黒竹
2022-05-30 21:13:57
19064文字
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フォルテッシモじゃ強すぎる

【ルカミク】現パロ。アイドルミクさんとピアニストルカさん。

 ポン、と手慰みに白鍵をひとつ押し込む。単音が空気を震わせて、余韻を残しつつ消えた。
 自宅にピアノを置いてもらったのはもう十五年も前だ。人生の大半を一緒に過ごしてきたことになる。天賦の才か努力の成果か、学生の身でありながらひとかどのピアニストとして活動できているのも、この艶光りする楽器の功績が大きい。
 とはいえ、この子は厄介事も引きこんでしまったわけだけれど。心地良いはずの音色もどこか沈鬱である。
 外は曇天が広がっている。今にも雨が降り出しそうな雰囲気だった。我が心のようだ。
 約束の十分前にインタフォンが鳴った。ふぅ、と息を吐いてから子機を取り上げる。
 はい、と言う間もなくはしゃいだ声が届いた。
『あ、ルカさん? ミクでーす。ちょっと早く着いちゃったけど大丈夫?』
「大丈夫よ。今開けるから」
 子機を戻して玄関へ向かい、ロックとチェーンを外してドアを開けると、『巡音』の表札の前に、先ほどの声と同じくらいはしゃいだ様子の女子高生が立っていた。
「こんにちはっ。今日もよろしくお願いします」
 そこだけは丁寧にお辞儀をするミク。「はい、どうぞ」ドアを大きく引いて招き入れる。「お邪魔しまーす」彼女は勝手知ったる他人の家とばかりに入りこんできた。
 先導するように歩きながら、半身を彼女へ向ける。
「雨が降りそうだったから、早めに来てもらえてよかったかもね」
「うん、天気予報でも夕方から大雨だったもん」
 二つに結わえた髪を揺らしてついてくる彼女こそ、目下ルカが頭を悩ませている『厄介事』だった。
 レコーディングに協力した縁で知り合った音楽プロデューサから彼女のボイストレーニングを頼まれたのが半年ほど前。秘蔵っ子だそうで、メジャーデビューの準備中なのだが、容姿やカリスマ性は抜群ながら、歌い方に癖があるのでそれを治してやってほしいと頭を下げられたのがきっかけだった。初対面の印象は素直な良い子という感じだったし、報酬も得られるということで軽い気持ちで了承したのだ。
 それがまさかこんなことになるとは。知らず知らず、溜め息を洩らしてしまうルカである。
「ん? どしたの?」
「なんでも。初音さん、今日はいやにご機嫌ね。なにかいいことでもあった?」
「そう! それ。それなんですよ」
 どれ?
 ルカがきょとんとしていると、ミクはバッグから紙きれを取りだした。これが目に入らぬかとばかりに突き出されたそれは答案用紙である。彼女の苦手科目たる英語のテストだった。八十六点、なかなかの高得点だ。
「こないだの約束、覚えてるよね?」
 勝ち気に笑う彼女の言葉で、ルカは『それ』が何を意味しているか悟る。
「八十五点以上取ったら名前で呼んでくれるんでしょ?」
……ああ」
 溜め息のような、頷きのような呟きを落としたルカは、頭を抱えたくなるのを必死に堪えた。
 そうだ。前回のボイトレが終わって、お茶をしながら少し話をしていた時にそんな話題が出ていた。まさか本当に達成するとは思わなかった。だってそれまでの彼女は赤点スレスレの低空飛行だったのだ。それがいきなり八十五点など取れるはずがないと。
 答案用紙をひらつかせながら、ミクはふふんと鼻で笑う。
「まさか約束破ったりしないよね? センセ?」
……こういう時だけ先生と呼ぶのはやめなさい」
 子どもの強さと大人の弱さが如実に表れたやりとりだった。こちらは先生で大人、あちらは生徒で子ども。規範となるべき存在がたやすく前言撤回するわけがないと、彼女は巧妙にプレッシャーをかけてくる。
 ルカは答案から目をそらした。
 「初音さん」という呼び方についての不満も、ご機嫌な理由も、なるほど、『それ』の一言で済ませられる魔法の一枚だ。
「というわけでっ。ささ、ミクって呼んでみてよ」
 これ以上なく上機嫌なミクに迫られたルカが思わず逃げる。追うミク。逃げるルカ。追う。逃げる。「ちょっとぉ」さすがに我慢の限界が来たか、三度繰り返したところでミクが頬を膨らませた。
「やーくーそーくー」
「わ、判ってるけど、ずっと初音さんと呼んでいたのに、急に変えるのは……
「別に大したことじゃないでしょ? なんでそんな罰ゲームみたいな顔すんの?」
 そこまで言われるとなんだか申し訳なくなってくる。確かに、近所の中学生などは普通に名前で呼んでいるし、なんら特別なことでもない。
 ない、はずなのだ。
 ぐいぐい迫ってくるミクから目をそらす。
「その話は後でするとして、レッスン始めましょうか」
「うわ、逃げた……
 軽く軽蔑された気がする。胸が痛い。
