黒竹
2022-05-30 22:24:19
27656文字
Public プロセカ
 

#1 fastidiousness

【プロセカ】【みのはる】【fastidiousness】


 不覚だった。体調管理をおろそかにした覚えはないのに。
 養護教諭から渡された体温計が表示したのは無慈悲な38.2℃。今朝は軽い倦怠感だけだったが、保健室のベッドに横になった途端、身体のだるさは強くなり、喉の痛みと咳も出てきた。解熱剤を飲んで休んだら早退するように言われ、抵抗してみたが無駄だった。
 今日は屋上で新作の動画を撮る予定で、みのりの企画が採用されたから、彼女がすごく楽しみにしていたのに。申し訳なくて涙が出そう。
 こんなことでみのりが怒るわけがないことは分かっている。みのりだけじゃなくて、愛莉も雫も心配こそすれ怒りなんて見せないだろう。自分だって逆の立場なら怒ったりしない。
 それでも、持ち前の責任感が重くのしかかってくる。
 養護教諭が運動部の合宿準備で保健室を空けたのを良いことに、遠慮なく大きなため息をつく。両手で顔を覆い、とにかく一秒でも早く治さなきゃ、と決意を固めた。
 枕元に置いてあったスマートフォンが小さく震える。通知からメッセージを開くと、愛莉から『雫に聞いたわよ。無理しないでゆっくり休みなさい。』と来ていた。長々と返信したら言い訳じみてしまいそうなので、ありがとうと一言だけ返す。みのりからはなんのメッセージもなかった。愛莉は雫と同じクラスだから伝わるのも早かったのだろう。もう授業が始まったし、愛莉からみのりに連絡が行くにしても次の休み時間になるか。まあそのほうが心配をかける時間が短くなっていいかな、と半ば言い聞かせるように思考する。
──仕事だったら、こんなにのんびり寝てなかったなあ。
 体調管理に抜かりはないといっても、遥だって人間なので風邪もひくし熱も出す。それでも分刻みのスケジュールをこなして、仕事に穴を開けないように多少具合が悪くても痛み止めと気合で乗り越えたりしてきた。
 そういうのが必要な世界ではあった。正しいかどうかは、別として。
 雫が撮影を延期しようと言ってきた時、実のところ、何を言っているのかよく分からなかった。
 それから、その判断を自分たちでしていいのだと気づいて、雫がすぐにそう判断してくれたことがたまらなく嬉しくて、ほとんど無自覚にうなずいていた。
 もちろんあの頃だって大切にされていたと思う。事務所も、マネージャーも、メンバーにも。
 けれど今は、たぶん少し違うのだ。
 絆、みたいなものの種類が違うのだろう。
 解熱剤が効いてきたのか、眠気で朦朧としながらそんなふうにつらつら考えていると、保健室のドアがノックされる音が聞こえた。
 誰か体調不良の生徒だろうか。先生がいないことを伝えてあげないと。遥が身体を起こしたタイミングで、「失礼します……」抑えられた、しかし聞き間違いようのない声とともにドアが開かれた。
「みのり?」
 入ってきたのはやはり花里みのりで、まさかみのりまで具合が悪いのかと思ったが、ぱっと見た様子ではそんなふうには見えない。ウトウトしている間に授業が終わって休み時間になったのかと時刻を確認するが、まだまだ授業中だった。
「あ、遥ちゃん、具合どう?」
「薬が効いてきたからさっきよりは楽……じゃなくて、どうしたの? まだ授業中だよね?」
 みのりはベッドの横まで来ると、もじもじと両手の指を遊ばせながら、「へへ」と照れくさそうに笑った。
「遥ちゃんが心配で、おなか痛いですって先生に言って抜けてきちゃった」
 いくつかの感情が遥の内側を走って、どれも適切ではなさそうで表に出せない。
 だってこんな、こんなことは。
