銃声。
倒れた男に更に二発、弾を打ち込む。
グレイ・ファルビーの体は弾に合わせて跳ねたあと、力を失って動かなくなった。
初めて人を殺した。
アッシュはそれを無感動な目で見下ろし、足元に広がってくるどろりと濃い血溜まりからそっと靴先を退けた。
ヌメ革を飴色になるまで育てた大切な靴を、こんなところで汚すのは忍びなかった。持っていったところで、もう使いはしないだろうが。
あっけなかった。こんなものかと思った。
人を殺したときに想定される反応。精神的ショックと許容を超える音量の銃声からくる眩暈や吐き気。心拍数の増加。
そういうものは一切なかった。銃を撃ったときの指先の震えと鼓膜を揺るがせる衝撃に近い音。それらが与える体への影響。
それらを知覚した程度だ。
どうやら、私には人を殺す才能がある。
何が私を変えてしまったのか、はっきりと覚えていない。
強いて言うなら、流れる血のせいだ。遠い昔に途絶えたはずの海賊の遺伝子が、まだこの身に根付いている。
グレイという男について調べていた。裏社会の人間がこの会社で企んでいることを探っていた。そうして暗がりを覗き込んでいるうちに、気づいてしまったのだ。
どうしてこんな簡単なことに命をかけて、必死にやっているのか。彼らのやり方はどう考えても効率が悪い。
レスリーのような男を使ってやるのが、経歴詐称。目的はケチな横領。安い脅し。すぐに化けの皮が剥がれるような潜入。
どれもこれも、あくびが出るくらいに退屈だ。
私の方が、彼らよりももっとうまくやることができる。
もっと合理的に、冷静にやることができる。
できるかもしれないと思ってしまったら、試さずにはいられない人間がいるのだ。
空を飛べる。しかし空を飛ぶ力を誰にも知られてはいけないから、一度たりとも使ってはいけない。そう言われたときに、試さずにいられるだろうか。試さないで、どうしてその力があることを、確信できるだろうか。
それは見るなの禁を破らずにいられるかという問題にも似ている。大抵は破るのだ。オルフェウスは振り向いてしまう。その心に、多くの人間が共感できてしまう。
だから私は試してみただけだ。
己のルーツとこの身に流れる血を、大いに試した。そして楽しんだ。人よりも才能があることに、気づいてしまった。
生活の破綻。命の危険。家族の人生。
そんなものは、大した問題ではない。少なくとも私を思いとどまらせるほどのものにはなってくれなかった。
新しいことに挑戦するのは気分がいい。胸が踊る。
常に退屈を嫌ってきた。それを避けるためなら、どんな価値のある未来も捨てられる。
だから私は、顔がわからなくなるようなやり方でグレイを殺したあとは、纏めてあった荷物を持って家を出た。
私が愛用してた品がことごとく消えていることに、長らく別居していた家族は気付くだろうか。
家で死んでいた人間が、私ではないということに警察は気付くことができるだろうか。
犯罪者は指名手配される。顔写真が配られ、空港でパスポート写真をマジマジと眺められることだろう。あるいはAIがカメラの映像を元に顔認証をしているかもしれない。
だが、被害者は?
殺された人間の顔を覚えているのは、事件担当と葬式に並んだ人間くらいだ。
死んだ瞬間に人間は死人になる。当たり前のことだ。
だが紙やデータの上では、そうではない。死亡したと医者が確かめ、役所に届け出るまでは戸籍上は生きているか死んでいるかわからない。
死亡者の顔写真が配布され、捜索されることはない。
無論、詳しく調べたらわかるだろう。死亡推定時刻よりもあとに、アッシュ・モリアーティという人物は行動した記録があり、カメラに映っている。
しかし、調べたらわかるだけだ。
誰かが、これはもしかしてアッシュ本人ではないのかもしれない。顔が潰されているのは、入れ替わりのトリックなのではないかとミステリ小説よろしく推測し、事件を掘り返したら簡単に露見するだろう。しかし、アメリカで強盗殺人は山ほどある。
一体誰がわざわざ掘り返すだろう。
シュレディンガーよ、箱は開けてくれるな。
だが余計なことに気が付く誰かが、箱を開けたところで大した問題ではないのだ。
モリアーティ宅で死んでいた人間が本当は誰で、本物のモリアーティの生死が明らかになる頃には、私は国を出ている。
今日からは、全く別の人間だ。新しい名前は俺を自由にしてくれた。あの犬っころにあやかろうか。
グレイハウンド。
そうだ。今日から灰色の犬になろう。
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