 ミクは少しむすっとしていたけれど、ルカがピアノの前に座って指先で指示すると、渋々傍らに立って譜面を構えた。
「じゃあ、軽めに声出してみましょうか」
 メトロノームをセットして、鍵盤に指先を滑らせる。ミクがそれに合わせて発声を始めた。音程もリズム感もしっかりしているのでこれは単なる喉慣らし。彼女の問題は滑舌の奇妙な悪さというか、癖の強さだ。
 一通り終えたところで手を止めると、途端に外の音が強調された。発声練習の間に雨が降り出していたようである。それもすでに雨脚は強い。天気予報は大当たり、雲の様子は重苦しくて低い。雷雨になるかもしれない。
 と思ったその時、窓の外が一瞬明るくなった。数秒を置いて遠くで重圧感のある音が響く。
 ルカは手を止めたまま小さく肩をすくめた。「やっぱり降ってきちゃったわね。初音さんが帰る前にやむといいけど」
「傘とか持ってきてる? ないならうちにあるのを」
 ふと視線を横へ移してみれば、制服のスカートがよれるのも構わずその場に座り込んでいる少女がいた。眉間にしわが寄るほど固く目を閉じて、まるで何かの封印みたいに両手を力いっぱい耳に押し当てている。また稲光が窓から射し込んで、彼女はきゅぅ、と喉の奥から空腹の子猫みたいな悲鳴を洩らした。
 ルカはしばし呆然とする。ふざけているわけではなさそうだ。しかし十六歳にもなって雷が恐いなど、にわかには信じがたい。室内、それもピアノのために防音処理を施されたここは、外の音だってそれほど大きくは響かないのだ。だというのにこの有様とは。
「あの……初音さん?」
……うぅ~……
 聞こえているのかいないのか、ミクは目と耳をふさいだ姿勢のまま低いうなり声を上げ続けている。
 予想外の反応だった。いつもの彼女からすると、不謹慎にはしゃいだりしそうなものだけれど。
 寸時様子を窺っていたいたものの、瞼が上がる気配も両手の力が緩むそぶりもなかった。
 これではボイストレーニングどころではない。仕方なくピアノの蓋を下ろし、手を延ばして彼女の肩に触れる。
「雨がやむまでしばらく待ちましょうか。お茶持って来るわね」
 何か口にすれば落ち着きやすかろうと提案する。返事を待たずにドアへ向かいかけたルカのスカートが、くん、と引っ張られた。視線をそちらに向ければ、心細そうに見上げてくる涙目と視線が絡む。
「おっ、置いてっちゃやだ……
「別に置いていかないわ、お茶を入れてくるだけ。ミルクティーにしましょうか。甘いもの飲むと落ち着くわよ」
 できるだけ優しく話しかけるが、彼女は弱々しく首を振るばかりでスカートを掴む手を離してくれない。それが最後の命綱だとでも言わんばかりのすがり方だった。ルカが身じろぎした際の、スカートのひらつきにさえ硬直する。まさに風声鶴唳、もう少し近い位置に雷が落ちたら泣きだしてしまいそうだ。
 困り顔のまま、へたり込んでいるミクの隣に腰を下ろす。肩を触れ合わせると彼女の蒼い双眸がうっすらと覗いた。ルカはぎこちなく微笑む。大丈夫、と交わした視線で語りかける。彼女の表情がほのかに緩む。
 雨音に耳が慣れて周囲はどこか清冽に静けさが漂う。ピアノに置かれたメトロノームが規則正しい。チッ……チッ……
 こんな至近距離は初めてだった。
 ピアノの砦にも楽譜の壁にも隔たれていない彼女の隣。不思議な感覚がする。四つ下の女子高生とピアノの陰で膝を抱えて並んでいるこの光景は、ひどく滑稽なはずなのに全然笑えない。
 ルカが離れないと判ったせいか、ミクはまた目と耳をふさいだ。ルカは横目でそれを見やる。肩口がかすかに震えていた。抱いてやる勇気は出ない。
「はつ……
 慰めを口にしかけて止まる。
 メトロノームは一定の速さと強さでリズムを刻む。それに合っていた己の鼓動がずれ始める。
 今は、意味がない。
 それは判っているのだけれど。
 あまりにも繊弱な横顔に何かをかき立てられて、慰めはどこかへ去って、代わりにもっと自分勝手なものが胸中に降りてくる。
 
 
「──ミク」
 
 
 その声も、発した時の表情も、彼女には届かない。
「ミク。……ミク、…………
 重ねた両手で口をふさいだけれど、喉から音が……声が、呼び声が、愛しい相手の名前が、後から後からあふれてくる。
 心音はもうめちゃくちゃだった。弱まることを知らないように激しく叩いてくる心臓。おかしくなりそうだ。名前を呼んだだけなのに。誰にも聴こえてなんかいないのに。
 けれど、それでいい。
 めちゃくちゃな、激しすぎる鼓動は彼女を傷つけてしまうかもしれないから。
 いつからか体内を巡りだした、なにもかも狂わせそうな音。無邪気に慕ってくれる子どもにとって、それはたやすく毒となるだろう。
 だから呼ばない。呼べるのに、呼ばない。
 この泣きたくなるほど強い痛みは。
 
 
 まだ、自分だけのものでいい。