 きっと桐谷遥でなければしないのだ、彼女は。
 違う意味で熱が上がりそうで、とっさにバラエティ番組で食レポに失敗したときの愛莉を思い出す。よし、冷静になれた。でもあの表現、私はけっこう好きだったけどな。
「遥ちゃん、やっぱり具合悪いの?」
「あ、ううん、大丈夫。ちょっと熱でぼーっとしてるだけ」
 みのりが丸椅子を持ってきて傍らに腰かけた。少し様子見して帰るのかと思っていたけれど、仮病を使ったことだし、先生もいないし、どうせならとここにいるつもりのようだ。
「熱と、喉に来てるだけだから、ただの風邪だって。寝てたら治るよ」
「そっか、よ……くはないけど、遥ちゃんの様子が分かって良かった。雫ちゃんからは保健室に行ったってことしか聞けなかったから変に心配しちゃった」
「そうだね、あんまり時間なくて、雫も詳しいことは知らないままだったから」
「ほら、ちゃんとお布団かぶって。冷房強いから冷えちゃう」
 起き上がっていた上体を押し戻されて、肩まで上掛けを引き上げられる。
「ふふ。みのり、お姉さんみたい」
「そうだよ。お姉ちゃんだもん」
 クスクス笑いながら見上げると、どこか得意そうな表情のみのりがいた。あまり見ない顔だった。グループで活動している時は遥が主導権を握ることが多いし、遊びに行く時もみのりはリーダーシップを発揮するタイプではない。それなのに今は寝かしつけるように上掛けを叩いてきたりして、本当に、年上のお姉さんみたいだった。幼い頃から弟たちが風邪を引いたらこんなふうにしていたんだろうと思わせる、慣れた手つきだった。
 けれど桐谷遥は花里みのりの妹ではない。
「喉とか乾いてない? なにか買ってこようか?」
「ううん、大丈夫だよ」
「じゃあ、他に何かほしいものとか、してほしいこととかない? なんでも言ってね。遥ちゃんのためならなんだってしちゃうんだから」
 お姉ちゃんにまかせなさい、と胸を叩くみのりに苦笑する。
 残念ながら、ごっこ遊びには付き合えない。
 頭が痛くてクラクラする。
 38.2℃なんて平常じゃない。身体中が痛いし全身におもりをつけられたみたいにだるい。
 そういうのが、たぶん、桐谷遥のタガを外した。
「じゃあ、みのりにこの風邪もらってもらおうかな」
「え?」
 倦怠感に抗いながら起き上がって壁にもたれかかる。
 きょとんとしているみのりを、可愛いと思った。
「風邪って、人にうつしたら治るっていうでしょ?」
 手を引いて導いて、そっと頬を寄せる。
「あげていい?」
「はっ、ははは遥ちゃん……? あの、ちか、近いよ……
 うん、知ってる。
 けどもっと近づきたい。
 もっともっと、二人の間になにもないくらいに。
 状況をうまく理解できなくて硬直しているみのりにどんどん近づいていく。銀鼠の瞳が潤んでいる理由を遥はあえて考えない。
 彼女の瞳の中で己の姿が揺れている。
 熱が。
 熱に、浮かされて。
……はぁ」
 こてんとみのりの肩に額をつけた。
「遥ちゃん……?」
「ごめん。なんでもない。忘れて」
 馬鹿馬鹿しい。熱のせいにして自分の欲求を通そうとするなんて。
 そんなことをしたくないから迷って悩んでいるのに。
 みのりの肩に乗ったまま自分に嫌気が差していると、不意に背中が暖かくなった。それが彼女の両腕だと一瞬後に気づく。
……遥ちゃん、ASRUNの時、何度か具合悪いのに無理してお仕事してたことあるよね」
「え?」
「あの番組とか、あのイベントとか。遥ちゃんは隠してたけど、わたしには画面越しでも分かるんだから」
……そっか」
 どれだけ勇気を振り絞っているのか、背中に添えられたみのりの手は少し震えていた。
「そういうの気づくたびに、遥ちゃんになにもしてあげられない自分が悔しかったの」
