望月 鏡翠
2023-07-02 11:31:41
17630文字
Public リアタイ
 

灰は灰に

ウルフレグニ/グレイハウンドの過去 1/#DRE_C_享楽主義


蛇足・グレイハウンドの部下

●カーネル
 真上からの明かりに照らされて、男は眼窩を暗く落ち窪ませているように見えた。
 取調室の蛍光灯は、数年前から割れたりしない安全なLEDになった。その白々しい光はこの部屋の椅子に座る人間をより不健康に照らし出して見せるのだ。男は疲れ切っているように見える。あるいは絶望しているようにも見えるし、嵐の前の静けさのように力を溜め込んでいるようにも思える。
 暴れたという男は、取り押さえるときに手荒にされたようで、顔に傷があった。しかし留置場でも取調室の中でも、男は大人しい。椅子が窮屈に見えたし、手錠を掛けられていると余計に小さく縮こまって見えた。
 会うのは一度や二度ではない。全てこの取調室の中のことだ。だから彼が威圧してこないことはわかっているし、警官という職業に一定の敬意をもって接する礼儀正しいとこだということを知っている。
 そんな男がどうして何度も留置場にやってくるのかといえば、彼は少しばかり〝やりすぎる〟のだ。
 目の前の朴訥とした男と、事件像は常に合致しない。紙ファイルに挟まれた資料を確認し、被害者写真を目に焼き付けてからそっと閉じる。そうしないと、大きな背を可哀想なくらいに丸めた男に、手心を加えてしまいそうになるからだ。
「どうしてあんなことをしたんだ」
「俺は仕事をしただけだ。それ以上のことはしていない」
 いつもと同じ答えだ。
「君は家政婦の女性を殴りつけた。違うか?」
「そうだ」
 容疑を否認したことは一度もない。彼は起こったこととしたことを正しく認識している。それなのに、一度も話が噛み合ったことはなかった。
「この女性だな」
 殴られて顔が変わってしまう前の写真を見せる。肯定の言葉が返ってくる。
 まだ彼と言葉は通じている。通じなくなるのはここから先だ。
「どうして、そんなことをしたんだ」
「危険だからだ」
「危険? 彼女がか。もう十年もあの家に仕えていたんだぞ。かわいそうに顔面骨折して、手術をしないと元の顔に戻らない」
 男は決まって困った顔になる。こちらも困る。
「だが、子供に暴力を振るっていた」
「暴力って」
 呆れた声になる。
 暴力。それを行使したのは彼の方だ。
「本気で言っているのか?」
「子供を守るために仕方がなかった」
「いいか。当時のことを説明するぞ。彼女は確かに、あの家の子供と一緒にいた。三時のおやつを作りながら〝談笑〟していたんだ。そこにお前が乗り込んできて、子供の目の前で彼女の骨が折れるまで殴った」
「あの女が先だ。キッチンは武器だらけだ」
「小突いたんだ。じゃれたんだよ。つまみぐいを咎めたんだ」
「違う。襲っていたんだ」
 彼の言葉は真剣だ。だから納得しそうになる。
 片側の意見だけ聞けば、信じてやりたいと思う。嘘は吐いていない。
 驚くべきことに、彼はそれを本当に信じているのだ。心の底から無実を訴え、そのことを警察や司法に信じてもらいと思っている。信じてくれない人間のことを、頭がおかしいとすら思っていることだろう。
「なぁ、おいアンタ、俺の立場でいえた義理じゃないが、セラピーとかそういうのを受けた方がいいんじゃないか?」
 彼はそこで初めて犯罪者らしい顔を見せた。警官のことを間抜けと思い、何も知らないバカと見下しているときの顔だ。
「例えば」
「あるだろう。軍人の……、集まりとかそういうのだ。なくても精神科だか心療内科だかにいった方がいいぜ」
 彼はそこで初めて男が怖くなった。かっとなって殴りかかってきたら、手錠をしていても押さえられないと確信したからだ。
「俺はおかしくない。全てオーケイだ」
 体に出ている異常は、常に早い脈拍と高い血圧くらいだろうか。
 確かに日常生活は送れているのかもしれない。悪夢に魘されてはいないし、鬱の症状もない。
 本当だろうか。
 それを判断する権限はないのだ。
 任された仕事は取り調べであって、医者でもカウンセラーでもない。
「以前から、問題行動――つまり過剰防衛だな――が繰り返されていると、同僚や上司から報告を受けている」
「つまり?」
「保釈金を払ってくれる人間がいないと、ここから出してやることはできんし、起訴は避けられない」
「守ったのに。あの子を」
「その子どもと、親からの希望だ。厳罰に処してくれと」
 その時の絶望的な顔を、よく覚えている。
 彼のような人にこの社会は何かをしてやるべきなのだ。
 だが俺は、何をすることもなかった。
 それからどうなったか?
 弁護士が来て、保釈金を払ってどこかに連れて行ったよ。会社も見捨てたのに、誰が迎えに来たのかは知らん。
 それから先は裁判所にも警察署にも姿を見せなかった。消えちまったよ。
 きっと今頃は本当の犯罪者だろうな。
 この仕事をしているとよく、そういうやつに出会う。持ち直せそうなのに、転がり落ちていくやつだ。
 本当に残念だよ。

