
……
少し寝てしまっても、いいですか?」
*
4月某日(晴)
暦も4月に入り、
三琴は焦燥を募らせてきていた。
もうすぐ新学期、入学式。けれども彼女の心境をじりじりと追い詰めているのはそのことではない。
常から女性客とカップルの多く、決して回転率は高くない喫茶店内。その客が出入りする合間、タイミングよく滑り込んだ窓際の席。交差点を行き交う人々を眼下に、神妙な面持ちでティーカップを傾ける。
もっとも
――視線は確かに雑踏のある向きと同じ下方へ注がれていたが、実際に彼女が見つめている先、にらめっこの相手はもっぱら手中にある青緑色の手帳であった。
紙の上にはまだ何の予定も書かれておらず、全くの白紙。
しかし彼女にはそうせざるを得ない、手帳を見ずにはいられない心情があった。
何故ならば
――
(
……まさか、校内まで来ることはないよなあ
……)
黒いファーコートを羽織った青年の胡散臭い笑顔が脳裏に浮かび、
三琴は思わず顔をしかめる。我ながらなんと恐ろしい仮定を思いついてしまったのだろう、と。入学式には絶対に来ないでくれと頼み込んで一応の了承を得たが、その後の保証まではされていない。
数日後には日々足繁く通うことになる学び舎、来良学園は私立高校だ。人材の入れ替わりはさほど多くないと思われる。そうでなくともかつて来神高校という名前だった時代、彼や兄のことはたぶん今も教師達の語り草となっているだろう。しかも彼は大学まで来良に通っていたはずだ。
……どこでどういうコネや弱みを掴んでいるかわからないあの人ならば、卒業生という適当極まりない一方事実である建前を振るっていつ我が物顔で廊下を歩いていてもおかしくはない。
流石にない、あって欲しくないと思っていても、可能性はゼロではなく。改めて考えればずしりと重いものがのしかかって来たような気分になる。
(せめて相手のことだけでもわかったら
……いや、ダメか。結局私のことだし)
「自分自身に関する未来は見えない」という制限は、最後まで絶対のものだった。
仮に見えても通常よりさらに輪をかけて曖昧な表現の言葉でろくに意味がない。
まして予言は確定事項ではなく如何様にも変わる。相手が必ずしも思い通りに行動してくれるとは限らない、そのことには痛いほど実感があった。
しかし帰ってきてからそう悔やんだのももう何度目だろう、と
三琴は乾いた笑いをこぼす。
誰にも口外していない、この手帳と共に確かに過ごした一年間の記憶。
あの日瞼を閉じた後、目覚めた時にはまた山手線に乗っていた。
つかの間の夢と片付けられるが落ちであろう不思議で非現実的な体験は、しかし鮮烈に現実味を帯びて頭の中に焼き付いている。
――おかげで指導要領に大きな違いさえなければ、勉学においては一年もアドバンテージがある。
言い換えれば、差し当たって攻略すべき難題はこれだけなのだ。
思い出深い品物を手に思案する事柄にしては些かずれている気がしなくもないが、兄達同様なかなかどうして苗字にそぐわぬ星回りにあるらしい
三琴にとってこれは大変に重要な題目である。
白紙のスケジュールを前に浮かび上がるは騒がしい日々の予感。
もはや予言など一片も導き出されない、それは十分にわかりきっている。されど藁にもすがるような思いがあるのもまた事実。
願わくばこれから先の学園生活、心安らかに過ごしたい。
(まあ、あっちでは色々あったし最終的に楽しくはあったけど。
……だからこそ、正直休みたいって面があるというかねえ
……)
別段毛嫌いしている訳でもなし、もとよりそれのために絶たれる程他に交友がある訳でもなし。存在そのものを断固拒否とまでするつもりはない。とはいえ物事には限度というものがある。
致し方ない事情で下校時刻に出待ちされるまでならギリギリ許容範囲内だったが、それももうこの一年
――こちらの時間軸ではどのくらいの間にあたるのかは定かでないが
――でお腹いっぱいだ。
そんなことを思いながら、
三琴は俯いたまま短い嘆息を一つしてカップを戻し手元の紙面を撫でる。なんとなく手持ち無沙汰で、ついでにホルダーに挿されたボールペンもつつっとなぞった。
……ところでこの手帳もペンもこのまま持ってきてしまった(あるいは「持ってくることができてしまった」)が、これは特に問題ないのだろうか?
タイムスリップものではあちらにその痕跡を残したりしてはいけないというのが鉄板だし、するとやはりあちらで得た物品を持ち帰ってはいけないのもまたお約束ではなかろうか?
もしくはこちらが関わった記憶等は全て自動的に抹消されるという設定もよくあるが、今回の場合はそれと考えて良いのだろうか?
今更に過ぎる疑問が改めて広がり始めるが、どれも実際のところは知る由もない。考えても仕方がない。
……が、どうにも頭に引っかかる。
なので
三琴は再びカップを手に取り、一口だけ飲んでから幾分深めにため息を吐いた。
「そんなに深いため息ついちゃって、何か悩み事?」
「
……、
――っ
……!!?!?」
突如上から降ってきた声に、少女は一瞬息を忘れた。
よく耳慣れた、どこか人の毒気を抜くような、そうでありながら茶化すような声音。
瞼は思わず瞳が溢れんばかりに見開かれ、心臓は口から飛び出さんばかりに大きく跳ね上がる。
「っと、ごーめん。驚かせちゃったかな」
ただし、咄嗟の勢いで顔を上げて見えたのはへにゃりと崩れた笑みではなく
――
いたずらが叶って喜ぶ子供と同じ、じわりと意地の悪さが滲み出るようなそれであった。
---
さようなら、穏やかな毎日。/こんにちは、愛すべき隣人。
今世もまた、どうぞよろしく。
<了>
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.