 画面の彼我、ステージのあちらとこちら。遥と同じように、誰かに希望を届けたいと願ってステージを目指した彼女の、そのまっすぐな眼差しが、手のひらから伝わる。
「だからね、わたしが風邪をもらって遥ちゃんが元気になるなら、喜んでその風邪もらいますっ」
「ちょっと待って? みのり、落ち着いて?」
 自分から言いだしておいてなんだけれど、人にうつしたら治るなんてただの都市伝説である。
 慌ててみのりから離れ、その肩を押し戻す。
「冗談だよ。風邪なんて寝てれば治るから、ね?」
「だって遥ちゃん、こんなに苦しそうなのに」
 ファンとしての奉仕精神がおかしな方向に暴走してしまったみのりをなんとか落ち着かせようと、遥は何度も彼女の肩を叩いてなだめた。いつもならそれだけで照れてしゃがみこんでしまうのに、今日は一歩も引かない。思い込むと強いのだ。想いはセカイだって作る。
 風邪のせいでうまく頭が回らない。平時ならみのりを丸め込むような言葉、いくらでも思いつくのに。
 どうして拒んでいるのか分からなくなってきた。彼女の目に誰が映っているのかとか、彼女が誰に話しているのかとか、彼女が助けたいのは誰なのかとか、いつもいつも脳裏にこびりついて剥がれないそれらが、ぐるぐるする頭の中で黒く塗りつぶされていく。
「──っ、みのり、分かった、分かったから」
 とうとう根負けして、彼女を押し返していた腕の力を抜いた。下手に体力を消耗してしまって制服は水をかぶったように濡れている。これ、余計に悪化するんじゃないかな、ひっそりと声に出さずにつぶやく。
 みのりはやけにキリッとした顔でこちらを見つめている。思い詰めすぎて何かスイッチが入ったようだ。こういうのも新鮮でいいなあとか思っている場合ではない。
「じゃあ、もらうね?」
「──うん」
 訳が分からないまま目を閉じる。たぶん彼女にとっては恩返しであり人命救助なのだ。その使命感が憧れを凌駕した、それだけの話だ。
 吐息が唇にかかったのを一瞬だけ感じた。
 熱いのか冷たいのかよく分からない。唇だけが触れている。みのりが使っている制汗スプレーのシトラスの香りがほのかに漂う。冷房が効きすぎていて寒いはずなのに汗が止まらない。心臓は初めてステージに立った時より速く強く脈打っていた。
 軽く目を開けるとまぶたに浮いた血管が見えた。
 あ。
 これ、は。
 だめかも。
「みの、り」
 丸椅子から少しだけ浮いている腰を捕まえてきつく抱き寄せた。ほしくて、全部ほしくて、誰にも邪魔されたくなくて、みのりの顎を持ち上げてなかば無理やり口を開けさせる。中に入ると38.2℃と36℃くらいが混じり合って心地良かった。みのりはどうしていいか分からずされるがままになっている。中を全部探る。舌先で歯列をひとつずつたどって、上顎を撫でて、舌の裏側に潜って、ぬめる舌を絡め取って吸いつく。「……っ、は、ぁ……」唇を離した一瞬の吐息すら逃したくなくて吸い込んだ。みのりの身体も次第に汗ばんできて、捕まえている首筋が手のひらにはりつく。このままくっついて永遠に離れなければいい。
 流れ込んできた二人分の唾液を飲み下して、なお足りなくてさらに唇を食んだ。
 それは対話なんてない、どこまでも一方的な。
 甘い甘いシュークリームを食い尽くす無作法と同じキスだった。
「は、はるかちゃ、ちょっとまっんっ」
 待てないし待ちたくない。どれだけ待てばいいのか見当もつかなくて、その煩わしさにもう耐えられない。
 ああ、嘘だ。これは。
 耐えようと思えば耐えられた。あの時、彼女があんなことを言わなければ。
 ASRUNの遥ちゃんに、なにもしてあげられなかった。
 じゃあ今は? 今このキスは、誰のために?
 八つ当たりだ。嫌になる。
 桐谷遥に境界線なんてないのに。