       ◇◆◇

 よくわからなかった。会社は俺を助けてくれない。それだけで、絶望的な気がした。俺はどうやら正真正銘の厄介者らしかった。
 戦場から帰ってきてはいけなかったらしい。椅子はなくなっていてどこにも腰を下ろすことはできない。もう居場所なんてないのだ。
 もうどうにでもなれ。気狂い扱いされたところで、知ったことか。連中は俺のいうことを一つも信じてくれないのだ。
 手錠はもう随分と手に馴染む。
 帰国してから何回目だろう。全てすっかり諦めた。
 だが、無愛想な弁護士がやってきて、俺を檻から出した。
 誰かが弁護士を雇って保釈金を払ったのだ。一体誰が。
 留置場を出たところには、ヒョロ長い猫背で、目の下に隈があるパッとしない男が待ち受けていた。どこかに電話をかけたあと、通話がつながったままのそれを、差し出してきた。
『はじめまして』
 それは男の声だった。落ち着いて、知的な、突発的に暴力を奮って収監などされない人間の声をしていた。
「誰だお前」
『君を自由にした人間に、興味があるかと思ってね。ないなら、話は終わりだ。切ってくれて構わない』
「待て」
 興味はある。同時に警戒もしている。
「どうしようもない人間を集めて、いいように使うつもりか。金がないから従うとでも思っているのか」
『何を言っている?』
「俺の頭がおかしいって話を、誰かから聞いたのか」
『ああ、カーネル大丈夫だ。知っているとも、お前がおかしくなってしまったわけじゃない』
 電話の向こうの声は、穏やかで優しかった。
 本当だろうか。目の前にいたら、そいつの手をとって詰め寄っていたかもしれない。その心の動きを、俺は恐ろしく思った。
「いや。いいや違う。俺はおかしいんだ。頭のネジが外れちまってるんだ」
『なら、君の正気と狂気は、私が預かろう』
 そんなことができるわけがない。判断を丸ごと投げだしてしまうなんて、無理に決まっている。
『やるべきときに、やれというさ。何をしても私の指示でやっている限りは、私の狂気だ。それが不安になったなら、立ち去ればいい。働きには金を払う。どこにだって帰ることができるさ』
 いったいどこに帰ることができるというのだろう。
 帰る場所。俺の正気を疑う世界。助けてくれない連中。
「いいや。ない。どこにもないから、構いやしないのさ、あんたの目的がなんだって。利用したいなら、利用すればいい」
 グッド、と電話の向こうで男がいう。
『なら、そこの男にしたがってついてきてくれ。取引の話をしよう。君に損はさせない』
 電話の向こうの男が、たとえ悪人だったとしても、少なくとも俺の味方だ。
 彼はグレイハウンドと名乗った。猟犬に相応しくない、理知的な声をしていた。